散りゆく桜の花のようにそっと6

  ☆


「なあ、そろそろ俺らも潮時なんじゃないかなぁ」
 田畑がそう呟くような声で言ったのは、いつものようにスタジオで練習を終えたあとのことだった。

「潮時って?」
 田畑が言わんとしていることの意味はわかったけれど、わたしは敢えてわからなかったふりをした。
 
田畑はわたしの顔をじっと見つめた。そしてそれからすぐに顔を伏せるようにして眼差しを逸らすと、
「だから、その、俺たち、そろそろ音楽なんか辞めたほうがいいんじゃないかって」
 と、言い難そうに言った。

 わたしが田畑の言葉に黙っていると、

「今年で俺らが音楽をはじめてもう六年目だろ?」
 と、田畑は眼差しを伏せたまま言葉を続けた。
「だけど、なにひとつ目に見えた結果なんて出せてないじゃん」

 わたしが田畑の言葉に黙っていると、
「だから、そろそろ区切りをつけたほうがいいんじゃないかって思うんだ」
 と、田畑は弱い声で言った。

「・・・俺も来年で二十八だしさ、そろそろ現実を見たほうがいいのかもなって」

 わたしは田畑の言葉に何か言わなきゃ、答えなければと思ったが、自分の気持ちが上手くまとまらなかった。田畑が口にした言葉の意味は、わたしにもよくわかった。わたし自身も田畑と似たようなことを考えることはよくあった。わたしももう二十七歳で、かつてのように無邪気に自分の可能性を信じられるほど若くはなかった。そろそろ現実を見るべきなのかもしれないとは思っていた。でも、その一方で、自分の夢を諦めたくないという気持ちも、どうしようもなくあった。だから、そのふたつの気持ちが鬩ぎあって、わたしは自分の意見を口にすることができなかった。

「もちろん」
 と、田畑はわたしが黙っているので、わたしが音楽を辞めたくないと思っていると思ったのだろう、気を使うように続けた。

「もちろん、そのことをお前に強要するもりはないよ。お前がもしまだこれからも音楽を続けていきたいって思ってるんだったら続けてくれ・・・ただ、俺はそろそろ違う生き方を模索してみてもいいかなって思ってるんだ」

「・・・そんなの、勝手じゃん」
 と、わたしは数秒間をおいてから少し小さな声で言った。
「わたしはどうすればいいの?」

 田畑はそれまで伏せていた顔をあげると、わたしの顔を見つめた。

「あんたがいなくなって、わたしはひとりでどうやって音楽を続けていけばいいの?」
 言いながら、まるで子供がだだをこねているみたいだなと思わないでもなかったが、しかし、田畑の音楽がやりたかったらひとりで続けてくれという言葉は、わたしにとってあまりにも冷たい言葉のように感じられた。少なくとも、そういうことを決めるのは、わたしに相談してからにすべきなんじゃないのかと思った。

「それは」
 と、田畑はわたしの言葉に少し言いよどんでから、
「誰かべつのひとを見つけてもらうしかないのかな・・・悪いとは思うけど」
と、田畑は申し訳なそうに言った。そしてそれから、
「・・・それに、お前ぐらいしっかりした技術があれば、お前と一緒に音楽をやりたいと思うやつなんていくらでも見つかるだろう」
 と、励ますつもりで言っているのか、わたしの気持ちをまるで無視した言葉を田畑は口にした。

 わたしは田畑の言葉に黙っていた。わたしが一緒に音楽をやりたいと思うのは、あんたなんだよ、と、わたしは田畑に向かって叫んでやりたいような衝動に駆られたが、でも、どうにかその言葉を飲み込んだ。代わりに、
「なんかあったの?」
 と、尋ねてみた。

わたしの知る限り、はじめてだったのだ。田畑が音楽を辞めたい口にするのを聞いたのは。これまで田畑が音楽を辞めたいと口にしたことは一度もなかった。だから、田畑が急に音楽を辞めようと決意するに至ったのには、何か特別な理由でもあるのだろうかと気になったのだ。

 田畑はわたしの顔を見た。そしてその瞳をすぐに逸らすと、僅かに逡巡するように間をあけてから彼は話はじめた。



  ☆


 田畑の話したことをまとめるとだいたいこういうことになった。

 田畑にはずっと昔から片思いをしている女性がひとりいた。

そのひとは高校のときのクラスメートで、田畑は高校を卒業したあとも、そのひとと友達として親しく接していた。ときにはふたりきりで食事に行ったり、映画を観にいったりするようなこともあった。

でも、田畑と彼女の関係は、あくまで、仲の良い友達としてのそれだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。というのも、そのひとには田畑とはべつに恋人がいたからだ。

その恋人は、彼女よりもふたつ年上の男だった。そして彼女は田畑が彼女のことを思うのと同じように、あるいはそれ以上に、恋人のことを深く愛しているようだった。だから、田畑はそんな彼女の想いを知っているだけに、わざわざ自分の気持ちを彼女に伝えようという気持ちにはなれなかった。

なぜなら、そんなことをしても無駄なだけなのはわかりきっていたし、なにより、自分の思いを告げることで、彼女の気持ちを変に混乱させたり、傷つけたりしたくなかったのだ。それくらいならば、いっそ自分の想いは心のなかにそっとしまったままでいようと田畑は思った。

 田畑は高校を卒業すると、専門学校で知り合った、自分に好意を寄せてくれた女の子と付き合うようになった。そのときも田畑は高校のときに知り合ったひとのことが好きだったのだが、誰か他のひとと付き合えば、彼女のことを忘れることができるかもしれないと思ったのだ。

でも、結果として、それは失敗に終わった。専門学校で知り合った恋人のことをそれなりに好きになることはできたが、でも、それは本当の意味で誰かを好きになるのとは違った。

そんな田畑の気持ちを見透かしたように、一年ほどもすると、専門学校で知り合った女の子は田畑のもとを離れていった。

その次はアルバイト先で知り合った大学生の女の子と付き合うようになった。でも、そのひとともやはり最初に付き合った女の子と同じように、上手くいかなかった。田畑が彼女の気持ちと真剣に向き合うことができずにいるうちに、恋人の方がそのことを悟ったように静かに田畑のもとを去っていくのだ。

そういうことが何度か続いたあと、田畑は恋人を作るのはやめた。きっと自分は高校のときに知り合った彼女以外のひとを好きになることはできないのだろう、と、思った。無理に自分に好意を寄せてくれたひとと付き合って、そのひとを傷つけてしまうのは、田畑の本意ではなかった。それくらいならいっそずっとひとりでいて、高校のときに好きだったひとのことを思い続けていようと決意した。

孤独といえば孤独な気もしたが、でも、田畑には恋愛以外にも、音楽という情熱を注げるものがあったので、それほど惨めな気持ちにならなかった。

 そのようにして三年ほどの月日が流れた。
 
田畑が、高校のときに好きだったひとが精神的に不安定になっているという話を友人から聞かされたのは、半年前の正月に実家のある鳥取に帰省したときだった。

田畑はこのところ彼女とは疎遠になっていたので、その事実を全く知らなかった。詳しく話しを聞いてみると、彼女は高校のときから付き合っている恋人と大学を卒業してからも付き合い続けていて、結婚する話までしていたということだった。

でも、ある日突然、その話は流れてしまった。彼女の恋人が他に恋人を作って、そのひとのもとにいってしまったのだ。

 結婚する話までしていたのに、恋人に裏切られてしまった彼女は、これ以上はないというくらい深く傷つくことになった。それはある意味では事故や病気で恋人を失ってしまうよりもなお辛いことだった。

 そんな彼女においうちをかけるように、彼女の勤めている高校で(彼女は高校で数学の教師をしていた)あらぬ噂が流れはじめた。それは、彼女が生徒のひとりと恋愛関係にあるという噂だった。

 彼女はすぐにその噂を否定したし、それが原因で彼女がなんらかの処分を受けるようなことはなかったのだが、しかし、彼女のことを噂する声はなくならなかった。むしろ、どんどん噂は尾ひれをつけて広がっていて、しまいには彼女がアドルトビデオに出演しているという噂まで流れ出す始末だった。

 最初のうちは笑って気丈にふるまっていた彼女も、そのうちにそういった心ない声を無視することができなくなっていった。おまけに、彼女は心から愛していた恋人にひどい裏切られ方をされたばかりだった。

 次第に彼女は学校に行くのが辛くなり、教師の職を辞職して、実家の家にひきこもるようなっていった。彼女は他人を信用することができなくなり、無気力になっていった。もう何かもがどうでもいいと厭世的な気持ちになっていった。そんな彼女を励まそうと彼女の友達が彼女を訪ねてきてくれたが、彼女は誰も会おうとはしなかった。

 幻聴がはじまったのは、実家に引きこもるようになって半年程が経った秋のことだった。彼女がひとりで自分の部屋でいると、目に見みなえい誰かが自分の耳元でずっと自分の悪口を言う声が聞こえるのだ。

 彼女はその声を振り払おうと怒鳴り散らす。でも、そうしてもどうにもならない。幻聴はますますひどくなっていく。

 事大を重くみた彼女の両親は彼女を精神病院につれていった。そしてその精神病院で彼女は半年ほど治療を受け、今はどうにか比較的に病状も安定して、実家に戻ってきているという話だった。

 田畑は友人からその話をきいて言葉を失ってしまった。自分の知らないところで、自分の好きなひとがそんなにも辛い目にあっていたのかと思うと、東京にいてのうのうとギターを弾いて、好きなことをやっていた自分が許せない気持ちになった。どうして自分は彼女がそんなに精神的追い詰められているときに、彼女の側にいてやれなかったのだ、と、悔しかった。

 田畑は翌日彼女の実家を訪ねていくと、彼女の両親に会って、彼女との面会を申し込んだ。でも、彼女は田畑とは会おうとはしなかった。ひとりにさせて欲しいということだった。

 それでも田畑は諦めきれずに、毎日のように彼女の家に通い続けた。正月が終わり、東京に戻ってからも、暇を見つけては鳥取に帰り、彼女の実家に通い続けた。そして田畑のそんな熱心の思いが通じたのか、最近になってようやく田畑は彼女と会うことができたという話だった。

「・・・久しぶりに会った彼女は、正直まるで別人だったよ」
 と、田畑はいくらか憔悴したような表情でわたしの顔を見ると言った。
「表所が暗くてさ、常に何かに怯えてるような感じなんだ・・頬のあたりもやつれてるし・・・辛かったよ、そんな彼女を見ているのは」

「・・・そっか」
 と、わたしは田畑の話に相槌を打った。田畑の話に何をどんなふうに感想を述べればいいのかわからなかった。

「・・・なんでなんだろうな」
 と、少しの沈黙のあとで、田畑は俯き加減に弱い声で言った。

 わたしは田畑の言葉の続きを待って黙っていた。

「なんでこんなことが起るんだろう」
 田畑はつくづく納得できないというように言った。

「・・・なんでアイツがそんな目に合わなきゃいけないんだろう」
 田畑はそれまで伏せていた眼差しをあげてわたしの顔を見ると、わたしに向かって抗議するように言った。

「・・・まださ、俺の音楽が、どんなに頑張っても芽がでないのは、わかるよ。才能がなかったんだなって納得もできる・・・だけどさ・・・」
 田畑はそこまで口にすると、また顔を俯けて黙った。

 田畑の言いたいことはわかるような気がした。人生にはときどき理不尽としか思えないようなことが起る。なんでと抗議したくなるようなことが起る。でも、わたしたちにはどうすることもできない。わたしたちはあまりにも無力だ。ただ、その現実を受け入れて、その現実なかでどうにか生きていくしかない。

「だからさ」
 と、いくらか長い沈黙のあとで、田畑は口を開くと言った。

「俺、実家に帰って彼女の側にいてあげたいと思うんだ・・・おじさんが酒屋やってて、そこで働かないかって話があって」
 田畑は顔を俯けたまま申し訳なさそうに言った。

「わかったよ」
 と、わたしは顔を俯けたままでいる田畑の顔に視線を向けると、できるだけ優しい口調で言った。
「そういうことなら仕方がないね」
 
 田畑は俯けていた顔をあげると、少し驚いたようにわたしの顔を見つめた。わたしがそんなにあっさりと納得するとは思っていなかったのだろう。

「そのひとが、少しでも早く立ち直れるように、側にいてあげてよ」
 わたしは微笑みかけて、静かに言った。

散りゆく桜の花のようにそっと6

散りゆく桜の花のようにそっと6

散りゆく桜の花のようにの続きです。

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更新日
登録日
2011-03-17

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