Carpe Diem

衣更絲子

  1. 循環
  2. 回る

循環



「君、俺たちにあって他の生き物にないものを知ってるか」

 彼は変わり者だった。俺に構っていたら仲間はずれにされると再三忠告したのだが、彼は今日も手土産を抱えて訪れた。薄明かりに似合う眩しげなクレオメを零しながら。
 彼はよく言ったものだ。俺たちに似てるぁ、などと悠長に。四本の腕で無理矢理花を突き付けられたが、クレオメは大して好きではなかった。大して甘くないし、そもそも食べられないし。菜食主義の俺はひたすらに葉物を貪りながら、それでも彼から貰った花を捨てられずにいる。
 俺の脚は彼のとびきりに長いものを揃えていたので、羨ましくて仕方なかった。自分の脚はとても短くて、彼の足の先にも満たなくて、会えば会うほど惨めになるのに、彼は笑って鋭い牙で愛のしるしを残すのだ。

「無痛」
「賢いなぁ君は。正解」
「俺は馬鹿にされてた?」
「そんなことないよ」

 彼は顎が発達していた。たまに脚に牙(と呼んでいるが、顎だと恰好がつかない気がして呼びづらい)が食い込んだがなるほど、確かに痛くないものなぁ。鳥や鼠なんかはつつかれたら痛い痛いと喚くのに。俺たちはなんて平和だろうか、と返せば、そうだね、と彼は返すだけで、隣に腰掛けて横たわってしまった。
 腹が減っただろ、と問えば、そうだな、とだけ。そうして彼は湿り気のある夜を体に被せ、軈て眠る。目蓋のないものだから、たくさんの球体は晒されたままだった。菫色した天井は遠くて遠くて、自分の短小な腕では届きそうにないので、満たせるだけ満たそうと、終わらぬ食事を続けた。
 彼は変わり者だった。自分も大概変わり者だった。いつでも一緒だったので、あいつも俺も仲間がいない。昔はみんな後ろ指を指してせせら笑ったものだ。そんな奴らももういない。みんな刹那を食べて生きる生き物であったし、自分たちもそうだった。

 痛覚がないのは神様の情けなのだそうだ。ところで神様とはなんだろう。彼はよく不明の概念を投げ掛けることがある。



「君、俺と君の違いが何か分かってる?」

 柔らかい皮膚を君はいたく愛してくれたのだけど、俺は引きこもって柔らかいクリームになって、ぐるぐると回転していた。小さい時の感覚によく似ている。そうやって生まれたらひとりで、誰の目にも留まらぬ生の中で君が俺を見付けた時に、これを運命と名付けた。ウンメイは葉っぱよりは美味しくないし、雨ほど煩わしくはないし、あってもなくても困る代物ではなかったが、君もまた運命というものを愛したので、あれはキョウユウザイサンなのかもしれない。
 残念ながら答える口も受け取る手もないもので、さてどうしようと無言ながらに悩んでいた。考える頭も、彼の声を聞き分ける耳も、君を捉える瞳も全部混ざってしまったので、カスタードクリームが徐々に固まるような緊張感と、弛緩する意識を結わえながら、彼がいる自覚だけしていた。彼ならいいと思った。生憎この世界は俺と彼でできちゃいない。痛覚がない理由はそういうこと。

「俺は君を待ってるよ」

 なぁお前。お前は驚くほど素直で愚直で、そんな奴を見たことがない。世間にはお前みたいな奴がごまんといるのだろうに、俺は驚くほど世間に目を向けていなかった。ずっとずっと上だけを見ていたから、お前に呆れられたこともあったけれど、俺は上を目指す生き物だから、仕様がないことだとは思わないか。
 混ざっていく、削られていく、増えていく。お前、お前の丸い目はお月様みたいでギラギラしていて、どうしてそんな煌めきを抱いていられるか不思議でならなかったよ。月は夜を照らすらしい。お前も何かを照らすから、銀の目を持っていたのかい。

「ずっと待ってる。その時は答え合わせしよう」

 愛しい君、この世で美味しいものってなんだと思う。タヨウセイが蔓延る鬱蒼で、何が俺たちの胃を満たすと思う。腹が減った。次に会う時はお互い腹を満たそう。甘い物がいい。死ぬほど甘いものを貪って死にたいのだけど、君はどうだ。
 明日は晴れるらしいよ。


「君、おはよう。答えはどうだ、出そうか」

 今日は晴天、オヒガラもよく。露が朝日を吸い込んで、つるりと光る。刺すような白の中で、枯れたクレオメが埋葬されている。命を吸い取るように聳え立つ百日草に寄り添うと、待ち侘びていたように彼は首を傾げていた。
 体が重い。背中が鉛のように重かった。だが彼に合わせて誂えた長い脚がお気に入りで、甘いクリームの時期は雨とともに去って、何もかもが目映かった。

「君、俺は腹減った。少し待ってろ」
「君。俺はずっと待ちぼうけを食らっているんだが」
「俺も一緒だ」

 甘い物が食べたくて食べたくて堪らなかった。やっと胃袋に収めた蜜の極上の甘さときたら、天上に昇り詰めるほどの多幸感を齎した。彼は珍しく苛立っていたが、自分が気にしたところで彼を満たしてやれるはずもないので、久方振りの食事を貪って、口を汚しながら蜜を啜り、飲み干す。
 嚥下する液体が喉に絡み付く。窒息すらしそうな粘度で急速に胃の腑へと落つ蜜は、出来上がったばかりの頭すら満たしていた。

「君、答えてやってもいいけど」
「うん」
「寂しくなるな」

 チチ、とけたたましく鳥が羽撃くもので、自分よりも彼が肩を激しく揺らしていた。臆病なのは彼の方なのかもしれない。そんななりをしておいて雄(かどうかは知らないが、勝手にそう認識していた)が廃るというのに、彼はいつだって怯えていた。元来、彼はそういう気性であったし、明日も怯えて生きていくのかもしれない。せめて今日から背筋をしゃんと伸ばして生きていく気概を見せてほしいというのに。
 重い背中を揺らめかせると、奴の目のように爛々とした模様が視界にちらついた。丸いまるい月みたいな目がたくさん。これもお前とお揃いだと自慢したかったのに、お前は口を固く閉ざすものだから、胃が凭れてならない。

「なあ君」
「…………」
「俺は甘い物が好きだけど」

 続きは言わずとも彼がよく理解している。続きは此処にある。言葉にせずとも此処にいる。だから彼は途方もない時間を、あまりに短い時間を待ち侘びていた。素直で愚直で馬鹿な彼はその瞬間のためだけに生きているし、俺と一緒に生きてきたし。
 俺は裏切りと思わないよ、そういう世界で生きていて、そして死ぬ。俺たちがなぜ痛覚を与えられなかったと思う。刹那は毒でしかないからだ。俺たちはすぐ死ぬ。仲間はもう死んだ。なぜ死んだか俺は知っているよ、お前ほど馬鹿ではないし、俺はこの目で全部見てきたので。
 だから良いよ。俺は初めからお前を許しているのだから、自分のことくらい、許してやったらどうだ。

「君は死にたいのか。此処はうるさいから、俺も君もどうなるか分からんのに」
「君。俺、本当は」
「我慢すんな」

 君みたいな長い脚、君みたいに丸い目、蛇の目模様、ご馳走を喰らった俺はこの世で誰よりも祝福され幸福で、誰より天国に近いです。その時は先に行って君に教えてあげよう。神様というものがどんなかたちをしているか。
 だからもういいよ、君は優しすぎた。花は綺麗だし、空は蒼いし、腹はいっぱいだ。痛くないのは怖くないということ。だからもう、いいよ。

「愛してるよ、」

 少しだけ未来の話をさせてほしい。お前のナカでバラバラの俺がお前を満たしてやれるだなんて、これ以上の幸せがあると思うか。お前の潤しがたい渇きを癒せるなら、俺はこの体で良かったと心底喜んで、ゆっくりとお前に溶かされたい。
 君、他の奴らになくて君にあるものを知っているか。愛だよ。君はそのうち交尾すらせずに鳥や蟷螂に喰われたりして終わるのが目に見えているし、そうでなくとも空の胃の腑で朽ちるのも想像に易いときたものだ。だけどそんな馬鹿な君が愛しいよ。真実はお前の胃酸と共にある。愛してるよ。
 メキメキと腹が破れて、クリーム状のはらわたが溢れた時に安心したんだ。君に見せたかった変身のあかし。たくさんの脚はもうないし、柔らかいからだもないけれど、永きのお前の飢えを癒せますように。痛くない、痛くない。脚の先も鱗粉もどうか残さず収めておくれ。俺のことなぞ忘れていいから、俺が溶けきるその時まで、お前は生きろ。
 俺はお前の腹の中で舞ってみせるさ。

「綺麗な翅。長い脚。黒い瞳。曲がった触覚。丸い腹。みんな可愛かった。美味かった。愛してるよ」

 ああ、ああ、ありがとう。お前に摘まれる命よ、ありがとう。俺は飛ぶことにするよ、お前の胃の腑で、はらはらと。

「ごちそうさま」

 だからそこで、見ていろ。

回る



 二匹はそれを愛と呼んだ。生き物なら皆するであろう行為だった。たった一度きりの愛を咀嚼した虫たちは生き物として構造を間違えたのかもしれない。
 ずっとずっと覗き見していた。まっさらな土から緑が芽吹く時からだ。眠りから醒めて、二匹が愛に至るまでの一部始終を葉と葉との隙間、或いは枝の間から、息を潜めてその者たちを見つめていた。
 小さな蜘蛛が蛇の目の卵を喰らいたそうにじっと構えていたら、そこから生まれたもっと小さい芋虫に感嘆していたことも、蛇の目の幼虫が仲間に着いて行かずに蜘蛛に引っ付いていたことも、実は蜘蛛が仲間を喰らう瞬間もあった。
 だからつまり、蜘蛛が蛹になった硬くやわらかい肉を敢えて見過ごしていたのも、蝶になって飛び立つ間もなく蜘蛛が喰らったのもすべて、すべて目撃したということだ。暇だと言われたらおしまいだが、生憎食べ物には恵まれていたので生きていくのに問題はなかった。ただ、蝶が言う「愛してる」が腑に落ちずここまで来た。
 ――すべては愛ゆえです。そいつらは終始うっとりとしており、蝶は瞬く間に肉体を噛み砕かれ、腹へと収まっていた。愛してる、あいしてる。うわ言みたいに繰り返すのは湿った読経のさまと一緒だ。
 虫たちが何を言っているかわからなかった。愛というのは交尾じゃないか、蜘蛛と蝶は交尾ができない。なら愛なんてないだろう。あいつらは一緒にいすぎて気がふれてしまったのかもしれない。だって喰って喰われる関係の何処から愛が生まれるんだ。
 俺にはわからないので教えてくれませんか、そこの綺麗な蜘蛛さん。……すると蜘蛛はにこりともせずに「いいよ」と口遊んだ。たくさんの銀の目が太陽の下でギラギラと照り付いていた。△△という紫の蜘蛛は、当時と比べてすっかり大きく成長しており、そいつの腹には幾度となく虫が収まった。消化される食べ物は蝶ばかりで、他の虫が砕かれた記憶がない。
 蜘蛛は極度の偏食家だった。常に飢え、常に死にかけている。それも愛ゆえ、だと言う。アイユエ、アイユエ。死に逝くためのまじないみたいだ。

「この季節に蝶なんているわけないだろ」

 蜘蛛は今日も空を見上げている。広くて狭い空を切り取るように糸を垂らし、透明な巣の上で横たわっている。ぷんと膨れている腹も心なしかぺちゃんこだ。
 蝶を待っていた。その胃に収めるためだけに、蜘蛛は空腹と横たわる。春解けの氷柱みたいに透き通った視線はなんとも鋭利で、気を緩めたら自分が串刺しにされるような気迫さを見せたが、当の本人は虚ろに長い脚を伸ばすだけだった。

「それもそうだ」

 だが季節は秋を迎えた。蝶も数が疎らとなり、姿が見えたら幸運というレヴェルで、代わりに飛び交うのは多量の蜻蛉と蛾くらいなものだ。蜘蛛は蛾すら受け付けない。粉っぽいから嫌だ、と幼子のように首を振ったが、蝶とて鱗粉があるだろう。蜘蛛の嗜好はよくわからない。
 俺は雑食であるからして、食えるものはなんでも食べた。動くものなら大体は食せるし、空腹はいずれ死を齎す。生き物は誰だって死と隣り合わせだが、蜘蛛は特に死に近しい。蜘蛛は瞬きができないので、死がそいつの分以上に銀の眼の前で瞬いていることだろう。

「お前は死ぬのか」
「死ぬかもしれない」
「それもアイユエとかいうやつか」
「そう。愛ゆえ」

 人間でいう文学的かつ抽象的な単語が嫌いだった。しかし嫌いという言葉で片付けてしまうのも惜しかった。人間が思うより生き物はずっと賢いのだが、人間たちに暴かれる日はまだまだ遠い。永遠より遠いかもしれない。
 俺には脚というものがないので巣のそばの枝にしどけなく絡んでぶら下がっていると、蜘蛛は暇なの、と零す。言葉に関して無知であるように、それしか言わなかった。

「俺はお前の言うことがちっとも理解できん」
「無理して理解する必要があるのか。俺はあれを愛と呼びたいだけだし」
「はあ」
「あれが愛じゃなくても、実は良いと思っている。だが俺は愛と呼ぶ。あの子が呼んだから」

 蜘蛛はこちらの名を呼んだことがない。お前とかアンタだとか棘のある二人称しか使用せず、固有名詞は蝶にばかり向けられる。名前なぞ教えてもいないし、訊かれもしないので構わないのだが(なお△△という名前は盗み見したから覚えただけの話で、△△と呼ぶのははばかれた。普段はお前だの、蜘蛛さんだのと呼んでいる)愛は蜘蛛が唯一吐く固有名詞に使われるのだろうか。
 蝶は差程美しい生き物ではなかった。蛇の目が常に注視している気がして苦手だった。枯葉色の地味な色に浮かぶたくさんの眼球。猛禽類の瞳そのものだ。なんて人のことは言えた義理ではない。目付きの悪さはお墨付きだ。蝶よりも派手な紫色をした蜘蛛の方が鉱石みたいに目立って恰好が良いと思うのだが、蜘蛛は独り言として「あの子の翅がいっとう可愛かった」「蝶は誰よりも美しい子だった」「○○」「あの子の脚を一本だけ食い損ねた」云々。病的なまでに蝶の生き様を語り継ぐ。そろそろ寓話も途絶える頃だろう。物言いは虚ろで、銀の煌めきも霧がかったように薄い。毛並みもどこかぱさつき始めていた。
 終わりが近い。蜘蛛は蝶より長い命の持ち主だが、俺からしたら蜘蛛も大概薄命だった。木の葉が落ちる度に蝶の名を呼ぶ蜘蛛の腹は随分と縮こまっていた。



「時にお前、名前を聞いてなかったな」

 蜘蛛から話し掛けるのはとても珍しいことで、木枯らしみたいに上擦った声で名を問われた。この頃には蜘蛛は動くことも巣に留まることもできず、枯れ葉のベッドに横たわることで消耗した体力を保っていた。だが蜘蛛に冬を越す力はないと見て、手向けとして名を教えてやろうと決める。

「××」
「へえ。……お前、愛とやらがどんなものか、お前なりに理解したんか」
「ようわからん。一生わからんかもしれんなぁ」
「なければなくてもええし、あれば心ゆくまでええもんや。……そうやって我が儘に生きてきたし、もうええやろ」

 長い脚が腹を摩る。そこに膨らんだ卵でもあるかのように蜘蛛は大事そうに腹を撫で、またあの名前を呼ぶのだ。○○、○○、語尾はどんどん霞み、風に混ざって音が奪われていく。
 どうして愛しげに蝶を憶えていられるのか不思議でならなかった。食えば終わりであり、思い出など短命の生き物にとって不要なものでしかない。思い返す暇があろうものなら死に一直線だ。今の蜘蛛のように。だが蜘蛛は鋭い顎をぱくぱくと動かして、馬鹿の一つ覚えみたいに○○、と呼ぶ。あたかも蝶がそこにいるかのように天に脚を掲げ、翅の輪郭を描く。蜻蛉の編み目模様すら鳴りを潜めた寒空は蜘蛛を無情に撫でていく。

「なぁ、ひとつお前にお願いがあってなぁ」
「なんだ」
「喰ってくれないか、俺のこと」
「……気でもふれたか。お前は長くない。何も命を無駄にすることはないだろ」
「無駄なんてあるもんか。今ここでくたばる方が余程無駄だし……それに」

 それに、あの子にまた逢えるし。
 蜘蛛が蝶を喰らった。蝶はぬくもりの失せた季節で生きていけるような生き物ではない。刹那のあわいでしか存命できぬようなか弱いものでしかなかったのに、何が蜘蛛をここまで焦がれさせ、狂わせるのか、今の今ですら理解に及ばなかった。愛ゆえに生きた蜘蛛は死を乞うた。透明な翅の再会を願い、終わりを迎えたがる。

「お前を喰ったら、愛とかいうシロモノをわかってやれるか」
「さあ……」
「せめてお前のことくらい、わかってやれるか」
「はは、お前も大概変わりモノだなぁ」

 灯火は今や細くたなびき、煤を上げている。蜘蛛を下にじっと睨み付けると、それはは嬉しそうに「○○」と告げた。「お前の目、あの子の翅そっくりや」
 この時少しだけ、蜘蛛が自分の隣にいた理由がわかった気がした。ジャノメチョウの名はまさしく自分の容貌から取られたもの。となれば蜘蛛が逃げようともしなかったのは明白だ。
 蛇の目を眼孔に嵌め込み、鱗だらけの肌をぬらりくらりと蠢かせて地を這う己は虫に非ず。喰うは虫も小動物も関係ないこと。我が名は蛇。大蜘蛛すら丸呑みする俺の前に、蜘蛛はたじろぐことなく長い脚を伸ばした。

「要は気持ちだ。一目惚れだった。あんな可愛い卵を見たのは初めてだった。早く喰ってしまおうか迷ったら芋虫が生まれた。毎日迷った。日に日に喰いたくて喰いたくて堪らなくて、伴って可愛い可愛いと思う。あの子を空なんかに飛ばしたくなかった。飛ぶなら俺の腹の中で羽撃いてほしかった。愛も食欲も俺の中じゃ一緒だったけど、でもそうじゃない。俺はあの子を忘れたくなかった。だから蝶しか喰わなかった。腹の中で溶けてもあの子は可愛くて愛しくて、本当、」

 粉っぽい翅、硬い脚、ぱんぱんに膨れた腹から溢れたクリームみたいなはらわた、転がる目玉、何でも美味しくて愛しかった。蝶を喰えばジャノメに出逢える。でも後にも先にも美味しいのはあの子だけだった。あんな馳走は一度きりで良い。蝶が愛だと言って喰われた命ならば、蝶を喰らうのはその場限りの愛情返し。美味しいものには二度と出逢いたくない。あの子を忘れてしまうから。
 蜘蛛は訥々と呟くと、いよいよ光を明滅させ始めた。頼むから、と掠れた声で懇願する蜘蛛を見て蝶が喰われたシーンを重ねる。丁寧に噛み砕き、飲み込む蜘蛛。交尾より優しく実直な行為。二匹が愛と読む意味はそういうことなのだろうか。未だに理解に遠かったが、喰えばわかってやれる気がした。となればこの行為も愛になるのか。

「俺がお前を喰ったら、蝶は嫉妬しないか」
「馬鹿言え、あの子は初めから俺と一緒だし」
「逢えるとか一緒とか、お前めちゃくちゃだぞ。分かってるか」
「ああ。……まあでも、俺はお前と愛し合えないから、お前はお前なりの愛を探せばいい」
「そんじょそこらに落ちとるものか」
「さぁ。お前次第じゃないの……まあ、そのうちな。そのうち…………」

 それから蜘蛛は銀の光を静かに消した。けらけらと笑ってぷつりと黙りこくった瞬間に、俺は頭部より大きな蜘蛛の肉体に、大口を開けて喰らいついた。大きな塊はたまに蠢いたが暴れはしない。蠕動する喉をゆっくりと引っ掻きながら、食道という黄泉路を通う。いつか胃の腑に辿り着いたらそこが終わりであり、二匹の逢瀬の場となる。
 ごくん、と飲みきると、胃のあたりがぼこりと出っ張っていた。鳥の雛より大きな骸は次第に消化されて、何もなかったことになるのだろう。しかし自分にはそうは思えなかった。蜘蛛がこれを愛と呼ぶなら、溶けなかった想いふたつが胃液の中で邂逅する。それはきっと幸せなことなのだ。自分は最期まで蜘蛛を△△と呼べなかった。盗み見していたことも告げられなかった。しかしこれでいいのだろう、これで。
 ふたりが再会した暁にはどうなるのだろう。新しい翅でもこさえた蝶が蜘蛛の腹に乗り、自慢げに翅を見せ付けるのか。そうしたら蜘蛛は揚羽みたいだと褒め称え、ずっと溶け合うのだろうか。やはり虫の考えはわからない。
 何はともあれ腹は満たした。もうすぐ眠りの時期だ。自分も喰うだけ喰わねば。突如訪れる眠気に抗うようにして、幹に尾を擦り付けた。深い深い藍が空を覆い尽くそうとする頃、ホウホウと誰かが呼び掛けた。
 ××、××。明らかに蜘蛛の声ではないその者に向かって頭を上げると、遥か頭上で鋭い爪が見え隠れしていた。

Carpe Diem

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