団地
団地
「まさかお祝儀よりも先に香典を包むことになるなんてね。」
香典、同級生、金額、と検索する私の隣で母が言った。二五歳、恋人いない歴イコール年齢。自分の結婚式なんてもう一生ないかもしれないと諦め半分ではあったが、結婚ラッシュといわれるこの年で周りの数少ない友人たちも結婚のケの字すら感じさせないとはいえ、お祝儀の金額より先に香典の金額を検索することになるなんて想像すらしてなかった。スマホを小さな黒い手提げバッグに入れ、真っ黒な上着を羽織った。ストッキングでは暖房のきいた家の中でも寒く感じる。東北の秋の夜は、冬みたいにキンと冷える。
「でもまあ、そんな仲いい友達だったわけでもないから。小中の同級生だったってだけだし。お焼香だけちょっとあげてすぐ帰ってくるよ。」
酷い言い方しちゃったかなと思いつつ、就活以来出番のなかった黒いパンプスに足をいれた。ガチャリとドアを開けると外は一層寒く、息は白い煙になって風で舞った。
「ほとんど冬じゃねえか~…!」
指先が一気に痛くなる。寒さに悪態をつきながら玄関を出ると、白いハイブリットカーの運転席の窓が開いた。
「よっす。」
息がぶわっと白い水蒸気に変わり、トモの眼鏡がくもった。私は笑いながら助手席にさっと乗り込む。
「曇ってんじゃん。おひさ。」
「元気そうじゃん。何より。」
「どーも。白のハイブリットカーって、ザ・公務員ってかんじするわ。」
「ザ・公務員だからな。」
静かに車は走り出す。シートはまだ冷たいが、一度外に出たからか車内は暖かく感じた。トモというのは私の小学校時代からの幼馴染であった。今回葬式の連絡を寄越したのもトモだ。トモは私と違って昔から社交的でまじめで、同級生たちともいまだに連絡を取り合っているらしかった。二五歳に至るまで私は生き抜くことに必死で、ふと振り返ってみたら友達と呼べる人を数えるのに5本も指が必要ないほどになっていた。
「事故かなんか?」
私はかすかに曇った窓からキラキラと通り過ぎる景色を眺めながらつぶやいた。
「自殺。」
そうだと思った、と私が思っていることはきっと伝わってしまっただろう。トモも同じように思っただろう、ミツルの母から直接連絡を受けたのだという。ミツルは小中の同級生で、小柄で気が弱くおとなしいが、こだわりの強いやつだった。いじめの標的にされやすく、それに加担したことはないものの助けた覚えもない。以前私は団地に住んでおり、ミツルも同じ団地に住んでいたためたまに話すこともあったが、決して仲がいいわけではなかった。正直、今回はトモが一緒に行こうと言うからで、トモもそこまで仲がよかったわけでないかつての同級生の葬儀に一人で出向くことに抵抗があったようだった。なんで呼ばれたんだろうね、という疑問は言葉にしたらいけない気がした。
「ミツルはまだ団地に住んでたの?」
「そうらしい。あ、そっか。アキも昔は団地だったもんな。」
「めっちゃ昔ね。」
めっちゃ昔。なんか頭悪そうな言い方しちゃったな、二五歳なのに…そんなことを考えているうちに、車は団地の駐車場前の道路に寄せられて止まった。
「なつかしいっしょ?」
シートベルトを外しながらトモは笑った。
「斎場に行くんじゃないの?」
「車置く場所ないっぽいんだよね。すぐだから歩いていこうぜ。」
外に出るとさっきより寒くなっているように感じた。おかげさまで星がきれいに見える。鼻で息を吸い込むと冬のにおいがした。
「冬のにおいする。私これ大好きなんだ。」
「ちょっとわかる。行くぞ。」
トモはバンっとドアを閉め、車にロックをかけた。午後一九時過ぎ、たくさんの家族や人間が住まう公共団地。5棟からなるそれらの集合体はとても無機質で、どこか暗いイメージであったが、平日のこの時間帯はふんわりと漂う夕食のにおいで少しだけ温かみを感じる。私たちは無言で団地の棟と棟の間の道を歩いた。星がキラキラしている、息が白くほどける。寒い日は星がきれいに見えるが、星々のまわりにあるさらに小さなキラキラが見えるのはきっとここが都会とは決して言えない田舎で、街頭もあまりない集合団地の群れの中だからなのだろう。そんな生まれ育ったこの場所が、土地が、私は二五年経っても好きになれないでいた。何もないのに息苦しい。都会のほうがずっと人が多く土地も狭いのに、ここのほうが窮屈で「女性が一人で生きる」ことを簡単に否定される。そんな時代錯誤な考え方も「あなたのため」とか、「心配」とか…まるで私が悪いみたいに言われるのだ。知らない人ばかりの都会の方が、知ってる人の多い田舎より優しく感じる。私が私のままで居てもいいのだと許容してくれるからだろうか。色々な葛藤を抱えた二五歳という節目に、同級生の自殺。どこか他人事のように思えなかった。
「昔さ、よく団地で探検ごっことかしたの覚えてる?」
4階建て団地の1階下部分には、電機配線などを通すために大人の膝ほどの高さの隙間があった。そこは小さな扉がついていて、小学生の小さな体であればかがんで楽に入れる。私たちは秘密基地を作るために様々な隙間や穴にもぐりこんだ。その対象の一つがこの団地下の空間だったのだ。
「なつかしいな~…。俺とアキと、アキの兄ちゃんと3人でここも潜ったよな。」
私には3つ年の離れた兄がいる。勉強も運動もそつなくこなし、同年代だけでなく私の同級生にも好かれていた。兄は東京の電子工学を専門とする大学に進学し、そのまま院を経て大手企業に就職、今では美人な奥さんと結婚しもうすぐ子供も生まれる。そんな出来のいい兄と比べてしまうのは仕方ないことなんだろうか。地元の国公立大学に合格した時すら、母はため息をついていた。
「お兄ちゃんはちゃんといい大学に行ったのに…アキは本当にダメね。」
父と声を潜めて話すその言葉を聞いたとき、ボロボロの自尊心が砕け散ったのだった。兄を誇りに思っていたはずが今では兄の話をされるのも苦しい。同じ血を分けた兄妹でこんなにも違うものかと劣等感にさいなまれるのだ。今日は夜でよかった。私の顔がひきつったところも、きっと見えていない。
「ホームレスの住処だったんだよね、怖かったなあ~…布団見つけたとき。後ろに誰か立ってるんじゃないかって。」
「そうそう。先頭にいたアキの兄ちゃんが後ろも振り返らず一目散に逃げて行ったの見て余計に怖くなって。確か一番後ろがアキで、うしろから懐中電灯で足元照らしながらすげえ励ましてくれたよな。こいつこそ親友だって思ったもん。」
「あれ?私が一番後ろだったんだっけ?」
「そうだよ、確か。まあ、もうずっと前のことだもんな。」
お兄ちゃんが逃げた後、トモが後ろから「早く行け」と私を急かしてきたのではなかっただろうか。でも私の記憶が正しいのだとしたら、トモの後ろから懐中電灯で足元を照らしたのは誰だったのだろう…。背筋がぞくりとする。思わず後ろを振り返った。もう団地群から出てだいぶ歩いたようだ、トモの車は見えなくなっていた。
「斎場、ここだな。駐車場全然空いてんじゃん…。」
「まあまあ。いい運動出来てよかったよ。」
斎場の入り口には喪服を着た年配の女性と、斎場のスタッフが数人立っていた。トモが女性に会釈をすると、そのひとも会釈を返し、心なしか顔が微笑んだように見えた。
「トモくん来てくれてありがとうね。ミツルも喜ぶわ…。」
「いえ…むしろすみません、式には参列できなくて…。」
その女性はミツルの母らしかった。息子の葬式とはいったいどれほどの悲しみだろう。綺麗に化粧が施された顔も、どこか暗く見える。
「こっちはミツルの小中の同級生のアキです。同じ団地だったので会ったことあるかも…。」
「アキちゃん…!お久しぶりね、美人さんになって。」
ミツルの母はとても嬉しそうに私の手を握った。しわくちゃでゴツゴツしている。ずっと玄関に立っていたのだろう、手がキンキンに冷たい。しかしその体温とは裏腹に、私を握るその小さな手はとてもあたたかく感じた。思わず声が震える。
「お久しぶりです。今回は…その…本当に…。」
何を言っても傷つけてしまう気がした。息子の死、しかも自殺だなんて。ミツルも苦しかったんだろう…死にたくなるくらいに追い詰められてしまったんだろう…でも、きっとそれをどうすることも出来なかったこの人もどれほど苦しいだろうか。なのに、私たちにこんな優しい笑顔で。
「おい、アキ、大丈夫か?」
「ごめんなさい…お焼香、あげさせてください。」
ありがとう、と、ミツルの母は優しく微笑んだ。ありがとうだなんて。私はついさっきまでなんで今更自分が呼ばれるのだろうと思っていたというのに。ミツルがいじめられているのを知っていて他人事だと、自分は関係ないし、むしろ雰囲気を乱されて迷惑だと嫌悪していたっていうのに。泣く資格なんてないのに、勝手に涙があふれた。
棺桶に入れられたミツルは、もう私の知っている彼ではなかったものの幼い日の面影もわずかに感じられた。小さな斎場ではあったが、この時間に私たちの他には誰もお焼香をあげに来る人はいないようだった。きっと中学卒業後も友達が出来なかったのだろう。だから、ミツルの母はトモに連絡をしたのだろう…。そんなことを考え出すと、なぜか自分が責められているように思えてきて、ミツルの顔もろくに拝むことが出来なかった。トモはミツルの母と話をしている。私は会場の壁際に並べられた花を眺めるフリをした。
「喪主はミツルのお父様なんですね。」
「ええ。でも今晩私たちここに泊まるから、主人は今お風呂に行ってしまっていて…。せっかく来てくれたのにご挨拶もできなくてごめんなさいね。」
「いえ、お気になさらないでください。色々忙しい時でしょうから、休める時に休んでくださいね。」
「トモくんが来てくれて本当によかったわ、アキちゃんも。」
名前を出されて思わず振り返り、私は気持ちの悪い顔でヘラっと笑った。
「アキちゃんとトモくんのことは、ミツルがよく話してくれたわ。」
え、なんで…そんなに仲が良かった覚えはないのだけど…という疑問しかなかったが、いやそういうことにしておこうと口をつぐんだまま私とトモは微笑んだ。
「ミツルはね、高校に入ってからも、トモくんとアキちゃんと遊んでた小学校の時が一番楽しかったって言ってたのよ。団地の探検ごっこの話は、本当に楽しそうに話してて…。」
「探検ごっこですか…?」
トモは驚いたように言い、私の目をチラと見た。
「団地の下に電気配線の通ってる隙間があるでしょ?あそこでホームレスの布団を見つけたって話。まるで大冒険みたいだったって。誕生日プレゼントに買ってもらった大きな懐中電灯を持って行ったのがすごく役に立ったって、それは楽しそうに…。」
「懐中電灯…。」
まただ、背中がゾクっとする。トモは強張った顔で私とミツルの母を交互に見た。あの時ミツルがいたというのだろうか。では、私の記憶が正しかった?トモが親友だと思った相手は、私ではなくミツルだった…?指先の冷たさが急にひどくなったように感じた。トモは何も言えずに微笑を顔に張り付けていた。
そのあと何を言ったか覚えていないが、トモがうまく帰る方向に話をまとめてくれたため私たちはまた団地の方へと歩いた。トモも私も黙っている。来た時に見たきれいな星空も、胸いっぱいにかいだ冬のにおいも、ずっと前の記憶のように思えた。
「ミツルのお母さん、何回もありがとうって言ってたね。」
「…そうだな。」
「正直さ、私、なんで仲良かったわけでもないのにトモに連絡来たんだろうって思ってて。私はトモよりもっと関係うすいって思ってたから、行っていいのかもわからなくて。」
「…うん、俺もだよ。ありがとな、一緒来てくれて。」
「全然いいんだけど、あ~…ごめんね、なんかありがとうの強要しちゃった。」
ふふっとトモが笑った。息が白い霧になって後ろへ流れていく。
「怖くなっちゃった。怖い、って、ほかになんて言っていいかわからないだけなんだけどさ。私とトモにとっては「葬式に呼ばれる理由もわからない同級生」って相手なのに、ミツルのお母さんにとっては「息子の一番楽しそうな思い出の中の友達」で。誰も悪くないのに、同じ熱量でミツルのこと想ってなかった自分がすごく嫌な奴に思えて…。こういう認識の違いが自分の中にも絶対にあって、過去の記憶もねじ曲がってて。もしかしたら私が友達と思ってても、相手からしたらなんでもない人なのかもしれないとか、自分が信じてる記憶が実は全部自分に都合よくねじ曲がってるんじゃないか、とか…。」
右手の人差し指で左手をしきりにさすった。ダムが決壊したように言葉が止まらない。私は今どんな顔をしているだろう。このまま話し続けたら家族の話や将来への不安も全部言葉にしてしまいそうで、私は静かに息を吐いた。
「真実と、都合よくねじ曲がった思い出と、優劣なんてないだろ。どっちを覚えていたいか、100%自分の記憶を選別できるわけでもないんだし。誰も悪くないよ。ミツルも、ミツルのお母さんも、アキも。みんなそれぞれに大切にしたいものがあって、自分の守る世界があって、そういう中で一つの出来事をいろんな角度から見て感じて生きてるんだから。これでいいんだよ。何が嘘か本当かなんてわからなくても、自分を信じて生きていくしかないんだから。」
外は相変わらず寒いのに、心がすこしあたたかくなったようだった。
「あの団地のことがなかったとしても、俺はアキを親友だと思ってるよ。」
「…やばい。照れるじゃん、でも、ありがとう。」
今は夜でお互いの顔なんてよく見えないけれど、私もトモも笑っている。大きく息を吸い込んだ。
「帰ったらお母さんに聞いてみよっかな。」
「なにを?」
「私が地元に残ったの、どう思ったかって。」
冬のにおいがする、私はこのにおいが大好きだ。もし、記憶通りのことを母に言われたらまた落ち込むんだろう。たぶん、私は落ち込むことになるんだろう。この窮屈な田舎で、好きになれないこの土地で、兄への劣等感と両親への不信感を抱いたまま生きていくのだろう。ミツルの母の手のあたたかさを思い出す。私がもし死んだら、私の母も、ああやって誰かに「ありがとう」と言うのだろうか。
ピピっと車のロックを解除する音がした。私たちは車に乗り込み、団地を後にした。
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