「もどらない」ものを想うとき
《ある男の願い》
恋というのは偉大だ。なんの面白みもない毎日が、唐突に輝きに満ち溢れたものに変わるのだから。何もかもが色鮮やかに映り、心は浮かれ踊る。
けれど、だからこそと言うべきか。去り行く時に胸に残す傷は深い。思い出という名の塩を傷口に絶えず塗り込まれるうえ、時が経ち傷口が塞がっても、傷跡が消えることはない。
僕は今、傷の痛みに苦しんでいます。もしも君がこの痛みを知っているなら、可哀想だと少しでも思うなら、どうか僕のもとに戻ってきてはくれませんか。
ほんの一瞬で良いのです。あの時の幸福をもう一度味わえたなら、一度でいい、僕の世界に色が戻ったなら。僕は安心して旅立つことができます。
この先永遠に世界がモノクロのままでもいい、今度こそ君の目を見て、あの時のことを謝ることができたらそれでいい。
もう気づいているかと思いますが、僕はもうあまり長くはないのです。今はただひたすらに過去の幸福を少しでも思い起こそうと、君が僕のもとに残したたったひとつの思い出の品を握りしめて、起き上がることもままならずベッドに寝たきりでいます。
「あなたの好きと私の好きは違った」
「私がいなくなってきっと安心していることでしょう」
「もう寂しい恋は終わりにしましょう」
そして、最後に震えた筆跡で
「愛していました、さようなら」
君が残していったこの書き置きだけが、僕の心の拠り所です。読むたびに傷が痛んで仕方ないけれど、読まないでいるよりかはいくらか痛みがましになるのです。
そろそろ僕の心臓はほんとうに動くのをやめてしまいそうです。もう、君には二度と会えないのでしょう。それでももし気が向いたなら、墓まで来て、僕を笑ってください
君のことが好きだった、ただそれだけの人生でした。
《その女の述懐》
あなたはいつも笑うから。私が言ったこと、やったこと、ぜんぶ。だからきっと、私のことなんかどうでもいいんだって、馬鹿にしているんだって思っていた。
網戸の外側に蛾がとまっている。小さいけれど、確かにその存在を主張している。見なければいいのに、見てしまう。ちょうど、私にとってのあなたとの思い出みたい。
後になって気がついたときにはもう遅かった。不器用で、歪に、けれど確かに、あなたは私を愛していた。私もまた同じように、しかし全く違う形であなたを愛していた。
いつからすれ違っていたんだろう。思えば、私とあなたの間で交わされた会話は、それがどんなに下らない話題でさえどこかとてつもなく高い所で綱渡りをしているような恐怖と緊張感を持って行われていた。
きっとそれがいけなかったのだろう。あなたの後に付き合った何人もの男たちとの会話には、そんなおかしなことはなかった。
今、あなたのところに向かっているけれど、多分、きっと間に合わない。あなたの心臓が止まる瞬間には、残念ながら立ち会うことができないみたいだ。
生憎私はあなたの家族には嫌われているみたいだから、お葬式には出られない。でも、もし許されるのなら、あなたのお墓に行って、謝りたい。私が最後に置いていった手紙のことを。
あなたから私への最初で最後のお願いを、どうやら叶えてあげられそう。望み通りあなたのお墓に行って、あなたを笑います。
あなたと私の不器用で、愚かで、歪で、けれど確かにそこにあった愛を忘れないでいるために、お互いを笑おう。
大切なものは、失ってからその大切さに気づくなんて言うけれど……ああもう、やってられないな。
「もどらない」ものを想うとき