摂愛
約束の時間は2時間と16分も過ぎている。
入店の折に「後から来る」と説明してしまっている手前帰る訳にもいかず、僕は完全に途方に暮れていた。
個室なのが不幸中の幸いだが、時計をしきりに気に掛ける僕に、水を注ぐウエイターは気の毒だという目を向けている。居心地の悪い時間が僕を飲み込んでいた。
結局、彼は2時間と38分が経過した頃に、手を合わせて"申し訳ない"という顔をしながら現れた。
「君がそんなに時間にアバウトだとは思わなかった。」
「ごめんなぁ。仕事が長引いたんだ。」
「仕事か。なら、まぁ、許すよ。」
彼は警視庁で刑事のようなことをしているらしい。
と言うのも、実を言うと僕は彼の仕事についてよく知らない。僕と彼とは、高校から大学までを共に過した学友であり、今では半年に1度ほど電話で連絡を取り合い、偶に酒を酌み交わす程度で、お互いのプライベートに深く踏み込んだことも、探りを入れたこともないのだ。
僕が知っている限りの彼は、フォークナーと谷崎潤一郎を愛読する極めて理想主義的な大学生時代で時計を止めている。
ウエイターがにっこりと笑ってワインを注ぐと、彼は一言「乾杯をしても?」と尋ねてきた。
「したいようにどうぞ」僕が言うと、「かわいくないな」と笑い、グラスを傾けた。
前菜が運ばれてくる。今日はアスパラガスのムスリンソース。野菜嫌いを公言している彼にしては珍しいチョイスだ。
「俺が予約した店で野菜が運ばれてくるのは初めてだろ。」
「そうだね。君、屠殺場のビデオでも見たのかい?さてはベジタリアンか。ヴィーガンにしては、卵を気にしていないからね。」
彼はくっくっと声を抑えて笑うと、待ってくれとでも言うように掌をこちらへ向けた。
「これにはちょっと訳があってね。ゆっくり話そうじゃないか。俺と君が会わないこの半年間、俺が何をしていたのかを。」
なるほど、と思った。
「珍しいと思っていたんだ。個室にしようだなんて…。」
「そう。周りに人がいると気が張るだろう。」
「大して変わらないさ。」
「まぁまぁ。さて、聞いてくれよ。俺も話したくて喉からスピーカーが生えてくるかと思ったくらいなんだ。」
相変わらず独特な言い回しをする男だ。僕は心の中で毒づいたが、このぶんだと今の彼には何を言っても無駄だろう。ヘラヘラ笑って交わされるのも気分が悪い。
僕はナイフで丁寧にアスパラを切りながら、彼の言葉を待った。
*
「俺は半年前から4ヶ月、仕事でアメリカで日本人の組織に参加していたんだ。そこの奴らはみんな気さくな良い奴だった。優しかったよ。新参者の俺にも嫌な顔一つしなかった。でも…」
彼は僕がアスパラの上にソースを載せ、それを咀嚼し、嚥下するのを待ってから続けた。
「俺の"仕事"が問題だった。俺は覆面捜査官、所謂"ネズミ"なんだ。」
僕は返事に困った。
「そんなこと、僕に言って良かったのかい。」
小説やドラマでしか聞いたことはないが、一般人に言っていいものとは思えない。
「大丈夫さ。君は人に言いふらしたりしないだろ。」
僕は不安になった。彼はいつもそうだ。僕に理想を押し付けるきらいがある。
「たしかに僕は言わない。でもそうそうに人を信じるものじゃないよ…。」
「まぁいいよ。それで、俺はその組織が"食人"を繰り返しているという情報を掴んでいた。」
「ショクニン?」
「カニバリズムだよ。」
僕は手を止めて、目の前の空になった皿を見つめた。
彼はそれを見越していたようにふ、ふと笑うと「それはアスパラ。」と言った。
「揶揄わないでくれ。本当に、それを僕に言う必要はあったのかい?」
僕は憤った。食事の席でする話ではない。文句のひとつでも言わないと気が済まないと彼を睨みつけると、彼はヘラヘラと困ったように笑っている。
「もちろん、その説明だけをしに来た訳じやない。君にしか話せない事なんだ。俺は今本当に追い詰められてるんだよ。」
ウエイターがセープ茸のスープを運んできた。彼は丁寧に礼を言うと、僕の方を向き直り、飲むよう促した。
「それを見越して友人よ、聴いてくれるか。」
「僕を試しているね。」
「それもあるな。」
癪だった。ここで聴かないと言っても彼は怒らないだろう。しかし、それでは僕の気が済まない。
「続けて。」
「ありがとう、話させてもらうよ。俺には構わず君は食事を楽しみながら聞いてくれ。」
君は食べないのかい?と聞こうか迷ったが、これ以上無駄な説明を聞くのも面倒で、頷くに留まった。
「組織に…表向きは慈善活動家の集まりなんだが、とにかくその食人集団に潜入してから2ヶ月、俺はついに、食人の現場に立ち会うことができた。しかし、とてもじゃないが見れたものでは無かった。まだ胸を上下させている人間の皮を魚のように剥いで、丁寧に1つずつ内臓を抜いて…彼らは眠らせこそすれ、殺さない。生きたまま捌くんだ。その方が、活きがいいとか言っていた。心臓は、出来るだけ動いているうちが………大丈夫かい?お手洗いはあっちだ。」
僕は戻しそうになったが、何とか留めた。
胃から逆流してきた食べ物は、驚くほど味の原型を留めていない。生クリームは凝固してミルク味の"ダマ"がザラザラと舌を撫でるし、アスパラは唯の繊維の集合体となって飲み込むのを困難にさせる。僕はやっとの思いでその全てをワインで流し込むと、彼の方をチラリともせずに食事に戻った。彼はそれを無言の催促と取ったのか、またゆっくりと話し始める。
「そんな事が週に一度、木曜日に行われた。そこで仲良くなった男達は、人員の入れ替わりこそあれど、皆俺をしきりに食人に誘い、決まってこう言った。人間はいいぞ、どうしたって牛や豚や鶏では、あの淡白で、しかし耽美な味わいには叶いっこないとね。だから、俺はある日1人の男に、人間の何がそんなに耽美なのかと尋ねた。肉に耽美もクソもあるのかいと。」
僕は顔の血が引いていくのを感じた。
目の前の男は何故、こんなにも冷静なんだろうか。目の前で人間が皮を剥がされ、臓腑を抜かれ、"物腰柔らかな"狂人達に食われていくのを目にして、どうやって冷静でいられようか。まして、味について尋ねるなど…。
「そうしたら彼はこう言った。"違うよ、これがあいつだと思うと…。"と。俺は、そこで初めてその食材の顔を見た。先週、俺をここへ連れてきた男だった。」
彼はそこで久しぶりに僕の目を見た。
「どうだい、味は。」
「最低の気分だよ…。味なんて分かりっこない。」
「嘘つけ。そう言ってしっかり食べたじゃないか。」
僕は目の前に置かれた皿を見た。あれからウエイターは僕の皿を3度取りかえ、今は洋梨と白無花果の赤ワインコンポートが置かれている。
「人は、焦ると何かを口に運びたくなるんだ。心理学でやらなかったかい。」
「そういうことか。俺は不真面目な学生だったから、君と違って心理学はしっかりやっていないな。」
「覚えておいた方がいいよ。」
「なんの為に?」
「肥満を防ぐのに。」
彼は大声を出して笑った。ウエイターが何事かと、扉を少し開けたのが見えて、僕は唇の動きで「すみません」と伝えた。ウエイターはそれが通じたのか、僕に微笑んで、彼をちょっと見て帰って行った。
「それなら心配ないよ。」
彼は笑顔を取り払い、代わりに自嘲するような笑みを浮かべて言った。
「ここ1ヶ月、マトモに食えていない。」
僕は深く同情した。そして、自らが彼を恐れたことを恥じた。僕は彼の方を見てパクパクと口を動かし、この哀れな男に掛ける言葉を模索した。しかしその全ては唇はおろか喉仏までも到達せずに消えていった。
「いいや、違うんだ。君に電話したろう………そう、丁度1か月前。君はその時俺に"仕事が辛いなら斡旋してやるから辞めちまえ"と言った。」
僕は曖昧に頷いた。
「あまり覚えてないな。」
「そうだろう。君はひどく酔っていたからな。」
彼はそう言うと、僕のワインを分かりやすく横目で見て「泥酔には気を付けろよ」と言った。
「兎に角、その日までは問題なく食えたんだ。」
「なら、どうして食べられなくなったんだい?」
彼は首を傾げて1分ほど考え込んだ。
「その組織は、俺が帰国する2日前に自壊した。」
「自壊?捕まえに行ったんじゃ無かったのか。」
「本当なら捕まえるつもりだった。でも自壊したんだ。…帰国3日前の夜、近くで寝ていた男が突然苦しみ出した。俺は当然名前を呼んだが、そいつは自分の名前を聞いた瞬間ニヤッと笑って自分を喰い始めた。まず自分の手足の皮を、爪の間までしっかりと剥いだ。そして、美味いもんにむしゃぶりつくように足の肉を、1つ残らず喰い切った。それから、手に移った。奴が全て喰い尽くして尚、微笑みを携えて芋虫のようにうねっているのを見て、俺は奴に"どうして食べた"と問い掛けた。奴は胴だけの身体を不自由そうに起こすと、俺の目を見てこう言った───。」
彼は息をついて、また深く息を吸い込んで言った。
「"お前も恋をすればこうなるさ"と。」
僕は息がヒュッと逆流するのを感じた。彼の顔から表情が読み取れなくなったのだ。勿論、彼はずっと笑顔である。しかしそれは、彼に張り付いた仮面の表情だと思った。
「それで」
僕は努めて平生を装いながら、何となしという風に訊ねた。
「今、君はどうなんだい。」
彼はついに笑顔を仕舞って俯いた。
丁度のタイミングで、ウエイターが彼の前に皿を置いた。
彼は無言のまま、ナイフとフォークを持ち、「いただきます」と呟いた。
僕が言葉を失っていると、彼は"真っ白の皿"を前に微笑んでこう言った。
「君を愛している。」
摂愛