白い裏路地

 パンフレットの詰まったビジネスバッグと上着を小脇に抱えて、男は恨めしそうに空を見上げた。雲一つ無い青空の中、高く昇った太陽はこれでもかと言わんばかりに照りつけていた。
 地面を覆うアスファルトは太陽の熱を反射させ、立ち並ぶ巨大なコンクリートのビルが風を遮断する。男もその一部となっている、地下鉄の駅からいつまでも続く人混みは、彼が歩みを止めることを許してくれない。周囲に暑さを紛らわす要素は一つもなかった。
 彼、滝川が着ている白い半袖のワイシャツは湧き出る汗を吸い込んで、すでに所々シミとなり、露出した肌は強烈な日差しに焼かれていく。ネクタイがきつく締められた首元が、喉の渇きをごまかそうと唾液を飲んだ。
 大学を卒業し、なんとか滑り込んだ会社に勤務を始めて四年、営業という仕事にも慣れた。だが、この夏の暑さだけは慣れることができない。
 目の前で横断歩道の信号が赤になった。人の流れが途切れ、今度は車の流れが通り過ぎていく。車が巻き起こす汚れた熱風に顔をしかめ、滝川はハンカチを取り出して額に浮き出た汗を拭くと、もう一度空を仰いだ。
 別に仕事に不満はない。慣れたことで、それなりに楽しさも感じている。一日中室内にいるよりも、外出可能なこっちの仕事の方が健康的な気もする。移りゆく四季を見て取れるのも悪くない。
 滝川は信号待ちをしている間、暑さに負けそうになる心を奮い立たせていた。とにかく思考を良い方向へと持って行く。
 視線を、空から道路の向こう側にそびえるビルへと落としていく。正面から一見すれば、ガラス製のようにも見える近代的なビルだ。
 対して、その隣に建っているのは、隣の半分程の高さのビル。古くからあるビルのようで窓は小さく、壁には黒光りするタイルのようなものが敷き詰められている。開放的で清潔感のあるビルが隣に建っていることもあり、やはり暗い印象が否めない。
 信号が青に変わる。横断歩道を渡り始めた滝川は気づいた。
 二つのビルの間に、細い路地がある。
 滝川はこの辺りを定期的に通っている。しかし、ここに路地があるとは気がつかなかった。彼は人の流れから外れ、ビルとビルに挟まれた細い路地の前で立ち止まる。
 人一人くらいなら楽に通れる路地は一直線に伸びている。ゴミ箱や室外機などの障害物もなく、向こう側の表通りに人が横切るのが小さく見えていた。距離は五〇メートル程だろうか。
 向かっている取引先には、まだしばらく歩かなければならない。いつもはこの区画を回り込むようにして歩いていたが、この裏路地を通っていけば近道になりそうだ。念のため腕時計を見て、約束の時間には十分余裕があることを確認する。
 ガラス張りのビルから届く、和らげられた日光が路地をほどよく明るくさせている。人混みから逃れたい気持ちもあった彼の足は、迷うことなく路地へと入っていった。
 地面はアスファルトではなく、セメントで固められている。ビルの陰とセメントで冷やされた裏路地の空気は、表通りよりも遙かに涼しかった。正面からは何か、バニラの様な甘い香りが流れてくる。
 甘い香りは奥に進むに連れ、より濃くなってくる。ガラス張りのビルから反射していた光が途絶え、完全な日陰となる境目で滝川は立ち止まった。
 古いビルを少し見上げると、換気扇が回っている。そして、甘い香りもはっきりと分かる。恐らく、ここから漏れているのだろう。
 匂いの元を確認し、滝川は今まで歩いてきた方へ振り向く。ここまで歩いてきた距離は約一〇メートル。距離を確かめ、彼は再びこれから歩こうとしている方向を見る。しかし依然として、入る時に予測した距離と全く変わらない感じがした。
 目の錯覚があったのかも知れない、と滝川は思った。ガラス張りのビルからの光が路地を照らすことで、距離を短く感じさせたのだろう、と。
 今まで以上に薄暗くなった路地へ歩みを進めると、甘い香りはすぐに消える。すでに表通りの喧噪は遠く離れ、日陰の空気が汗を止めていた。
 少し進むと、裏路地を作り出すビルの材質が替わり、コンクリートの壁になる。完全な日陰と灰色の床と壁に囲まれ、ビルの合間から見えるわずかな空。距離感の分からない、一直線に伸びた青い色を見上げていると、この路地を真っ直ぐ歩き続ければ空に出来た道に辿り着けるような感覚を憶える。
 もちろん、そんなはずはなく、顔を戻した視線の先には人々が行き交う表通りがある。直射日光が当たる日なたの暑さを示すように、陽炎が見える。
 その手前、この裏路地の中間地点になるように、小さな四つ角が見えてきた。そこだけ日に当たっているのか、妙に白く見える。
 だんだんと四つ角に近づく。滝川は心に渦巻く違和感を拭いきれない。
 確かに、四つ角に近づいている。だが、その向こう側の表通りまでの距離が縮まずに、四つ角が進むほどに大きくなっている。つまり、あり得ないことだが、彼が歩いている路地と直角に交わる路地の幅が、大きくなっている、ということだ。目に映る白さも強くなり、異常に眩しい。
 滝川はもう一度足を止めて振り返った。自分が歩いてきた路地の距離は目測で四〇メートル程度。本来なら、路地を抜けていてもおかしくはない。真っ直ぐに伸びた路地の先にある表通りは、指一本分ほどの隙間のまま変わらない。
 顔を戻す。残りの路地の長さも四〇メートル程か。ただし、その半分は白い四つ角で占められている。
 滝川は腕時計に目をやり、時間を確かめてから再び歩き出す。裏路地に入ってから、まだ五分も経っていなかった。
 後戻りという、この不思議な空間からの抜け出す方法が頭を過ぎりはした。しかし、ただ一直線に裏路地を通り過ぎるだけということとを比べると、その行為は非常に面倒だった。
 前進を続ける。正面に表通りの見える路地を残し、目に映る景色はほとんど白くなる。目が眩むほどの純白の四つ角。一見すれば、ただの白い壁にも見える。
 滝川は足下に目をやる。セメントと、何か判らない白い地面とで明確に引かれた線を越え、彼は四つ角へと入った。
 そこは路地ではなく、部屋だった。あまりに白く、全体が光を放っているように思えるほどに真っ白な空間。今、滝川が入ってきた路地と、向かい合って続く路地への隙間だけが唯一の出入り口となっている。その他に特徴的な物は何もないが、所々に人の姿が見える。彼らのいる位置から、かなり大きい正方形の部屋だということがわかった。一辺は四〇メートルほどだろうか、ちょっとした体育館の広さぐらいだ。
 滝川は部屋の全景を把握しようと、視線を上空へと持って行く。屋根はなく、吹き抜けになっている部屋を真っ白な壁が囲んでいる。その高さは首を真上にあげないと終わりが見えず、少なくとも、ビルとは思えなかった。中心には、握り拳ほどの雲のない青空が見える。まるで路地という川の途中にできた、人工的な貯水池のようだ。
 視界の左端で何かが動いた。見上げていた顔を向けると、一人の男が滝川に向かって手招きしている。
 一度周囲を見回してから、滝川は自分のことかと首を前へと傾ける。二〇メートル先の壁に背をあて、片膝をたてて座る男は軽く頷いた。
 壁に沿って、滝川は男の方へ向かう。その間、真っ白な壁に触れ、塵一つ落ちていない真っ白な床を見てみる。壁も床も同じ素材なのだろう、感触は冷たくも暖かくもなく、発泡スチロールよりも堅い。似たものといえば、ウレタン樹脂があげられる。
 軽く拳で叩いてみる。軽く跳ね返る感覚があり、音はしない。
 何の素材か判らないまま、滝川は男の前に立った。年齢は四〇過ぎと言ったところか、丸顔に黒光りする七三分けの髪型。体格は太めでネクタイのない、よれたシャツと灰色の背広を着ている。男は意地悪そうな笑みを浮かべたまま、「まあ、座りなさい」と明るい声で床を叩きながら言った。
「君、ここは初めてだろ」
「はあ、まあ……」
 滝川は男の正面に座り、警戒心を含ませた声を返した。
「初めてはやっぱり緊張するからな。すぐ分かるよ」
「はあ……」
「ほら、ここにいる連中はみんな、それぞれ好きなようにくつろいでいるだろ」
 男は滝川の態度に気を止めることなく話し続ける。
「はあ……」
 そう言われて、滝川は周囲に目を移す。部屋の中には自分たち以外で五人の男達がいる。三人は部屋の隅に座っている。部屋の反対側の壁際にも一人いて、膝を抱きかかえるようにしてうつむいている。最後の一人は部屋の真ん中で大の字になって寝転がっていた。
「君も、ここでは好きにすればいい。特に何も気にせずにな。……まあ、色々と制約はあるけど」
 当然ながら、滝川には疑問がある。ここはいったい何なのか、ということだ。視線を部屋全体から男の方へと戻す。
「ん? 制約か? たとえば、携帯電話が圏外とか、タバコが吸えない、とかかな」
 男はそう言って、ポケットからタバコとライターを取り出した。タバコはポケットに戻し、ライターを手にする。どこにでも売っている、ノック式の使い捨てライターだ。
「火が、つかないんだよ。なぜか」
 ライターから火花を起こす音が何度かしたが、彼の言うとおり火は着かない。
「ああ、それから、女人禁制なんだよ、ここ。どうしてか、男しか来ない。不思議なもんだ」
 ポケットにライターを戻して、男は悟ったような口調で言った。
「他にも……」
 さらに男が何かを言おうとした時、ゆったりとした風が吹いた。清涼感のある、爽やかな香り。だが、風そのものの温度は生暖かく、湿度をたっぷりと含んでいた。匂いと肌で感じる感覚の差に、顔をしかめた滝川の体からは忘れていた汗が染み出す。
「ああ、この風もちょっと気持ち悪いよな。どこから吹いてくるのか分からないし」
 言って、男も眉間にしわを寄せたまま、空を見上げる。三秒間ほど吹いた風は、滝川の背後の上空から吹き下ろし、地面へと消えた。
「あっと、話が中断したな」
「あ、すいません。もう行きます。ちょっと急いでるんで」
 男の言葉を止め、滝川は立ち上がった。
「そんなに急ぐ必要はないと思うけど」
「いえ、得意先に行かないといけないので。それでは、失礼します」
 のんびりした男の台詞に、真剣な眼差しを返した滝川は出口へと向かって歩き始めた。
 白い部屋の隙間、遠目から見れば黒いただの線にも見える、部屋の出入り口である路地へと向かう。
 質問をするまでもなく、滝川は気づいた。結局のところ、あの男はこの部屋について、何も知らないようだ。彼は何度かここに出入りして、分かったことを話しているだけで、根本的なことは何も分かっていないのだ。
 滝川は大の字になっている男を横目に、ポケットから携帯電話を取り出す。言われた通り、やはり携帯電話は電波をつかむことができず、圏外、と表示されている。今度は腕時計に目をやる。携帯電話のデジタル表示の時計と同じ時刻を、腕に巻いてある針時計は刻んでいる。
 路地に入った時、滝川は一度時間を確認したが、正確な時間は憶えていない。ただ、取引先に間に合うかどうかを計算するためだけだった。
 だが、その辺りから考えても、明らかに時計の針は進んでいなかった。
 眉間にしわを寄せ、首を横にひねりながら路地へと足を踏み入れる。
 薄暗い路地の先には、大勢の人々が行き交う表通りがある。ようやく縮まった距離は二〇メートル程。滝川は数歩歩いて、立ち止まった。
 妙な感覚を覚えた。今まで眩しいくらいの白に囲まれていたからなのか、それとも明るい表通りに視点を合わせていたからなのか、突然、薄暗い路地がより暗くなったように感じられたのだ。
 滝川は振り向いて白い部屋を見る。その行為は特に思考してのことではない。何気に見ただけだった。
 裏路地の先に白い部屋はある。だが、彼はすでに白い部屋と表通りの、ほぼ中間の場所に立っていた。
 背筋が凍った。理解できない何かがあった。
 白い部屋から目を離せない滝川は、後ずさるように表通りへと飛び出した。足が絡まり、尻もちをつく。
 突き刺すような日の光と、下半身から伝わるアスファルトの熱。滝川は周囲を見回す。片側二車線の車道に沿って作られた広めの歩道には、一定の間隔を空けて樹木が植えられている。いつもの見知った表通りに彼は座り込んでいた。
 歩道に人の姿はまばらだったが、やはり何人かの人が滝川の方を見ていた。彼は何もなかったように素早く立ち上がる。ズボンについた汚れを払い、その場を早足で後にした。


 そこには変わらない日常があった。いつもの取引先とのやりとり。すっかり顔を覚えられた滝川は、天気の話題や社会情勢などの世間話から、仕事の話へと持って行く。
 滝川は裏路地のことは話題にしなかった。彼自身どう話せばいいのか分からない、というのもあったが、落ち着きを取り戻すにつれ、まるで夢のような出来事にも感じられたからだ。
 分厚い雲の切れ間から、西に傾いた太陽が照りだした頃、滝川は雨宿りしていた喫茶店から出た。突然の夕立は道路の熱を奪い、吹く風はひやりとして心地よい。背の高いビルに囲まれ、彼の歩く測道はすっかり日陰に覆われている。
 滝川はその裏路地の前に立っていた。入ったときとは反対方向、つまり飛び出して尻もちをついた方だ。両側は似たような形をしたビル。一方はガラス張りのビルだと思うが、裏側はあまり目立たずに周囲の風景と調和している。
 一歩足を踏み出す。湿ったコンクリートで冷やされた空気が脇を通り抜ける。寒くはないが、かなり冷たい。
 恐怖。その感情はあった。しかし、白い裏路地にいたのは自分だけではなかったこと。他の人は特に怯えるような様子ではなく、むしろ落ち着いていたこと。それらが恐怖の感情を和らげていて、疑問と好奇心の方が今の心の中では勝っていた。
 数時間前と何一つ変わることなく、正面に薄暗い線を残して、目の前が真っ白に染まっていく。再び、滝川は裏路地の中にある純白の部屋へと入った。
 眩しさに目を細めて、まず全体を一瞥する。部屋の中にいる人間は、彼自身を除いて五人。左側の壁に膝を抱いてうつむいている人がいて、その人と対称になるように右側の壁にも一人、寝転がっている。ワンカップを傍らに置き、荒れた長髪と薄汚れた服装をした年齢不詳の男はホームレスだろうか。
 滝川に話しかけてきた男も、相変わらず部屋の隅にいる。今、彼の話を真剣に聞いているのは、茶色に染めた髪を常に気にしている、二人の若者だ。
 二人の若者の背中へ同情の視線を投げかけながら、滝川は部屋の中心を通り過ぎる。出入り口になる路地を挟んで彼らとは反対方向、路地から数歩離れた壁際に、滝川は腰を下ろした。
 壁に触れ、床に触れてみる。ついさっきまで雨が降っていたはずだ。しかし、濡れている形跡は一切なかった。
 ポケットから携帯電話を取り出す。二つに折られた携帯電話の表側には小さな画面があり、今の時刻を数字で表示している。今度は左腕に目を移す。腕時計の長針と短針は携帯電話と同じ時刻を指し、秒針は止まることなく時を刻み続けている。
 滝川は心の中で数字を数えつつ、交互に両方の時計を見つめる。ゆっくりと、一秒一秒を確実に数え、心の中の数値は六〇を超えた。だが、携帯電話の時計の数値は変わらない。腕時計の方は、長針がほんのわずかに進んだのが確認できた。
 首をかしげ、滝川は携帯電話をポケットに戻した。両手を枕にして仰向けになり、小さな空を見る。
 白い壁に囲まれた先の空は深い青だ。壁が眩しいせいもあってか、少し黒みを混じらせて見える。もう、夕暮れが近く、さっきまで雲が空を覆っていたはずなのだが、視線の先には雲が一切なく、晴天の昼間と変わらない空をしていた。
 白い部屋の先にある青空と正対し、滝川は妙な気分になる。視界は揺れなくとも目が回り、自身の平衡感覚がずれていく。仰向けに寝ているのに足下に重力を感じ、背中で壁に張りついているような感覚。背中を意識しなければ、足下に方へと滑り落ちてしまい、また、意識を持ち過ぎれば滑り上がっていくような、そんな錯覚を味わう。
 距離感もなくなっていく。切り立っているはずの白い壁はただの一枚の壁となる。引かれた黒い線を途切れさせて、青く塗りつぶされた絵が目の前にかけられている。
 そこに何も感銘や感動はない。滝川はただ漠然と眼前の景色を見つめているだけだ。
 その時、風が吹いた。爽やかな香りの、多湿の生暖かい風。まるで、仰向けに寝ころぶ体を床へと接着させるかのような、へばりつく感覚を全身で味わう。
 滝川はそんな風に抵抗するように、勢いよく体を起こした。軽く頭を振って、停止していた思考を呼び戻す。
 時間の経過が分からず、腕時計を見る。
 滝川自身はかなりの長い間、横になっていた気分だったが、時計の針はさっき確認した時とほぼ変わっていない。一分も経っていなかった。
 大きく背中を伸ばし、立ち上がる。深呼吸をしながら部屋を見回すと、滝川に話しかけてきた男と二人の若者はすでにいなかった。今、部屋にいるのは彼自身を含めて三人。ホームレスらしき男と、膝をかかえてうつむいている人だ。
 滝川は床に置いていたビジネスバックを持ち、路地へと足を向けた。約二〇メートル先に大勢の人々が行き交う表通りがある。数時間前の時間帯なら、これほどまでに疑問に思わなかった光景だ。
 今は多くの企業の仕事が終わる時間帯ではある。しかし、道路の向こう側が見えないほどに行き交い、陽炎に揺れる人々の姿は、明らかに不自然だった。
 思い返してみると、初めてここから出る時もそうだった。あの時、滝川は白い部屋から出た際に味わった奇妙な現象で動揺していた。だからこそ気づかなかったのだが、路地を抜けて歩道に出たとき、人通りはあまりなかったはずだ。
 そして、滝川は路地と体が平行になるようにし、白い部屋を見つめたまま、路地裏をゆっくりと進む。自身は数歩しか歩いてないのに、すでに路地を半分の距離も進んでいた、あの現象。それを確かめるためだ。
 特に目に見える変化はなく、部屋から離れていく。今は彼自身、確かにそれだけの距離を歩いてきた。滝川は表通りまでの距離を測るため、一度、自分の進む方向を見る。
 表通りまでは約二〇メートル程。部屋から見た感じと距離に変化はなかったが、表通りを行き交う人々の姿がほとんど見あたらなくなっていた。
 視線を戻す。目を離す前から何も変わっていない。
 もう一度、自分が歩いてきた路地から足下のコンクリート、進むべき方向へと順に目を移動させていく。滝川はその場に立ち止まったまま、考えを巡らせていた。
 特に何もない、と言えば何もない。変化を目にすることはなかったのだから。しかし、自身が認識し、記憶した状況と、現状の格差から生まれる大きな違和感は拭いようがなかった。それは今も感じている。
 滝川はここに入った時のことを思い返す。ガラス張りのビルと古いビルに挟まれた路地。そこから流れてくる、冷やされた空気と甘い香り。進むに連れて、遠ざかる出口。広がる白い四つ角。
 そこまで思い出し、あることに気づく。
 現在、滝川は体をコンクリートの壁に背を合わせるようにして立っている。視線は自分の来た方向、目の前の白い部屋からまだ数メートル、歩数にしてたった一〇歩程度の位置だ。
 視線はそのままで、足を擦るようにして動かしながら、表通りへと向かう。白い部屋はごく自然に遠ざかり、部屋が白い四つ角の幅になる地点、表通りとの中間までくる。視点を移動させ、表通りまでの距離を測るが、部屋を出るときと全く変わりない。
 滝川は体の向きを表通りに向け、早足で歩き出す。今、目の前で起こっていたのは、ここに入るときの逆回しでもある、唯一あった不自然な変化。反対側の表通りの距離は変わらずに、白い部屋の部分だけが縮まっていく光景だ。入る時点では目の錯覚かと思っていたが、改めて確認すると、明らかに不気味で、不可解だった。
 ただ、恐怖というよりは、腑に落ちない気持ち悪さが、全身を包んでいた。
 甘い香りがした。しかし、滝川は脇目を振ることなく、真っ直ぐに見据えたまま、裏路地を抜けた。
 建物の合間から山吹色の太陽が顔を出している。結局、何一つ解決できずに路地を抜けた。やはり、周囲の人影は少ない。
 滝川は振り向き、自分が通ってきた裏路地へと体を向ける。白い部屋は見えず、反対側の表通りが何もない路地の向こうに、わずかな隙間となって見える。
 記憶と感覚、そして視認したことから生じる現実の差違。そのどれもが曖昧で、基準とはならない。
 混乱した頭のまま、滝川は裏路地を後にする。こじつけでも無理矢理でも何でも良い、自身を納得させるだけの状況説明を求めつつ。


 あの白い部屋を見つけてから、一ヶ月余りが経過した。突き刺すような陽射しは和らぎつつあり、日に日に短くなっていく日中には確かな秋の気配があった。 今日の天候は曇り。分厚い雲が空一面を覆い、今にも雨が降り出しそうな気配だ。その日も滝川は、ビルとビルの合間へ消えていった。
 太陽が出ていないこともあり、光のあまり届かない裏路地は普段より薄暗く、肌寒い。今日は仕事が休みの滝川だったが、やはり長袖を来てきて正解だと思った。
 滝川は腕時計に目をやる。大きく、無骨なデザインのデジタル時計だ。時刻は午後4時27分16秒。秒数まで、しっかりと表示されている。
 仄暗い裏路地の景色が明るく、白くなっていく。滝川の心は以前と比べて、落ち着いている。
 所詮、人というものは自分本位の存在だ。自らが見聞きし、体験したことから物事を判断する。自分の体を通さなければ、周囲の環境の変化を感じ取れない。他人の体験は、自身のものとは決して違うのだ。さらに言えば、他者の経験や知識を見聞きし、一度自身の心の中で反芻した時点で、それは自己の体験となる。
 この裏路地に対して、滝川が行き着いた考えは突拍子もないものだった。それは、原因や理由などは一切不明だ。だが、起こった事象に対して、自分を納得させるには十分だった。
 裏路地の隙間から見える曇り空が、進むにつれて薄くなり、青い色が現れる。初めてここを見つけた日から数えて、今日で三度目。その彼が白い部屋に足を踏み入れる頃には、澄み切った青空が上空に広がり、変わらない景色が目の前にあった。
 滝川は定位置となった場所、入ってきた方から右手約一〇メートルの壁際に腰を落とす。真っ白い正方形の部屋の中、男の数は彼自身も含めて四人。
 初めて訪れた時に出会った中年男とは、あれ以来会っていないし、今も見知った顔はない。が、いつもの姿がそこにはあった。
 膝を抱えてうつむいている人物。座っている場所は毎回違うが、いつも同じ体勢で壁際に座っている。服装も似たような感じだ。長めの黒髪に、足と腕で顔が隠れてしまっているので、絶対とは言えないが、おそらく同じ人物なのだろう。
 彼は、滝川の真正面の壁際にいる。そして、やはりこういうだだっ広い場所だと隅が落ち着くのか、他の二人は滝川から見て部屋の左側の隅に一人ずつ、それぞれ寝ころんでいた。
 両手を背後の床にあてて体を支え、空を見上げる。前回、ここに来たときは夜だった。酒に酔っていたので記憶は判然としないが、四角い空は夜の色に間違いなかった。ただ、こうやって眩しいほどの白に囲まれて空を眺めていると、たとえ日中でも空の色は暗く感じてしまう。
 滝川は上空から腕時計へと視線を移す。時刻は午後4時27分31秒、32秒、33秒。デジタル表示の時計は正確に時刻を刻み続けている。さっき確認したときと時間はほとんど変わってない。この白い部屋では、体感時間と実際の時間の経過にかなり差があり、自分が思っている以上にゆっくりと時間が過ぎていく。
 それを正確に測ろうと思って今日、滝川はこの白い部屋へとやってきた。本来は前回に確かめるつもりだったのだが、前回はここにいる人の数が非常に多かった。ざっと十数人はいて、滝川が今座っている周辺でも酒盛りが行われていたので、彼は早々に退散したのだ。
 腕時計の数値を見つめ続け、時刻は4時28分をまわる。特に時間の経過は遅くは感じず、秒数は一定の間隔を置いて進む。
「お兄さん」
 視界の端が薄暗くなったかと思うと、滝川は声をかけられた。顔をあげると、白髪交じりの初老の男性が立っていた。年齢は六〇代前後といったところか、小ぎれいな背広を着て、品の良さそうな笑みを浮かべている。
「ここは、一体、どういうところなんだ?」
「ここ……、この部屋ですか?」
 部屋を見回して聞いてくる初老の男の質問に、滝川は彼の視線を追いかけながら聞き返した。
「ああ、そうだ」
 彼の問いに、滝川はうつむき、口に手をあてて考える。質問を頭の中で繰り返し、答えを探す。
 数秒間の沈黙の後、出た答えは、
「わかりません」
 その一言だった。
「わからない?」
「はい」
「そんな訳ないだろう? 何かしら、ないのか?」
 滝川の答えが予想外だったのか、男は困惑した顔をして聞き返す。滝川はため息を混じらせて、
「まあ、それなりに知っていることはありますが」
 と呟く。間髪入れず、「それは?」と男が訪ねた。
 まず、滝川は初めてここに来たときに教えてもらったことを簡単に話した。携帯電話の電波が受信できないこと、ライターの火がつかないこと、何故か女性はここに来ないこと、時折気持ちの悪い風が吹くこと。
 そして、最後に滝川自身が知ったことを話す。つまり、この部屋に来る途中の裏路地の長さが変化する、ということを。
「それだけか?」
「はい。この部屋のことはわからないんです。ただ、ここにこういうものがある、としか言えません」
 初老の男が求めている答えではないことは、滝川も承知している。彼の説明は全て、この部屋で起きる現象に過ぎない。本質的な、部屋の存在の説明ではないのだ。それは、彼自身がもっとも知りたいことでもあった。
 裏路地から続く白い部屋について滝川が自ら考え、想像し、至った結論。それはこの場所は空間と時間が重なり合って形成されている、ということだ。だからこそ時間の進み具合が遅く、また、目に見える距離と歩く距離に誤差が生じるのだ。
 だがしかし、これも滝川の仮説の域から出ることは決してない。
「そうか、ありがとう。また、後で寄ってみるよ」
 それでも初老の男は、どこか満足げな微笑みを滝川に返し、裏路地へと戻っていった。
 男が裏路地へと消えるのを確認すると、滝川は再び腕時計に目を落とす。
 時刻は午後4時28分14秒。止まっている訳ではないが、明らかに時間は進んでいなかった。
 この結果は、滝川の予想の一つでもあった。おそらく、この部屋には独自の時間の早さというものがあるが、誰かが時間を確認すると、人の時間に合わせて早さが変化するのだろう。
 原理は全く分からない。頭の中で想像することも難しい。だが、大小の様々な空間が、幾重にも折り重なって部屋が形成されているのだとしたら。
 それを言葉で理解することは、可能だ。
 そうすると、時間を正確に測ることなど、不可能に近い。一応、頭の中で考えてはみるが、この部屋の時間の進み方と、人の時間の進み方。そして、人が確認している間に早く進んでしまった時間を、本来の部屋の時間に合わせる時の進み方。この三通りをそれぞれ計測し、比率を求めて答えを得る。
 ただ、それも全ては時計の針を基準にしてのことだと思うと、滝川には非常に馬鹿らしく感じられた。
 風が吹いた。湿度が高く、生暖かな風には似合わない爽やかな香りが辺りを漂い、やがて消えていく。
 滝川は片方の腕を枕にして、白い部屋に横たわる。白い床の高さに視線を落とすと、無限と錯覚するほどに部屋は広大になる。
 思えば、時間などというものは季節や太陽の動き、それに時計などを通してでしか確かめようのない、あやふやなものだ。
 普段の生活でも、時間が早くなったり遅くなったりすることはある。もちろん、それは個人の感覚に過ぎないが、この部屋の時間の進み方と違うとは言い切れない。時間の進み方など、誰も証明することなど出来ないのだから。
 この何もない静かな空間で、自分だけの時間を持ち、好きなように過ごす。それが、この部屋での過ごし方であり、また、この白い部屋の存在意義ではないだろうか。
 何もない空間。
 床を撫でてみる。微細で、固めのスポンジのような触り心地。神経を集中させた指先は、塵などの異物を全く捉えることはない。
 奇妙なことだった。
 前回ここに来たときは、人が大勢いた。さらに酒盛りまで行われていたのだ。何も落ちていないはずがなかった。誰かが掃除をした、などという可能性は限りなく低い。
 滝川はズボンのポケットに手を突っ込み、中に入っているものを取り出す。
 それはどこにでも売っている、いわゆるスティックタイプの粒ガムで、五粒ほど残っている。滝川は余った紙の包みをちぎり、白い部屋へと放り投げた。
 ガムを再びポケットに戻し、彼の視線は部屋に落ちているゴミへと移る。
 真っ白な世界の中、ただ一つだけの物体が視界には見える。滝川はしばらくの間、見つめていたが特に変化はない。
 一度、まぶたを下ろす。そのまま、頭の中で三秒数えて目を開ける。 
 ゴミはまだ、そこにある。
 忽然と消える、などとは考えられない。必ず、ゴミがどこかに行く仕組みがあるはずだった。そう、例えば、風が部屋中のゴミを集めて持ち去ったりなどだ。何かがゴミを持ち去るにしろ、またはゴミ自体がどこかに消えていくにしろ、一体どういう過程をたどるのか、滝川はそれを確認したかった。
 もう一度、目をつむる。今度は五秒数えてから、まぶたをあげる。
 ゴミは、消えてない。
 滝川の推測では、人が確認していない時に時間経過が変化するように、誰も見ていなければゴミは消えるのではないか、というものだ。
 次はもう少し長い間、一分間、六〇秒を数える。もし、目を開けた時にゴミが消えていれば、五秒以上、六〇秒以内でゴミは何らかの形で消えるということだ。
 ゆっくりと六〇秒を経過させる。普段の時間ならば一分は軽く超えている。
 ゴミは変わらず、そこにあった。
 滝川は腕時計に目をやる。時刻は午後4時29分46秒。彼は、時計が全く役に立たないことを再確認する。
 目をつむる。
 新たな推測がよぎる。見ていない、それだけではゴミは消えないのかも知れない。ゴミに対する意識をも外さないといけないのかもしれない。つまり、ゴミの存在を忘れる、ということだ。
 滝川は一八〇秒を目標に、頭の中で数字を数えることだけに集中する。視覚を遮断し、外界で何が起ころうとも気にせず、自分の世界に閉じこもる。
 さらに、秒数を数え終えた時点で、腕時計の時刻と比較し、この部屋の時間の速さも測ることが出来る、と滝川は気づいた。正確ではなくとも、彼にとっては、それで十分だった。
 しかし、滝川が数えていた数値が一八〇に達することはなかった。彼の思考は徐々に曖昧さを増し、やがて落ちていくことになる。


 意識は突然、目覚めた。
 滝川は目を開け、体を起こす。どうやら、眠ってしまっていたようで、時間の経過が分からない。腕時計を見ると、時刻は午後5時5分12秒を示している。
 両手を組み、大きく伸びをして、頭を完全に目覚めさせる。
 この部屋の時間で約三〇分間。おそらく通常の時間経過では、かなりの長時間を眠っていたようだ。
 ゴミもいつの間にか、なくなっている。落ちていたはずの場所を手で撫でてみても、その痕跡すら感じられない。
 滝川は辺りを見回す。彼を含めて部屋にいるのは三人。相変わらず、向かいの壁際には膝を抱えてうつむいた人がいる。その人の左側には、数メートル離れて路地へと続く隙間。もう一人の人がちょうど、そこから出て行くところだった。
 部屋に残ったのは二人だけとなる。滝川は、今度は部屋全体を見回すように、首を大きく動かした。
 上空の青空を眺めたとき、風が吹いた。いつもの生暖かく、清涼感のある香りのする風。顔に向かって、真っ直ぐ降り注ぐ風に、滝川は顔をしかめる。
 その時、視界の端で何かが動いたのを彼は感じた。
 すぐに顔を下ろす。部屋を一瞥したが、瞬間的に何が変化したのかは分からなかった。また滝川自身、その変化に気づいても、すぐには信じることが出来なかった。
 出口が、路地への隙間が、消えていた。
 思わず立ち上がり、目をこらす。
 ついさっきまであったはずの、二カ所の出入り口が確かに消えていた。滝川は近い方の、本来ならすぐ隣にあるはずの出口の場所まで行き、壁に触れてみる。
 そこには壁しかなく、わずかな隙間さえもなかった。部屋全体に目をやるが、他には何の変化もなく、完全な白い部屋がそこにはあった。
 滝川は壁に両手をあてたまま呆然と立ちつくす。一体何が起きたのか、これからどうすればいいのか、しばらくの間、彼の思考は停止していた。
 幾ばくかの沈黙の後、思考力も働き始め、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。一つの仮説を思いついた滝川は行動を始めた。
 彼は部屋に残っているもう一人の方へと向かう。現在の状況に全く気づくことなく、うつむいたままのその人へと。
 今思いついた滝川の仮説は、この状態は定期的に起こることなのではないか、というものだ。この部屋には外界と隔離する時間帯というのがあり、また時が経てば路地への道が開かれるのではないかと。
 とは言え、この仮説が正しくとも、彼をこのまま放っておくわけにもいかない、と滝川は思っていた。彼を起こして、現状を知らせようと。
 出口のない、真っ白な部屋という未知の空間に閉じ込められていても、滝川の心は特に乱れてはいなかった。それは何より、この部屋にいるのが自身一人ではなく、二人であることに基因していた。
 しかし、その人へ五メートル程の距離に来たとき、滝川は足を止め、感じた。
 何かが、妙だった。
 その人はうつむいたまま、体を小刻みに揺らしていた。それは上下の揺れなのだが、首や肩、腕、足が一切ぶれることのない、機械的な動きだった。
 揺れは徐々に早くなる。その動きは、すでに人間の動きではなく、明らかに異質だった。眼前で起きている現象を滝川は理解できず、その場から様子を見続けていた。
 突然、揺れが止まる。同時に頭が起きあがり、正面、滝川の方へと向く。
 思わず滝川の足が、一歩、後ろに下がった。
 髪はある。だが、そこに顔はなかった。
 この部屋と同じ、真っ白な肌。それしか、ない。うつむいていて、見えなかったその人の顔立ちは何も、凹凸さえない、まさしく、のっぺらぼうと呼ばれるものだった。
 顔のないそれは、勢いよく両手両足を広げる。人間の関節というものを全く無視して。まるで、糸で吊られた人形のように。
 全身を白い部屋に密着させたまま、無機質な操り人形は引きずられるように足が床から離れて、背後の壁へと張りつく。
 体が心臓部分辺りから、壁へと沈むように引き込まれていき、頭が体の中心部分へと下りていく。壁に貼り付けられた両手両足が『X』の字のようで、その中心には頭部。
 滝川の足が、さらに一歩、後ろへと下がった。今、何が起きているかは解らない。だが、確実に何かが起こっている未知への恐怖と、白い部屋にいる人間は自分一人という孤独が、彼の心を支配しつつあった。
 床から一メートル程の高さに描かれた、巨大な『×印』。その不気味な紋様が、ゆっくりと渦を巻くように回転し始めた。腕と足が、まるで壁から生えているように持ち上がり、回転を加速させていく。そして、回転に呼応して、どこからともなく音が聞こえてきた。音程は少し低く、蝿が飛んでいる音に近い。機械音ともとれる一定の空気の振動音だ。
 腕と足は回転するに従って短くなる。中心部分も、すでに黒い髪しか見えない。滝川にはそれが、腕と足を引きずり込む、黒い穴に見えた。
 真っ白な部屋の中の、ただ一つの黒い異物。その中へ、と言うより、穴の輪郭へと腕と足が消える。今度は穴の周りの壁が歪み、波打つ。渦を描いて壁が穴の淵に吸い込まれ始める。
 その時、滝川の嗅覚が反応した。
 穴の方から流れてくる空気。風とまでは言えない、緩やかに漂ってくる生暖かい空気。一呼吸だけでは、いつもの清涼感のある風と変わりはない。だが、それに混じって臭ってきたのは、生臭く、強力な酸とヘドロを混ぜたような、鼻の奥が痛くなる臭いだった。
 滝川は思わず顔をしかめ、手で鼻を覆う。後ずさりながら、視線を右、左、上へと移動させる。
 空を見上げ、足が止まる。目が大きく見開いた。
 真っ青な空が、下りてきていた。
 滝川は穴を一瞥する。穴が周囲の壁を吸い込んでいるので、それだけ白い壁が低くなっているのだ。低くなっていく白い壁と空との境界を見つつ、滝川は現象の原因を思う。だが、広がっていく青空には太陽の姿や雲一つ見えず、陽射しのムラさえもなかった。本当は、あれは空に見せる青色の天井で、それが下りてきているのではないか。もしくは、白い壁の色が青へと変わっているだけではないか、とも考えられる。
 白い壁への青空の侵食は止まることなく続く。滝川は臭いに我慢できず、咳き込んだ。だが、咳の音は彼の耳には聞こえなかった。気づかない間に、聞こえる振動音がそれほど大きくなっていたからだ。
 舞台の幕が下りるような速さで、白い壁が青へと染まり、滞ることなく今度は床へと移る。黒い穴の周囲は白と青が二重の渦巻きを作り出していた。
 滝川は振り返り、穴を背にする。やはり、足場である白い床が狭まってきている。しかし、彼には床がなくなっているようには見えず、足下に迫り来る青と白の境界線を目で追っても、単に色が変わっているだけのように思える。
 厚みを感じさせない白い部屋が、遠近感のない青い色に染まりつつある。その境界線が今、滝川の足下を通り過ぎた。
 その時の体験の、客観的な時間の長さは誰にも分からない。だが、滝川本人の心では、あまりにも長大に感じられていた。
 目の前が、青一色になる。
 同時に、悪臭が消えた。
 重力がもたらす、自らの重さの実感がなくなる。
 そして、自身の体が見えなくなった。
 顔や手を動かし、足も動かす。それらの行動全てに動かしているという感覚はある。だが、見えない。
「え」
 滝川は声を出した。声は出したが、聴覚は音を捉えてくれない。
 目の前は、ただ青。それ以外は何も見えない。まばたきを始め、目をつむっているつもりでも、青い色が眼前に広がる。
 何かを求めて、滝川は見えない自身の体を振り向かせる。視線の先には黒い穴が白い部屋を吸い込んでいるはずだった。
 青と白の境界線から二、三歩分離れ、青の部分に立つ彼には、黒い穴の周辺の二重の渦が見て取れた。だが、黒い穴そのものは見えず、そこには滝川の視線を遮るように、白い床の縁に立っている自身の姿があった。
 普段、鏡を通すなどして見ている自分自身。その間違うはずのない姿が、少し驚いた様子のまま静止していた。
 穴へ向かって縮んでいく白い床。その上に立っている自分自身も同じ速度で遠ざかる。
 部屋が白から青へと、完璧に染まりつつあった。全て、何もかも、人である滝川も含めて。
 正体不明の現状。彼はそこから、自分に降りかかっている圧倒的な危機感と絶望感を自覚する。
 それでも、黒い穴に吸い込まれる自分を阻止しようと、滝川は慌てて腕を伸ばした。彼の目にその腕は見えなかったが、確かに伸ばしていた。
 その行動とほぼ同時に、唐突に白い床の動きが止まった。そして、床の停止に気づいた次の瞬間には、まるで爆発でも起きたかのように白い床が一瞬にして広がり、白い部屋へと戻っていく。目の前にいた自身も例外なく、急激に接近してきたと思う間もなく、真正面にいた滝川自身とぶつかった。
 だが、そこに衝撃といえるものはなく、透き通っていくような感覚だった。思わず滝川は腰をひねって振り返る。背後にはすでに、白い部屋が広がっていて、他には何もない。
 ただ彼の視覚には、自らの腕と肩が見えていた。気づく暇もなく、滝川の意識と体は完全に合致し、元に戻っていた。
 落ちる。
 元に戻った自身の体、特に腰から(かかと)にかけて、強く重力に引っ張られるのを感じた。滝川は見えるようになった腕を伸ばすが、白い虚空しかつかめない。後方から吹きつける風が一気に強くなった。
 滝川は黒い穴の方を向く。
 思ったよりも上の方の壁にあった黒い穴は、すでにただの点にしか見えず、それもすぐに判らなくなる。さっきまであれほど場を支配していた青空も、すっかり白い空間に四方を囲まれ、見る間に小さくなっていく。
 視界から青い色が消える。今度は完全な白に囲まれた景色。首を動かし、腕や足を泳がせるが、見えるものや触れるものはない。唯一、自分自身の体だけは確かに存在していて、見ることも触れることも、もちろん、まばたきもできた。
 下方向からの重力と、聴覚を奪う強風。滝川は今、自分は落下していると認識しているが、これほどまでに距離感も何もない状態だと、本当に落下しているのかも疑問に思えてくる。だからといって、この現状を打破する方法なども思いつかず、今はその身を任せるしかなかった。
 落下し始めてから、時間にして一〇秒程だろうか。なんの前触れもなく、風が止まった。足の裏全体に床を踏む感触がし、自らの体重がかかる。その突然の負荷に滝川は自身の姿勢を保っていられず、両膝を床につけて前のめりになる。両腕を伸ばして、何とか体を支えた。
 しかし、彼のすぐ目の前は壁だったようで、強く頭を打ち付けた。セメントのような激しい痛みではなかったが、それでも脳の奥まで響く振動が全身を通り過ぎていく。
 うぐぐ、という声にならない声をあげながら、滝川は頭を抱えて縮こまっていた。
「大丈夫かい?」
 頭上から、聞き覚えのある声がした。久しぶりに耳に入る人の声に、滝川は痛みを忘れて顔を上げる。
「かなり強く、打っていたね」
 背広を着こなし、微笑みを浮かべた初老の男性は、この部屋で滝川が最後に会話した人物だ。
「それはそうと、この部屋は面白いね。さっき、家内とここに来ようとしたんだけど、どうしてだか、来れなかったんだ。反対方向に出ちゃうんだよ」
 興奮気味に自身の体験を話す彼の背後に、滝川は白い部屋の出入り口、つまり裏路地へと続くであろう隙間を見つけていた。出入り口のすぐ側の壁際。今までの体験がまるで嘘のように、滝川がいる場所は全く変わっていなかった。
「それで、今度は家内を路地の前で待たせて、私一人で来たら、この部屋に着いたんだ」
 滝川は男性の話を聞いていない訳ではなかった。ただ、その視線は別の方向へと向いている。
「どうした?」
 男性の質問に、無言を返す滝川が見つめる先。彼らのいる場所と対称となる壁際に、膝を抱えてうつむいている人がいた。
 背筋に悪寒が走り、滝川は勢いよく立ち上がる。
「すみません。取りあえず、ここを出ましょう」
 滝川は真っ直ぐに路地へと進み、体を半身だけ裏路地へ入れたまま、男性が来るのを待つ。不思議そうな顔した男性は周囲を見回しながら、ゆっくりと裏路地へと歩き出す。その間、滝川は白い部屋にある偽物の人間から目を離さない。
 男性が滝川の目の前を通り過ぎるのと同時に、彼も白い部屋から裏路地へと体を移す。横幅が一メートル程しかない裏路地では、二人は並んで歩けない。滝川は男性のすぐ斜め後ろを歩く。滝川の歩き方は、彼の心の焦りを見え隠れさせ、二人の歩みを止めることはない。
「何が、あったんだ? ひどく思い詰めたような顔だけど」
 歩きながら、男性が滝川の方を向いて聞いてきた。一拍の沈黙の後、滝川は重い口を開く。
「なんと言ったらいいか……。夢とか現実とかじゃなく、よくわかりませんが、ただ……」
 そこまで言って、滝川はうつむいて考え込む。「ただ?」と、男性が言葉を繋げた。
「はい。あの白い部屋にいる人間の数が、二人以下になると、……危険です」
「危険?」
「はい。……おそらく、命に関わるかも、です」
 滝川はついさっき、体験したはずの出来事を思い返していた。しかし、時間的な感覚の欠如と、あまりに奇妙な非現実さが、実体験としての印象を曖昧にしていた。
「よく、わかりませんが……、今、そんな体験をしてました」
 滝川は自分が味わった体験の全てを、話すことはしなかった。
 よく、わからない。
 その言葉を滝川は繰り返している。様々な仮説を考えて、何とか結論に至ろうとするが、結局のところ、その言葉が全てだった。
「なるほど、わかった。気をつけることにするよ」
「はい。ありがとうございます」
 それでも、納得してくれた男性に対して滝川は感謝の言葉を返す。
 西日に照らされた表通りが近づいてくる。早足で歩いていたはずの二〇メートル程の裏路地を、滝川たちは多少の時間をかけて抜け出す。
 わずかな雲の切れ間から、太陽が顔をのぞかせていた。斜陽を反射するガラス張りのビルの前で、初老の男性は待っていた妻を連れて、滝川と別れた。
「ありがとうございました」
 別れる間際、滝川はもう一度、お礼を言った。
 再びこの場に立っていられるのは、第三者が部屋に入ったからじゃないかと、彼は考えていた。誰かが白い部屋に近づいたから部屋が元に戻り、自分も元に戻ったのではないかと。
 滝川は腕時計で時間を確かめる。時刻はちょうど、午後五時八分になる。太陽が雲に隠れていき、辺りは薄暗くなった。
 裏路地の方へ目をやると、ひやりとした風が背中から吹き、裏路地の中へと吸い込まれていった。なぜか、ここからでは向こう側の通りが見えなくなっていて、狭く、暗いビルの隙間が無限に続いているように見える。
 目をそらした滝川はその場を後にする。その背中には冷や汗が流れていた。


 すっかり短くなった日中に、街は師走のにぎわいを見せている。
 滝川は得意先に年末の挨拶をし終わり、裏路地の近くまで来ていた。あれから二度、彼は路地の前を通り過ぎたが、できる限り視界に入れないようにして避けている。
 ただ、時間が経てば恐怖は弱まり、それなりに仮説も思いつく。ガラス張りのビルと古いビルの合間、滝川は数ヶ月ぶりに裏路地へと歩みを進めた。
 表通りから一〇メートル程。ガラス張りのビルの壁もコンクリートに変わる境目で、滝川は立ち止まる。
 見上げると、暖かく甘い香りを漂わせて、小さな換気扇が回っている。そして、換気扇と滝川の間には金属の柵が設置してあった。一応、扉にはなっているようだが、大きな南京錠がしっかりと閉められていて、ここから先には進めそうにない。
 都会の空気で汚れた金属の柵。その隙間から見える裏路地には、ゴミ箱やビールケースなどが置かれ、奥には何本かのパイプがビルから伸びている。
 今、目の前にある裏路地は、彼の記憶にあるそれとは全くの別物だった。滝川はポケットから粒ガムを取り出し、一つ、口に入れた。柔らかな甘さと爽やかなミントの香りが口の中に広がる。
 もう、ここには存在していないのだろう。
 滝川は自分が思いついた仮説を思い返していた。もちろん、荒唐無稽なことだが、それでも自分自身を納得させるには十分なものだ。
 裏路地に背を向け、滝川は大勢の人が行き交う表通りへと歩き出す。その姿は、すぐに人混みに紛れてしまい、見分けがつかなくなった。
 滝川の思いついた仮説。
 あれは、あの白い部屋は、生物のようなものではないか。と、いうものだ。今日もどこかの街で、人型の擬似餌(ルアー)を垂らし、口臭に気を使いながら、獲物が単独になるのをじっと待っているのではないかと。
 所詮、これは彼の推測でしかない。時間や空間に関することも不明のままだ。
 真相は、あの白い裏路地の正体とは。
 わからない。
 やはり、それが結論だった。



 終

白い裏路地

白い裏路地

ホラーというほどの怖さはない、日常に潜む不思議な話。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-11

Copyrighted
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