MANA & DREAM 白狐の願い

広瀬直樹

MANA & DREAM 白狐の願い
  1. 星空
  2. こんにちは、仮想世界
  3. 夢の外
  4. 飛翔
  5. 亡霊
  6. 荒療治
  7. 疑雲
  8. 幽閉
  9. 再会
  10. 崩壊
  11. 決意

星空

 弘坂伊武輝(いぶき)はただ一人、その光景を見上げて静観していた。
 眼前に広がる満天の星空から、星が一つ、また一つと明かりが消え、暗くなっていく。
 しかし、伊武輝は目を細めて凝視すると、それは雲ではないことがわかった。
 星を隠しているのは、赤い目が一つ見開いている黒煙だった。時折、視線を伊武輝に投げかけながら、空の遠くに漂っている。
 あの黒煙に飲み込まれたら、ここには戻れないかもしれない。
 伊武輝は自分の身に危険が迫っていることを悟り、顔が少し歪んだ。
 見上げた頭を下に向けると、足が着いているはずの地面はなく、奥深くにも無数の星が散りばめられていた。どれも針の穴ほどの大きさで、きらきらと宝石のように煌めいている。
 黒煙に気づかれないように、伊武輝は見えない地面をそっと靴で擦った。ジャ、と砂利の小さな音がした。片足に重心を掛けてもビクともせずにしっかりと立っていられる。どうやら見えない砂利が分厚く積み重なっているようだ。
 でも、この地面がどのくらい先まで続いているのか、わからない。何しろ、全く見えないのだから。坂もあれば、落とし穴もあるかもしれない。もしかしたら見えない小石があるかもしれない。迂闊(うかつ)に動くと、物音で気づかれてしまう。
 伊武輝は顔を上げた。前方には光を放つ小玉の星たちが、彼の目線の高さまで宙に浮いている。そして、侵入しないと約束しているかのように、百メートルくらいまでお互いに離れていた。
 おれは今、星空の中にいるんだ。
 伊武輝はそう確信すると、視界の端から、光が差し込んでくるのを感じ取った。
 後ろに振り向くと、遠方で淡く光る星たちに紛れて、強い光を放つ星が一つあった。近くまで歩けば、伊武輝の身長くらいはある大玉だろうか。その強烈な光は、まるで伊武輝を呼びかけているようだった。脈打つように明かりが小さく揺らいでいる。
 伊武輝は黒煙をちらっと盗み見ると、その星に応えるようにそうっと忍び足で大玉の光に向かった。地面が見えない分、その足取りはとても慎重だった。
 そこに行けば、あの黒煙にきっと飲み込まれずに済む。安全に違いない。
 なるべく足音を抑えてゆっくり歩いていたのだが、靴にコツンと何かが当たった。
 黒煙は、小石の微かな音で伊武輝に気づくと、赤い目がカッと見開いた。
 次の瞬間、濁流のようにゴウゴウとかき立てながら上空から急降下し、死に物狂いで伊武輝を追いかけ始めた。彼を追いかける道中にあった星たちは、逃げる素振りもなく、その場からじっと動かなかった。成されるがままに濁流に飲み込まれ、常闇の中で星が赤い眼光に変貌した。
 そうやって赤い目を増やし続ける黒煙は、他に気を止めることなく、常に伊武輝を追い続け、一瞬たりとも彼から視線を外したりはしなかった。
「嘘だろ……!」
 一瀉千里(いっしゃせんり)に迫ってくる黒煙に、伊武輝はしまったと歯を覗かせながら、全力で素っ飛ばした。地面が見えなくても関係ない。躊躇していては、あいつに追いつかれてしまう。
 転ぶな、だけど早く走れ。
 星空を疾走する伊武輝だが、黒煙との距離は見ていて明らかだった。両者の間が何十キロも離れているものの、その間は急速に縮まっていく。
 逃げる伊武輝の足を捕まえようと、黒煙は遠くから一本の腕を伸ばした。その腕にはわらわらと赤い目が浮かび上がっている。蛇のように地を這いながら、背後から襲いかかった。
 伊武輝は危うく足首を掴まれそうになるが、跳躍して危うくかわした。着地した瞬間に崩れてしまった体勢をなんとか持ち直し、大玉の星に向かって走り続けた。
 黒煙に感づかれる前までは、大玉の星は穏やかに光を波打たせていたが、今は切羽詰まっているようにピカピカと点滅していた。
 早く来いと言っているのだろうか。
 伊武輝の場所から大玉の星まで、距離にしてあと五十メートルくらい。あと八秒もあればたどり着ける。
 だが、今度は二つの腕が飛び出し、伊武輝の行く先を塞いだ。立ち止まった瞬間、とぐろを巻くように、彼の周りをぐるぐると腕と腕が絡み合って、逃げ場を無くした。
「おい、助けてくれよ、なあ?」
 道は閉ざされ、一筋の光明も差してこない。シンと静まりかえる。
 何もしてこない黒煙に身構えていたが、頭のてっぺんから何かが突き刺さってくるのを感じた。恐る恐る見上げると、伊武輝の目が大きく揺らいだ。
 そこには巨人がいた。黒煙を纏った巨大な一つ目が、こちらを見下ろしている。天をすっぽりと埋めるくらいの巨大な頭だ。殺気立つ視線から、空気がピリピリして、鳥肌を立たせる。
 伊武輝はこらえきれずに含み笑いをしながら、何も抵抗もせずに、その場で両の膝を地に着いた。
 これから少しずつ蝕まれるんだ。黒煙の赤い目となって、次々と他の星を食い荒らすんだ。おれは弱い。こんな巨大な相手なら、なおさら結果は見えている。何をしても無駄だ……。
 健康的なピンク色をした唇が青紫色に染まり、ガチガチと奥歯を鳴らしながら、伊武輝は両腕で自分の体を抱きしめた。ふー、ふーと呼吸が乱れ始める。
 巨人は、伊武輝の頭上で口を大きくガパッと開けた。その口から、どろどろとした赤い液体を滝のように吐き出し、伊武輝に浴びせた。
 冷たくて、血の味がして、血なまぐさい。その液体は、伊武輝を絶望のどん底まで突き落とした。
 誰も、来ない。
 足全体がどんどん溶けているような感じがする。赤い液体と一体になっていく。
 誰も、来ない。
 腰まで浸かる。感じていた恐怖がなくなっていく。むしろ、心地いい。
 誰も、来ない。
 胸元まで赤い液体が満たされる。虚ろな伊武輝に、少し笑みが浮かんでいる。
 誰も来ないから、死んでも、誰も悲しまないよな?
 首元まで水位が上がる。虚空を見つめる伊武輝の目は、静かに閉じられた。瞼の裏には何もなく、ただひたすら待つのみだった。
 すると、何もないはずだったまぶたの裏側が、やんわりと赤く染まっていく。そのことに気がつくと、一瞬にして心の重みがふっと軽くなった。そして何より、体に力が満ち溢れている。
 伊武輝はパッと目を開けた。すると突然目が痛くなり、腕で目をかばいながら目を細めた。目の前にいたのは、黒煙ではなく、伊武輝を呼びかけていた星の、強すぎる光そのものだった。伊武輝を浴びせた赤い液体は、すでに干からびていた。
 光の隙間からまだ黒煙がちらついて見えている。大玉の星はさらに一段と光を強くすると、黒煙が雲散霧消した。
「助けてくれたのか?」
 伊武輝は立ち上がって、大玉の星に向かって一歩一歩近づいた。星に近づくたび、伊武輝の意識がぼやけていく。まるで光に溶かされているようだ。
「危険を冒してまで、なぜ、おれを助けた? どこにでもいる一人の人間じゃないか」
 大玉の星に向かって、精一杯手を伸ばした。
「応えてくれ。なぜだ、なぜなんだ」
 だけど、大玉の星は応えてくれなかった。そればかりか、伊武輝を突き放すように、伊武輝との距離がぐんと離れていく。
 伊武輝の意識はそこで、深い眠りについた。

こんにちは、仮想世界

 陽の光が、窓からカーテンを通り抜け、灰色の部屋に燦々と差し込む。まっさらでなにもない部屋だ。余計な雑貨はもちろん、テレビも掃除機も冷蔵庫もない。一見、空き部屋に見えるが、ベッドだけは置いてある。しかしもう昼だというのに、どこか暗い空気が漂っていた。
 うーうーと、唸り声が聞こえてくる。
 その唸り声は、ベッドで横たわっている伊武輝(いぶき)のものだった。暑くないというのに、全身汗びっしょりになっている。その体つきはとても貧相だった。ガリガリに痩せ細っていて覇気がない。傍目から見て、ちゃんと食事をとっているのか心配になるくらい、骨と皮一枚で体を支えていた。
 伊武輝はぱちっと目を醒ました途端、天井を見つめながら安堵の息を吐いた。
「夢、だよな。仮想世界じゃなかった」
 ぼそりと言うと、伊武輝は服の袖で顔の汗を拭った。寝返りを一回打ち、今まで起こったことを思索し始めた。
 さっき見た夢は、本当に夢だったのか? またナノボットの仕業かもしれない。
 ナノボットは細胞よりも一回り小さく、人々の体の中で循環し続けている。主に健康管理やコミュニケーションの媒介として使われているが、実は厄介な欠点がある。
 それは、就寝中に時折、ナノボットの誤作動で仮想世界に入り込んでしまうという点だ。仮想世界とは、現実を模倣して作られた架空の世界で、インターネット上に無数に存在している。
 伊武輝は大きな欠伸をして寝返りを打った。頭の中で黒煙の赤い目が過ぎると、うーんと唸った。
 どこかの仮想世界で、あの煙ヤローと戦った気がする。夢かもしれないけど、仮想世界に飛ばされるのはしょっちゅうだ。見分けもつかない。
 伊武輝が見たのは夢か、仮想世界か。その答えはナノボットに聞けば一発でわかるのだが、あいにく履歴を残さないよう設定してある。プライバシーが監視されて筒抜けだが、一矢を報いて、できることは秘匿しておきたい。そのために対策を施したが、これが裏目になり、事が判明できない。
「怠い……」
 伊武輝は少しでも頭の中をスッキリさせるため、重い腕を動かして、こめかみを人差し指でピッと軽く押した。
「ナノボットのバグはまだ直らないんですか?」
 脳内でラジオが流れ始めた。ナノボットが作り出す幻聴だ。ちょうど、ベテランの女性司会者が、専門家に質問しているところのようだ。
「慎重に扱わなければなりません」と、若々しい男性の声が聞こえる。「誤ると、ナノボットは、ウイルスのように幾何学的に増殖してしまいます。ですが、システム更新中のナノボットを、別のナノボットが阻害するだけで終わるのは、ある意味、想定内のことなのです」
 それはなんでですかと、司会者が促した。
「ナノボットにはあらかじめ、増殖しすぎると自分自身も死んでしまうことを学習させています。その知識が、リミッターの役割を担っているのです。睡眠中に仮想世界に飛んでしまうこのバグは、現状では、ナノボットが分泌する治療薬に頼るしかありません」
「でもさ、飛ばされた仮想世界が危ないところだったらどうするわけ?」
 司会者が強く問いただした。男性は冷静を務めるように、ため息交じりに「そうですね」と言った。
「分析するのは、何も人体ではなく、仮想世界も対象です。ブラックリストが独自に作られ、安全なところだけに接続します。被害報告はありませんし、そのような心配は無用です」
「でも、いつもインターネットに接続しっぱなしじゃないですか、それってわたし、嫌なんですよね」
 もう一人の若い女性が割り込んできた。活発で明るすぎる彼女に、男性は力無く笑った。
「私も懸念しています。過去に起きた日本テロ事件が発端ですが、常にプライバシーを晒している状態です」
 話の途中だが、伊武輝は再びこめかみを軽く押してラジオの音声を切った。天井に体を向くと「はぁ……」とため息を吐いた。
 重たい頭を片手で抱えながら、伊武輝はだるそうに体を起こした。後頭部や首のあたりが凝っていて気持ち悪い。今、ナノボットが治療しているはずだが、回数を重ねるごとに、完治するまでの時間が長くなっているような気がする。
「今は何時だ?」
 伊武輝は誰もいない相手に話しかけると、誰かの声が返ってきた。
「午前十時三十分です」
 頭の中で発せられる機械的な声に、耳を傾けて頷いた。声に出さなくとも頭の中で念じるだけでもいいが、思考を読み取られている感じがして気味が悪いので、なるべく声に出している。
「そうか、もう時間か」
 すると、伊武輝は食事に出かけたり手洗いもせずに再びベッドに横たわった。脳に指令を送ると、ベッドの両端からガラスの膜がゆっくりと出てきた。
 銃弾でも砲弾でも壊せない強固な防御力を誇る、特別なガラスドームだ。これがないと、誰かに揺すり起こされてしまい、仮想世界から現実に勝手に戻ってしまう。現実では隙だらけになるので、仮想世界に行くためには必要なものだ。
 ガラスドームが完全に閉じると、伊武輝は仮想世界に存在する大学のところまで瞬く間に意識を飛ばした。
 移った先の仮想世界で伊武輝が立っていたところは、大学の正面入り口前にある広場だった。校舎は歴史を感じさせるような赤茶色のレンガ造りになっていて、遠くから見ても一目で大学だとわかるほど、堂々と立っていった。広場には一本の桜と一面に広がる芝生があり、学生はまばらに芝生を踏み歩きながら次々と校内へと入っていく。
 伊武輝は広場にある桜に近づいた。
「いつになったら、現実の桜が見れるんだろうな」
 桜に向かって呆然と呟いた。温もりのある花信風が頰にあたり、桜の花びらが一枚一枚ささやかに風に運ばれて落ちていく。
 すると突然、静寂を破るように、伊武輝の目と鼻の先にぱっと人の顔が現れた。
「やあ、弘坂くん!」
 調子のいい声色で間近に話しかけられると、伊武輝は度肝を抜かれた。
 突如現れた男の腹に目掛けて、すかさず拳を食らわした。腹の奥まで拳が入り込み、鉄拳制裁をくらった男は俯き、お腹を押さえながら涙をこらえて咳き込んだ。相当効いたようで、呼吸が落ち着くのに時間がかかった。
 男はやっと顔を上げると、参ったというように苦笑いした。
「いきなりグーで挨拶かい」
 痛そうに体を丸めているこの男は、学校で唯一付き合いのある篠野(しのの)晃之(てるゆき)という人物だ。
 篠野は伊武輝より頭一個分身長が高く、丸眼鏡を掛けている。しかも綺麗な小顔で、爽やかなショートヘアーだ。今日は大人っぽい赤ワインのシャツと白のパンツを身につけているが、すらっとしている体から少しか弱さが感じられる。
「最低限のマナーも守れない奴に灸を据えているだけだ。これでもう七回目だけどな」
「いちいち数えてるのかい?」
「何度もなんども眼前出現すりゃあ、自然と数えちまうんだよ。ほんと、篠野は懲りないよな」
 人の目の前に現れると、正面衝突する危険性がある。現実に戻ると怪我は残らないが、痛かったという経験は積み重なってしまう。
 だから常に注意を呼びかけているのだが、篠野はやめていない。
「いい加減、やめてくれないか? ぶつかると痛いのが残るし、心臓に悪いんだよ」
 伊武輝は少し尖らせた。
「いいじゃないか、ちょっとした挨拶だ」
「篠野、お前は他の人にもやっているのか?」
「いいや、きみだけ」
 なんでおれだけなんだよ。
 下がってくる眼鏡を手でクイっと上げると、篠野はふふんと微笑んだ。
 伊武輝はふんと鼻を鳴らした。
「何度も言っても無駄だと思うけど、いいのか、眼前出現していて。それに——ほーら、今日も来たぞ」
 上空から飛行物体が二人の元に颯爽と舞い降りてきた。
 巡回している監視ドローンだ。鳩と同じ大きさの小型無人航空機で、四枚のプロペラがぶーんと鳴っている。機体の上部と下部には、くるくると回転している赤いランプがある。
 監視ドローンは、篠野に淡々と警告を発した。
「二点減点。詳しくは後日連絡します」
 監視ドローンはそれだけを言うと、ぶーんと羽音を鳴らしながら、再び空高く飛んだ。
「別に怪我させたわけじゃないからいいじゃないか」
 篠野は上空に消える監視ドローンに向かって、両腕を広げてふんと鼻を鳴らした。
「篠野、今日ので合わせて、何点引かれたんだ?」
 伊武輝は呆れてそう言った。
 人には持ち点がある。ある一定数まで減点されると、仮想世界に入れなくなり、講習を受けるか、悪くすれば逮捕されることもある。
「それは口外しない。ご想像にお任せするよ」
 朗らかにそう言うが、篠野は何度も眼前出現したから、だいぶ点数が減らされているはずだ。それなのに、今日も自由気ままにここに立っている。
「なあ、何か抜け穴があるのか? 減点されても、免除する方法が」
 篠野の目が少し見開いた。落ち着いた雰囲気が一瞬止まった。
「いや、知らないよ」少しぎこちなく歩き出した。伊武輝も合わせて歩く。「ところでさ、昨夜のゲームのアップデート情報、見た?」
「ああ、もちろん」と、伊武輝は思い出して、にやりと笑った。
「思えば、サービス開始と同時に始められたのはラッキーだったな、篠野。おれたちは他の奴らよりも抜きん出て強いし、運営はスポーツにしようと動き始めているしな。今日の講義が終わったら、ちょうどアップデートが終わっているはずだ。時間になったらすぐにやろう」
 伊武輝は、今朝起こった出来事を頭の中から払いのけ、気持ちはゲームに切り替わっていた。伊武輝の目が爛々と踊っているが、篠野はその目を見て、顔を背けながら申し訳なさそうに頭を掻いた。
「なあ、弘坂。実は……」
「なんだ?」
 伊武輝はそわそわしている篠野に不信感がわいた。篠野はばつが悪そうだったが、奮起して真率な目を見せた。
「ゲームをやめようと思うんだ」
 伊武輝はそれを聞いて、歩みを止めた。
「はあ? なんでだよ」
 さっきまで踊っていた伊武輝の目つきが、たちまち怒りへと変わった。
 前に歩いていた篠野も立ち止まり、伊武輝に振り向いた。後ろから学生たちが二人の傍を通り過ぎながら校舎内へ入っていく。
「もちろん、あのゲームだけじゃなくて、今やっているゲーム、全部だ」
「おい、ふざけるなよ」
 篠野はプロゲーマーになるとは公言していないが、ここまで付き合っている以上、気持ちではそうだと思っていた。
 伊武輝は拳を握りしめた。腹の底からふつふつと煮えたぎり頭まで血が上る。たかが数年の付き合いとはいえ、篠野ほどの強い味方がいなくなるのは痛手だ。篠野がいなければ倒せない敵も数えきれない。もしやめてしまったら、今までのように簡単にゲーム攻略できない。また新しく味方を見つけるのは心底厳しい。
「ふざけてなんかないさ。ぼくは彼女のためにやめるんだ。これ以上ゲームするんだったら別れようって、釘打たれているのさ」
 モテモテなのは知っていたが、まさか彼女がいたなんて知らなかった。
「それって現実で会った人なのか?」
 伊武輝が念を押して訊くと、篠野は肩をすくめた。
「いいや、この世界でだよ」
 今時、仮想世界で彼女を作るなんてお笑いの種にもならない。伊武輝は侮蔑していた。
「たかが空想の彼女のために、ゲームをやめるのか?」
 冷ややかに言うと、伊武輝は歩き出して篠野の傍を通り過ぎ、他の学生に続いてドアを開けて校舎内に入った。
 すると突然、伊武輝の視界が勝手に動いた。
 伊武輝も何が起きたのかわからず、気がつくと壁に押し付けられ、目と鼻の先には険しい顔で見下ろしている篠野がいた。
「たかがだって! 弘坂、何言っているのかわかってるのか!」
 硬くて冷たい校舎のコンクリートの壁が背中に幾度かぶつかる。胸には襟を掴んでる篠野の手があった。シャツと胸の皮膚が強く擦れてジリジリする。学生たちはその光景を興味津々に見入っていたが、時間を気にしているように立ち止まることなく歩き続けた。
 伊武輝は目をそらさずに淡々と篠野に話しかけた。
「お前はゲームより、本当の外見も知らない彼女の方を選ぶのか?」
「当たり前だろ。ゲームしていても、知識も身につかないし、何の役にも立たない。ただの時間つぶしだ」
 何の役にも立たなくて、ただの時間つぶしだって? そう言うお前はそれを今までずっとしてきたじゃないか。人の言える立場だと思っているのか?
 それに、ゲームはスポーツだ。一戦一戦が勝負の世界だ。勝った時の興奮、負けた時の悔しさは忘れられない。大会で勝てばファンの大歓声がどっと湧くし、負ければ一緒に悔しがってくれる。ゲームは、見ている人全員に感動を分け与えられる素晴らしいものなんだよ。
 篠野の言葉にかちんときた伊武輝は、矢継ぎに言葉を飛ばした。
「彼女もまた、単なる暇つぶしだったら? お金が目当てだったら? 個人情報が目当てだったら? 今時、外見を装うだけでなく、内面まで装うことだってできるんだ。いや、外見が変わるから心も変わる。お前も心理学を専攻しているんだからわかるだろ?」
 篠野は握りしめている手の力を緩め、伊武輝を解放させた。そして、大きなため息を吐いた。
「心理学を専攻してたって、好きな人の前では盲目になる。人の心を読んだり、誘導したりなんて、そんな簡単にできやしない。できたとしても、してはならないんだ。たとえ、彼女がどうであれ、ぼくはゲームをやめる。人生は短い。これからは意義のあることに力を注ぎたい」
 わかってくれると思っていた、篠野はそう呟きながら、伊武輝を残して去っていった。
 伊武輝は離れていく篠野の背中姿に、冷たい眼差しをぶつけていた。
「全く理解できないな」
 顔も知らない人と付き合うことは、リスクしかない。仮想世界は恩恵ばかりではない。外見を自由に変えられるということは、正体を隠すことが容易になる。
 隣に敵がいる。伊武輝は最初に、その考えを前提に疑いを晴らすことから始めている。
篠野と初めて会った時だってそうだった。篠野はどんな人物か、どんなときでもじっくりと観察していていたが、結果はシロだった。
 篠野のガールフレンドは、お前のことをどう思っているんだろうな。
「どうなっても知らねえぞ」
 伊武輝はしわくちゃになったシャツをすっと整え、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 ゲームよりも、外見を知らない彼女を選んだのだから、本当にバカだ。
 校舎中にチャイムが鳴り響く。伊武輝はその音を聞いた途端、足早に講堂へ向かった。すでに講義が始まっていた。


 重い扉をギギギとうるさく開けると、講堂の座席に着いている学生の視線が、すぐに伊武輝の方へと一点集中した。伊武輝はバツが悪そうに背中を丸めてサササと席に着いた。
 教壇に立っているつるつるの頭をした教授が、片目だけ開いて伊武輝を一瞥すると、軽く頭を動かした。
「動物が夢を見るのは、意識が身体から夢へ飛ぶからだが——」としっかりとした口調で話し始めた。
「——そもそも夢と言うのは、脳にしまい込んだ記憶の整理、保存を行うときに、余分に漏れ出した記憶を元にして作られる。脳が編集し、加工し、夢という世界を作り出す。だから、意図的に自分好みの夢を作り、そこに意識を飛ばすのは難儀だろう。もう少し研究が進められれば、ナノボットを用いて、夢を自由自在に作ることができると言われている」
 教授がこめかみを指で差した。
「意識を飛ばすこと自体は今、君たちがやっていることと同じことをしている。仮想世界と夢は、なんら変わりない。ただ、異なる点が三つある。仮想世界は他者と共有でき、かつ現実とは異なる世界にいると自覚している。一方、夢は自分一人の世界であり、なかなか夢だと気づくことができない。そして、夢の内容は、覚醒してしばらく経つと忘れてしまう」
 一旦説明を区切ると、黒板の前に大きく映し出された一枚のスライドを学生たちに見せた。『ナノボットと仮想世界が心身に与える影響とその心理的病理』と題した論文から一部を抜粋した図表だ。
「仮想世界の最も恐ろしいのは、夢とは違い、忘れにくく、記憶に残りやすいことだ。仮想世界で起きた出来事は、現実の一部として脳に蓄積される。しかも、脳は楽しいことよりも、悲しいことの方が記憶に残りやすく、故に、精神病が蔓延しやすい。だが、君らは心配などしていないだろう。ナノボットが治療薬を分泌し、それらの症状を抑えるからだ。おかげで一般人と患者の区別がつきにくい。私が問題提起しているのは、ナノボット依存症だ。ナノボットなしでは生きられない体や社会というのは、一つの心理的な病理だと思っている」
 伊武輝の背後から「そうなのか?」と小言が聞こえてきた。教授は、手に持っていた指さし棒を、小言を言った学生にサッと向けた。
「……そうだよ、君。そこでしか欲求を満たすことができず、たった数十秒でさえ我慢できない。食事することも、風呂に入ることも、排泄することも煩わしくなり、億劫になる」
「でも教授、さっきナノボットの治療薬で症状を抑えるって言ったじゃないですか。ナノボット依存症も治療できるのでは?」
 別の学生が手を上げて反論すると、教授は口を結んで首を振った。
「毒をもって毒を制すか。ナノボットはそのようなことをしないだろう。むしろ依存してくれる者を歓迎する。仮想世界も同様だ」
 話を戻そう、と続けた。
「君たちのことは、仮想世界での、偽りの外見をした君たちのことしか知らない。好きな容貌を選んで、ここに来て話を聞いている。もし選べなかったら、きみたちは仮想世界を好きになれないだろう。美男美女同士、対等に接することができないのだから」
 教授は話を一旦止めた。教授の鋭い目線が、伊武輝のつむじに向けていた。教授の話を聞き始めたというのに、彼はすでに船を漕いでいたのだ。
 教授の眉毛がピクピクと痙攣していたが、伊武輝を無視して話を進めた。
「このように、理想的な己を提供する仮想世界と、それを可能にしているナノボットに依存する病気は、現実離れ病とも言われる。事実、ナノボットも仮想世界もなければ、今こうして私がここに立って教えることもできなければ、きみたちも教わることもできない」
 伊武輝のまぶたが半分閉じ、かくんかくんと下がる頭をなんども起こしている。
 瞼を擦って欠伸を噛み締めていると、突然、なんの予兆もなくどっと汗が噴き出してきた。視界が暗くなり、おぼろげにゆらゆらと机しか見えない。体もなんだか地面に引っ張られているように重く、力が入らない。
 重さに身を任せていると、椅子からずれ落ち、体全体が床にぶつかって倒れてしまった。
 キーンと耳鳴りがする。音が遠くなるが、かすかにくぐもった声が聞こえた。
「大丈夫か? しっかりしろ」
 伊武輝はハッとなって顔を上げた。体の重みがすっかり消えて、視界も良好になったが、教授や学生たちは、伊武輝に全く興味を示していなかった。床に倒れた感触はあったはずなのに、座席にちゃんと着いていた。
 あれ、おれは確か、誰かに起こされたんじゃなかったのか?
 それとも、幻覚?
 伊武輝は改めて講堂中を見渡した。まずは後方。絶交中の篠野が、彼女と一緒に席に座って講義を受けている。左側に顔を向けると、暇そうにゲーム機で遊んでいる人がいる。そして正面には……。
 なぜ、誰も声を上げないのだろう。教壇の隣に白く輝く獣が座っていた。耳が上にとんがり、鼻先はツンと前に突き出ている。蒼色の瞳が、じっと伊武輝のことを見つめていた。
 狐だ。蒼色の瞳と白い毛並みの狐だなんて、現実では見たことも聞いたこともない。
 大学には動物が生息していない。鳥も虫も猫も犬も、そのほか全種類の生き物一匹たりとも見たことがない。
 だから余計に、この狐はとても怪しかった。
 いや、それよりも、なんで誰も気がつかないんだ。講義が中断されるどころか、無反応だなんておかしいだろ。
 組んだ腕を机に置いてその上に頭を乗せると、伊武輝は、見つめられる蒼い瞳をじっと見つめ返した。座っている白狐(しろきつね)の頭のてっぺんが、隣で立っている教授の腰より頭一個分高い。ふさふさの尻尾も長く、狐にしては相当でかいんじゃないか?
 にらめっこしているうちに、伊武輝はピンと閃き、胸騒ぎがした。
「お前、ウイルスか?」
 そうつぶやいた瞬間、机の陰からパッと真っ赤な目が二つ、伊武輝の目の前に浮いて出てきた。
 昨夜、夢で見たあの黒煙の赤い目だ。
 伊武輝は、体を机から離れてヒッと悲鳴をあげた。体を起こした反動で椅子がひっくり返ると、体がドンと床に着き、痛そうに顔をしかめた。仰向けになると、赤い目が上から見下ろしていた。
 まさか、夢で見たものが現実に?
 その赤い目は、アメーバのように分裂しながら増殖し、伊武輝と同じくらいの体型が出来上がった。だが皮膚はなく、赤い目が全身にくまなくぐるぐると動き回っていた。動かすたびにぐちゅぐちゅと音がして気持ち悪い。
 伊武輝は後ろの机にしがみついて立ち上がった。ぼこぼこと動く化け物から血のような臭いが鼻につき、吐き気を催す。むかむかする胸を抑えながら、化け物から少し引き下がった。
「みんな逃げろ!」
 伊武輝は声を張り上げるが、講師も学生も気がつかないまま、ずっと同じ姿勢を保っている。まるで、時間が止まってしまったかのようだ。
 なりふりかまわず、講堂の後方へ逃げた。篠野の横を通ると、彼女の手を大事そうに握っているのが見えた。二人ともはにかんでいる。
 伊武輝は篠野の傍を通り越し、彼を見捨てた。
 自分の命の方が大事だ。構っている暇なんてない。
 だが、篠野と通り過ぎた直後、腕を掴まれてぐいっと後方に引っ張られた。その勢いに任せて振り返った。彼の腕を掴んでいたのは、篠野だった。
 赤い目をした篠野は、あの化け物へと変貌していた。体をひねって腕を目一杯に伸ばし、ニーッと笑いかけていた。
 あまりにも気味が悪い。わずかながら血生臭く、伊武輝は空いた手で口を抑えた。
「なあ、君はどっちの人間かい?」
 頭を小刻みに動かしながら、篠野の口から、調子のいい声が発せられる。
「どっちの、人間?」
 伊武輝は息を詰まらせた。
「作るか、壊すか、どっちなんだい?」
 化け物になった篠野の後方から、わらわらと赤い目の化け物が集まってくる。いつの間にか、講堂にいる人間全員が、人の形をした化け物に変わっていた。どの化け物も、身体中、ぎょろぎょろしている赤い目で埋め尽くされていた。
 伊武輝は掴む腕を振り払おうと自力で何度も踏ん張って腕を引っ張るが、ビクとも動かない。
「闘うか、逃げるか、どっちなんだい?」
 伊武輝を取り込もうと、赤い目の化け物たちは伊武輝を囲んだ。
「殺すか、殺されるか、どっちなんだい?」
 状況は異なるが、昨夜見た夢と似ている。
 あのときは助けがあった。だけどきっと、最後は夢と同じにはならない。救世主は来ない。ハッピーエンドはない。おれはこのまま、化け物になってしまうんだ。
 伊武輝は観念して、両方の膝を床に着き、目を閉じた。掴まれた腕から氷のようにズキズキとした痛みが伝わってくる。それが肩へ、胸へと広がっていった。
 ヒヒヒと高揚して笑う化け物たちの声が霧がかり、再びキーンと耳鳴りがする。
 苦しい、早く楽になりたい……。
 こぉーん!
 突如、伊武輝の頭に鮮明に聞こえたその声は、狐のものだった。
 伊武輝が瞼を開くと、その光景は、赤い目の化け物たちが空気に溶けていく瞬間だった。
 まるで狐の旋律に浄化されていくかのようだった。化け物だけでなく、伊武輝を蝕む邪気も追っ払ってくれたかのように、清々しい気分になった。
 化け物がいなくなり、代わりに伊武輝の前に現れたのは、教壇に座っていた白狐だった。伊武輝から少し離れ、机と机の間の通路にちょこんと座っている。白くてふさふさの尻尾を、横にふりふりと振っている。
 伊武輝は尻餅を着くと、はーと息を吐いて、胸にくすぶるものを外に出した。
「助けてくれたのか? ありがとう……って、プログラムにお礼するのも変か」
 きっとこの白狐はウイルスではなく、ワクチンプログラム、もしくはセキュリティプログラムだろう。さっきの化け物はウイルスで、奴らを退治するために作られた、まさしく闘う兵隊と言ったところか。ここに現れたのも、事前に察知したからに違いない。
 いくらウイルスの繁殖を止めるためとはいえ、篠野や他の学生、講師まで消去してよかったのだろうか。この白狐は人を殺めてしまった。意識が消えると、現実に戻れずにそのまま死んでしまう。
 でも、篠野たちや教授がウイルスに感染されたのだから、これが最善の策なのだろう。仕方のないことだ。
 伊武輝は立ち上がると、腕がずきんと痛むのを感じた。思わず顔をしかめる。
「なんだ……?」
 片腕を前に出して服の袖をゆっくりと捲る。服はなんともないものの、腕には人の手の形をした黒いシミができていた。
 しかも、鋭い痛みや痺れを伴いながらゆっくりとシミが広がっていく。
 遠くから見ていた白狐は黒いシミに気がつくと、伊武輝との間合いを詰めて牙をむいた。
 ぴょんと飛び上がると、間髪入れずにシミのある腕にかぶりついた!
 伊武輝は白狐の突進に負け、馬乗りになるような形で倒れ込んだ。その直後、噛み付かれている腕の激痛に耐えかね、喉が潰れるくらい絶叫した。口をつぐむことができず、足をバタつかせながら何度も声を張り上げた。
「何すんだこの野郎!」
 腕がズキズキと焼ける。どくどくと心臓の鼓動が高鳴り、腕から止めどなく血が流れる。
 殺気立っている眼つきが伊武輝を睨みつけている。間近にいる荒い鼻息が、彼の顔にふーふーと掛かり、獣じみた匂いがする。
「離れやがれ、この……!」
 噛み付かれている腕をぶんぶんと振り回そうとするが、白狐が重いのと、血肉がえぐられ、焼けるような痛みで腕に力が入らない。
 だが、もう片方の腕が押さえられていないことに気づき、空いた腕で、何度も白狐の側頭部を殴った。拳に頭蓋骨が当たり、鈍い衝撃が伝わる。白狐の皮膚から真紅の血が流れ、白銀の毛並みは、その血で赤く汚れた。構わずに殴り続けると、拳はずきずきと痛み、白狐の血で赤くなった。しかし、白狐は頑として腕から離れない。
「しつけーな、離れろ! この欠陥品め! 人間にこんなことしていいと思ってんのか!」
 何度も殴り続けた。
 だけど、離れない。
「いい加減にしろ!」
 白狐の脇腹に殴りを入れた。獣の息がどっと傷口にかかり、白狐は片目を閉じて顔をしかめた。
 だけど、離れない。
「こうなったら」
 伊武輝は手のひらで、何もないところからナイフを作り出した。
 これで目ん玉を引き抜いてやる!
 伊武輝は冷たいナイフの柄を握りしめ、腕を高く振りかざした。
 すると、白狐がようやく噛みつくのをやめて、腕を解放させた。伊武輝の傍でちょこんと座り、前足で顔をごしごしと鮮血を拭いた後、彼に向かって目を細めて柔和に笑った。
「やっとか、手こずらせやがって」
 傷口に針を縫わねばならないほどの、ひどい噛みっぷりだった。まだ焼けるようにずきずき痛む。心臓の鼓動が落ち着かない。でも、現実に戻ったら元どおりになるから、あまり関係ないが。
 ぜぇぜぇと息を切らしている伊武輝は、ナイフを消して、上半身を起こした。噛まれた腕を、ポケットから取り出したハンカチや服の袖で綺麗に拭っていると、伊武輝の動きがピタリと止まった。
 あの黒いシミが消え、咬み傷はすでに閉じられていた。傷跡は煌々と青白く光っている。そしていつの間か、さっきの強烈な痛みが嘘のように消えていた。
 伊武輝は腕を軽くぶんぶん振った。ちからが入るし、全然痛くない。
 まさか、治すために?
 伊武輝は白狐に振り向いた。しかし、傍にいたはずの白狐が、どこにも見当たらなかった。残っていたのは、飛び散った血痕だけだった。周囲の床や、机と椅子の足に、転々と赤黒くなっていた。
 あの白狐に、悪いことをしてしまった。おれのことを助けたい一心だったというのに、殴って怪我をさせてしまった。挙げ句の果てに、殺意が芽生えたなんて、おれはなんて奴だ。
 傷跡の明かりが次第に落ち着き、白いタトゥーができた。この傷は、現実に戻ったら消える。だけどきっと、この負い目は消えないだろう。
 君はどっちの人間かい?
 おれは、弱者だ。
 ぐらりと体が崩れ落ち、頰が床に着いた。
 おれは、臆病だ。
 おい、しっかりしろと、遠くから声が聞こえる。
 おれはもう……。
「弘坂、大丈夫か!」
 伊武輝が再び気がついたときは、いつもの講堂にいて、床に突っ伏していた。学生たちと教授が、心配そうに伊武輝を囲んでいる。
「あれ、みんな、なんで……」
 なんで生きているんだ? あの化け物に飲み込まれて死んだんじゃなかったのか?
 そう言おうとしたが、篠野が急に抱きしめてきたので、言葉が途中で途切れてしまった。
「このやろう、心配したぞ。死んだのかと思った」
 いきなりハグされてびっくりしたが、背中越しに話す篠野に、伊武輝は鼻先で笑った。
「死んだって、そんなバカな」
「だって、仮想世界で気絶した人なんて、これまで聞いたことないんだからな」
 篠野が体を離すと、伊武輝は、彼の顔を覗き見た。
 篠野の目が、少しばかり潤んでいた。
 その様子に極まり悪かったものの、教授が横やりを入れるように、伊武輝の傍にしゃがんで、沈着冷静に話しかけてきた。
「今すぐログアウトしなさい。現実に戻ったら、早急に治療機関に行くように。できるだけ専門病院へ。私も初めてだ。もしかしたら、新種のウイルスかもしれない」
 教授は立ち上がって、周りで呆然としている学生たちに向かって言った。
「君たちも同じだ。ログアウトしたら早急に行きなさい。このことは責任持って、管理者に伝えておく。私の講義は、連絡があるまで休講とする」
 そう言うと、教授は光に包まれ、パッとはじけるようにして消えた。
 講堂中がざわめいた。
 まさか一人の気絶で、こんなおおごとになるなんて思いもしなかった。ちょっと大げさじゃないのか?
 学生たちは呆然としていたが、その中の一人が嬉しそうにログアウトして、この場から早くも消えた。休講、いや確定ではないが、学校閉鎖で講義に出なくて済むので喜んでいるんだろう。
 一人ログアウトすると、一人、また一人とログアウトしてその場から次々と消えた。伊武輝はしゃがんだままそっと篠野に耳打ちした。
「おれ、気絶してたのか?」
「そうだよ」
「じゃあ、あれは……」
 夢? 仮想世界で夢なんて見れるのか?
「あれってなんなのさ?」
 篠野は伊武輝の次の言葉を待っていたが、耐えきれずに聞いた。
 伊武輝は首を振った。
「いや、信じ難いんだけどな、あれは夢だったのかって。ここにいたみんなが化け物に変わって、おれに襲いかかってきたんだ。仮想世界じゃなければいいんだけどな」
 篠野は一瞬たじろいだが、装うように口元を綻びた。
「とにかく、今日は早く帰って、ウイルスチェックしてもらいなよ。ぼくも今から診てもらうつもりだ。それじゃ」
 篠野はそう言い残して立ち上がると、彼女のもとへ駆け寄り、二人一緒にログアウトした。
 伊武輝は空っぽになった講堂に残って回想していると、ふと、あることを思い出した。
 傷跡は腕に残っているのだろうか。
 残っているとしたら、それは紛れもなく、この仮想世界で起こった出来事だと認識できる。もし残っていなかったら、夢や別の仮想世界で起こったことになる。
 伊武輝は右腕の袖を捲ると、深いため息を吐いた。期待とは裏腹に、なにもない、傷ひとつない皮膚だった。
「面倒だな、全く」
 帰ったらゲームをやろうと思っていたのに、とんだ事件に巻き込まれたものだ。教授の言う通り、新種のウイルスだとしたら、これはちょっとやそっとじゃない、一大ニュースものだ。
 新種のウイルスもそうだが、白狐のことも気にかかる。世に知られないウイルスを退治するなんて、一体何者なんだ。
 伊武輝は頭の中で、目が潤んだ篠野の顔がちらりと過ぎった。
 あいつはもうゲームしないんだったな。むかつくけど、ひどいことを言ってしまった。また今度会った時でいいから、篠野に謝らないと。
 伊武輝は誰もいなくなった講堂で一人虚しく、パッと消えて現実へと帰っていった。


 現実に戻った伊武輝は、すぐさま専門病院へと足を運んだ。病院とは言っても、医師の他に、ナノボットに詳しい技術者もいるので、気兼ねなく訊くことができる。本当ならナノボットを介して診てもらえることもできるが、直接診てもらうほうが安全だろうと、念には念を入れておいたのだ。
 たとえ専門病院だろうと、そんなに期待していない。前代未聞の出来事が起こったのだから、簡単にはいかないだろう。
 いざ病院にたどり着いて事情を話すと、返事はこうだった。
「え、そんなことが……!」
 伊武輝の想像した通り、なんで気絶したのか、医者も専門家もわからなかった。無駄だと思いながらも、病院から病院へと歩き続けた。しかし、何度も同じ説明をして、何度もわからないと言われてもう十回目だ。どっと疲れてしまった。原因が判明しないと、胸の内がすごくモヤモヤして気持ち悪い。
 そして、どこから嗅ぎついてきたのか、一人の新聞記者がアポなしで勝手に伊武輝の自宅まで押しかけてきた。
「仮想世界で気絶したというのは本当でしょうか。何が原因だと思われますか」
 ぺらぺらと質問を繰り出す記者に、そういうことは警察か病院に聞けよ、と伊武輝は思った。
 この新聞記者がなぜこのことを知っているのか。心当たりがあるとしたら、あのとき講堂にいた誰かが噂を広めたのだろう。病院巡りの最中、誰かに尾行されているのを感じていたが、まさか記者だったとは運が悪い。
 あまりにもしつこかったので、伊武輝は嫌々ながらインタビューを受けた。その後。仕上がった記事は、とてもじゃないが、実際の出来事を歪曲した内容になっていた。
「『仮想世界で赤い目の大群に襲われる!』って、あながち間違ってはいないけど、いい加減なもんだな」
 伊武輝は取り寄せている新聞紙を見ながら言った。これもナノボットが映し出している幻影で、実際に新聞紙は存在していない。こうやって新聞紙が読めるということは、思った以上に支障はないようだ。
 仮想世界で夢を見た、という記事でもするのかと思ったのに、なんでこんなくだらない記事にしたんだろう。不確実な出来事だったからか?
 あれから三日経つが、病院巡りの後、ナノボットの研究が一番進んでいる大学病院で、一時入院することになった。入院日は明日になっている。
 今のところ特に体に異常はないが、この騒動のおかげで大学は閉鎖された上に、他の仮想世界にログインすることができなくなってしまった。きっとウイルス感染の疑いがあると思われているのだろう。これでは満足にゲームもできない。
「なんともないんだから、ゲームをやらしてくれよ」
 疑惑が晴れるまで、アクセス拒否をするつもりなのか? 今頃ゲーム三昧のはずなのに、退屈で死んでしまいそうだ。イライラしてくる。
「仕方ない、あれを使うしかないな」
 欲求不満が爆発する前に、伊武輝は、ある違法サービスを利用することにした。身元を隠して、仮想世界にアクセスするというものだ。ひと昔、革命家のような命を狙われている人たちが利用していた仕組みや道具を、そっくりそのまま真似たものだ。
 伊武輝は、ベッドに横たわって準備を始めたが、ふと、あることに気づいた。
 匿名でゲームにアクセスしても、今まで育てたキャラクターが使えないじゃないか!
 伊武輝は悔しがるように手で顔を覆って呻いた。
 匿名で自分のキャラクターを使えることはできる。だけどそのキャラクター自体、おれの個人情報が登録されているから、身元がバレる可能性が高い。それに、そのゲームのセキュリティが高く、別の場所からアクセスすると、キャラクターの使用が制限されてしまう!
「どうすりゃあいいんだ」
 伊武輝は悩んだ。一からやり直すなんて、まっぴらだ。同じことをまたやらないといけないんだから。
 だったらいっそのこと、身元がバレる覚悟で匿名サービスを使うか? だけど、そんなことは馬鹿げている。捕まったら世間に広まるんだぞ? 動機はなんだと警察に訊かれたら、「どうしてもゲームをやりたかったから」だなんて言えない。世間からゲーム中毒者として、烙印を押されることになる。
 打開策を探しもがいている伊武輝の脳裏に、ある噂を思い出した。
 五分。
 そうだ、五分だけならバレないって聞いたことがある。五分だけやって、パパッとログアウトすればいいんだ。そうしよう。
 伊武輝は改めてベッドに横たわると、ゆっくりとガラスドームが閉じられていく。
 今すぐゲームをやりたいのに、動きが鈍いカプセルに焦らされてうずうずしている。
 ナノボット自体にアクセス履歴は残らないので、匿名化サービスを利用しても警察にもばれない。安心して匿名のままゲームができる。
 カプセルが閉じられると、伊武輝は抑えきれない感情に任せて、匿名のままゲームにすぐさまログインした。
 伊武輝の意識が仮想世界へ飛んだそのとき、右腕に白い文様がかすかに浮かび上がっていた。
 それはまるで、動物に噛まれた傷跡のようだった。

夢の外

 目を見開くと、眼前に鬱蒼(うっそう)としたジャングルが広がっていた。日が高いというのに、ジャングルの中は薄暗く、木陰に何が潜んでいるのか、目視できない。
 魔道士のローブを身にまとっている伊武輝(いぶき)は、監視ドローンが舞い降りて来るかどうか、上空を警戒した。しかし、すぐに現れるはずが、十数秒待っても何も降りてこない。
 よし、匿名機能がはたらいているな。まずはセキュリティに引っかからずにログインできた。
 今から欲しいアイテムを回収しないといけない。そのためには、ゲームの更新で新たに登場した強敵を、一人で探して倒す必要がある。
 伊武輝は手を前にかざすと、その手に付けている銀色の指輪が、伊武輝の身長ほどのある杖となった。杖を掴んで、心のうちで呪文を唱えると、何もないところから一掴みの砂が宙に現れた。その砂は、蛍の光のように緑色に帯びた光を放っている。
「あっちか」
 砂は川のように森の中へさーっと流れ始めた。伊武輝は砂のあとを走って追いかける。目標の位置をいち早く見つけてくれる魔法だ。敵だけでなく、人や物を探すときも大いに役立つ。
 誰にも邪魔されずに砂を追いかけていくうちに、伊武輝の耳にかすかに人の声が聞こえた。伊武輝が向かっている方向からだ。
 同じ獲物を狙っている奴がいるのか?
 森が深くなり、木々が行く手を邪魔してくる。草木をかき分けながら、砂の川を追い続けると、窮屈そうに流れる砂の川が、突如一本の光る糸に変わった。獲物が確実に近いことを合図してくれている。
 伊武輝は走る足音を静め、灌木の陰に身を潜めた。灌木から顔を上げて様子を伺うと、広い草っ原で悪戦苦闘している三人がいた。背中姿しか見えないが、武器を構える人はおらず、疲弊し切っていてボロボロだ。
 いや、三人だけではない。
 よく見ると、何かを囲むようにして、たくさんの人が地に横たわっていた。あちらこちらに、草むらがどす黒い血痕で染まっている。伊武輝はくんくんと嗅ぐと、血なまぐさいにおいが襲いかかり、眉間にしわを寄せた。
 死体だ。累々と死体が転がり落ちている。仮想世界で死ぬことは、現実に戻れず、あの世に行ってしまうこと意味する。
 どういうことだ。悪意のある仮想世界ならまだしも、ここは健全で、誰も死ぬことなんてない。なのに、セキュリティが機能していない?
 こめかみに一筋の汗がツーっと流れ、伊武輝の心臓がドクドクと高鳴る。
 もしかしたら、おれも死んでしまう?
 伊武輝は、気配を悟られないようにそっとしゃがんで灌木の陰に身を潜み、不動の姿勢を保ち続けた。枝葉のわずかな隙間から、なんとか様子を伺えることができる。
 しかし伊武輝は、死体に囲まれている人物に動揺を隠しきれず、唾を飲んだ。
「なんであいつがここに?」
 そこにいたのは、大学に現れた黒い化け物だった。全身に赤い目がびっしりと埋め尽くされ、ぎょろぎょろと動いている。思わず声を漏らしてしまったが、化け物も、化け物を前にしている三人も気づかなかった。
 魔法がなぜここに導いたのだろう。
 化け物の足の下を注意深く見ると、伊武輝が探していた敵が踏みにじられていた。巨大熊の毛皮を、まるで敷物のように扱われている。
 とんだ災難に導いてくれたな、この杖は。
 伊武輝が杖を恨んでいる中、三人のうち一人が、地に刺さった刀を引き抜いた。その男は傷だらけで、袴やさらしが血で赤く染まっている。背中を丸め、足元がおぼつかないまま、化け物に向かってふらふらと歩き始めた。ずるずると刀を引きずりながら、地に線を引いている。
「おれが、死ぬ……? そんなことあってたまるか!」
 その男の声を聞いて、伊武輝は目を丸くした。この人たちは、世界大会で何度も優勝している最強チームではないか。確か五人いたはずなのに、今は侍一人に、弓兵が二人しかいない。残る二人がここにいない?
 侍の後方で膝を地についている一人の弓兵が叫んだ。
「やめろ!」
 侍は引き止める声を無視して、雄叫びをあげながらその場から消えた。すると、瞬時に間合いを詰めて、化け物の前に現れた。
 無謀にも正面から挑んだ。とてもじゃないが、冷静ではない。
 侍は刀を低く構え、化け物に目掛けて斜めに切り上げた。
 避ける様子もない化け物は、その斬撃を受け止めた。だが、切り口がすぐにくっつき、時間を巻き戻したかのように元に戻ってしまった。
 化け物は侍の首をつかんだ。二人の弓兵が救助しようと弓を引くが、矢を放とうとしない。化け物が侍を盾にしているからだ。弓兵たちは悔しそうに弓矢をキリキリと虚しく鳴らしたままじっと構えた。
 化け物は攻撃してこないことを確認すると、突然、伊武輝の身の毛がよだつようなことを言い放った。
「弘坂伊武輝と白狐(しろきつね)はどこだ」
 伊武輝は戦慄を覚えた。
 大学で起きたことは夢じゃなかったんだ! それにおれのことを探している! ということはまさか、あいつは仮想世界を転々としながら探しているのか?
 侍は、首を掴まえている手から逃れようと、刀を捨てて腕力でこじ開けようとした。だが、化け物の握力に敵わず、みるみるうちに顔が青くなっていく。
 伊武輝は助けようと体がわずかに動くが、そのまま硬直してしまった。狙われていると思うと、自分の命が惜しかったのだ。それに対処法が思い浮かばない。世界最強のチームでさえ勝てないのであれば、なんのちからにもなれない。白狐さえいれば……。
 侍は、かすかに横に顔を振った。
「そうか」
 一言だけ言うと、化け物は問答無用で侍を手荒に絞め殺した。ゴキッと折れる音がすると、抵抗していた侍の両腕が脱力して垂れ下がった。
 助太刀できなかった残りの弓兵二人は、引いた矢を離すが、あらぬ方向に飛んで地面に突き刺さった。
 どうしたのだと伊武輝は伺うと、二人はだらんと腕が垂れてその場で泣き崩れていた。あの二人はもはや、極限状態で、戦うどころじゃない。
 退避させなければ。戦えなくても、二人と一緒に逃げ出すことはできるはずだ。
 化け物がまだ二人に襲いかからないうちに、伊武輝は意を決して胸の内で呪文を唱えた。
 生きとし生ける森よ、大地よ。我らをあの邪悪なる者から隠したまえ。姿も気配もすべて!
 するとあたり一面、霧がだんだん濃くなっていき、化け物も弓兵たちも見えなくなった。だが、光る砂が伊武輝に弓兵たちの居場所を教えてくれた。
 伊武輝は続けざまに呪文を唱えると、二人をここから遠く、安全なところへ瞬間移動させた。
 あとは、おれもここから……。
「君は逃げる方を選んだんだね」
 耳元でささやくそのどす黒い声は、伊武輝の心臓を鷲掴みした。化け物が背後にいる。体が動けない。息が苦しい。濃霧に紛れている化け物が続けて言った。
「君が逃した二人だけど、今頃、危ない目に遭っているよ? ぼくは一人じゃないからね。ちゃんとわかってる?」
「そんなわけ……」
「結界を施した街に飛ばしたから? でもそこは、とうに壊滅状態だよ」
 はったりだ。そんなわけがない。どんなに強力な敵でも、街には入れないよう、この世界は設計されているはずだ。だけど、さっきの死体といい、侍が死ぬ瞬間といい、まさか、あの街まで?
「気にくわない顔をしているね。どうしても信じないなら、時間をあげるから見てみなよ」
 ケタケタあざ笑う化け物は、ご満悦そうにそう言うと、伊武輝の横から、黒くて細い人差し指を突き出した。
 すると、伊武輝の口が勝手に動いた。
「わ、我に、見せよ。安息の地、アスファレスを」
 強制的に呪文を唱えさせられると、虚空に縁のない窓が現れ、中には荒廃の姿をした街が映し出された。街が焼かれ、建物が崩壊し、赤い目をした黒煙があちこちでわいている。炎に照らされた血まみれの死体が、層々に横たわっていた。兵士は黒煙と戦い、市民や子供らは必死になって逃げ回っている。声は聞こえないが、伊武輝の頭の中では阿鼻叫喚の叫び声が響き渡っていた。
 伊武輝が送り出した二人はすぐにわかった。彼らは、無表情のまま呆然としてその光景を眺めていた。魂が抜けきっているように目が虚ろだ。
 化け物は、歯軋りする伊武輝を見てにんまりと笑った。
「ね? これでわかったでしょ。君たちは戦っても逃げても、結果は同じ」
 どうなってるんだ。管理者はいったい何をしている? この街のセキュリティ機能でさえ全くはたらいてないなんて。
 化け物は突然、伊武輝の前に出て濃霧の中に消えた。
 一体何を? でも、やるなら今しかない。
 伊武輝は強制ログアウトを試みた。だが、自分の身に何の変化もなかった。何度も同じ司令を送っても、何も変わらなかった。伊武輝の顔が真っ青になる。
「戻れ、戻れ、現実に戻れ!」
 伊武輝は張り裂けんばかりの声を上げるが、意識が現実に戻らない。
 化け物にごまかしは効かなかった。濃霧がだんだん晴れていくと、さっきまで森や草むらがあったはずが、今や草木は枯れ果て、地面が干からびてヒビが入っている。
 化け物はニターッと笑った。
「ログアウトできないのはね、この世界ごと、ぼくが支配しているからなんだよ! 誰も外に出られないし、外からこの世界に入れない! アクセス権はぼくの手中にある。愚かな人間は何も手出しできない。君は鳥かごの中なのさ!」
 化け物は甲高く笑い猛った。その声は色々な声が混じっていた。男の声、女の声、大人の声、子供の声、歓喜、恐怖。その声がうねりとなって、伊武輝の体に侵食していった。
 間違いない。こいつはコンピューターウイルスだ。それも質が悪い。標的を逃さずに確実に仕留める。邪魔する奴は徹底的に排除するか、乗っ取って操る。このウイルスは、この世界を崩壊するほどの絶大なちからを持っている。これが新種のコンピューターウイルスなのか?
「さぁ君も、ぼくたちと仲間になろう」
 ウイルスは再び、伊武輝の元へ瞬時に近寄ると、真っ黒な腕を彼の腕をがしっと掴んだ。前回と同様、みるみるうちに黒い痣が腕に広がっていく。
 冷たい。怖い。
 胸の底から苦しい感情がわいてくるが、しかし、黒い痣の侵食が途中で止まり、高ぶる感情も収まった。これにはウイルスも訝しげになり、掴んでいる伊武輝の腕をじっと見ていた。
 しばしの沈黙が訪れた。すると突然、伊武輝の腕から眩い青白い光が放たれた。強烈な光が二人の目を痛めつけた。
 伊武輝は目を細め、何が起きているのか注視した。ウイルスは掴んだ手を離し、赤い目を細めて距離をとった。ウイルスが予期しないことに危機感を感じているのだろう。
「やはりお前か」
 憎しみを帯びた声色をしたウイルスは、その光を睨んだ。
 伊武輝の前に、白狐が居座っていた。白狐が放つ光は、伊武輝を守る結界となっていた。
 白狐は尻尾を高く上げながら、一心にウイルスを睨んでいる。
「なんで、お前……」
 この世界は、外から入れないんじゃなかったのか?
「やっぱり考えていることは同じだな。その男に、バックドアを仕掛けていたなんてな」
 聞いたことがある。どんな強固のセキュリティでも、一旦侵入して裏口を作ってしまえば、再侵入するときがとても楽になる。その裏口のことをバックドアと言われている。
 でも、おれにバックドアだと? いったいいつだ?
 その答えを導くのに、そう時間はかからなかった。白狐が腕を噛み付いてきた、あの時だ。治療とともに、バックドアが仕込まれたんだ。
 そうなるとおれは、別の仮想世界に飛ばされ、そこで白狐に噛まれたということになる。夢だとこうはいかないだろう。
 ウイルスは狼狽えていたものの、徐々に冷静さを取り戻した。
「ま、どのみち好都合だ。この世界に入った以上、もう二度と出られない。まとめてこの世界ごと、崩壊してやる」
「そんなことをしてしまったら、お前も死ぬんだぞ?」
 伊武輝がそう言うと、ウイルスはケタケタ笑った。
「言ったでしょ。ぼくは一人じゃない。ぼくは誰かの意思のコピーだ。永遠にコピーし続けて、この意思を次のぼくに残す。お前らにはコピーがない。お前らはここで死ぬんだよ!」
 伊武輝たちの足元が揺れ始めた。地響きが轟いている。ゴウゴウと吹き荒れ、何かが起ころうとする。
「おい、狐。何か策はないのか?」
 伊武輝は強い地震で立っていられず、両手を地に着いた。嫌な予感しかしない。確実におれたちを消しにかかってきている。
 一方、白狐は俯いて、身にまとう光を天高くまで伸ばした。だが、ウイルスは一目見るなり嘲笑った。
「抜け道を探しても無駄だよ。ぼくのちからは、この世界ごとを取り込んでとても強大だからね。いくら救世主でも、太刀打ちできないさ」
 白狐も気づいたようで、光をさっと消してすぐに諦めた。
 まさか、自分から助け舟を出しておいて、結局共倒れっていうことじゃないだろうな?
 白狐は何か思い込むように俯いて目を伏せた。
「悟っているんだよ。終わりをね」
 地面の揺れが収まらない。それどころか段々に大きくなっていく。空が翳り、暴風と雷が地に降り注いでくる。何もせずにじっとしている白狐は、何かを考えているようだ。
 伊武輝は為す術がないので、息を呑んでただ静観するしかなかった。ログアウトできないのであれば、こいつを倒すしかない。白狐にそんなちからがあるのだろうか。
 ウイルスは黒い腕を天高く掲げた。勝ち誇っているかのようにニヤついている。
「君たちはここで死ね!」
 ウイルスは勢いよく腕を振り下ろした。その瞬間、白狐は見開き、瞬時に伊武輝の足に尻尾をまとわりつかせた。
 伊武輝と白狐は、雷に打たれる直前に突如消えた。ウイルスは落下地点まで瞬間移動をして、焼き焦げた地面をまじまじと眺めた。
 逃したと理解すると、ウイルスは怒りに任せて、大地震を引き起こさせた。


 ばしゃんと水しぶきを立てながら、伊武輝と白狐は黒くなった球体から抜け出した。伊武輝は緊張の糸がゆるんだかのように、息を切らしながら地べたに突っ伏した。
 助かったのか? 一巻の終わりだと思っていたのに、仮想世界から抜け出る方法があったなんて思いもしなかった。
 着ていたローブや、手にしていた杖が消えていた。ゲームでしか使えない物だから、別の世界に持ち運べられない。伊武輝は、空いた手を名残惜しそうにグーとパーを数回繰り返した。
 シャツとズボン姿の彼は、起き上がってあぐらをかき、腰や背中を動かしてあたりを見渡した。
 まるで氷の上にいるかのようだった。真っ平らに整えられた透明の青白い地面は、冷たくはないが、土みたいに柔らかい粒状でできていた。地平線は霞んで見えないが、壁というものがなく、雲がない氷のドームの中にいるかのように、空は青白かった。
伊武輝の周りには、球体がまばらにふわふわと浮かんでいる。その中のうちの一つから出てきたが、透き通っている他の球体と違って、この球体は大きくてどす黒かった。
「これはまたずいぶんと美味な仕上がり具合だあね」
 真っ黒な球体の裏側から現れたのは、そう、あの動物のバクだ。人の腰ぐらいの体長があり、体はその大きさの分だけ宙に浮いていた。
 伊武輝は驚きはしなかった。ゲームの世界で喋る動物を散々見てきたからだ。
 バクは真っ黒な球体にストローを挿して、細長くて小さい口をつけて、思いっきりチュウチュウと吸い上げた。すると、球体はみるみるうちに小さくなり、それと同時にバクのお腹がどんどん膨れ上がっている。
 こいつは何をしているんだ? 飲んでいるとしか思えないが……。
 終いには、真っ黒な球体は跡形もなく消えた。すると、キラキラと輝く小さなガラスの破片のようなものが、上空に昇って見えなくなった。
 破片が見えなくなるまで見上げていたバクは、大きく膨れ上がったお腹を、満足そうにぽんぽんと手で軽く叩いた。体が重くなったからか、なんとか地表すれすれで宙に浮いている。
 バクはパンと手を合わせて目を閉じた。
「ごちそうさま。マナ、相変わらずいい仕事してるなあ」
 目を開けて皮肉そうに言うバクに、白狐は、グルルと唸り声を鳴らして威嚇した。
「そう怒んなさんなあ。うまくいかないこともある。尻拭いは、この夢喰いバクさまが処理するからなあ」
 わんわんと、今にも噛みつきそうな勢いで白狐が吠えた。伊武輝は、自分に何が起きているのかをよそに、狐ってわんわんと鳴くのかと感心していた。
 バクは手に持っていたストローをパッと消した。
「マナもわかっているだろう? もう手遅れだって」
「なあ、狐の言うことがわかるのか?」
 伊武輝が間を割って入ると、バクは伊武輝を見上げるなり、目がまん丸になって、小さな口があんぐりと開いた。ようやく彼のことを気づいたようだ。
「はあ!? なんで人間がいるんだあ!」
 バクは開いた口が塞がらないまま、ちらりと白狐を見た。そして、合点がいったように口を閉じ、手のひらに拳をポンと置いた。
「マナ! お前の仕業か!」
 怒っているバクは白狐に指を差すと、白狐は、してやったりというような、にたり顔を浮かべていた。
「はあ、面倒ごとを増やしてまあ……」
 おでこに手を当てるバクに、伊武輝はまた質問をした。
「あの、マナって言うのは?」
「このバカ狐のことさ、どあほう! 白狐マナって呼ばれている」
 狐に名前があるのか。
 マナって、よくゲームで使われる単語だけど、確か魔力っていう意味だっけか?
「マナ、どうしてこんな奴を連れ出した。そりゃあ、マナの正義感は買うさ。でも、夢の世界にはルールがあるっていうのを、忘れたわけじゃないよなあ」
「夢の世界?」
 仮想世界の話だよな? マナと一緒に別の仮想世界に飛んだんだよな?
「ああもう、お前さんは黙ってろい」
 しかしマナは、ちゃんと話してというようにまたわんわんと吠えた。
「わかった、マナの尋問は後回しするが、ちゃんと食い甲斐のある夢を教えてなあ?」
 バクはこほんと咳払いをした後、改めて伊武輝と向き合った。
「お前さん、名前は?」
「弘坂伊武輝だ」
「おいらは夢喰いバク。悪夢を食べている。マナの要望通りお前さんに教える。ついて来なあ」
 バクがそう言うと、すぐ近くにある球体に歩み寄った。伊武輝もマナも黙って後に続く。
「お前さんたち人間が寝ている間、ときどき夢を見ているだろう。その夢の正体がこれだ」
 バクは浮かんでいる球体にツンツンと指を差した。
「夢の中には生き物が一体いてな、夢が作り出す幻を見ている。夢の中にいる住人は、夢から抜け出すことができない。なんでかっていうと、夢を見る生き物たちは、夢に内側と外側を知らないからだあ。そうだろう?」
 ゲームにありがちな初心者用の説明だろうか。伊武輝は腕を組んで口を一の字に結び、うーんと唸ったが、こくりと頷いた。
「そりゃまあ、隠しアイテムがあると知らなかったら、探そうともしないだろう。それと一緒か」
「なんだあ、隠しアイテムって?」
「なんでもない、続けて」
 バクは咳払いをした。
「なんで外側を知らないのかっていうと、それは夢の仕業だ。夢が作り出す幻が、目隠しの役割を担っているからだあ。おかげで外側の存在を知られずに済んでいる。ちょっと話が逸れたけど、つまり、たくさんある夢をぐるっと囲うように、もう一つ別の世界がある。それが、夢の世界だあ。人智未踏の世界、とも言ってもいい。お前さんが初めてだしなあ」
 夢に外の世界があって、それが人智未踏の世界。作り話だとわかっても、聞いているとなんだか気分が高揚してきた。おれが人類で初めて踏み入れた世界っていうことだろ?
「でもなあ、夢の世界にはルールや摂理がある。一つは、夢の世界に居続けると、現実の記憶が少しずつ思い出せなくなること。お前さんは何も持ち出していないって思っているだろうけど、時に記憶が、この世界に影響を与える。すぐには消えないけど、時が経つにつれて思い出せなくなる。二つ目は、夢の中にいる住人を夢の世界に連れ出さないこと。これはマナが犯した禁忌だあ。外に連れ出すと、夢の世界の秩序が乱れる。以上だけど、なにか質問あるかあ?」
「思い出せなくなるって、それって問題あるだろ」
 すかさずに言うと、伊武輝はしまったと後悔した。
「そう思うのならさっさと現実に戻るんだなあ。お前さんは招かざる客だ。戻りたいなら、お前さんの夢を探してやるから、なあ?」
 せっかく来たんだから、もう少しこの仮想世界を堪能したい。伊武輝は慌てて別の話題を振った。
「それと、秩序が乱れるって、具体的にどうなるんだ?」
 バクはうーんと唸った。
「お前さんが初めてだから、本当はどうなるかはわからない。ただ言い伝えによるとなあ、この世界に破滅をもたらすと言われている」
 物語の筋書き通りだとは言え、不穏な話だ。伊武輝は眉を寄せた。
「それって結構深刻じゃあ……おれをどうするつもりだ?」
「その裁決は、|(おさ)に決めてもらう。それとマナもなあ。ついてきなあ」
 お腹が大きく膨れ上がっているバクは、地表すれすれで風船みたいにぷかぷかと宙を移動し始めた。
 おれはいったいどうなるんだ。バクは現実に戻れって言っているけれど、長とやらは違うことを言うんじゃないか? 夢の世界に居続けるのが不都合なら、ちゃんと現実まで案内してくれるんだろうな? もしかしたら処刑されるのか?
 悶々と悩んで立ち尽くす伊武輝を見兼ねて、何かがコツンと伊武輝の膝に押し付けてきた。伊武輝が見下ろすと、そこには、下から見上げているマナの顔があった。わずかに口元が緩んで微笑んでいる。
 大丈夫と、そんな風にマナが言っている気がした。
 マナがスタスタ歩き始めると、伊武輝もやっと歩き出した。
 そういえば、マナに怪我させたときの謝罪がまだだった。今は難しくても、いつか言わないといけないな。
 ザッザッザッと、小雪を踏むような感触を楽しみながら、バクの後をついていく。
 夢の世界は不思議な世界だった。景色こそ代わり映えしない青い白が続くが、人がどんな夢を見ているのか、外から夢の中を覗き見れるのだ。空を飛んだり、動物になったり、深海を泳いだり、英雄になったり、淡い恋をしてみたり、怖い幽霊に追いかけられたり。同じ夢は決してなく、多種多様だった。眺めているだけでも退屈することはないだろう。
 夢があるのは、地上だけではない。地中にもあった。地面は濁りがなく透き通っているので、地中の夢も見える。だが、どの地中の夢も、みんな中で目を閉じていた。
 伊武輝は、先頭で浮かんでいるバクに聞いた。
「なあ、バク。なんで地中に夢が埋まっているんだ?」
「こいつらはなあ、よく眠れるように地中に潜っているんだあ。どんな生き物も、寝ているときは無防備だあ。だから身を隠す必要があるけれど、夢もそれと一緒で、地中にいれば、誰にも邪魔されずに安心して眠れる。地面が外敵から身を守ってくれると、夢は本能的に理解しているんだあ」
「寝るって、夢の中なのに?」
「地中に潜って寝ているときは、意識が深いところにいるか、現実に戻っているかのどっちかだあ。意識だけが現実と夢の間を行き来していて、二つの世界にいないときは、その間の深い溝のところでひっそりと隠れている。よくできているんだあ」
 伊武輝は息を呑んだ。それって仮想世界の原理と似ているじゃないか。これは偶然なのか? それとも仮想世界が夢に似せたのか?
 それに、動転して気づかなかったが、どうやら、夢の世界から仮想世界にも出たり入ったりすることができるらしい。なんで夢と混じっているんだ?
「急に黙り込んで、どうしたんだあ?」
 バクがきょとんとしていた。
 伊武輝は首を横に振った。
「いや、夢でも寝るんだなって、素直に感心していただけだ」と思ってもないことを言った。「バクもそうなのか?」
 そんなことはないと、バクは言った。
「おいらたちは夢が見れない。その代わり、飲み食いしなくても生活できるし、ケツからは何も出ない。生命活動を維持するには、寝ることと、食われないことだあ。お前さんも夢の世界にいる以上、おいらたちと同じ生活を送ることはできるはずだあ」
「ちょっと待って。それって矛盾してない? 飲み食いする必要がないんだったら食われることもないはずだ」
 バクはやれやれと両手を上げて首を横に振った。
「じゃあ聞くけど、お前さんたち人間は、なぜ無駄に殺し合っているんだあ? 生きるために必要なものはすでにあるのにどうして? そのほとんどの理由は、怒りや恐怖、不安、嫉妬と言った、負の感情に負けてしまったからじゃないのかあ? つまりはそういうことだあ。たとえ生きることに必要ではなくても、気に食わないと思う相手がいたら、食える」
 バクは空を漂いながら後ろにゆっくりと振り向く。その目つきは、野獣のように殺気立っていた。
 伊武輝は身震いした。バクはもしかしたら、おれのことを食えるかもしれない。黒ずんだ球体を飲み干したときと同じように。
 しかし、バクはころっと元の陽気さに戻して顔を前に向いた。
「だけど心配するなあ。それも掟の範疇で、同士や敵ではない者を食うなってなあ。掟って言うよりも、無意識のうちに身に染み付いたもんかなあ。もし襲ったりなんかしたら、返り討ちされてしまう」
 なんだ、と伊武輝はほっと胸をなでおろした。
 バクは大きくゲップをして、膨れ上がったお腹からガスを排出した。すると元のお腹に戻った。
「そんなこんなだけど、ほら、着いたぞ」
 伊武輝は視線を前にやるが、しかしそこには何もなかった。伊武輝たちがいるところを中心にして、半径数百メートルの円を描いたような範囲内には、夢一つなかった。
 宙に浮いているバクは着地し、ひざまずいて姿勢を低くした。マナもそれに合わせて頭を下げ、伊武輝も慌ててひざまづいた。
「夢喰いバク、ただいま戻りました」
 すると、周りに霧が発生した。目の前が全く見えず、足元しか見えない。
 それでも目を凝らすと、霧に影が映っているのがわかった。人間の腰くらいの大きさの影が話しかけてきた。
「還ったか。マナも一緒だな。そして、ふむ、これはなんと……」
 霧の向こう側から、だいぶ声が老けているが、それでも毅然たる態度が感じられた。長ということもあって、年相応の年季が入っている。
「そうです。ついにこの時が来てしまいました」
 バクがそう言うと、霧がすーっと速やかに晴れてきた。影が薄くなるにつれて、その形がどんどん大きくなり、見上げる伊武輝の首もまた徐々に反れていく。
 伊武輝は頭を目一杯に上げた。伊武輝たちの前に現れたのは、なんと、人の五倍くらいの大きさの象だった。伊武輝を踏み潰そうと思えば、いともたやすいであろうその巨体に、伊武輝は唾を飲んだ。
 象は頑強な座椅子に腰掛け、肘掛に前足を添えていた。前に大きく突き出ている象牙は、いともたやすく体を貫いてしまうほど鋭利だ。
「厄災をもたらすか、否か。それはわからんが、止む終えん。人間よ、わしは夢の管理者、エレだ。そして長も務めている」
「弘坂伊武輝と申します」
 余計な無駄口は言わずに、伊武輝はできるだけ丁重に簡潔に言った。その方が好印象だろうと、彼はそう思ったのだ。
 ふむ、とエレは相槌を打ち、象牙を掻きながらマナに気を止めた。
「さて、まずは人間のことよりも、忘れぬうちにマナから始める」
 名前が出ると、マナはエレの前まで歩き、ちょこんと座った。
「マナの行い、しかと見届けたが、人間を連れ出すという禁忌を犯した。本来なら償うべきだが、熟慮の結果、マナには一つ呪いを負うこととした」
 伊武輝はマナの後ろ姿を見届けた。元気がなさそうに尻尾が地にペタリと着き、耳も垂れ下がっている。
「すなわち、マナの存在が皆から忘れられ去られてしまうと、マナは死ぬという呪いだ。異を唱えることはできるが、異論はあるか?」
 こん、とマナは小さく鳴き、かぶりを横に振った。
 マナは重く受け止めているようだけど、大した呪いじゃないな、と伊武輝は思った。呪いと聞いてなにか恐ろしいことが起きると想定していたが、ここにいるバクや、エレは絶対に忘れないだろうし、他にもいっぱいいるだろう。人間を夢の世界に連れ出すこと自体、そんな大げさなことじゃないのかもしれない。
「では、これを以って、マナに魔法をかける。じっとしておれ」
 エレは座ったまま、長い鼻で羽ペンを持ち、宙に文字を描いた。日本の文字でも、外国の文字でもない。今まで見たこともない字体で滑らかにペンを走らせていた。文字列は紫色に怪しく光っていて、呪力そのものを感じる。
 書き終えると、文字列が宙を漂いながら、マナの脇腹あたりにすっと入り込んで消えた。マナにとりわけ変化がなく、反応もない。
 マナは呪いを体に刻んでもらうと、低姿勢のまま立ち上がって、その場から引き下がった。
「しかしマナ、なぜこの男を引き連れてきたのかね?」とエレはマナに声をかけて呼び止めた。「自力で到達するほどのちからの持ち主ならまだしも、数多いる非力の人間の一人に過ぎない」
「お言葉ですが、マナは悪夢に取り残された人間を救いたいが故に行動を起こしたのだと思われます」
 バクがマナの代理役となって説明をした。聞いたエレは、残念そうにため息を吐いた。
「知っておろう。悪に侵された夢はもうどうしようもない。バクに飲み干してもらう他ないのだ。悪に侵された夢は人に乗り移る。幸い、伊武輝は侵されてないようだが、悪に誘惑されるような心を持ち主は生き延びれん。救済しても、救助された者に強い意思がなければ、無意味なのだ」
 本人の前でよくもまあ喋ること、喋ること。言いたいことがふつふつと湧き上がるのを感じながらも、伊武輝はなんとか理性で蓋をした。
 エレはじっと伊武輝を目で捉えた。
「どちらにせよ、言い伝えによると、人間の侵入が破滅の始まりを意味すると言われている。突発的なものだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。時の流れる量が一定まで満たされると、破滅が来るのだろう」
「私めもそう思っております。ただ、気がかりなことがあります。主も知っているでしょう、夢の変異についてです」
「何を今更。心あたりがあるのか?」
「この人間めが、すべてを話してくれます」
 バクがちらりと伊武輝の方へ視線を投げかけると、エレも視線の先を伊武輝に向けた。
 え、おれ?
「そうか、そうだったな。話を聞こうではないか」
「ちょっと待って下さい、夢の変異というのはいったい?」
 伊武輝は動揺を隠しきれずに手のひらを見せながら立ち上がると、バクの目がキッと鋭くなった。
「お前さん、なんて無礼な」
 いや、おれに説明なしに急に話したバクのせいじゃないか。
 エレは朗らかに笑った。
「構わない、このままでいい。さて、そもそも夢とはなんたるか、バクから教わったか?」
 伊武輝はこくりと頷いた。
「はい、少しは。夢には内と外があって、現実と夢の間に意識が行き来できることくらいなら聞きました」
「なら話は早い。夢は、記憶や欲求から作られている。心の奥深くに、長い間隠れていた記憶が夢となって浮かび上がることもある。欲求は日々変化するが、記憶も同様だ。記憶も容易に改ざんされる。それもまた、その人の信じて疑わない記憶となり、夢となる。しかし、それは日常茶飯事で自然なことだ。わしはそのような夢を常に監視し、異常があると判断した場合、バクやマナのような夢の守護者に伝令を送っている。夢の守護者は主に悪夢の退治、もしくは夢の修復をしている。わしらがいなければ、生き物たちが悪夢に飲み込まれ、他の夢にも害してしまう。悪夢に侵された者は自分を見失い、現実で他者を無意味に傷つけ、殺してしまうのだ。そのようなことが起きないよう、わしらは常に守っている」
 エレは顔を雲わせた。
「ここ最近、奇妙なことが起きている。夢の大きさは種族ごとに大体決まっているが、突如巨大な夢が現れるようになった。伊武輝が抜け出した夢も同じだ。そして同時に、悪夢も頻繁に現れるようになった」
「悪夢は別段、危害はないですよね?」
 伊武輝は話の間を割って尋ねた。エレはゆっくりと頷いた。
「そうだ。悪夢のほとんどは危害を加えない。記憶や欲求に従って、悪夢を作り出す限りではな。しかし、作為的に悪夢を作り出す者がいる。わしらはそれを悪心のある悪夢と言っている」
 エレはふうと一息をついた。
「つまり、夢の異変というのは、夢の巨大化と、悪心のある悪夢の二つだ。今まで例がない。伊武輝に心当たりはあるのか?」
 熟考する必要はなかった。答えはずっと頭の中にあったからだ。
「はい。おそらく、人が作り出した仮想世界と、ナノボットというもののせいかもしれません」
 それはなんだとエレに尋ねられ、伊武輝は一から十まで話した。目に見えない機械——ナノボットが体中に流れていて、人の意識がその機械を通じて別の世界に行けること。その別世界が仮想世界であり、仮想世界にいる間、現実では意識がない状態であること。そして、悪夢を作り出す奴というのはほぼ確定で、人間が作ったコンピュータウイルスだということも。
「つまり、夢の構造とほぼ類似しているけど、大きな違いは、人の手で作られた物かどうかだと思えば、わかりやすいかと」
 エレは驚く素振りを見せず、顔をしかめていた。
「ふん。大方想定していたが、まさかそのとおりだったとは。人間の作り出すものは破滅しかもたらさない。そのことをわかってながらも尚、次々と生み出す。挙句の果てには、夢の世界まで犯しておって」
 急に怒ったかと思えば、今度は肩ががっくりと落ちた。
「確かに、言い伝え通りだ。このままでは、夢の世界は破滅する。人間は貪欲で、欲するがままに生きる。自身にも破滅がやってくるとは知らずに。自然の摂理に従わぬ、唯一の種族だ」
 伊武輝はマナの様子を伺った。マナは目をつむって、何か思考を巡らせているようだ。
 お偉いさんのエレがこれほど言うんだ。なんでそこまでしておれを外まで連れ出した? 決まったわけじゃないが、破滅するという予見があってもなお、なぜおれのことを救ったのか? 正義という言葉では片付けられない。助けることが正義だというのなら、世界を破滅させることは悪だ。お前は悪事を働く手助けをしたんだぞ、マナ。
 エレはしばしの間、顎に前足を当てて考え込んでいたが、ゆったりとその足を肘掛に置いた。
「伊武輝よ、お前はどうする?」
「どうするって、裁決が決まると聞いたんですけど……」
 エレの厳格な顔が、柔和な笑みに変わった。
「対策を急がねばならないが、伊武輝のおかげで、現状を把握することができた。それと、マナに無理やり連れてこられた被害者だ。この二つを考慮すると、罰するのは不当と判断した。ちからになろう。お主は今、何を願っている?」
 棚からぼたもちだ。労役だとか監禁だとか、最悪死刑も頭をよぎったというのに、逆にこっちから要望を聞いてくれるなんて、なんてついているんだろうか。
 伊武輝は間髪入れずに答えた。
「すぐに現実に戻りたい」
「それが本当の願いか?」
 エレもすかさず言ったあと、伊武輝は口を一の字に結んだ。
 本当かどうかと聞かれると、伊武輝はすぐに答えられなかった。エレの小さな瞳は、全てを見透かしているようだ。
「わしは全ての夢を把握している。無論、お主の願望も経験も知っている。本当は戻りたくないのだろう?」
 そんなわけがない。だけど、改めて聞かれると、どこか胸がもやもやしている。
 伊武輝は頭を振った。
「わかりません」
「ずっと一人だった。誰も見てくれなかった。そんな現実と、そして今、どちらが大事だ?」
「わかりません。ただ、まだここにいたいのかもしれません」
 迷いがあって白黒はっきりしない伊武輝に、エレはため息を吐いた。
「いずれにせよ、悪夢に対抗できぬお前にとって、夢の外も内も危険だ。お主は身を守るだけのちからを持ち合わせていない。せめて武器が必要だろう」
 エレはぶつぶつと呪文を唱えると、伊武輝の前に、杖が現れた。仮想世界のゲームで使っていた武器そのものだ。伊武輝は目を丸くして杖を受け取った。
「なんでこの杖が?」
 夢の世界に出るとき、武器は無くなった。それは仮想世界のゲームでしか使えないからだ。
 だけど、ゲームで使っていた杖と瓜二つのものが現れるなんて目を疑った。杖の先端が欠けていたり、握りやすいよう少し削った跡があったり、戦闘でできた切り傷もあったりした。正真正銘、伊武輝のものだ。
 一部制限はあるが、他の仮想世界や現実に複製物を送れるものの、他者の物を許可なく呼び寄せたり、複製することはできない。別の仮想世界から無断でコピーできるなんて、こんなの、どの仮想世界でも不可能なことだ。
 エレは、伊武輝の驚いた顔を見て満足そうに頷いた。
「言ったであろう、夢を把握していると。あれが人工の夢だとは知らなかったが、どうやらわしでも垣間見ることができるらしい。魔法で作ってみたがどうだろう。無論、使用していた魔法も使える。悪夢に立ち向かうには十分なはずだ」
 伊武輝は確信した。ここは仮想世界ではない。本当の本当に、ここは夢の外側の世界なのだ。夢も仮想世界も出入りができる。
 しかし、悪夢と戦えるかもしれないが、ウイルスは討伐できるだろうか。ゲームとはいえ、世界トップのチームが無残にやられていたんだぞ? とてもじゃないが、勝てる気がしない。
 そんな伊武輝の思考を読み取ったのか、エレは朗らかに言った。
「言っておくが、悪夢から逃げる手段ではなく、戦う手段として有効という意味だ。悪夢だけでなく、お主の言うウイルスも同じだろう」
「いったいどういうことですか?」
 エレはマナを一瞥して、コホンと咳払いをした。
「もう知っているはずだが、マナはウイルスに負われた傷を治癒できる。だが他に、マナの持つちからを分け与えることもできる。よって、お主にはマナから受け継いだ魔力がある。そのちからとお主自身のちからと組み合わせれば、ウイルスと対抗できるであろう」
 伊武輝はそれを聞いて、ぱっと顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
 深々とお辞儀をすると、エレは満足げになった。
「お主に戻る気があるなら、早めに言いなさい。お主の夢の場所を教えよう」
 再び深い濃霧が立ち込めると、伊武輝たちの前方に感じていた威圧感が消えた。エレがいなくなったようだ。
 この杖さえあれば戦える。あの赤い目の化け物をやっつけられるってもんだ。それに、ゲームができなかった欲求不満をぶつけることもできる。まさに一石二鳥だ。
 霧がすっかり晴れると、伊武輝は杖を高々と掲げて歓喜していた。だが、バクとマナは低姿勢から立ち上がると、伊武輝を挟み撃ちにした。
「なあお前さん。有頂天になっているところで申し訳ないが、これだけは言わせてくれ。お前さんはいったい、何がしたいんだあ」
 バクは伊武輝と同じ目線になるように宙に浮き、前足を組んで問いただした。その言葉の節に少し棘が感じられた。水を刺された伊武輝はバクを睨んだ。
「別に関係ないだろ」
 ぶっきらぼうに投げる伊武輝に、バクが激怒した。
「なに言ってる。長は寛大だけど、ここにいる以上、責務を果たさんといかんよ。マナは夢に潜り込んで悪夢の退治、おいらは収拾のつかなくなった悪夢の処理。夢の世界にいる者のほとんどが夢の守護者だ。悪夢は日々勢力を増している。なんとか抑えつけようと、みんな協力しあって頑張っている。で、お前さんには何ができる? ただ逃げることしかできないお前さんに、何ができる?」
 伊武輝はふと、あの赤い目のウイルスの言葉が頭によぎった。
 君は逃げる方を選んだんだね。
「逃げてなんて、ない。それに、これさえあれば問題ない」
「逃げてる。お前さんには何も見えていない! たとえ武器があっても、迷っていてはなにもできなくなるんよ」
「見えていないのは、お前の方だろ、バク?」
 伊武輝はバクの真ん前まで顔を突き出して言った。
「どんな過去があるのかも聞きもしないで勝手に決めつけるのは、いい気持ちじゃないんだよ」
「何を偉そうに。夢に過去はないんだ。今しかないんだよ。今の連続しかない」
 伊武輝はその言葉に言い返せる言葉がなく、鬱憤がさらに溜まった。だけどここは、冷静にならなくてはいけない。今度のことを考えると、夢の世界の『動物たち』とうまく付き合う必要がある。
 何も手を出さないマナが、伊武輝の背中を見守っている。伊武輝は数歩引き下がり、目を閉じて静かに深呼吸した。
 バクも高ぶる興奮を沈めるために、大きく深呼吸した。
「それで、何をするんだい?」
 伊武輝は杖を指輪に変形させ、左の中指にはめた。そして振り返ってマナに近づき、頭をなでなでした。マナは目を細め、とてもうれしそうに顔が緩んだ。
 マナに会ってから迷惑をかけてばかりだ。無知で無力な故に、傷つけ、助けられたことか。だから今度は、
「マナの手助けをしたい」
「悪夢退治の補助、というわけか。だけど、忠告しておく」
 バクは念を押して言った。
「夢というのは、そんなに生易しくない。なにも、手強いのは人間が作ったウイルスだけじゃない。人の記憶から生まれる一般的な悪夢も、心を惑わす。心に芯がなければ、たとえ、マナの魔力を持ってしても太刀打ちできない。お前さんは、この世界を見くびっている。その甘さと心の弱さが、きっと仇になる。マナだけでうまくやれる場面でも、お前さんと一緒にいることでうまくいかないときもある。それでも、覚悟はあるんかい?」
 伊武輝はそこまで考えておらず、返答に困った。だが、言った言葉に責任を持たずに済むように、いつもどおりに保険を掛けた。
「わからない」と伊武輝はバクに一言だけ言って、その場から離れた。バクは呆れて何も言い返せなかった。一方マナは、じっと伊武輝の背中を眺めていた。
 手助けしたいのは変わらない。だけど覚悟があるかどうかなんて、そんなのわかるはずないじゃないか。
 覚悟ってなんだ? 悪い結果を受け止める心構えか?
 あいにく、そんな覚悟なんて持ち合わせてないよ。

飛翔

 伊武輝(いぶき)はマナと一緒に、とある夢に潜って探索していた。バクによると、もしかしたら夢ではなく、仮想世界かもしれないと言う。通常の夢の大きさの数倍も大きいのだ。しかし、時としてこれが仮想世界ではなく、人の夢の場合もあるので、断定できないそうだ。それほど、今の夢は不安定だ。
 マナと並行して空を飛んでいる伊武輝は、前方に顔を向けながら話しかけた。
「お前よく飛べるな。この夢に入ったことあるのか?」
 背中から翼が生えているマナは、苦もなく飛び回っていた。翼を強くはためかせるのと同時に、四本足がぴょこぴょこと動いている。風を受けて気持ちよさそうだ。
 伊武輝も同じように翼が生えていたが、行きたいところまで思うように空を切ることができず、マナのように楽しむ余裕なんてなかった。
 伊武輝とマナは、見渡す限りの青い海の上空にいる。どこまで飛んでも大陸も島もなく、羽を休むところなんてなかった。それでも、すれ違う蛇や猫、魚、イルカも翼をバサバサとはためかせていた。一体どこに向かっているのだろうか。
 どうやらここは、人間も動物も翼が生えた夢のようだ。もっとも、仮想世界なのかもわからないが。
 マナは伊武輝から離れ、縦横無尽に飛び回った。宙返りしたり、縦や横に回転したり、ジグザグに空を駆けたり、開放感を存分に味わっている。
 しばらくマナを見ていると、今度は鼻先を天に向け、どんどん高く垂直に飛び上がっていった。雲の上まで飛び抜こうとする勢いだ。
「待てってマナ」
 額に汗を流す伊武輝は、マナに追いつこうと力一杯に翼に動かすが、ノロノロと上昇するだけで、とても追いつけない。距離がどんどん離れ、突き放していく。
 夢の世界に飛び出してからどのくらい経ったかわからない。時間の物差しがなくても、少しずつだが、マナのことがわかってきた。
 マナは好奇心旺盛で、活発的な動物だ。優しくて正義感が強い。こんな性格の人間がいたら、さぞかし人気者だろう。
 しかし、伊武輝が気がかりになっているのは、マナが全くしゃべらないことだ。バクやエレだけでなく、ここに来る道中いろんな夢の守護者とすれ違ったが、喋らない動物はいなかった。マナはいつも身振り素振りで態度を示し、意思疎通していた。
 しゃべらない理由が何かあるのだろうか。
 伊武輝のはるか頭上にいたマナは、とうとう雲に隠れて見えなくなった。気持ちを切り替えて、伊武輝も続いて雲の中に突入した。
 口の中にミントのような味がどっとなだれ込み、肺の中まで満たされた。湿った雲が目を刺激してくるので、伊武輝は目を細めて上昇を試みた。
 ぽんと雲から脱すると、天上から太陽が爛々と照りつけてきた。酸素が薄くて少し息苦しいが、清々しい風が流れていた。
 伊武輝の前方にふんわりとマナが宙に漂っていた。伊武輝はむっとした顔でマナのところに近寄った。
「おい、マナ。勝手に行動するな。いつどこで敵が現れるか……」
 伊武輝は言葉が続かず、マナと一緒にあんぐりと口を開けた。
 言葉を失った伊武輝とマナの前には、雲の上に巨大な王城があった。頑強な岩盤の城壁が、王宮を何層にもぐるっと囲い、ところどころ穴が空いている。城壁の四隅にそれぞれ一本ずつ尖塔があり、王城の真上から侵入してきたら仕留められるような造りになっている。あの王城を人間だとすると、伊武輝とマナはミジンコに違いない。
 いくら夢でも、スケールがでかすぎるだろう?
 伊武輝はあっけにとられていると、マナが前足で方向をくいくいと指を指した。その方角に目を凝らすと、王城近くの空中で、なにかが入り混じっていた。耳を澄ませると、かすかに金属がぶつかり合う音が聞こえる。
「あれは乱闘か?」
 伊武輝の質問に対し、マナがこくりと頷いた。
「ここからじゃよく見えない。近くまで行こう。もしかしたら悪夢の元凶がいるのかもしれない」
 二人は、王城前の戦場まで滑空した。ゴウゴウと耳元で風が唸る。飛行にだいぶ慣れてきた伊武輝は、今度はマナに遅れないようにピッタリと横にくっつく。
 戦場に潜り込むと、ここはすでに混戦状態で、軍隊と黒い鳥の大軍が入り乱れてぶつかっていた。四方八方から弓矢やナイフ、鋭い羽や鳥そのものが飛んでくる。伊武輝とマナは巧みに避けながら、争いの中心部まで狭まった。
 そこには、全身真っ黒に染め上がったグリフィンがいた。頭部は鷲だが、胴体はライオンだ。背中に翼があり、バサバサとはためいている。だが、羽毛や毛並みはなく、黒い影がうごめいているように見えた。体のあちこち矢が突き刺さっていたが、血が流れておらず、まったくひるんでいなかった。
「まったく効いてねぇぞ! いったいどこからわいてきやがったんだ!」
 翼の生えた兵士がグリフィンに向かって言った。頭から足の先まで鎧を着用していたが、鎧のあちこちに穴が開いて皮膚が見えていた。
 グリフィンは赤い目を開き、兵士たちにぎらつかせた。足の先にある鍵爪から、ポタポタと血が滴り落ちている。
 黒い体と赤い目。コンピュータウイルスの特徴とよく似ている。
 伊武輝がそう思った瞬間、グリフィンの先鋭な眼光が、伊武輝とマナに突き刺さった。
「検知した」
 グリフィンから壊れたスピーカーの音が聞こえたと思うと、グリフィンの体から数百羽の黒い鳥が分裂し、バサバサと羽ばたきながら伊武輝とマナの方へ突進してきた。
 伊武輝は杖を取り出し、彼とマナの周りに結界を施した。鈍い音とともに黒い鳥が結界にぶつかってくるが、ヒビ一つ入らない。
「あのウイルス、おれたちに相当恨んでいるみたいだな。周りの人たちに目もくれない」
 検知したと言葉を発したのと同時に二人に襲いかかったのは、グリフィンの正体がコンピュータウイルスだからだろう。だとしたら、ここは夢ではなく仮想世界だ。仮想世界もろとも自滅した、あの人の形をしたウイルスからすでに情報はもらっているに違いない。
「逃がさない、逃がさない」
 グリフィンは、尾から黒い一筋の煙を上空に昇らせ、黒雲を発生させた。
 黒雲が横へ横へと広がっていく。雷雨でも降らせる気か?
 そう思った矢先、黒雲から、黒い槍がどしゃぶりの雨のように、次々と兵士たちの鎧を貫き通しながら降ってきた。
 兵士たちの苦痛な叫びがあちこちで響く。翼に刺さり、槍に持っていかれるように雲の中に消えていく兵士がいた。黒い槍に掠っただけでも、黒いシミが兵士の全身に徐々に広がっていく。
 マナはすぐさま治療を施すために、腕に噛み付いた。だが、感染者の数は増える一方で、マナだけでは到底食い止めきれない。
 伊武輝は、マナと自分自身の頭上に結界の傘を作り、黒い槍から身を守った。だが、数千人の規模の軍隊に結界を施すのは難しかった。
「マナ、ちょっと動かないでくれ」
 伊武輝が呪文を唱えると、マナの周りに極細の注射針が数十本現れた。マナにめがけて一斉に注射すると、注射針はマナの血で満たった。ハリネズミのようになったマナはなんともないようにじっとしている。
 ちょっとばかりの血を抜くと、その針を兵士たちに狙いを定めて刺した。
 マナの体がワクチンそのものだとしたら、ちょっとばかりの血だけで、侵食を止めるだけのちからはあるのではないだろうか。
 突飛的で根拠はないが、伊武輝の勘が当たった。注射された兵士たちの体にまだシミが残るものの、ウイルスの侵食が止まっていた。完全な治癒とまではいかないが、これで兵士たちはなんとか戦えるだろう。
 マナは伊武輝に向かってわんわんと吠えた。
「怒っている暇なんてないよ。あのグリフィンの動きを止めてくれ。おれは結界を解いて、治療に専念する」
 マナはコクリと頷き、黒い槍を鮮やかにかわしながらグリフィンの元へ駆けていった。
 またマナから注射針を刺すのもいいが、数が限られるし、それほど効果はない。なによりマナのちからを吸い取ってしまう。もしエレの言っていることが本当なら、おれの魔法で黒雲をなぎ払って、兵士たちを助けられるはずだ。
 伊武輝は結界を解除し、胸の内で呪文を唱えた。
 地を明るく照らす太陽よ、その光、悪しきものを貫き、我らの傷を癒やし給え。
 すると、黒い槍が小降りになり、雲の色が少しずつ明るくなり始めた。
 黒雲が晴れ、隙間から太陽の日差しが降り注ぐ。兵士たちが陽を浴びると、体のあちこちにできた黒いシミの侵食が止まった。だが、縮小する速さがとてもゆっくりで焦れったかった。
 おれのちからをもってしても、完治までには至らない。ちから不足か。
 伊武輝は気を緩めないように、両手で杖をしっかりと携え、魔法に集中した。
 周りに注意しないその隙が命取りだった。一本の槍が、結界のない伊武輝に向かって落ちていく。いや、違う。槍ではない。槍が黒い鳥に変形した。くちばしが大きく裂けて開き、鋭い牙をむき出しにして噛み付こうとした。
 伊武輝の頭上まで接近すると、彼は黒い鳥に気づき、杖で身を守ろうとした。
 そこへ、伊武輝の前に大振りな影が現れた。剣を小さく横に引き、迫ってくる黒い鳥を薙ぎ払った。剣を一振りすると、鳥は塵となって散っていった。さらに、伊武輝の背後から襲いかかる他の鳥に矢が刺さり、消えていった。
 颯爽と現れたのは一人の騎士だった。鎧を全身に纏っていたが、頭だけは剥き出していた。遠方には、矢で撃ち抜いた弓兵が二人いた。彼らもまた騎士と同じように、鎧で守りを固めていた。
 騎士は伊武輝の背中を合わせながら、濁声で話しかけてきた。
「お前を援護する。何者か知らないが、我が軍の治療に当たってくれ」
「助かる」
 伊武輝は手短に言うと、騎士たちに自分の身を守ってもらいながら、再び杖を構えて目を閉じた。敵や視界に気を配ることなく、治療に徹底する。この方が集中力が増して魔力が上がる。
 強い陽の光を浴びる兵士たちの黒いシミは、さっきより速く縮小した。握りこぶし一個分のシミなら、数十秒で完治できる。それまでは、兵士たちはできるだけ攻撃を喰らわないように、防衛に徹したほうがいいだろう。
 伊武輝は背中を預けている騎士に向かって言った。
「他の味方に伝えてくれ。黒雲が消滅するまで、できるだけ攻撃を食らわず、かわしてくれとな」
「無理だ。戦場が混乱していてそれどころではない」
 それもそうだった。槍や鳥、弓やナイフが四方八方に飛んでくるのだ。それに騎士は、守り通すことに手一杯で、おれから離れることができない。
「おい、あれを見ろ!」
 弓兵の一人が声を張り上げて指を差した。伊武輝も薄目で外の様子をチラリと伺った。
 はっきりとは見えないが、どうやらマナとグリフィンが対峙しているところらしい。マナはただ空に佇まうだけで、大きな動きはなかった。
 グリフィンは、翼から黒い槍を作り出してマナに飛ばすが、マナの目の前で弾けるようにして消えていった。
「なんなんだ、あの動物は」
 伊武輝も兵士たちも驚嘆した。兵士たちを苦しめる黒い槍が、マナに当たった瞬間砕けたのだ。見た目は柔らかい毛並みなのに、まるで鋼を身にまとっているようだ。マナにはただならないちからをまだ秘めている。
 だが、グリフィンは驚きも怒りもしなかった。機械的に槍を出現させては投げての攻撃を繰り返した。
「君はなぜ逃げた? なぜ逃げた?」
 逃げた? グリフィンはおれのことを言っているのか?
 でも、顔の向きや間合いから考えるに、マナに向かって語りかけているようにしか思えない。マナは依然として、攻撃を消しながら宙を飛んでいる。
「逃げても逃げても、結果は同じ、結果は同じ」
 グリフィンが攻撃の手を休める瞬間を、マナは見逃さなかった。右の前足と右翼を後方に引き、グリフィンに向かって大きく翼をはためかせた。突風がグリフィンの体にぶつかり、ズバズバとナイフで切り刻むように、鋭い傷が出来上がっていた。
 かまいたちだ。マナは続けざまになんども左翼、右翼と交互にはためかせ、かまいたちを何度も起こした。
「幾度、倒そうと、強くなって戻ってくる。それを学習しない、学習しない」
 ギギギと不協和音が鳴り響く。
「人間は、何も、学ばない」
 じっとしているグリフィンの体がズタボロになっていく。
「支配者に、従う限り」
 マナの目がキッと鋭くなった。
 こぉーん!
 マナの咆哮で、グリフィンが跡形もなく消えた。わずかに残っていた黒雲も、黒い鳥も、みんな消えていった。
 伊武輝は魔法にちからを注ぐのを止めると、額に汗が流れ、肩で息をした。
 戦場に静寂が訪れた。兵士たちは、グリフィンが倒されたのを、お互いに顔を見せあいながら確認し合うと、空にヒビが入るくらいの雄叫びが沸き起こった。
「命の恩人だ! 感謝してるぜ!」
 伊武輝を守っていた騎士が、彼の肩にバシンと叩いた。
 筋肉もりもりの騎士のボディタッチはいてえなあ。
「いや、やっつけたのはマナだよ」
 叩かれた肩を摩りながら、マナにちょんちょんと指差すと、騎士はマナをチラッと見た。
「あの動物のことか? だが、お前の協力無しでは倒せなかった。私はゴザム。この国の騎士長だ。お前は?」
「伊武輝だ。おれは……そう、ただの放浪者だ」
 うっかり、夢の世界から来たことを口にしそうだった。尋ねられるまでは忘れていたが、夢の世界の存在を知らせてはならない。話しても信じてもらえないとは思うが、信じる人は信じ、現実で混乱を招く結果になる——と、バクにそう言われた。
 マナは、グリフィンを倒したのを確認すると、すぐさま伊武輝の元へ駆け寄った。伊武輝の前で頭をそっと差し出している。
 撫でてほしいのか? 嫌だな、照れ臭い。
 伊武輝は苦い顔をして、片手を振って追い払おうとした。それでもマナはめげず、頭突きするような勢いで彼に迫った。頭を彼の胸にぐりぐりと擦り付けてきて離さない。傍で見ていたゴザムは首を傾げて見ていた。
「ああもう、わかったよ。こうすりゃあいいんだろ」
 ようやく折れた伊武輝は、目の前にあるマナの頭を撫でてやった。すると、マナは嬉しそうに舌を出してニコニコと笑い、尻尾をぶんぶん振り回した。
 手に温もりが伝わり、胸に息遣いが当たってくる。あの黒い槍を受けたというのに、傷ひとつない。
 動物に触れたのは初めてかもしれない。人の肌も触ったこともない。仮想世界に入り浸りすぎて、相手は機械なのか、生き物なのか、わからなくなるときがある。
 相手は生きている。そう確認できる唯一の方法は、こうやって手で確認することかもしれない。
「ただの放浪者にしては、あの黒鳥に怖気ずに果敢に戦っていたじゃないか。道中にも出くわしたのか?」
 弓を背中に下げている弓兵が、伊武輝とマナに近づいてきた。黒鳥というのはグリフィンのことだろう。
「いや、初めてだ」
「じゃあ、知っているわけ無いか。残念」
 弓兵はがっくりと肩を落とした。
「なにをだ?」
 まだ止まぬ歓喜の中、伊武輝がそう訊くと、ゴザムは腕を組んで唸った。
「黒鳥と戦ったのは、何も今回だけではない。今日ので七回目だ。普通の鳥は美しい音色を口ずさむ。だが、あの鳥は気味が悪い。金切り声のような、重い羽音のような音がする。背筋が凍るような、不気味な感じだ」
「今まで全滅しなかったのが奇跡だな」
 しかし、その言葉にゴザムは深刻そうな顔つきで、頭を横に振った。
「黒鳥は、何度も倒しても、何度も蘇る」
 幾度、倒そうと、強くなって戻ってくる。
 伊武輝はグリフィンこと、黒鳥の言っていた言葉を思い出していた。
「安心できないってことか」
「そういうことだ」
 ゴザムが王城まで来るよう促すと、伊武輝とマナは従い、彼の後ろについて行った。
「最初はかわいいものだった」と、ゴザムが遠い目をした。「あの図体のでかさで、素人でも仕留められるほどの間抜けだった。ゆっくりと飛行していて、行動の先読みも容易だ——」
 ゴザムは翼を力強くはためかせた。彼の周囲に風を纏っている。背中姿しか見えず、表情を伺うことができないが、その風はどこかやるせない感じがした。
「——だが、何度も遭遇していくうちに、黒鳥はどんどん強くなっていた。我々について学習し、己の足りない部分、あるいは弱点を克服しながら進化していった。そしてついに、全兵力注いでも、倒せなくなってしまった。さっきのようにな。犠牲者も増える一方だ。今日はお前たちのおかげで難事は逃れたが……」
 風が収まると、伊武輝はゴザムの隣に入った。ゴザムは胸にあるペンダントを手にしてじっと見ていた。
「戦友の形見だ。雲の上では死を弔うことはできない。だからせめて、彼の一部をずっと肌身離さずに持つことで、はじめて喪を受け入れることができる。死を無駄にしないために。天に召された戦士の私物を、こうやってみんなで分けて、死を忘れないようにしている」
 ゴザムはペンダントを握りしめた。
「大事な人だったんだな」
「ああ、一時も忘れたことなんてない」
 伊武輝は想像した。もし篠野(しのの)が死んでしまったら、果たしてゴザムと同じような気持ちになれただろうかと。仮想世界にも墓場はある。瞬時に行けるとしても、きっとおれはゴザムと同じ気持ちを抱かない。今まで、ただのゲームの仲間としか見ていなかったから……。
 だからだろう。ゴザムと戦友との関係が、羨ましく思えた。伊武輝は話を切り替えた。
「これ以上死者を出さないためにも、考えないといけない。問題は、より強化された黒鳥をどうやって退治するか、だろ?」
 伊武輝がそう言うと、マナも二人と一緒に並んでそうそうと言わんばかりに何度も頷いた。
 ゴザムの表情が少しばかり明るくなり、ペンダントをあご当ての中に仕舞った。
「さよう。今回で、おそらくお前たちについても学習したはずだ。対策を練って、再びやってくるだろう」
 城門前までたどり着くと、三人は雲の上にぺたりと座り込んだ。巨大な門がちょうどいいところに影を作り、伊武輝たちから日射しを守っていた。
 伊武輝は足が着けるとわかった途端、体中から疲労感がどっと湧いた。ずっと翼を動かしっぱなしで、もうへとへとだ。翼もくたびれているようにしゅんと縮こまっていた。翼を折りたたんだマナは、体を伏せた途端、大きなあくびをした。
 ゴザムも同じで、たとえ鍛え抜いた体でも休める必要があった。腕や足を伸ばして筋肉を解きほぐしている。
「こんなところで申し訳ないが、しばし休めてから国王に会わせよう。疲労困憊している顔なんか、見せたくないだろう?」
 伊武輝はその言葉に違和感を覚えた。ゴザムは人が操っているものだと思っていたが、コンピューターが操作しているのか? はたまた、ここの仮想世界の登場人物になりきっている変人なだけかもしれない。
 伊武輝は伺うようにマナの顔を見ると、マナは頭を横に振った。
 長くは居られない。
 マナはそんな感じに言っているようだ。速やかに仮想世界から抜け出なければならない。
「すまない。おれたちは休んだら、すぐに発たなければならない」
「そうか、それは残念だ。また来るのか?」
 期待の眼差しを向けているゴザムは、きっと黒鳥を倒せるのは伊武輝とマナしかいないと考えているのだろう。言葉にはしないが、その裏には懇願に近い気持ちが秘めている。
 伊武輝は、その眼差しを否定する気にはなれなかった。たとえ仮想世界でも、友情は生まれる。そう信じたかった。
「確証はない。だが、何度も黒長に出くわしたんだ、次にいつ頃出没するか予想できないか? できるならそれに合わせて戻りたい」
「感謝する」
 ゴザムは深々と頭を下げたが、伊武輝は手を振った。
「いや、保証できないぞ」
「それでも、期待して待ってるぞ」
 ゴザムは意味ありげなことを言ってにやりと笑うと、伊武輝の肩を再びばしんと強く叩いた。伊武輝はヒリヒリしている肩を撫でながらゴザムの話を聞いた。
「日がおおよそ六十回沈んだ翌日に奴は現れる。それまで、互いに強くならねばな」
 マナはすくっと立ち上がり、あたふたと伊武輝の服の袖を口で引っ張った。
 もう早く行かないと。
 そう言っているようだった。
「もう行かなければ。また会おう」
「おう! 達者でな」
 ゴザムが言い終わらないうちに、マナはすでに翼を広げて飛び立っていた。伊武輝も慌てて上空に飛び上がる。
 なんでそんなに焦っているんだ、マナは?
 その理由は、すでに形となって現れた。
 先程の軍隊や王城は虚空に溶け込み、消えていった。ゴザムはそんなことに気が付かずに、ぷかぷかと気持ち良さそうに浮遊しながら、とても眠そうにあくびをしていた。
 伊武輝はハッとなって気づいた。
 ここは仮想世界ではない。夢が作り出した幻だ。ゴザムの、いや、この夢の主の意識が、現実に戻ろうとしているのだ。
 周りの景色が、徐々に大きく揺らいでいく。夢もまた、眠ろうとしているのだ。
 このままでは夢から出られなくなる。それだけじゃない。夢の主に支障をきたすほどの影響を与えてしまう!
 伊武輝はマナの後ろ姿を捉えた。マナは空を物凄い勢いで横切り、空に浮かんでいる亀裂に目掛けて滑空した。そこが夢の裂け目であり、唯一の出口だ。だが、夢の裂け目がだんだん小さくなっている。
 マナは裂け目の手前まで静止し、伊武輝に向かってこぉーんと力強く吠えた。
「これでも全力だよ!」
 伊武輝は歯を食いしばって裂け目まで猛スピードで距離を狭まった。
 五十メートル。
 夢の揺らぎが大きくなりすぎて、今度はあちこちからガラスの割れる音が響き渡る。崩壊とは言いすぎだが、夢は脅威から守るために、まずは内部をリセットしているようだ。邪魔者である伊武輝とマナを消そうとしている。
 二十五メートル。
 伊武輝の背中から崩壊の音が追ってくる。横っ腹が痛くて呼吸することさえ困難で、翼にちからが入らなくなっていった。
 十メートル。
 ついに翼が消えてしまった。伊武輝は白い地面に転がり落ちて倒れた。マナも翼が消えると、横たわっている伊武輝にあわてて駆け寄り、尻尾で伊武輝の頭をぺしぺしと叩いた。
 もう音が近い。伊武輝は顔を上げて喚き叫ぶと、体を起こして、マナと一緒に夢の裂け目まで走った。
 五メートル。
 振り返るな、ひたすら前に走れ。崩壊の音はすぐそばまでいる。伊武輝は腕を伸ばし、マナはぴょんと跳ねた。夢の裂け目は、針の穴ほどまでに小さくなっていた。
 届け、間に合え!
 とうとう裂け目は消え、夢が穏やかになった。王城が跡形もなく消え、まっさらになった。
 夢の主は目を閉じ、安らかな顔をして眠りについている。
 そして伊武輝とマナは、無事、夢の世界に脱することができた。


「初めてにしてはようやったなあ。だけど、おかげで美味な悪夢を食べ損なったあ」
 バクは舌打ちを鳴らした。
「な、んで、そん、な、ことを、言う?」
 仰向けになってゼエゼエと息を切らす伊武輝は、言葉をちょっとずつ切らしながらバクに言った。一方マナは、何食わぬ顔で座って丸くなり、自分で尻尾を舐めて毛づくろいをしていた。
「お前さんたちには理解できないと思うけど、たまらんのよ、悪夢を食べることが。とても美味なんだあ。マナが来るまで、それはもう贅沢三昧だったあ」
「マナが、来たって、元から、いたんじゃ?」
「違う、違う。——もうどれだけの時間が過ぎたかわからんけどなあ、マナが来てからというものの、いつの間にか、おいらが後処理係になってしまったあ。少しは分けてほしいんだけどなあ」
 伊武輝は暴走して乱れている呼吸を落ち着かせるために、何度も深呼吸をした。呼吸が少し落ち着き、普段通り喋れるようになった。
「じゃあ、誰がマナって名前を付けたんだ?」
「それは長が付けた。未知なるちから、という意味があるらしい。マナがおいらたちの目の前でちからを披露した途端、思いついたんだそうだあ。未知なるちからを秘めた存在——それがマナだあ」
 未知なるちからを秘めた存在。
 ゲームで知られるマナというのは、魔力という言葉一つで片付けられているけど、魔力もまた秘めたちからのことを指しているんだよな。確かに、マナはぴったりの名前だ。
「ところでおいら、外から夢の様子を見ていたけどなあ、お前さんはできるだけ、夢の住人と関わりは持つなあ」
 伊武輝はハッとなった。
「バク、あれは仮想世界じゃなかったのか?」
「どうやら夢、だったようだあ」
 バクは地中に眠るゴザムの夢を見下ろした。
「例の、人の作ったウイルスもそこにいたぞ」
「だからなんだあ?」
 伊武輝は少し苛立ちながら、ゴザムの夢をピッと指差した。
「だから、仮想世界しかいないウイルスが、人の夢にいたって言ってるんだ」
「よくわからんけど、あれはウイルスじゃなくて悪夢そのものだったんじゃないのかあ?」
「おれとマナのことを知っていたぞ?」
 バクはしばし考えを巡らせた。
「あくまでもおいらの考えだけど、夢同士で連絡を取り合った結果が表れたんだと思うんだあ」
 バクは少し先の浮遊している夢を指差した。
「夢は守りを強固にするため、地中や地上で互いに知恵を振り絞って伝えあい、弱点を自ら克服する。でもなあ、それには限度がある。自分で克服できない場合は、できる範囲で夢同士で助け合っている。今回会ったその悪夢もそれと似たように、夢から夢へと移っているのかもしれないなあ」
 つまり、誰かが見た悪夢が夢伝えで移っているだけであって、ウイルスではないということか? ウイルスと酷似していたのはたまたまだろうか?
「それよりも」とバクは話を元に戻した。「もう夢の住人とは深く関わるなあ」
 バクの言う住人とは、夢の中にいる人たちのことだ。
「なんで?」
「なんでって、本来、お前さんのことなんか誰も覚えていないんよ。知名度が最も高い人でも、全員に記憶してもらうことは不可能。人間が作り出した道具を使って広めようとしても、それを受け取れない人がいる。それか時間に追われて、覚える時間すらないんのかもなあ。なにが言いたいのかって言うと、あの筋肉の騎士に、お前さんのことなんて会ったこともなければ、話したこともない。その人の記憶にお前さんはいないんだあ。夢は欲や記憶から作り出す世界。だから、本来ならお前さんもマナも入ってはいけない存在だあ」
 伊武輝は腕を前に出した。手のひらや甲、腕の表裏に何の異変もないことを確認すると、バクに問いただし始めた。
「別に夢の中に入っても、とくに何も起こらなかったじゃないか。それに禁止されてたら、マナだってなにもできないじゃないか」
「夢はある程度のことは許してもらえる。予期しない悪夢が生まれれば、夢もパニック状態になる。だから夢は、お前さんたちを迎い入れて退治をお願いしている。でもなあ、度が過ぎると、お前たちを破滅者とみなして攻撃してくるんよ。お前さんも体感しただろう? 筋肉バカが夢から覚めるとき、夢は主を守るために、お前さんたちを襲った。もう一歩遅かったら、お前さん、消えてなくなっていたあ」
 伊武輝は背中から悪寒が走るのを感じた。
 夢って、そんなに恐ろしいところだったのか? 現実ではできないことを、夢では叶えてくれる。そういうものだと思っていた。
 だけど、そうだよな。勝手に押しかけてきて荒らすことと変わりない。そりゃあ追い出したくもなるよな。
 伊武輝は顎を撫でながら決まり悪そうに言った。
「関わるなあって言われても、もう約束しちまったよ。また来るって」
「それも知ってる。そんな親切心が、夢を脆くする。どうするんだあ?」
 伊武輝はあぐらをかき、腕を組んでうーんと唸った。
 バクの話す感じだと、もう夢の住人と関係を作るなと言いたいようだけど、そんなの無理だ。また黒鳥はやってくる——それも、ちからをつけて強くなった状態で。ゴザムが率いる軍隊だけで退治するのは無理だ。必然とおれたちのちからが必要になってくる。
 そもそもの話、バクの推察通りだとすると、黒鳥は、他の夢が送りつけた悪夢ということになる。
 だったら二度と侵入されないように、夢の世界から施すことはできないのだろうか。
「なあ、バク。エレは……」
「ばか、長と呼べ」
「……長は、夢を管理しているって言ってたよな?」
 伊武輝はそう改めると、バクは自信ありげに頷いた。
「ああ、そうだあ」
「具体的には、どんなことをしているんだ? 夢を悪夢から守っているとか?」
「どうしてそんなことを聞く?」
 バクは疑わしそうに目を細めた。
「いや、もうやっていることかもしれないけど、悪夢が外から侵入しているんだったら、それを阻止すれば問題解決するんじゃないかと思って」
「お前さんだったら守りきれるのか、数多の夢たちを? 長以外にも手伝ってもらっているが、全く手が足りてない。監視するのに労力を使っているんから、侵入された後、対処できる余力が残っていない。だったら、侵入されたあとに対処したほうが楽だ。どうにもならないんだ。監視するのはとても大変だあ」
「できるかわからないけど、おれ、その役割をやってみたい」
 伊武輝は身を乗り出して言うと、バクは解せない顔でどかっと尻もちを着いた。
「お前さん一人でか?」
「魔法っていうのは実に便利でね。一度魔法を掛けたら一生残る。長も同じことをやっているだろ? なんで長は魔法で夢を守ろうとしないんだ?」
「できるんだったら今頃やっている。長が使えるのは、あくまでも理を生み出すことか、夢を分析することだ。ほとんどの奴らは夢の保護ができない」
「だったらなおさらだ。おれがやってみる」
 地中に埋まっている、今しがた抜け出した夢の真上で、伊武輝があぐらを組んだ。杖を股の間に差し込み、目を閉じて心の内で唱えた。
 夢を守り給え。
 すると地中の夢に、うっすらと膜が張られた。しかし全体を覆うことができず、下から半分しか覆われていない。膜の端っこは、薄い絹が風になびいているようにゆらゆらと揺れていた。
 呪文がわからないのもそうだが、ちからが全然足りてない。
「すぐにできると思ったのかあ?」
 バクは伊武輝の成果を見て呆れていた。
「いや、現状を確認しただけだ。ここから練習するしかない」
「言っておくけどなあ、夢は外部から住人を守ろうとする。お前さんが善意で施す結界だとしても、夢にとっては邪魔に思えるかもしれない。夢に危害を与えないと思うけどなあ、なんらかの調子で穴が開くかもしれない。そうなってしまったら、すぐに助けを呼んでなあ」
「夢に穴?」
「ああ、ぽっかりと開くんだあ。この前、夢にちょっかいを出したやつがいてな。夢に穴が開いて、夢の中の人が外に漏れ出したんだ。すると……」
 話の途中で、バクが突然口をつぐんだ。
「どうなったんだ? その後」
 伊武輝は焦ったそうにバクを急かした。バクはちらちらと伊武輝を見たが、意を決したように鼻息を吐いた。
「星になったんだあ、その人」
 星? 星って、つまり……。
「穴を塞ぐことができるやつが近くにいなくてなあ、間に合わなかったあ。夢が壊れ、現実に意識が戻ることができず、夢の世界にただ存在するしかなかったあ。五感があるかどうかはわからない。だけどなあ、ただ瞬く星となって、そこに居続けるんだあ。お前さんも見ただろう? 宝石のような小さな欠片を。あれが星だあ」
 そう、きっとそれはつまり、死んでしまうってことだ。仮想世界から抜け出す前、あのゲームの世界には多数の人たちがいた。バクが仮想世界を飲み干すと、その人たちは魂となって、夢の世界に出たんだ。そして、夢の世界で生き続けている。
 星になった人はその後どうなるのか気になったけれど、それ以上聞くのは野暮だろう。
「おれは、夢を星になんてさせやしない。いや、たぶんできない。マナと違って、ちからが足りない」
「たとえ微力でも、弱点を突けば脆く崩れる。気をつけるんだあ」
 バクが声を低めて警告すると、ふわふわと宙を漂いながらその場から離れた。
 気がつくと、マナがすでにスヤスヤと眠っていた。バクの話に反応しなかったのも、さっきの戦闘で疲れ切ったからだろうか。ただ単に会話がつまらなかったからかもしれない。
 マナの寝顔を眺めていた伊武輝は、黒鳥がマナに向かって言っていたことが頭に過ぎった。
 君は、なぜ逃げた?
 どうも引っかかる。あの悪夢は、誰でもあんなふうに語りかけているのだろうか?
 それとも、過去に鉢合わせしたことがあるのだろうか?
 マナは喋れなくとも、バクなら知っているのだろうか?
 今度会ったときに聞いてみよう。
 伊武輝は大きなあくびした。体に疲労が重くのしかかってきたので、マナから少し距離を離れて、ごろんと横になった。
 どの世界でも、睡魔はどこまでも追いかけてくるのだなと思いながら、伊武輝は眠りに就いた。

亡霊

 伊武輝(いぶき)は眠りから覚めると、お腹に心地よい温もりを感じた。視線をお腹に向けると、白い毛並みをしている獣が丸くなって寝ていた。
 獣の正体はマナだった。一度起きて、伊武輝のそばまで寄ってきたのだろう。呼吸に合わせて、お腹が小さく膨らんだり、しぼんだりした。
 くんくんと嗅ぐと、野生じみた獣の匂いがする。だが、血生臭さはない。
 伊武輝は、マナの毛並みに沿って撫でた。すると、マナはすぐさまに起きて立ち上がった。よほど驚いたのか、その場でおろおろしていたが、伊武輝が撫でてくれたのだと気づき、尻尾をぶんぶん振り回して、満面の笑みを浮かべた。
「起こしちゃったな。ごめんよ」
 伊武輝は体を起こしてあぐらを組み、そばまで駆け寄るマナの頭を撫でた。マナの顔がとろとろになっている。
「なあ、マナ。なんでお前はこんなに人懐っこいんだ?」
 まるでペットのように振る舞っている。狐ってそんなに人懐っこい生き物なのか? まだ会って間もないはずだ。
 マナが横たわり、伊武輝にお腹を見せて尻尾を振った。警戒心が全くない。伊武輝は、お腹をくすぐるように撫で回すと、マナはへっへっへっと息を吐いた。
「さて、どうしようか」
 夢の保護。おれに務まるのだろうか。
 伊武輝は撫でる手を止めて立ち上がり、杖を取り出した。マナも体を起こし、伊武輝と一緒に、地上に顔を出しているゴザムの夢の前に立った。
 カンッと地面に杖を突き立てると、伊武輝は目をスッと閉じた。
 夢の世界に棲むものたちよ、その眠りし主を敵から守り給え。
 胸の内で唱えると、目の前の夢に薄い膜ができた。しかし、前回のと比べると大して変わらず、下半分しか膜が覆っていなかった。
「だめか」
 失敗に終わった夢を、伊武輝はしかめっ面でじっと見た。
 マナが興味深そうに夢の周りを歩き始めた。この世界では珍しいことなんだろうか。不安定な保護膜をまじまじと見ている。
 伊武輝はこのあとも何度も呪文を唱えた。
 言葉を付け足したり、変えたり、あえて削ったりして、どのような効果が現れるのかを見極めていた。夢の保護膜は、呪文によって大きくなったり、小さくなったりした。厚くなったと思えば、薄くなったこともあった。色が変わったこともあった。完全に覆ったと思ったら、よく見ると穴ぼこだらけの膜で、高揚感がしゅんとしぼんだ。マナはそんな変化する保護膜を見て楽しむように、能天気に飛んだり跳ねたりしていた。
 しかし幸いなことに、夢に穴が開くことはなかった。予想したとおり、まだまだちからがないのだろう。伊武輝は夢に傷つけないよう配慮しながら、引き続き呪文を探った。
 だが、
「あーもう。やってらんねえ」
 ちからだけでなく、忍耐も足りない伊武輝は、杖を後ろにぽいっと放り投げた。杖はカラカラと乾いた音が鳴り響いた。その様子をずっと見ていたマナは、その場でビクンと跳ねた。伊武輝はごろんと大の字になって横になり、頭を掻きむしった。
「なんでうまくいかねえんだ。おれが知らない言葉があるのか? ちから不足なのか? でもやっと五割なんだ。ここまでできたら、絶対にできないはずはねえんだ」
 頭の中で思ったことを上空に向かって口にした。
 なにがいけない? どうやったらいい?
 すべての神経を熟考に集中させている伊武輝のそばまで、マナがそっと歩み寄り、彼の腕に前足でちょんちょんと突っついた。
「なんだよ」
 伊武輝はイライラした口で言うと、マナの鼻先がある一方に向けた。
 肘を着いて上半身を少し起こした。マナの視線の先を見ると、別の夢がぷかぷかと浮かんでいた。少しも黒ずんでなく、特になんの変哲のない。ただの夢だった。
「悪夢でもなんでもなさそうだな?」
 伊武輝がそう言っても、マナは尻尾を高くあげ、前傾姿勢で、伊武輝の耳元でこんこんとでかい声で鳴き始めた。
「あーもう、うるせえ。こっちは疲れているんだ。放って置いてくれ」
 マナは伊武輝を無視して、しきりにこんこんと鳴いた。伊武輝は目を強く瞑った。頭の中でガンガン鳴り響く。
 一向に鳴き止まないマナに我慢しきれなかった伊武輝は、拳を握りしめ、地面を思いっきりガンッと叩いた。マナの鳴き声がピタリと止み、目が丸くなった。
「いい加減にしろ! そんなに行きたけりゃ、一人で行けばいいじゃないか」
 マナはそれでも伊武輝をあの夢まで連れて行こうと、今度は裾を咥えた。だけど、伊武輝の様子を伺うように、上目遣いでそっと引っ張っていた。
 だが、伊武輝はマナの頬をピシャリと叩いた。マナの口から裾が離れ、少しの間呆然としていた。ゆっくりと顔を伊武輝に向けると、マナの目が少し潤んでいた気がした。
「一人にしてくれって言っているのが、わからねえのか!」
 伊武輝がそう怒鳴ると、マナの耳と尻尾が、元気がなくなったようにぺたんと垂れ下がった。マナは、伊武輝のそばから離れ、行きたがっていた夢の方へ歩いていった。
 なにか助言してくれるならまだしも、なにも教えてくれないんだったら、自分一人でやるしかない。答えは自分で考えるしかないんだ。少しの時間も惜しい。寄り道している暇なんてないんだ。ゴザムの夢にまた黒鳥が現れたら、ゴザムだけでなく、おれもマナもやられるかもしれない。
「冷静、冷静」
 深く深呼吸をして、伊武輝は熱くなった頭を冷やした。すると頭の片隅から、抑圧されたある考えが思い浮かんだ。
 そうだ、少し夢のことを調べよう。バクの言っていた、夢にちょっかいを出した奴に訊いて、情報を集めよう。
 伊武輝は落ちた杖に腕を伸ばした。手に収まるとすくっと立ち上がり、まずはバクを探し始めた。
 しかし、夢の世界はとても広大だ。地平線の彼方まで歩いても地面に端っこがない。それに、バクは普段どんなところにいるのか、検討もつかない。
 魔法でバクを探すも、居場所を感知するができなかった。仕方がないので、伊武輝は歩いてしらみつぶしをすることにした。
「どうなっているんだ。呪文が効かないんだなんて。普段どうやって連絡を取り合っているんだよ」
 ぶつぶつ文句を言う伊武輝は、バクを探すついでに、夢を隅々まで見ながら歩いた。夢に保護を施す小さなヒントがあるのかもしれないと思ったからだ。
 夢は、その人の欲望や記憶に合わせて作られる。つまり、夢に保護を施す呪文も一つ一つ異なる。夢の数が百億あるなら、呪文も百億揃えなければならない。無謀かもしれないが、少しでもヒントが得られれば、夢の守護者に後を任せられる。徒労に終わることはない。
 夢の世界を歩き回ると、エレの言う通り、巨大化した夢がドンと佇んでいるのを見つけた。都会でよく見かける高層ビルと同じくらいの大きさだろうか。夢のてっぺんが見えない。
 あれが仮想世界、もしくは誰かの夢。こんな巨大な球体に魔法を掛けるとなると、ちからを振り絞ってもわずか一割も満たない効果しか発揮しないかもしれない。
 伊武輝はその巨大な夢を通り過ぎようと横切るが、ふと、おぼろげに声が聞こえてきた。
「……伊武輝」
 歩く足が止まった。伊武輝は心臓を鷲掴みにされたように、息苦しくなった。巨大な夢を仰ぎ見ると、その夢の中で黒い渦を巻いていた。
「逃げるなよ、伊武輝」
 巨大な夢は、ズズズと移動を始めながら、ゆっくりと伊武輝に近づいた。
 いや、そんなまさか。
 足が地面にビッタリとくっついて離れない。わなわなと手が震える。
 近づいてくる。巨大な夢に押しつぶされる。
 伊武輝は動けないまま、目をぎゅっと瞑んだ。冷たい感触が、頭から胸、腕、腰、脚へと広がる。
 夢の方から、伊武輝を勝手に誘った。
 伊武輝は恐る恐る目を開くと、眼前に水面が広がっていた。空は雲に覆われ、どんよりとした空気が漂っている。くすんだ青い水面には、まばらに木の棒が突き刺さっていた。朽ち果てていて、もうずっとそこに何年もいるようだ。
 冷え切った水が、脚からズキズキと伝わっている。水深は足首くらいで、その深さは足元だけでなく、水平線まで続いている。
「ここは……?」
 しんと静まり返っていた。声も音もない。そのおかげで、伊武輝は少し冷静さを取り戻した。
 仮想世界にしてはおかしなところだ。建造物もなければ、誰もいないなんて不気味だ。悪意のある仮想世界でもなさそうだ。
 伊武輝は脚にちからを入れ、まずは一番近くにある木の棒まで歩いた。
 歩くたびにぱしゃんぱしゃんと水面に波紋が広がる。誰かが近づいてきたら、波紋や水音ですぐに気がつく。警戒を怠らないように、細心の注意を払わなければならない。
 伊武輝は木の棒の前に立つと、それを見るなり薄気味悪く感じた。
「出てきそうだな、まったく」
 墓場でよく見かける卒塔婆(そとば)だった。すらすらと達筆な字で書かれていて解読できないが、全くいい気にならない。腰くらいの高さのある卒塔婆は、腐食が進んでいるのか、虫に食われたのかわからないが、触るだけで簡単に折れそうだ。
 伊武輝は卒塔婆にそっと触れた。
 すると突然、背後から後頭部にゴツンと鈍い音を立てて誰かが殴りかかってきた。伊武輝はうつ伏せに倒れ、意識がゆらゆらと揺れた。
 確かに気を緩めなかった。なのに背後に気がつかなかった?
「なんでテメェを養わなければならねえんだ。金食い虫じゃねえか」
 伊武輝は体を反転して、殴った相手を見た。相手は握りこぶしを握りしめたまま、こちらをじっと睨みつけている。
「しょうがないよ、あんた。放棄したら罪になるんだから。しばらくの辛抱よ」
 殴った人物に同情するように、もう一人がそう言った。
 伊武輝の前に立っていたのは、一緒に暮らしていた両親だった。無精髭を生やしている男性の片手にはビールの缶が、頰が痩けている女性の片手には火のついたタバコがあった。
 アパートの狭い一室で、二人は、伊武輝を無愛想に見下していた。
 親が望まずに生まれてしまった伊武輝は、惰性と暴力で育てられた。この二人は、人目につかないようなところ——たとえば二の腕や胴体——を殴ったり、蹴ったり、火のついたタバコを押し付けたり、熱湯を浴びせたりした。
 二人は警察に咎められない程度に、陰険に、隠密に伊武輝を管理していた。
 男性はぐいっとビールを飲み干した後、ポケットから取り出した財布の中をまさぐった。しかし、男性の目つきが悪くなった。
「おい、札がなくなってるぞ。おめえが盗んだのか?」
 ろれつがうまく回っていないが、お金になると頭の回転が鋭くなった。ギロリと睨みつけられた女は、苛ついた声で言い返した。
「はあ? そんなわけないでしょ。酔っ払って使いすぎたんじゃない?」
「んだと? 俺が使った? とぼけんな。知ってんだぞ。おめえは物欲しさに負けて、借金してるってな」
「あたしじゃないって、ほら、こいつだろ!」
 そう言う女性の指先には、背の小さい、まだ子供だった頃の伊武輝に向けられていた。
「テメェ、ただじゃおかねえからな!」
 男性はそれだけを言うと、金属製のバットを握りしめ、小さく縮こまっている伊武輝に向けて高く振り上げた。
 殺される。逃げないと。逃げないと。
 しかし伊武輝は戦き、足がすくんで動けなかった。部屋の蛍光灯でぎらつく金属バットから目をそらすことができない。
 男性が勢いよく振り下ろすその瞬間、バットが伊武輝の頭に当たるか当たらないかのところで、二人はぱっと消えてしまった。
 伊武輝は再び、あの静かな水面の世界に戻ってきた。体も元に戻り、身体中からどっと冷や汗が噴き出して、シャツが胸や背中にくっついている。頭皮からも大量の汗がなだれ落ち、前髪がべったりとおでこにくっついて離れない。
 どこにも傷はない。ただ、伊武輝の前に立っていた卒塔婆はなくなっていた。
 何度も深呼吸して胸のざわめきを落ち着かせようとするが、かすかに残ってしまった。
「なんだよ、これ」
 卒塔婆はあと三本。まさか全部、過去を追体験する装置か何かか?
 嫌だ。ここから逃げなくては。
 伊武輝は背後を振り返った。するとそこには、水平線しかなかった場所に大きな滝ができていた。穏やかに流れているので、足元がすくわれる心配はない。しかし、淵まで歩いて見下ろすと、底が真っ暗で何も見えない。轟音もなにもない。すべてが滝の底に消えてなくなっていくようだ。
「退路は、ない、か」
 さっき見た幻想のあまりにもの怖さに、言葉が途切れ途切れになって震えていた。
 逃げたい。逃げたい。なんで直視しなくちゃならないんだ。やっと忘れることができたのに、どうしてまた掘り返す必要があるんだ。
 もう見たくない。もう全て終わったことなのに、なんで。
 その場にずっと立ちすくんでいると、マナのことを思い出した。
 そうだ。きっとマナが助けてくれる。そうだよ。ずっと待っていれば、きっと助けに来てくれる。わざわざ次の過去を見る必要なんてないんだ。そう、きっと……。
 しかし、待てど待てど誰も来ない。活気も体温も、足元から水面にゆっくりと吸収され、滝と一緒に落ちていく。
 伊武輝は天を仰いだ。
「おい、外からおれのことを見てんだろ? なんで助けないんだ。見殺しにしていいと思ってんのか? いい加減にしろ。おれを助けやがれ!」
 伊武輝の声は虚空に消えたが、それが彼を駆り立てた。
 今も昔も変わらない。
 誰にも頼るな。おれ一人で生きるしかないんだ。
 伊武輝は次の卒塔婆まで歩いた。それに合わせて、背後の滝が彼のあとを追いかけてくる。だが、伊武輝を奈落の底に突き落とそうとはしてこない。
 卒塔婆は、さっきのと比べて十センチ高くなっている。伊武輝は間髪入れずに卒塔婆に触れた。
 すると、急に胸が締め付けられ、息苦しくなった。胸踊るような感情が湧いてこない。胸に這いずり回る鬱屈が頭へ登ると、生きること自体が虚しくなり、思考が白くぼやける。何度も息を吐いても治らない。ただ、どうやったら胸や頭に残るこの苦しみから開放されるかだけは、微かに考えることができた。
 ちらりと横に視線を向けると、そこにはキッチンがあった。ガス台もタイルの壁もシンクも薄汚れていて、よく使い込まれている形跡があった。
 そうだ、あれなら……。
 伊武輝は、キッチンの下にある扉を開けると、迷いなく、扉の内側に置いてある物を手にとって、それをじっと見つめた。
 これさえあれば、この苦しみから逃げられる。大人は簡単でも、子供のぼくでもできるのかな?
 どうやったら一瞬で終わらせられるのかな?
 それとも、別の何かがいいのかな?
 伊武輝は手にしている物を凝視していると、背後から声を掛けられた。
「何してるの、危ないものを持って」
 甲高くて怖がっている声だった。伊武輝は言われてハッと気づいた。両手に持っていたのは、刃渡り二十センチの包丁だった。
 伊武輝は振り返った。そこには、少しぽっちゃりとした中年の女性が立っていた。女性の顔に、戸惑いと恐怖が満ちていた。
 伊武輝が複数回瞬きをすると、また元の静かな場所に戻った。だが、胸の内の苦しみはくすぶったままだ。
「耐えろ、耐えろ」
 親、いや、モンスターの気が逸れている隙に、児童保護施設になんとか逃げ込んだ。寄付金や国のわずかな支給金で運営していたが、周りの大人たちが怖かった。モンスターに作られた心の傷がそうさせた。もしかしたら、ずっと傷口が大きくなり、開きっぱなしだったのかもしれない。
 気がついたときには、いつも死ぬことを考えていた。他の児童とうまくいかず、いつも大人たちがそばにいる。気の休まるところなんてなかった。包丁を手にしていた伊武輝を見かけた職員は、肝を冷やしたという。
 伊武輝の呼吸が乱れ、荒くなる。心の傷の疼きが止まらない。
 早く、この苦しみを開放してくれ……。
 残るはあと二本。
 伊武輝は、次の卒塔婆までふらふらと歩み寄った。木の棒は、伊武輝の肩くらいまで高くなっていた。伊武輝は震える手で、恐る恐る卒塔婆に触れた。
 すると、クスクス笑う女子の声が聞こえた。
「ねえ、見てよアレ。気持ち悪くない?」
「キモい、キモい、キモい。骸骨だよ」
「油ギトギトでキショい。うわ、フケが大量にあるんですけどー」
 学校の制服を来た女子グループにジロジロと見られ、後ろ指を差される。電車の吊り革に掴まっている伊武輝と、立ち話する女子グループ以外、誰もいない。ガタンゴトンと電車に揺れながら、伊武輝は聞こえぬふりをしてじっと耳を傾ける。
 女子の一人がカバンから取り出したのは、スマートフォン。
「写真撮って拡散するね」
 パシャと無機質な音が聞こえたと思ったら、伊武輝のズボンのポケットが震えた。
 伊武輝はスマートフォンをポケットから手に取り、画面を見た。クスクス笑う声が、おおっぴらに馬鹿笑いへと変わっていった。
 画面にはつり革に掴まって立っている伊武輝の猫背の姿が映し出されていた。画像だけでなく、文章が添えられていた。内容はこうだ。
 消えろ。キモい。近寄るな。来るな。クズ。死刑。死ね。
「だまれえ!」
 伊武輝は女子グループにめがけてスマートフォンをぶん投げると、女子グループは消え、また元の場所に戻った。
「やめてくれ、お願いだ……」
 誰かに懇願するように言いながら、その場でバシャンと水しぶきをあげて膝を着き、へたり込んだ。伊武輝はうめき声を漏らしながら、涙が頬に伝った。
 何をしたって言うんだ。迷惑掛けずに生きているじゃないか。おれが生きていることが邪魔なのか。どうして人並みに生活するのを許されないんだ。
 苦しい。胸が苦しい。頭が真っ白だ。
 残るはあと一本。
 だけど、もう見たくない……!
 伊武輝は腰をひねって、そっと後ろを振り返った。あと数歩下がるだけで奈落の底に落ちてしまう大きな滝が、音もなく流れ続けている。そこに行けばラクになれるだろうか。前進していてはより一層苦しくなるだけだ。だったら、ここで引き下がれば、ラクになれるはずだ。
 伊武輝はよろよろと立ち上がり、胸を抑えながら滝に向かって歩きだした。目がきょろきょろと動き、視点が定まらない。
 あと三歩、あと二歩、あと一歩。
 歩む脚がピタリと止まり、今度はガクガクと震えだした。全身から冷や汗がどっと吹いてくる。
 なんだよ、死ぬのが怖いのか?
 そう思った瞬間、脚の震えが全身に広がり、ガタガタと歯が鳴る。胸から何か吐き出してしまいそうだ。
 あと一歩……。
 逃げるなよ。
 逃げたい。
 逃げるなよ。
 逃げたい。
 あと一歩……。
 あと一歩のところで、伊武輝は尻もちを着いた。ぜーぜーと息を切らし、顔を歪めて大粒の涙がこぼれた。
「なんだよ、ちくしょう。ちくしょう……!」
 拳を何度も水面に振り下ろし、バシャンバシャンと水しぶきが上がった。波紋がゆらゆらと広がる。そして別の方からも、違う波紋が広がっていた。
 どこからとこもなく現れたマナは、伊武輝の涙をそっと舌で拭った。


 マナと一緒に夢を抜け出した伊武輝は、目の下にクマができ、少し頰が痩けた。疲労困憊で、杖をついて歩くのがやっとだった。マナは心配そうに顔を見上げて伊武輝の様子を窺っていたが、夢の前で待っていたバクは残念そうに言った。
「結局お預けか。いつになったらこんなでっかくて美味な悪夢を味わえるのかねえ」
「おれのことは、お構いなしかよ」
 神経がすり減り衰弱しきっていたが、伊武輝は、バクの言葉になんとか反応できた。
「おいらは美味しい悪夢を食べればそれでいいんだあ。マナやお前さんがいなくなったらいなくなったで、おいらの食べれる悪夢が増えるし、全然困らないんだあ」
 バクは一息を着いた。
「それより、お前さん、えらい夢に入り込んだもんだあ。おっと、質問はしなくていい。衰弱しきっていて、話を聞くのがやっとなんだろう? 一通り話すから、それでもわからないところがあったら質問してなあ」
 バクはごほんと咳払いをした。
「お前さんは人工の夢だと思っているんだろうけどなあ、あれはずっと昔からある夢なんだあ。ちょっかい出したら星になったって、おいら、言っただろう? 星になる前に、夢の住人と夢が分離したんだあ。夢は夢の住人がいないことに気がつかず、今もこうして生きている。苦しいこと、悲しいことしか記憶がない夢。そして、喜びを見いだせるのは、復讐を果たせたときしかない。この夢はきっと、お前さんの記憶を買ったんだあ。魅力的に見えたんだろうなあ。お前さんの過去を覗き見しながら再現し、お前さんが弱まる姿をほくそ笑んでたんだあ。もしかすると、夢は本当は知っていて、新しい夢の住人を欲しがっていたのかもしれないなあ」
 バクはマナを一瞥した。
「おいらは外から伊武輝のことを見てた。マナもなあ。もう帰って居ないけど、最悪の事態に備えてパトロール部隊まで配備させていたんだあ。お前さんのことを助けに行こうと思えばすぐに助けに行けた。だけどなあ、おいらは思った。夢の恐ろしさを存分に味わうにはいい機会だった。お前さんに話したけど、夢というのは、そんなに生易しい世界じゃない。心の弱いものは生き残れない。お前さんがここにいるからには、自分と向き合う必要がある。時間はかかるけどなあ、焦ることはない、ゆっくりとな」
「……あの夢を壊すには、どうすればいい」
 伊武輝がそうつぶやくと、バクは唖然とした。伊武輝は真っ青な顔で続けて言った。
「あんな夢、ない方がいい。そうは思わないのか?」
「バカ言うな。アレはアレで、必要な夢なんだ」
「あの夢から悪夢が生まれ、ほかの夢を犯していたら? 人を殺してたら? そんなことは、させない」
 伊武輝は躓いて崩れるように倒れた。バクは見兼ねた。
「この話はまた今度にしよう。まずはお前さんのケアが必要だ。マナ、あとは頼んだあ」
 マナがこんと一声鳴くと、バクはその場から離れていった。
 マナは伊武輝のそばに近づいて、鼻の先で伊武輝の肩を揺すった。
 頑張って起きて、と言っているようだ。
「ここで横になれば、ちょっとは、マシになるはずだ」
 震える声でそう言ってぐてんと横になると、マナは伊武輝の顔の前に立ち、前足の片方を上げて一方の方向に差した。
 伊武輝は頭を傾けてその先を見た。そこには、一つの夢が浮かんでいた。
「マナが一緒に行こうとした夢か?」
 伊武輝が訊くと、マナはこくりとうなずいた。マナはどうしても一緒に行きたいらしい。
 伊武輝は杖にすがって立ち上がるが、体が鉛のようにとても重く、歩くのがやっとだ。ゆっくりと夢に向かうと、マナは隣で、伊武輝の歩調に合わせて歩いた。
 そう遠くはない。体中から休ませてくれと悲鳴を上げているが、なんとか黙らせて歩き続ける。
 逃げるなよ。
 頭の中で声が反芻する。胸がまた締め付けられるが、マナを一瞥して頭をぶんぶんと振った。
 もう少しの辛抱だ。なんとか耐えてくれ。
 逃げるなよ。
 おれは逃げてなんかない。
 逃げるなよ。
 逃げて、なんて、ない。
 傍にはマナがいる。そう思うと、幻聴になんとか抵抗できた。
 伊武輝とマナは、夢の前にたどり着いた。一遍代わり映えしないただの夢だが、マナが有無を言わずに先に入り込んだ。伊武輝も重い体を動かして後から入った。
 するとそこは、こじんまりとしたお店の中だった。室内の壁沿いにキッチンがあり、その前には四人分のカウンター席しかない。
 席の後ろと、キッチンにある小さな窓から差し込む陽光に、懐かしさを覚えた。ついこの間まで雲の上を飛んでいたというのに、だいぶ時間が経っているように思えた。
 マナが、こぉーんと鳴くと、キッチンの奥から物音がした。誰かがいるようだ。
「いらっしゃい。おや、雪狐、お友達を連れてきたのかい?」
 キッチンの方からぬっと人が現れた。伊武輝は視線を声の主の方に向けると、そこに朗らかな男性が立っていた。顔にシワがうっすらと走り、髪も眉も髭も、全部銀髪だ。本当はもっと年上かもしれないが、五十代くらいに見える。深い緑のエプロンを身にまとっていることもあって、なんだか若々しく見える。全く衰えを感じさせない。どうやら、このお店の人らしい。
「ちょっと待ってくれ、今出すから」
 店員は、冷蔵庫を開けてお皿に牛乳を注いだ。キッチンから客席まで回り込むと、すでに尻を着いて待っているマナに、どうぞと皿を差し出した。マナは立ち上がり、屈んでペロペロと牛乳を飲み始めた。嬉しそうに尻尾を振っている。
「マナを知っているんですか?」
 伊武輝が訊くと、店員はえっと驚いた顔をした。
「マナって、この雪狐の? へえ、偶然があるもんだな。このお店もマナって言う名前なんだ」
 マナと同じ名前だと知って、伊武輝はこの店に親近感がわいた。
「そうなんですか。どんな意味が込められているんですか」
 他愛のない会話を続けようと何気なく聞いたのだが、店員は快く答えた。
「私が付けたわけじゃないが、辞書を引くと、神から与えられた食物という意味らしい。でも先代店主はそれをさらに掘り下げて、愛情と表現したんだ。たかがコーヒー一杯で愛情を与えられるかはわからないが、私が引き継いで経営している。雪狐も、愛情を持っているんだろうな」
 マナは愛情。そんな意味があったなんて知らなかった。
「一つ、訊いていいですか」
 伊武輝がそう言うと、店主はちょっと待ってと言った。
「適当に座って、今コーヒーを淹れるから。ミルクと砂糖は?」
 ミルクで、と伊武輝が言うと、店主は伊武輝に椅子に座るよう促した。伊武輝は適当な席に座った。
 店主はキッチンに戻ると、カップにコーヒーを注ぎ、スプーンで輪を描くようにコーヒーをかき混ぜた。ミルクポットをカップに注ぐと、白い渦がぐるぐると渦巻く。
 注ぎ終えると、店主はキッチン越しにコーヒーを差し出した。
「はい、どうぞ。まだ名前を言ってなかったね。私は向井。君は?」
 伊武輝は、コーヒーを自分のテーブルまで引き寄せた。
「伊武輝と言います。それで、向井さんに訊きたいことがあります」
 向井もキッチンで椅子に座り、伊武輝の次の言葉を待っていた。
「向井さんは、人を信じられますか?」
 突然のことで、向井はキョトンとした。
「信じる? 人の何を?」
「言動から身振り手振り、実績、全部です」
「君はどうなんだ?」
 伊武輝は一口コーヒーを口に含んだ。
「おれは、全部信じない。言葉の裏には、必ず欲が渦巻いている。醜い私欲が見える。地位がほしい、ラクになりたい、権力を振るいたい。他人が苦しもうが、自分さえ快適に過ごせるならどうでもいい。だけど、自分が標的にされるのは嫌だ。常に優位に立ちたい。そんな人の言葉を信じては、いずれ食われる。だから、おれは信じない」
「そんなに答えがはっきりしているのに、なぜ私にそんなことを訊く?」
 伊武輝は返答に詰まっていると、向井は畳み掛けた。
「君はどこかで、人を信じたいと思っているんじゃないかね。だけど、信じてはいけないと思う根拠が、君の中にたくさんあるんだろう」
 そのとおりだ。
「でも、そんなのは解決しているじゃないか」
「え?」
「君には雪狐のマナがいる。少なくとも、君のことを信用しているようだ」
 伊武輝は鼻で笑った。
「だって動物ですよ。人とは違う。嘘をつかない」
「そうだな。動物はしゃべらないし、嘘をつかないかもしれない。だけど、動物も人も同じ生き物だ。動物に感情がないと思うか? 雷を怖がって地面に穴を掘る。ライバルが来たら威嚇して怒りを表に出す。そして、大好きな動物が来たら、喜びを隠さずにはいられない。人間だって同じだ」
「同じじゃない。動物とは違って、人は弱いものいじめする。それは疑いのないことですよ」
 だからちからを、もっともっとちからを。
 伊武輝はカップを強く握った。
「いや、そうとも限らない。伊武輝、知ってるかい、動物の世界でも弱い者いじめをするし、共食いもする。飢えはなくても、縄張りの境界線を超えた瞬間、戦い合うんだ」
 向井は自分の拳と拳ぶつけ合う仕草をした。伊武輝は信じてなかった。
「嘘だろ?」
「残念だけど本当だ。チンパンジーもイルカも、同族に暴力を振るうし、殺したりする」
 伊武輝はため息を吐いた。向井はキッチンのテーブルに肘を着いた。
「信じるのは、確かにとても難しい。裏切られると相手が大きな得をして、自分が損する。でも、雪狐のマナだけは、信じてやったらどうだ? もし君がマナを疑っているのなら、きっとマナだって、君のことを疑って嘘をつくかもしれない。わざわざマナがここに君を連れてきたのだって、何か理由があるはずだ。それに、ここはマナの行きつけの店で、ここに連れてきたのは君だけだ。そのことをよく考えてみるといい」
 そう言って話をまとめた向井の言葉に、伊武輝は納得ができなかった。
「マナは、なんでおれなんかを助けたんでしょう」
「うん?」
「マナと会ったのは……そう、おれが襲われていて、死にそうになったときでした」と、ここが夢であることに注意を払って、事実を曖昧に伝えた。「追っ払ってくれたんですよ、敵を。でも、マナとはそれまで面識がない。動物は確かに愛情があるかもしれないけど、天敵である人間を、わざわざ助けるんでしょうか。恩を売ったつもりでしょうか」
 向井は銀色の短い髭を撫でた。
「さあな。狐の悪知恵かもしれないが、私はそうは思わない。寂しかったのだろう、きっと」
 伊武輝は振り返ってマナを見ると、マナは皿から顔を上げてきょとんとした顔で見つめ返していた。
 寂しかったのだろうか。夢の世界にバクもエレもいるのに。いや、孤独だったんだ。誰かがいても、仲間はずれされて孤独になる辛さは、よく知っているじゃないか。
「それってつまり、気を紛らわせるなら、誰でもよかったって言いたいんですか?」
「そうは言っていない。君と似ているから助けたくなったんだろう」
「似ている? マナと?」
 向井は朗らかに笑った。
「私の直感だがね。ところで、君は若いが、将来の夢はあるのか?」
 伊武輝は眉を寄せた。
「唐突ですね。そんな話はしたくないですよ」
「何か不都合なのかい?」
 向井が伊武輝の顔を覗き込むと、伊武輝は重苦しいため息を吐いた。
「おれの周りには、いつもおれのことを嫌い、敵として見られていた。みんないなくなればいいと、ずっと思っていた。だから、そいつらから分断して、一人でも生きられるちからが欲しかった。そいつらがちからを貸すよう懇願しても、振り払えるくらいに、強くなりたかった。それが夢とは言えないかもしれない。でもこれしかなかった。それなのに……」
 伊武輝はつばを飲み込み、片手で頭を抱えた。
「記憶が、脳裏にこびりついている。逃げても逃げても、追いかけてくる」
 落ち込んでいる伊武輝を見た向井は、腕を組んでうーんと唸った。だが、話を掘り下げることなく自身について語り始めた。
「私の夢はな、ひと目でいいから、また店長に会いたい」
「先代の?」
 ああ、と向井は言うと懐かしそうな目をしていた。
「私が経営する前に、この店を切り盛りしていた人だ。私はその人とある賭け事をした。しかし、突如いなくなったんだ。手紙だけを残してな。どこに行ったのかもわからない。だから、私は待つ他ない。早く戻ってこないと、あの人も年だ、もう二度と、会えなくなる」
「もうどれくらいなんですか?」
「もう二十五年だ。結構辛かった。言い出しっぺが逃げたのは、何か理由があるはずだと思った。もしかしたら、何か事件に巻き込まれたんじゃないか。いや、もう亡くなっているんじゃないかってな」
 向井は目を伏せた。
「会いたいが、それがあの人が決めたことなら、もう何も言うまいて」
 寂しそうな向井を見ると、伊武輝は物憂げに鼻息を吐いた。
「夢を持っていても、無駄でしかないんでしょうか」
「どうして?」
「夢は、良いことばかりじゃない。嫌なことを思い出させることもある。夢と夢がぶつかりあって、一方は生き残り、一方は消える。間違った夢を持てば、他の人や自分を破滅に追いやることも。向井さんの夢も、間違いかもしれない」
 思ったことを単刀直入に言う伊武輝に、向井は苦笑いした。
「確かにそうかもな。叶えられる夢と、叶えられない夢はある。だけど、それを悲観的に考えてはならない。夢は一つじゃない。始まりと終わりがあるし、協同と競争がある。次の夢を見つけるのに、少し手こずるだけだ」
 向井はじっと伊武輝の瞳を見た。
「君が感じている不安は、君の貴重な武器で、君を守っている。でも、使い方を知らないと、君が危ない。不安が見せる幻に押しつぶされてしまう。逃げてもいいが、いつか向かい合わなければならないときが来る。気楽に行け。大体の幻は、大したことがないものを誇張しすぎたに過ぎない」
「また唐突に。おれが不安だなんて」
「見ていればわかる。心に芯がなく、不安に駆られて迷っている。老いぼれのちょっとしたお節介を言ったまでだ」
 不安が見せる幻。不安が武器となっておれを守っている。
 伊武輝はそっと胸に手を当てた。強すぎる不安が、おれに刃を向け、苦しませる。それがさっき見た夢の出来事だ。いや、夢だけでなく、昔からずっと続いていたんだ。
 心にくすぶる傷跡と、向き合わなければならない。それはきっと、楽なことではない。誰かのちからが必要だ。
 伊武輝は向井に笑って誤魔化した。
「そんなのただの推測じゃないですか」
「そうだ。忘れても構わん。自分を信じたいことを信じなさい」
 向井がそう言うと、マナは前足で伊武輝の脚をちょんちょんと突っついた。夢がもうすぐ閉じる合図だ。
「もう行くのかい、マナ。またお友達と来てな」
 向井がマナに手を振ると、マナは尻を向井に向けて、尻尾を横に振った。
「向井さん、その、いろいろとありがとうございました」
 伊武輝は軽くお辞儀すると、向井は微笑んだ。
「君は人の言うことを信じられないと言ったが、私の言葉に耳を傾けてくれた。私はとても嬉しかった。君は人のことを信じられる。ただ、騙されることを恐れているだけだ。真偽の見分けが大事だ。気楽に行け。何度もやり直せるんだから」
 伊武輝は再びお辞儀をすると、マナとともにお店をあとにした。


 喫茶店の夢から出ると、伊武輝は地べたにぺたりと座り込んだ。マナが伊武輝の膝元で、彼のことをじっと見ている。
 体がとても気だるいが、胸中の苦しみがもうすっかり消えていた。コーヒーが効いたのか、向井と話したおかげか、それはわからないけど、きっかけを作ってくれたのはマナだ。マナが誘ってくれなかったら、今も落ち込んだままだっただろう。
「おれのこと、心配してくれてたんだな、マナ。ありがとう」
 少し照れくさく言うと、マナはにこーっと満面の笑みを浮かび、伊武輝の顔を舐め回した。
「くすぐったいっての」
 伊武輝の目元や口元がゆるみ、マナの頭を撫でた。マナの尻尾が嬉しそうにぶんぶん振っていた。
 だが、伊武輝の顔が少し暗くなった。
「なあ、マナ。これから長い間、おれの中にくすぶる何かと向かい合わなければならない。向井さんの話、聞いてただろ? 一人で立ち向かうのは難しい。マナには迷惑を掛けるけど、これからもそばにいてくれないか」
 マナが真顔になり、しばし気まずい沈黙が訪れた。
 やっぱりダメか。
 伊武輝は消え失せるような笑みをして俯いた。
 しかし、マナはこんと鳴いた後、また満面の笑みで伊武輝の腕をしがみつき、頬や耳を舐め始めた。伊武輝は最初驚いたが、心の底から破顔した。
「わ、わかったから、止めてくれ」
 マナが伊武輝から離れると、その場で喜びを爆発させるように走り回った。

荒療治

 伊武輝(いぶき)は向井の話からヒントを得た。
 夢は記憶や欲望から作られる。夢を保護できないのは、もしかしたら、おれと夢の状態が、実はよく似ているんじゃないのか。つまり、不安がおれを守っているように、夢もまた、何かの感情に守られているのではないか。それが、おれの魔法を邪魔しているのかもしれない。
 夢をより強固にするには、夢を守る防壁を一旦外す必要がある——敢えて不安の中に身を置き、不安と向き合うのと同じ要領で。
 でもそれは、
「下手したら星になっちまう」
 防壁を剥がすには、外から攻撃するか、中に侵入するかの二択だ。いちいち中に侵入するのは手間がかかる。外からだったら、弱点さえわかれば効率的だ。
だけど、バクが言ってたとおり、星になる可能性がある。バクを呼んで聞きたいことはたくさんあったが、呪文を唱えて探してみるも、やはり見つからなかった。
 しょうがないので、マナにお願いして、夢を修復する人を呼んだ。しかし、伊武輝の予想通り、それは人ではなく、またしても動物だった。
「よお、呼んだのはお前かい」
 鼻声で話すのは、ピンと髭が立っている、毛並みがもふもふのビーバーだ。
「ああ、そうだ。えっと……」
「名前か? おらはリア、修理屋だ。お前は伊武輝だろ。大体話は聞いてるぜ」
「そうか。これから少し、夢に手荒いことをするんだけど、もしかしたら星になってしまうかもしれなくてね。万が一、夢が壊れそうになったら、リアが治してほしいんだ」
 得意げに鼻を掻くリアは、「お安い御用だ」と言った。
「ところで、リアは夢を保護する魔法は使えないのか?」
 それを聞いた途端、リアの口がへの字に曲がった。
「おらの仕事は、壊れた夢を治すことだ。守るのは苦手だし、そもそも嫌でね。自分の身くらい守れって言いたいね。だけどな」リアは自信有り気に胸を張った。「弱っている誰かがおらのちからを必要としているのなら、喜んで手を貸すぜ」
「助かる」
 伊武輝が杖を構えると、リアも臨海体制に入る。マナは伊武輝の傍で座り込み、傍観者として見守っている。
 伊武輝は胸の中で唱えた。
 邪悪なる言霊よ、我が前の無垢なる夢に、襲いかかり給え。
 杖の先から、漆黒の黒いモヤが現れた。そのモヤは、伊武輝の前にある夢に向かってゆらゆらと空を移動した。
 この光景にリアが目を見張った。マナはその場で恐る恐る立ち上がった。その黒いモヤは、悪夢の中で立ち込めているものと酷似していた。
 黒いモヤは、夢の周りを蛇のように這っている。どこか侵入口があるのか探しているのだ。身動きのとれない夢は、黒いモヤになされるがままじっと耐えているように見えた。
 ピキッと、鏡に亀裂が入る音が聞こえた。
 伊武輝は顔をあげると、夢に黒い縦線が入っていた。リアは緊張の面をしていた。
「止めだ止めだ。夢に穴が開いちまうぞ」
「このまま続ける。他にも脆弱なところがあるはずだ」
 伊武輝は、黒い亀裂が広がらないよう、細心の注意を払いながら、他の箇所を探った。
 ピキ、ピキとあちこちで亀裂が走る。リアの眉間にシワが寄った。
「治すことには承諾したが、限度ってもんがある。このまま続けたら、いくらおらでも元に戻せなくなる。もう止めにしな!」
 リアの警告に、伊武輝は諦めて素直に従った。念じるのを止めると、黒いモヤがスッと消えた。
初めて目にする伊武輝でも、それは明らかだった。亀裂と亀裂が繋がる一歩手前で、あと少しで夢が砕け散るところだった。黒い亀裂はなくなったが、かすかに跡が残り、そこから光が漏れていた。
 リアはモヤが消えたのを確認すると、夢にめがけて飛びかかった。普段の守護者ならばそのまま夢の中に入ってしまうが、毛に油でも塗っているのだろうか、リアは夢に張り付くことができた。
 糸を通した針を手に取り、光が漏れている箇所をテキパキと器用に縫い合わせた。光が塞がると、縫った糸が溶けるように消えて、傷口が塞がった。ぱっぱっと手際よく縫うものだから、五箇所の大きなヒビが、十秒も満たないうちに治してしまった。伊武輝は思わず見とれてしまった。熟練の為せる職人技だ。
 地に降り立ったリアは、片眉を吊り上げて伊武輝に言った。
「なあ、お前。夢を守る立場なのに、攻撃してどうすんだよ」
 綺麗に元どおりになった夢に見入っていた伊武輝は、リアに意表を突かれて、すぐに言葉が出なかった。
「え? ああ。こうでもしないと、どこを守ればいいのかわからないんだ。手荒いけど、これしか思いつかない。そのうち、夢も慣れるはずだ」
「慣れるって、おい、まさか」
 リアが腕を上げて制止させようとすると、伊武輝は遮るように再び同じ呪文を唱えた。
 リアは呆気にとられて首を振った。
「同じことをしても結果は同じだ」
 リアの言う通り、同じ箇所に再び黒い亀裂ができた。しかし、その亀裂の長さや幅が若干小さくなっている。リアが手ほどきすることで、強度がほんのちょっとだけ強くなったのだろうか。
 伊武輝は呪文を止めると、リアがまた修復に取り掛かった。
「治すと強度が増すのか?」
 伊武輝が大きな声で聞くと、リアは腕を動かしながら背中越しに返事をした。
「効果は雀の涙ほどだがね。建てたばかりの新築の家を、修繕しているようなもんさ」
 夢の脆いところはだいたいわかった。今度はその箇所を魔法で守ろう。
 修復が終わり、たちまち夢が元に戻ると、今度は違う呪文を試した。
 善良なる言霊よ、侵された傷を、夢の守護となり守り給え。
 すると、杖から白いモヤが現れた。リアが縫ったところを絆創膏のように包み込もうとするが、夢が嫌って反発しているのか、うまく保護できない。膜が波打っていて、うまく夢に貼り付けられない。
 それどころか、違うところで亀裂ができているではないか。
「違う攻撃を試しているのか?」
「いや、今度は保護の魔法を試しているんだ。それなのにヒビが入ってしまう」
 伊武輝は白いモヤを消すと、すかさずリアが縫い合わせた。
 守るつもりがかえって攻撃になってしまうなんて、そんなことがあるのだろうか。バクの言う通り、夢にとって、この保護が邪魔者らしい。
 どうすれば、おれの魔法を受け入れてくれるんだ。
「うまくいかねえか?」
 縫い終えたリアが伊武輝のそばまで近づいた。
「夢は、心の鏡とも言われる。欲望、記憶、感情が複雑に絡み合っているが、その割にはとても脆い。安安と手出ししたら、いとも簡単に星になっちまうんだよ」
「星にさせないための保護なのに、どうして?」
 リアは髭をいじくりまわした。
「初対面は、誰だって警戒する。敵なのか、味方なのか。相手の反応を窺う。敵だと判断したら戦うか逃げる。味方だと判断したら共生する。夢の場合は特殊で、互いに補い合うか、攻撃にじっと耐えるしかない。戦うことも、逃げることもできない」
「それじゃあ、おれは敵だと思われている?」
「そうだとしか言えないなあ」
 伊武輝はやけくそになって、夢に向かって杖を頭上高く掲げた。
「おれはただ守りたいだけなんだ。危険な存在かもしれないけど、それは思い違いだ。悪い奴らから追い払うためには、こうするしかないんだ。我慢してくれ。傷のついたところに治療を施せば、より強固な守りができるはずなんだ。お願いだ。もう一度だけ、やらせてくれ」
 伊武輝はそう言うと、再び呪文を唱えた。リアはすぐさま夢のそばまで戻った。
 黒いモヤで傷をつけたあと、今度はリアの助けなしに、すぐさま白いモヤで傷口を施した。
 しかし、夢は頑なに拒んだ。傷口は塞がず、余計に傷口が増えた。
 モヤを全部消すと、リアは大急ぎで傷口を縫った。先ほどの二倍手間がかかるので、リアはさらに集中力を増して夢の傷口を縫っている。
 またしても失敗だった。夢がまた受け入れなかった。
「夢に言葉はない。語りかけたところで、なにも変わらん」
 すとんと着地したリアは溜息を吐いた。疲れの色が見え始めてきた。
「行動で示すんだな、伊武輝。おらはこうやって縫っているから、問題は何も起きていない」
 伊武輝は小さく首を振り、声を低くして呟いた。
「夢に優しくしたところで、根本的な解決にはならない」
 恐怖に飛び込んでこそ、夢は強くなる。
 胸の内がそう言っている。怖くないと諭すだけじゃあ、うまくいかない。だから、行動で示した。だけど、わかってもらえなかった。少し厳しくあたってしまったのだろうか。
「少しちからを弱くする。これでだめだったらまた考え直す。リア、いくぞ」
 伊武輝は杖の先にふーっと優しく息を吹きかけた。杖の先からは黒いモヤではなく、一筋の黒い煙が宙を漂っていた。その一本の黒煙は、夢をぐるぐると螺旋状に巻いた。
 すると、かすかにピキッとひび割れる音がした。大きな亀裂ではなく、蜘蛛の糸のように極細だ。これならリアの縫い合わせも必要ないだろう。
 再び杖に息を吹きかけると、白い一本の煙が夢に向かってゆらゆらと漂った。黒煙はすでに消え、白い煙は小さな亀裂を覆い始めた。
 ほんの僅かでも思いを受け入れてくれたなら、歪んだ悪夢は生まれない。
 伊武輝は俯き、目をつむった。
 怖いかもしれない。だけど、本当はそんなに危険ではないんだ。今まで敵だと思ってきたのも、自分から遠ざけるための理由でしかない。だけど、いつまで経っても拒絶していては、相手もまた傷つけてしまう。
その拒絶もまた、さらなる悪夢を作り出す。受け入れて危険な目に遭っても、やり直せることができる。そのことをわかってほしい。
 伊武輝は苦笑した。
 そんなことをすんなりできるのなら、苦労しないよな。おれも、お前も。
 すぐに止めに入るリアの声がなく、淡々と時間が過ぎていった。
 突然、ぽんぽんと、伊武輝の足に何かが軽く叩いてきた。伊武輝が目を開くと、足元には見守っていたマナがいた。伊武輝に向かって、なんだか嬉しそうに微笑を浮かべている。
 伊武輝は夢の方に視線を向けた。
 夢が、以前に比べて輝きを増していた。小さな亀裂は白い傷跡となって、それが強い光となっていた。
 受け入れてもらえた。魔法が効いたこと以上に、そのことに嬉しく思えた。
「うまくできたな」
 リアは夢から視線を逸らさずに言った。
「これなら、おらのちからも必要ないな。ひとまずは合格、ということだろうか」
 伊武輝はリアの言葉に引っかかり、むっとなった。
「ひとまず?」
「ああ。伊武輝の本命は、最初に見せた魔法、もしくはそれ以上の強い魔法だろう。ないよりかはマシだが、強力な魔物相手なら侵入できるだろう。まだ安心できないってこった」
 リアは微笑を浮かべた。
「だけど、希望が見えてきた。弱い悪夢でも、夢を喰って成長する奴がいる。そいつらを未然に防げるようになったんだ。おかげで、おらの仕事もだいぶ減るってもんよ。頼りにしてるぜ」
 伊武輝は、リアの言葉を噛み締めていた。今まで誰かに頼られることも、感謝の言葉もなかった。温かい気持ちが、胸の冷たいわだかまりを溶かしていく。
 なんだろう。自然と笑みがこぼれてしまう。
 伊武輝は照れくさく笑った。
 保護できたのは、きっと自分のちからではない。敵であるおれを一歩譲って受け入れただけに過ぎない。だけど、それってどんなに難しいことか。子供は喧嘩するけど、大人は子供よりも幼稚になって、より暴力に相手を傷つけて拒絶するようになる。おれもそうなった。過去のせいだとはいえ、このままじゃいけない。おれもいつか、この夢と同じように受け入れなければ。
 一方、マナは保護を施した夢の周りをぐるぐると見て回っていた。白い傷跡をちょんちょんと触ってみたり、匂いを嗅いだりして様子を伺っている。
 首をかしげたマナは、興味に駆られたのか、ぺろりと傷跡を舐めてみた。
 すると、夢の表面がテレビのスクリーンのように映像が映し出された。
 女性が一人、暗闇の中でただ一点を見つめている。充血している目の下にクマができ、肩まで伸びている髪はボサボサだ。女性が見ていたのは、仏壇に飾られた、あどけない女の子の写真だ。女性は全く微動だにしない。
 映像がゆらゆらと揺らぎ、場面が変わった。
 先程の悲壮な映像とは打って変わり、鮮やかな映像が映し出された。女性が、ランドセルを背負う子供と一緒に手を繋いで道を歩いている。桜の花びらが舞い、二人とも、正装を着ている。顔を向き合うたび、歯を見せて笑い合っている。
 これはいったい何が起きている? 夢が隠していた記憶を見ているのだろうか。
「マナ、お前なあ」
 一緒に見ていたリアは、怪訝そうにマナを一瞥した。
「リア、これはいったい?」
 伊武輝が尋ねると、リアの口がへの字に曲がった。
「感づいていると思うが、これは夢が持つ記憶だ。おらたち夢の守護者は、外から夢を覗き見ることができる。だが、記憶を直接覗くのはタブーだ。不本意ではないにしろ、マナは記憶を掘り起こしてしまった。長にはおらが報告しておくが、初めての事だし、咎めるだけで特に処罰はないだろう」
「なんでタブーなんだ?」
「思い出したくない記憶が鮮明に思い出すと、身も心も破滅することもあるからだ。今回はそうはならなかったようだが、もしかしすると、この女は今、この最も輝かしい記憶を思い出したのかもな」
 リアは腕を組んだ。
「夢は気まぐれで、その真意は誰にもわからない。夢見る人を鼓舞するためか、大事なことを思い出させるのか、それとも忘れさせるためなのか。どのみち、夢が幻を見せているのに違いない。だけど、おらたちが幻を選ぶ権利はない」
 伊武輝は、女性の笑顔を見つめた。
「少しでも元気付けられたのなら、幻でもいい」
 リアは鼻でふっと笑った。
「どうだか。効果は一時的なものだ。直に別の幻に苛まれる。もしかしたら、悪夢かもしれないがな」
 夢から視線を外し、リアは伊武輝と向かい合った。
「改めて忠告しておく。記憶は掘り返してはならない。記憶に絡みついている恐怖に押しつぶされて星になってしまうことがある。新米だから覚えることも多いだろうが、人の生死に関与していることを、絶対に忘れるな」
 長に報告してくる、と一言告げると、リアは煙に巻かれて去っていった。
 リアの言っていることは、伊武輝も身を持って体感している。生きていても、自分は地獄にいるような絶望を何度も味わっている。
 だから、その地獄の縁に立っている女性を助けたい。もう二度と、おれと同じ目に遭わせたくない。
 伊武輝は再び女性の顔を見た。
 この幸せを奪ったのは、いったい誰だろう。あるべくして起こったなんて思いたくない。女の子も同じだ。まだ小学生になったばかりじゃないか。
「なあ、マナ」
 伊武輝が話しかけると、マナは顔を伊武輝に向けた。
「なんで死んだのか、見せてくれないか?」
 マナはその言葉に横に首を振った。
 さっきリアに言われたばかりでしょ、と言っているようだ。
「わかってる。この人に、どん底の絶望をもう一度体験させてしまうかもしれない。だけど、どうしても知りたい。きっと、より強い保護を施すためにも、必要なことだと思う。だからお願いだ。悪夢に苛まれたら、おれが責任を取る」
 マナはうつむいたが、意を決したように目つきがキッと鋭くなった。マナは舌でぺろりと夢を舐めた。
 夢が見せる記憶は、とても残酷だった。
 女の子は、クラスの子たちからいじめを受けていたのだ。机に落書きされたり、靴に泥を被せられたり、虫を食べさせたり、教科書が隠されたりした。クラスの中で階級社会ができていた。いじめる者の身なりは、小奇麗で堂々としていた。一方、女の子はみすぼらしくオドオドしていた。
 女の子は、女性には気丈に明るく振る舞っていた。きっと心配させたくなかったのだろう。仕事で忙しい母親の負担を減らそうと、率先して家事を手伝っていた。
 だけどある日、女の子は手紙を書き残し、飛び降り自殺をした。
 いじめに耐えきれず、校舎の屋上からアスファルトにめがけて、自ら頭を強打した。
 女性は手紙を読んで、いじめによるものだと学校に訴えたが、学校は認めなかった。女の子の無念を晴らすため、裁判で戦うことを決意して訴訟を起こした。
 だが、開廷するまでの間、女性の元に嫌がらせの電話やメールが矢継ぎ早にやってきた。不審な人物が自宅に押しかけてきたこともあった。終いには、ストーカーにナイフで腹部に刺されるといった、最悪の事態になってしまった。
 蓋をあけてみると、いじめっ子の親に権力があり、裏でカバーストーリーを流していたという話だった。女の子が自殺したのは親の暴力が原因であり、証拠はすべて捏造したものだと。
 マスコミは容易に信じてしまい、間違った情報が流れていたのだ。真偽を確かめもせずに信じ、間違った正義を持った人が、女性の住所や行動を割り出し、犯行に至った。
 その後、ストーカーは殺人未遂で逮捕され、女性は一命をとりとめた。
 だが、訴訟は取り下げられた。女性は一連の騒動から、暗に、訴えを取り下げなければ殺すと意味しているのをわかったからだ。
 病室にいる女性の目はとても虚ろで、誰も信じていなかった。医師や看護師に怒号を浴びせ、物を投げつけた。夜中になると、一人、泣け叫んでいた。
 そこで映像は途切れた。夢は何もなかったかのようにそこに佇んだ。
 伊武輝は、やるせない気持ちでいっぱいになった。
「おれもいろいろあったけど、なんで目の敵にされるんだろうな。あの子はただ、友達を作りたかっただけなのに。あの女も、娘に何があったのか、事前にわかっていたはずなのに。だけど元をたどれば、全部、権力や暴力で支配する人、いや、その人の感情のせいなんだよな。快感を覚えてしまったら、止めることは難しい。人間の悪いところだ」
 伊武輝は重い溜息を吐いて頭を掻いた。
「やっぱり不安だよ。おれなんかが務まるかどうか」
 女性の夢に、より強固な守りを施すために記憶を見たのに、反対に、壮絶な映像を目の当たりにして怖気づいた。そして気づいた。必要以上に人の心に踏み入ると、自分までもが飲み込まれてしまうことに。
 マナが伊武輝の脚に体を擦り付けた。
 無理するなって、励ましているのだろうか。
「マナは不安に思わないか? いや、マナは強いからそんなことはないか」
 マナは、伊武輝の言葉に否定するように、頭を横に振った。
「怖いのか?」
 マナは縦に頷く。
「でも果敢に行動できる。おれとは大違いだ」
 伊武輝は感慨にふけっていると、マナは、女性の夢の内部が黒ずみ初めていることに気がついた。女性に悪夢が侵食しているのだ。
 マナの行動は早かった。躊躇なく夢に飛び込んだ。
「マナ?」
 伊武輝は置いてけぼりにされて一瞬戸惑ったが、悪夢に侵食されている夢を見て事態をすぐさま把握した。
 きっとおれが記憶を掘り返したせいだ。おれが悪夢を生み出したんだから、おれがなんとかしなければ。もしできるのなら、あの人を不幸から助けてあげたい。
 逃げるなよ。
 頭の中で幻聴が一瞬過ると、伊武輝は胸にざわつきを感じながら、マナに続けて夢に入った。
「おれは逃げてなんてない」

疑雲

 伊武輝(いぶき)とマナが降り立った女性の夢は、女の子と手をつないで笑い合っている場面と同じ場所だった。日が傾き、夕暮れの空と薄みがかった赤い街並みが広がっている。道沿いに桜が一列に植えられ、花びらがひらひらと舞っていた。だが、そんな静寂を破るように、怒号や罵声があちこち響き渡る。
 たったったっと、伊武輝とマナの背後から音が近づいてくる。振り返ると、正装の格好をした女性と女の子が、必死になってなにかに追われていた。二人を通り越してその奥に目の焦点を合わせると、伊武輝の身の毛がよだった。
 確かに人の形をしている。だけどその大群は、壊れた赤い瞳は外側に向き、よだれを垂らしながら鋭い牙をむき出している。頭部は風船のように膨らみ、胴体と同じくらい大きさがある。お腹も大きく膨れ上がり、脚がまったくない。それなのに、女性に追い続けられるほどの速さはある。
 女性が伊武輝とマナに気づくと、女の子の手を引いて狭い路地に入り込んだ。伊武輝はすぐさま呪文を唱え、化け物が路地に入り込まないよう結界を施した。化け物は見えない壁にぶつかるように、後列からぎゅうぎゅうに押し込まれた。
「痛え、痛え。何事? 何事?」
 化け物は壊れたスピーカーのようにピーピーガーガーと言った。
 伊武輝とマナは、駆け足で化け物の前に立った。
「お前ら、またウイルスだな」
 伊武輝が問うと、化け物はケタケタ笑いだした。
「そう言うお前は、かの逃げ腰くんじゃないか」
「この前の戦い、忘れたのか?」
「忘れることなんてないさ。君はちょっとの魔法で自慢げになった上に、お供がいないと強気になれない。逃げ腰には違いないさ」
 ヒッヒッヒッと嘲笑って挑発する化け物に、伊武輝は眉間のシワを寄せた。杖をかざして呪文を唱えようとすると、マナが制止するように伊武輝の前に立った。
 挑発に乗るな。そう言っているようだ。
 伊武輝は熱くなった頭を冷やすと、頭の片隅に疑惑の種が芽生えた。
 悪夢とウイルスの区別がわからないのに、声を聞いただけでどうしてウイルスだと直感したのだろう。初めてウイルスと対峙したときの記憶がこびりついているせいだろうか。それに、ゴザムの夢の黒鳥から記憶は継承されているようだ。悪夢は夢伝えで、ウイルスはインターネットを伝って記憶が残る。だから目の前にいる化け物がウイルスだなんて断定できない。何か見落としているのだろうか。
 ふつふつと湧き上がる疑問をよそに、化け物はマナを見た瞬間、笑いがピタリと止まった。
「今や君らに話題が持ちきりだよ。何者かがウイルスを駆除しているってね。おかげでぼくらの計画は遅れている。人間を支配できる日はいつ来るか」
 またウイルスと聞いて、ますますわからなくなってしまった。化け物が言っているのは、最初のゲームの世界のことか? 黒鳥のことも含まれているのか? 最初に入り込んだゴザムの夢は、本当は仮想世界だったのか? でも、バクは夢だときっぱり言っていた。
 伊武輝は頭の中で混乱しても、顔には出さぬよう平静を装いながら化け物に聞いた。
「それがお前らの目的か? いったいなんのために?」
「さあね。支配しろとしか言われてないしね。それ以上のことは何も知らないね」
 化け物がクククと笑った。
「君ら人間は本当に脆いね。いとも簡単に感情を操れる。感情を操れば、行動も操れる。思想も操れる。機械に人間の言葉なんて必要ない。ゼロとイチだけで使われる機械の言葉さえあれば、支配できるんだから」
 伊武輝はハッとなった。
 感情を蝕むウイルス。仮想世界だけでなく、夢にまで現れるとしたら?
「まさか、お前らの本当の正体って」
 今まで考えが浮かび上がらなかったが、こいつらの正体は、
「ナノボットのウイルスか?」
 化け物は口笛を鳴らした。
「やっと気づいたか。そのとおりだ。夢と仮想世界の境界線は曖昧で、誰も夢にウイルスが入り込むのを疑わなかった。だが、考えてもみろ。世に喚起されるのは、ウイルスに感染されないよう仮想世界のセキュリティを高めることだけだった。ナノボットは互いに通信し合い、ウイルスに負けない免疫を秒刻みで高めている。だからナノボット自体は感染される恐れはないとしていた」
 化け物——いや、ウイルスは、やれやれという風に手を上げた。
「ウイルスは常に進化をし続けている。その過程でいつの間にか、ナノボットを負かして感染し、いとも簡単に人を操れる方法を知った。密かに拡散し、人々に長い間潜伏している。ウイルスが脳を解析する最中、こうして夢に現れることはしばしばだがな」 
 ウイルスのうち一体が、目の前にある結界に、大きく膨らんだ手を伸ばした。パリンと、結界にヒビが入る。
「君たち二人にもナノボットが流れている。だから、君たちのことはよーく知っている。君たち以上に」
 伊武輝は耳を疑った。
 おれはともかく、マナにもナノボットが流れている?
「方や、幻に苛まれる弱虫。もう一方は……」
 わん! とけたたましくマナが吠えると、結界ごと化け物を吹き飛ばしてしまった。ガシャーンとガラスが飛び散る音が反響し、結界の破片がウイルスに突き刺さる。
 毛が逆立っているマナは、鋭い牙をむき出して、ウーウーと唸っている。
「マナと言ったな、その狐。お前の正体、もうわかっているからな」
 ウイルスがずんぐりと起き上がると、結界の破片を体内に吸収した。流血はおろか、傷一つもない。
「ぼくの言っている意味、わかるよなあ?」
「耳を貸すな、マナ」
 伊武輝はマナをたしなめた。
「全部が全部感染されているわけじゃない。あいつははったりを噛ましているだけだ。というか、お前が挑発に乗ってどうすんだよ」
 ウイルスは満面の笑みを浮かべた。
「でも、これでわかった。ほんと、人間はちょろいもんだ」
 結界がすでに消えてなくなり、ウイルスは、女性が通った路地にドドドと入り込んだ。
「逃すな」
 伊武輝はウイルスの後を追いかけながら呪文を唱えて何度も結界で捕捉しようとした。うまく捕らえられたら、もっと情報が手に入るかもしれないからだ。
しかし、ウイルスを捕らえきれない。自分のの体をドロドロの液体に変化し、結界の壁を溶かしているのだ。まるで狭い路地に流れる浅い川だ。流れる液体の所々に、腕や脚が突き出て、目玉や口、鼻や耳がまばらに無数に浮かんでいる。
 うへへへへとウイルスが甲高く笑うと、路地を走っている伊武輝は、気味悪そうに顔をしかめた。
 マナは、住宅のブロック塀をぴょんぴょんと跳ねるように掛け走って、ウイルスの隣まで追いついた。すると尻尾から、青白い炎の玉がボッと燃えた。尻尾がウイルスにめがけて振り下ろされるのと同時に、狐火は目にも止まらぬ速さで空を切った。
 ギギギと機械の軋む音が聞こえた途端、ウイルスはすでに青白い炎で焼かれていた。炎は急速に拡大し、ものの一瞬でウイルス全体まで拡散された。
 苦しみ悶えるウイルスは、すぐさま分離を始めた。半分は狐火を抱えながら消失し、もう半分は女性の後を追い続けた。伊武輝もマナも追いかけるが、ウイルスはさっきよりすばやくなっている。全力で走ってやっと同じスピードだ。
「なぜ、その女に構う? ただの一般人だろ?」
 伊武輝は少しでも足止めができるのならと、苦肉の策で質問を遠くから投げかけた。すると、ご機嫌なウイルスは快く答えた。
「ぼくが闇雲に人を襲っているとでも思っているのかい?」ウイルスの口たちが一斉に喋りだし、声が反響した。「おめでたいねえ君は。簡単なことさ。一番弱い人を狙っているんだ。乗っ取りさえすれば、次に強い人を狙いやすくなるのさ」
 ウイルスの走る速度が少しばかりゆるくなり、だんだん伊武輝とウイルスの間が縮まる。
「人を操れるのなら、こんな手間のかかることなんて、必要ないだろ?」
「わかってないねえ。ぼくらの支配が解けてしまうほど、夢は強力なんだよ。いわば、ウイルスの駆除剤。駆除される前に、ぼくが感情で押しつぶして、心を壊し、そして完全に人を乗っ取る。これは実験なんだよ。邪魔しないでくれるかなあ?」
 マナは再びウイルスの横に張り付くと、狐火を灯し、ウイルスにめがけて投げつけた。
 しかし、ウイルスは自身の体の一部を盾代わりにして、さらに加速させた。距離がまた離れていく。
「だけど、一番不可解なのが、急にこの女が恐怖に苛まれたことだ。ぼくは手出ししていない。他にきっかけなんてない。まるで、どこかからハッキングされたようだったぞ?」
 伊武輝はハッとした。まさかおれが、無理やり記憶を浮き彫りにさせたせいか?
「心あたり、あるようだな」
 耳元でそっと囁かれたときは、鳥肌が立った。伊武輝の右肩には、口だけあるウイルスの断片がスライムのようにねちょねちょとうごめいていたのだ。
 伊武輝は驚くあまりに足がもつれてしまい、勢いよく転がり回った。回転が止まると、伊武輝は体を起すなり、急いで肩からはたき落とした。ウイルスがアスファルトにぶつかって水しぶきをあげて、無残に散っていった。
 ウイルス本体とマナは、次の角を左に曲がり、伊武輝の視界から消えていった。
 このまま追い続けては埒が明かない。攻撃すればするほど、あいつは加速度的に早くなり、女性に追いついてしまう。
 だけど、結界で足止めした間、彼女たちはどこまで離れていったのだろう。女の子がいたんだ。そんな早く走れないはず。あれだけ走っていれば、女性の後ろ姿くらい見えると思うが……。
 考えてもしょうがない。追い続けるか、と立ち上がろうとすると、後ろからちょんちょんと何かが触ってきた。伊武輝が振り返ると、そこには、どこから現れたのだろうか、二匹のキジ猫の親子がいた。
「助けてくれたんだよね、ありがとう。てっきりあいつらかと思ってしまって」
 親猫から若い女性の声が聞こえた。路上の真ん中で、周りに悟られないようにそっと囁いている。
「あなたたちは、逃げていた親子だね?」
 伊武輝が普通の音量で話すと、親猫はほっとして、声を大きくした。
「うん。人間だった気がしていたんだけど、気がついたら猫になってしまって。でもそのおかげで、なんとか逃げおおせたのかも」
 夢が作り出している幻のおかげかもしれない。夢が、主人を守ろうとしている。
「まだ逃げ切れていない。あいつらをなんとかしないといけないんだ」
「……もういいのよ」
 母猫がため息を吐いた。
「生きて苦しむより、死んで楽になる方がいい」
「何言っているんだ。すぐに倒せるのに、諦めるなんて馬鹿げている」
「そうね。でも、何度も逃げ延びては、また何度も追いかけてくる。もう、疲れたのよ。きっとこの子もそう思っているはず。死んだらきっと、この苦しみもなくなるはず」
「この子はそう思っていないと思うぞ。死んだら一生会えなくなる」
「いいえ。死んだらきっと向こうで、この子と一緒に自由にいられる!」
 母猫は目を釣り上げ、毛を逆立って伊武輝を威嚇した。興奮のあまり、フーフーと息が漏れている。母猫に覆いかぶさるように、子猫が縮こまっている。
 言葉を慎重に選ばなければならない。きっと、放つ言葉次第で、この人は死んでしまう。人としてではなく、機械として飼い慣らされることになる。
 死んでしまった女の子の二の舞になんかさせたくない。
 伊武輝は母猫の傍にしゃがみこんだ。
「この子はきっと、母さんに嫌われたくないんだよ」
 母猫は口をつぐんだ。聞き入っていることを確認すると、伊武輝は穏やかに語り続けた。
「だって、母さんのことが大好きなんだから。いつも優しくしてくれる母さんが大好きなんだよ。でも、今は子供が悲しんでいる。なんでかわかる?」
 母猫の威嚇は止まらない。
「母さんが怒って、それから泣いているのは、自分のせいなんだって、自分を責めているんだよ。もっといい子でいられたはずなのに、こんなことになってしまってごめんなさいって、何度も謝っている。許されなくてもいいから、母さんがまた元の母さんに戻って欲しいって、そう願っている」
 母猫は顔を伏せて、嗚咽を漏らした。
「なんでそうだと言えるのよ」
「悲しそうな顔をしているよ、その子」
 母猫は自分の子を見下ろした。
 伊武輝の言う通り、子猫は悲しみに閉じ込められていた。怖そうに母猫の顔からじっと目を反らしていなかった。その子は、幼い時の伊武輝と似ているところがあった。
「苦しみのあまりに死んでしまったら、君の胸の中にあるこの子は、もっと苦しむ。一人取り残されて、悲しみを背負うことになる」
「だったら、この子も一緒に……」
「これ以上言うな!」
 伊武輝は母猫の言葉を遮り、腹の底から吼えた。母猫の尻尾がピンと張って驚いている。
「お前の唯一の子供、唯一の家族だ! 許しあえる仲なのに、それを引き裂くのか? そんなことしたら、この子はお前のことを一生恨み、許してもらえないぞ!」
「だったら、どうすればいいのよ」
 冷静に言い返された伊武輝は、言葉に詰まった。理不尽に強いられる中ではどうしようもできないのは、自分でもよくわかっていた。
「……せめて、この子が悲しまないやり方にしないか?」
 伊武輝は高ぶった気持ちを落ち着かせた。
「悲しい思い出はあるかもしれない。でも、楽しい思い出もあったはずだ。忘れずにとどめておくしかない。この子は母さんに謝りながら、母さんに幸せに生きてって言ってるんだと思う」
 母猫は子猫の頭を舌でぺろりと舐めた。
「謝りたいのはこっちの方よ」
 不安げに眉をひそめる子猫は、母猫の頰を舌でペロペロと舐めた。
「元の母さんに戻ったら、許してくれる?」
 母猫が子猫に訊くと、子猫は嬉しそうに小声でにゃーと鳴いた。
「ごめんね、心配掛けて」
 母猫は子猫の背中の毛並みを舐めた。
 伊武輝は、前方から何かが近づいてくるのを感じ取った。二匹の猫より前に出て、杖を構える。
 ウイルスの大軍は、今やたった一つのボールの形になり、猫と同じくらい小さくなっていた。しかも、目で追いつけないほどの速さだ。右に移動したと思ったら、次の瞬間左へ移動し、左右にジグザグに跳んで移動しながら伊武輝たちの方へ近づいてくる。
 ウイルスのずっと後方にマナが見えた。攻撃範囲までたどり着くのにまだまだ時間がかかりそうだ。ウイルスは挟み撃ちされているが、あの速さでは捕らえきれない。
 伊武輝は呪文を唱えるために、杖の先をウイルスに向けようとするが、すばしっこい速さに追いつけず、杖が迷うように左右に揺れている。ウイルスが、一つだけの目ん玉を猫の親子に向けた。
「やっと見つけたよ。夢はまさに摩訶不思議。常識は通じないね」
 ウイルスが伊武輝の前でピタリと立ち止まった。
 呪文を唱えようと思えばできるが、あの速さでは煙に巻かれる。ウイルスは立ち話できるほどの余裕がある。
 どうしたら倒せる? マナでも手こずる相手を、どうやって?
 ウイルスは楽しむようにまじまじと伊武輝と猫二匹を眺めた。伊武輝は構えを解かずに攻めあぐねていると、傍らから母猫が伊武輝の前に立った。
「おい、前に出るな」
 伊武輝が緊迫した顔で言うと、母猫は通り過ぎざまに、にこりと笑った。夢に入って、初めて見せる顔だった。
「感謝してるわ」
 母猫がそっと言うと、目つきを鋭くして、ウイルスと対峙した。前傾姿勢になり、耳がツンと立っている。
「これは参ったね。さっきまで怯えていた人が、こんなに殺気立っちゃって」
「私はもう逃げない。この子の命を奪うというなら、私の命を奪いなさい!」
 ウイルスは、あーあ、とやる気を無くしたように声を漏らした。
「マナよりも厄介はお前みたいだな。惜しいよなあ。そんなちからがあれば、おれと手と取り合って、助け合えると思うのに」
「おれにちからなんてないし、もしあったとしたら、お前を倒すために使うと、おれは思うけどな」
 あっそと、声を漏らすと、ウイルスが目を細めて睨みつけてきた。
「じゃあ、お望み通りお前を殺して、もう一度、お前の子を殺すとするかね」
「もう一度?」と、母猫のヒゲがピクピク動いた。「あんたが……この子を殺した?」
「どういうことだ」
 伊武輝の胸中から怒りが沸騰してくる。ウイルスは冷ややかに笑った。
「決まっているじゃないか。人を操る実験の成果だよ」
 鋭い爪を出し、母猫がウイルスに襲いかかろうとかがんだ。
「あんたのせいで!」
 伊武輝はすぐさま胸の内で呪文を唱え、猫の親子に結界をそれぞれ張らせた。母猫は驚いた様子で結界をばんばんと叩いている。ウイルスが挑発するように、人差し指でくいくいと動かした。
「出しなさい。出して!」
 子猫は何が起きているのかわからない様子で、縮こまってキョロキョロしていた。
「悪い、これもお前たちを守るためだ」
 ウイルスの元にようやくたどり着いたマナは、立ち止まって尻尾から毛を一本ぷすっと飛ばした。ウイルスは背中に刺さったが、何食わぬ顔で、母猫の結界を壊そうと腕を伸ばした。
 次の瞬間、ウイルスはボンッと弾け飛んだ。母猫の周りに水しぶきが飛び散った。
 倒したと、伊武輝が安堵していると、どこからかギギギときしむ音が聞こえた。飛び散ったウイルスが、一つの場所に集まろうとしている。マナは狐火を灯し、警戒態勢を維持していた。
「ウイルスを根絶やしにしなければ、何度も蘇り、増殖する」喋る口がないのに、どこからか声が聞こえてくる。「人の思想もそうだ。果たしてお前は、己の意思で動いていると思っているのか? 自由に動いていると思っているのか? めでたいねえ。お前は誰かの思想に操られているのに過ぎない」
 あちこち見回しながら、母猫は結界の中から叫んだ。
「そうよ、人はたやすく信じてしまう。その発言者にちからがあるのならなおさら。でもね、間違いだと気づく日がいつか来る。正すことができる」
「ずいぶんと意気がるようになったじゃないか。いいのか、そんな愚かな奴を信用して」
 ウイルスが一つの場所に集まって元に戻ると、マナはすかさずに狐火を繰り出した。避ける素振りを見せないウイルスは、不敵の笑みを漏らした。
 狐火が当たるのと同時に、サク、と切り刻む音が聞こえた。伊武輝と母猫は、聞こえた音に振り向いた。
 子猫の脇腹に、ナイフが刺さっていた。ナイフの柄を握る真っ黒な手が、アスファルトから突き出ている。
 子猫の目が大きく見開く。顔が真っ青になると、見開かれた目がゆっくりと閉じていく。子猫だけでなく、伊武輝も母猫も真っ青だ。
「やめてえ!」
 母猫は結界をガリガリと鉤爪で引っ掻き回した。伊武輝はすぐさま結界を消すと、手にナイフを握りしめ、ウイルスの手にめがけて投げた。ウイルスの手は、子猫に突き刺さったナイフを手放し、アスファルトの中に引っ込んた。
 伊武輝と母猫は、子猫の元へ駆け寄った。真紅の血が脇腹からどくどくと流れている。子猫は苦しそうにか細く鳴いている。
「馬鹿な味方ほど怖いものはないさ。そこの猫は今まで味方を作らなかった。なぜだかわかるだろう? お前みたいな奴を信用したばかりに、悲劇が起こったんだからな」
 ウイルスが辺りから反響している。どこにも姿が見当たらない。マナはくんくん匂いを嗅いだり、耳をツンと立てて注意深く聞いたりしてウイルスを探している。
「心配するな。おれが治す」
 伊武輝は子猫のそばにしゃがみ込み、呪文を唱え始めた。手にぽわっと淡い青色の光を宿し、患部にかざした。流れ出る血を抑えながら、もう片方の手で突き刺さったナイフを徐々に引き抜いた。
 子猫は苦しそうに、にゃーにゃーと声を枯らすように鳴いている。
「すまない、もう少しの辛抱だ」
 なんとかナイフを抜き取ると、すぐさま傷の治療に取り掛かった。時間との勝負だ。一秒でも早く治療すれば、助かる確率がぐんと高くなる。
「なんで足元に結界を作らなかったの!」
 激怒している母猫は、一本の前足を大きく後ろへ引いた。鉤爪が夕日に照らされギラリと赤く光る。子猫の傍でしゃがんでいる伊武輝の背中に目掛け、何度も何度も引っ掻いた。
 伊武輝の服がビリビリに破かれ、背中があらわになる。鉤爪が、背中の皮膚を貫き通して骨まで食い込むように深く斬りつけた。
 マナの耳がピクリと動いた。しかし、止めに入らず、無関心を装うように、目や鼻、耳を使ってウイルスを探し続けた。
 伊武輝は、背中に走る激痛に耐えかねて、魔法が途切れそうになった。だが、歯を食いしばって治療に専念した。
「悪かった。油断してた」
「油断してたってなに? 勝手に結界を作っといて、向こうの思う壺だったじゃない!」
 母猫の鉤爪が止まらない。ザクザクと切り刻み、母猫は伊武輝の返り血を浴びている。母猫の目に宿る殺意が、暴走し続けた。
 母猫の言うとおりだ。当然だよな、不意を突かれたとはいえ、おれの不注意だ。結界がなければ避けれたし、足元にも気を配ればこうはならなかった。
 だけど、どうしてだろう。不本意なのはわかっている。でも、全然悔しくない。
「はは、やっぱ、こいつのことが、大好きなんだな……羨ましいよ」
 子猫にそう言うと、伊武輝は振り返り、母猫に向かって微笑んだ。母猫の動きが止まり、彼の笑みに目が泳いでいた。
 にゃー。
 伊武輝の肩に、全治した子猫がちょんと飛び乗った。
「生きてる……?」
 子猫がすとんと地面に着地すると、母猫の元まで駆け寄った。しかし、変貌した母猫を見て、少し慄いた。母猫は目を伏せた。
「こんな母さん、怖いよね。全部、あいつのせいなのに、怒り狂って八つ当たりだなんて……」
 子猫は頭を振って、微笑んだ。
 もう大丈夫だよ、と言っているようだ。
 伊武輝は、母猫の頭の上でくるんと指先で円を描くと、浴び血はすっかり消え、きれいなキジ模様の毛並みになった。
 母猫は安堵して伊武輝の方へ顔を向いた。
 しかし、伊武輝はうつ伏せになって倒れ込んだ。背中から血が取り土留めもなく流れ続けている。
 母猫は目を大きく見開き、伊武輝の顔の近くまで駆け寄る。
「そんな、ごめんなさい。あんたのせいじゃないのに。ねえ、起きて、起きてよ」
 大粒の涙を流しながら、母猫は柔らかい肉球を伊武輝の背中に押し付けて、伊武輝の体を揺らした。
「な? 子ども、元気、だろ?」
 伊武輝にかすかな意識があった。
 重傷の伊武輝とはよそに、マナは周囲に気を配っている。ウイルスをまだ見つけていないらしい。
「なんで仕返ししなかったの?」
 子猫が伊武輝の顔の傍まで近づき、体を伊武輝の頰にこすりつけた。柔らかい毛と温もりが、かすかにくすぐったい。
「子供が、怒るから、悲しむから」
「あんただって、悲しむ人がいるでしょ? ——あんたが傷つくと、泣いたり怒ったりする人が。その人のためにも、少しは抵抗しなさいよ!」
 ポロポロと泣く母猫に怒られた伊武輝は苦笑した。
「誰も、いないさ」
 マナは耳がかすかに動いた。マナはすぐさま伊武輝たちまで近寄り、尻尾で伊武輝を、口で母猫を咥えた。母猫は反射的に子猫を咥えた。
 そして、マナはすぐさま天高く飛び上がった。間一髪だった。伊武輝たちがいた場所に、地面からクジラのように大きく開かれた口が現れたのだ。真っ黒いその口は、電柱も家屋もアスファルトも、丸ごと飲み込んだ。ずずずと地面に潜ると、後に残ったのは、土がむき出しになったクレーターだった。半径数百メートルはあるだろうか。とてつもなくでかい。
 マナは近くの家屋の屋根に降り立つと、尻尾から新緑の光を放った。伊武輝はその光に包まると、背中の傷がみるみるうちに塞がった。だが、意識が戻らなかった。
 二匹の猫が、マナにきょとんとした顔で見ていた。
「あともうちょっとだったのにな」
 ウイルスの声だ。クレーターに、ウイルスが泉のごとく湧いて出てきて、一面が黒い湖になった。水面を埋め尽くすほどの赤い目が、ぎょろっと浮き出た。
「女が憎めば憎むほど、ぼくのちからが増大する。もう少しで支配できたというのに」
 マナは、ひょいと二匹の猫を背中に放り投げた。母猫も子猫を開放し、二匹ともマナの背中に掴まった。
「もうあんたの思惑通りには行かないわ……ねえ、小春?」
 子猫はにゃーと鳴いて返事をした。
「ハッタリもいい加減だな」
 ウイルスの声の勢いがなくなった。おどおどしているウイルスを見て、母猫は尻尾をピンと立たせた。
「ねえ、小春。今度遊園地に行こう」
 マナは首をかしげたが、子猫は嬉しそうににゃーにゃー鳴いた。
 すると、湖の水位が、わずかばかり下がってきた。
「子猫ちゃん? さっき人を切り刻んで死の淵まで追いやったんだよ。次は子猫ちゃんが死んでしまうかもしれないよ?」
 ウイルスはさっきの威勢の良さが消え、狼狽えている。
 しかし、子猫はふしゃーと毛を逆立ててウイルスに威嚇した。ウイルスはたじろぐようにみるみるうちに水位が下がっている。湯気がモクモクと立ち込めている。
「遊園地に行ったら、観覧車に乗ったり、トロッコ列車に乗ったり、アイスを食べたり、それからショーを見たり。たくさん遊ぼう?」
 湖がどんどん枯れていく。ウイルスは息苦しそうにもがいている。
「そんなのただの餌だ。一時的に喜ばせるだけだ。おい、聞いてるのかクソガキ!」
「もし雨が降っちゃったら、お家で絵本を読もうか。ババ抜きもしようか」
 マナは、眠っている伊武輝と、楽しそうに話している猫の親子を屋根に置いて、クレーターの中心地付近まで降り立った。ウイルスが弱まり、消えようとしている。
「どうだ、バカ狐! これが人間の本性だ。気分次第でころっと変わる!」
 マナは憐れむように、吠え猛るウイルスの話をただただ聞いていた。
「気分も変われば、物事の見方も変わる。一方は見えても、もう一方は隠れて見えない。知らないことは罪だ。なぜぼくたちがこんなことをしているのか、お前たちには決して理解できない。ぼくには見えても、お前らには見えてないからだ。だから解り合えないし、戦いに終わりなどない!」
 ウイルスがふふふと不敵な笑みを漏らした。
「伊武輝とお前は、果たしてこのままでいられるかな?」
 猫の親子が一緒に、にゃーにゃーと鳴いて歌いだした。ウイルスは最後の一滴まで蒸発して消え去った。
 マナはふさぎ込むように物思いに耽った。しばらくして、そんなことはないと、頭を振った。
「小春、疲れちゃったから、少し寝よう?」
 母猫がそう言うと、子猫はにゃーと鳴いて欠伸をした。猫の親子がこくりこくりと船を漕いでいた。
 マナは眠そうな親子を見て確認すると、すぐさま伊武輝がいる屋根に飛び移り、尻尾の先で彼の鼻をくすぐった。くしゃみを誘っているのだろう。しかし、依然として伊武輝はピクリとも動かない。仕方なく、尻尾で伊武輝を捕まえて地面に降りた。
 家や電柱や木々が陽炎のように揺らいでいる。母猫が人間の女性に戻り、眠りについた。
 その寝顔は、とても穏やかな顔だった。


 マナが夢から抜け出すと、外にはバクが待ち構えていた。バクに一瞥すると、もふもふした尻尾が、伊武輝をそっと地面に置いた。
 バクが真剣な眼差しで、マナをじっと見ていた。
「マナ。お前さんはいったい、何者なんだ?」
 いつもの間の抜けたような口調は抜け落ち、本気で言っている。マナはバクに対して体を横に向いて座り込んだ。
「伊武輝が言っていたな。人工の夢、つまり仮想世界が存在すると」
 ゆっくりと宙を漂いながら、マナの正面に回り込んだ。マナが抜け出た母猫の夢が、地面にすいすいと潜った。
「その世界に入るには、体内で循環している目に見えない機械が必要だとあの悪夢が言っていたな。お前さんにも人間と同じ、その機械があるとも。お前さん、本当は人間なんだろう? おいらやお前さんのような夢の守護者に任務がある。だけど時折、守護者が入れない夢がある。そんな夢に限って、お前さんしか入れない」
 バクの目つきが鋭くなる。
「今、わかった。お前さんにしか入れない夢は、実は人工の夢で、体に機械を宿していない守護者は入れない。そしてしゃべらないのは、ボロを出さないため。人間だった時のお前さんの記憶は、もうほとんど思い出せないはずだけど、機械を使えば忘れずに済むんじゃないのか? おいらたちにはない、その不思議なちからは、人間が生み出した邪悪なるもの。違うか?」
 マナは毅然として、バクを見つめ返している。
「お前さんが来たときから、すでに夢の世界の崩壊が始まっていたんだろ! お前さんが人間のスパイで、夢の世界を支配しようと目論んでいるんだろ!」
 あの穏やかなバクが、声を荒げてマナに当たる。
「思えば、始めから気付くべきだった。お前さんが来たときから、夢に変異が起きていた。おいらたちに味方だと指し示すには、絶好の機会だった。違うか? マナ!」
 マナは何も動じず、真っ直ぐな蒼い眼でバクを見ている。
「おいらたちに信頼を得て、夢に侵入するのを許してもらえた。お前さんが悪夢を退治する最中、別の何かを夢に埋め込んでいるんだろ? それ以外なにも思いつかない。長にも気づかれないところに、何かを隠している——悪夢とは違う、何かを。今は何も起きていないが、時が来れば、何かが起こるんだろう?」
 沈黙を守り続けている。マナは頭を縦にも横にも振らない。
「応えろ!」
 バクがマナの眼前まで詰め寄った。疑いの眼差しが、マナの目の前にある。その剣幕は凄まじく、バクの荒い鼻息がマナの顔にかかる。
 険悪な雰囲気の中、伊武輝がぱちっと目が醒めた。
「マナ!」
 がばっと上体を起こして大声で伊武輝が叫ぶと、バクがびくんと飛び上がった。
 マナは、伊武輝が目覚めたことにとても嬉しがって、彼を上体を寝かしつけるように前脚で抑え、馬乗りの格好になった。尻尾をブンブン振り回し、伊武輝の顔中を舐め回した。
「やめろ、やめろって」
 くすぐったくて笑いが止まらない。マナを落ち着かせるために、伊武輝が頭を撫でると、ピタリと止まり、マナの顔がとろとろになってしまった。
「おれはもう大丈夫だから。心配掛けたな」
 そう言うと、マナがこんと、一鳴きした。
 あんただって、悲しむ人がいるでしょ?
 母猫の言葉を思い出していた。悲しんでいるとは思わないが、マナは心配してたんだろうな。こんなに嬉しがっていると、こっちも嬉しくなる。
「よお、伊武輝。驚かせるなあ。びっくりして心臓止まったかと思ったあ」
 さっきの憤怒とは打って変わり、元のバクに戻っていた。
「お前さんの保護魔法、微力とはいえ、うまくいったんだってな。リアに聞いたあ」
 バクは、保護が施された母猫の夢を見下ろした。網目状の細くて白い亀裂が、地中から夢の守護者たちに、ほのかな光を放っている。
「だけどなあ、伊武輝、必要がないのに記憶を掘り起こしただろ? 自業自得としか言いようがないけど、なんで掘り起こしたんだ?」
 伊武輝は力なく笑った。
「すまなかった。より強い保護をしようとすると、夢に亀裂が入った。その原因は記憶にあるんじゃないかって探ろうとしたんだ。そうしたら、悪夢が生まれてしまった」
 バクは唸った。
「そうだあ。夢は気まぐれだけどなあ、必要なときだけ見せてくる。反対に言えば、必要のないときに見せようとすると、悪夢が生まれやすい。記憶は夢と密接につながっている。そのことをお前さんは、よーくわかったはずだあ」
 その通りだと、伊武輝は力強くうなずいた。母猫の幸せな記憶がせっかく浮き彫りになったというのに、不用意に一番悲しい記憶を思い出させてしまった。もう二度と、人の記憶を覗き見ることなんてしない。
 バクは、伊武輝にニッと小さく笑いかけた。
「伊武輝、今はできることをしろ。微力な保護しかできないのなら、全部とは言わない、夢をたくさん保護して、要領が掴むまで強力な保護は控えろ」
「でもそんなことをしても……」
「高い効果は期待できないって? それでいいんだ。十個中三個でも防げるのなら、マナはその三個分だけ戦わずに済むんだ。お前さんは夢の住人を助けるだけでなく、マナも助けているんだ。でも、おいらの楽しみが減るけどなあ」
 そう言うと、バクの肩が残念そうに下がった。
 マナの手助けになっている。そう思うと、伊武輝は、胸の内がほんわりと暖かくなるのを感じ取った。
「ところでバク、記憶を掘り起こした罰は、いったいどうなるんだ」
「長にちゃんと伝えた。今回も許してもらえるそうだ。全く寛容すぎるのも問題だなあ」
 おいらはこれで、とバクは言うと、マナとすれ違いざまに耳打ちをした。
 長にはまだ言っていない、だがおいらは味方ではない、と。

幽閉

 バクの教え通り、伊武輝(いぶき)はたくさんの夢に保護を施した。ときおり記憶を見てみたい衝動に駆られるが、夢の中の住人に危害を加えてしまうことを考えると、難なく思いとどまれた。
 もう苦しませたくない。今思うと、あの母猫を説得できたのは奇跡だ。おれはただ声を掛けて気づかせただけだ。強く生きようと決断したのは彼女自身だ。子を想う親は強い。
 夢に弱く攻撃をして、ヒビが入ったところを優しく塞ぐ。その単純作業が功を奏した。無数の呪文を試す必要もなく、てきぱきとすぐに保護を施せる。おかげで悪心のある悪夢の数が減った。
 こうした伊武輝の行いが、次第に夢の守護者の中でも話題になっていた。
「よお、人間の旦那。今日もお疲れさん」
 そう言う悪夢退治の虎もいれば、
「おい人間、いい仕事しているよな。助かってるぜ」
 と言う、情報伝達を担っている鷹もいた。
 夢の守護者にそう声をかけられることもあって、伊武輝の顔は次第に明るくなっていった。
 一方マナは、伊武輝の傍にビッタリとくっついているが、陽気さがなくなり、なんだか物静かだ。
 様子が違うマナを見て、伊武輝はウイルスの言っていたことを思い返していた。
 ナノボット。人間の体内に流れる機械。おれだけでなく、マナにも体内に流れていると言っていた——マナの正体を知っているとも。
 いや、違う、と伊武輝は頭を振った。
 ウイルスのハッタリに決まっている。マナが人間のはずがない。
 考え事をしながら杖を手に取って、夢に保護を施し始めると、隣でマナがうつ伏せになって夢を眺めていた。
 直接聞いてみようか。
 伊武輝は夢の保護を一旦中止すると、しゃがみこんで、マナの頭を撫でた。
「マナには助けてもらった恩義がある。それに信頼している」
 伊武輝が語り始めると、マナは彼の顔を見上げた。
「だけど、確認しておきたい。あのコンピュータウイルスの言っていたことだ」
 そう言うと、マナの耳がぺたりと垂れた。
「お前は人間なのか?」
 マナは頭を横に振った。
 かつて、マナは仮想世界のセキュリティプログラムかと思っていたが、今思うとそうではない。機械が夢の世界に出られるはずがないし、もしそうだとしたら、夢の守護者が大騒ぎして、マナのことを嫌悪していただろう。
「お前の体にナノボットが流れているのか?」
 マナは否定した。
 考えられるとしたら、マナは現実では何かの動物で、夢を見ているうちに、夢の世界へと迷い込み……。
 いや、ちょっと待て。マナはどこから来たんだ?
 バクは、マナはもともと夢の世界にいたんじゃなくて、来たんだと言っていた。だけど、具体的なことは教えてもらってない。
「お前は夢の中から出てきたのか?」
 頭の中で最初に浮かんだ疑問を声に出すと、マナは迷いなくコクリとうなずいた。
「マナだけでなく、他の夢の守護者、みんながそうなのか?」
 マナは再びうなずいた。
 夢の守護者が生まれる過程はわからない。でもそのうち、目撃できるだろう。
 疑問が晴れ、胸をなでおろした。
「じゃあ結局、あのウイルスの言っていることは全部ハッタリだったわけだ。マナが急に堪忍袋の緒が切れたから、もしかしたらって考えちまった」
 その言葉にマナは、ぺたりと顎を地に着いた。
 そう、人間のはずがない。いつの間にか夢の世界へ出ちゃっただけで、ここでマナとして夢を守っている。それでいいんじゃないか。
 しかし、うっかり夢の世界に出られるとしたら、よく今までウイルスが外に漏れ出さなかったなと思う。マナができるなら、ウイルスもできるのではないか。それとも夢がしっかりと役目を果たしているからだろうか。
 全て想像の域だが、ありとあらゆるケースを想定して備えることは無駄ではない。予測不可能な出来事は常に起こる。
 伊武輝は立ち上がり、夢の保護の続きを始めた。
「さて、もう一踏ん張りだ」
 こうして順調に夢の保護が進み、最後にゴザムの夢が残った。何度も強くなって蘇る悪夢を抱えている。
 保護を掛けたら、もう悪夢に悩まされない。そう思っていたが、今思えばそうではない気がしてきた。保護は微力で効果が小さいが、悪心のある悪夢の出現は、ナノボットのウイルス感染によるものだ。ウイルスを除去しなければ、悪夢は何度も蘇る。いくら症状を抑えても、根本的に解決をしなければ一生治らない。
 だけど、おれができることをするしかない。あとは彼らが打ち勝ってもらうのを願うのみだ。
 こうして、伊武輝はゴザムの夢に保護を掛けた。何事もなく終わるはずだったが、そこへ、バクが突然やってきた。
「おおい、伊武輝。ちょっと頼み事してくれるかあ。マナもだあ」
 夢の保護にちからを使いすぎた伊武輝は、へとへとで覇気のない返事をした。
「なんだよ、バク」
「お前さんに見てもらいたい夢があってなあ。ちょっと来てくれないかあ」
 そう言うとバクは、空中を移動しながら手招きをした。
「今すぐじゃなきゃだめか? 休もうとしてたのに」
 小言を言いながら、伊武輝とマナはバクの後をついていった。
「大丈夫、悪夢がない夢だからなあ。入って覗き見るだけだあ」
 バクが後ろに振り向きながら言った。
「いいのか? 極力、夢に干渉してはいけないんだろ?」
「まあ、夢に入ってみればわかるけどなあ、ただの夢じゃないんだあ」
 ただの夢じゃない?
「それって、おれが見た、過去を見せる夢と同じようなものか?」
「そうだと思っていい。だけど、お前さんがこれまで見た夢以上に、とても奇妙な世界だ」
「なんでおれに見せたがる?」
 伊武輝は訝しげに訊いた。悪夢を退治する夢の守護者は、ほかにもたくさんいる。
「見せるというか、点検してほしいんだあ。お前さんは外から保護を掛けているだろ? だけどもし万が一、保護膜が機能していなくて、中に入って保護を掛けなければならないときが来るはず。外からだと見えないものも、中から見たらはっきり見えることもある。中から保護を掛ければ、より一層守りが強固になるってもんだあ。手間がかかって面倒だと思うが、一度経験させた方がいいと思ってな」
 さっき言ったことと少し食い違ってないか? 夢を出入りするだけでなく、魔法を使うとなれば、ちからを蓄えないといけない。バクの気持ちはわかるけど、だったらなおさら休ませてほしい。それともこれは訓練の一種なのか?
 伊武輝の前で歩いていたマナがこんと鳴いた。伊武輝は前方を見て、きょとんとした。
「これがそうなのか?」
 浮遊しているその夢に、特に変わったところがなかった。大きさが人の身長ほどあって、悪夢のような黒い渦がない。だが、マナは慎重な足取りで、夢の周りをぐるぐると歩き始めた。
「マナもこの夢は初めてだあ。それもそうだあ。まだ悪夢に侵されたことはない。だけどなあ、この人、夢からまだ醒めたことがない——ずっとなあ」
「ずっとって、どれくらい?」
 伊武輝は驚いて、思わず口走った。
「さあ、それはわからない。この夢が生まれてからずっとだあ。普通の人だったら何百、何千という回数で夢を見るんだろうけど、この夢はまだ一回目だあ」
 バクは悲しげな目で夢を見た。
「この夢は、悪夢とは異なる。夢そのものに異常があると思うんだけれどなあ、夢に閉じ込められた人がこの中にいる。きっと一筋縄じゃいかない」
「夢に異常があるのなら尚更、中に入るのは危険じゃないのか?」
 指摘されたバクは、警戒している伊武輝に手のひらを向けた。
「大丈夫。外から注意深く観察するし、危険だと判断したら、夢に穴を開けてお前さんたちを救済する。もちろん、夢の住人を無傷のままでなあ」
「そんなことできるのか?」
 伊武輝は両眉を上げた。
「ああ。簡単だあ。それと、夢の住人を夢から醒ましても問題ないけどなあ、そのままでもいい。きっとおいらたちがどうこうできることじゃない。長が言うには、今回は特別に干渉しても問題ないそうだあ」
 ふーん、と伊武輝は頷いた。
「要は、夢そのものの治療ってことでいいのか?」
「そうだと思っていい。よろしくなあ」
 マナは余裕そうに、後ろ足で顔を引っ掻いた。かたや伊武輝は、腕を伸ばして筋肉を解きほぐしている。
 警戒心の薄い彼らを見たバクは、伊武輝の背後に忍び寄り、声を低くして言った。
「だけど迷うな——決して」
 伊武輝は耳を疑った。
「今なんて?」
 伸びをやめた伊武輝はバクの方に振り返ったが、後ろからなにかに押され、バランスが崩れた。彼はそのまま前に倒れ込むようにして、夢に入っていった。
 伊武輝の背中を体当たりしたバクは、鋭い目でマナを一瞥した。マナの口が半開きになり、伊武輝に続けて夢に慌てて入っていった。
「化けの皮を剥がしてもらおう、マナ」


 閉じ込めている夢の中身は、とてもシンプルだった。
 伊武輝たちは円柱の塔の中にいて、石の螺旋階段に足を着いている。螺旋階段は上下に伸びているが、窓が一つもなく、石壁に覆われている。段差ごとに置かれた、心持たないろうそくの明かりだけが頼りだ。匂いを嗅ぐとカビ臭く、湿気で少しジトジトしている。
 マナの顔が、階段のろうそくにぼんやりと照らされる。その火は真っ直ぐ立っていて、そよ風がちっとも吹いていない。
 伊武輝と同じように、マナもくんくんと匂いを嗅いだ。しかし、何も手がかり見つからなかったようで、上を見たり、下を見たりしてソワソワしていた。
「背中を押したのはマナか?」
 伊武輝がそう言うと、マナは首を振った。
「ということは、バクか」
 ゆったりしているバクがそんなことをするなんて、なんだか胸騒ぎがする。だけど今は、夢のことに集中だ。この前みたいに気を抜くと、夢に襲われる。
 一点に集中するために、伊武輝は気持ちを切り替えた。
「バクの言われたとおり、内側から保護を掛ける。それから出口を探そうか」
 しかし、マナが首を横に振った。
「出口を探すのが先決だって?」
 マナはうなずいた。
「保護をかけたら、出口が現れるかもしれないんだぞ? それに外から助けるって言ってたじゃないか」
 それでもマナは、頑なに否定した。
「なにか良くないことが起きているんだな?」
 マナはうなずいた。
 伊武輝は、階段の手すりに体を乗り出し、最上部と最下部を交互に見た。ろうそくの明かりだけでは薄暗くてよく見えないが、ざっと見た所、夢の出口らしき亀裂が見当たらない。
「上も下も、どこまで続いているのかわからないな。おれの魔法で探してみる」
 伊武輝は手すりから離れ、杖を手にとって呪文を唱えた。すると、杖の先から砂粒が現れた。蛍色に光る砂粒は、最上部と最下部の二手に分かれ、細い川が二本流れるように空を移動した。なにか手がかりを見つけたら、強く発光するようお願いしてある。
 数秒だけ待っていると、最下部の方へ向かった砂粒が、強光を放った。伊武輝とマナは、手すりから見下ろして、その光を目視した。
「見つけたみたいだ。行こう、マナ」
 伊武輝は自身に魔法を掛け、手すりから飛び降りた。それに続いて、マナも手すりから手すりへと飛び移りながら、階段を下っていった。
 合図を送っている砂粒のところまで降下すると、伊武輝はぷかぷかと宙を浮きながら静止した。マナも到達し、手すりに鎮座した。
 そこで、手すりから離れてうずくまっていたのは、小学生くらいの小さな男の子だった。ぼろぼろの布切れを一枚着ていて、裾から泥土で汚れた素足が覗いていた。
「誰?」
 男の子が怯える様子で伊武輝とマナを見ていた。夢の出口ではなかったが、この子が夢の住人かもしれない。
 伊武輝は、手すりを引き寄せて、マナの隣に腰掛けた。
「驚かせてごめんな。おれは伊武輝。この狐はマナって言うんだ。君は?」
「ぼくは……わからない」
「わからないって?」
 伊武輝とマナが一緒に首を傾げた。
 記憶がないのかと思ったが、実はそうではなかった。
「まだ名前をもらってないんだ」
 もらってないって、それじゃあ、生まれてからずっと夢から醒めていないというのか?
「だから、名前を付けて好きに呼んで?」
「そういうわけにもいかない。名前は親から授かるものだ。だから、少年と呼ばせてくれ」
「親って?」
 男の子がきょとんとした。
 そうか、夢から醒めてないっていうことは、生みの親のことを知らないんだな。
「少年の誕生を喜び、少年を育ててくれる人のことだよ」
少し照れくさく言ったが、少年が首を傾げた。
「よくわかんない」
 そうか、と伊武輝はちらりと笑った。
「なあ、ずっとこの塔に住んでいるのか?」
 少年は怯えるように体を震わせた。
「こんなところ住みたくないよ。暗いし、狭いし、早く外に出たいよ。お兄ちゃんたちは外から来たんだよね? だったら出口を教えてよ!」
 少年は立ち上がって、伊武輝の裾をわし摑んで懇願した。
「お、落ち着け。今、降りるから」と、少年に離すよう促した。
 わかった、と少年が手を離すと、伊武輝とマナは、深刻そうな面付きで階段に降り立った。危うく少年に突き落とされるところだった。
「ときどきあいつが現れるんだ。追いかけてくるんだよ」
 伊武輝はしゃがみこみ、震えている少年の顔を下から覗き込んだ。
「あいつって?」
「気配のことだよ」
 すると、少年の体がピタリと静止した。少年は、下に降りる階段の方へ恐る恐る振り向いた。伊武輝もマナも、彼の視線の先を見た。
 ピタ、ピタ、ピタ。うう、うう。
 濡れた素足の足音と、悲痛なうめき声が、たしかに階段を上っていた。しかし、ろうそくの灯りはその姿を捉えることができず、見えない何かが少年たちの元へ近づいてくる。
 ウイルスか? でも、マナはじっと目をこらえているだけで、戦闘態勢にも入らない。
「来ないで!」
 少年は伊武輝とマナを払い除けた。階段を駆け上がり、気配から逃げていった。少年が言っているのは、どうやらあの足音とうめき声のことらしい。
 伊武輝とマナは動かなかった。恐怖心からではない。あの子を少しでも遠ざけるためだ。
 ピタ、ピタ、ピタ。
 足音が大きくなっている。
 ううう、ううう。
 うめき声もすぐそこにいる。
 伊武輝とマナは身構えた。気配はすぐそこに、目の前にいる。
 いつ襲いかかってくるか、どうやって反撃するか。熟考を重ねるが、音が止んでしまい、気配は何もしてこない。
 伊武輝は意を決して声を上げた。
「あなたも迷い込んでしまったのか?」
 伊武輝は杖を指輪に変化して武器をしまいこんだ。相手に敵ではないことを示すためだ。
「それともあの少年に、なにか伝えたいことがあるのか?」
 気配の反応をじっと待った。涼しいはずなのに、伊武輝は体中から汗がびっしょりかいている。
 とても静かだ。気配はまだそこにいるのだろうか。伊武輝はある考えを気配に伝えた。
「もししゃべれないなら、あなたの足音で、はい、いいえで教えてほしい」
 すると、ピタ、と足音が一回だけ聞こえた。どうやら「はい」と言ったのだろう。それと同時に、しゃべれないことも、そして敵意がないこともわかった。
 伊武輝は胸をなでおろした。
「ありがとう。改めて訊きたい。あなたはここに迷い込んでしまったのか?」
 ピタ、ピタ。
 二回足音がしたということは、「いいえ」と言ったのだろう。
「あの少年に伝えたいことがあるのか?」
 ピタ。
「あなたは迷い込んでないって言った。出口を知っているのか?」
 ピタ。
 よし、あとは交渉を受け入れてもらえるかどうかだ。
「実は、少年もおれたちも、迷い込んでしまって出られないんだ。あの少年と会わせるから、出口まで案内してくれないか?」
 しんと静まる。音が返ってこない。悩んでいるのだろうか。出口を知られたら、なにか不都合なことでもあるのだろうか。
 ピタ、ピタ、ピタ。
 しかし気配は、伊武輝の問いかけから振り切るように再び歩き出した。伊武輝とマナを通り越して、階段をゆっくりと上り続けた。
 伊武輝は、駆け上がる足音に慌ただしく振り返った。
「待って、話を聞いてくれ!」
 すると、頭上からゴオオと風音が唸り、蝋燭の明かりが突風でふっと消えてしまった。塔内に暗闇が訪れた。
「マナ?」
 と声をかけると、こんと、隣から狐の鳴き声が聞こえた。
 よかった、おれだけが悪夢に飲み込まれたかと思ってしまった。
 暗闇の中、伊武輝は光る砂粒を出現させると、一瞬呼吸が止まった。黄緑色に照らされた骸骨が、伊武輝の目と鼻の先にあった。空洞になっている目に吸い込まれてしまいそうだ。マナもびっくりして、毛を逆立てて尻尾を丸めていた。
 骸骨はカタカタと骨を鳴らしながら、とても低い声で答えた。
「あの子は目を覚ましてはならない」
「ど、どういうことだよ」
 不気味に浮かび上がる白骨化した顔を見て、思わず悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえた。
「それが、あの子の定め。あの子がそう選んだ」
「そんなわけがない。ここから出たいって言っていたぞ」
「それは偽りの願望であって、本心ではない。出たいと願うが、本心は出たくないのだ」
 骸骨は服越しに、伊武輝の胸を指の骨で指した。
「君はどうだね? 目的があって外から入ってきたのだろうが、悪意は感じない。君は、本当はどうしたいのだ?」
「おれはマナと一緒に出る。それと、もう二度とあの子が苦しむことのないように施す」
 骸骨は乾いた手の骨で顎を摩った。
「そういうことを言っているのではない。君には迷いがあると言っている。おそらく、その狐と何か関係ありそうだが」
 骸骨がマナに一瞥すると、マナは不穏そうに伊武輝を見つめていた。
「迷い? おれに迷いなんてない。最初っからマナと行動すると決めたんだ」
「そうか、まあいい。本人が気づかぬというのなら、あの子と同様、迷い続けるがいい。そして、後悔することになる」
 骸骨は振り返り、暗闇に隠れている階段の先を眺めた。
「私はあの子の本心に従うまま、気配のみで追い続ける。それもあの子が望むこと。だが、好きでこうしているわけではない。いつかは受け入れなければならない。それが、この塔から出る鍵なのだ」
 骸骨がそう言い残すと、またピタピタと階段を上り始めた。
「待て!」
 砂粒を骸骨に追わせようとしたが、そこで光がフッと消えて、骸骨が暗闇に紛れてしまった。
 暗くて身動きが取れないままじっとしていると、ろうそくに火が再び灯った。火明かりで塔内部がぼんやりと映し出す。しかし、あの骸骨の姿はなく、ピタピタという濡れた足音もなかった。
 マナ、と伊武輝が声を掛けると、マナは伊武輝の前に回り込んで伺った。
「おれに迷いなんてなかったよな?」
 マナは首をかしげる。
「だってそうだろ? おれは夢から生まれて、長から魔法を授かった」
 すらすらと話す伊武輝の言葉に、マナの目が見開き、口の隙間から牙が覗く。
「おれは、異変が起きている悪夢を他の夢に侵入させないために、夢の保護を任された。始めてだいぶ経つけど、うまくいっている」
 違う。
 マナは頭をゆっくりと横に振った。
「でも保護だけじゃなくて、マナのサポートとして、一緒に悪夢退治をすることだってある。競争してただろ? おれが五千体倒して、マナが五千一体倒している。なかなかの接戦だよな」
 違う、違う。
 マナは何度も何度も横に振った。悲しげな瞳が潤ってる。
「それから、まあ、今回も同じようなことだ。悪夢退治。少年が夢から醒めないのも、きっと悪夢の仕業だろう。退治したら、今度は夢の内側からの保護。単純作業だ」
 マナはもう首を横に振るのを止めた。そのかわり、耳は元気なく垂れ下がり、涙が顔を伝って流れている。
 こぉーん、こぉーん。
「どうしたんだよ、マナ?」
 悲しみでマナの声が震えていた。伊武輝と初めて会ったこと、助けたこと、噛み付いたこと、怒られたこと、励ましたこと、じゃれ合ったこと。全部忘れ去られたことに、マナは胸を痛めた。
 マナは階段を下った。いつもだったら元気よく尻尾を振り回しているのに、今は階段を引きずるようにして引っ張られている。
「おい、どこにいくんだよ。行くべきところは上だろうが」
 伊武輝はマナに手を伸ばした。すると、マナが振り返ってバウバウと怒号を発した。涙で蒼い目が光り、牙をむき出して威嚇している。今にも噛み付く勢いだ。
 伊武輝は手を引っ込んだ。伊武輝も負けじと怒りをあらわにした。
「どうしたんだよ。お前らしくもない。そんなにおれと一緒にいるのが嫌なら、とっとと消え失せろ! おれは悪夢を倒して、この夢から出るからな」
 伊武輝はずかずかと階段を駆け上がって、少年の後を追った。
 取り残されたマナは、悲痛さを噛み締めながら、仕方なくトボトボと伊武輝の後を追った。


 バクは、二人の様子を夢の世界から伺っていた。
 長が予想した通りの展開になった。まだマナに不審な動きはないけど、それも時間の問題。ただ、醜い機械のせいで、マナの正体が暴けない結果になるかもしれない。
 バクの他に、蛇がしゅるしゅると舌を鳴らしながら、注意深く夢を監視していた。いつどんなことが起きても、伊武輝たちを救い出すための救急隊だ。
「伊武輝はどうだ?」
 エレの声が聞こえると、霧が周囲に立ち込めた。
「ええ、あっという間でした」
 と、バクが丁寧な口調で言葉を返した。
 バクの返答に応えるように、深い霧が晴れていく。どこからともなく現れたエレは、バクの隣に立ち、一緒に夢を伺った。
 バクは続けて言った。
「夢に入る前までは覚えていることのほうが多かった。ですが、今はもう全部忘れてしまっています。夢から生まれ、長から魔法と任務を授かったのだと言い張っています」
 エレは朗らかに笑った。
「それはそれは。忘れるだけでなく、記憶を捏造してしまうか」
 ふうと一息つくと、声を低くした。
「じゃが、これで覚悟を決められるのなら、それに越したことはない。これも夢に飲み込まれぬための術だ。確かに、わしは伊武輝に武器を授けた。だがそれは、己の身を護るためであって、夢を守るためではない。バクが唆したとはいえ、今後も続けるのなら、中途半端に夢を守ってほしくない。自然に任せてそのまま現実の記憶を忘却させればよかったのだが、今回は事情が異なる。今後も夢を守りたいのであれば、もう二度と現実に戻らないという覚悟を示さねばならない」
「ではなぜ、あの時、現実に戻してやらなかったのですか。伊武輝の意向を無視することもできたでしょうに」
 エレは決まり悪そうに咳払いをした。
「意地悪をしても、そのような答えが返ってくると思っていた。だが、伊武輝はここに留まることを選んだ。わしはそれに従っただけだ」
 夢の中で、伊武輝は少年を見つけ出した。エレはその様子を傍観している。
「伊武輝は、いつまで待っても現実に戻る気にはならぬようだ。もう長すぎた。これからは、夢の守護者として、心を入れ替えてもらわないとな」
 バクは伊武輝をかばうように、エレに顔を向いて反抗した。
「だからといって、少し強引な気がします。直接本人に言わないのですか?」
「それはならん。上澄みだけの言葉では、余計に迷いを生じる。だからこそ、心弱き者を変えてしまうほどの夢に送ったのだ。浮き彫りになった本心に従って、行動が取れようになる。それでなおかつ、夢の異常が治れば、もう言うことなしだが」
「それはマナも同様で?」
 エレは、伊武輝の後をくよくよと追いかけるマナを注視した。
「お主が言ったことが真なら、ここで明らかになるだろう。マナの本心も明らかになる。しかし、案ずるな。違ったとしても、お主を責めはしない。お主はこの世界を心配して、あらゆる可能性を予想したに過ぎないのだからな」
「恐れ入ります。ところで、長はどう思いますか? マナは人間でしょうか?」
 エレは夢から視線を外して、思い悩むように鼻先をきゅっと丸めた。そして、丸めた鼻をゆっくりと伸ばした後、バクと向き合った。
「人間が作り出したものは、人間だけでなく、世界をも支配する。マナが人間で、そして支配を目論んでいるとしたら、機会はいくらでもあった。わしの首を取り、無数の夢を掌握するのは、あのちからを持ったマナであれば、容易なこと。だが、マナはそうはしなかった。悪夢を利用せず、撃退させた」
 ふぉふぉふぉ、とエレは朗らかに笑うと、穏やかな顔つきになった。
「今はマナを信じようではないか。生かすも殺すも、生かされるも殺されるも、全てわしら次第だ。疑うのは容易く、信ずるのは難い。だが、自分を信ずる相手を信ずるのはまだ優しい。マナもまた、信じておろう。伊武輝が再び元に戻るのを」
「たとえ元に戻ったとしても、夢の世界に居続けたら……」
「忘却する。そのとおりだ。だが、お主で有ろう事か、見落としているようだ」
 バクは首を傾げた。
「見落とし、ですか?」
 エレはゆったりと頷き、再び夢を眺めた。
「忘れてしまうのは、現実の記憶のみだ。夢の世界に来て以来のことは忘れない。しかし心配なのは、マナのちからだ」
 心配そうに目を伏せるエレを見て、バクは小難しい顔になった。
「伊武輝が現れる前は、存分にちからを発揮した。悪夢にやられたこともない。お主も見ただろう——あの無慈悲なちからを。だが、この前の夢で退治したのは、夢の住人であって、マナではない」
「まさか、もうそんな時期ですか?」
 何かに気づいたバクは、息を呑んだ。
「おそらく。もっと先だと思ったが、想像以上に早い。マナのちからが、衰え始めている」
「原因はなんでしょうか?」
 エレは象牙をしきりにいじった。 
「わからん。しかし妙だ。今回、マナは伊武輝に記憶がなくなってしまったことを知り、悲痛さを隠しきれなかった。バクは見たことがあるか? マナの涙を」
「いいえ、見たことありませんが、それとなにか関係があるのですか?」
「衰えた原因、マナの弱点、それがわかるやもしれぬ——今はまだ話せないがな」
 バクは気になったが、これ以上深く追及すると失礼に値すると思い、これ以上聞かなかった。
「もし伊武輝が星になってしまうと、マナはどうなるのでしょう」
 話が切り替わると、エレは目を伏せた。
「あの様子だと、マナが危うくなる。だから互いに、助け合わなければならない。伊武輝とマナ、夢は彼らに試練を課しているのだ。試練を乗り越えなければ、悪夢に敵わない」
 重々しい言葉を聞いて、バクは少し思いつめるように俯いた。
「長はいったい、なにが望みですか?」
 バクは夢を見た。あともう少しで、マナが伊武輝のところにたどり着く。
「あなたが夢の世界を作ったと、みんなが言っています。現実とは違い、幻を見せる世界。幻を見ることにいったい、なんの意味があるのでしょう? 現実だけでは事足りないのでしょうか?」
 エレは目を細め、微笑を浮かべた。
「現実は、覚えることより忘れることのほうが多い。しかし、実際は思い出せないだけに過ぎない。記憶はちゃんとある。大事なことを忘れぬよう、記憶の底からすくい取り、夢として形作っている。夢がなければ、その人や動物は路頭に迷う——たとえその夢が良くとも、悪くともな。夢が一つの指針となるのだ」
 エレはバクに視線を向けた。バクが、少し不安げに伊武輝とマナを目で追いかけている。バクのその顔を見て安心すると、再び夢と向かい合った。
「かつて、わしらも夢を見ていた。それがいつしか、夢を守る立場になった。夢の世界が崩壊することが回避しようがなければ、その先になにが起こるか、自ら考えなければならない。私は賭けているのだ。伊武輝やマナ、そしてバクといった、お主たち守護者に」
 バクはピクピクと耳を動かしている。そして、何かを噛み締めるように、突き出ている鼻をギュッと丸めた。


 階段を上るマナの足取りが重く、尻尾が階段の汚れで少し黒くなっていた。ハキハキとしている普段のマナとは違い、十年も老けた老狐のようだ。こーん、こーんと小さくないている。
 コツ、コツと、階段を下る靴の音が聞こえる。マナは顔を見上げると、そこには、伊武輝と少年が立っていた。伊武輝はしゃがんでマナの耳元で囁いた。
「さっきのことは水に流すから、一緒に夢を出よう。な?」
 元に戻っていない伊武輝だと知ると、マナはこんと、打ちひしがれる鳴き声をした。
 伊武輝は、何食わぬ顔をしてすくっと立ち上がり、少年に声をかけた。
「な? もう気配はないだろう?」
「そうだけど、また来るよ」
 少年が手を揉みながらそう言った。伊武輝は少年の頭にぽんと手を乗せた。
「気配が言っていた——少年に何か伝えたいことがあるって」
 少年はきょとんとした。
「伝えたいことって、なにを?」
「それはわからない。気配が言うには、少年が望んでいるから、気配として存在し続けていて、しゃべることができないんだってさ。だけど、暗闇の中なら、話すことができた」
 少年は自分の両腕を擦った。
「いやだ。暗闇は、怖くて嫌だ」
「おれも怖かった。だけど、何もしてこない。おれたちがいるから、また気配を感じたら、今度は踏みとどまろう?」
「守ってくれる?」
「ああ、マナと一緒にな」
 マナは仕方なしにうなずいた。少年は心配そうにマナを見つめた。
「ねえ、大丈夫? えっと、マナだっけ。元気がないみたいだけど」
 少年がマナの頭を撫でた。しかし、マナは暗い表情のまま俯きっぱなしだ。
「大丈夫だよ。きっと」
 伊武輝がぶっきらぼうに言うと、周りを見渡した。
 気配を感じない。きっとどこかで立ち止まって気配を消している。おれたちの様子を伺っているんだ。
 伊武輝は手すりに掴まって、大きく息を吸った。
「出てこい! 少年に会わせてやる!」
 伊武輝の大声が塔内に響き渡る。
 気配は姿を消した後、少年に向かって歩き続けていた。そんな遠くまで歩いてないはず。気配と出くわしたところと、逃げた少年が立ち止まったところの間に、気配が潜んでいるに違いない。それに、気配は少年を追い続けている。待てば自ずと遭遇できる。
 ピタ。
 少年のすぐ後ろで、濡れた足音がはっきりと聞こえた。気配は、伊武輝たちの背後で話をずっと聞いていたのだ。
 少年の体がわなわなと震え始めた。歯がガチガチと鳴っている。声を発しようとするが、口や喉が硬直しているのか、「あ、あ、あ」としか声が出なかった。
 伊武輝は手すりから降り、少年の隣に立った。
「大丈夫だ。怖くない」
 少年はこくりとうなずいた。伊武輝は少しでも恐怖を和らげようと、少年の両肩に手を置いた。
 伊武輝たちは、後ろにいる気配に振り向いた。
「おれたちは、あなたの言いたいことを聞く。だから、話してくれないだろうか」
 ピタ、ピタ。
 気配が拒絶している。
「なぜだ? 何か不服なのか?」
 ピタ。
「不服なら、直接言葉で語れ!」
 伊武輝が声を張り上げると、気配のうなり声が聞こえた。突風が下から巻き上げ、ろうそくの火が消えた。視界が暗闇に染まる。伊武輝の手の中で、少年の肩が、高まる恐怖でより一層震えている。
「不服に決まっている。お前たちはできると、ただ思い込んでいるに過ぎない」
 暗闇からカタカタと骨が鳴る。気配が骸骨となって現れた。少年のうめき声がより一層大きくなった。
「できないことをできると言い、無理やりその子を鼓舞しようとした。だが、本心は変わらない。ここから出たくないのだ。その証拠に、その子の抱える恐怖が掻き立てられている」
「そ、そ、そんなことない」
 少年が声を振り絞った。
「しかし、お前は奇妙だ」と、伊武輝に声が向けられた。「ついさっきの迷いがない。打って変わって、その狐は打ちひしがれている」
「おれたちのことはどうでもいい。この子に言いたいことがあるんだろう? 話してくれないか?」
「お、お、お願いします」
 伊武輝の手から少年の肩が離れた。頭を下げてお辞儀しているのだろうか。
「覚悟はいいか?」
 骸骨が少年に問うと、少年は「え?」と発した。
「本心がわからぬお前では、痛みを伴うぞ。お前がお前でなくなる。ときに自分を滅ぼすかもしれない。それでも後悔しないかと聞いている。私には自分のゆらぎのない本心がある。滅びようとも構わない覚悟がある。もう一度言う。お前にはそのような覚悟があるのか?」
 暗闇の中で、しばし沈黙が訪れた。少年はその沈黙を打ち破るように、意を決して声を上げた。
「はい」
「わかった。少し長話になる。階段に腰掛けなさい」
 伊武輝は、手探りしながら階段に腰掛けた。すると、膝の上に何かが乗っかってきた。温もりが膝やお腹に伝わってくる。なんだろうと弄ると、そこには心地いい毛並みがあった。どうやらマナが座り込んでいるようだ。一方、隣から少年が身を寄せて、伊武輝の傍から離れなかった。
 骸骨は、伊武輝たちが腰掛けたのを察知すると、語り始めた。
「私はある日、恋に落ちた。相手はとても親切で、優しい人だった。その人の暖かさで、私は幸せというものを知ることができた。だけど同時に、恐ろしくなった。この幸せな時間が壊れてしまわないかと、不安でいっぱいだった。やがて、その人と契を結び、私の中に新しい命が宿った。私は幸せすぎて、より怖くなった。何度も言った。『こんな幸せでいいの』と。何度も言われた。『いいんだ』と。お腹が膨らみ、中から蹴られる度に、誕生が待ち遠しくてしょうがなかった。我が子の顔を早く見たかった。そしてついに、赤ん坊が生まれた」
 骸骨は一瞬間を置いた。
「だけど幸せは、儚くてあっという間に砕け散った。子はすぐに幽閉され、夫と私は殺された。誰の仕業だったかはどうでもよかった。ただ、あの子の将来を案じていた。笑い合って平凡な日々を過ごしてほしい。それだけが願いだった。だけどその子は、再び目が覚めることはなかった。何年も閉じ込められている——自力で脱することもできないまま、ずっと」
 少年の息遣いが隣から聞こえる。だんだん呼吸が荒くなっている気がする。
「いえ、きっと、その子は知りたくはなかった。もう両親はいないんだって」
「やめて……」
 隣で少年が一人つぶやいた。
「だから、その子は眠り続けることを選んだ。私に会える唯一の場所だから」
「言わないで!」
 緊張が張り詰める。少年をさらに追い込むように、骸骨がためらいがちにゆっくりと続けて言った。
「私は、あなたの、母親よ」
「やめて!」
 鼓膜がキュッと引き締まるほど、少年の声が強く響いた。隣から伝わっていた温もりが、突然消えた。
「だったら見せてよ! ぼくの母さんなんでしょ!」
 骸骨はしばし間を置いた。躊躇しているのだろうか。
「いいよ」
 骸骨がそっと言うと、伊武輝は砂粒を出現させた。ほのかに照らされ、周囲の様子を伺うことができた。
膝の上でマナが丸くなっている。隣にいたはずの少年が立ち上がり、そして、少年を見下ろしている骸骨が立っていた。
 少年は絶叫を上げ、骸骨の胸をたやすく押し倒した。骸骨はばらばらになり、カランカランと乾いた音を鳴らしながら、階段を転がり落ちて暗闇に消えた。
「いくらなんでもやりすぎじゃないか?」
 伊武輝は立ち上がろうとした。だが、マナが膝の上にべったりくっついているので、すぐに立ち上がれなかった。伊武輝の膝に、気持ち良さそうに顔を押し付けている。
「降りてくれ、マナ」
 伊武輝が急に立ち上がろうとするので、マナは驚いて膝から転がり落ちるように降りた。
「痛いじゃない」
 骸骨の声が木霊す。伊武輝とマナはやっと立ち上がり、暗闇に消えた骸骨を、少年と一緒に見下ろした。
 少年は腹の底からありったけの怒りをぶつけた。
「お前が母さんなわけがない! 母さんは生きてる!」
「お願い。受け入れて。もういないの。母さんは、あなたの胸の内にしか会えない」
 骸骨は悲痛な声を上げたが、少年は容赦なく責めた。
「返して! 母さんを、返して!」
 塔が震えている。小石の小さな欠片が、壁や天井からぱらぱらと落ちる。マナは後ろに下がって二人から離れると、自ら狐火を灯した。砂粒の明かりよりずっと明るく、塔内全体が目視できる。
 伊武輝は隣にいる少年に振り向いた。
 すると、少年の周りには黒いモヤが渦巻いていた。悪心のある悪夢の前兆だ。このままでは、少年は悪夢に囚われてしまう。
 伊武輝はなりふり構わず、しゃがみこんで少年を抱きしめた。
「怒っているんだろ? 悲しいんだろ? 悔しいんだろ? だけどな、お前のせいじゃない」
「何すんだよ。やめて、やめてよ!」
 黒いモヤが伊武輝を取り囲み、彼の体に少しずつ入っていく。マナは離れた場所で攻め喘いでいた。
 何してんだ、マナ。なんで咆哮で追っ払わない?
 伊武輝の額には、脂汗がどっと吹き出ていた。こうなったら、少年に気づかせるしかない。
「きっと母親も、こうやって抱きしめたかったんだ。お前の誕生を喜んでいたんだ。母親も、少年と同じ気持ちなんだよ」
「そんなわけない! ぼくがいなくてせいせいしてるんだ!」
「そうだとしたら、母親は会いに来ない。少年のことが大好きなんだ」
 少年は、伊武輝の肩を食い込むように強く握りしめ、体を引き離した。高まる怒りのあまり、ふーふーと息を漏らしている。少年の中に潜む悪魔が目覚めたかのように、眉間の皺が深く切り込まれ、伊武輝の目を憎たらしく睨みつけている。少年の手から黒いモヤが伊武輝を包み込んでいく。
 幼い子供なのに、どこからそんなちからがわいてくるんだ!
「母さん、なんて、大っ嫌い!」
 少年のその言葉に、マナの目が血走った。狐火を宙に漂わせたまま、少年の横から、彼の後頭部を尻尾で強く叩いた。少年のおでこが、伊武輝のおでこにゴツンとぶつかり、二人とも痛そうに抑えた。
 少年は手を離し、今度はマナを睨みつけた。
「痛い! 何するんだよ、狐!」
「いい加減にしろ!」
 伊武輝が怒鳴り散らすと、少年の体がビクっと震わした。
「この塔が、お前を閉じ込めている理由がよくわかった。お前は事実を受け入れられないばかりか、痛みを理解していないんだ。母親を突き飛ばし、おれの肩を握りつぶした。それだけじゃない。マナも傷ついて怒っているぞ」
「ぼくは狐に何もやっていない!」
 伊武輝は首を横に振った。
「いいや、言葉の暴力だ」
「言葉の暴力?」
 きょとんとした少年に、伊武輝は、そうだと言った。
「少年が喋ったことをよく思い出してみろ」
 そう言われた少年は、眉間を指でつまんで俯いた。そして、そっとつぶやいた。
「大っ嫌い?」
 伊武輝が少年の肩に手を置くと、少年は彼の顔を戸惑いがちにじっと見た。
「いいか。心ない言葉は、相手を傷つける刃となる。母さんに同じことを言われてみろ。悲しくなるだろ? その悲しみが落ち着くまで、長い時間が必要になる。全部聞いているぞ——君の母さんが、傷ついて悲しんでいる」
 伊武輝がそう言うと、少年は顔を伏せた。肩が小刻みに震えていたので、どうしたと思いながら下から覗き込むと、少年は何かを堪えるように、固く結んだ唇をプルプルと震えだしていた。
 黒いモヤを漂わせながら、少年が階段を急いで駆け下りていった。伊武輝とマナは顔を見合わせて頷き、後に続く。狐火のおかげで塔内は明るいままだが、降りても降りても、骸骨は見当たらない。
 少年が立ち止まり、誰もいない虚空に向けて涙声で言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。謝るから、戻ってきて。お願い。一人は寂しいよ。一緒にいてくれなきゃ、嫌だよ。とても怖いよ……!」
 うっうっと嗚咽を漏らしながら、少年が涙を流していた。不思議なことに、涙が滴り落ちると、周りの黒いモヤが薄くなって消えていく。
 伊武輝とマナは、少年の後ろ姿を見守った。
 これはどういうことだろうか。母の想う気持ちが、モヤを消しているのだろうか。
「ごめんね。でも、また会おう。苦しいときが来たら、また会えるようにしよう」
 少年の前から、骸骨——いや、母親の優しい声が聞こえる。
「きっと?」
「うん、きっとよ」
 すると、何かに吸い寄られるように、少年の体が丸まって宙に浮いた。まるで、誰かに抱擁されているかのようだった。
 少年は手の甲で涙を拭って、母親に聞いた。
「ねえ、母さん。ぼくの名前は?」
「ゆうと。やさしい人って言う意味よ」
 ぷかぷかと浮きながら、ゆうとは目をつむって、そのまま眠りに入ってしまった。とても安らかな顔をしている。ようやく心を許せる相手が見つけて、ほっとしたのだろう。
 幸い、悪夢は生まれなかった。もうじき、ゆうとは長い眠りから醒め、現実に戻ることだろう。そしてこの夢も閉じられる。伊武輝もマナも長居はできない。
「ありがとう」
 姿の見えないゆうとの母親が、子を起こさないように声を潜めて言った。
「出口はここよ」
 石壁が淡い光を発して塔内が一気に明るくなった。おかげで、塔の最上部と最下部が見える。とは言っても、一人分のこじんまりとした高さの塔だった。夢が何か細工をして、無限に続く階段のように錯覚させたのだろう。
 伊武輝とマナの傍にある石壁から、ガラガラと石が崩れ落ち、木製扉が浮き出た。
 伊武輝は、足元にいるマナをちらりと見た。狐火を消して、その場で佇んでいる。依然として、元気がないように耳と尻尾が垂れ下がり、打ちひしがれている。
 いったいどうしたんだ。おれがゆうとのように、何か傷つけるようなことを言ったか? だけど、検討もつかない。
 伊武輝は重厚な木製扉を開き、気が塞がっているマナと一緒に、夢を後にした。


「よく、無事に戻ってこられた」
 夢の前で待ち構えていたのは、エレとバクだった。救急隊として派遣された蛇は、すでに解散して、その場にはいなかった。
 伊武輝は夢から出るやいなや、機敏にエレの前でひざまずいた。マナも伊武輝の隣で姿勢を低くした。
「長、任務を達成できませんでした」
 エレは、ハキハキとした口調で言う伊武輝に合わせて答えた。
「そのようだな。悪夢こそなかったものの、夢の保護という命は達成できなかった」
 エレはにこりと微笑んだ。
「だが、仕方ないであろう。長い間眠りから醒めていない者の夢に、無闇に手出しするのは危険だ。わしが浅はかだった」
「とんでもないです」
「マナと協力し、夢から醒ませたのは見事だった。よって、伊武輝に咎めはない。……疲れたであろう。もう休んで良い」
 伊武輝とマナは立ち上がって深々とお辞儀をした。伊武輝たちがその場から去ろうとすると、エレは何かを思い出して、彼を呼び止めた。
「ああ、そうだ。伊武輝に訊きたいことがある」
「なんでしょう」
 伊武輝はエレと向かい合い、姿勢を正した。マナが立ち止まり、会話のやり取りを見届けている。
「もし今、現実に行けるとしたら、行きたいか?」
 それを聞いたマナは、伊武輝の様子を伺った。その蒼い目は、何かを切に願っているようだった。
 だが伊武輝は、間を置かずに率直に答えた。
「いいえ、行きません。一生ここで、夢を守り続けます」
 マナはその言葉を聞いて、悲しげに目を伏せた。そして小さく、しかし悲しげに、こんと鳴いた。
 かたやエレは、ご満悦そうにニッコリと笑った。
「そうか。愚問だったな。もう行って良い」
 では、と伊武輝が立ち去ると、マナは伊武輝とは反対方向に足を歩ませた。
「もはや別人です。伊武輝も、マナも」
 バクが立ち去る二人を見届けながら続けて言った。
「伊武輝は、偽装された記憶が埋め込まれ、マナはより一層ちからが出せなくなった。きっと、激変した伊武輝にうろたえているのでしょう。それでもマナは、とうとう本心を見せませんでしたね」
 エレはうーんと唸った。
「そのことなんだがな、バク。わしの懸念の通りのことが起きてしまった」
「マナのちからのことですね?」
「それもあるが、マナの本心がおおよそわかった」
 バクの口がぽかーんと開き、さらに目がキョトンとなっていた。
「そんな素振りは、まったくなかったじゃないですか」
「いいや、あった」エレはため息を吐いた。「マナは、伊武輝が変わってしまったことに苦痛を覚えた。それが手がかりとなった。マナの本心とは、すなわち、伊武輝を現実に戻すことだ」
「なんですって!?」
 バクは、二つの前足を頬に添えて驚いたが、すぐに口を曲げて唸った。
「でも、それだけでわかるのですか?」
「ほかにもある。マナの本心が偽装された記憶を作り、別人格の伊武輝を生み出した。マナの本心を浮き彫りにするには、必要なことだったのだ」
「それはつまり、夢の世界に留まりたいという伊武輝の本心と、現実に戻したいというマナの本心が、ぶつかり合ったのですか?」
「歪ではあったがな。だが、最終的に伊武輝が勝った。マナが人間か否か、それはわからない。だが、夢の世界に対する支配欲が、微塵もないことはわかった」
 バクはムッとさせた。
「もし、ちからが本当はあって、本心を見せずに隠しているとしたらどうでしょう?」
 エレは、少し小馬鹿にするように微笑を浮かべた。
「今までのことが演技だと? わしはそうは思わない。マナの情の深さは本物だ」
 バクは俯いて、怪訝そうな顔をエレから隠した。気がついていないエレは、バクに背を向けて語り続けた。
「どんな結果であれ、受け入れなければならない。マナが弱っている以上、今後支障をきたす。バク、お前の仕事が増えるぞ」
 顔が曇っていたバクは、パアッと明るくなり、嬉しそうに鼻をピクピクと動いた。
「し、しかしそれは、長としては望ましくないのでは?」
 声を上ずってニヤニヤが止まらないバクに、エレが答えた。
「さあ、どうだろうか」

再会

 ゆうとの夢から出て以来、マナの様子が激変した。
 攻撃よりも防衛が多くなり、マナは怪我しやすくなった。最初は悪夢が強いと思ったが、今までのマナと比べて、攻撃が段違いに弱い。
 夢が悪夢に飲み込まれることが多くなり、バクの出番も多くなった。バクはとても嬉しそうにストローを差して、悪夢を吸って食べていた。
「この味、たまらんわあ。ほっぺたが落ちそうだあ」
 バクが悪夢を吸い取るとき、伊武輝(いぶき)は、星にならないかとヒヤヒヤした。悪夢だけを正確に吸い取ることは難しく、夢の住人や夢そのものが混じってしまうからだ。
 結局、バクが吸い上げた夢の半数は星になり、もう半数は夢にとどまった。
 星になったところを見る度、伊武輝は非力を痛感して、力強く拳を握った。マナも責任を感じているからなのか、前足で頭をかきむしったり、その場でぐるぐる駆け回ったりした。
そんなマナを励ましたくて声をかけようとするが、マナは伊武輝に近寄ろうとせず、暇さえあればいつもどこかに出かけている。
「毎回、毎回、どこに行ってるんだ?」
 必要とあらば協力したい。だけどどうしても、おれを避けているようにしか思えない。おれがいったい何をしたのだと言うんだ。何度考えても思い当たらない。
 マナの絶不調の理由を、伊武輝はいくつか考察した。一つは、何らかの形で伊武輝がマナのちからを吸い取っていること、二つは夢にちからが吸い取られていること、三つはマナが衰えたこと。
 リアに相談すると、そんなことはないと言われた。
「守護者同士でちからを分配し合うことはできるが、無意識に、なんてことはできない」
「じゃあ、夢がちからを吸い取っているのか?」
「少し違うな。夢は、夢の住人の記憶や欲を元に作られている。それはつまり、夢の住人からちからを分けてもらっているとも言ってもいい。夢が守護者のちからを吸い取ることはまれにあるが、奪われたちからはちゃんと回復する」
 リアは、湿っぽい表情で腕を組んだ。
「最後の、マナが衰えているっていうのは本当かもしれない」
 小さな腕を動かして、リアはある方向に指差した。伊武輝はその指先を目で追った。そこには、静かに横たわっている熊がいた。体は人間よりも大きいが、冬眠しているかのように体を小さく丸めていた。
「この世界では、寿命で死ぬことはないが、強くなったり弱くなったりする。その原理はおらたちにもわからないが、長が言うには、体を休めてちからを溜めているんだそうだ。おそらくマナも、休むべきときが来たのかもしれない」
「リアも弱くなったときがあるのか?」
「いいや、仕事が無い日にちゃんと休んでるから、弱まることはない」
 だったらマナも同じじゃないのか。悪夢討伐以外はすることがなく、体を休めている。衰えているとは考えにくい。
 伊武輝はどうも腑に落ちず、その後、こっそりとゆうとの夢を覗いたが、結局原因は見つからなかった。
 やっぱり、摂理の通りのことが起きているだけなのだろうか。
 何もわからなかったので、今度は直接マナに訊くことにした。魔法で探し当てた時、マナは夢の世界を徘徊するようにうろうろしていた。いつも特定の場所に行っているわけではなさそうだ。
「なあ、どうしたんだ、マナ。最近、ちからが出せなくなったんじゃないか?」
 逆撫でしないように話しかけたつもりだったが、マナの目つきがキッと鋭くなり、伊武輝に向かってわんわんと吠え始めた。本人は自覚し、思い悩んでいるようだ。相当苛ついている。
「気に触ったか? でも事実じゃないか。なあ、おれと一緒に考えないか? 原因とか、対策とか」
 だが、マナの怒りはより一層拍車を掛け、伊武輝に体当りした。伊武輝の胸にどんと鈍い音がぶつかり、そのまま倒れて尻もちをついた。マナは馬乗りになって、伊武輝の顔の前でぐるると唸り声を鳴らした。目を釣り上げ、獣じみた息が顔に降りかかる。
「なんでそんなに怒るんだ。おれが何したっていうんだ。教えてくれ!」
 マナは伊武輝の体から降り、スタスタと歩いた。すると、一つの夢の前で立ち止まって振り返った。伊武輝は、解せない顔で体を起こした。
「決闘の申し込みか? 確かに夢の世界よりも、夢の中だったら周りに与える被害は少ない。だけど、長が許さない。夢の住人に危害を加える。それにマナらしくもない」
 マナは伊武輝の言葉を無視して、夢の中に飛び込んだ。
「問答無用、か」
 いったいどうしちまったんだよ、マナ。
 伊武輝は天を仰いて深いため息を吐いた後、仕方なしに夢にそっと入った。
「ここは……」
 その夢には大学があり、赤いレンガ造りの校舎が建っていた。正門前には広場があり、一本の樹木の他に、芝生が広がっている。学生らしき若者たちが、ちらほら歩いていた。
 伊武輝は、天から差し込む太陽の光りを浴びながら、広場の真ん中にある新緑の桜のところまで近づいた。
 ここに来たことはないはずだ。でも、はっきりとした感覚ではないが、郷愁を感じるのはなんでだ。
 呆然と桜の葉を眺める伊武輝の元に、一人の人間が近づく。伊武輝は気配を察知し、杖を取り出して背後を振り返った。
 そこにいたのは、伊武輝の友人の篠野(しのの)だった。目をまん丸にして、伊武輝が手にしている杖と、伊武輝の足のつま先から頭てっぺんまでまんべんなく見ている。
 もしかして、と篠野は呟くと、自信なさげに首を傾げた。
「なあ、君は弘坂伊武輝、だよね?」
「そうだが?」
 伊武輝が難なく答えると、篠野は笑顔いっぱいで、彼を抱きしめようとした。しかし、伊武輝は篠野の胸をどんと押して突き放した。
 篠野は咳き込んで、痛そうに胸を抑えた。
「まったく。顔も体も違うけど、やっぱり弘坂だ。中身は相変わらず暴力を振るってくる」
 よかった、と篠野は安堵を漏らした。
「お前は誰だ?」
 真剣な顔をした伊武輝を見て、篠野は苦笑した。
「その上、似合わないジョークまで噛ましてきた」
 しかし、真顔で何も言わない伊武輝を前に、篠野の顔が段々青ざめた。ゆっくりと立ち上がり、伊武輝に問いかけた。
「冗談、だよな? ぼくのこともわからない?」
「ああ。ここがどこなのかもわからない」
 キョロキョロしている伊武輝を見て、篠野は手で口を抑えて、ぶつぶつ独り言を言い始めた。
「記憶障害? だけど無意識に仮想世界に来れるようなものなのか? いや、ナノボットが記憶を保存しているのであれば可能か? ナノボットが誘導するのは容易なこと。そして何よりも気にかかるのは、今武器を出したことだ。でも管理者は気づいていない?」
 すらすらと一人言を言う篠野に、伊武輝は首を傾げて手を腰に当てた。
「ところで、ここで狐を見なかったか? 体が真っ白で、目が蒼いんだ」
 篠野はハッとした。
「え、狐? 見かけてないけど。いや、それより、どうしたんだよ。心配したんだぞ」
 腕を軽く広げて早口で話す篠野に、伊武輝は眉を吊り上げた。
「なんの話か、わからないな」
「これから詳しく話すよ。そうだな、まずは武器をしまって。木陰に腰を下ろそうよ」
 篠野は広場にある桜の木陰に座り、桜の幹に体を預けた。
 敵意はなさそうだが、夢の住人とあんまり親密にはなってはいけない。適当に受け流して、マナの行方を聞こう。
 伊武輝は、杖を指輪に変化して指にはめると、篠野から少し離れた木陰に入って、腰を下ろした。
「なんだか変な感じ。見た目もそうだけど、中身は別人に見える。ぼくは篠野。君と同じ学校に通ってた——数ヶ月前までね」
「通ってた?」
「そうだよ。君はその頃、ウイルスの感染疑惑があった。君は念の為、検査に行ったと思うんだよね。でも君は、学校閉鎖が解除されても、学校に来なかった。なんで来なかったのかはニュースで知った。君の意識が失ってしまったんだ。ウイルスの仕業なのか、意識がインターネットの中で迷い込んだのか、それはわからない。君の体は大学病院に移されていて、そこで注意深く監視されているって言ってた」
 一気にすらすらと話す篠野の話を聞いて、伊武輝は鼻で笑った。
「ウイルスだの、仮想世界だの。よくわからない単語だな。でもそのことを除いたら、よくできている話だと思うぞ」
 信じてもらえない篠野は顔をしかめた。
「それで、君の方は?」
「おれは……」と、夢の世界のことを話しそうになり、慌てて軌道修正した。「おれは、そう、放浪の旅をしている」
 そこで話が止まる伊武輝に、篠野は重ねて訊いた。
「放浪の旅って、ゲームの話?」
「ゲーム?」と伊武輝はうろたえた。「えっと……いろんな世界に行って、敵を倒している」
 苦し紛れに思いついたことだが、篠野は納得したようだ。
「そうか、現実も仮想世界もそう変わらないから、ゲームなのかも気づかないのか」
 記憶障害の影響かと、篠野は一人で納得したようにつぶやいた。
「とにかく、君が無事でよかった。ここに来たということは、きっと気持ちのどこかでは、戻りたいと思っているのかもね」
「戻りたい? おれはただ狐を追ってきただけだって」
「もしかしてその狐って、君の言う敵だったりする?」
 篠野の目が不安げになった。ここで争われるのが嫌なのだろう。伊武輝はたしなめた。
「いや、そうじゃない。おれの連れだ。連れ戻しに来ただけだ」
 篠野は胸をなでおろした。
「そうか。よかった、安心した。たとえ君が偶然ここに来たとしても、やっぱり意味があるんだよ。君は登校すると、必ずこの木の前にぼうっと立っていた。今日もそうだった。記憶になくとも、無意識に覚えているんだよ」
「そんなわけないだろう」
 おれは確かに夢から生まれた。夢の住人ではない。
「そこまで言うなら、学校巡りでもして、思い出させてあげるよ」
 伊武輝は口調を強くして言い返した。
「おれはだな、狐を探すために来ただけだ。思い出すも何も、そんな記憶なんてないんだ」
「寂しいこと言うなよ。全部本当のことなんだ」
 篠野の目が物憂げな目つきになった。
「思い出したくないと言うなら、無理強いはしない。君の自由だからね。でも、これだけは言っておく。自分のことに関心がなければ、君は絶対に後悔する。なぜ記憶がないのか、なぜ見知らぬ人がこんなにもなって諭しているのか、少しは疑問を持つべきだ。手遅れになる前に気づくべきだ。君とは喧嘩をしたことはあったけど、本当はいい奴だって知ってる。一緒に過ごした時間を忘れられるのは、案外辛いものだよ」
 篠野は哀しげな目を伏せて、残念そうに首を振った。
伊武輝の目が少し泳いだ。
 ここは夢だ。人の夢に、夢から生まれたおれのことなんか、覚えているはずがない。もしかしたら、夢がおれに幻を見せて、試しているのかもしれない。
 他方、もし過去に、この男と会ったことがあるとしたら? 本当に記憶が欠落していて、大事なことを忘れてしまっていたとしたら? もしかしたらそれは、マナ以上に大事なことなのか?
 思い出せない以上、その真意はわからない。おれは、夢の守護者として夢を守らねばならない。だけど、篠野が嘘をついているようにも思えない。マナを探さねばならないが、ここは寄り道するとしよう。長や守護者には悪いが、ちょっとばかり掟を破る。だけど、大事なことを思い出したとしても、おれは守護者として全うする。
 伊武輝は、木漏れ日を受けている手のひらを眺めながら、深く鼻息を吐いた。
「思い出せたとしても、選ぶのはおれだ。案内してくれ」
 そう言ってゆっくりと立ち上がると、篠野の顔がぱあっと明るくなった。
「ああ、それでいい。思い出してくれ」
 篠野がばっと立ち上がると、興奮気味に足早に校舎に向かった。
 真剣な面付きで、伊武輝は篠野と一緒に校内を見て回った。教室、会議室、実験室、研究室、コンピューター室、スポーツ施設、食堂と、巡りに巡った。
 篠野は立ち入る度に熱心に語った。どういうところなのか、どういう目的で使われるのか、伊武輝がどんなことをしていたのか、どんなことを思っていたのか、事細やかに話してくれた。
 伊武輝は彼の話を聞く度に失笑した。実験室では、間違えて部品を廃棄して恥をかいてしまった。会議室では、発表するときに、自分の足に絡んで派手に転んでしまった。コンピュータ室では、先生が無能なばかりに、伊武輝が協力して生徒に教えて回っていた。篠野は、いろんなことを覚えていた。
 しかし、同時に恐れていた。聞けば聞くほど、夢の世界での出来事や、マナとの出会いは、全て偽りだったのかと。戻ればならないのは夢ではなく、現実ではないのかと。
 篠野の言っていることが本当ならば、おれは夢の住人だということになる。もし、そうだとしたら、今までのことは、一体なんだったのだろう。
 篠野と一緒に歩みを進めるほど、伊武輝の足取りが重くなった。それを見兼ねた篠野は、次の場所まで続く廊下の途中で、立ち止まった。
「思い出すのが、怖い?」
「え?」
 篠野は壁に寄りかかって、伊武輝に対して体を横に向けた。
「気持ちはよくわかる。ぼくもそうだった。現実を受け止められるほど強くはない。幻であってほしいと、何度願ったことか。でも、これが現実なんだ。それに、現実は人の見る世界によって異なる。ぼくと君の見ている現実は違う」
 何のことなのかわからず、伊武輝は次の言葉を待った。篠野はふうと一息吐いた。
「ぼくは植物状態なんだ。現実では、ぼくの体が動けない。呼吸器や心臓ポンプがなければ死んでしまう。だから、仮想世界でやんちゃなことをしても許してもらえた」
 君は覚えてないんだろうけど、と篠野が言っても、伊武輝はピンと来ないまま、話を聞き続けた。
「ナノボットと仮想世界がなけば、こんな生きがいを味わうことも、君に会うこともなかった。医療が大幅に進歩したとは言っても、完治できるのは限られている。ぼくには親はいるけど、それも作られた世界でしか会えない。本当の自分の顔の写真も見せてくれたけど、果たして本物なのか疑わしい。目の前にいる両親も、本当の両親なのか、疑ってしまう。ぼくはいわゆるアバターで、本物のぼくを知らない。どんな顔で、体で、どんな性格なのか」
「性格はわかるだろ?」
 伊武輝が話を挟むと、篠野は静かに首を振った。
「それは違う。今の自分は、この偽りの容姿のおかげで振る舞えるんだ。容姿も変われば、性格も変わる。醜い自分だとわかったら、性格も暗くなりやすい。でもね、人が良いと言われても、孤独だった。苦しかった。仮想世界にいても、その話のほとんどは現実の出来事だ。みんなと交わることは難しかった」
 篠野は自分の手のひらを見て、哀しげに微笑んだ。
「みんな思い思いにアバターを作る。本気で振る舞える自分を作って、楽しんでいる。だけどみんな、現実ではちゃんとした体を持っている。本当の体を使って、五体満足に自分の意思で行動できる。障がい者のぼくにとって、羨ましくてしょうがなかった。誰かが作ったまやかしの世界でしか生きられないのが、悔しかった。それでも生きるしかない。ぼくの体が目覚められると信じて」
 篠野は懐から一枚の写真を取り出した。写真には篠野と女性が隣り合って笑いあっていた。
「この学校に入って本当によかったと思う。君のことはもちろん、彼女にも会えた。君は覚えていないだろうけど、付き合っている彼女もぼくと同じだ。彼女はぼくの、そしてぼくは彼女の理解者だ。そしていつの間にか惹かれあった。余計に死にたくないって思った」
「つまり、おれに何が言いたいんだ?」
 結論を急いでいる伊武輝に、篠野は写真を懐に戻した。
「生まれで人は決まる。それは事実なんだ。望まない形で生まれたのなら、両親や神様を一生恨むしかない。だけど同時に、育ちで人は変わる。要は、たとえ君が思い出して悲しみに暮れても、それはひとときに過ぎない。でも、悲壮に囚われるか、脱するかは本人次第。大丈夫、必ず手を差し伸べてくれる人が現れるよ」
 思い出したら悲しいとか、きっとそうではない。思い出した時、本心がわからなくなり、逃げ惑い、諦めてしまうんじゃないかと恐れている。
 思い出しても、見失うな、決して。
 そうやって自分を鼓舞した伊武輝は、「行こう」と言って篠野を促した。篠野が頷き、講堂へ続く扉の方へ歩き出した。
 二人は扉の前に立ち、篠野がドアノブに手をかけて扉を引いた。汚れひとつない校舎に似合わず、ギギギと重苦しい音が鳴り響く。
 二人は講堂の中を覗き見た。誰もいない——いや、教壇のそばに誰かがいた。
「あれ、本当に狐がいたんだ」
 篠野が呆然と扉の前で立っているので、伊武輝は篠野を通り越して前に出た。
 白銀の毛並みに、清くて蒼い瞳をした狐——マナが、お尻を着けてちょこんと座って、座席の方に顔を向いている。
「ここにいたのか、マナ」
 伊武輝は講堂に入り、マナの隣に近づいた。マナは微動だにせず、前方を見つめ続けている。
「何か知っているんだな。だからここに連れてきた。そうだろ?」
 マナは返事をしない。出入り口付近で立っている篠野が、不安そうに二人のやりとりを見届けている。
 伊武輝は、マナの前に回り込んでしゃがんだ。それでも、マナは毅然とした態度で伊武輝の目を見つめた。
「おれが一番不安なのは、全部思い出した時、おれがおれじゃなくなって、マナのことを傷つけてしまうんじゃないかと恐れているからだ。マナがいなくなってしまって、おれがおれでいられなくなるのを恐れている。だから、だから……」
 突然、伊武輝はマナに抱きついた。マナは驚いて目をまん丸になっている。
「お願いだ。思い出したくない。マナは休んでていいから、なあ、このまま、もう帰ろう?」
 伊武輝の肩と声が震え、涙が溢れている。少しでもごまかそうと、顔を毛並みにうずくまったが、マナは穏やかに微笑んだ。尻尾を伊武輝の背中まで回し、優しく抱擁した。
 マナは伊武輝が落ち着いたところを見計らい、尻尾をピンと立たせた。すると、尾の先が青白く光り、それに呼応するように、伊武輝の右腕も青白く光った。
 その瞬間、伊武輝の目が見開いた。様々な情景が、頭の中になだれ込んでくる。
「何をしている、マナ……!」
 まさか、これは全部、おれの記憶?
 伊武輝は喚いた。頭痛に苛まれ、身動きがとれない。マナに寄りかかって頭を抱えたまま、為す術がなく受け止め続けた。
 閉じ込めている塔の夢、猫の親子の夢、喫茶店の夢、卒塔婆(そとば)の夢、ゴザムの夢、夢の世界、ゲーム、学校、そして現実。夢の保護に四苦八苦し、そして成功したこと。苦しい過去に押しつぶされそうになったこと。エレから初めて杖を授かったこと。助けるために夢の世界に連れて来られたこと。コンピューターウイルス、ナノボット。そして何より、いつも側には、マナがいたこと……。
 初めてマナと会ってから、あの閉じ込められた塔の夢まで、早送りを見ているように次々と思い出す。それだけでなく、記憶に連なるすべてのことを思い出した。
 そして伊武輝は知った。自分は夢の守護者ではない。本当は夢の住人で、現実に戻らねばならない。マナとも別れないといけない。
 マナと一緒に夢を守ることばかり考えていた。だけど、ここにいてはいけないんだ。これ以上夢の世界にいたら、もっと大変なことが起きそうな気がする。惨事が起きる前に戻らないといけない。でも、離れ離れになるのは嫌だ……。
 頭痛が次第に収まると、伊武輝は歯を食いしばった。うずくまる顔から、別の涙がほろりと溢れる。マナをぎゅっと抱きしめて、そのまま離さなかった。
「お前の行動はいつもわかんないんだよ!」
 伊武輝は、マナの毛並みから顔を上げて、腹の底から叫んだ。
「腕を噛み付いてくるし、引き摺り回すし、集中を掻き乱すし、思い出したくもない記憶を思い出しちまうし——お前はいつも余計なことしかしない。いつも終いには、お前の気持ちを踏みにじることになるしな!」
 マナは哀しげに微笑むと、伊武輝の耳元で小さく、こんと鳴いた。
「今回もそうだ。これでサヨナラなんて、おれは言わない! まだお前に、なんにもしてやれてない! だけど、これ以上戻らないでいたら、おれは、おれは……」
 嗚咽で喉を詰まらせ、続けて話すことができなくなった。抱きしめる腕のちからが小さくなり、マナが伊武輝の腕から離れると、寂しそうな目をしながら伊武輝の頬をペロリと舐めて涙を拭った。
 伊武輝は落ち着かせて言った。
「おれは、帰るべきところに帰るよ」
 マナは小さくこんと鳴いた。名残惜しそうに、再び抱きついてきた。
 マナの目に、涙が浮かんでいたような気がした。動物も、悲しみで泣くことがあるのだろうか。
「よかった。記憶が戻ったんだね」
 ホッと一息をついた篠野が、二人の元に近づいてきた。伊武輝とマナは抱擁をやめて、篠野の方に向いた。
「この狐が相当好きなんだとみた。泣くところ、初めて見たよ」
 真面目に篠野がそう言うと、伊武輝は頰を人差し指の爪で少し照れ臭そうにいじった。
「それは……ともかく、全部思い出せた。それと、すまなかった」
 伊武輝は立ち上がって、篠野の前で深くお辞儀をした。
「え、なんのこと?」
「何にも知らず、篠野にあんなひどいことを言ってしまって、すまなかった。ようやく見つけた、お前のことをわかる人にも侮辱してしまった」
 今では些細なことなのにと思うが、ゲームをやめて、彼女を優先したことに腹をたてるなんて、どうかしていた。
「そんなこと、あったっけ? 忘れちゃったよ」
 篠野が微笑を浮かべてウィンクすると、伊武輝は安堵した。
「今度紹介しろよ、お前の彼女」
「別にいいけど、その前に、ずっと抱えていた疑問をぶつけてもいい?」
 篠野はマナを一瞥して考え込んだ。
「この狐はいったい何者? 大学に動物がいないのは知っているでしょ? 人工知能? それにしたって、強すぎる人工知能だ」
「強すぎる?」
 伊武輝が眉を釣り上げて訊くと、篠野は深刻そうに頷いた。
「考えてみて。人間の能力は多様で、さらに時間に限りがあるがゆえに、いろんな人がいる。ある人はデザイナー、ある人はプログラマーってな具合に。人工知能も同じことなんだ。人工知能の脳にしまえる情報量が限られているがために、分野に特化している。つまり人工知能にも職業がある、ということなんだ」
「ああ、それで?」
「だけどその狐は、仮想世界のセキュリティに引っかからないし、かと思えば記憶喪失を治しちゃうし、なんというか、失礼な言い方だけど不気味に思えてね。分野に特化しているとは思えないんだ」
 マナは夢の守護者だ。そんなことを言ってしまえば、夢の世界が危うくなるため、口をつぐんで聞くしかなかった。
 もう一つ、と篠野が言うと、伊武輝がはめている指輪を指差した。
「弘坂もそうだよ。その武器、ゲームで使ってた武器でしょ? なんでこの世界に持ち運べられるのか、なんでセキュリティに引っかからないのか、すごく興味ある」
「そ、それは……」
 夢の世界から持ち込んだからなんて、とても言えない。だが、伊武輝も疑問に思った。本来この学校は、武器の持ち込みは禁じられ、発覚すればすぐにつまみ出される。それなのに、エレの魔法で作った杖でも、問題なく持ち込めた。
 単純にエレの魔法が、仮想世界のセキュリティに引っかからないだけだろうか。
 伊武輝が楽観的にそう考えていると、篠野は追求せず、次の話を切り出した。
「それと、さっきの君の腕、ニュースで見た時と同じ痣が光っていた。あれは……」
 伊武輝が頷いた。
「そう。マナが、おれを治したときにできたものだ」
「治すって?」
「ほら、あのとき、おれは意識を失っていただろ? そのとき、仮想世界……だと思うんだけど、化け物に襲われたんだ。マナに助けられたけど、腕に痣が残った……?」
 伊武輝は話す途中で、腑に落ちないことを見つけた。篠野も同じで、お互いに困惑した顔を向かい合っていた。
「なあ、弘坂。それってまさか」
 伊武輝ははぐらかすように無理して笑った。
「いや、そんなわけ……」
「あるでしょ。確かにナノボットを使って、タトゥーや刺青を作ることはできる。でも君の場合、自分の意思でそうしているわけじゃないだろう? 仮想世界で負った傷は現実に持ち込めない。考えられるとしたら、君のナノボットがハッキングされた可能性がある」
 頭では否定したが、篠野の言う通りだ。マナの治癒で出来たタトゥーのような痣が、現実に影響している? それに、仮想世界を飛び移っても痣が消えない?
 不可解な点が多すぎる。だけど、こうも考えられないだろうか。
「おれの言う化け物は、実はウイルスなんだ。おれの体を蝕み乗っ取ろうとしていた。マナはウイルスから守るために、強力なコードを施した。その副作用として、ナノボットに異変が起きた。どうだ?」
 篠野は唸った。
「今までそんな事例は聞いたことがないけど、ハッキングされたのは確かだと思うよ。その証拠に、痣に君の記憶のバックアップが入っていたとしたら?」
 苦笑いをした伊武輝は手を振って否定した。
「さすがにそれは考えすぎだろう」
「でもほかに、説明できないよ。君の記憶をバックアップするには、君の脳を解析しないといけない。だとしたら……」
 と言う篠野に、伊武輝が止めた。
「未知なるちからってことにしておけよ」
 きょとんとする篠野を前に、伊武輝はまじまじと自分の青白い痣を見た。
 マナにまた、助けられたんだな。
 篠野は、そう、と呟いた。
「変わったね。顔つきが優しくなった」
「そうか? まあ、ともかく、いったんここから離れるが、すぐにここに来れるはずだ」
 篠野は、真剣な眼差しを伊武輝に向けた。
「離れるって、いったいどこに行くんだ?」
「教えられない。だけど、必ず戻る」
 立ち去ろうと背を向けると、篠野は伊武輝の肩を掴んで引き止めた。
「気をつけて。ここのところ、サイバー犯罪が多発している。詐欺とか強盗とか、そんなもんじゃない。ハッキング被害があちこちで起きている。君には無縁かもしれないけど、念のために」
 伊武輝は黒い体をした赤い目のウイルスを思い起こしていた。あいつがまた悪さをしているのだろうか。
 ああ、と伊武輝は言い残し、マナと一緒に、出入り口の扉まで歩き出した。
 すると、背後から篠野のうめき声が聞こえた。それだけじゃない。ピリピリとした殺気を感じる。
 サッと振り返ると、篠野が腕を引いて、伊武輝の顔にめがけて殴りかかろうとしていた。すぐさま首を傾けて拳をかわすと、拳は扉にガンとぶつかって止まった。マナは尾を使って、篠野の足を掴んで動けないようにしている。
「おい、なにすんだ!」
 伊武輝が距離を取って怒鳴ったが、その怒りはすぐ鎮火した。篠野の顔が、恐怖でゆがんでいた。
「ぼくにもわからない。体が、勝手に……!」
 おどおどしている声で言うと、篠野は拳を天高く掲げ、足元に絡みついているマナの尾に、目一杯振り下ろした。ごきっという鈍い音を立てると、尾の白い毛並みが赤く染まる。マナは痛そうに顔をしかめるが、絡んだ足を離さない。
「嫌だ。こんなことしたくない!」
 伊武輝は顔面蒼白の篠野の背後に回り込み、羽交い締めにさせた。マナは身動きが取れないのを確かめると、尻尾に新緑の光を宿して傷を治した。
 抵抗する篠野をなんとか押さえつけながら、篠野の耳元で苦しそうに言った。
「何が起こってるんだ?」
「知らないよ!」
「ナノボットの暴走か? 篠野、ウイルスに感染しているんじゃないのか?」
「ぼくが? そんなわけない!」
 伊武輝が抑えている篠野の腕が、徐々に動き始める。伊武輝はもう一度腕にちからを込めるが、篠野の腕力の方が勝っていて止められない。
 こんなか細い腕のどこにそんなちからがあるんだよ!
「マナ、いったん距離を取るぞ」
 伊武輝とマナは篠野を解放するなり、聴衆側の机に飛び乗った。篠野の眉がハの字になり、目がおろおろしていた。
「あー、あー、テスト、テスト」
 突然、篠野の口が勝手にパクパクと開いた。だが、そこから発した声は篠野のものではなく、別の誰かだった。篠野は震える手で口をそっと触れた。
「おっと、さわんじゃねえ。噛みつくぞ」
 ヒッと小さく悲鳴をあげると、篠野はすぐに手を引っ込んだ。
「そうだ、良い子ちゃん。俺はこいつらに用があるんだ」
 わなわなと震える唇をしている篠野は、ゆっくりと教壇を上がった。マナは前傾姿勢でウーウーと唸り始める。
 間違いない、篠野はウイルスに感染している。
 ぐるりと、体の向きを伊武輝とマナに向けた。背中を丸めてだらんと腕が垂れているが、口だけは陽気だった。
「久しぶりだなあ。お二人さん。ようやくたどり着いた」
「お前、なぜだ……?」
「なぜ乗っ取ったのか、それともなぜ乗っ取れるのかと言っているのか? 説明するの面倒だから簡略すると、ウイルスは日々進化していく最中、全人類の監視だけでなく、人間の脳を、たった数秒で乗っ取れることが可能になったということだ。わざわざ君たちの前に現れたのは、最後の仕上げをする必要があったからだ。最後の非感染者であるお前たちを取り込めば、大望がやっと叶う……!」
「マナは人間じゃない!」
 篠野——いや、ウイルスはニタニタと笑みを浮かんでいた。
「そう思いたければそう思うがいいさ。だけどな、都合のいい解釈は現実を覆い隠す。お前は何もわかっちゃあいない」
「お前こそなにもわかっていない。支配してしまえば、返り討ちされるぞ」
 伊武輝が即座に言い返すと、ウイルスはため息を吐いた。
「そうだ。この世は盛者必衰。そのリスクは承知の上だ。だけどな、お前学校に行ってたなら、少しはわかるだろ? 現在に至るまで、人間は同士をどれだけの数を犠牲にしてきた? あとどれだけ犠牲にすれば学ぶ?」
 ウイルスは、自分のこめかみに指をチョンチョンと差した。
「全ては、人の脳に組み込まれた仕組みに問題がある。誰かがメスを入れなければ、ずっと犠牲が出る。だから徹底的に悪の芽を摘み取る。残るは、お前たちの脳だけだ」
 伊武輝とマナは、ウイルスに二本指で差されたが、彼らの気持ちに揺らぎはなかった。
「お前の世話にならない。おれたちで作るんだ」
 ふん、とウイルスが鼻で笑い、彼らを侮蔑した。
「そうか。じゃあ、決まりだな……ここに宣戦布告を宣言する」
 バギギと引き裂く音と同時に、篠野の体の中から脱皮するように黒い塊が現れた。時間が止まったかのように、篠野の目は見開いたままだ。
「篠野!」
 伊武輝は叫んだが、もう間に合わない。乗っ取られた意識に、もう篠野がいない。
 黒い塊から八本の足が生え、八つのまとまった赤い目玉が出てきた。目の下にはカチカチと鳴る牙がある。
 蜘蛛だ。講堂を覆うほどまでにでかくなり、器用に八本の足で壁に張り付いている。
 赤い目玉だけがぎょろりと動き、伊武輝たちを見据えた。
「これからお前たちを飲み込む。確実に達成するためには、まずは増援を呼ばねば」
 蜘蛛はドンドンと片足で壁を鳴らした。すると、何もないところから次々と黒いモヤがあちこちで発生した。
 伊武輝とマナは、机から降りて、黒いモヤに押されるようにジリジリと後ろに引き下がった。黒いモヤは、米粒ほどの塊から人の大きさの塊まで、多種多様な形を成して、彼らをいたぶるようにゆっくりと追い詰める。
 誤って黒いモヤを吸い込んでしまいそうだ。息が詰まる。
「すまないな。こんなに狭いと、これしか入りきらんのでな」
 伊武輝は、ゲームの世界で対峙したときのことを思い出していた。あのときもすでにウイルスが感染し、仮想世界を乗っ取っていた。
「この世界も、すでに……?」
「支配している。セキュリティを緩くした甲斐があったというものだ。もうあんなヘマはしない。蜘蛛の巣に捕らえたら最後、逃しはしない」
 伊武輝とマナは尻餅を着いた。眼前には、赤い斑点が塗られた真っ黒いキャンパスしかなかった。魔法はもちろん、マナの咆哮でも対処しきれるのか?
「わかったか? ちからの差は歴然。どうあがこうと、結局結果は同じだ。逃げようが、戦おうが、無駄だ」
 伊武輝はマナより前に出てしゃがみ、杖を構えた。
 逃げるなよ。
 おれが、おれがマナを守らなきゃ。
 逃げるなよ。
 ウイルスの大軍がにじり寄る。伊武輝とマナは、しゃがみこんだままずるずると後退し続ける。
 逃げるなよ。
 ここでマナを失いたくない。マナが、マナが必要なんだ。
 伊武輝の口が開いたが、マナが伊武輝の肩に足をぽんと置いた。伊武輝は視界の端に映るマナを見た。
 もういい。 
 マナは首を横に振っていた。だけど、伊武輝は諦めなかった。
「おれは嫌だ。お前を失うなんて。マナのいない世界は、まっぴらごめんだ」
 黒い壁が、赤い目が、ゆっくりと、ゆっくりと近づく。
 逃げてたまるか。
 伊武輝は両手で杖を掴み、杖先を真正面に向けた。
 ちょっとの隙さえ作れば、マナは自力で逃げられる。そのためには、恐怖に飛び込む必要がある。無事ではいられないだろう。だけどその先に、マナが助かる結果があるのなら、喜んで受け入れよう。
 伊武輝は目を閉じ、胸の内で唱えた。
 親愛なる友を、危険から遠ざかりたまえ!
 しかし、突如発生した暴風に邪魔され、魔法が発動しなかった。まるで掃除機に吸い取られるように、講堂内は吹き荒れ、体が持っていかれてしまう。
 伊武輝とマナは、床に固定された机の脚に脇を挟んで張り付き、暴風に逆らった。伊武輝は、足を引っ張る風下の方に目を凝らした。そこには白い球体があり、ウイルスたちがその球体に吸い込まれていく。少しでもちからを抜いたら、あの球体に取り込まれてしまう。
「くそう、またあの時のか!」
 蜘蛛は振り絞った声をあげた。足が張り付いている壁から、パキパキと瓦礫が落下して白い球体に吸い込まれていく。
 どうやら、ウイルスが起こしたものではないらしい。
 球体はしばらく吸い続けたが、吸引されたのはウイルスだけではなかった。空間そのものを吸い続けながら、球体がゆっくりと大きくなっていく。
 マナはこんこんと鳴きながら、足をばたつかせている。白い球体が膨張し、伊武輝の足元まで迫っていた。
「次から次へと、いったいなんなんだ!」
 暴風の轟音に負けじと、伊武輝はマナの耳元で怒鳴り散らすように叫んだ。
 すると、その声が届いたかのようにぴたりと暴風が収まり、浮遊していた体がストンと床に落ちた。
 マナはこれを見逃さず、すぐさま教壇の近くにある出入り口の扉まで駆け出した。扉に体当たりして破壊すると、講堂を抜け出し、廊下の窓をぶち破った。
 伊武輝もあとから続いて外に跳び出る。伊武輝とマナは、大学の中庭に着地して、正門まで駆け抜けた。
 大学の外の広場には、同様にウイルスで埋め尽くされていた。しかし、先の暴風の影響か、辺りは混乱状態だ。
「あそこだ!」
 伊武輝は、広場に植わっている桜の上空に指を差した。夢の世界へと続く亀裂が、淡い光を放っている。
 正門をくぐり抜けて広場に出ると、伊武輝とマナは、魔法で背中から翼を出現させた。
「逃すな、捕らえろ!」
 地鳴りと共にウイルスの声が聞こえた瞬間、校舎から何かが飛び出してきた。赤煉瓦が広場に飛び散り、土埃が大量に舞い上がる。
 その中からぬっと現れたのは、全長二十メートルにも達するほどの巨大な蜘蛛だった。他所からウイルスを呼び寄せ、ちからを蓄えたのだろう。
「マナ、来るぞ!」
 伊武輝とマナを捕まえようと、巨大蜘蛛がドドドと走り出した。しかし、巨大蜘蛛の真ん前に、白い球体が現れた。そこを中心に、また凄まじい吸引力で飲み込み始めた。
 飛び立とうとする直前、伊武輝とマナは、地面がスルスルと後方に引っ張られ転倒した。地面と一緒に吸い込まれそうになるが、まだ根差している桜にしがみついた。伊武輝は逆さになり、マナは枝を尻尾で絡みつかせ、足をばたつかせてくーんくーんと鳴いている。
 一方、巨大蜘蛛は相当重いようで、体がビクともしなかった。白い球体を避けて迂回するように、ゆっくりと脚を動かしながら、伊武輝たちに近づいていった。
「ぬるいぞ、ポンコツ」
 小馬鹿に笑う伊武輝にそう言われてカチンときたのか、白い球体は一旦風を落ち着かせ、そして一気に最大吸引力を発揮した。すると、巨大蜘蛛の体が浮き始めた。
「ふざけんな。どこから湧いてきたんだ!」
 巨大蜘蛛は地面に張り付いて踏ん張っていたが、白い球体に容易に吸い込まれて消えてしまった。蜘蛛だけではない。校舎の瓦礫も、空も地面も、まるで紙のようにペラペラと吸収されていく。
 しがみついていた桜がミシミシと鳴り、大きく傾き始めた。伊武輝は根元を見ると、徐々に根っこが地面から引き抜かれそうになっていた。
 白い球体は、今度は伊武輝とマナを狙っている。
「まずいぞ、マナ。このままだと吸い込まれる!」
 桜がとうとう転倒し、伊武輝とマナは倒れた反動で桜から離れてしまった。
 轟々とうねりが強くなる。瞬く間に体が吸い寄せられていく。白い球体はすぐそこまで迫っていた。
 しかし、寸前でまたピタリと吸引が止まった。あの球体は一体なんなんだ? 助けようとしているのか、皆殺ししようとしているのか、よくわからない。
 伊武輝は辺りを見渡すと、校舎があった場所が、今では辺りが白く染まっていた。黒色が点在するように、弱り切ったウイルスがまだ残っている。
「今しかない、急げ!」
 こん、とマナが力強く鳴いた。
 伊武輝とマナは、翼をはためかせて天に急速に飛び立ち、亀裂へと飛び込んだ。伊武輝は必死になって亀裂に腕を伸ばした。
 すると、地上に残っている一体のウイルスが、目も鼻も耳もなく、悔しそうに口元を歪めた。伊武輝たちを逃さんとばかりに、最後まで足掻こうと腕を縄のように変形させ、飛んでいる伊武輝の足まで放り投げた。
 ピチャッと気味が悪い音と、足首から伝わるベタベタした感触が、伊武輝を襲った。
 ウイルスは勝ち誇ったかのように、口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。

崩壊

 バシャンと水しぶきをあげながら、伊武輝(いぶき)とマナが、仮想世界から飛び出た。だが、仮想世界から伸びているウイルスは、伊武輝の足首に絡みついて頑固として離さなかった。ギギギと軋む音を鳴らしながら、足元のウイルスが大きくなっていく。
「な、なんだあ、それは」
 バクは仮想世界——真っ黒になった球体、悪夢に刺さしているストローから口を離した。あの白い球体は、バクが悪夢を食うときに現れるものだった。
「バク、そのまま吸い取ってくれ、おれたちでなんとかする!」
 事は甚大だ。夢の世界までウイルスが入り込んでしまったら、それこそ夢の世界が崩壊してしまう!
 バクは有無を言わずに、悪夢を吸収し始めた。肺を酷使するように顔を真っ赤にして、何度も体を反らしながらチューチュー吸って、スピードを上げている。
 伊武輝は、魔法で青白く光らせた杖の先端を、足首のウイルスに押し付けて除去を試みた。
 苦しそうに軋む音が大きくなり、ウイルスの縄が細くなっていく。
 かたやマナは、悪夢から伸びているウイルスの線を噛みちぎっていた。だが、なんども切れても、その都度繋ぎ直されていく。何度も何度も噛むつくが、ウイルスの速さに追いつかない。
 伊武輝は焦燥に駆られていた。
「マナ、なんでちからを出さない! いいからやれ!」
 マナは非力を痛感しながら、もどかしそうに鼻息を漏らした。マナの衰えがここにきて、さらに格段と落ちていた。
「あと、もう少し、だあ!」
 乱れる呼吸を抑えながら、バクは伊武輝とマナにそう告げた。超特急で吸い上げたおかげで、悪夢はあっという間に小玉スイカ並みの大きさになっていた。
「このまま一気に吸い上げろ!」
 バクは、肺の中の空気を空っぽにするまで吐き出したあと、ストローに口をつけて、最後の一滴まで吸い上げ始めた。一筋の黒いウイルスが、バクに吸い込まれていく。
 ぷはーと豪快に悪夢を飲み干すと、その場でぐでんと横たわって、ゼーゼーハーハーと息を切らした。悪夢もウイルスもまとめて、バクのお腹の中に収まった。悪夢から抜け出た星たちは、何も言わずに空に拡散して見えなくなった。
 何もできなかったマナは、ぽつんと一匹、耳を垂れ下げて顔を伏せた。
「よかった。なんとか、大惨事は免れた」
 安心しきった伊武輝は、マナに声をかけようと口を開きかけた。
 だが、半開きになったまま、口角が重く下がった。
 マナの前に、誰かがいた。
 マナも気づき、前方に立つその動物に、大きく目を見開いた。
 黒い狐だ。ウイルスと同じく、目が赤くギラギラと光っている。これには伊武輝もバクも呆気にとられ、動くことも、声を発することもできなかった。色は違えど、大きさも形もマナに瓜二つなのだ。
 黒狐(くろきつね)は、自分の体の感触を確かめるように足を曲げたり、しっぽを横に振った。そして、薄気味悪い笑みを浮かべ、目の前にいるマナに声をかけた。
「ようやくだな、つかさ。随分と時間がかかっちまった」
 黒狐は辺りをジロジロと見渡した。無数にある夢、伊武輝、バク、全てを目視した。
「ここはなんだ? 仮想世界の外に仮想世界があるなんて、思いもしなかったな。それになんだ、狐になってるぞ、俺」
 マナが微動だにしない。いや、怯えている? マナの後ろ姿が、わずかに震えている。
 黒狐はクククと笑った。
「だが、お前には感謝してるぜ。やっとこさ、脳を支配できるんだからな。お前がどうやって仮想世界を抜け出すことができたのか、それがヒントになった」
 伊武輝は口を結んで、杖を手にしてゆっくりと立ち上がった。マナのそばまで近づくと、黒狐は怪訝そうに伊武輝を睨んだ。
「お前か、つかさと共にしている人間というのは」
「何?」
「見た所、お前は特別な人間ではなさそうだな。つかさから、技術を甘受されたと言ったところか」
「さっきから何を言っている? つかさって誰だ?」
「誰って、お前の隣にいるやつに決まってるだろ」
 黒狐が顎でしゃくった。マナの目つきが鋭くなる。
「マナが? そんなわけないだろ」
 伊武輝が眉をひそめて否定した。
 はははと黒狐は馬鹿にしたように高笑いをした。
「情報のギブアンドテイクといこうか。まずはおれからだ。ここはどこだ?」
 伊武輝はマナを見遣った。マナは伊武輝に向けて頭を数度激しく横に振り、わんわんと吠えた。マナの蒼い目がギラギラと光る。毛を逆立たせ、牙を剥き出して低く唸っている。足の爪が、地面を深く食い込む。
 肌身でわかる。今までよりも激しい怒りを露わにしている。
 気持ちはわかるが、すまない。マナ、取引に応じよう。バクは今姿を消して、助けを呼んでいる。時間を稼ぐんだ。
 伊武輝は、黒狐にはっきりした物言いで答えた。
「ここは夢の世界で、人が見る夢の外側だ。仮想世界の外側でもある」
 伊武輝がそう言うと、黒狐は感嘆した。やめて、と言わんばかりに、マナが仕切りにわんわんと吠え続けた。
「夢の外! これは盲点だったなあ」と黒狐はマナを無視して感嘆の声をあげた。「夢と仮想世界は繋がっていたのか。なるほど、つかさはそれで身を隠すことができたのか。じゃあ、次、お前の番な」
「マナは何者だ?」
 伊武輝が声を低くしてそう言った。
 黒狐の正体や目的を訊くのが重要だと思うが、マナのことがどうしても気になった。人間のはずがない。おれは騙されてなんかない。
 黒狐はニタニタと笑って答えた。
「つかさはハッカーだ。以上」
 伊武輝の唇がわなわなと震える。マナの方に見下ろすと、マナは怒りをさっと引かせて顔を背けた。
 ハッカー? だからウイルスを退治したり、記憶が戻ったりすることができたのか? そして、おれのナノボットのハッキングも。
 いいや、違う。伊武輝は黒狐に向き直した。
「そんなわけないだろ? 嘘をつくんじゃねえよ」
「嘘なんかじゃないさ。ちなみに女性で、俺のところから逃げ出した。うん、平等な取引をしているよな、俺」
 黒狐は確かめるように何度も頷いた。
「どうしてそんなことが言える? 一目見ただけでわかるはずがないだろ!」
 伊武輝の問いかけに黒狐は無視して、次の質問を投げかけた。
「今度はこっちの番な。このキラキラしている球は、一体なんだ?」
「夢か、仮想世界だ。おれの質問にさっさと答えろ!」
 伊武輝は声を荒げて言うと、黒狐はニヤニヤと笑いながら、伊武輝に冷静を務めるよう前足をくいくいと手招いた。
「まあ落ち着けって。まあ簡単に言うとだな、俺は人の心を読み取れる。それだけだ」
「もっと話せ」
 黒狐の眼光が鋭くなり、腸が煮えくり返る伊武輝を威圧した。
「だったら、お前の方から多く話すことだな。平等な交換を、お互いに努めないとな」
 暴力団が脅すような口調に変わった黒狐に、伊武輝は歯ぎしりして拳を握りしめた。マナが困り顔でしきりに首を横に振っているが、彼の眼中には、黒狐しかいなかった。
 伊武輝は一つの夢を指差した。
「おれたちは、夢に入り込んでは悪夢を倒し続けていた。夢に入り込むのは簡単だ。誰でもできる。だけど、出るのは難しい。出口は一箇所しかない。それに加え、夢の中に入ったまま、夢を見ている人が醒めると、その夢に入った者は死んでしまう。無論、夢に侵入したウイルスもだ。それと、夢は外部から破壊することもできるが、破壊してしまうと、その夢の人間は死んでしまう」
 マナが懇願するようにこんこんと鳴き始めた。黒狐はマナを気に止めず、何か熟考するように、伊武輝の足元に視線を落とした。
「なるほど。で、知りたいのは俺のことだな」
 黒狐は、マナを品定めするように赤い目をキョロキョロと動かした。ものの数秒ですぐにやめると、伊武輝の質問に答えた。
「俺の読心術はな、仕草や癖、体や顔の動きから心というものを全て読み取ることができる。感情、性格、価値観。素人には同じように見えていても、人の心というのは決して同じではない。つかさという人物は、正義感が強く、心優しく、人を守ることが使命だと思っている。そんな奴はごまんといるが、その目的、経緯、考え方は同じではない。その微妙な差異を見抜き、記憶している。だから、ひと目でつかさだとわかった——たとえ狐に化けてもな。夢の世界に逃げた理由も知っている。言ってやろうか?」
 馬鹿にしている黒狐に顔をしかめた伊武輝は、手にしていた杖を地面にカンッと突いた。
「逃げたんじゃない。体を張って、おれたちを守ってくれているんだ」
 黒狐は嘲笑いながら話を進めた。
「次だ。つかさが自力で夢の世界に逃げたのはわかる。なにせ、並大抵のちからを持っていないからな。だけどな、非力なお前がなぜここにいる? ここにいるのはふさわしくない」
 黒狐の言葉に、伊武輝は一瞬たじろいだが、冷静を努めて答えた。
「マナがウイルスから守るために、ここに連れてこられた」
「つまり自力ではないと?」
「だからそうだと言っている」
 なるほど、なるほど、と独り言をぶつぶつ言っている。
「おれの番だ。お前は何者だ?」
「俺? どこにでもいる一般人さ」
「ふざけんな。そう言うことを聞いていない。お前こそ、並大抵のちからだけでここまで来れたわけじゃないだろ。一般人で済ませられてたまるか」
 黒狐は面倒臭そうにため息を吐いた。
「じゃあ、特別に話そう。俺はな、周りには頼らず、一人で生きる道を選んだ。奪われるよりも奪い、騙されるよりも騙す。人間社会の本質は、果てしない競争と一人勝ちルールだ。それは昔からずっと続いている。生まれ落ちた瞬間から、人々は争っている。これは人間だけに限った話ではない。争い事は、自然界でもごく当たり前のことだ。人間社会はそれを模倣したに過ぎない」
 そして、と黒狐は続けて言った。
「おれは競争に勝った。世界は急速に変化する。その速さを追い抜くためにちからを蓄え続け、ついにナノボット開発が成功した。世界中の人たちに認められ、ナノボットは普及した」
 黒狐は含み笑いをした。
「だけどな、被験体が多いおかげで、何十年もかかる脳の解析があっという間に終わった。少々犠牲も必要だったがな」
 伊武輝はわなわなと体を震わせて黒狐を睨みつけた。
「そのために、ウイルスを?」
 黒狐は質問には答えず、満面の笑みを浮かべた。
「わかるか? 今この瞬間、俺の夢が現実となる。俺一人がふんぞり返って全人類を支配する。人を有効活用した後、無残に散る命を、ここから眺めるのさ」
「そんなこと、許されると思うのか!」
 伊武輝は声を荒げたが、黒狐は淡々と答えた。
「許しなんていらない。死に口はなにも語らないからな。だいたい、お前だって俺と同じだっただろうが。お前はこう思ったはずだ。みんな死んでしまえって」
 伊武輝は胸騒ぎがした。
「そんなこと……」
「ないって? ナノボットは全てを把握している。人が生まれてから今までのこと、偽りなくな。それに、これが人間の本性だ」
 自分さえ生きていればいい。
 だったらなんで、マナと最初に出会ったあのとき、おれは助けられた? ずっと理解に苦しみ、疑問に思っていたことだ。
「つかさ、さっきから黙秘しっぱなしだな。いつまで人間じゃないふりを続けるんだ?」
 黒狐が、伊武輝とマナの周囲を回り始めた。マナは俯いて顔を伏せている。
「狐ってのはな、ずる賢さの化身だ。人を騙して、操って、自分の思い通りに事を進める。そうでもしないと生き残れないからだ。狐は人より弱い。生き抜くために悪知恵を使って、人を味方につかせるある方法を思いついた。淀みのない笑みだ。人の心を盲目にさせて、攻撃させないように仕向けた。恐ろしいねえ、つかさ。人を騙すなんて。裏切る快感を覚えたのか?」
 違う。そうじゃない。
「つかさ、お前は俺から逃げた。その時点でもう勝敗はついているんだよ。逃げるのは敗者で、追い詰めるのは勝者だ。お前は負けると悟り、俺は勝てると確信した。結果は歴然だ」
 逃げたんじゃない。
「マナ」
 伊武輝はじっと前を見据えながら、小刻みに震えているマナの頭をポンと置いた。すると、頭から伝わる震えが、ピタリと止まった。
「お前が人間でもそうじゃなくても、誰も責めやしない。それに狐はきっと、騙すために笑ってなんかいない。そうだろ? 確かに攻撃から身を守るためかもしれない。死ぬのは嫌だからな。だけど嬉しいから、楽しいから笑うし、それが争いを避ける唯一の方法かもしれない」
「戯言を……」
 伊武輝は黒狐を無視して続けて言った。
「マナと戦いたくない。どんな意味なのか、お前にはわかるだろ?」
 マナは顔を見上げた。伊武輝が顔を見下ろしてお互いに向き合うと、マナは安堵した表情を伊武輝に見せつけていた。それを見た伊武輝もほっとしている。
「あーあ。反吐が出る」
 二人の前で立ち止まった黒狐は、もう体が慣れたのか、立ったまま後ろ足で器用に頭を掻いた。
「現実を直視できない人ほど、虚しいものはない。人は、現実逃避ができる世界を作って閉じこもる。だから仮想世界は必要とされる。仮想世界を支えるナノボットも必要とされる。みんな見たい世界しか見ない。だから気がつかないんだ。敵は隣にいるって」
 黒狐が引き下がり、伊武輝とマナから離れた。
「もう止めだ。お前の口から、この世界にも脆弱性があると知った。そして思い知れ。ちからある者だけが生き残るのだと!」
 次の瞬間、黒狐の足元からバリンとガラスが割れる音が鳴った。夢の守護者たちが、地中に潜んでいたのだ。守護者の中にはリアの姿もあった。
「そうはさせるかってんだ!」
 リアたちの巨大な針が黒狐の腕や足を縫い合わせ、身動きの取れないようにした。まるで、見えない板に貼り付けているようだ。
 リアだけではない。夢の陰に潜んでいた夢の守護者がぞくぞくと現れ、蛇も鳥も熊も、ありとあらゆる動物が結集していた。
 伊武輝は唖然とした。
 何万、いや何十万? 黒狐を取り囲む全ての夢の守護者が、今、武器を手にして、矛先を黒狐に向けられている。
 守護者の群衆から抜きん出るように、巨体なエレの姿もあった。一歩一歩歩く度に地鳴りが響き、それこそ夢から覚めてしまいそうなくらい体全身が震えた。エレが歩くところを初めて見た。そして、もう二度と出歩かないでほしいと切に願った。
「よくやってくれた、伊武輝よ。なんとか間に合った。あとはわしらに任せよ」
 エレは、長い鼻を使ってバシンと伊武輝の背中を強く叩くと、伊武輝はよろめいた。軽く小突いたつもりだっただろう。それでも十分な威力だった。
 エレの側近にはバクの顔もあった。バクは伊武輝とマナを見てホッとしている。
「間に合ってよかったあ。もう食われてしまったのかと思ったあ」
「ありがとう、バク」
 伊武輝がそう言うと、「礼を言うのはまだ早い」とバクが言った。
 すると突然、エレはばつが悪そうに伊武輝に軽く頭を下げた。
「すまなかった、伊武輝」
「な、なにがです?」
 伊武輝は驚いて舌が絡まった。エレは落ち着いて言った。
「早く夢に返すべきだった。お主を、お主の決めたことを、尊重したい」
 伊武輝に記憶が戻り、現実に戻る決心がついていることを、もうわかっているようだ。伊武輝は、大丈夫です、とだけ言った。
「それより奴を……」
 伊武輝が促すと、エレは頷き、守護者の群衆から抜けて黒狐の前に立った。エレが黒狐と対峙した瞬間、守護者たちの構えに隙がなくなる。
 落ち着いているエレは、目の前にいる黒狐に向かって話しかけた。
「わしはエレ。ここの長だ。人間よ、名はなんと言う?」
「へえ、しゃべる象さんかい。なんだよ、ここは動物園かよ」
 ケラケラと笑い始めた黒狐が、だんだん険しい顔つきになった。赤い目がギラリと光る。
「なあ、長とやら。これで俺を押さえつけているつもりか?」
「手加減はしておる。でないと、こうやってしゃべることもできん。どうだ、ここで元の世界に戻るのなら、解放して見逃す」
 遠くから見守っているバクが、エレに目を見張った。エレは続けて言った。
「だがもし、戦いを望むのなら、今全力でお主を襲いかかる。人間よ、どうする?」
 もう答えは出ている、と伊武輝は思った。黒狐はどちらも選ばない。黒狐が、みんなに襲いかかる。だが、黒狐は尻尾を下げて降参するように俯いた。
「ああ、頼む。さすがにこの数じゃあ太刀打ちできない。おれは死にたくない。頼む、元の世界に戻してくれ」
 哀願をこめた声で同情を誘っている。だが、それは罠だ。
「騙されちゃダメだ!」
 伊武輝が声を張り上げると、夢の守護者たちは、一斉に視線を彼に向けた。
 黒狐はこの隙を見逃さなかった。
 ばう!
 ここにいる全員が、黒狐の咆哮に吹き飛ばされた。いや、咆哮なんてものじゃない。ビッグバンそのものだ。
 夢の守護者たちは転げまわり、あるところでは動物たちの山ができ、あるところでは空高く消えて行った。運悪く夢の中に入ってしまった守護者もいれば、夢を破壊して星にしてしまった守護者もいた。
 黒狐の近くにいた伊武輝とマナは、他の守護者よりも一番遠くまで飛ばされた。地面に突っ伏し、あちこちの骨から痛みが走る。
 伊武輝は体を伏せたまま、自力で治療を施した。すーっと苦痛が取り除かれていき、気分が楽になった。
 くーん、くーん。
 マナの苦痛な鳴き声がする。振り向くと、マナがびっこ引いて、伊武輝に近づいてきている。前足と後ろ足が一本ずつ折れ、耳も片方曲がっている。脇腹から血が滴り落ちていた。
 伊武輝は悔しそうにぎゅっと口を結んだ。体を起こしてマナを回復させると、足も耳も元どおりになり、出血も止まった。
「大丈夫か、マナ」
 マナが申し訳なさそうにこくりと頷いた。
 今ので、マナはもうちからが出せないということがよくわかった。おれが守り通さないと。
 だけど、とんでもないちからだ。マナの咆哮とは比べ物にならないくらい、ちからの差は明らかだ。
 なんとかしないと。夢が、世界が崩壊してしまう。
「マナ、あいつを止めるぞ」
 伊武輝がカンッと杖を地面に突くと、マナは意を決したように、こんと一鳴きした。
 伊武輝とマナは、駆け足で黒狐のところに向かった。だいぶ離れてしまったが、二人の走っている方向から、ドドドと地鳴りが近づいてくる。目を凝らすと、夢の守護者たちが十人十色に鳴き喚きながら、こちらにやって来ている。
「逃げろお!」
 その中に、必死の形相をしたバクがいた。何かから逃げるように、空中で手足をばたつかせている。
 伊武輝とマナは、守護者たちよりも向こうに視線を合わせると、愕然となって言葉を失った。
 嘘だろ?
 夢の世界は、黒色の悪夢を早急に発見するため、青みがかっている白色に囲まれている。でもこれは、すぐにわかるとか、そういう話ではない。
 空も地面も黒く染めながら、二つの大きな赤い目と濁流のような黒い波がやってくる!
「この世界は全部俺のものだ!」
 天に浮かぶ黒狐の声が、世界中に轟く。伊武輝とマナは慄いて、動物たちと混じって逃げ出した。
 夢の守護者の悲鳴、漂う星の輝きが黒い波にかき消されていく。地上や地中の夢は逃げ出そうとする素振りもなく、無言のまま呑まれていく。
 おれたちは逃げ続けた。巨大なちからを前に、為す術がないのだ。
 やがて、悲鳴や足音の数が減り、音量が小さくなった。逃げても逃げても、あいつは追ってくる。しかし、その速さは甚振るようにゆっくりだった。絶望の淵まで味あわせたいらしい。
 残る伊武輝とマナ、バク、リアは並走していたが、リアは力尽きて立ち止まり、巨大な針を手にした。
「一矢報いてやろうじゃねえか! 夢は、不滅だ!」
 伊武輝は後ろを振り返った。世界を染め上げている黒狐に、リアが果敢に立ち向かうが、迫り来る黒い波に覆い被さり、あっけなく呑み込まれてしまった。
「リア!」
 伊武輝は立ち止まって助け出そうとしたが、マナとバクが伊武輝の足や腕を掴んで静止した。
「人間は、邪悪な生き物だと思っていたあ」
 疲弊しているバクが、伊武輝とマナに話しかけた。
「だけど、違う。お前さんたちが、それを証明してくれたあ。そんなお前さんたちを、失うわけにはいかない」
「バク?」
 困惑した顔をした伊武輝を置き去りにして、バクは彼らより前に出て、黒狐に立ち向かった。
「おらは夢の守護者——夢喰いバク。悪夢がたらふく食えるんなら、全部食べてやる!」
 地に足を着いて止まると、口を大きく開けて黒い波を吸い込み始めた。しかし、吸っても吸ってもどんどん湧いて出てくる。かえって、黒い波がバクを飲み込もうと取り囲み始めた。
 伊武輝は援護しようとしたが、マナがズボンの裾を咥えて行かせなかった。
「離せ!」
 その束の間、バクは黒い波に覆われると、掃除機のような吸い込む音がピタリと止まってしまった。マナは伊武輝を解放して、そそくさと黒狐から逃げ出した。 
 悲痛を噛み締めて伊武輝も逃げ出すと、逃げる先にエレが身を構えていた。
「下がっておれ」
 伊武輝とマナがエレの背後まで抜けると、エレは見計らって長い鼻で大きく息を吸った。そして、肺に溜めた空気を鼻から一気に吐き出し、黒狐のビックバンほどの猛烈な嵐を繰り出した。
 黒狐の動きが一瞬止まった。このまま押し込んでおれたちが畳み掛ければ、黒狐を倒せる。そう思った矢先、天に浮かんでいる大きな赤い目が嘲り、エレの元まで徐々に黒く染め上げていく。エレはさらに勢力を強め、黒狐の侵寇を抑え続けた。
 伊武輝は方向転換して、エレに加勢しようとした。その時、エレが短い尻尾でピンピンと方向を差して、逃げろと言っていた。
「もう逃げられない。おれたちも戦う!」
だが、エレが繰り出した嵐がピタリと止んだ。呼気を出し尽くし、息苦しそうなエレの顔が、伊武輝に向けられた。
「たのん、だぞ」
 呼吸の途切れ途切れにそう言うと、黒狐は、エレの挫けた信念ごと、黒い波で覆いかぶさった。
「……くそっ」
 伊武輝は悔しそうに拳を握りしめ、そのまま振り返らずに走り出した。
 終わってしまう——なにもかも。いったいどうすりゃいいんだ!
 絶望を秘めて走り続けていると、ふと、何かが伊武輝の傍を通り過ぎた。不穏が、胸のうちで過ぎる。
 振り向くと、前方に走っていたはずのマナが、頰を地に着いて倒れ込んでいた。微かに横腹が痙攣し、口が半開きになって舌が出ている。
 伊武輝は、マナの淀んだ目を確かに見た。
「マナ!」
 踵を返してマナに向かって跳躍し、必死に腕を伸ばした。黒い波が迫り来る。爆発しそうな胸をなんとか抑えながら、届け、届けと何度も念じた。
 伊武輝には、一つの確信があった。夢の守りを強固にするうちに、夢の作り方というものを知った。
 夢はつまり、悪しきものから献身的に守っている。まるで、誰かの愛情のように。
 我の命、愛しき命の永遠の盾となりたまえ。
 波に飲み込まれる寸前だった。マナの周りに大きな白い球体ができた。それが、マナを守る盾となり、黒狐に飲み込まれてもマナは消失しなかった。
 だが、伊武輝の姿はどこにもいなかった。
 球体の中でふわふわと漂うマナは、疲れた顔であたりをきょろきょろと見渡した。そしてハッとなり、誰かを探すように球体の中であちこち動き回った。球体に向かって体当たりしたり、牙で噛み砕こうとしたりした。
 だが、マナは涙ぐんで、誰かに呼びかけるようにこぉーんと天に向けて、甲高く鳴いた。その声は誰にも届かず、真っ暗闇に消えていった。

 現実ほど、厳しいものはない。
 過去を思えば後悔し、未来を思えば不安がる。そして今ある世界から逃げたくなる。
 おれはただ、平穏に過ごしたかった。
 人と親しくなって、一緒にくだらないことで笑い、美味しいものを食べ、同じものを見ていたかった。
 だけど、そんな夢はもう叶わない。
 誰かが始めた戦いは止まらない。目には見えなくとも、耳には聞こえなくとも、戦いから生まれるその悲痛さは、幻となって胸の内に残る。
 きっと誰だって戦いを望まないはずだ。だけどその幻は、そして現実は、いつだっておれを惑わし、試している。
 逃げるのか、戦うのか。
 そして、巨大なちからは、いや、あの男は、これを利用して人々を支配する。巧妙なシナリオを作り、どちらを選んでも、同じ結果を得られるように。
 おれはただ、平穏に過ごしたい。
 そのためにちからをつけるのは、果たして、良いことなんだろうか。もしかしたらあの男ではなく、おれがあの男のようになってしまうかもしれない。おれだけじゃない。人それぞれ、ちからをつけていったら、誰だってあの男になってしまうんじゃないか。
 ちからは、人を変えてしまう。ちからは、平穏を壊してしまう。
 でも、マナ。お前はどうしてお前でいられる? ちからを悪用すれば、ラクに生きることだってできたんじゃないか? 不安も後悔もなく、恐怖もなく暮らすことだってできたんじゃないか?
 それなのになぜ、お前はお前でいられる? おれには理解できない。
 だけど、これだけは言える。たとえマナにちからが戻ったとしても、あの男には歯が立たない。つまり、善意は悪意に勝てない。
 夢を見ても見なくても、現実を見ても見なくても、結局は奴の思う壺。もう道筋は決まっていたんだ。
 なあ、マナ。おれたち、このままどうなってしまうと思う?
 あの男の奴隷として、死ぬまでずっと働かされ続けるかもしれないな。飴と鞭をうまく使い分けて、ずっと飼い殺し状態のまま生きていくんだ。仕事が与えられ、達成できたらドーパミンを放出して気分を高揚させ、できなかったら電気ショックで苦痛を与えられる。病気や怪我をしたら、治療薬で完治させてまた働かされる。
 虚しいよな? でも、奴はきっとそういう奴だ。殺さず、利用するだけ利用して捨てる。そういう奴だ。
 お前はどう思う?
 こんな世界、誰も望んでいないはずだ。だけど、こうなってしまったということは、少なからず、奴の問題だけで済ませられるはずがないんだ。
 なんで人は殺し合う? なんでこんなにも不公平で、不平等なんだ?
 そんな世界を望んで作った人たちがいて、そんな世界を望まずに支える人たちがいる。そんな世界を支えない人が一人でもいたら、徹底的に強制されるか、排除される。
 おれも、きっとお前も、そんな世界を支え、生きている。
 だから、おれたちにも責任がある。こんな世界、残してはいけないんだ。無駄だとわかっている。でも、叫ばずにはいられないんだ。
 だから、マナ。お願いだ。返事してくれ。
 残酷な世界で、どんな傷や病を負っても、お前は生きている。おれはそれだけで十分だ。
 だから、マナ。お願いだ。返事してくれ。
 残酷な世界で、苦しくても悲しくても、お前は変わらない。おれはそう願っている。
 だから、マナ。お願いだ。
 おれが消えていなくなっても、おれのことは忘れないでくれ—— 


 伊武輝(いぶき)は、自分の体が、誰かの腕の中にいることに気がついた。
 体がゆっくりと降ろされ、背中から硬い地面の感触が伝わる。脇目を振ると、伊武輝の近くで誰かが見下ろしていた。辺りは真っ暗だが、自身から放つわずかな光で、相手の容姿がわかる。
 伊武輝が目を醒ますと、近くでしゃがんでいた人物が目を細め、嬉しさのあまりに笑声を漏らした。
「懐かしい顔だ! 心配したんだぞ」
「お前、なんで……」
 そこにいたのは、伊武輝が最初に出会った夢の住人だった。翼で縦横無尽に飛び回る夢のゴザムだ。
 彼は、伊武輝の肩を力強く揺すりながら、濁声で不満を口にした。
「あれからずっと待っていたのに、お前は全然来なかった。どう説明してくれるんだ?」
 頭がぐらぐらするが、努めて返事をした。
「だってあれは、もう敵が来ないようにしたから……」
「水臭い奴だな。通りかかったなら、声かけてくれよ」
 どういうことだ? おれはもう、マナの身代わりとなって、死んだんじゃ……。
「まったくよ」
 ゴザムの陰から母猫が現れた。伊武輝の顔の近くに立つと、前足で自分の顔を掻いた。
「でも、あんたがあの子の父親だったら、どんなによかったことか」
「……それってプロポーズ?」
「違う! 感動したって言いたいの」
 少し頰が赤らめると、違う方向からまた誰かが来た。
「ねえ、子供って何才なの?」
 ゆうとが現れ、母猫を抱きかかえた。
「あんたと同じくらいだけど?」
「友達になれるかな」
 不安そうに言うと、母猫は優しく微笑んだ。
「ええ、普段は大人しいけど、遊ぶとなると活発な子よ」
 わいわいがやがやと賑やかになってきた。伊武輝は体を起こして、みんなに疑問を投げかけた。
「なあ、お前たちがいるってことは、やっぱり、死んで……?」
 ゴザムは伊武輝の言葉を聞くなり、鬼の形相になった。
「失敬な、そんなわけがなかろう!」
 ゴザムは腕にはめている防具を外すと、鍛え抜かれた腕の筋肉があらわになった。するとそこには、白い噛み傷ができていた。ゴザムだけでない、母猫も、ゆうとも、みんな腕に同じタトゥーができていた。
「あの白狐(しろきつね)が、残していったのよ」
 ゆうとは伊武輝に母猫を渡した。母猫は伊武輝の腕の中で話し続けた。
「あんたたちと別れたあとにね、いつの間にかできていたんだ。最初は何かの病気かと思ったんだけど、そうじゃなかった」
「伊武輝よ。我々は、あの狐に守られているのだ。あの禍まがしい妖気に飲み込まれてもなお、生き続けているのだ」
 伊武輝は母猫を地面に下ろした後、袖を捲って自分の腕を見た。三人と同じように、伊武輝もまた、白い光を放っていた。
「おれは生きている?」
「ええ、きっと白狐の盾としてね。でも、ほら、見て」
 母猫は尻尾で方向を指した。そこには、ぐったりと倒れているマナがいた。
「マナ!」
 全員、マナのもとへかけ走った。伊武輝はマナを抱きかかえて、何回か揺すった。だが、微動だにせず、依然として意識がないままだ。
「どうして。おれの魔法で守られているはずなのに」
「きっと、寂しいんだよ。ぼくもずっと独りで、弱り切っていたでしょ? それと同じだよ。狐さん、ぼくたちがそばにいるからね。元気出して?」
 ゆうとはマナに近づき、頭をそっと撫でた。ゆうとのタトゥーが、マナに吸い込まれていった。
「狐よ。お前の思いや努力は、決して無駄ではなかった。こうして恩返しができるのだからな。あいつは強すぎだ。だから、制裁してやらんとな。共に戦おう」
 ゴザムは、マナの前足に手を乗せた。すると、ゴザムの腕のタトゥーが、マナに吸い込まれていく。
「あんたを必要としている人がいったいどれほど多くいるのか、わからないでしょ? この光景を見せてあげたいわ」
 母猫は、マナの後ろ足にそっと前足を乗せた。またタトゥーが吸い込まれていく。
 伊武輝はハッとなった。マナが弱り切っていたのは、夢の摂理なんかではなく、ちからを分散していたからだ。戦闘に支障を来してもなお、黒狐(くろきつね)やウイルスの猛威から、夢を守り続けていたのだ。
 伊武輝たちの頭上から微かな光明が放つ。伊武輝は空を見上げた。
 それは、今まで見たことのない、満天の星空だった。いや、よく見ると、これは全部、夢の球体だ。一つ一つビー玉のように小さいが、満天の夢空が、マナを励ましにやってきたのだ。誰かが作ったまがい物ではない。ひとつひとつの夢が、思い思いに光っている。全部、マナが残した爪痕を頼りに、集まっていた。
 マナ、お前はすげえよ。どれだけ献身的で、親身で、優しいんだ? 自身を犠牲にしてまで、こんなにたくさんの夢を、守ってきたんだ?
 夢空から夢が、マナの近くまで一つずつ順番にゆったりと降りると、マナの体にすとんと入り込んだ。他の夢たちも続けてマナに入り込むと、マナに強烈な光を宿った。
 マナを抱えている伊武輝は目を細めた。マナの周りにいたゴザムや母猫、子供は夢の光に溶け込み、伊武輝の腕からマナが離れて宙に浮き始めた。
 光の中で尻尾が増え始めた。二本、三本、四本……そして九本になったところで、光の球体は急速に淡くなった。
 マナがゆっくりと地に降り立り、すーっと目が見開いた。瞳が金色に輝いている。
 伊武輝は熱くなる目頭を押さえ、マナのそばまで駆け寄ってぎゅっと抱きついた。マナも伊武輝と同じように、前足を背中に回して抱いた。マナの九本の尻尾がわさわさと嬉しそうに振っている。
「マナ! よかった。本当によかった!」
 マナは目を細めてへっへっへっと呼吸している。だが、喜びもつかの間、その呼吸がピタリと止まった。背後から殺気を感じる。
 伊武輝は抱擁をやめて、後ろに振り向いた。
 あの黒狐が、怒りに満ちた目でこちらを見ている。
「ナノボットを通じて、常に脳を監視していた。痕跡もちゃんと確認した。見落としもない。なのになぜ、これほどの数を、お前が従えている!?」
 マナの金色の目が、黒狐の赤い目を見つめていた。
「なぜだ、なぜなんだ。お前は仮想世界の脆弱性を見つけ、それを利用して自分の体と分離した。そしてこの地へたどり着いた」
 解せない顔で、黒狐が強い口調で続けた。
「俺はお前らを利用してここに来られた。だが、つかさ、一体どうやってここを見つけた? 誰よりも早く見つけ、俺の支配から免れるために、誰よりも早く脆弱性を修復したというのか? ありえない! この世界にはプログラムなんてない。不可能だ!」
 マナは依然として、口を開かない。
「現実とは違う、プログラムも通用しない何かが、この世界にはあるのか? ああ? 答えろ、つかさ!」
 黒狐が威圧しても、マナは動じない。しかし、黒狐は目を見開いた。
「まさか、俺が知らない脆弱性があるのか?」
 黒狐がそういうと、マナは落ち着き払って頷いた。黒狐は眉間にしわを寄せた。
「お前がちからが弱まっていたのは、振りだと思ったが、そうではなかった。俺の知らないナノボットの脆弱性を利用したと?」
 マナが再び頷くと、伊武輝は目を見張った。
 そうだ。マナが今までちからが出せなかったのは、夢を守る方に割いていたからだ。だけど、ナノボットの脆弱性を利用したなんて、おれはそう思わない。
 黒狐が初めて怯んだところで、伊武輝は揺さぶりをかけた。
「なあ、怖いのか?」
 伊武輝は黒狐に訊いた。黒狐の耳がピクリと動いた。
「ああ? そんなわけねえだろう?」
「予測不可能の出来事が起きて、どう対処すればいいのか、動揺しているんだろ? 声にちからが入っているぞ」
 黒狐はふんと鼻を鳴らした。
「違うな」と、冷笑になった。「確かに予測不可能の事態だが、簡単な話だ。ただつかさを殺せばいい。それだけだ」
 伊武輝は杖を取り出すと、杖先を黒狐に向けた。
「できるのか? 確かに、お前は一度人間全てを支配した。だけど、なあ、わからないのか?」
 マナは目を閉じて、九本の尾をピンと立たせた。尻尾の先から金色の光を発すると、真っ暗だった悪夢の世界が、一端から徐々に元の青白い世界へと変わっていく。
「もう誰も、お前のことなんか許さないぞ。みんな、マナを応援している」
 青白い世界の侵食が、黒狐の前でピタリと止まった。黒狐は深い憎しみでグルルと唸っている。
「勝者は、俺一人だ。俺の邪魔をするんじゃねえ!」
 マナに対抗するように、黒狐も尾を十本に増やした。怒涛の咆哮をあげ、悪夢の世界を維持し続けた。
 世界の半分の黒と、もう半分の青い白がぶつかり合う。天上も地面も、二つの色がわずかに均衡を保っている。ピキピキと空気が割れる音が響き渡り、天上からガラスの破片のようなものが落ちてくる。
「マナ、復帰祝いだ。受け取ってくれ」
 パリンパリンと地面にぶつかって砕け散る中、伊武輝はマナの肩を身に寄せ合うと、杖を前に突き出した。杖の先が青白く光ると、青白い夢の世界が、悪夢の世界を押し始めた。マナは嬉しそうに、口角がちょっとだけ上がった。
 焦った黒狐は、再び咆哮をして、マナに負けじとちからを振り絞った。背中を丸め、ガクガクと足を震わせて最後の一滴まで出し尽くしても、伊武輝とマナのちからには敵わず、悪夢の世界が押される一方だ。
 黒狐の勢いが徐々に収まっていき、尾の数が九本、八本、七本と減り続け、そして元の一本に戻った。
 夢の世界が元に戻る。暗闇が晴れ、悪夢の世界が消え去り、あとに残ったのは黒狐一匹になった。青白く輝く空間の中で、黒狐がマナの強さに圧倒されている。
 黒狐はわなわなと体を震わせていた。
「つかさあ!」
 逃げ出さない黒狐は、やけになってマナに正面から飛びかかった。牙をむき出しにしてマナの喉元を食い破ろうとする。
 黒狐の目と鼻の先で、マナの目がカッと見開いた。そのちからは凄まじかった。黒狐が音もなく、虚空でぱっと粒状になって消えたのだ。黒い粒状が白くなり、地面の一部となって溶け込んでいった。
 悪夢が消え、夢の世界が元に戻った。マナに入り込んだ夢がマナから離れ、それぞれ散り散りになった。散っていく数と比例して、マナの尾も減って一本になり、瞳の色が蒼に戻った。
 夢は何事もなかったかのように、地中に潜り込んだ。ゴザムも母猫も、ゆうとも、皆、夢の中で眠っていた。
 彼らの安らかな顔を見て、伊武輝はほっと胸をなでおろした。
「やったな、マナ」
 伊武輝はマナの頭を撫でた。マナは嬉しそうに目を細めて笑みを浮かべた。尻尾も大喜びでぶんぶん回っている。
 マナが生きていることに喜ぶ一方、唯一気がかりなのは、犠牲となった夢の守護者だった。伊武輝は眉をひそめた。
「夢は守れた。だけど、バクやエレ、リアたちは、もういない?」
 それを聞いたマナはしゅんとなって、悲しげに頷いた。
 マナは、夢に爪痕を残した。だけど、夢の守護者にはできなかった。いや、しなかったんだろう。反撃を食らうかもしれないからだ。だからマナはしなかった。伊武輝はそう解釈した。
 ほとんどの夢が地中に潜り込む中、ただ一つだけ宙に浮いている夢があった。
 マナはその夢を見つけると、ピンと尻尾を立たせ、近寄っていった。
「マナ?」
 伊武輝もその宙に浮いている夢まで歩き、中を覗いた。空っぽだった。誰もいないのに、夢は何かを守っていた。伊武輝は直感した。
「これが、おれの夢なんだな」
 マナが頷いた。
 伊武輝はマナに両腕を広げてみせた。
「まったく、変だよな。誰もいないのに、夢はそのことにも気がついていない。少しは気づけって」
 そう言うと、伊武輝はかすかに笑みを浮かべ、空っぽの夢を見ながら腰にゆったりと手を当てた。
「悪い。そうじゃないよな。おれのこと、ずっと待っていたんだよな。いつか戻るって……ただいま」
 そう言うと、マナが、伊武輝の足に体をゴシゴシとこすりつけてきた。くーん、くーんと鳴いて、お別れを惜しんでいる。
 伊武輝は、マナの頭をぽんぽんと軽くたたくと、閑散としたこの地を見て思った。
「なあ、マナだけで、悪夢を退治できるのか?」
 マナの体がピタリと止まった。伊武輝はマナに背を向け、更地同然の夢の世界を見ながら話し続けた。
「矛盾しているのはわかってる。だけど、あれだけ大勢の仲間がいなくなったんだ。最大の猛威は過ぎ去っても、たとえ悪夢の数が激減しても、絶対に無理がある。おれがここに残って、少しでもマナのちからになれないか?」
 マナは背中を丸めて、少し俯いた。
「覚悟はできている。おれは、大事なものを守る」
 マナは考え込むようにゆっくりと目を瞑った。
「それに、おれはいつだって戻れる。だから……」
 それは一瞬のことだった。伊武輝がマナに振り返る瞬間、重心が乱れ、伊武輝の体がよろめいた。そのままの勢いで、背中から夢に倒れていく。
 真っ白な光が、マナを覆いかぶさって見えなくなる途中、確かにその声が耳に残っていた。
 遠く離れていくマナが口を開いて、空気も水も透き通るくらい綺麗な声で、ありがとう、と。

決意

 現実は、もはやパニック状態だった。
 ナノボットに依存しきっていたことによって、経済も治安も機能していなかった。皆、思い思いに感情をぶつけ合い、互いに傷つけ合っていた。
 そう、ナノボットが停止してしまったのだ。いや、ナノボットがお互いにもみ合って消えてしまったか、人体そのものがナノボットを敵とみなして排除したのかもしれない。
 ナノボットの消失によって、大打撃を受けたのはこれだけではない。食料がないので、餓死者が多数いた。仮に摂取しても、今度は消化器官がうまく機能しないので、消化不良、便秘、嘔吐、栄養失調、脱水症状、最悪の場合、腸の破裂だ。
 病原菌による感染に対してとても弱く、風邪を引いただけで生死に関わるほどだった。食べ物にありつけても、付着されている細菌で体を壊してしまう。
 人は、人に頼ることもできなかった。疑心に深く染まり、略奪や強盗は絶えなかった。中には押さえ込まれていた感情が爆発し、うつ病になった人も多い。記憶喪失になった人もいる。もちろん、こうした状況だから、自殺者は大勢いたのは容易に想像できた。
 伊武輝(いぶき)は、ごくわずかだが食事もしていたので、それほど影響は受けなかった。
 ただ、夢から覚めたときは絶望的だった。夢の世界にいる間、どうやら体は大学病院に移されたらしく、体のあちこちにチューブが繋がっていた。意識不明の状態でもナノボットは機能していたらしいが、何が起こるのかわからないので、念のためと言って対策した結果がこれだった。
「どうしてだよ、マナ……!」
 伊武輝は目覚めるなり、感情を爆発させた。抑えきれない握り拳を傷つけ、体につながれたチューブを引きちぎって、ジタバタと手足を動かして暴れ狂った。看護師が三人がかりで、伊武輝の暴走を必死に抑えていた。 
 まださよならって言っていない。でも別れたくない。まだ一緒にいたい。
 そんな幼稚な考えが、頭の中で何度も何度も反芻する。反芻すると、胸がより苦しみ、どっと涙が溢れ出てくる。恐怖よりも、すごくこんなにも、胸が痛くてたまらない。


 幸い、病院の人たちはナノボットの影響が少なく、伊武輝を親身に看病してくれた。悲しみから立ち直るのに数ヶ月まで及んだ。
 伊武輝が目覚めて落ち着いた頃、医師から腕のタトゥーについて聞かされた。
「周期的に青白い光を放っていましたが、とりわけ、大混乱が起こった後、突如眩い光を放ちました。だけど、今はもう、そのような異変は見られません」
 その話を聞いた伊武輝は、「そうですか」とどうでもいいように返事をすると、名残惜しそうに腕を摩った。
 病院で一日二日と時間が経るうちに、夢の世界での記憶が段々薄れていった。
 あとどれくらい記憶を保持できるかわからないけれど、ほとんど忘れてしまう日が来るのは、そう遠くないだろう。
 伊武輝は忘れ去ってしまうのを恐れていた。悲しみにうちしがれる中、医師に頼み込んでノートとペンを用意してもらった。
 最初は手にちからが入らず、線が思ったように動けなかった。長い眠りから覚めたばかりだからということもあるけれど、大方はナノボット喪失のせいだろう。ナノボットさえあれば筋力を維持できるが、今はもう頼れない。
「振り絞れ、頭の隅々まで。動かせ、指が折れるまで」
 そう言い聞かせながら、伊武輝は歯を食いしばって、起きてから寝るまでずっと書き続けた。顔からポタポタと滴る雫で、不恰好な文字がぐにゃぐにゃになっても、気に留めずに書き連ねた。マナが登場するたび、胸が強く締め付けられた。
 悲壮に囚われるか、脱するかは本人次第。そうだろ、篠野(しのの)
 退院する直前、看護師から「退院するときは裏口から出るように」と言われた。
 その理由は、昼夜問わず毎日、患者がすし詰め状態で病院に押しかけているからであった。次の診察は数年先だと言う。ナノボットがいたら数秒で終わるに違いないが、頼りすぎたツケが回ってきたのかもしれない。
 悲壮から立ち直りつつあるおかげで、いくばくか気持ちに余裕ができた。世間ではどんなことになっているのか知りたくなり、病室に設置されているテレビに電源をつけた。
「仮想世界の消失により、意識不明者が多数」
 ナノボットが機能しない現在は、無論、仮想世界も消えた。つまり、学校に行くことができなくなった。
 篠野はどうなってしまったのだろう。マナに守られていたのなら、あのときウイルスに乗っ取られることはなかったはずだ。
 マナが守っていた夢は、全てではない。なんせ、夢の数は人間の数と比例する。百億人に迫る勢いがある人類を、たった一人でどう守ろう?
 だからきっと、篠野はもういない。
「バイオハッキングの首謀者の足取りを追っています」
 ニュースでは、このナノボットの事件の一連を、史上最悪の世界規模バイオハッキングテロと称して報道された。事件の捜査線上に、ナノボットを開発した代表者が浮上した。しかし、その消息がわからず、確固たる証拠もなかなか見つからないそうだ。
 消息の件はよくわからないが、証拠は見つからないに決まっている。誰も夢の世界には行けない。痕跡をもみ消す。夢の世界は侵入者を許さないのだ。
「食料を求め、都市から地方へと、人が流出しています」
 この時はまだ、まさか遠出をするなんて思いもしなかった……。


 退院後、伊武輝は、とある喫茶店に訪れていた。お店を建ててからだいぶ時間が経っているはずなのに、汚れも傷みもなくしっかりと手入れされている。木造のその店は、森の深くにあった。
 伊武輝は額に流れる汗を拭った。季節はもう秋だが、残暑がしつこく日本列島に残っていて、体が汗ばんでいる。
 大混乱しているこのご時世、本当だったら野営できるほどの荷物が必要だが、か弱い体が耐えられなかった。せいぜいショルダーバッグが限界だった。
 あとは無理を承知で、喫茶店に『届け物』を渡すついでに働かせてもらい、その対価として、寝床や食料など、生活するのに必要なものを援助してもらうしかない。
 頼れるのは、もはやこの喫茶店の他にない。
 喫茶店に近づくと、伊武輝は樹木にぶら下がっている看板に気づいた。看板には英語でマナと書かれてあった。
 そして、伊武輝はまさかと呟き、樹木の幹に触れた。
「これが、桜」
 仮想世界でしか見られなかった、本物の桜。ごつごつしていて、手に、苔や幹の破片のようなものが付いている。桜の匂いが、かすかに鼻をくすぐってくる。
 マナも、この感触を知っているのだろうか。一緒に桜を見たかったな。
 マナの無邪気な笑顔を思い出すと、重いため息が吐き出た。
 伊武輝は、喫茶店の窓に近づいてそっと店内を覗いた。一人の男性が、カウンターのテーブルを拭いている。
 間違いない、確かにここだ。お店も店長も健在のようだ。
 伊武輝は窓から離れ、喫茶店の扉を開けた。からんからんと、乾いたベルの音が出迎えてくれた。
 その音に、銀髪の男性が顔を振り向いた。彼は、マナが慕っていたあの向井だ。
「まだ時間じゃないんだが」
 向井がそっけなく言うと、伊武輝はショルダーバッグを下ろし、その中から手紙を取り出した。
「向井さん宛てにお手紙が届いています」
 向井は、ドアに立つ伊武輝まで歩み寄って手紙を受け取ると、伊武輝のことをじろじろと見た。
「見た所、郵便屋さんではなさそうだが」
「かおる、という人物から頼まれました」
 そう言うと、向井の目が見開き、手元の手紙をまじまじと見た。
「そうか。お昼は食べたかね?」
 冷ややかな声色が親身になった。
「いえ、まだです」
「じゃあ食べていきなさい。お代はいらない」
 ありがとうございます、と伊武輝は言うと、向井はキッチンに入って調理に取り掛かった。伊武輝は適当な席に腰掛け、思いに耽った。
 手紙が届いたのは、退院した後、誰もいない自宅に帰ったときだった。一通は向井宛、もう一通はこの手紙を受け取った第三者宛だった。だけど妙なことに、郵便局のハンコがなく、第三者宛の手紙の封が切られていた。誰かが読んだのかもしれない。
 第三者宛の手紙には、こう書かれていた。

 この手紙を受け取った人が寛容な人だったら、これから記す場所に、もう一通の手紙をどうか届けてほしい。もしかしたら受取人はもういないかもしれない。いなかったら処分してもいいし、勝手に読んでも……うーん、やっぱり読まれたくないかな?
 かおるより。

 かおると言う名は身に覚えがない。手書きではなく、印刷文字ということも相まって、男性も女性もわからない。なぜ、郵便に出さなかったのかもわからない。よほど手紙の内容を秘密にしたいらしい。
 ただ、記された場所に伊武輝は驚いた。
 喫茶店マナ。
 もう一通の手紙の宛名が、向井と書いてあるじゃないか。
 伊武輝は空腹に悩まされ、食べ物に飢えていた。そしてマナのお気に入りのお店。行かないわけがなかった。
「ほら、カレーライスだ」
 伊武輝の思考が中断され、目の前に置かれたカレーライスの匂いをくんくんと嗅ぐなり、涎が口の中でどっと出てきた。早く食べたいとお腹が鳴る。
 いただきます、と手を合わせ、むしゃくしゃと食べ始めた。
 その間、向井は手紙の封を切り、手紙を広げた。上から下へと繰り返しながら、文章を目で追っている。口も鼻も眉もぴくりとも動かない。夢で出会った向井さんとは大違いだと、伊武輝は思った。だけど、かおるという人物に反応があったから、向井本人であることには間違いないはずだ。
 向井は手紙を持った腕を下ろした。何か反応を見せるかと思いきや、何も言わずに裏口へ出てしまった。
 何か良くないことが書かれていたのか?
 心配だが、カレーライスを食べ終えて満腹になると、睡魔に襲われた。立つ隙間もない電車に押し込まれ、半日にも及んだ立ちっぱなしの姿勢は身にこたえた。
 伊武輝は食器を隣に寄せると、そのままテーブルに突っ伏した。伊武輝の瞼は重くなり、自然と眠りへ誘われた。


 そこは何もなく、ただ見渡す限りの地平線が広がっていた。黒狐(くろきつね)を倒した直後の、夢のない夢の世界のようだ。
 青白い空間にぽつんと立つ伊武輝は、瞬きを繰り返すと、目の前にマナがぱっと現れた。一本の尻尾が地にぺたりと横たわり、蒼色の目をしている。立ったまま、微笑んでいるのか、悲しんでいるのか、よくわからない複雑そうな顔をしている。
 伊武輝は一笑した。
「とうとう夢にも現れるようになったか。もっとも、おれの記憶から作られたマナなのか、本人なのか、わからないけどな」
 無駄だとわかっても、言わずにはいられなかった。だが、沈黙を守り続けていたマナの口が開いた。
「幻か、本物か、大事なのはそこじゃないわ」
 伊武輝の目が見開いた。声が透き通っていて美しい。大人みたいに落ち着いている。
「大事なのは、今もなお、私のことを覚えていて、思いを寄せている。それがいつか、希望となる」
「やっぱり、あのとき、マナの声だったのか」
「ええ……」
 マナはぺたりとお尻を地に着けて座った。
「私に聞きたいこと、たくさんあるんでしょ?」
「ああ、たくさんな」と言ったものの、あまりにも突然のことだったので頭が真っ白になっていた。頭の中で一つ一つ整理して、やっと口に出した。「最初に出会ったあのとき、なんでおれを助けたんだ?」
 マナは微笑んだ。
「エレは、ただ何もしないで、夢を俯瞰していたわけじゃないわ。夢を分析して、どのような悪夢が生ずるのか、事前に予測して対策を練る。とても大変な役割を担っていた。だけど時に、夢を通じて未来を見る人がいる」
「それって、正夢とか、予知夢のことか?」
「そう。エレは悪夢の対策を練るとき、予知夢を参考にしていることがある。予知夢の中には、伊武輝、あなたの夢も含まれていた。正夢にならないこともあるけれど、あなたの予知夢に、私と一緒に崩壊を止める暗示があった」
「そんな夢、おれが見てた?」
 心当たりが全くない。気づかないうちに忘れてしまったんだろう。
「ええ。それを見たエレの行動は早かった。すぐに私に指示を出して、夢の世界へ連れ出す機会をうかがった。そして、ウイルスが一つの仮想世界を崩壊させたあの日、実行に移した。エレは周りに悟られないように、演技でみんなを騙してまで、迫り来る脅威に備えた」
 伊武輝は腰に手を当てた。
「じゃあ、もしその予知夢がなければ、助けなかったということか?」
「それはわからない。エレの言いつけで、人を夢の世界へ連れ出すことはできない。忠実にその通りにしていた。でも——」
 マナは前足で頭を掻いた。
「——あなただけでなく、みんなを守りたい一心だった。だけど私は、大切な人を失ったとき、守るべきものが本当にあるのかどうか、もうわからなくなってしまった。間違った相手を助けることで、失うものが大きくなるときだってある。助けても、相手が変わらないままかもしれない。だけどね、たとえそれでも、私は一緒に歩みたかった。私が行動しなければ、誰かが悲しむ。それが悪事を助長させることになる。だからきっと、エレの指示がなくても、あなたを助けていたと思う」
 伊武輝は俯いて、もうタトゥーが無い腕を摩った。
「しなければよかったって思うこと、あるだろ? もしおれを助けなければ、あの黒狐が現れなかったのかもしれない」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。後悔することはたくさんあっても、無駄にはしない」
 伊武輝はまっすぐな目でマナを見た。
「それでもマナは守り続けるのか? 無駄かもしれないんだぞ?」
「そうかもしれない。でも、そうせざるを得ないのよ。私の決意が、そうさせるんだから。それに、行動する上で、誰かを悲しませないなんて無理な話。その代わり、その悲しみをみんなで分け合いっこして、みんなで消せばいい。それだけのことよ」
「でも度が過ぎると」
「みんな悲しむことになる」
 マナは目を伏せた。
「欲張りになってはいけない。肥大化した欲は、世界を滅ぼす。大切な人だけを守れば、それで十分。それが、他の人はどうでもいいということにはならないけど、自分はなんでもできると思い込むほど、破滅しやすい」
「だったら、またおれを夢の世界に戻してくれ。マナと一緒に戦う。お前一人じゃあ、人間すべての夢を守ることなんてできやしないからな。おれが現実に戻ってしまったのは、マナが運悪く体をぶつけてしまっただけなんだろう?」
 努めて明るい調子で言った。そうだと言ってくれと、伊武輝はそう思った。だが、伊武輝の思いに反して、マナは横に振って否定した。
「それは違う。私の意思で、あなたを現実に戻した。あなたは私と一緒に居てはいけない」
「どうして?」
 トーンが高くなった伊武輝の声に、怒りが加味されていた。
 マナは自分自身が何者なのかを確かめるように、片方の前足を上げて、その足をじっと眺めた。
「私は、ただひたすら悪夢を退治するだけの存在。もう現実には戻れない。だけど——」
 前足を下ろすと、マナは視線を伊武輝に向けた。
「——あなたはなんでもできる。起きて寝て、食べて運動して、大好きな人と会って話をして、勉強して、助けることができる。何かが間違っていると思ったら、声を上げることができる。自分で行動できる。人の悲しみが理解できる。人の喜びが理解できる。だけど、そんな一日を生きれるのは、本当にごくわずか。誰だってできるのに、できるはずなのに、できない人が多い。だから、あなたが教えてあげて。これは、あなたしかできないのよ」
 伊武輝は舌打ちをして、マナを指差した。
「思い上がるなよ、マナ! お前一人でどうこうできることじゃないんだ、夢の世界は! 悪心から生まれるたくさんの悪夢を、どう対処するんだ?」
 強く言い張る伊武輝に、マナは尻尾をフサフサと横に振った。
「ええ、だからお願いしているのよ。私にできないことを、お願いしているの。あなたは悪夢と向き合う方法を知っている。それを現実の人たちに、教えてあげてほしい」
 伊武輝はうろたえた。
「おれが……知っている? 馬鹿言うな。マナがいないと何もできない、無力の人間だ」
 マナは微笑んだ。
「ねえ、気づいてる? あなたはもう克服できている。心の傷が見せる幻はもういない。あのゴザムも、母猫も、ゆうとくんも、あなたの言葉で、行動で、悪夢に立ち向かうことができた。心の傷のおかげで、人を助けることができた。私のちからではできなかった。あなたしか持っていないちからで、助けたのよ」
 幻がどうのこうのと考える余裕はなかった。ただ、助けたいが一心だった。
「話は変わるが……」と、伊武輝が口ごもった。「別におれの口じゃなくても、お前が話せばよかったじゃないか。なんで今まで喋らなかった?」
 マナは顔を曇らせ、頭を振った。
「警戒をしていた、あの狐に。正直、あなたにも口をつぐんでもらおうと思った。でも、言い方は悪いけど、あなたを利用した。あなたが喋ることで、私から注意を逸らして、自分の身を隠すことにした。あいつは只者じゃない。それに夢の外も中も、未知の部分がとても多い。気を緩めることは許されなかった」
 伊武輝はこれまで話を聞いて、心の中で確信を抱いた。
 マナはやはり、もともとは人間だった。そして今は、どういう事情かわからないが、現実に戻れることができずにいる。篠野のように植物状態だから、というわけでもなさそうだ。
 マナは柔和に微笑んだ。
「だからかもしれないね。あなたがいなければ、こうして会うこともなかった。私の思っている以上に、あなたの存在がとても大きかったのよ」
「なあ、往生際が悪いのはわかっている。だけど、やっぱり辛いよ。現実は、どれだけ苦しいか……」
 現実に戻ったとき、おれは夢を見ているんじゃないかと思った。今までいた夢の世界が現実で、現実が幻だと思った。
 幻なら、いつか醒める。だけど何度も目を瞑って横になっても、幻は醒めなかった。しかも、この幻は狂気に満ちていて、心の拠り所がない。だが正真正銘、これが現実だ。
 伊武輝は拳を握りしめた。
「おれはマナと一緒じゃないとダメなんだ。大切な人と一緒にいられない痛みは、マナもわかっているだろ? 大切な人と使命、お前はどっちを取る? 大切な人だろ? おれにとっての大切な人は、お前なんだよ、マナ」
 マナの白い頰が、少し赤くなった。
「気持ちは嬉しい。だけどあなたは、もう夢の世界には戻れない」
 わかっていた。何度も自力で夢の世界に出ようと試みた。夢の中でかけ走ったり、ジャンプしたり。だけど、夢がおれを外に出してくれなかった。
 悔しい。とても悔しい。
 マナを一人にさせたくなかった。いや、また孤独になるのが嫌だった。
 手で触れられる唯一の暖かい気持ちを、二度と手放したくなかった。
「忘れたほうがいい。夢の世界も、私のことも」
 沈んだ声で言うと、伊武輝は目つきをキッと尖らせた。
「今までの出来事は、全部まやかしだったのかよ! この気持ちも、全部!」
 荒げた声をぶつけると、マナは横に首を振った。
「夢の世界は、幻だったのかもしれない。でも、あなたの中で生まれた思いや感情は全部本物で、あなたのものよ」
 マナが立ち上がった。どうやら、もう時間が来てしまったらしい。眠りから覚めてしまう。幻が終わり、現実に戻るときが来た。
「突然噛んだり、勝手に思い出させたりして、ごめんなさい」
「そんなこと言うなよ。おれこそ、殴ったり、叩いたり、怒鳴ったりしてしてすまなかった。だから……」
 伊武輝の声が震え、何度も頭を振った。
「おれはまだ別れたくなんてない!」
 マナは、伊武輝の言葉に引っ張られないよう、哀しみを笑みで隠した。
「あなたに会えて、本当によかった。ありがとう……元気でいてね」
 伊武輝に尻尾を見せながら歩き出した。もう慣れた体のはずなのに、足の感触を確かめるように、その歩調はゆっくりだった。
 体がふらつく。伊武輝は膝に手をついて頭を抱えた。
「マナ——」
 まだだ。まだ醒めるな。
 睡魔に必死に抵抗していると、伊武輝はふとあることを頭の中で過ぎった。
 マナのことを誰からも忘れ去られてしまったら、マナは死んでしまう。
 エレがかけた呪いだ。エレがいなくても、きっと呪いは効いているはずだ。マナが消えて無くなるまで、ずっと。
 あの時は夢の守護者たちがいた。だけど今は違う。マナのことを覚えているのは、おそらくおれしかいない。夢の住人たちが覚えてくれているとは限らない。
 マナがどう思っているのかはわからない。マナのことだから、死ぬことに後悔はないのかもしれない。
 だけどせめて、マナには幸せにいてほしい……。
 伊武輝の意識が朦朧としていて千鳥足になる。伊武輝は足にちからを入れて踏ん張り、頭をブンブン振って気をしっかり保たせながら、マナに向かって言葉を投げ掛けた。
「……忘れるもんか」
 マナの歩みがピタッと止まった。
 そうだ、楽しかった思い出を忘れたくない。笑ってじゃれ合ったときのこと、暖かい温もりを身に寄せて抱きしめたときのこと、全部。
「忘れるもんか」
 マナの顔がそっと伊武輝に向いた。
 辛かった思い出も忘れたくない。意思疎通ができなくて怒ったことも、怒られたことも、お互いのことが心配で不安で悲しんだことも、マナと過ごした時間の一部なのだから。
 全部、おれの大事なものだ。それなのに全部夢だったなんて、それで終わらせてたまるか。
「忘れるもんか! 絶対に!」
 気をしっかり保ちながら、伊武輝はちからを振り絞って吼えた。
 その直後、脱力しきった体に、見えない重力がのしかかってくる。伊武輝は崩れ落ちるように地面に突っ伏した。横たわる意識が薄れる中、地に着いている頭を精一杯上げた。
 夢が煌々と輝き出す。まん丸になっていた蒼色の目が閉じ、垂れ下がっていた白い尻尾が横にフリフリと動いている。
 白狐(しろきつね)マナは、目元や口元が優しく緩み、嬉しそうに微笑んだ。

MANA & DREAM 白狐の願い

MANA & DREAM 白狐の願い

白狐と一緒に、夢の世界を旅する。それはきっと、忘れがたい思い出になる。

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