雪煙

午前3時、雪に隔てられた離れの寝室にて

この美しさをなんと表現したらいいのだろう。私は正面からその姿を眺めた。陶器のような白い肌も、薔薇のように赤い唇も、泉のように澄んだ瞳も、どこもあまりに美しく、まるで精巧につくられたビスクドールのようだった。蝋燭の灯りの揺らめきが、いたって無表情なその顔にささやかな表情を浮かべてみせた。もう何時間と見つめているが、時折思い出したように下ろされる瞼以外、それを生きていると思わせる要素はなかった。瞼は瞬間、輝く宝石の光を暗幕で包む。それだけで、暗幕から表れた瞳の表情が変わるだとか、涙が流れるだとか、そういったことは起こらなかった。その一対の瞳はただ、一種の恍惚をたたえながらぼんやりと朝靄のように正面を見つめるばかりであった。
本当に生きているのだろうか。私は怖々と手を伸ばしてその髪に触れる。濡れ羽色のみずみずしいそれはたしかに人毛だが、高価な人形に人毛を使うことは少なくないだろうから、これではまだわからない。私は一度引っ込めた手をそっと頬へあてた。薄い皮膚はひやりと冷たいが、この冷え切った空気の中では、生きていようがどうあろうが頬はこのくらいの冷たさだろう、と思うと結局よくわからなかった。
私はさっきよりも大胆に両の手でその顔を包み込んだ。手のひら全体に高貴な冷やかさが触れた。そのまま薬指を滑らせて鼻筋をなぞり、指先が人中へとたどり着いたとき、たしかに温かく、私たちに流れる血の湿りを感じる息が指先をなでた。私は思わず、「あっ」と声をあげた。すると、目の前のそれもあっと小さく口を開き、その口内にはやや黄色みがかった歯が並んでいた。私は驚愕のままによろめき、壁に立てかけていた円鏡を倒してしまった。円鏡は音を立てて割れ、尖った破片がまるで私を指す矢印のように床に散った。私はそれの中のひとつを拾い上げ、ゆっくりと首にあてた。

午前8時、離れに続く渡り廊下にて

 姉がおかしくなったのは去年の暮、従兄弟のマサノブが亡くなってからである。姉は一つ年下のマサノブを弟のように可愛がっていたから、そんな大切な存在を亡くしてあまりの辛さに心を少し病んだのだろうと私は思っていた。しかし、しばらくの間、姉の理解できない行為を見ていると姉がおかしくなったのは、マサノブの死を悲しんだ末のものではないと私は思うようになった。姉はマサノブが亡くなってから、一日に何時間も鏡で自分の顔を見つめるようになった。髪を整えるとか、紅を引くとか、そういったことは何もしないで、ただ自分の顔を見つめているのだ。そうしている間は誰が声をかけても、肩をゆすってもなんの反応も返さない。ただ人形のような焦点の定まらない瞳で自分の顔を見つめているのだ。そして、何時間も見つめると、ふと自分の顔を触る。額や頬、瞼、それらに触れて、急に奇声をあげたり、その場から走り去るといった突発的な行動をとるようになった。
 やがてそのおかしな行為は頻繁に、そして突発的な行為は自傷行為に発展するようになり、父は悩んだ末に姉を離れに隔離した。離れには刃物や筆記具といった体を傷つけられそうなものは何も置かず、扉には外からしか開けられない鍵を取り付けた。初めは鏡も置かなかったが、姉があまりにも泣いて暴れて要求するものだから、父が観念して円鏡をひとつ、部屋に置いた。姉は日がな一日、鏡を見て過ごし、突発的に暴れ、叫び、眠って過ごすようになった。不思議なことに、姉は尖ったもの以外で体を傷つけることはなかった。

 雪がひどく降った夜が明けて、朝、離れまで朝食を届けに行くと、姉が死んでいた。血だまりの中、割れた鏡の破片を握って。目は閉じていた。

 それから数日は慌ただしく過ぎ、私は姉がおかしくなる前に使っていた部屋を片付けた。机の上には、マサノブの葬式の時に姉が持っていた黒い鞄が置いてあった。明るい色で覆われてる姉の部屋で唯一の黒色である小さなその鞄がなんとなく気になった私は、すこし悩んだ末にそっと鞄を開けた。中には数珠とハンカチと、カバーのついた文庫本が一冊入っていた。おかしいと思った。お葬式に本を持っていくなんて、普通はしないことだろうし、姉は元々本を読まない人だ。手に取ると、その本は古く、日に焼けて、何度も読まれたような状態だった。図書館の本ではない。蔵書印もなし。ぱらぱらとページをめくり、最後、奥付をなんとなく見てみると、隅に癖字で「正信」と署名があった。私は震える手でカバーをはずし、本の題名を見た。
『ドリアン・グレイの肖像』
 何度も開かれたのだろう、開き癖のついたページには署名と同じ青いインクで線が引いてあった。
「時はあなたを妬み、百合や薔薇のごときあなたの美しさに敵対しているのだ。」
 姉は美しい人だった。あまりに美しい人だった。



(引用)(1962)オスカー・ワイルド著 福田恆存訳「ドリアン・グレイの肖像」新潮社

雪煙

雪煙

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-02

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  1. 午前3時、雪に隔てられた離れの寝室にて
  2. 午前8時、離れに続く渡り廊下にて