陽春
春にしては随分と気温が高く、閉め切られた校舎にすらぬるい空気が漂っている。忘れ物をしたなんて詭弁でしかなく、一週間ほど誰かさんに会えないのが退屈だったからにほかならない。
学校の周辺にポプラと桜の木ばかりが植えられているのは何故だろう。去年は台風の影響で一番高いポプラの木が折れた。桜の木も太い枝が何本もへし折られていた。ポプラの木ほど志を高く持ちたいわけでもないし、桜が見頃を過ぎると地面が砂や泥にまみれてすり潰された花びらが無様に腐敗していくのが目に余るし、日本のココロとか象徴とか寓意を理解しがたい年頃には向いていないと思う。窓際にきゅうりやゴーヤを生やしてくれた方が涼しいし、食べられるのでよっぽど合理的であるのだが。
小学生の頃は一日が今の三倍や四倍ほどの時間に感じて、でも遊ぶ時間が多くて楽しかったけれど
大きくなるにつれて授業の回数は増えるし、中学生になれば授業の一コマあたりの時間も長くなる。此処に来てからまた五分伸びた。退屈の膨張ほど苦しいものはなかったし、二年は恐ろしく長くて、永遠に校舎に閉じ込められそうなおぞましさすらあった。なのに春に切り替わればあっという間だった。
巣立つ来年は加速する一方だ。蝸牛の歩みをする時間の隣に滞留する青さえ見なければ、子どもの時間なんてもっと緩慢としていたに違いない。
長い長い影と、きりりと引き締まった光とのコントラスト差が廊下を舐める。響き渡るのは自分の足跡だけだった。身長も数センチ伸びたものの、靴のサイズは差程変わっていない。履き潰した踵部分を更に潰してぺたぺたと歩くと、足跡も後ろを着いて歩き回る。新しくなる教室も過ぎ去って、辿り着くのは一年限りの教室より馴染みのある部屋で進むのを止めた。
忘れ物をしたなんて嘘だなんて言ったけれど、あながち間違いではないかもしれない。居心地の良い場所を取りに来ました、だなんて誰に伝わるだろう。自分の捜し物にすらそう告げたって、訳が分からないと一蹴されるだけだろうから。
今日は校舎には初老の教師しかいないという。もう少ししたら出るから、忘れ物を取ったら速やかに出なさいと、柔和な声で告げられた。あるはずのない忘れ物なんて扉の向こうにあるはずがないのに、期待してしまうのは悪い癖で、人であるからで。途切れる希望ならさっさと打ち破ってしまえと思い切り扉を開けると、引き戸がガラガラと勢い良く開かれ、春の日向が眼前へと飛び込んだ。
勿論あるはずが、いや、いるはずはない。自堕落な彼が学校に来る用事なんてあるだろうか。どうせ自宅で暁すら見ずに惰眠を貪っているはずだ。使用人が不在の古びた椅子に影は落ちることなく、気持ち良さそうに光を浴びるだけだった。
桜が満ちる窓からは、今にも甘い花の匂いが漂ってきそうだ。薄桜色の光で埋もれる美術室は埃の匂いひとつも落ちておらず、つやつやのワックスが春光を艶やかに反射している。邪魔だと言わんばかりに隅に寄せられた椅子を、窓の外を臨める位置まで引っ張って座り込む。長いこと持ち主が大事にしたであろう椅子の腰掛け部分はべこりと凹んでいて、腰掛けるには固くて座りづらい。あの人は固さすらものともせずに腰掛けて体を丸めて寝ていたのだと思うと、やはり変な人だと思う。全校の生徒も教師も満場一致で変な人と言うだろう。だが変な人とやらがいないのも退屈だ。
「先生」
俺は時々わからなくなる。あなたの終わりを望めば望むほど、あなたを殺したがる狂人のように己を恥じてしまうし、人には願えぬ終末を彼にならぶつけられると甘えてしまう自分もいる。
元より終末思想もなければ、人を殺したいわけでもないし、宗教のことも世界史や倫理を学んだとて頭に入ってこずだ。だけどずっと、あなたが神様であってほしくて、神様らしく終わってくれたらいいと思っていて、だけど彼が死ぬのは心がすかすかの気泡だらけになってつらいので、卒業する前に教えてほしい。あなたにこんなにも付き纏ってしまう理由って、何なのでしょうね。
ポケットの中で潰れた煙草を取り出し、咥えて火をつける。花霞が毒を含んで部屋を包む時、あなたが咳をしてくれたらいいのに。未発達な体に毒が回って眩暈がする、喉が焼け付いていく。中途半端に悪い子でしかない自分は箱庭を穢したい。あなたが顔を顰めて睨んでくれますように、なんて。
けほけほ、と自分より低い声が咳き込んだ。準備室の手前に長い脚が投げ出されており、そこだけが何故か桜の花びらにまみれていた。
はらはら、はらはら。誰にも侵されない花びらが落ちていく、溜まっていく、そして蝕んでいく。
陽春