津田さん、頑張りましょう

いちか

  1. 1
  2. 2
  3. 3

 ただいまと言ったことがない。家に帰ればドアの鍵はいつも閉まっていて、冷めきった夕食を温めて姉と二人で食べた。そのうち夕食は用意されなくなり、制服姿の姉が毎食作るようになった。掃除と洗濯は俺の担当だった。やがて姉が結婚して家を出るというので、俺も一人暮らしを始めた。それも二年ほど続いている。
 だからこれから先も、この生活は変わることはない。ひとつの変化を除いては。
「あ、津田さん。おかえりなさい」
 棒アイスを歯でくわえたまま、同居人の異父兄弟は振り返る。猫みたいに大きな目を、二、三度瞬きさせて。

 二ヶ月前、母の葬儀には自分が出席するから俺は来なくていいと、姉は言った。もう長いこと会ってもいない母だった。病死と聞いたが、詳細までは知らない。姉は、外に出るのを嫌う俺に気を遣ったのだろうと思った。昔からやさしかった。
 その母の別の息子、つまり異父兄弟の存在については知っていた。海城利苑という名前も。再婚相手の会社役員との間に作った子どもで、俺とは似ても似つかぬきれいな顔をしている。姉の結婚前、母がまだ残していた荷物を取りに戻った際に、その海城を連れてきていた。少しばかりの会話はしたような気がするが、覚えていない。歳は俺と五つ違いで今二十だから、再婚の時期を考えても明らかに計算がおかしかった。細かいことは俺は知らないし、興味もないけれど。
 そんな海城が俺の部屋に転がり込んできたのは、母の葬式の翌日のことだった。
「津田誠さん、ですか」
 夜、よくないとは思いつつ、生ゴミじゃないからと言い訳して、プラスチックを詰めたビニール袋を提げて外に出た。まだ夏の初めだというのに、暑い夜だった。ゴミ置き場のネットへ手ごとくぐらせたとき、高めのハスキーボイスが真横で俺の名前を口にした。ぎょっとして身体をこわばらせる。近づく足音は認識していたが、向かう先が自分に続いているとは誰だって思わない。何の用があって話しかけられる必要があるというのか。途端に恐ろしくなって、中腰のままごわついたネットから指が離れなかった。
「あの俺、海城利苑と言いますが。母……留美子さんの再婚相手の息子ですけど」
 その名前と関係性に、遠い記憶が反応した。俺の緊張をやや解く程度の心当たりは、ゆっくりと俺の姿勢を直立二足歩行に戻す。首だけを右方向に動かそうとしたが、ぎぎっと音がしそうなほどぎこちなかった。
 隣には、確かに見覚えのある、俺よりも背の高い目鼻立ちの整いすぎた男が立っていた。記憶よりも大人っぽく見えた。大きくて黒い目が、暗闇で光っている。まるで猫みたいだと思った。
「あっ住所は榮子さんに教えてもらいました」
 慌てて付け加えるように言う。
「それで津田さん、あの……申し訳ないんですけど、しばらく俺を津田さんちに置いていただけませんか」
 猫と目が合った。
「どういう意味」
 それが動揺した俺がその日初めて発した言葉で、すっかり硬直していた喉はうまく機能しなかった。かすれた音がかろうじて出た。
「家にいられなくなっちゃって」
 へらっと笑っても、声に不安が見え隠れしていた。海城は大きめのショルダーバッグを肩にかけ直し、急に頭を下げた。
「お願いします」
 姉はきっと、弟なら突然押しかけても入れてくれるとでも言ったのだろう。俺は下されてもいない命令を想像し、それに従うことに決めたのだった。
 それからは、部屋の中に二人の人間がいるという以上に描写すべき事柄も抱くべき感情もない、まさに普通の日々が続いていた。必要最低限の会話と互いに関わりにいかないだけの距離。他人と暮らすのも一人で暮らすのも、俺にとっては大差のないことだった。結婚する前には絶対同棲したいという、バイト先の女子大生の話を思い出す。一緒にいるうちに相手の嫌な部分が見えてくるから、そこで結婚生活がやっていけるかどうかを判断したいとかなんとか。だが俺が二ヶ月間同じ男と一緒にいたところで、何かが見えてくることはなかった。

「飯買ってきたんで、よければ」
 ビニール袋に目をとめた海城が、よかった! と声を上げた。
「マジですか! ありがとうございます。俺もそろそろ買い行こうかと思ってたとこで」
 アイスを食べかけていた海城に構わず、俺は駅前で買ってきた二人分の牛丼を袋ごとローテーブルに置いた。彼はいつもと同じように、りんごマークのノートパソコンに図と文字を配置して何やら悩んでいたらしかったが、すぐにぱたんと閉じて袋を覗く。
 海城の分まで飯を用意したことはなかった。自分たちの生活の領域をそれぞれ区切って今までやってきたのに、なんとはなしに気を利かせてしまった。今日は急遽呼ばれただけのバイトで早く上がれた、この時間ならどうせ海城も飯はまだだろう、などと考えたのだ。牛丼を買ったときの俺は。
財布とスマホしか入っていないバッグをベッドに放り投げ、台所まで手を洗いに行く。その間に、海城はアイスを食べきって棒をくわえたまま、牛丼容器のフタを片手でぱかりと外していた。
 ここまで余計な会話も味気もないルームシェアが、この部屋以外に存在するとは到底思えない。ルールを敷くまでもなく、海城は俺の生活に勝手に合わせて住み着いた。当初はプライベートな空間はかけらもなかったのだが(何せここは一室しかない)、海城が気兼ねしたので、バスタオルをかけた室内物干しを仕切りとして狭い部屋を分割した。海城は部屋の隅に三角形のスペースを物干しで作り、「俺はここでいいです。寝られれば大丈夫なので」とバスタオルの隙間から顔を覗かせていた。初日は余りの毛布しかなくて寝心地は最悪だっただろうに、文句も言わず、次の日にはどこからか敷き布団と枕を調達してきていた。俺は手も口も出さなかった。
 築二十五年のこのアパートは線路から近いわりに静かで、電車が通過していく軽い振動しか伝わってこない。隣の低いビルが壁になっているのかもしれない。その上テレビも置いていないから、いつも静まり返っていた。互いに肉と米と微々たる野菜を咀嚼する音が響く。ひんやりした風が、半分開けた窓から吹き込んできた。
「津田さん」
 いつの間にか夏の気配が薄くなったとぼんやりしていたところで、海城が手を止めて俺を見た。
「たとえばの話……どうしようもないときって、津田さんならどうしますか」
「何の話だ」
「たとえばの話です」
 具体性を欠く話題に、俺は怪訝さを隠さなかった。
「言っている意味が分からない」
「ですよねえ」海城はいたずらっぽく笑い、「津田さんはそういうところが、いいと思います」
 相変わらず、言いたいことのはっきりしない男だった。初日以来ずっとそうで、遠回しに話しては相手に察してもらおうとする傾向がある。おそらく無意識。普通ならそこを汲んで突っ込んで聞いてやるのだろうが、あいにく俺は姉と違ってやさしい性質ではない。はあとかうんとか適当に流すと、海城もそれ以上何か言ってくることはなかった。
 汁気の多い米に肉と玉ねぎをのせ、ささくれ立った割り箸でぎゅっと押さえた。二人で同じものを食べるのさえ、これが初めてだった。その程度の関係性だというのに、海城は必ずおかえりと言う。俺はどうしてもただいまが言えない。慣れていなかった。誰かが必ず出迎えてくれることに、また、それをする人間がいる家というもの自体に。もはや俺とそれらとは、相容れることのできない別世界の物質だった。俺と海城は、父親が違うこと以上に、違った。ホモ・サピエンスのオスであるという明白な事実を除いて、共通点を探すのは難しかった。


「津田さん、最近……というから先月くらいから、帰るの早くなりましたよねえ」
 秋が浸食を深め、夜は薄手の上着だけでは肌寒くなった。りりりと虫が鳴く場所を、耳だけで探しても見つけられない。
バイト帰り、同じシフトでホールにいた女子大生と一緒になった。普段から話す仲ではないけれど、何年かの付き合いにはなる。まあ帰りとはいっても駅からほんの数分だから、何年をトータルにしたとしても一時間に満たないほどだ。
「そうですか」
 俺は女子大生の発言を考えてみたものの、思い当たる節はなかった。そのまま口に出してみたら、相当そっけない返しになった。
「彼女でもできたのかと思ってました。違うんですか?」
「できてないです」
 よく笑う女子大生が冗談めかして訊いてきたが、俺のおもしろみのない返事に退屈したようで、
「そうだ! 映画観てくれました? 前に言ったやつ」
 何だっけ。しばし考え、思い出す。
「あ……ごめん。忘れてました」
「あはは、全然いいですよ! それじゃあ、おつかれさまでした!」
 彼女は振り向きざまにぺこりとおじぎをして、人気の少ない駅へ入っていった。
 確かに映画の話をした覚えはあったと、駅舎の脇を通り過ぎながら記憶をたどった。だが何を観ると話していたか。思い出せないまま、俺は鍵を鞄にしまって部屋のドアを開けた。
「あ、おかえりなさい」
 海城は俺の薄汚れたTシャツを畳んでくれていた。昼間雨が降ったから、気付いて取り込んだようだった。物干しにはハンガーがいくつかかかっていた。
「悪い」
「大丈夫です。終わったら、そこ置いときます」
 俺と違って人好きのする笑顔を見ると、今でもとてもじゃないが血縁関係にあるとは思えなかった。その印象は、初日からずっと変わらない。
 海城がここで暮らすようになってすぐ、俺は姉の榮子に電話をかけた。ツーコールで聞こえてきた声は元気そうで、連絡するなんてめったにないことだったからずいぶん喜んでいた。海城利苑が来ているが何かあったのかと、俺は尋ねた。
「利苑くん、お父さんに家追い出されたらしくて。私も詳しいこと聞いてないけど、まこちゃんの住所教えてくれって言うから……ごめんね、本当にまこちゃんとこ行くかどうかも分からなかったから、何も言ってなくて。私のところじゃ面倒見てあげられないし。そのうち帰ると思うからさ、しばらく置いておいてあげてほしいな」
 決して嫌な気はしなかった。海城の「家にいられなくなっちゃって」を、無視することができない榮子が好きだった。他人の家族だから必要以上に関わることもできない。それゆえに、海城のやりたいようにさせたのだ。やっぱり榮子はやさしかった。
 二ヶ月前の海城は、毎晩のように泣いていた。物干しの奥からは、押し殺した嗚咽がずっと聞こえた。まだ母親が死んで間もなかったから、当たり前の反応なのかもしれない。俺はひどく薄情で、大丈夫かと声をかけるような真似はしなかった。だが、それが一般的に正しい判断ではないか。それに人の事情を詮索できる立場でもない。ただの部屋を一部貸しているだけの人間だ、必要以上に首を突っ込みたくもなかった。一ヶ月もすれば、声はしなくなった。
「っ……う、あっ、うぅ……、」
 だから、これを聞くのは久しぶりだった。俺は身体を起こしかけたが、声はかけなかった。
 音楽プレイヤーを、イヤホンのコードを引っ張って手元までたぐり寄せ、音量を上げる。聞き飽きた騒がしいボーカルも、別のものをかき消すにはちょうどよかった。


 朝起きると、利苑はいなかった。
「……あれ」
 視線をめぐらせると、テーブルにラップをかけた皿とケチャップが置いてあった。そばにはちぎったルーズリーフ、「食べて下さい」の文字がうようよとのたくっている。あまりにも汚くて、なんだか笑えた。ラップの内には、しんなりしたキャベツとスクランブルエッグがあった。俺が朝あまり食べないことを、海城は知っていたらしい。
 それにしても、なんでいきなり飯なんか。理由は分からないが箸を手にとった。いただきますと手を合わせる、あいつの真似までして。
 ケチャップをほんの少し垂らす。スクランブルエッグは冷めていてもおいしかった。塩胡椒の味付けが好みだった。家で調理されたものを食べるなんて、いつぶりだろう。榮子と暮らしていた頃まで遡るはずだ、俺は早々に自炊をあきらめたので。こんなことなら、どうせ一緒に生活しているのだから毎日作ってもらえばよかった。
 いや。
 いやいやあり得ない。それはない。初めて考えたよ、そんなことは。
 寝起きの頭をぶんぶん振った。俺と海城とは何ら特別な関係にはない。強いて言えば血縁と同居人、だが友だちでもないし、一時預かりにすぎない。迷子センターと同じだ。妙な希望を抱いてみたところで仕方のないことだ。
「……寝るか」
 海城はきっと大学に行ったのだろう。どこのとも何のとも知らないが、たぶんそうだ。
 卵とキャベツを平らげ、皿もケチャップもそのままにして俺はまた寝転がった。牛になるよと誰かに怒られたことを思い出しつつ。
 カフェのキッチンなんてたいした仕事でもないのに、一日立っていればそれなりに疲れもするらしい。休日は泥のように眠ることが増えた。十代の頃よりも落ちた体力を実感する。かれこれカフェでのバイトは四年になる。大学時代の同期はみんな当たり前のように就職していったから、俺だけが時間に置いていかれて留まっていた。もう手は届かない。伸ばす気もいつの間にか失せた。金だけが、使わないので貯まった。このままバイトを続けて貯金が増えて、その先どうしていくかなんて何も考えていない。就活生の頃、これからの自分の将来のビジョンについて書かされた。思いつかず、俺はシャーペンを握って空白のままにしていた。内定のない四月を迎えてから、まったくその通りの人生を送っている。今後悔しているかとは、誰も訊いてこなかった。
 結局俺はこの日、この惰眠の貪りを電話一本で中断させられ、着替えて出かける羽目になった。ヘルプに呼ばれたのである。浅い眠りから覚めることがなければすっぽかせたかもしれないのに、あいにくどちらかというと神経質だった。それで夕方帰ってきて、夕飯は後で調達しようと、また寝た。寝て起きたら、すっかり夜になっていた。
 海城が帰ってきていた。
「あ、津田さん。お腹空いてませんか?」
 テーブルを隔てて、覗きこむみたいに海城は身体ごと傾けながら尋ねてきた。俺は寝そべったまま、
「空いてるっちゃ、空いてる」
「チンジャオロース作りすぎちゃたんで、これ。食べません?」
 やけにこんもりと盛ってある皿を見せ、恥ずかしそうに笑った。確かにいい匂いがただよっている。
 俺がのろのろと起き上がる間に、海城は別の取り皿と控えめに盛った飯と箸を用意してきて、
「俺風呂入ってきますんで、食べ終わったら流しに置いといてください。俺洗いますから。あとそれ、市販の素使ってるんで入れたのは豚肉とピーマンだけなんですけど、津田さん嫌いなものありますか? ピーマン平気だった?」
「いや、子どもじゃあるまいし……」
 海城は、それならよかった、とくすくす笑いながら風呂場の扉をぱたんと閉めた。
 俺は、あっけにとられていた。こんな奴だっただろうか、海城は。今までもこの家のご飯は俺が作ってきましたよ、みたいな自然さ。こんなにしゃべったところも初めて見た。違和感。形を持たないふわふわした違和感が、胸にゆっくりと落ちていく。
 シャワーの流れる音を聞きながら、温かいチンジャオロースをつまんだ。うまかった。

 インターホンというものは、突然以外に鳴りようがない。鳴りようがないにもかかわらず、その瞬間、俺はびくりと肩を跳ねさせた。本屋に出かけるかどうしようか、鞄を置いたままで迷っていたこのタイミングもまずかった。
 さて、宗教か新聞か。急に立ち上がるとめまいがした。壁に手をついて玄関に向かう。インターホンの機能をまったく活用したことがない俺は、室内の受話器なんて無視して、正体不明の客のためにドアを開けた。夕方の日光が強く差し込んでまぶしかった。
「あれ……すいません、間違えました」
 宗教でも新聞でもなかった。そんなものとは比べものにならないほどの光景に、俺はうろたえた。
 サイドを刈り上げた金髪、耳には数えるのが面倒な数のピアス、小柄な体格に合っていないだぼだぼの服。隙間から、首にかかる銀のチェーンが見えた。見上げてくる目つきは悪く、眉が薄い。明らかに、俺が関わったことのない関わるべきではないジャンルの男がそこにいて、不思議そうに首を傾げていた。
 状況がまったく理解できない。不思議そうな顔をしたいのはこっちだった。訳も分からず焦りが募る。
「海城って名前の人、このへんいません? 部屋番号聞き間違えたみたいで」
 知った名前が出たことに、思わずどきっとした。知り合いか。確かに歳は俺より下に見える。だが奴の友達にしては、いくらなんでも雰囲気が違いすぎるのではないか。
「海城なら、まだ帰ってないですけど」
 俺はきりきりと痛み始めた心臓を押さえて、警戒しつつも差し障りのない回答をしたつもりだった。それが精いっぱいだった。金髪ピアスは何かに納得したように品のない笑みを浮かべ、
「ああ……あんたが利苑の恋人?」
「は?」
 恋人。恋人?
「あれ、すいません……これも間違いか」
 ますます話が分からない。恋人ってなんだ。
「……帰ってきたら、来たことは伝えておきますけど」
「いいっすいいっす。ここにいること分かればそれで。どうも」
 金髪ピアスは片手を挙げて後ずさりしながら、足早に階段を下っていった。かかとを引きずるような足音が聞こえなくなった頃、俺はようやくドアを閉めることができた。視界は暗くなり、慣れ親しんだ静けさが戻ってくる。
 今のは一体何だったのか。誰だったのか。ものの数分にも満たない出来事だったのに、俺はひどく困惑していた。ドアノブから手を外せない。握りしめた手には力が入りすぎていて、しばらく経ってからやっとの思いで手のひらを見つめることができた。口の中がすっかり渇いていた。まだ震えがやまない。ドアに背をつけて、深呼吸を繰り返した。
 俺には、海城について知らないことが多いようだった。実は海城は不良みたいな人種なのか? じゃあ俺の知る、おとなしく控えめでまじめできれいな顔で笑うあれは。
「津田さんは善意の第三者ですよ」
 いつか、そんな話をした。
「何それ」
 確か先月だ。
「何も知らない人のことです」
 移動販売のパン屋が、ドップラー効果を全開にしてアパートの横を過ぎていく。鳩がどこかで鳴いている。窓を開けていないから音が遠い。
 恋人? と聞いてきた金髪の声ばかりが耳に近く残っていて、離れなかった。
 俺は金髪の男のことを海城に言い出せなかった。だって、人を探して家を訪ねて来るなんて、どう考えても普通の状況じゃない。それにもし話すことで海城にとって事態がよくない方向に進んでしまうとしたら、いやむしろ逆もあり得る。第一、事態って、よくないことって。何だそれ。
「津田さん? どうかしたんですか?」
 餃子を皿に盛った海城が、心配そうに俺を見ていた。
 あの異様な訪問のあと、出かける気も削がれて俺はしばらくぼうっとしていた。何を考えるでもなく、金髪の男の言葉を反芻して、うたた寝して、そんなことをしているうちに海城が帰ってきて夕食の支度を始めた。
「なんでもない」
 こう答えるほかなかった。そうだろう。
 海城は「いただきます」と言ってから、椀を持ち上げて箸でもやしを口へ運ぶ。たったそれだけの所作から、育ちの良さがうかがえた。あの金髪とは全然違う。
 恋人。家出。探しに来る金髪ピアス。
 あらゆる情報が脳内をどたばた駆け回ってうるさい。
「海城」
 なんとなく、後に引けない予感はしていた。
「なんれふ?」
 餃子を口に半分含んだまま返事をされた。
「金髪の奴が、おまえのことを探しに来た」
 海城は明らかに顔をこわばらせた。それでも噛みちぎった半分を、しばらくもぐもぐさせていた。
「いつですか」
「今日の夕方」
 ごくん、と音が聞こえそうなほどの勢いで、海城は餃子を飲み下した。そして立ち上がると、物干しの奥からバッグをひとつ手にして戻ってきた。初日持っていた、大きめのショルダーバッグだ。ずっとその部屋の隅にあって、開けるのを一度も見たことがなかったそれ。
海城は、俺に見せつけるようにゆっくりとジッパーを開けた。
「……何、これ」
 現金だった。しかも大量の。輪ゴムで縛った、千円から一万円までの乱雑な札束が中にいくつも入っていた。
 海城は小さく笑い声を立てた。
「今でも津田さん、誰にも興味がないですって目をしてる。だから俺、津田さんには言います」
 俺は大勢の野口英世や福沢諭吉にじっと見られている気がして、バッグから目を逸らして顔を上げた。海城は、声そのままの、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「俺は人を殺した」
 大きな猫みたいな目が、少しだけ細められる。
「俺を巻き込むなよ」
 考えるより先に、言葉が飛び出した。遅れて言葉に見合う思考を構築していく。
 何かがある。絶対に何かやばいこと。犯罪なんてごめんだ。俺はただおまえがうちに転がり込んできたから泊めているだけで、それ以上の関係じゃない。実際何もお互いに干渉なんてしてこなかった。それに善意の第三者なんだろう、そうおまえが言ったんだ。俺は何も知らない。知らない。本当に知らない。
 これが台詞に正しい。点と点を線で繋ぐ小学生の宿題みたいに、言葉と思考を組み合わせて、正解までの道筋を考えた。正しさだけがここにあるように。
「巻き込みたくなっただけです」
 海城は、こんなふうに恐ろしく美しい顔をしていただろうか。さっきまでの彼を、俺は思い出せないでいる。
 現金のバッグを海城は乱暴にどかし、急に俺との間合いを詰めた。札束が床にいくつか散らばった。
「ねえ、津田さん。俺ね、津田さんのこと大好きですよ」
 男のくせに、男の匂いがしなかった。長いまつげが下まぶたに被さって、ゆっくりと上昇した。大きな黒目は濡れていた。俺を見る。
 俺は海城の細い腕をつかもうとしていた。気が付いたから恐ろしくなって引っ込めたのに、
「……っ!」
 逆に俺の腕を強くつかんだ海城は、顔を近づけてきた。
 一瞬だった。
 唇が触れることの意味するところは、俺でも知っている。
 だが意図を。意図を教えてくれ。
 俺を見るな。
 おまえは何がしたい。
「なんで……、俺なんだ」
 もはや何について訊いているのかなんて分からなくなっていた。家を出て来た先に俺を選んだこと、大量の札束を見せてきたこと、好きとか言うこと、今したそれ以上のこと。
「一緒の部屋にいるから」
 海城の言葉が、何についての答えなのかも。
「出て行けよ」
「うん」
 まるで予想していたかのように返事は早かった。あっという間に荷物をまとめ、海城は家を出て行った。まだ温かいご飯と食べかけの餃子を残して。
 海城はそれから一週間、戻ってこなかった。

「津田さん、最近帰るの急がなくなりましたよねえ」
 髪をポニーテールに結った女子大生は、そんなことを言った。
「そうですか」
 自覚はなかったから、そっけない返事になってしまった。
「……そういえば津田さん、映画観てくれました?」
 映画。俺と彼女はそんな話をしていただろうか。まったく心当たりがなかった。
「ごめん、なんだっけ」
「いえ、なんでもないです。私も忘れちゃいました。何の映画の話してたんでしたっけ?」
 あはは、と女子大生は笑った。
 俺はポニーテールを横目に、海城のことを考えていた。こんな雑談さえしたことがなかった。好きな映画も知らない。そもそも、昼間に送ったLINEさえ、同居が始まってから初めてのやりとりだった。いややりとりとすら呼べない。
『今どこですか』
 休憩時間をすべて費やして打っては消し打っては消しを繰り返し、結局覚悟を決めて送信したのはたった六文字。バイト終わりには既読になっていたが、返事はなかった。
「それじゃあ、おつかれさまです!」
 不意の元気な声に現実に引き戻される。おつかれさまです、と返す間もなく、女子大生は改札の向こうへ消えていった。その小さな背中を、俺はおそらく今日初めて見送った。


 海城がいなくなったことについては、考えれば考えるほど分からなくなった。母親が亡くなり、父に追い出され、うちに大金を持ってやって来た。それをあの金髪ピアスが探している。だがもう海城はいない。どこへ行ったのか見当すらつかない。
「分かんねえ……」
 頭を悩ませていること自体がくだらないと自覚していた。それでも断片的な事情の数々を中途半端に見聞きしておきながら、全部なかったことにはできなかった。あの金髪が再びやって来たのはそんなときで、海城がいなくなって二日後のことだった。
「海城ならいないですけど」
 金髪ピアスは、ただでさえ肩の落ちた厚手のパーカーをさらにがっくりと落としてみせた。
「そうすか……いつ帰るとか」
「分からないですね」
 しょんぼりした姿を見ていると、どうにも海城を心配して訪ねてきているだけのように思えた。
「そうすよね、どうもすいません……」
「あの」
 そう思わず、声をかけていた。
 金髪はすでに背を向けていたが、立ち止まって振り返った。自分から引き留めておいて、そんな当たり前の反応にも慌てていた。
「なんで、海城探してるんですか」
 金髪は表情を変えずにしばらく黙っていたが、やがて苦虫をかみつぶしたような顔をして、
「母親死んだあとで、父親に家追い出されたんすよ、あいつ。そしたら俺には恋人のところに行くっつって、どっか行って……」
 榮子から聞いた話と理由は同じだったが、今はあの大金のことが頭をよぎる。そして人を殺したという発言。金はどこから持って来た? 母親の死と人殺しは関係あるのか? それに、恋人のところへ行くだと? その先は俺だ。もはや赤の他人に近い。そんな嘘をつく理由がどこにある? どれもこれも、この男には訊けない疑問だ。
「海城の友達?」
 話がまだ続くと判断した金髪は、進んだ歩数分戻ってきて廊下の柵にもたれかかった。
「まあ、友達すね。つーか、やんちゃしてる連中とかとつるんでる感じで」
 つまり、いわゆる不良。
「利苑、ずっと絵をやってるんすけど、教えてた人が虎本っていって、その人の子どもが連中のリーダー的存在……みたいな、バンドのボーカルやっててそのへんで知り合って、よく集まってたんすよ。けど虎本さんがしばらくムショいたから、集まるのは解散になったんすけど。利苑も美大受かって、けどなんか、母親死んですぐに親父さんにバレたっぽい」
「バレた?」
 物騒な単語が聞こえたが、あえてスルーした。
「あーっと、その、集まり。親父さんはでかい会社のえらい人っぽいんで、たぶんそれで利苑、家を追い出されたから……」
 俺のせいかも、と金髪はうつむいて、目をこすった。
「利苑はクソいい奴だけど、あんま慣れてないから、こういうの。気になって」
「こういうのって?」
「自分が、最悪の立場に立たされるってこと」


 夜、真っ暗な部屋に戻っても、誰の声もしなかった。秋の虫が静かに鳴いて、時計は規則正しく一秒を刻み、電気は俺が点けない限り点かなかった。至極当たり前のことが、やけに当たり前でないように感じられた。明滅する蛍光灯の下、ローテーブルに、人分の牛丼を置く。

「ああ、もし利苑帰ってきても、俺が今話したこと言わないでくださいよ。あんたはなんつーか、そんな感じしないから話したけど、俺もう、利苑追い詰めるみたいなことしたくないんで」
 こすった赤い目のまま、金髪はきっぱりと告げた。

 海城は、俺が牛丼を直盛りで二つ買ってきても文句は言わなかったが、それ以前はセパレートにしていた。俺は店でつけてもらう割り箸を使ってしまうのに、海城は自分の箸で食べた。夜は俺が電気を消さなくても必ず十二時に寝て、お腹が痛いとしょっちゅう訴えてはトイレに駆け込んでいた。朝は四つ切りの食パンで、インスタントのコンソメスープが好きだった。中指にはいつも赤いペンの色が染みついていて、ちゃんと洗わないのかずっと落ちないままで。風呂上がりに長い前髪を邪魔そうにかき上げる癖、俺を呼ぶとき高確率で「あ」が入ること、腹の肉をつまんでは気にしていること、ノートパソコンを見つめる真剣な目。
「……知ってる」
 意外と。
 たった二ヶ月、ろくな会話もなかった二ヶ月。だが俺は、その間ずっと、海城利苑を見ていた。
 つゆの染みこんだべっちょりした飯を、うまくすくうことができない。
 俺は確かに見ていた。
 テーブルに、ぼとりと米を落とす。
 物干しの奥に今、海城はいないのだ。これまで毎日見ていたけれど、この一週間見ていない。見ていない海城を俺は知らないし、あの金髪の知っている海城も、俺は知らない。
 知らない海城が多すぎる。それだけじゃない。
「いくらなんでも遅すぎる」
 いや。
 いやいや遅いって何が。ここは別に海城の家じゃない、俺の家だ。帰ってくる場所でもない。ただ滞在しているだけだ。だからこんなふうに思うことは、おかしい。
「おかしいよな……?」
 ベッドに放った鞄から、スマホを探り出す。LINEのトーク画面、七月を最後に榮子とは連絡をとっていなかった。
『海城利苑の実家の住所教えてください』
 既読になるかどうかも確認しないまま、鞄を肩に引っかけながら外に出た。階段を降りたところで、食べかけの牛丼を片付け忘れたことに気が付いた。


 数年ぶりに切符を買い、十五分近くホームで待ってから東京行きの普通列車に乗り込んだ。海城からの返事は来ないままだったから、この俺の選択はとっさに思いついた賭けだった。ただの当てずっぽうと言ってもいい。つまり、長期滞在できるところは限られている、一人暮らしの友達がいるのならそいつのところへ行けばいいのにそうしなかった、俺のもとを出て他に行けるのは実家だけ。まったく根拠のない推測だ。
 切符を握り込む手の震えがずっと止まらないし、腹の奥は締め付けられるように痛んだ。不安、焦燥、緊張。よくない感情を本能の勢いで抑え込む。もう、疑いをなかったことにしたくなかった。正しくないとしても、海城のためじゃないとしても、俺のしたいままにしなければならなかった。できたはずのことをせずに後悔し続けるのには、もう飽きていた。
 窓に映る自分の顔が、ひどく情けない。髪はぼさぼさで服もよれている。ピントを遠くに合わせ、外の景色を見ようとした。夜に沈んだ町はただひたすらに暗く、ぽつぽつと並ぶ街灯が流れていく。車内を見渡しても乗客の顔はどれも疲れ果てていた。今日は金曜日か。合点がいった。
 こんな時間の上り電車だから、がらがらに空いていた。品川で下車し、きょろきょろしながら次に乗る電車のホームへたどり着くと、環状線は混んでいた。開かないほうのドアに張りついて、手すりをぎゅっと握った。
 新宿は夜だというのにいやに明るく、最寄り駅と比べたら恐ろしいほどに人がいた。都会へ出てきたのは就活以来だった。
 足がすくむのを無理に動かせば、胃がひっくり返りそうになった。それでもスマホの地図を睨むように見つめ、青い丸が示す現在地点がどこかも分からないままに俺は歩き出した。目的地までどこをどう通って、何人とぶつかって何分かかったのか、まるで覚えていなかった。
 海城の住む高級マンションは、あれだけ賑わう駅から少し離れただけだというのにちっとも音がしない場所にあった。エントランスの明かりがまぶしくて目を細める。果たして、ここから入っていいものかどうか。正しい入り口が分からずに行ったり来たりを繰り返すうち、暗がりで思わぬ刈り上げの金髪が目に入った。
 これは、賭けに勝ったかもしれない。エントランスからやや離れた壁に寄りかかっていたのは、何度も見たそいつだった。長い袖で目元を拭っている。
「あっ!」
 金髪は足を止めた俺に気付き、驚いて身体を浮かせたが、すぐに薄く笑みを浮かべた。
「利苑ならないすよ。警察行ったとか、もうマジ…訳分かんねえ」
 は? 警察?
数々の疑惑が一気にせり上がってくる。変なことに海城が関わっていることに間違いはなさそうだった。
「ちょっと、どういうことかもう少し」
「熊谷」
 突然、知らぬ男の声が俺の背後から響いた。俺は言いかけた言葉の残りを全部そのへんの空気ごと吸い込んでしまい、息が詰まった。心臓が縮み上がっている。
 男は俺の横を素通りして金髪に近づいた。黒いウェーブのかかった髪が歩くたびに肩ではねる。金髪は顔を上げていた。黒髪の男は「熊谷」ともう一度呼んだ。
「虎本さん……っ、すいません……来て、くれて……ごめんなさい」
 壁からふらりと離れると、金髪ピアスはちらりと俺を見た。
「やっぱり、あんたがそうなんじゃねえの」
 うるんだ目がつり上がって、俺を見据えた。
黒髪もその視線をたどるようにして俺に目を留めると、ゆっくりと頭を下げ、金髪を連れて歩いて行った。目立つはずの金色は、暗いなかで鈍色にくすんで、そのうちふたりとも見えなくなった。
 あの金髪ピアスが熊谷という名なのだと、俺はようやく知った。
 熊谷の言った意味は分からない。気にしないようにしようと息をゆっくりと吐き出してみるが、落ち着きが取り戻せるはずもなかった。
 ひとまず、海城は俺の部屋を出てからはやはり実家に帰っていたというわけだ。追い出された経緯を考えると、戻る理由は想像もつかない。ただ、連絡はつくだろう。既読になるくらいだし。警察の件は引っかかるが、今は午後十一時四十五分。
 ダメ元の電話だったのに、はい、と小さな声は俺まで届いた。
「海城。今どこにいる」
「新宿……」
「それは知ってる」
「えっ、なんで……」
「だから、新宿のどこにいるかって訊いてる」
「南口……ってほんと、うそ、ちょっと待って津田さ」
 切った。
 俺は落ち着けない代わりに無性にいらついていた。勝手に出て行ったこと、何も言わないこと、それもあるがそれだけじゃなかった。
 もう一度地図アプリを開いて、行き先と目的地を逆にする。新宿駅南口。また画面を見つめながら歩いて行けば、大きな通りに出た。もしかしたら見つけられないかもしれないと、ここまで来てひやっとしたが、杞憂に終わった。酔っ払いと足早に駅に向かうサラリーマンと、誰もが右に左に動いているその向こうで、静止した海城はそれは分かりやすかった。もっとも、見間違えるはずなんてない。
「海城」
 横断歩道を渡り、その奥の植え込みに腰かける海城の前に立つ。液晶の光で、もともと白い肌はさらに青白く見えた。大きな荷物が二つ、彼の横にあった。大金の次は人体の一部でも入っているかもしれない。それは勘弁して欲しい。
 海城はゆっくりと顔を上げた。大きな目がますます大きく見開かれたあと、ふっと緩む。
「あ、津田さん……遅いですよ、職質されるところだったじゃないですか」
 無理に笑って弱々しく悪態をつくも、俺はまだ先ほどからのいらだちを抱えたままでいて、海城はそれを敏感に察したらしかった。ごめんなさい、と小さな声が震えた。おまえが悪いんじゃないよ。そう言えればよかった。俺は子供じみた意地で、海城のせいにし続けた。
「おまえの家に行ったら、熊谷がいた。警察って何のことだ」
 それだけ言えば海城は事情を悟ったようで、
「あ、それは、」
 にゃあ。
 と、鳴いた。何が。猫に決まっている。
 猫。
「え……?」
「三ヶ月前。迷子の猫拾って。けど飼い主が見つからなくて、俺が引き取ることになっちゃいました。警察は、それで行ってただけ」
 そんなことかよ。ほっとしたら、一気に力が抜けた。海城の横に座ると、彼はかすかに身じろぎした。
「訊きたいことは、たくさんあるけど」
「うん」
 本当にたくさんあった。何から話せばいいのか、俺はまだ少し混乱していたから、うまく言えそうになくて口を閉ざした。
 横断歩道を渡る人の群れを眺めていた。ハイヒールのOLが同僚らしいスーツの男性に盛大に絡みにいき、笑いながらよたよたと歩いて行く。ハイトーンカラーの若い女の子たち三人組は、別れを惜しむように代わる代わる手を繋ぎあったあとで、別々に歩いて行った。
「こんなこと、初めてした」
 果たしてどのくらい時間を要したか、ようやく俺は会話を始めることができた。正直まだ震えはおさまっていなかった。気取られないように腕を組む。
「でしょうね。あり得ないと思いました。津田さん、俺に興味ないでしょ」
「いきなり消えたら、さすがに驚く」
「どっちかっていうと、怒ってますよね」
「……かもな」
 海城が笑う。
「ねえ津田さん。俺がいなくなって心配した?」
 俺は、答えられなかった。心配をしていたのだろうか。それはむしろ熊谷のほうだ。俺は。俺は何だろう。
 にゃあと猫が再び鳴いた。
「それ、名前つけてくださいよ」
「俺が」
「そう。津田さんがつけて」
 海城は期待を込めてこっちを見る。俺が怒っていると言ったのはそっちなのに、ちっとも気にしたそぶりなんて見せずに。
「りおん」
「え」
 びくん、と海城の肩が揺れたのを俺は見逃さなかった。
「猫の名前」
「……俺が猫をりおんって呼ぶんですか。なんか変じゃない?」
「おまえが俺に名前つけろって言ったんだろう。嫌なら自分でつけろ」
「分かりましたよ。じゃあきみは今日からりおん。だけど俺はもともと利苑だからね」
 マウントポジションを取りに行くような海城の言い方がおかしかった。
「津田さん……何を笑ってるんですか」
「え……ああ、いや」
 おまえがかわいいからとは、さすがに言えるわけがない。口にしたら変な意味になってしまいそうで。
 こんなところにいつまでも座っていては、身体が冷えそうだった。海城がいつからここにいたのか知らないけれど、これからどうするつもりだったのだろう。どこへ行く気だったのだろう。
 どこへ。
 俺はようやく、自分のいらだちの正体を突き止めた。正確にはっきりと、分かってしまった。
「かっ……海城、利苑」
 いきなりフルネーム、と海城は吹き出した。
「なんです?」
 深呼吸をあと三百回くらいしないとこんなことは言えないだろう。しても言えない。ならば、言うしかない。
「金、もう少し貯めるから。そうしたら、再来年なら、その猫飼える部屋に住める、かも……しれない」
 海城の顔なんか見ちゃいない。ただ隣で息をのむ彼の気配は感じた。
「俺と一緒に住もうって言ってんの?」
 ああ死にたい。今すぐ死にたい。そこの横断歩道で派手に散りたい。
 俺はうんともすんとも言えなくなって、海城が続けて口を開いた。
「津田さん、それってさ? 俺がこないだ言ったことをちゃんと考えて言っ」
「りおん!」
「……っ、なに、」
 勢いよくさえぎれば、海城は怯んだように肩をすくめた。
「猫……に会いたいので」
 何を言っているのか、自分自身さっぱり分からなくなっていた。変な汗が手に滲む。腿に貼りつけるように手のひらを広げた。
 海城はいきなり植え込みの縁から降りると、歩道にしゃがみ込んだ。そうして俺を見上げる。きらきらした目と合ってしまえば、もう逸らせなかった。
「俺が猫になります。だから、俺のこともりおんって呼んでよ」
 手を丸くして頭につけ、にゃんと鳴いてみせた。それが本当にくだらなくてかわいくて、海城の丸い手を握って上に引っ張った。
「せめて、人間の利苑にして」
立ち上がった海城が、今度は俺を見下ろす。
「猫じゃだめですか」
「牛丼食えないだろ……じゃなくて」
「じゃなくて?」
 俺は深く息を吸い込んで、吐いた。なんだか今日はこんなことばかりしている。
「バイトじゃなくて就職、するから。絶対に」
「は……え?」
「ああそうだよ、おまえと一緒に住もうって言ってる。ちゃんと働くから、金貯めて、ちゃんとしたところに住めるようにするから」
 今が夜でよかったと心の底から思った。もう一時間かそこらで今日は終わる。この羞恥心を抱えたまま、白日の太陽の下にさらされ続ける心配はない。
「えっと、」
「だから! ……だから、帰るぞ」
 言いつのろうとする海城を上目遣いに睨んで黙らせ、俺は立ち上がった。深夜の風が、火照った頬を今すぐに冷やしてくれることを願った。
「ちょっと待った津田さん」海城は後ろから俺の腕をつかむ。「もう、終電ない」
 液晶に表示された最終列車は、とっくに新宿を発車していた。
「マジか……」
「マジ」


 海城の大学生らしい提案で、カラオケ店で一夜を明かすことになった。猫のエサはどうしたのかと思っていたが、俺が来る前にドンキで買ったようだった。
 それぞれのドリンク一杯が運ばれてきてからしばらく、俺が口を開くまで、海城は何も話さなかった。ジンジャーエールの炭酸がすっかり抜けた。
「訊いてもいいか」
 汚くひび割れたソファに自分のカーディガンを敷いて寝転がり、大きな身体を縮めて。きっといつも、物干しの奥の狭い場所でもそんなふうに寝ていたのだろう。
「うん、いいですよ」
 くぐもって舌足らずな声で、海城は話し始めた。
 母は、病死ではなかった。直接の原因は睡眠薬の大量摂取。俺も榮子も気付いていたが、あれはどう考えてもその手の病気だった。それがそのまま悪化した結果だった。ところが海城の父は息子のせいにした。これまでこんなに金をかけていい教育をさせてやったのに、おまえがよくない仲間とつるんで心労をかけるから死んだのだと。おまえが、母を殺したのだと。
「金ならくれてやるから帰ってくるなって、言った。出来の悪い息子は嫌なんでしょ。帰ってくるなって言ったから出てきたのに、今度は帰って来いって連絡きて……全然分かんない、父さんのこと」
 一週間は実家にいたようだが、一度膨れあがった不信感が消えることはなかった。家を出ると告げれば、縁を切ると言われた。それで構わないからと、飛び出してきた。
「大学はどうする気だ」
「学費だけ、出してくれるって」
「そうか」
 もぞもぞと海城はさらに小さく身を丸めた。
「……津田さんちに行ったのはね、昔、津田さんと話したことあったから」
 覚えてないでしょうけど、と海城はふふっと笑いをこぼした。
「話したことはあったと思うけど。確かに」
「そのときに、津田さんに言われたんです。俺もこれから一人だから、おまえも一人になったら来ていいって。それで行きました」
 以前住んでいたマンション、その出入り口。今よりあどけない海城と並んで立つ俺。母をふたりで待っていた。けれどあのとき何を話したかなんてこれっぽっちも思い出せない。俺でさえ覚えていないような戯れ言を、海城はずっと信じ続けて、俺をあてにして。
 そう思ったら本気で愛おしく思えた。みぞおちがくすぐったい。どうしよう。
「……ばかばかしい」
 海城に聞こえない声で呟いてみる。
 今までこいつに興味もなかったくせに。でもこれは、本当の感情だ。
 そしてもうひとつ、海城に訊かなければならないことがあった。
「熊谷くんが言ってたけど……恋人のところに行くって、何のこと」
 海城はおもむろに寝返りを数回打ち、あーとかうーとかひとしきりうめいてから、言った。
「俺の願望」
 やがて眠りに落ちた海城の、長い前髪に手を伸ばしかけて、やっぱり引っ込めた。
 他の部屋から響いてくるどんちゃん騒ぎの振動ははるかに遠い。ここには今、俺と海城しかいない。
「……利苑」
 聞いていないといいと思った。聞いていてもいいけれど、それならそのまま忘れてくれ。猫の鳴き声か何かだと思って。

 俺はほとんど一睡もできなかったが、始発列車が動き出す前に海城をたたき起こして店を出た。夜の料金で贅沢はできない。ちなみに誤解のないように言っておくが、俺と海城の間には何もなかった。
 それからこの朝、俺は人生最大どころか人類史上最大の大恥をさらすことになる。
 環状線でとんでもない寝相の兄ちゃんにふたりして笑いをこらえ、今にも寝てしまいそうな海城が猫のキャリーを忘れそうになってドアに挟まったりした。奇妙なテンションのまま早朝に到着した駅は、人もまばらだった。半分目の閉じかかる海城を、俺は部屋の鍵だけ開けて先に行かせた。
「どうしたの……」
「いいから先入って、そこに立ってて」
「なあに?」
「いいから、入って。立って」
「うん……」
 身体の傾ぎはじめた海城は、大きなあくびをした。
 気持ちのよい朝だった。眠っていないのに目は冴えていた。肺の空気を底から入れ換える。少しだけ冷たかった。
「ただいま」
 俺の声に瞬時に反応して、海城の猫みたいな目が開いた。夜でも冬でもないのにそのなかで星と雪が流れて散って、
「おかえり」
 散った欠片が溶けて滲んで、端からこぼれた。あまりに美しかったから、手を伸ばして、眠そうな目元を指先ですくった。

津田さん、頑張りましょう

津田さん、頑張りましょう

2018年10月1日J.GARDEN43にて発行した合同誌「津田さん、頑張りましょう」よりいちか編 三越編(https://privatter.net/p/3844550)

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted