映画館にて

 映画館の、ひとつのシアターの、座席のいちばんうしろで、然して興味もない映画を、観ている。
 楽しいのか、悲しいのか、おもしろいのか、つまらないのか、よくわからないまま、スクリーンに映る風景だけが、なんとなく美しいと思う。しらない国。しらない国の町。しらない国の、しらない料理。登場人物は、男と、女と、それだけ。この世界には、男と、女と、どちらでもないひとがいて、この映画には、どちらでもないひとは、いない。映画のなかの女は、熱帯地域の、未開のジャングルに棲息していそうな、過剰なくらい派手な柄と色の昆虫を想わせる。映画館で買うポップコーンは、キャラメルがいい。チュロスも捨てがたく、映画を観るというより、それらをたべるために映画館に足を運んでいる、つもりはないのだが、自然と、そういう感じになっている気がする。また、決して意識をしているわけではないが、上手い具合にお客さんが少ない映画を選んでいるな、と思う。テレビのコマーシャルや、雑誌の広告などで見たことがある映画を、無意識に避けているような、しかし、ぼくのなかで、映画館に行く目的のそれなりを占めているのが、売店で販売しているポップコーンやチュロスのためか、そもそも、映画そのものに対する関心が、薄いようにも思われる。真の映画好きからしたら、さぞ腹立たしい存在だろうなと、真ん中の列あたりで映画を観ているひとの、椅子の背凭れから覗く頭の上半分を見やる。男か、女かもわからない。どちらでもないひとかもしれないし、どちらでもあるひとかもしれない。世の中には、男であり、女でもあるひともいるかもしれないなと思いながら、アイスティーをストローで啜る。音を立てないように。
 映画や、ドラマのような恋愛がしたいと云っていたのは、妹だったか。妹は、そういう夢見がちなところがあって、ぼくには、まるでなかった。友だちが、彼女を作ったり、ナンパや、一夜限りの関係を愉しんでいるあいだも、ぼくは、世界の昆虫図鑑なるものを四六時中、眺めていたので、恋愛自体に興味がないようだった。(ナンパや、一夜限りのあれこれを、恋愛、として括っていいのかは、不明であるが)誰かを好きになるということを、ひとつの行為として考えていた。趣味の一種であると考えている節も、あるのかもしれなかった。映画にドラマ、漫画や小説のなかで繰り広げられる恋愛劇に、ああいった恋愛をしてみたいと、まだ見ぬ恋人に思いを馳せる妹を、ぼくは少し、羨ましく思うこともあった。おなじ血が通っているはずなのに、妹の方が、にんげんらしく思えた。彼女が欲しいと年中騒いでいる友だちは、ほんもののにんげんであり、恋愛よりも昆虫図鑑に夢中なぼくは、にせもののにんげんのように思えた。
 寂しさと、仄暗さと、冷たさと、息苦しさを感じさせるような音楽が、流れている。
 映画がいま、最も盛り上がるシーンなのか、クライマックスなのかもわからないで、しらない国の、目に痛いほど鮮やかな緑の森で、男が、倒れた女を抱きかかえて泣いている姿を、記憶に、焼きつけるように、観る。
 泣くほど好きなひとが、ぼくにできるのか。想いながら、観る。

映画館にて

映画館にて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-27

CC BY-NC-ND
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