モーツァルト「レクイエム」鑑賞
私がこの曲を捧げられた死者である、と想像して書くことにする。
まず第一に、とても悲痛な気持ちになった。曲調が悲しいからではない。むしろ力強く、エネルギーに溢れた曲だと、私は感じる。だからこそ、そんな必死になって私を慰めないでほしい、と思った。忘れられるように眠りたかった。門出を祝うかのように、またはその餞のように、少し、歌をうたってくれればそれでよかった。そんなに大勢の人に、必死で余情溢れるような歌をうたわれたら、私まで悲しくなってしまう。私だって俗人で、現世への未練だって沢山あるんだから、「そちら」の人はせめて笑って背中を押してくれないか。そうでないとまたこちらに戻ってきてしまいそうである。
第二に、この曲の持つ力強さは、ある種の生々しい「生」のエネルギーでもある。私が生きてればそれだって別にいいんだけど、死んでからそれをガンガン浴びせられるとなんだか胸焼けがするような心地である。まあ、胸、もう燃えてるけど。
とにかく、私はちゃんと向こうへ行くから、最期くらい静かに眠らせてほしい。無限の静寂が音楽に成るのは死ぬときくらいだ。
レクイエムは専ら、人が死んだ後に書かれる。「これはモーツァルトが書いたモーツァルト自身への鎮魂歌だ」と誰かが言った。なら、一体モーツァルトはいつから死んでいたのだろうか。
仮に、「モーツァルトは死ぬまで死んでいなかった」とすると、モーツァルトが書いていたレクイエムはまだレクイエムではなかったのかもしれない。モーツァルトはその曲を完成させずして夭逝した。完成させたのはその弟子である。ならば、このレクイエムは、モーツァルトが書き、弟子が完成させることで初めてモーツァルト自身へのレクイエムたり得たのではないだろうか。音楽は究極のコミュニケーションであるように思う。例えば、一緒に楽器を弾くとき、お互いの相手への理解・忍耐・寛容さがあって初めて美しいメロディとハーモニーが生まれる。きっと作曲も同じことだ。モーツァルトは、出来上がったレクイエムを聴いて何を思ったのだろうか。その御魂が慰められていたなら美しいことである。
「モーツァルトは死ぬ前に既に死んでいた」可能性もある。モーツァルトの精神の死、いたいけなる自我の亡失。例えばそれは、精神病、或いは自身の想定外の他者によるまったくちがった己の創生、などによって発生する。モーツァルトを殺したのは誰だろうか。ひょっとして、今も私がモーツァルトを殺し続けているかもしれない。
モーツァルト「レクイエム」鑑賞