Fate/Last sin -22
周囲の草木が、風になびいて乾いた音を立てた。その上に、パラパラと小粒の水滴が草むらの上に降りかかる、微かな音が合わさる。
朝から降り続いた霧雨は、黄昏時にはもう止んでいた。夜も更け始めようかという今、植物の葉や枝に残ったわずかな雫だけが雨の名残となっている。
空閑灯は、無秩序に植物の生い茂る雑木林をかきわけるようにして、風見市を見下ろす北の丘陵地帯、その最も高い断崖へ立った。
眼下には、夜の帳が降りた風見市の街並みが一望できる。昨夜の動乱など忘れたかのように静かな夜景だった。身を切るように冷たい風が、背後から吹いてきて、灯を通り過ぎて街へ降りていく。
その夜景の最北端、灯のいる断崖から五百メートルほど草地を下ったところに、ひときわ大きな光がある。それは硝子の建造物の中で乱反射して、さながら研磨された宝石のように輝いていた。硝子のドームの中には、黒々とした植物の群生が複雑なシルエットを描いて浮かび上がっている。
「……この辺でいいでしょう」
灯が口にするのと同時に、小枝を踏み砕く微かな音が聞こえ、肉食獣が木陰から現れるような唐突さでバーサーカーが灯の真横に立った。
「下品な連中だな。やたらと眩しい。反吐が出そうな煌びやかさだ」
バーサーカーは悪態をつきつつも、その硝子のドームを凝視していた。エメラルド色の瞳が、隅から隅まで温室を眺めまわす。やがて飽きたのか、それとも何かの結論を得たのか、バーサーカーは、つと目を逸らすと、背後のやや離れた所に立つ一人の男に向かって声をかけた。
「セイバー。俺が言ったことを覚えているな?」
声を掛けられた彼は、二人の立つ断崖線には出てこようとせず、森の影の中からじっとバーサーカーを見据えた。セイバーはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。それ以上は何もしなかった。
「やれやれ。まるで虐待された犬のような頑なさよ」
「バーサーカー、彼に何か言ったのですか?」
灯が探るような目でバーサーカーを見ると、途端に彼は顔を険しくした。
「今夜の計画について確認しただけだ。王の話に要らん口を挟むとは、貴様も随分と見上げた女になったな」
「また仲間外れですかあ。私は少々悲しいですよ、バーサーカー」
「黙れと言ったのが分からないのか? それ以上不愉快な口を開くなら……」
「もういい、よせ。下らない言い合いをしている場合じゃないだろう」
バーサーカーが言い終わる前に、セイバーがたまりかねたように二人の間に割って入った。バーサーカーは不満げに灯を睨みつけ、灯は何食わぬ顔で眼下の温室を眺めている。
二人の間に入るようにして断崖に立ったセイバーは、灯の視線を追って煌びやかに輝く温室を見た。
「そろそろ頃合いか」
セイバーの言葉に、灯は首肯する。
「良いでしょう。では、伝えた通りに」
「……バーサーカー」
二人の視線を一度に受けたバーサーカーは、鬱陶しそうにため息を吐いて、不機嫌な顔に、より一層不愉快さを滲ませた。
「二人して俺を見るな。この俺を、誰だと思っている」
バーサーカーは白い軍靴の足で、断崖の淵まで歩を進めた。そして右手を開き、空を掴むと、その手には剣が生まれる。
そして一瞬、不意打ちのように灯の方を振り向き、口の端をつり上げて笑った。
「な、」
灯が何か言うよりも早く、バーサーカーは断崖から何の躊躇いもなく飛び出した。艶やかな赤いマントが北風に翻ったと思ったら、もうそこに彼の姿はなく、セイバーは断崖の淵に駆け寄って眼下を見下ろす。
狂戦士は駆け降りるようにして宙を舞いながら、既に何万もの同胞たちの影を召喚し、黒々とした剣を軍旗のように空に突き立てて、吼えた。
「畏れ多くも、華の十字軍、獅子心王リチャードが先陣を切る! 者ども、魔術師の恐れ戦く顔が見たくば、決して後れを取るな!」
怒号のような何万の兵の声が後に続いて、その軍勢は煌々と輝く硝子のドームへ迫っていった。
バーサーカーの引き連れた軍勢が断崖の真下からものの数分で丘陵地を越え、植物園の東へ回ったのを確認すると、セイバーは灯を振り返った。
「お前はここに残るんだな」
「ええ。全てが終わったら、目的の物を回収しに私も降りますが」
それはさっき確認したでしょう? と、灯はわずかに首を傾げる。そしてセイバーの物言いに合点がいったのか、ああ、と穏やかに声を上げた。
「心配しなくても、貴方が目を離した隙にあの可愛いマスターさんをどうにかしよう、とか、そんなことはありませんよお」
けらけらと笑ってみせる彼女は、ふと口をつぐみ、じっとセイバーを見つめた。
「私って本当に人望がないんですねえ。それとも貴方たちが似ているだけかしら? あの子も、そういう目で私を見たわ」
その表情が翳ったように見えた瞬間、強い北風がまた背後から吹き付けてきて、彼女の黒髪をなびかせて顔を隠した。灯は手袋をした手で髪をかきあげながら、風にかき消されないよう声を張り上げる。その顔にはもう先程の陰は一抹も残っていない。
「さあ、行きなさい! セイバー!」
セイバーは弾かれたように断崖から飛び出した。数秒ほど宙を落下した後、両足で地面を踏みしめ、右手に剣を握り、夜の丘を駆け降りていく。一度だけ彼女を振り返ったが、その姿は既に遠く、表情は見えなかった。
「トゥインクル、トゥインクル、リ、ト、スター」
おそらの星よ、口ずさんで、彼女は断崖の淵に座り、両足をぶらぶらと揺らしながら、二騎のサーヴァントが二手に分かれて目指した植物園の明かりを眺める。……なんて綺麗。自分の胸が、珍しく早足で脈打っているのがわかる。
あの中に、私がこの世で一番欲しいものの、幼子がいる。私が、未だに達成できていない約束を果たすために、最優先で手に入れておくべきもの。十一年前の儀式で、たった一人の魔術師が開発し、失敗に終わった最高度の魔術機構。
それこそが、目的の物―――聖杯の器。
十一年前、第三次聖杯戦争では、そのシステムは思う通りに起動しなかった。或いは、不完全だった。それは肝心の外装が、生身の人間だったからだ。自我のある人間では、上手くいかない。
もし私が十一年前のやり直しをするなら。私だったら、そのシステムには、意のままに操ることのできる、無知で、無垢な、人為的に造られた肉体を利用する。
純粋なホムンクルスの精製は、この世界では未だ完成に至っていない。
だが、それに最も近いモノなら―――あの硝子の檻の中にある。
二騎には、この襲撃の本当の目的を話さなかった。
あの二騎の間にも、私に話していない目的があるのだろうから、隠し事があるのはお互いさまだろう。今は、戦力は多ければ多いほど良い。あの扱いにくいサーヴァントが少しでも御しやすくなるなら、多少面倒だが、再契約くらいは呑んでもいい条件だ。用が済んだら、剣士のサーヴァントはマスターに返してやればいい。……最も、その時にセイバーがまだ現界できていたら、の話だが。
もちろん、私は、契約は破らない。
だが、セイバーが、これから始まる戦いの中で自分の霊基を守り抜けるかどうかは、別の話だ。
*
五百メートルというのは、サーヴァントの脚ならものの二、三分もかからず詰められる距離だ。
セイバーが薔薇の生け垣を越えて植物園の最北端に到達したとき、既にバーサーカーの姿は見えず、綺麗に整えられていたであろう庭園は荒れきっていた。草木は折れ、芽吹いていた球根は残らず蹴散らされ、低木は枝を散乱させている。セイバーは土と枝に足の踏み場もないほど埋め尽くされた石畳の上に立って、わずかに目を伏せた。―――今さら、敵の砦がどれだけ荒らされていようと心を痛める筋合いはない。だが、生前の嫌な戦いの記憶が蘇り、それと同時に嫌な予感が背筋を掠めていく。
それが的中したのは、庭園の中央あたりにある東屋に目を向けた時だった。
「お初にお目にかかる、とでも、挨拶しておこうかのう」
間延びした口調とは裏腹に、少なからず威圧のこもった低い声が聞こえた。
「……誰だ」
そう声をかけるまでもなく、東屋の屋根の下にいた人物がセイバーに歩み寄るように前へ出た。凄惨をきわめる庭の中、白っぽい屋外灯の明かりを受けて、その人物が正体を明らかにする。
それは武骨な塔のような老人だった。
濃緑の外套の下に着た白と青の軍服には一つのシワや傷もなく、白い鞘の日本刀を腰に提げている。軍帽のひさしの下からのぞく顔に年相応のものであろう皺が刻まれているが、それは老人を老人たらしめているというより、巨木に刻まれた年輪を思い起こさせた。老いてはいるが、日ごとに弱っていく老いではない。むしろ年を重ねた分の威圧がそのまま肉体、いや存在そのものに現れているような男だ。
セイバーは自分の師であった老騎士を思い起こして、思わず背を正した。
「サーヴァントか」
「左様、いかにも。儂はライダークラスのサーヴァント。……貴様は、先程この庭を通っていった狂戦士の同胞だろう。だというのに、何故そのような顔をする。心が痛むか」
ライダーは低く、重みのある声でセイバーに問う。その口から出る一言一言が、無視できない威厳をもっている声だった。
「……心が痛むのではない。生前に似たようなことがあっただけだ」
セイバーがそう言うと、ライダーが不意にくつくつと喉の奥で笑った。
「老人の戯言にも答えるか。貴様は正に騎士の王よ。誠実で、善なる剣士だったのだろう」
と言うと、唐突に笑いをおさめ、右手を上げた。
「実に、策を巡らせる甲斐があるわ」
ライダーがそう言うなり、背後からざわりと妙な音がした。
「……ッ」
セイバーが背後を振り返ると、ついさっき越えてきた、庭園と外を仕切る薔薇の生け垣が、急速に空へ向かって伸びていくのが見える。低木――いや、低木だったものは、一瞬にして優に高さ五メートルを超え、複雑に枝を絡ませ合いながら成長する。ほんの数十秒で、庭園をぐるりと囲む茨の檻がそびえ立った。
ライダーが言う。
「下手に触るなよ。アレはただの茨ではない。サーヴァントとて、アレに一寸でも触れれば、たちまちのうちに肉体を喰われる。例外はない」
セイバーは茨の檻を見上げていた目を、ライダーに向けた。その後ろの東屋の、更に向こうに、庭園から温室へと続く一本道がある。
「なるほど。バーサーカーと合流したくば、あなたを倒すより他に手は無いと」
セイバーは右手に握っていた剣を構えた。灯からの魔力は滞りなく、むしろ潤沢なほど満ちている。
目の前に対峙した剣士を見て、老兵は軍帽のひさしの奥の目を細めた。
「話が早くて助かるぞ、若人よ。さあ――」
ライダーは腰に提げた日本刀の柄に、おもむろに右手を置く。その五本の指が柄を握りこむさまが、まるでスローモーションのように見える。
セイバーは右足を後ろに引き、次の瞬間、あらん限りの力で石畳を蹴った。
「―――何だ。今の音は」
温室のガラスの壁をどう越えようかと思案していたが、試しに槍を百本ほど投擲してみたらあっけなく砕け散った。バーサーカーは何の魔術的防御も施されていない不用心さに、やや不審さを抱きつつも、ふと遠くから聞こえた音に足を止める。砕け散るガラスの音ではない。それは彼の知らない音だった。乾いた空気が一度に破裂するような―――それを銃声というのだと知ったのは後の事だ。
バーサーカーは音の響いてきた庭園の方角をしばし眺めたが、やがて興味を失ったように跨っていた馬の腹を軽く蹴って、周囲を取り囲んでいる軍隊に向かって声を荒げる。
「何をぼんやりと突っ立っている! 門が開いたのなら征服するまでだ! 進め!」
影の兵士たちは我に返ったように、怒号やら歓声やらを上げて、各々の得物を手に、騒々しくドームの中へ次々に入り込んでいく。統率も何もあったものではないが、バーサーカーは気にせず、ただ一人、黒馬の背の上から檄を飛ばすと、再び馬の腹を蹴ってドームの中へ飛び込んだ。
今はただの鉄骨の枠と成り果てている、壁だったところを通り抜けると、思わずむせ返るような熱気が体を包む。人が三人ほど並んだらそれで一杯の幅の道が左右に分かれ、大きく黒々とした葉や、長く伸びた茎、奇妙な色の花々が隅々までドームの中の空間を埋め尽くしている。曲がりくねった道のせいで視界は悪く、少し先も伺い知れない。まるで温室の中に、熱帯の森を再現したような複雑な造りだった。
しかしバーサーカーは少しも臆することなく、馬を急かして速度を上げると、無理やり手綱をたぐって、整備された順路を逸れて花壇の中へ踏み込んだ。
「道に沿うな! 我が標的はこの場所の中心にいる。最初に奴の肉体に傷を彫ったものから、順に褒章をくれてやるぞ!」
どうっと波打つようにして、兵士たちが叫んだ。バーサーカーはその勢いで、花壇の土を馬の蹄で蹴散らし、剣によって視界を遮る木々の葉を打ち落としながら、隠されてもいないサーヴァントの気配へ向かって一直線に駆ける。彼の頭からは、既に罠であるとか、策略であるとかの思考は消えていた。倒すべき敵の気配が濃くなるにつれて、ただ純粋な、殺気にも似た衝動だけが身体を満たしていく。
シダのような植物の葉を切り落とした時、不意に目の前が開けた。
そこは広場だった。美しく敷き詰められたタイルの床に、細かな装飾の施された白いテーブルやイスが均整の取れたバランスで置かれている。広場をぐるりと囲むように、なみなみと水の満ちた水路が張り巡らされ、辺りは間接照明の光で青白くぼんやりと薄明るい。
だがそのどれも、バーサーカーにとってはどうでもよい光景に過ぎない。
彼のエメラルドグリーンの瞳は、広場の中央に立つ、ただ一人を見据えていた。
月光のような青白い光を弾く、銅色の鎧を纏っているのは、古代のギリシャ彫刻のように整った筋肉質な肉体。その体に似合う、彫りの深い顔はまだ若い。手には、長く簡素な槍を握っている。
バーサーカーは彼の姿を視認した瞬間、握っていた手綱を思い切り引いた。黒馬の巨躯が、嘶きと共に、踊るように中空へ舞う。それと同時に、広場に立つ青年が槍を突き上げる構えをとったのがありありと見てとれた。
槍は、確かに黒馬の腹を刺し穿った。だがバーサーカーは少しも表情を変えることなく、ただ一言を放つ。
「fugere」
その瞬間、跨っていた黒馬は、刺し傷から迸った血液すら残さず霧散した。バーサーカーは空中で体勢を変えると、そのまま槍の穂先を事もなげに避けて、広場のタイルの床に降り立つ。
青年はバーサーカーを振り返り、一旦攻撃の構えを解いて、真正面から向き合った。バーサーカーも剣を下ろし、広場を取り囲む自兵を目で牽制してから声を上げた。
「槍兵、ランサーのサーヴァントか」
銅色の鎧の青年は顎を引いて頷き、言葉を交わす。
「これは驚いたな。人語を操れるほど理性を残した狂戦士とは珍しい」
「ハッ、理性など屑ほども残っていないわ、盲目が。こんな場所まで疑いもせずやって来ることがその証明だろうに」
頬を引きつらせたバーサーカーに、ランサーはかぶりを振った。
「いいや。その言葉を言うことによって、たった今おまえの正気は証明された。『罠であるかもしれなくても、単身で飛び込む』―――温室の壁に何の策を施していないことも、俺がただ一人、隠れもせずここに立っていることも、罠かもしれないとお前は考えた。考えたうえで、その可能性を予期したうえで、お前はここに来たんだ。その行動こそが理性そのものだろう」
ランサーの言葉に、バーサーカーは気怠そうに肩をすくめた。
「嫌に理屈臭い男だな、貴様は。結論を言え」
「まあ、つまり―――」
ランサーはそう言うと、手の中でぐるりと槍を反転させ、穂先を地面に向ける。それでコツコツと二度、温室の中に響くくらいの音で床を叩いた。
その瞬間、周囲がうごめいた。
黒々としたシルエットのように浮かびあがり、広場を囲っていた花壇の植物、熱帯の原生林を模していたそれらが突如として、文字通り、牙を剥いたのだ。ギシギシギシと温室全体が揺れるほどの振動と共に、植物たちが変貌していく。
最初に餌食になったのは、広場を取り囲んでランサーとバーサーカーの動きを注視していた十字軍の影たちだった。
心臓から絞り出すような悲鳴が上がるまで、そう時間はかからなかった。
「まあ、つまり、お前の考えたように、これは罠だったんだがな」
「全て、この化け物の巣へ案内するための―――」
バーサーカーはそこで言葉を切った。
蔓が伸び、逃げまどう兵の足を絡め取り、人形を壊すようにその四肢をもぎ取る。葉の一枚一枚が鋭利な刃となって、彼らの脈を切る。幹が口を開き、枝が兵を掴み、暗く開かれた口へ投げ入れ、それを咀嚼する。何万といる兵が、次々に屠られていく様を見て、バーサーカーは―――ただ、笑みを浮かべた。
「なるほど。なるほど。なるほど―――」
するすると自分の脚に絡みつこうとした蔦を勢い任せに剣で叩き切って、バーサーカーは声を上げて笑い続けた。
「良い。良いだろう。全ては整った。全て!」
僅かに眉根を寄せて怪訝そうな表情をしたランサーに、バーサーカーは吼えた。
「感謝するぞ、ランサー! あの女に報復する、最後の鍵が揃った!」
「どういう、……ッ」
バーサーカーは地面を蹴り、剣を握った右手を鋭くランサーの胸元へ向けて切り込んだ。ランサーは間一髪でその一撃を槍の柄で受ける。
「遊びは終わりだ。お前に俺の狂気を知らしめてやろう」
心臓を冷たい手でつかむような囁きの後、バーサーカーはランサーから一歩離れ、剣を高く空に突き上げ、声高に言った。
「Crusades!」
Fate/Last sin -22