模範解答の末路
百合注意。
「気持ち悪いね」
口角を少し上げて、微笑んでみせた彼女のその言葉が、もう耳に染み付いて消えそうもない。
体育館の床を何度もバスケットボールが弾む重たいドリブルの音。それがなければ、二人の間に流れる沈黙の息苦しさに、押し潰されていただろう。
「気持ち悪いし、なんか怖いなあ。できればもう、近くにいてほしくない」
笑顔のまま降り注ぐ刃。拒絶。拒絶。
拒絶。
「……あっ、はは。そうだよねー。わかるぅ」
わかる。だから、もうここにはいられないと思った。
鼻の奥がツンとする。手に持っていたバスケットボールを、一度床に叩き付けて、手に取る。指先の震えを悟られたくなかったから、もう一度床に叩きつけた。
「ま、冗談だからねっ? 私もシュート練戻るよ」
「わかってるよ。冗談だよね。私もだよ。頑張ってね」
ドリブルする私の背中に、彼女の声が致命傷を与える。
「小豆澤さん」
名字で呼ぶ。その距離感が、心臓を揺さぶる。
おかしいな。今まで、名前で呼んでくれてたじゃん。
なんて、言えるはずもなく。何も気付かないふりして、スパイクが床を蹴る音で紛らわせながら、ボールを床につく。
床を蹴って、宙に浮いたまま放ったボールが、がこん、と派手な音を立ててコートの枠に当たって、遠くに跳ねていく。床に落ちたボールのバウンドする音が、やけに虚しく響いた。
「ツバメちゃん、バスケ部入ってみない?」
中学生の頃、声をかけてきたのは、色素が薄くて綺麗な髪の女の子だった。イギリスと日本のハーフだとかで、顔も凄く整っていて、お人形さんみたいな子。その容姿に加えて成績もとても優秀な彼女が、私に話しかけてくるなんて思わなかったから、直視することもできぬまま「なんで私なんかを」と、咄嗟に口走っていた。
聞けば彼女はバスケ部のマネージャーをしているらしい。彼女のことだから、吹奏楽部でフルートとか吹いている方が似合いそうなのに。
「ツバメちゃん、部活何もやってないでしょう? 身長あるし、運動神経いいのに、勿体無いよ」
「で、でも私なんか、迷惑じゃない? その、多分、上手くできないし」
私が乗り気じゃなさそうだから、彼女は困ったような顔をしていて、背中に嫌な汗が滲む感じがした。断ったら、ガッカリされてしまうのだろうか。それならそれでもいい。今ガッカリされるのと、入部してからもっと多くの人の失望を集めるの、どっちがいいかなんて、考えるまでもないじゃないか。
「無理にとは言わないけど、私はツバメちゃんにバスケ部、一緒に入ってほしいなあって、思うのだけど……」
「どうして……? 私、多分下手だよ」
目を合わせるのが怖いから、俯いたまま言う。そうすると、彼女は私の肩に手を置いて、静かにちょっと笑った。
「そんなこと無いわ。バスケ部のマネージャーだって、本当は、こないだこないだ入部したばかりなのよ。……入った理由は、あなた」
「どういうこと?」
思わず顔を上げて、彼女の表情を覗った。少し照れたように笑いながら、肩を竦める。視線をふよふよと漂わせて、なんとなく、吹っ切れたみたいに、
「前、体育の授業でバスケをしたでしょう? そのときにね、見惚れてしまったの。あなたに」
なんじゃそら、と思った。と、同時に、顔が熱くなった。多分、嬉しくてたまらなかったのだと思う。
「……じゃあ、その、試しに」
相変わらず視線を泳がせたまま、私は言う。彼女が嬉しそうな声を上げた。よかったあ、と、心から私を求めてくれていたのだと思う。その笑顔を見ていたら、後悔なんて微塵も無かった。私、きっとやっていける。そう思えた。
実際、運動神経の良さだけは自信があった。バスケも、やってみれば、案外上手く行った。
「小豆澤、バスケは未経験なんだろ?」
顧問の葛城先生に、思ったより上手いじゃないか、素質あるぞと褒められて、私も満更でもなくなって。べっ甲色の床にボールを叩きつけながら、コートの外側にいたマネージャーの彼女を見る。ずっと私を見ていたみたいに目が合って、ふわりと笑みを浮かべながらガッツポーズをしてきた。私はそれに対して、少し照れくさそうにピースサインを返す。
そうして、一年生のうちはバスケ部として活動していて、練習を重ねるごとにどんどん上達して行って。いつの間にかエースなんて呼ばれるようになっていた。
高校に上がったある日。スリーポイントラインから放つボールは綺麗に放物線を描いて、スポッとゴールのネットを揺らして地に落ちる。部員が帰ったあとに、彼女と二人きりでいるとき、私のシュートを見たいとねだってきたのでやってあげたのだ。そんなの、いつだって見れるでしょ、とは思ったが、彼女と過ごす時間を悪いものだとは思わなかったから、それに応える。
「ツバメのシュートは、綺麗だよね」
色素の薄い瞳を細めて、彼女は朗らかに笑う。中学の三年間、部活や教室、放課後、共にいる時間の長かった私達は自然と仲の良い友達になっていた。共にいる時間に互いに安らぎを覚えていた。
「いつも練習中にも見せてるでしょ」
改めて褒められると、どう反応していいかわからない。落ちてきたボールをドリブルして、気を紛らわせながら言うと、彼女は首を振る。
「練習中じゃ、ずっとは見てられないもの。今だから、ずっと見てられる」
ドリブルしていたボールが、爪先に当たってあらぬ方向に転がっていく。今更そんな初心者みたいなミスをするなんてね、と笑いながらボールを追いかけたけど、私の心臓は煩く高鳴っていた。それに、顔が熱かった。彼女は、どういう意味で“ずっと見てられる”なんて言ったのか。
……特に深い意味はないのだろう。私が、変な期待をしているんだ。練習着の上から胸元を握り締める。手に鼓動が伝わってくる。
私は、少し人と違う。小学生のときに気が付いた自分への違和感は、彼女といるうちに確信に変わっていて。でも、こんな感情は許されやしないのだ。だから蓋をして、隠してしまわなければならないのだと思う。
私と彼女は、こんなに近いのに、こんなにも遠い。
「ツバメ、どうかしたの」
「ううん、何でもない。そろそろ、帰ろっか。片付けよ」
ボールを手にしたまま私がぼうっとしていたから、彼女が声を掛けてきた。何でもなくなんか無いよ。遠い。あなたが遠いよ。
もう一度胸の辺りに手を当てた。痛かったから。私の気持ちって、一生どこにもいけないまま、いつか霧散して消えるのを待たなければならないのかな。
そう思ったら、彼女に対する感情が溢れて、両目から色の無い形となって零れてきた。
彼女にバレないように両目を拭って、体育館倉庫のボール籠にバスケットボールを投げ入れる。
涙は。形となれど、直ぐ布に染み込んで消えてしまうのに、痛みは、形になることはなく、けれど静かに胸の奥底に居座り続けて、消えやしなかった。やがては、忘れてしまえるのだと思う。そう思いたかった。
「演劇部の月村先輩っているじゃない? 卒業しちゃったけど、たまに来る人」
「ああ、凄く演技上手かったっていう?」
高二の五月頃のこと。いつもの部活動中。休憩時間に彼女に話を振られて駄弁っていた。
「彼女、この間告白されたそうよ。女の子に」
女の子が、女の子に想いを寄せる。他人事じゃないから、ちょっと動揺して、でもそれを悟られたくはなかったから、どうにか適当に口角を上げる。
「なんでよ、うちの学校共学なのに」
「そういう子もいるんだよ。でもほら、月村先輩美人だもん。ちょっと分かるかもなあ」
彼女が“わかる”なんて言うから、変な期待をしてしまったのかもしれない。
その時の私は何を考えていたのだろう。何も考えてなかったのかもしれないし、何も考えてなかったから、そんなこと口にしたのかもしれない。
あのさ、となんでもないような切り口で。
「……もしも、私が恋愛的な意味であんたのこと好き、とか言ったら、なんて返す?」
何気ない会話。の、つもりで聞いた。彼女は表情を変えなかった。一瞬だけ瞳が揺らいだようにも見えた。彼女はじっと、私の目を見つめていた。驚いたわけでも、呆れたわけでもなく。ただ、眺めるように見ていた。そのうち、視線に負けて、へらっと笑いながら目を逸らしたのは私の方だった。
それからふわり。いつもみたいに彼女は笑って、ぽつり。
「うーん、気持ち悪いね」
断頭台へ、立たされたような気分になった。
薄く笑う彼女の顔を凝視したまま、私、どんな顔をしていただろう。
休憩時間中、誰かが床に付くボールのドリブル音がなければ、二人の間に流れる沈黙の息苦しさに、押し潰されていただろう。
「気持ち悪いし、なんか怖いなあ。できればもう、近くにいてほしくない」
休憩時間終了を知らせるホイッスルが鳴らされて、私は肩を跳ねさせる。手に持っていたボールを取り落としそうになって。なんとか、笑顔を作った、はず。
「……あっ、はは。そうだよねー。わかるぅ」
わかる。女の子が、女の子を好きなんておかしいのだ。気持ち悪いのだ。そんなこと、よくわかってる。でも、わからない。私はどうして、彼女を好いてしまったのか。どうしてそれが、いけないことなのだろうか。
ああ。どうして、どうして、この気持ちは溢れて仕方ないの。
もう“ここ”にはいられないと思った。
鼻の奥がツンとする。手に持っていたバスケットボールを、一度床に叩き付けて、手に取る。指先の震えを悟られたくなかったから、もう一度床に叩きつけた。
「ま、冗談だからねっ? 私もシュート練戻るよ」
彼女はいつも通りに笑う。マネキンみたいに。
「わかってるよ。冗談だよね。私もだよ。頑張ってね」
ドリブルする私の背中に、彼女の声が致命傷を与える。
「小豆澤さん」
名字で呼ぶ。その距離感が、心臓を揺さぶる。
おかしいな。今まで、名前で呼んでくれてたじゃん。
なんて、言えるはずもなく。何も気付かないふりして、スパイクが床を蹴る音で紛らわせながら、ボールを床につく。
床を蹴って、宙に浮いたまま放ったボールが、がこん、と派手な音を立ててコートの枠に当たって、地に落ちた鳥みたいに床に叩きつけられる。ボールの跳ねる音は心音みたいに響く。
まるで断頭台から転がり落ちた頭部が、床を跳ねまわるみたい。だとすれば、執行人は彼女なのだろう。
ああ、どうして信じたのだろう。どうして、彼女になら、私を理解してもらえるなんて思ったのだろう。少しだけでもそう思ったことが、取り返しのつかないことになるなんて思わなくって。
それから私は、私を殺した。
本当の意味でも死んじゃいたかったけど、できなくて。
髪を切った。色も変えた。後頭部で高く結いていた黒い髪を、校則違反の金色に染め上げた。
「ツバメの髪の毛、綺麗だよね」
彼女がそうやって褒めてくれたのを、よく覚えている。無器用な私に代わって、結いてくれたこともあったポニーテール。ショートにしてしまえば、縛れるほどの長さもなくなって。
バスケ部も辞めた。校則違反なんかして、顧問の葛城先生が許してくれるはずもないから、すんなりと辞められた。先生も、例えエースでも、こんな問題児をバスケ部に置いておこうとは思わなかったらしい。確かに驚いていたし、考え直せと言われた。全部うるさいと耳を塞いだ。私のことなんか、先生にはわからないと叫んで、逃げた。
彼女との関係を、尽く断ち切った。
私は、そういう意味で私を殺した。
今までの小豆澤燕を殺して、新しい私になって。死んだ気になった新しい朝は、何も正しくなんかない。間違ってるのはわかっていても、私は私を止められなくて。
本当なら、あの空に羽ばたいてしまいたかった。でもできなかった弱い私は、空を夢見て地を這う。
模範解答の末路