ペガサスのみぞれ煮

それがたとえ赤魚だろうと鶏肉だろうとかぼちゃだろうと、そこは問題ではなかった。

 先日、その回の授業で進みたい範囲を早く終えてしまったので、残った時間を遊びに使った。何か質問があれば世界史に限らずなんでもよいと生徒たちに伝えると、彼らも俺の性格は承知しているから、くだらない質問ばかりがいくつも飛んだ。まだ彼女できないの? M先生とこないだ一緒にいたでしょ? 次のテスト範囲は? 女子があきれた顔して笑うなか、「他の教室はまだ授業やってるから静かに」と、これまでに何度言ったか忘れた台詞をその日も俺は言った。
「先生、初恋いつ?」
 想像しなかった問いに、えっ、と思わず声を漏らした。
「いや……さすがに昔すぎて覚えてないな」
 せっかく答えを期待して静かにした生徒たちは、なんでだよ、と笑い声と文句を爆発させる。男子生徒がひとり、後ろの席からじっと見つめ返していた。きっと彼だと思った。俺のとっさの嘘を見抜いたのかもしれなかった。
 今でも思い出せる、あのやや奇妙な出来事とやり場のない感情に対して、初恋と名前をつけるべきかずっと迷っている。関係上は幼なじみで正しい。彼女は、早川るつという。もう高校卒業以来だから、十五年近く会っていなかった。そんなに経つことに驚いた。思い出せる記憶はあまりに鮮明で、まるで昨日のようだなんて言い回しも、決して大げさにはならない。

 夏も終わり、窓を開けていては肌寒かったのでぴったり閉めると、家はますますしんとした。翌日提出の宿題を居間で済ませ、麦茶を飲みに立つ。誰もいない家には生き物の気配がなかった。俺だけがこの世界に残されたようで寂しく、「腹減ったなあ」などとひとりごとを呟いてみる。午後六時半、いつもであれば夕食の時間だった。
 呼び鈴が、やけに大きく部屋に響いた。
 俺は開けかけた冷蔵庫の戸を放るように閉め、間延びした返事をしつつ玄関へ向かった。ドアの向こうにいたのは、早川だった。
「あ、よかった。いた」
 彼女はほっとしたようにほほえむ。
「諒平くん。夜ご飯、一緒に食べない」
 寒いのか、ブラウスに包まれた二の腕を抱いて俺を見上げていた。花柄のスカートが風に揺れる。お下がりのGパンと体育祭で作ったそろいのクラスTシャツなどという自分の格好が途端に恥ずかしくなり、俺はダサい柄を隠すように、その裾を意味もなく丸めて引っ張った。
 その日の朝から、お互いの母親は旦那の不在をねらい、一泊二日の旅行に出かけてしまっていた。お母さんたちが結婚すればよかったのに。俺は昔二人に言ったことがある。今思えばまんざらでもなかったのかもしれない笑い方をしていたが、とにかくそれくらい仲がよかった。ちなみに早川の父は大学教授で、研究のために休みをとってイギリスにいた。うちはただの九州への出張だった。
「何か言われた?」
 とはいえ母親が友だちなだけで、家族ぐるみで仲がいいわけではない。よほどの事情がない限り、夕食を誘いになんて来ないだろう。
「諒平くんが、きっと夕食をめんどうくさがって食べないから、よろしくって。お母さんに」
「それ、……」
 高三になってまで、他人の子どもにうちの息子がどうこうなどと話をするか、普通。ばつの悪さから俺がため息をつくのを、早川はくすくす笑って見ていた。
「簡単なものしか作れないけど、それでもよかったら」
 断る理由はなかった。一人でおいしくない飯を作って食べるよりははるかにマシだったし、合理的な提案であるようにも思った。
 先に早川を戻らせ慌てて身支度を整えると(整えるほどの支度は実際のところなかったのだが)、二軒先のインターホンを鳴らしに外に出る。五分前とは逆の立ち位置で、早川は俺を出迎えた。花の香りがふっと鼻先をくすぐる。早川はそのまま台所へ引っ込み、俺は通された居間をぐるりと眺めた。
 この家に入ったのは、相当に久しぶりのことだった。もはや男女二人で遊ぶような歳でもない。そういえば小学生の頃は、この家で動物のまねごとをして遊んでいた。あやふやで赤ん坊の腕のようにふにゃりとした記憶は、十年も経てばなかったことになりかけていた。それを不意に思い起こして、ただなんとなく懐かしいと感じる。たった十八のノスタルジー。遡ったところで同じ子ども時代だ。
 台所から、がさがさと袋をあさる音が聞こえた。当時はまだスマホもなかったし、俺は思い出に浸るのにも飽きて
手持ちぶさただった。気になってそちらへ向かうと、早川は冷蔵庫の前でかがんでいた。冷凍庫を見ていたようだっ
た。その背中に向けて、手伝えることはないかと尋ねる。
「人のうちじゃやりづらいでしょう」
 早川は立ち上がらないままで首を傾げた。俺はブラウスに透けた下着から目を逸らす。
「まあ、それもそうだけど……何、作るの」
 両手でつまみ上げている袋が気になった。早川は白い首をすっと反らして俺を仰ぎ、
「ペガサスのみぞれ煮」
 と言った。
 黒目がちの目が瞬きする。俺は聞き返す。「ペガサスのみぞれ煮」と、彼女はもう一度言った。
「何それ」
 今度は答えなかった。
 立ち上がると袋を留めていた輪ゴムを外し、凍ったそれらを皿へ出した。魚の切り身だった。
 一体何がペガサスなのか。聞いたところで答えてもらえないであろう雰囲気を察し、俺はあきらめて口をつぐんだ。近くにいても邪魔になるだけだったので、数歩下がって食器棚にもたれかかり、様子をうかがう。
 早川はまず、浅い鍋に水を張って冷えたコンロに置いた。ふと身をかがめたかと思えば酒とみりんの瓶を流しの下から引っ張り出し、次に冷蔵庫から醤油を取り出し、それぞれ分量も計らず鍋に注ぐ。俺は花柄のスカートから伸びるふくらはぎの細さをぼんやりと眺めた。それから、スプーンに少しばかりの砂糖。白い砂糖しか見たことがなかった俺は、茶色のそれにいささか面食らったのだが、おそらく三温糖だった。鍋に火をかけるために斜めになった姿勢を元に戻して、ようやく、早川は俺のほうを向いた。
「じゃあ、大根おろしを」
 俺はこのときみぞれの意味も知らなかったので、果たして何の料理が作られようとしているのか、想像もつかなかった。火にかかっている汁と冷凍の魚と大根とがさっぱり結びつかず、困惑しながら「分かった」とだけ答えた。
 早川は、皿に出していた切り身を軽く水で流し、鍋の様子を覗いて「まだかな」と呟くと、再び切り身を皿に戻した。そして野菜室から中ほどまで使われて首だけになった大根を取り出してくると、包丁を手にし、ぐっと力を込めて五センチほど切り落とす。俺よりも包丁は使い慣れているはずだが、皮がくるくると剥かれる様には、なぜか見ていてひやひやさせられた。
「お願いします」
 早川はおろし器を流しのそばに用意して、俺に切った大根を手渡した。彼女の体温で大根は冷たくなくなっていた。
ちらりと触れた爪が小さかった。
 おろした大根は軽く水気を切り、別の器に移しておく。俺が大根おろしに勤しんでいるあいだ、早川は隣で別のことをやっていた。味噌汁を作っているのだと、そのうち匂いで分かった。ガスの炎と互いの体温、溶け合った別の熱が早川と俺の間を取り巻いていた。左手を伸ばせば触れてしまう場所で、俺はただ右手に力をこめて大根をすり下ろした。終えた頃には、いつの間にか鍋の汁に切り身が浸っていて、落とし蓋までされていた。俺はよほど自分の作業に集中していたようだった。いや、正確には、集中するしかなかったのだ。菜箸を持つ指や手首の骨のかたち、白いブラウスに覆われた皮膚の確かさを、そこにあると信じて
も、意識するわけにはいかなかった。
 早川はふきんを手にかぶせると落とし蓋の突起をつまみ、菜箸で魚の下側を覗いて煮え具合を確認する。俺はここへきてようやく、これが魚の煮付けかそれに近いものであることを理解した。
「もう少し時間がかかるかも」
 落とし蓋をもとに戻すと、早川は身体だけを俺に向けた。だが目は大根おろしにやったまま、それきり黙った。つまり、ここからが問題だった。俺たちは話をするにもする話がなかったのである。廊下ですれ違っても挨拶なんてしない。たまに目が合えば早川は少しだけ笑みを浮かべてみせたが、俺はほとんど無視していた。関係上幼なじみであることに間違いはないが、その実態が伴わない。そういうわけで、十年前ならともかくここ数年はろくに口もきいていなかった。その早川が、俺を夕飯に誘ったのだ。普通ならあり得ないことだった。
 かすかに、期待かあるいは何らかの思惑が、俺の中心でくすぶるのを感じた。幼なじみという大義名分だけでこの状況が発生したのだとしても、構わなかった。むしろそれに感謝さえした。
「早川はさ」
「あっ、うん」
 びくっと身体を震わせて、早川は俺に目線を合わせた。話しかけられると思っていなかったらしい。
「料理、よくするの。手際いいなと思って」
「ときどき。だいたいはお母さんが作るよ」
「へえ……俺は全然しないな。強いて言えば卵かけご飯とか」
「じゃあ、今日もほんとはそのつもりだった?」
 言いながら、再び鍋の落し蓋を外すと今度は流しへ置く。近寄ると、立ち上る醤油のいい匂いが空腹を刺激した。
「まあね」
 大根おろしを少しずつ鍋に移す。汁に入り交じって、ふつふつと小さな繊維が揺らめいた。
「それなら、声をかけてよかったな」
 鍋を見つめながら早川は言った。しばらくそうしていてから、火を止めた。
 冷凍ご飯を温めている間に、みぞれ煮を二人分それぞれの皿に移してネギを上に添え、味噌汁を汁椀へ注ぐ。もやしの隙間からわかめがひらりと浮いた。
「あ、ねえ。きんぴらあるんだった。食べる?」
「あればなんでも」
 配膳しつつ、俺は台所に向けて返事をする。汁椀を持つ手は、温かいのにぎこちなく震えた。先の削れたうさぎ柄の箸を、一度拳を握り込んでからそっと置いた。
 食事の用意がすべて整ってしまえば、早川の家も静かだった。父親がいつもいないのだから、俺とふたりきりのこの状況は日常と同じ静けさなのかもしれない。換気扇の回る音だけが聞こえるなか、湯気の動きが明かりにゆらりと照らされる。
 早川と俺は向かいの席に着いた。チラシもリモコンも置いていない片付いたテーブルに、唐突に妙な緊張を感じ始めた。背中のあたりが落ち着かずに早川を見ると、彼女も同じようにそわそわとして、
「えっと、食べようか」
 その視線が手元に定まった、その直後だった。
 俺の「いただきます」と早川から発された言葉は、明らかに違った。ぎょっとして顔を上げる。早川はうつむいて目をつぶり、両手を胸の前で組んでいた。
「諒平くんと夕食の時間をともにすることができたことを感謝します」さらに二言三言続けてしゃべり、「このお祈りをイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」
 知らなかった、というより忘れていた。ご飯食べていきなよと、早川の母親が言う。まだおかっぱだった早川がにっこり笑う。俺は電話を借りる。るつちゃんちでごはん食べるからいらない。できたての料理を前にして、意味も分かっていないのに、隣の早川にならって手を組む。そんなことが、きっとあった。確かにあった。
 早川がようやく「いただきます」と言ったので、俺はフライングしたような気まずさもあり、もう一度手を合わせるところからやり直した。
「ごめん、言ってなかったかも」
 味噌汁を一口すすった早川は、言いにくそうにはにかんだ。お祈りのことだと、すぐに合点がいった。
「いや……」
「つい癖で、やっちゃった」
それは、家での? それとも親の前での? ぞくりと腹の奥底の感覚がうずいた。早川の秘密を知った気になったのだ。だって、学校で人目もはばからずにそんなことをするはずがない。ならば、ほとんどの人間はこれを知らない。他人がいることをまったく気にかけなかった早川のその行動は、少なからず俺を喜ばせた。まるで、他人ではないとでも思われているようで。
「どうかした?」
 早川と色違いの、新品の箸を持ち直す。
「いや。なんでもない」
 俺たちはペガサスのみぞれ煮を食べた。それがたとえ赤魚だろうと鶏肉だろうとかぼちゃだろうと、そこは問題ではなかった。
 早川の細い指によって操られる箸の先が、身を小さく割った。箸がぶつかって、かつんと音を立てた。汁に混ざって水のようになった大根おろしが、その上にのせられる。注意深くつかんだ身は口元へと運ばれた。肩から滑り落ちる髪を左手で耳にかけ、その拍子に赤い唇からひと筋、汁がこぼれた。顎へ届く前に、指先がすばやくすくって舐めとる。俺は見ていた。すべてが咀嚼され、白い喉が上下する終わりまで。
 砂糖と大根のほのかな甘さを口に残しながら、それからは、互いに一言も話さなかった。なぜこれをペガサスなどと呼んだのか、俺は結局尋ねなかった。早川が話しかけてくることもなかった。ただ時間は過ぎて、比例してみぞれ煮は減った。
 俺のほうが早く食べ終えたので、食器はどうすればよいかと聞くと、流しに置いておいてくれると助かるな、ともやしとわかめを飲み込めるまでの時間を要して、答えた。
 早川はかわいかった。黒い髪はまっすぐつややかで、目にかからない程度に切りそろえられた前髪も品がよかった。他の女子とは違う、名状しがたいが一歩天に近いような、そういう崇高な種の近寄りがたさがあった。
 帰り際、早川は玄関先まで俺を見送ってくれた。玄関灯がじりじりと明滅し、もうじき切れる予兆を示す。ただ家へ帰ればいいだけなのに、ふたりともうまく動けずに、視線をさまよわせて留まっていた。
 背後でドアが音を立てて閉まり、俺は何の気なしに振り返った。彼女はまっすぐに立って俺を見ていた。それから目を伏せた。目の縁がなだらかな線になり、下向きのまつ毛の影が淡く落ちる。人為的でない頬の朱に、思わず見惚れていた。首筋から肩、二の腕をたどっていく。曲線で切り取りたいのに、俺のハサミではがたがたになる。それどころか、うっかり触れただけでも均整に綻びが生じてしまうかもしれない。そんなことはできなかった。
「諒平くん」
 早川の声で我に返る。
「今日はありがとう」
「別に……こっちこそ、飯作ってもらって」
「こんな機会、もう二度とないかもしれないから」
 早川が笑う。彼女に限って他意などないだろうに、真意が見えやしないかと勘ぐる自分が浅ましく、情けなかった。残念がっているわけでないのだから、そんなにうれしそうに言わないでほしかった。
 期待したくなる。
「早川」
「なに?」
「……うまかったよ、みぞれ煮」
 俺はあまりにも馬鹿で、何かと何かを取り違えて勘違いしそうになって、それだけ言い残すとすぐさま自分の家に駆け込んだ。音のないはずの居間で心臓がばくばくとうるさく、髪を耳にかけるしぐさと小指の形を思い出しては、胸の奥がぎゅっと詰まって苦しくなった。どうしようもない、本当にどうしようもない感情がせり上がる。無性に泣きたかったが、涙なんて出なかった。
 麦茶を入れそびれたマグカップは、台所に置かれたままになっていた。

 その後早川は大学生の途中から留学し、広い家で一人暮らしになってしまう母親も引っ越した。早川の言ったとおり、あのような機会はもうなかった。彼女の現在も知らぬまま、俺は同じ家で大人になった。二軒先の家には、今では小さな女の子と若い両親が暮らしている。
 風が吹き込んで寒かったので、明日の準備の手を止めて、窓を閉めた。暗がりの庭に月の光が差し、木は影をつくった。影は、見知らぬ生き物の形をしていた。

ペガサスのみぞれ煮

ペガサスのみぞれ煮

2017年11月23日第二十五回文学フリマ東京にて発行「ごはん小説アンソロジー 今日のごはんは?」よりweb再録

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-03

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