紙ヒコーキ

紙ヒコーキ

 人間は、独りでは生きてゆけないという。確かに俺は様々なものに助けられ乍ら快適な生活を送る事が出来ている。だが、一定の時間の内を独りで過ごせないのかというならば、そうだと限らないだろう。
 俺には小さい頃から、友達らしい友達が居ない。別段、意地悪を言われたり嫌がらせを受けていた訳では無いのだが、人付き合いという事、他人の顔色を窺い乍ら行動するといった事が面倒でならなかった。進学や進級をすれば、初日には誰もが自ずと近くの席に着いた者に話し掛け、其処から友人関係に発展させている様子は横目で見ていた。俺はといえば特に誰に笑顔を向けるでなく、視界の端の風景について、何をそんなに五月蝿くしているのか、という感想を抱きつつただノートに向かっていた。
 俺と同じで付き合いが面倒なのか、或いは会話が得意でないのか、級友と談笑している様子は滅多に目に出来ず、これまた俺と同様にノートとだけ向き合っている女子が同じクラスに居る。名前は春菜さんといった。教室で独りきりの時間を各々過ごしているといった点に於いて、彼女には何処か、勝手な親近感を覚えていた。まあ、まず俺から彼女に会話を持ち掛けたりと接触を図るのはやはり面倒だから、関係を持つには至らないのだが。
 俺がルーズリーフ型の帳面とずっと対面しているのは、学生があるべき姿といったふうに予習・復習に励んでいるのとは違った。シャープ・ペンシルを握って帳面と向き合い、字を綴る。此の楽しみを覚えたのは、中学の頃だった。
 俺は、詩を書く事が好きだった。感じたままを自身の美意識にかなう単語を選んで七五調に並べていれば、気に食わなかった小さな事件や些細な気の揉みだって、容易く脳味噌からは吹き飛んでいった。
 決して他人に漏らしたりはしないが、俺は文章・言葉の扱いに関してはかなりの自信を持っている。現国の授業に於いたって、悪い点数にならないばかりか、学年で最も優秀な成績を残す事もしばしばだ。好成績なのは現国だけにしても其れで目立ってしまっている事実も在り、更には俺が無口な方である事が加算された結果〝陰気なガリ勉野郎〟呼ばわりを貰って他生徒から避けられてしまっている節が在る。
 幾つもの自作詩がルーズリーフ・ファイルには詰まっている。気に入りの作品も在れば、恥ずかしくて衝動的に捨ててしまいたくなる様な作品も在る。其れでも出来る限り、自分自身が五感で、そして時には第六感的な部分でとらえた物事を残した文字列は、単純で自分勝手な理由では捨てないようにしていた。
 だが、今日ばかりは違った。普段調子ならば頭をきつく捻らずとも持する限りの語彙の内より最も綺麗だと思える言葉を難なくすらすらと取り出し、色も取り取り選り取りみどり、といった事も可能だったのだが、今日は何故だかなかなか上手く言葉達を引き出せない。紙には数行の文章を残せてはいるものの、如何しても納得が行かない。直ぐにでもくしゃくしゃに丸めて屑籠に投げてやりたい。こういった表現は本来プロフェッショナルの人間が使うものだそうだが、所謂、スランプというやつにぶち当たってしまったらしい。
 そういえば今朝から、悪い事ばかりに遭遇している気がする。朝に小雨が降っていたから傘を持ってきたのに、昼休みになった今では窓の外はいっそ鬱陶しいとさえ思えるくらいの、俺の気分とは真逆の爽やかな快晴。そしていつも早めに自宅を出るから遅刻こそしなかったが、通学中には人相が悪く態度失礼極まりないサラリーマンに身体が当たってしまい、長々と文句を垂れられた所為で普段より一本遅い電車に乗る羽目にもなった。そして俺は忘れ物なんて滅多にしない、なのに今日は下敷きを自宅に忘れてきてしまった。筆圧の強い方である俺には、板書にも詩書きにも必需品だというのに。現在視界の中央に座している紙もスランプを帯びたシャープ・ペンシルの足跡がある所は、かなりの圧を受けてぼこぼこに波打っている。
 そうだ、朝からついていないのが今の俺の総てを崩しているんだ。其の要因で俺は、言葉を操る側ではなく、言葉に振り回される側に落ちてしまっているのだ。此方は休み時間にずうっとノートを睨んで真剣そのものだというのに、教室の隅でクラスメイトの談笑……ことに、竹田君が時折放つきんきん頭に響く甲高い笑い声が苛立ちを誘う。ああもう、人の気も知りやしないで。この怒りを作品に昇華でも出来れば良いのだけれど、言葉に悩まされ続けて頭痛さえもたらされている俺に其処までの余裕は無い。
 其れにしたって、今日書いた物は実に過去最低の出来だ。こんなものなら、捨てたって構いやしない。もとより誰が読むでもない物を書いているのだから、俺自身が一ミリメートルも納得が届いていないのならば尚更だ。然しながら苛々に任せて乱雑に丸めてしまっては、気に入らない出来映えとはいえども自分の頭を使って並べた文字列だから、些かではあるが勿体無くも感じる。だから俺は、強い筆圧、濃い色の文字の並びによる最悪の出来の詩の乗ったルーズリーフを一枚、ファイルから取り除いて紙飛行機の形に折り、屑籠目掛けて其れを投げ放った。
 狙いの上では、駄作入りの紙飛行機は、黒板の近くに在る大きめの屑籠に飛び込んでゆく予定だったのだが。
「きゃっ」
 十分に定めた筈の狙いは外れ、紙飛行機は屑籠に落ちるではなく、黒板消しを片手に日直当番を黙々とこなしていた春菜さんの背中に追突してしまった。
「え、なに? なに?」
 直ぐには事態が読み込めなかったらしく、背中を気に掛け乍ら辺りをきょろきょろ見回している。悪い事をしてしまった。素直に白状しようと、春菜さんに向け、少々大きめの声を出した。
「ごめん、それ、俺」
 俺は其の三つの単語を口にして春菜さんの上靴の近くで横たわっている紙飛行機を指差した。文字にして言葉を操る場合であれば大の得意になっている俺だが、話す機会の無かった女子が相手であったから、捻り出せたのはたったの三単語。
「私にヒコーキ飛ばしたの、秋山くん?」
「いや、君を狙ったわけじゃない。ゴミ箱に入る予定だった。よく狙って投げたつもりだった。悪い事をしたな、済まない」
 すると春菜さんは、ひょいと彼女の足元で寝ている紙飛行機を拾う。
「ルーズリーフじゃん。中身はなんだろなー。ひょっとしてラブレターの練習だったりして!」
含み笑いを湛え、よく飛ぶ形の折りを広げようとした。
「待て、ちょっと、ちょっと待て、それは」
 中身を知られては困る。其の飛行機に隠されているのは〝陰気なガリ勉野郎〟がこそこそ書いていたポエム、それも過去最低の失敗作品なのだから。
 だが、止めに入ろうと立ち上がるより先に、広げた紙に記されていた文字列を目にした春菜さんは、ぱあっと瞳を輝かせた。
「すごーい! 詩だあ!」
「待てって、そんな大声で……!」
 他生徒の注意なぞを引かれ、多くの人の目に失敗作を晒される羽目になるだなんて御免だ。慌てて席を立って春菜さんから紙を奪い、飛行機の形に折り直して今度こそ屑籠へ投げ込んだ。
「……恥ずかしい物、見られてしまったな」
 隠していた趣味を知られた相手は、黙って遠くから見てきて密やかに親近感を抱いていた存在だったという事もあり、気恥ずかしくなって春菜さんの顔が見られず、俺は屑籠の中に大人しく収まっている紙飛行機を眺めるばかりだった。
「失敗作だったから、見られたのは、余計に恥ずかしい」
 然し春菜さんは、俺の視界の端っこでとらえられる限りでは実に嬉しそうに無邪気な笑顔を満面に広げており、上機嫌な饒舌を回し始めた。
「こんな格好良い物を書いてるのに失敗作……っていうことは、いつもは、もっともーっとすっごい綺麗な詩を書いてるって事でしょ。失敗作にしては私からみれば格好良過ぎたし、全然恥ずかしくなんてないと思うけどなあ」
 春菜さんも同様に屑籠の方に視線を向けていたが、俯いたまま困惑するばかりの俺とは違い、今度は唇を尖らせており随分と不満そうだ。此方にとってはゴミでしかなかった拙いにも程があるといった文字の並べられ方をされた紙切れに対して、何をそんな顔をする必要があるというのか、不思議でならない。一寸、彼女の感性は可笑しいのではないかと疑いすらする。
「途中で秋山くんに取られちゃったから最後まで読めなかったけど、すっごく綺麗なリズムで言葉が流れてたよ。私だったら、あんなに綺麗な七五調に言葉を並べるなんて、難し過ぎて無理だよ。絶対、秋山くん、センスとか才能あると思う」
 言葉遊びについては独りで書き続けているうちに大きく膨れていった自信を隠し持っていたとはいえど、誰かに評価されてみたいとほんの少しだけ何処かで考えてしまっていたとはいえど、いざ実際に眼前で、しかもこんなにも大袈裟に褒められてしまっては、どういった顔をすれば良いのやら。俺は恐縮のなか、肩を竦めて控えめに答える。
「才能なんて……無いさ、そんなもの。さっき見られたやつは特に、だ。書きはしたが、どうしても気に入らないし納得も行かない出来だから、さっきも言ったが捨てるつもりで飛行機を投げたんだ」
「えー! 勿体無いよ! 秋山くんが気に入らなくても、春菜せんせいが最優秀賞とはなまるを迷いなく秋山くんにあげます!」
 ころころとよく表情が変わる娘だ。次には愉しそうな気分を目許に乗せ、春菜さんは屑籠から紙飛行機を取り出して俺を目掛けて飛ばす真似をした。
「秋山くんって、失礼な言いかたになっちゃうけど、いつもむっすりしてるし、見た目もちょっとだけ怖いし、それに私誰かとお話する機会作るのも下手っぴだし。だから秋山くんとは話した事一回も無かったから、こんなに凄い特技持ってたなんて、知らなかった。もっと早く秋山くんとお話できてたら、もっと早く秋山くんが書いた詩、見せて貰えたのかなあ。なんかちょっと、私から勇気出して話しかけなかったの、後悔しちゃうなー」
 やれやれ。俺が幾ら否定しようとも、彼女からの大袈裟が過ぎる評価は自分自身で下した評価には近付かないらしい。
 其処からは、俺の趣味をすっかりと気に入ったらしい彼女から、質問責めに遭う事になってしまった。
「休み時間に独りでずっとノートに何か書いてたのは、ずっと詩書いてたからなの?」
「そうだ」
「秋山くんって、さっきのやつ見て言葉使うの上手みたいに思ったけど、文芸部に入ってて文章書き慣れてたりするの?」
「いいや、帰宅部。独りで楽しんでるだけだ」
「でもやっぱ、書くのめっちゃ上手だよ。こんな単純な感想しか出ないくらい、私、感動しちゃったし、秋山くんの詩が大好き」
「……有難う」
 ずっと独りを選びたがっていたから、自分の事を話す機会なんて是迄には一度も無く、だから疑問符を投げ続けられて答えるものも、一言二言で終わってしまう。折角俺に興味を向け笑顔で沢山話しかけてくれているのに、此れでは少々、申し訳ない気も生まれる。
 そういえば彼女もまた俺と同じでいつも独りで過ごしていた様子だったし、春菜さん自身も誰かに自ら話し掛けるのは苦手だと教えてくれたばかりだが、実の所はこんなにも明るくてお喋りな娘だったのか。物静かだと思い込んでいた娘を自分の作品で笑顔に変えられたのだと考えたなら、やや喜ばしくもある。
「そういえば秋山くんさ、何回も現国のテストで学年トップ取ってたよね」
「ああ、そうだな」
「あれもさー、実はずーっと凄いなあって思ってたんだー。ほら、秋山くんって〝陰気なガリ勉野郎〟とかクラスの人から好き勝手言われてるじゃん。あれって絶対嫉妬だよ。そうに決まってる。だって、私も現国の授業は大好きなのに、自分なりにけっこう勉強してるつもりなのに、テストの点数は平均とかそこらへんから全然上がれないもん。大好きな教科の点数、当たり前みたいに毎回秋山くんに余裕で抜かれちゃうんだから、嫉妬もしちゃうよー」
「あ、ああ、そうか」
 其処まで喋って漸く俺が気圧されている事に気が付いたのか、はっと春菜さんは両手で口を塞いで俺から視線を逸らした。
「ごめんなさい、テンション上がってお喋りしすぎちゃった……」
「気にするな。構わない」
「ごめんね、ごめんね、秋山くん困らせちゃったよね、ほんとにほんとにごめんなさい」
何度も謝りな乍ら今度は彼女は両手で顔を覆い隠した。耳が紅いから、両手の中に隠れている表情も悟りきれている。なんだか可笑しくなって、俺はいつの間にだか喉の奥の方で笑い出してしまった。
「えっ! え、やだ、笑わないでよ……!」
「くく……、済まない、つい」
 面白い娘だ。早くより俺に話し掛けていたなら、と彼女は云った。こんな風に様々な表情を見せてくれる娘だと知っていたのなら、こんなにも愉しそうにお喋りをしてくれる娘だと知っていたのなら、彼女の意見に賛成も出来る。話し掛けないで居たのが勿体無い。実にその通りだ。人付き合いという物は面倒だとずっと考えて生きてきたが、こうして律良く会話を弾ませられるのなら(今回の場合は完全に春菜さんの主導ではあったが)、面倒臭がらずに関係を持つのも害ばかりでないのかもしれない。
「春菜さんは俺とは違って、色々な顔をするんだな」
「でもでも、今さっきの笑った秋山くんはいつものむっすりアキヤマじゃなかったよ」
「それもまた、可笑しなあだ名だな。陰気ガリ勉野郎よりは幾らかましだが」
 春菜さんとの会話は独りで書き物をしている時とはまた違った愉しさが有り、知らない間に俺も自然と彼女と似た様な頬の緩ませ方が出来ていた。〝むっすりアキヤマ〟だなんて呼ばれたくらいだ、俺の表情はいつでも無愛想極まり無い物だったのだろう。塞ぎ込みたがって厭世観の類も背負っていた俺と、春菜さんと談笑する俺とは、まるで別人かの様だった。独りの殻に篭り切る事を止して他人と時間を共に過ごすのも良い事なのだろう、そういった気が芽生えかかりすらあった。
「でも、秋山くん」
 不意と、春菜さんは俺を見上げ、再び尖らせた唇に不満を乗せていた。
「あんなに綺麗に言葉を使いこなせるのが心から尊敬できちゃったのは嘘とかお世辞じゃないよ。でも、あれも半分くらいしか読めてないし、秋山くんみたいに綺麗に言葉を使えるわけじゃない私が言うのもなんだけど……秋山くんの詩って、見た限りではなんだか少しだけ冷たく感じた。気持ちがいっぱいいっぱい込もってるように見えなかったっていうか……」
 申し訳なさそうに語尾を弱めてゆく春菜さんの感想を聞き、はっと俺は気が付けた。そうだ、確かに、彼女の言う通りだ。
 俺は沢山の詩を書いてはいたが、其の律をたいへんに好んでいるからというのもあれど、七五調に拘るばかりで自分自身の感情を表現して書いた経験は一度も無かった。情景だとか、他人の様子だとか、俺の中に在る物ではなく、俺が視覚でとらえた物・聴覚でとらえた物ばかりを題材にしていた。紙飛行機の中身だって、きっと同じパターンであったから、そんな感想を頂くにあたったのであろう。此の感想を受けての発見を反省の材料として、頭に確りと置いて次の書き物に励みたい。
「あっ、そうだ!」
 突然、春菜さんはと紙飛行機を摘んでいる方の手と暇に空いた手の両方をぱん、と大きく叩き鳴らした。
「この飛行機、持って帰ってもいい?」
「……そんな出来で良ければ、別に、構わないが」
「このルーズリーフ、秋山くんの詩が書いてあった下のほうには何も書いてなかったよね。だから私がつくった詩をそこに書いてくる! 今日見た秋山くんのクールな作風とは違うみたいな、私の気持ちをいっぱい詰めたやつ、書いてきて秋山くんに読んでもらうの!」
 何を言い出すのかと思えば。予想にも及ばなかった提案への驚きは、俺の言語を奪ってしまった。
「それでね、それでね、さっき私が言ったみたいに秋山くんにも評価してもらうの。どう? 自作の詩を交換日記みたいにするの、面白そうだな、すてきだな、って思わない?」
「……ああ、そうだな。独りで書いているよりは、良さそうだ、君の作品を見る事で、幾らか俺も書き物に於いての成長も出来そうだしな」
 快諾の他に、選択は無かった。春菜さん曰くのよう、とても面白味がありそうで、興味深い。良い返事を聞いて彼女は「やったあ! 詩のプロと合作できるみたいで超かっこいいー!」と、紙飛行機を抱えて大層なはしゃぎ方をしていた。
 翌日。朝の通勤ラッシュに揉まれている時間、いつも俺は憂鬱でしかなかったのだが、今日ばかりは違った。教室に行けば、楽しみが待っている。春菜さんの言うところの、気持ちが沢山詰まった詩が見られるのだ。
 そうして機嫌良く学校に辿り着く。真っ直ぐに向かった教室の扉を開けるなり、俺の足元にひょろひょろと力なく間抜けに何かが舞い降りた。
「あれぇ、ちゃんとぶつかると思ったんだけどなあ」
 窓際の席の方から春菜さんの声がした。此方を狙って投げたらしく、だが失敗に終わって俺の足元に緩やかに墜落した物は紙飛行機で、昨日の過去最低の失敗作と同じ形に折られていた。折り目に沿って、同じ形になる様に図ったのだろう。
「それ、昨日言ってたやつー! 暇なときにでも読んでね!」
 春菜さんは俺が紙飛行機を拾い上げる様を見ると機嫌を良くしてにこにこと屈託なく笑っていたので、俺もまた、然しこういった表情をするのは余り慣れてはいないから、不器用な完成度ではあるが。唇で春菜さんに笑みを返した。
 既にクラスにぱらぱら集まっていた生徒らが、俺達の方を眺めて不思議そうにしている。恐らくは、ずっとクラス内で独りで過ごす事を選んでいた俺が、同様に友達らしき女子と騒いでいる様子を見せなかった春菜さんと微笑を交わしているものだから、周囲からしてみれば物珍しいばかりなのだろう。
 荷物を下ろして席に着く。早速、俺は春菜さんが俺に飛ばした紙飛行機を広げていった。彼女は、こころの込もった詩を書いてくると息巻いていたが、一体どんな作風であるのだろうか。有名作家の作品ならともかくとして、同い歳の女子が書いた詩なんて、何を題材にしたのか、どんな律で並んでいるのか、何もかもに全くもって予想が届かず、胸が躍る。
 広げたルーズリーフ。色濃い俺の書いた詩とやや間を空け、下方に書き加えられていたのは、女の子らしいといった風な丸っこい筆跡の、けれど俺と似て筆圧は強いらしく濃い色をしたシャープ・ペンシルの文字で、罫線に沿って六行に渡った詩が記されていた。
 その内容を目にすると、俺の心臓は彼女が其処で使った言葉にぎゅうと縛られた。縛る縄は魅力か、恐怖なのか。自分では一寸、解らない。
『失恋心が涙に洗われたとして、いつかは乾ききってひび割れる。心のひびからは、哀しい血が染み出す。その色を飲んでくれるのが、あなただったらいいと、願ってしまう。私は、あなたをつくっているものが欲しい。その味はきっと、とてもおいしくて、せつないの。だから私は、ナイフを握って、あなたに背中を向けるの』
飛ばされた飛行機に秘められた彼女の想い。俺は思わず、其の攻撃性に絶句してしまった。
 昨日、春菜さんが俺に見せてくれた沢山の表情。その内で、にこにこした彼女の顔が、帰宅してもずっと頭の中に残っていた。春菜さんの笑顔は、目許も唇にも嬉々とした物を沢山乗せており、とても印象的な、それでいて子供みたいな無邪気な笑顔だった。その春菜さんが俺へと紙飛行機に乗せて飛ばした詩は、確かに、宣言通りに感情が詰まっていた。其れは、俺が抱えた経験の無い、攻撃的、且つ、複雑な愛情。
「どう? 私だってちょっと頑張れば詩くらい書けるんだって、これで証明できたでしょ?」
 歩み寄って来た彼女は昨日と似た、愛らしいとも呼べる綺麗な弧を唇で象っていたし、大きい方だと思う眼にも得意気な笑みを乗せている。こんな表情を浮かべられる彼女が、あの些か残酷な世界をこころに抱いていただなんて。未だ少し、俺はその事実を呑み込めないで居た。
「ねえねえ、秋山くん。百点満点だったら、私が書いた詩、何点くらいになるかなあ?」
 此方の顔を正面からとらえ乍らの春菜さんの問いで、作品を読む事で生まれた驚きと僅かばかりの未知である恐怖の混ざった世界に包まれていた俺は、深みから地上へと、ひとときで上りきった。そうだ、感情を込めていると宣言されてはいたが、所詮は作品。彼女があの様な気を秘めているとは限らないのだ。俺は動揺をどうにか仕舞いたく、紙をもとの飛行機の形に折り乍ら答えた。
「百点を満点とするなら……そうだな、七十五点というところか」
「え! 思ったよりいい点貰っちゃった! うれしーい!」
「俺は春菜さんが書いたような自由律のものは書かないから、的確な採点は出来やしないが、な」
「それでも嬉しいよー、ポエムのプロみたいな秋山くんから、そんなにいっぱい点数貰えたんだもん」
 俺の採点結果に満足したか、機嫌をとても良くしている様で春菜さんは小さな万歳をしてとび跳ねている。やはり昨日俺と会話していた時の、あの無邪気な笑顔で。然し、フィクションの可能性も大いには在るにしろ、こんな娘があんな詩を……人間は誰しも何を隠し持っているのやら。俺なぞでは他人が隠し持っているこころは、何ひとつも解りやしないものだと、たった数行の彼女の作品から教えられた。
「確かに春菜さんの詩は、春菜さんの持っている感情を確りと感じられた。俺とは全然違う世界を見ているらしい、と解る事ができた」
「うんうん、それでそれで?」
 彼女が詩を書いたのは初めてなのだろうか、それとも俺の様に独りで書き抱え、独りで楽しんでいたのだろうか。どちらにせよ春菜さんは俺からの感想には興味深そうで、先程の七十五点という実績からなるのだろう自信を満々に続きを促してくるものだから、俺はやや控えめに、感じた事を隠さずに明かした。
「……少し残酷とも取れる表現を見て、正直なところ、かなり驚いた。若しもあれに書かれていた事を実際に春菜さんが望んでいるのだとしたら……まあ、ああいう愛し方も、ありかもしれないが。春菜さんに好かれた人は、大変な目に遭ってしまいそうだ」
 すると春菜さんは、何が可笑しかったのだか腹を抱えて大笑いを始めた。如何してそんな反応をするのかがよく解らず、俺は笑い過ぎて目尻を濡らしさえしている春菜さんを視界の中央に置いて瞬きくらいしか出来ずに居たのだが。
「あはっ、あはは、フィクションだよー! 完全に私の妄想に決まってんじゃん! 本当にそんな事したら私、捕まっちゃうじゃん!」
「それも、そうか……」
「秋山くんって、結構ピュアなとこあったんだねー」
 よもや自分の感想がこんなにも彼女の笑いのつぼを刺激してしまうとは。会話とは解らないものだ。国語や数学の問題と違って、会話に於いて返す言葉には理想的展開にするべく予め用意しておくような科白はあれど、思惑通りになるとは限らないし、そして返事には模範解答が存在しない。だからこそなのだろう、他人と話をするのは面白いかもしれない、と、昨日の俺は気が付いた。今日は、もっと春菜さんの笑顔が見られるように、もっと毎日、沢山の声を交わしたいと思った。
 授業が始まると毎度俺は模範生であろうと授業をきちんと耳に入れ、板書は漏らさず、重要項には赤色の下線を定規を使って引いたりと、ずっと真面目な態度を貫いて来たのだが、今日の俺の様子は違って、今朝の出来事を浮かべつつ、しきりに窓際の席に着いている春菜さんの方を覗ってしまっていた。春菜さんは授業中は退屈そうにぼんやり窓の外を眺めていたのだが、現国の授業だけは真剣な顔をして机と向き合っていたから、少し前に彼女が云った「現国が好き」というのは本当だったらしい。
 休み時間が来るたび春菜さんは俺の席まで話し掛けに来て、俺がろくに面白い返事が出来なくとも、色々な話題を取り出してお喋りをしてくれた。昼休みもそう。学食にて昼を共にし、中庭で取り留めも無い話を交わした。なんだか、ほんの一昨日あたり迄俺たちは独りで過ごすばかりで、互いを意識していなかった薄い薄い関係だったとは、思い難くなっていた。
 授業を終え、鞄に教科書と七五調をしたため続けたルーズリーフを詰めていると、休み時間と変わらない調子で通学用の鞄を手にした春菜さんがぱたぱた此方迄掛けて来た。
「ね、秋山くんって電車通学?」
「ああ」
「じゃあさ、じゃあさ、駅まで一緒に帰ろうよ」
そう誘いかけてくれた春菜さんは、かなり照れているのか、まあるい頬が真っ赤に染まっていた。
 帰路となれば急に春菜さんは俯いたまま声を発しなくなってしまった。休み時間とは違った態度が不思議で、何度か其方へ視線を移す事を繰り返した。春菜さんは、唇を小さく開閉させて何か物を言いたげだ。俺は彼女が何かを口にするのを待つ他、施しようも探し出せなかったのだが。
「……あのね」
 ややあって、漸く春菜さんが声を絞り出した。俺は黙って、彼女の言わんとしている事に邪魔をしないよう、だた耳を傾ける。
「……今日、紙飛行機でお返事した詩はね、……全部、秋山くんのこと考えながら、書いたの」
 風の音に攫われそうな程に小さな声で明かされたのは、思いも寄らない物だった。大きく、俺の心臓は、動揺する。たった数日前迄全く関係を持っていなかった相手が、俺を? 俺を想って、あのような詩を……?
 だが、春菜さんは直ぐに俺へと笑顔を向け、「なーんちゃって! 冗談だよ。びっくりした?」と続けた。安堵したのは確かだが、胸奥で些か残念だと感じてしまった事には、強い否定が出来ない。
「でもね、あの時。秋山くんが飛ばした紙飛行機、私に当たってよかったって思ってるよ。これは本当だよ。あの時私に紙飛行機がぶつからなかったら、絶対、秋山くんとこんなに仲良しになれなかったもん」
 続いた春菜さんの声は、緊張を含んでいるのだろう、僅かばかり語尾が震えていた。やはり、言葉を交わすという事は、どの様な方向へ傾くものか解らない。
「俺も、そう思う。今回の事は、良い偶然だった」
 俺は一方的に言葉を扱うばかりの人間だった。然し今は、そんな毎日からは脱したいと思える。俺を此処へ至らせたのは、春菜さんの力だ。あの時、俺が、紙飛行機を飛ばしたから。飛ばした紙飛行機が、偶然春菜さんに当たったから。俺の総てを明るい方向へ変えてしまいそうな運命の一つに、感謝がしたい。
「明日も明後日も、ずっとずっと、紙飛行機の交換しようね」
「ああ、勿論」
「……ありがと。……あのね、でもね……秋山くんのこと、気になってるってのは、本当なの。いっぱい嘘ついちゃって、ごめんね」
 睫毛を伏せて明かした春菜さんの顔は、すっかり紅潮していた。もじもじと俯いてはいるが、その仕種も相俟って、とても愛らしいと思えた。
「……嘘、か。それは良くないな。嘘吐きばかりの悪い子には、罰を遣ろう」
 控えめな恋の告白を貰ったからといって調子に乗り、態々下らない理由を付けて彼女の手をそっと握ってみた俺も、顔がとても熱かった。



紙ヒコーキ  完

紙ヒコーキ

紙ヒコーキ

【過去作】詩を書く男子高校生×不器用な女子高校生

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-04

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