夕焼け小焼けで傷増えて

夕焼け小焼けで傷増えて

 赤いな、綺麗だな、なんていう、単純な感想を抱いているだけだった。放課後の保健室の窓から差し込んでくる夕陽もそうだし、日向が消毒液を十分に含ませた脱脂綿をピンセットの先に挟んで拭っている、彼女の腕に幾つもの傷を目にしている現在も。
「また、切ったんだ」
「うん」
 是迄保健室に行くのは珍しいほうだった日向だが、病院みたいにつうんと鼻の奥を無遠慮に突き刺してくるにおいは嫌いではなかった。決して良い香りとは呼べなく、校内のどんな教室と比較しても独特なこれもまた珍しいものなのだが、其れによって落ち着かないこころも同居しては居るものの、保健室の先生が居ない隙を狙い、誰の目も無いこの場所で、日焼けがしにくいのだろう白い肌の上。見ている日向の腕が痛くなってくるような、試験前にノートに書いた板書の下線みたいに沢山のコントラストの効いた赤色が順序良く、浅いものから深いものが様々並んでいる様子を目にしてもなお、そんな小学生の遠足の感想文の様な感想だった。
「さよの腕、いつ見てもずたずただね」
「半分はひーくんの所為だよ。今日もひーくんの所為で、昼休みに切っちゃった」
「おれの所為なのは四分の一くらいだと思うけど」
「そうだっけ」
「仕方ない子だね」
「うん」
 保健室には先生も居ないタイミングを狙って二人で此処へ訪れ、こうして手当している間じゅう、小夜は笑いも怒りもしなくて、なんだか人形とお医者さんごっこでもしているかの気分だ。
 小夜はいつでも、日向が彼女の傷跡について、これまたありふれた感想を呟いたって、感情が其処には詰まっていないふうにに微笑むだけだ。
 手当をしてやるのは決して悪い気分では無かった。先程彼女が口にした、半分は、というのは事実で、だから手当をするのは日向なりの謝罪の形でもあった。
 脱脂綿で傷をなぞっている日向の胸に、ふと、小夜と距離を縮めた日の光景が蘇る。
 本来の意を決して口に出すことはしなかった。日向は放課後の、現在と似た色で教室がすっかり染まっていた日。二人だけを残して帰路や部活動場所へ急ぎ足で去っていったあの時間。
「あのさ、おれ、隠してたけど、さよのことが好きなんだ」
すると小夜はやにわに袖を捲り、腕いっぱいの傷を晒して「わたし、こんなのだよ。それでも?」とたいして表情を変えはせず、日向の立ち位置にゆっくりと瞳をずらすだけだった。すると日向はもとより下がりがちの眉を一層垂れ落としつつ、日向は「知ってたよ。おれはそれでもさよの傷なら好きに成れる」と続けたのだった。
 小夜はぼんやりと、ほぼ日課となっていた、脱脂綿が傷跡の道をなぞってはまた戻る、といった繰り返しを眺めているだけで、そうして長い睫毛を控えめに伏すだけで。表情を変えない彼女に自分なりの愛で方をするのは、日向自身の奥底の方からじわりじわりと追ってくる、抱いていた罪悪感から隠れんぼをする心を安らげさせるうちの一つの手段でもあった。
 脱脂綿のゆっくりした動きの行方を投げ放していた瞳で追っていた小夜の中で、数ヶ月前の記憶が、脱脂綿の規則的な歩みと似た速度で眠りからゆっくりと起き上がる。
 所謂元彼。小夜の惚れ込んでしまった男。もともとは交際を始めて直ぐに連絡を極端に少なくしてしまった男の気を惹いてみたく、現在日向がそうしてくれていると同様に自分を気に掛けてくれる事を望み、先程〝半分はあなたの所為〟と零した、その残りの半分は、その男を想って小夜自身の意志で残した傷跡。それを少しでも気に掛けてくれるものであろうとの動機でリストカットに及んだ。けれども彼はそんなものはどうだって良い、と、交際という形を取っていたにも関わらず、冷たい態度。小夜は傷を自ずから新しいものを並べる選択に落ちた。然しながら男はそれに興味を示しはせず、例え小夜が「寂しいのがつらくてつらくて、こんなに増えちゃった」と携帯電話の機能で撮影した画像を送りつけども彼は一向に小夜に興味は示さなかった。交際している、だなんて言葉の上だけであって、彼が軽く口にする〝好き〟を信じるには余りにも材料不足で、何度となく小夜のこころの訴えに視線を遣るには遣ったとして、おまえは真性の阿呆だな、と顔色ひとつ変化を見せはせず、相も変わらず小夜の存在すら視界にもこころにも大して存在していないかのような振る舞いを続けた。それからというもの小夜は、何度も繰り返したなら、僅かばかりだった傷が段々と増えていくではないか、と時に自嘲しつつ、同じ行為を繰り返した。結局は最後まで男が小夜を第一番に気に掛けた日は一つも無く、やはり小夜を無かったもののような扱いを続けた。その事実を受け入れ、諦めに至る迄には随分と時間を要しはしたものの、最後には小夜の方がこころを折った。よって小夜は堪えがきかなくなり、留守番電話に「健一、もうわたし寂しすぎてムリだよ」と別れの文句を残し、其処で二人の関係はぷっつりと、いとも容易に消失した。
 そうであるからして、元恋人への一途で残した傷跡を晒した腕を許容してくれたあの日の日向の告白に対して安堵も覚え、小夜は日向へと、施錠しようとしていた感情の扉を徐々に開いていった。
 だがそれは思い込みのうちであり、小夜は日向に初めて肉体を許した日、日向の性的趣味の端を知る。そういった記憶の断片が脳にうっすら流れてくる事実を色付きのリップクリームで潤った唇を閉じたままやんわり通過させていた小夜は、唯々ぼうっと日向の行動を眺めている。
「こんなに切って、痛いでしょ」
 傷を眺めつつ日向は言う。小夜はそれを聞いて漸く、唇と目端で笑んだ。
「だってひーくんは、傷がついているわたしが好きでしょ」
その半端な笑みは、何処か痛々しさを含んでいた。
「……ごめん」
 自らの性的嗜好を認めているらしい日向は、傷口への処置を施す手を止め、俯いてごく小さな声で口にした。
 日向の性的嗜好をはっきりと小夜が知ったのは、丁度一ヶ月前だったろうか。小夜の部屋に呼ばれ、初めてうぶなキスを交わした日だった。
「傷、見せて貰ってもいいかな」
唐突に、日向は小夜の手首を取り、彼女の瞳を見詰めて言った。その時こそ小夜は怯え、若干の拒む意志を表しつつも、あまりに日向が何度も頼むものだから仕方なく袖を捲った。すると日向は何本も並んだ傷に舌を這わせ始め、小夜は自らの思いに反して甘い声を漏らしたと同時か、恋の告白で贈られた言葉はまるきりの嘘ではなかったのだ、と些かの満足を得られたのだが。あろうことか日向は塞がりかかった傷口の味を確かめ乍ら、荒い呼吸を繰り返していた。
 一風変わった愛で方は毎度、二人きりの場面での決まりごとのようになってゆく。その度小夜はこころを暖かに溶かされる思いであったのだが、それは錯覚だったと知ることになった。と、いうのも、日向が傷を愛でていた時間に、どうしてか毎度呼吸を荒らげており、時には彼が身にしていた下穿きへ右手を突っ込み、小夜の眼前でありながら自慰を始めた。やがて次第と日向の肉欲の向く方向は、小夜の傷口へ向かって走るようになってゆき、昨日などは無残な痕を沢山残した腕へと陰部を擦りつけ、数分も要さないうちに絶頂へ至ったのだ。
「謝らなくていいよ」
すると小夜は傷をいたわる日向の手を取り、笑みの中で睫毛をやや伏せる。
「傷、つけたら、またひーくんのアレ、かけてもらえると思ったの」
「ばか」
「うん、わたしもそう思う」
 確かに傷のついた肌は、誰もが抱く〝痛々しい〟などの思いとは反していやな気持ちになるどころか、好きで、それも、下半身に訴えるものがあるのだけれど。傷に陰茎を擦りつけた日、小夜は総てを許した母の様な微笑を浮かべてはいたけれど。だからといって、欠片程もの罪悪感を抱かないかといえば、そうでも無かった。
 何故ならば小夜は、日向の勘違いでもなければ、日向の肉欲の方向を呑み込んで以来、新しい傷を作っては日向に「切ったから、手当て、して」と甘えるようになっていった。その度に小夜は、はにかんだふうな頬の緩め方をして、実に幸福そうな、ちいさな笑みを湛えていた。それもそうだ、こんな風に扱われる事を望み、過去のひとへとしつこいくらいの主張を続けてきたのだから。
「おれは確かにさよのことが好きだし、さよの傷も好きだけど」
 零しながら日向は、恐らくは一番深く抉られたのだろう、処置を何度も施せども塞がりの最も遅い横走りの赤にキスを落とした。
「あはは、こうされてるとひーくん、王子様みたいだね。それでわたしは、ひーくんの為に生まれたみたいなお姫様なの」
「本当に、さよに結婚しようって格好良く伝えられる王子様、だったら良かったんだけどね」
恋人の腕を取って小夜の傷口に頬擦りをした日向の視線の向こうでは、窓を開け放していた窓のところで弱い風に合わせて薄いカーテンが踊っている。こうして小夜の傷を愛している時は最もこころの安らぐ瞬間ではあったのだが、やはり小夜に自分自身の性的嗜好を押し付けているかの思いで、感情を大人しく座らせるのは不可能だった。
「ごめんね、さよ」
 同じ事を繰り返しては小夜は日向へ二人きりの保健室で素直に甘えてはきたものの、此方の嗜好が原因でそうさせているのかもしれないと考えていれば、罪悪感だって背中に負ってしまう。きっと、愛されたくて。きっと、おれの興味を引きたくて。きっと、自分を離したくなくて、ある種の献身をみせているのかもしれないと思っていれば。
 然しながら、いつの間にだか芽生え育っていた嗜癖は、容易に覆えせるものでは無かった。
「ふふ、本当にひーくんはわたしの腕がすきだね」
可笑しそうに、小夜はくすくす笑う。にも反して日向は、ぺろりと傷をひと舐め、そうしてから眉を詰めてよく熱された吐息を漏らした。
「だって、寂しかったんだ。手当てしてくれるひーくんの、せつなそうだけど、ちょっとだけ嬉しそうな顔、見たくて」
「顔、ねえ」
 小夜の言葉通りだ、と、改めて日向は自身の歪みを知る。彼女ごと愛でようと思っていたのに、結局のところは。うまく嘘を吐けない性格が、表情に出ていただなんて。
「さよはおれのこと、意外とよく見てくれてたんだね」
「うん、だって、好きなんだもん」
 例えばこの一往復の言葉を他人が耳にしていたなら、お熱い関係だな、なんて思うだろう。けれど現実としては、互いをうっとり見つめ合うでもなければ、手を繋いだり抱き合ったりといったそれは無い。然しながら小夜はそういった愛で方を受けずしても、十分な満足を胸中にじんわりと広げていった。
 そうだ、これが、あのひとに対して、求めていたことなんだ。相手はあのひとではないけれど、手首に残した傷を、どんなにも歪んだ理由であっても愛でてくれるのだから。
「ひーくんは、傷が好きなんだよね」
「……うん」
「わたしの傷をみたら、こころが熱くなっちゃうんだよね」
「そう、だね」
「じゃあ、わたしが切らなくなったら、ひーくんはどこか遠いところに行っちゃうかな。傷に、興奮しちゃうんだもんね、しょっちゅう傷をつくる人なんて、なかなかいないし」
「正直、今もすごく興奮してる」
「知ってるよ」
 小夜は頬を染め、俯いて微笑を桃色の唇で象った。まるで、眼前の恋人からくさいくらいの愛情を意する文句を聞いたかの様に。日向はというと、頬擦りをした腕の根の傷に目を奪われたまま。
「わたしもね、今こうしてひーくんの目の中にわたし……わたしがひーくんに手当てして貰った傷が、ひーくんに独り占めされてるのが、凄くしあわせで、どきどきして……だからね、ひーくんは、罪悪感なんて持たなくていいの」
 小夜は頬を寄せてくる日向の髪をそろり、そろりと撫で梳きつつ続けた。
「切ってる時、だいたい痛いのは肌じゃなくて、こころだった。でもね、ひーくんが好きだよって言ってくれるなら、わたし、腕、切り落としたっていいの。わたしが好きなら、たくさんキスしようよ。わたしの傷が好きなら、わたしはたくさん、ひーくんにわたしの傷をあげる」
 小夜の声はまるで、壊れかけたオルゴールの様に、日向の耳には微弱にしか届かない。傷口に寄り掛かる日向の言葉は、それを耳にして喉まで出掛かる否定の念も奪われる。日向に時間が止まった錯覚をも与えたが、開いた窓から吹き込んでくる生ぬるい風が、日向の錯覚と些かの歪曲を含んだ小夜のほんの僅かの距離を横切ったなら、このふわふわとした、夢の中に立っている日向が落ちた錯覚を緩やかに覚ませてゆく。
 もとより二人きりであるこの場所は、日向の嗜癖を晒す事が出来、また小夜がそれを喜ぶ空間。消毒液の匂いだって、小夜にとっては恋色の世界に落ちる材料のひとつでもある。
「でも、おれは、自分が変なんだって自覚はしてる」
「どうして?」
「さよを好きになったのは、さよがリスカしてんの、知ったからっていうのが一番大きい理由だし」
ばつが悪そうな弱い吐露の語尾が震える。何処か儚げな少女を、自分の手の内から離したくはなかったから。然しながら小夜の方には、そのような心算は欠片程も積んでいない。ただ、傍に居て、例えその動機が、小夜がクラスの友人の恋愛話から耳にしているようなそれとはまるきり違うものだったとしても。
「いいよ、変でも。誰だって、隠してるだけで〝普通〟とは真逆の変なところはあるよ。そもそも、〝普通〟なんて、誰が決めたの?」
「だって、さ」
「いいの。わたしなんかでも、わたしの一部分だけでも愛されてるって思ったら、凄く嬉しいもん」
日向は緩慢に頭を持ち上げた。するとその瞳は潤んでおり、今にも涙を零しそうだった。そんな彼に小夜は変わらず微笑を向け、小首を傾ぐ。
「わたしだって、普通じゃないよ。たぶんね、ひーくんと同じくらいか、それ以上に。だから、ひーくんは泣かなくてもいいんだよ」
小夜もきっと、泣き出したい気分なのだ、そう悟った日向だったが、小夜は困ったふうに眉尻を下げ、続けた。
「わたしね、わたしのこと見てほしくて、手首とか、腕とか、色んな場所切ってたんだ。靴下に隠れちゃってるけど、足首にも傷、あるよ。でもね、……ひーくんに言うのもなんなんだけど、元彼と付き合ってたときにも、見て欲しくて、心配して欲しくて、それから今のひーくんみたいに手当てされるのが、夢だったもん」
「だからって自分を傷つけるようなことするのは」
「言ったでしょ? わたしも変なとこがあるんだーって」
日向の片手を取り、脱脂綿を挟んだピンセットを小夜は手にする。そうして自らの傷に脱脂綿をあてがい、心苦しげに明かした。
「元彼はひーくんみたいにしてくれなかったから、こうやって、家でひとりで消毒してみたり、包帯巻いてみたり、色々したよ。その時間はとってもさみしくて、むなしくて、わたし何やってるんだろう、って、何回も後悔したの。でも、止められなかった。もっと深く切ったら、きっとわたしのこと見てくれるかなって思って。ま、ぜーんぶ失敗に終わっちゃったんだけどね」
 小夜の笑みにやや自嘲の味が混じる。その表情を見ていては本当に泣き出してしまいそうで、日向は俯いて肩を震わせた。相も変わらず保健室のカーテンは揺れていたが、射し込む日光は僅かばかりの赤を含んでいる。だがその色彩を浴びていても小夜の白い肌には、日向の胸を刺し抉る顔つきには、何ら影響を及ぼさない。俯いてい乍らして視界へ控えめに入ってくるそれを受けた日向は、なんだか全身の軋む思いをする。
「でもおれは、傷がついていないさよだったら」
「うん、知ってる」
小夜は、日向が彼女へ肉欲の矛先を向ける際に毎度そうしているように、じいっと傷を見詰めたのち、ピンセットの尻で手首を裂く真似をした。
「ひーくんがわたしのこと見てくれるなら、わたし、いつでもカッター持っておくし、もっと深いのが好きだったら、カミソリも用意しちゃう。ひーくんと保健室でこうしてお話するの、すごく楽しいもん。だから大丈夫だよ」
「カミソリ、なんて、余計に痛いんじゃないの」
「痛くってもいいよ。わたし、ひーくんにいっぱいいっぱい愛されたい。たとえ傷だけが目当てだったとしてもね。それに、わたしは、痛い恋しかできない星のもとに生まれたんだから」
そう言われたとして、日向の目の色からは罪悪感が消え切らない。この場に充満している消毒液の匂いも、ピンセットを持った少女の行動も、苦しみを増幅させるばかりだ。五感で得られる総ての物事に責められているかの気分だった。自分が傷を愛好する嗜癖を持ってさえいなければ。あの日小夜を呼び出し、本心を隠して〝好き〟と伝えなければ。距離を縮めていくうち、辛抱ならずに小夜の傷だけを愛撫したりしなければ。そうすれば小夜はきっと、こんな科白を口にする事も無かっただろうに。
「あはは、今さよのことイタイ中学生だーって思ったでしょ。今の科白は忘れて」
 だんまりの日向に小夜は初めて声に出して笑った。此れだって、彼女の抱いている感情を隠す仮面なのかもしれないと思えば、日向は浮かびかかった涙を重力に任せる事しか出来なくなってしまった。
「ごめん、ごめんね、さよ」
いつしか日向は小夜の制服の腕に縋り付き、嗚咽を上げていた。
「科白は忘れて欲しいけど、わたしの事は忘れないでね」
 日向の頭は抱き寄せられ、小夜の腕に包まれる。よしよし、日向は何も悪くないんだよ、と言わんばかりに、小夜は再び優しい微笑みを浮かべた。然しながら日向の泣き姿を見ていれば小夜もまた何処かで身が、こころが絞め上げられるようで、語尾がやや震え、慰めの文句も弱くなってゆく。
「わたしの傷も、わたしに他ならないんだから。傷だけでも良いから、ずっとずっとわたしの事、考えてて。ひーくんの頭の中に、ずっとわたしを置いていて。できれば真ん中の方がいいけど、端っこだって構わないよ」
 其処まで伝え終えれば、涙を落としていた日向の顎を持ち上げて小夜は口づけを送った。触れ合うだけの、けれど情愛が充分に込められたキス。日向の鼻腔を擽ったのは薬用のリップクリームと然程変わりのない匂いであったが、保健室を満たしていた背を向けたくなる匂いではなく、心臓から順に蕩け崩れてしまいそうな香り。小夜のやわらかでかさつきの無い唇は、直ぐに離れはしなかった。日向の自虐的な部分を許容し、同時にしてその胸から発せられる自責が、今以上に膨らむのをやんわり制止するような接吻だった。
「わたしがこうして、ひーくんにキスするから。だからね、ひーくんは、わたしの傷に、いっぱいキスして。わたしの過去に残したぶんも含めて、わたしの一部分を、めいっぱい愛して。ね。そしたらわたしは、すごく幸せだから。ちゃんと、こころがいっぱい満たされるから」
ぎゅう、と、永遠に離さないと言いたげに、小夜はきつくきつく、弱々しく自責を続ける少年をきつく抱きしめる。日向の落とす涙が、小夜の制服を湿らせてゆく。 
「でもね、ひーくんは」
 顔色を悟られたくないのか、小夜は一層日向を抱き締める力を強める。無論小夜の思い通りにその表情を知る事は出来ず、黙して鼻を啜るばかりだ。
「わたしとえっちな事するとき、熱くなってるのって、ちょうど、一時間だよね。わたし、けっこう欲張りだから。もっと、傷だけでも、わたしに夢中になってくれてる時間がたくさん、一時間以上は欲しいな」
 普段、控えめな小夜は、日向に対して何かしらの希望を口にした日は極端に少ない。そんな彼女が今この瞬間をもって溢れさせた思いは恐らくは何よりも強い願いで、その願いにしても多分に交際関係にある男女間では当たり前であろう事柄。その程度の満足も与えられなかったのかと自覚が至るや、小夜の胸で取り戻しかかっていた落ち着きもすうっと引いてゆき、ごめん、さよ、本当にごめん、と何度も嗜癖に呼ばれた罪を悔やんだ。
「泣き虫ひーくんがさっきわたしの傷に興奮してるって言ったのも、きっと保健室から出た頃にはなくなっちゃうね。一時間じゃ足りないよって言うのは、……贅沢すぎる、の、かな」
詰まりづまりになってゆく、小夜の呼吸。胸から顔を上げ、伸し掛った罪の意識と一緒に日向が小夜に意識を向ければ、小夜は、ひらひらと軽い舞いを繰り返している白カーテンの方をぼうっと眺めていた。彼女の眼には濁りが目立ち、長い睫毛は哀愁のマスカラで彩られている。
「わたしは顔なんて全然可愛くないし、……ほら、例えば……クラスで言ったら春菜ちゃんとかさ、すごく可愛いし。それに料理が上手なわけでもないし、わたしって自分に自信が無いんだ。だからわたしの傷を、っていうのでも好きになってくれたのはすっごく嬉しいの。自分は生きてたっても良いんだ、誰かが好いてくれるだけの価値が全然無い訳じゃないんだ、って思えるの」
 舞うカーテンから視線を逃がす様に、或いは、切れ切れに伝えてゆく想いを噛み締めている様に、小夜はゆっくりと睫毛を閉ざした。
「……ひーくん、抱きしめたら、あったかくて、しあわせで、溶けちゃいそう。……この純粋な、〝普通〟みたいな幸せな感じだって、保健室から出ちゃったら終わるのかな。ううん、きっと、終わっちゃうね」
「寂しいこと、言うなよ」
「もう少しだけ……ひーくん、もう少しだけ、此処にいようよ。此処にいる理由、今からちゃんと作るから」
 小夜はピンセットを傍らに休める代わり、下げてきた学生鞄よりカッターナイフを取り出した。日向は彼女が何をせんとしているのか、理解は届いていた。けれども彼女の行動には、口を挟まない。身を、捧げられる。心を、捧げて貰える。充足する胸の内。袖捲りをした小夜の腕に在るものは、彼女が求めた数だけ在る。彼女は、過去味わった寂しさを取り戻そうとしているのかもしれない。
「ちゃんといっぱい、わたしの此処、見ててね」
差し出すふうに晒された手首。その上を、カッターナイフの先端が滑ってゆく。結構に力を込めているらしく、カッターナイフを握る手は震えていた。
 過去の傷の上から徐々に線状に滲み広がってゆく、血液。ひとしずく手首を伝う赤からつい、日向の視線は釘付けになる。
「ねえ、ひーくん、好き。大好き。わたしに、たくさん、傷、残してね」
日向の視線が向くところへ、小夜もまた視線を落とす。たった此れだけの事で日向が自分に落ちてくれるのなら、痛くもなんともない。二人だけを包む消毒液の匂い、傾いた太陽だけが照明の空間。
 その端に置き話されていた小夜の学生鞄から、生地を通してこもった着信音が小夜を呼んだ。発信者は、小夜がかつて愛した男だった。けれども恋した相手に身を捧げた小夜の耳には届いていない着信音では、二人きりの空間を、それだけのものが切り裂く事はできなかった。



夕焼けこやけで傷増えて  完

夕焼け小焼けで傷増えて

夕焼け小焼けで傷増えて

【過去作】傷フェチ男子高校生×リストカッター女子高校生

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-04

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