PHOSPHORADE

釘島滝子

 その時分、どの家々でも人は炉に火を入れ始める。石組みの煙突から白い煙が上っていく下で、人は立ち働いたり、往来に流れ込んだり、まだ眠っていたりする。そこは海辺の街であったが、崖向こうからほのかに漂う潮の香りと波の音とは、日のあるうちは生活にかき消され、天にその日の幸福を祈る声にも及ばないほど微かである。ただ、その湿り気と潮風だけが海を思わせつつ、人の髪にまとわりついて軋むようなので、おおよそ、海の存在は不評であった。
 青年ハイドラも、伸びがちな黒髪が寝ている間に潮に傷むのをどことなく気にしながら、その日は椅子の上で居眠りをしたまま夜を明かした。ハイドラはどこででも眠ることができたが、少しの音にも耳が動くほど彼の眠りは浅かった。その日は特に、彼の居室のドアが乱暴に幾度となく叩かれたので、ハイドラは容易に目を覚ましてしまった。
「おい、起きろ! 起きやがれ薬屋!」
 その音――野卑てそれなりに年を食っているらしい男の声であった――に少なからず驚いたハイドラは、椅子の上で固くなった背を伸ばし、欠伸をするだけの間をとり、億劫な所作で立ち上がった。このような朝方から彼の家を訪ねるような人間はこれまでになかった。いたとしても物盗りがせいぜいである。ドアの脇には手斧がある。彼はその柄を静かに取り、背中へ隠してドアノブを回した。
 戸の隙間に、ハイドラよりも大柄な男がいた。よく日に焼けた肌を見るに、船乗りか、と彼は思った。
「何か……御用ですか」
 男の腕に光る多くのブレスレット、バングル、そのたぐいの貴金属が鳴るのを、ハイドラは眉を顰めて聞いた。男は、瞳の小さい不格好な目でハイドラの姿を捉えるや、あまり開いたわけでもないドアの間へ勢いよく腕を差し込み、彼の肩を乱暴に掴み上げた。
「お前だろう!」
 男は怒りの滲んだ必死の声で叫ぶ。「な、何が。何がですか……」手斧を振るったほうがいいのかと、背に回した手を動かしかけて、しかし男の力は存外に強く、抵抗するには難がある。隣室の扉が何事かと開く音がするのをハイドラは聞いた。
「お前だ! お前がキリエを殺したんだ!」
「――――――は?」
 彼は目を見開いた。手斧が床へ滑り落ちる。

    ◇

 そこは花街の一角にある小さな娼館で、年の幼い「商品」を多めに扱うことで人知れず名を馳せていた。ハイドラはエジェンという薬商の下で働く薬売りであり、主に花街で仕事をしていた。彼自身、足を踏み入れたことこそなかったが、店の噂はぼんやりと聞いていた。死んだ「キリエ」はそこに飼われる男娼であった。
 半ば無理やり引きずられるようにして、ハイドラはそこを訪れた。キリエの部屋は三階の角部屋で、小さいが勝手のよいバルコニーのついた、ハイドラのものよりよほど広いところだった。細波の寄せるように揺らめいたシーツの上に、少し位置の高くなった朝日がまばゆく差し込み、部屋の中で埃が舞いながらきらきらと輝いていた。棚の美しい調度品に、アラビア式の幾何学模様の精密な絨毯は、彼の娼館での「売れ具合」を思うには十分な材料である。
 つまり金持ちのこの男は、この男娼の客であるらしい。道中、男はガウラスと名乗り、己がそれだけの金のある商人であることを自分からハイドラに告げた。警邏の上の上にまで自分はコネがある、下手なことをしたらお前を向こうへ突き出してやる、と凄むように男は言ったが、ハイドラにとっては降って湧いた面倒でしかない。よほどに愛し入れあげたものと見えて、ガウラスの態度は真に迫っていた。ハイドラはガウラスと目を合わせずに、金糸の入った彼の襟とだらしなく弛んだ腹とを居心地悪くちらちらと見つつ、時おりに挟まれる「お前のせいだ」に耳を塞ぎたい気にさせられている。
 ハイドラは一つ条件を彼に呈されていた。ハイドラが明日の夜明けまでにキリエの死因を特定できなければ――つまり己の身の潔白を証明できなければ――ガウラスはハイドラを捕らえて警邏に差し出す。そうして縛り首なり拷問なり、何らかの重い手段にかけられてハイドラは殺されるのである。
 ふと、硝子の破片がハイドラの靴の裏に刺さる感触があった。彼は舌打ちし、美しいベッドへ無造作に腰掛けて靴底の破片を取り払うと、日光に輝くガラスを部屋の隅へ投げ転がした。そのさまをガウラスは、部屋の外で重く睨みつけているが、なぜだか部屋に着いたときから敷居を跨ごうとしない。死を受け容れられないのだろうとハイドラは思ったが、そんなことを口にしては首が飛ぶだろう。
 ハイドラは広い窓を一つ開けた。部屋の中には、甘い香のにおいが濃く深く充満していた。阿片でも混ざっているのかわからない、脳の芯が痺れるような、眩暈に似た得も言われぬ感覚がする。香りのもとを辿ると、ろくに使われていなさそうな机の上に、装飾の鮮やかな香炉があるのをハイドラは見つけた。銀の細工の中に、ラピスラズリかサファイアか、小さな青い宝石が埋め込まれた、高級そうな調度である。そっと手に取り、蓋を開けるとまだ燃えさしの灰がちらちらとそのあたりへ飛んだ。頭が眩んだので香炉を机へ置きなおした。彼はその数分でひどく咽喉が渇いた。
 香炉のあった脇には、淡い黄色の薬包がいくつか置かれているが、空である。表面には丸に兎印が刻印されている――エジェン薬商の印である。薬包の色からするに、中身はただの鎮痛剤だろう。死んだキリエは十三歳だというから、その薬効に耐え兼ねる幼さでもあるまい。
 ふとドアのほうを見ると、掃除婦らしい老女がこちらを覗き見ていた。ガウラスが何も言わないので、ハイドラは老女へ「死体はどうした」と聞き遣った。
「火葬場へやっちまったよ」
「体は綺麗だったか」
「いんや。酷いもんだよ、痩せこけてねぇ、あちこち嫌なにおいさ。もう片したが、床も反吐まみれでな。あたしゃそいつをせっせと、窓から外へやったんだよ」
 嗄れた声で老女は語り、喉の奥から引きつるような笑い声を出した。ハイドラはキリエに胃腑の病を疑った。
「死斑はどうだ。背中に赤黒い痣はなかったか」
「いやぁ……どうだったかねぇ。なかったと思うけどねぇ」
 それならば何だというのか。ハイドラは溜息をついて部屋を今一度見回した。鎮痛剤以外に目立って怪しい薬はない。酒もなければ遺書もない。少なくとも自死ではないようだが、ハイドラは早くも途方に暮れかかっていた。
と、ふと押し黙っていたガウラスが、「あれはどうした」と低い声で言った。「何のことさ」と老女が問うと、ガウラスはそちらをじろりと睨んだ。
「私がキリエにやった宝物だ。どこへ行ったんだ」
 老女は「あたしが知るかい」と言うや、箒を持ったまま階段のほうへ、廊下を逃げるように走り去った。ガウラスは当然それを追った。その場に残されたハイドラは、部屋を出るついでに階下を窺うように覗いた。一階だろうか、少し遠いところから、ガウラスの怒鳴り声と老婆の金切り声がこだまして聞こえてくる。
「ほんとさ! あたしゃ真珠の腕輪しか盗ってねえよ!」

    ◇

 死体の腑分けのために、ハイドラは街外れの火葬場へ行った。老婆を責めるばかりで周りの見えていなさそうなガウラスを撒くのは簡単だった。
 オリーブの木々の向こうに、饐えたにおいが広がっている。視界の端に大きな石の炉が見えた。棒切れのような手足をした作業夫が、炉に死体を投げ込んでいる。時おり、石に当ってか死体の骨が砕けるような、重い音が響いている。
「すみません」
 ハイドラは、濁った目をした作業夫に尋ねた。「茶髪にくせ毛の……昨日死んだ、十三歳くらいの少年の死体。見ませんでしたか」
「ああ、それならさっき、入れちまったな。病持ちだっていうからよ……」
「えっ……あの、どれが、その」
 作業夫は無言で指をさした。そのあたりに、火の粉に巻かれる死体があった。髪の毛などはとうの昔に灰になっただろう、焦げた小さな人影が見える。その周りで、火は音を立てて燃えている。
「……取り出せませんか」
 作業夫は首を振った。
「火が落ちるまで待ちな」
 にべもない答えだった。ハイドラは肩を落として落胆した。燃える少年の影は、すでに人の形をしているかどうかも怪しい。燃えるそこかしこのどこからか、細い枝を折るような音が高く響いてくる。脊髄の水分が弾けて骨の折れる音である。ハイドラは足元に転がる小石を何ともなく眺めた。この中にいくつ人骨があるのか知れない。
 何とかして逃げられないだろうか。暗い考えがハイドラの中で首をもたげる。死体が燃えてしまった今、胃腑の中身を調べることはできないのだ。早くこの街から立ち去ってしまうべきではないのか。ハイドラはその場から最も近い関門を思った。まだ日は高い、この時間ならば馬車もある。西にまっすぐ向かえば、そうかからずに街から出られる。
 ふと顔を上げ、火葬場を囲むオリーブの木をハイドラは見た。そのとき、木々の陰に潜むように立つ人影が、こちらをじっと見ていることに彼は気づいた。見張りだ。きっとガウラスが雇ったものだろう。背に嫌な寒さが走るようで、ハイドラは思わず舌打ちをした。このままでは逃げることもかなわない。
 心なし、ふらつく足でそのあたりにあった岩へ近づき、彼は腰をかけた。知らず、額にも首にも掌にも、嫌な汗をかいていた。火葬場に吹く風さえ涼しい。袖で汗を拭うと、いつの間についていた灰の粒が、布の上に散らばる。
 何としても少年の死因を探り当てねばならない。次の朝日が昇るまでに。そうでなければ己は死ぬのだ。それを思うと息が詰まる。ハイドラは少なからず、そのような末期を恐れた。恐れながら、彼はじっと燃える炉のほうを眺め、火の静まりを待った。時間はそれほど長いものではないはずが、彼には永遠にも近く感じられてならなかった。
 やがて、燃えるもののなくなった炉の中で、残り火のあたりから白煙が上がった。重い体で寄ると、灰の中に白骨がいくつも突き出していた。先の作業夫が、細腕に火掻き棒を持って炭をどかし始めていた。彼はハイドラを肩越しに見た。
「あんた、このガキの身内かい」
 ハイドラは首を振る。「訳があって、死因を特定しなくちゃならないんです」
「死因? 病じゃないのかね」
「はあ。どんな病なのかまで、突き止めないといけないんですよ。せめて骨だけでも見たいんですが」
 作業夫は渋々といったていで「好きにしな」と言うと、ハイドラに火掻き棒を預けて薪を割りに行った。
 灰の中に、まだ熱を持った骨がある。キリエの燃えたあたりで、ハイドラは牛革の手袋をして灰をさらう。彼はまず、最初に見えた足の骨を持ち上げ、その短さに驚いた。このぶんではキリエの身長は、ハイドラの胸のあたりまでしか及ばないだろうことが知れた。足の骨の近くには、小ぶりの頭蓋も見つかった。ハイドラは掘り当てた骨を人体の通りの並びにして、砂の上に順に置いていった。
 最後に出した肋骨の下、灰に埋まる中に、彼はふと光るものを見た。石だ。取り出して灰を拭うと、どことなく白濁した緑色をしていた。
 ガウラスが与えた宝物とはこれのことだろうか。丸く滑らかに磨き上げられた石の色味は、緑に寄ったオパールのようにも見えたが、鉱物に疎いハイドラにはその種類は知れない。ペンダントトップにされる程度の大きさはある。彼はその石をポケットにしまいかけて、ふと同じところに革紐を入れてあったのを思い出して、目の粗いうろ覚えの編み方で、簡単に石を包んだ。証拠になるかもしれないものだ、首から下げられるようにしておけば、失くすことはない。
 骨に向き直ったハイドラは、キリエの小さな頭蓋骨に火掻き棒を差し込み、口を開いた。上顎の内側にある歯並びは、いまひとつ整然とせず、少々の虫歯が目立った。
 次いで、細い下顎の側を見ようと、彼は上顎を支える火掻き棒を押し上げた。すると、関節部から何か砕ける音がした――――下顎の骨が外れたのだ。それにしては軽い音でもあったが、ハイドラは砂上に転がった骨の大きな罅を、驚愕しつつ凝視した。
 もしや、とも思い、彼はキリエの小指の先を取る。少しばかり力を入れて握ると、骨はすぐさま粉々に砕け、拳の隙間からほろほろとこぼれて風に攫われた。
 いくらなんでも脆すぎる、とハイドラは思った。焼かれた骨は水分蒸発によって全身骨折も同然になるが、こうまではならないはずである。歯の状態は衛生的ではないものの問題になる程度でもなし、麻薬常習者特有の溶けもない。ならば、なぜ。
 ハイドラは歯噛みした。その小さい頭蓋を、いっそ砕き割ってしまいたい衝動に駆られもした。見たこともない少年のために、己はもうじき殺されるかもしれない――否、殺される。怒りなのか、やるせなさなのか、彼の内側に渦巻くものが何なのか、ハイドラにはわからない。ただ黒くて暗いことだけがわかる――――。
 彼は膝下に柔らかく広がる砂を殴った。そこから彼の拳は力なく剥がれた。第五中手骨の先端の跡が砂上に薄らと残ったが、そのうち風に均されてしまうだろう。

    ◇

 西日が頬を灼くような時間になった。
 ハイドラは半ば憔悴しつつ、エジェン商の薬種問屋を訪ねていた。彼を見る仕事仲間の、どことなくばつの悪そうな視線に疑問を抱くほど、彼の意識は外を向いていなかった。
「こんな時間に来るなんざ、珍しいな。もう日暮れじゃねえか」
 奥から出てきた年嵩の男は、気安くハイドラの肩を叩いた。そのまま彼を通り過ぎて、男は引き戸を閉めた。すれ違いざまに酒の香りがしたので、ハイドラは眉を顰めた。店の奥からは、何やら賑々しい笑い声が聞こえる。「酒宴ですか」彼は男を見た。男はわずかにふけの浮いた頭を掻いた。
「何、金がちっとばかし入ってな。お前を呼ぼうにも、普段この時間にゃいねえからよ」
 白々しいことを言うものだとハイドラは心中に呆れた。呼ぶ気などなかっただろうことは彼にも分かっている。
「構いませんよ、酒は嫌いだ。……おれ、ヤブに用があって来たんですがね。下にいますか」
「おお。診察室に籠りきりさ。具合でも悪いのか」
「いや。野暮用ですよ……」
 ハイドラは奥へ歩いた。薬の苦いにおいに強い酒精が混じって、噎せ返るようだった。彼は本棚の隠し扉を開けると、逃げるように地下へ降りた。
 暗い通路を奥へ行くにつれて、石と黴と薬の香りが淡く混じった、冷たい空気が彼の頸を冷やした。
 診察室は廊下の右脇にある。重い扉を引くと、消毒液の鋭いにおいが鼻を突いた。薄汚れのある暖簾の向こうから「誰だ」と低い声がする。
「ハイドラだ。……聞きたいことがある」
 垂れ布をくぐり、彼は簡易ベッドの向こうの禿頭の医師を見た。薬瓶の棚や人体図の貼られたコルクボードのもとに、医師は座って何かの書き物をしているようだった。彼はハイドラを見ない。ハイドラは天井から下がる乾燥トカゲやサソリを避けて、その机へ寄った。医師の服の裾には、乾いて久しい血が付いたままになっている。
「薬はいらんぞ」
「聞きたいことがあると言ったろ。呆けたか」
「呆けたヤブ医者なんだろう俺は。そこへ何を聞くってんだ」
「うるせえことを言うんじゃねえよ。――骨が脆くなる病はあるか」
「老いしかねえよ。帰れ」
 医師の態度はにべもなかった。
「真面目に聞いてくれよ。本当に困ってんだ」
ハイドラは医師の机へ、火葬場から持ち出したキリエの骨の一片を置いた。医師は乾いた小骨に目を向けた。
「子供の……背骨か? こりゃ」
「十三歳だそうだ。身長は五フィート前後、痩せてるが薬中じゃねえ。男娼だ」
「んだと?」
 医師は露骨に顔を顰めた。
「色街と関わるのは御免だな。やっぱり帰れ」
「闇医者が何言ってやがる」
 医師は三日月のような鋭い目でハイドラを睨んだ。「片付けろ」とキリエの骨を顎で指す。ハイドラの若い碧眼は医師を睨み返し、けれども彼は布巾で小さな骨を拾った。
「ガウラスとかいう香辛料商に脅されてんだ。ちょっとくらい助けると思えよ」
「ガウラスだあ? 余計関わりたかねえやな。骨粗だな、出たら教えてやるから、さっさと帰れ。俺は忙しい」
「明日の朝までに何とかしねえと殺されるんだぜ。薄情じゃねえか」
「知ったことかよ」
 押せど引けど、医師はそれ以上聞く耳を持たなかった。ハイドラは大きく舌打ちをして場を去った。
 店先まで出ようとしたところで、通りから店を窺う体格のいかつい男をハイドラは見つけた。再び、寒いものが背中を走った。彼は静かに踵を返し、再び地下へ入った。廊下の突き当りには、狂人ばかりがいるような、だれも寄り付かない大きな病室がある。
 彼は躊躇いなく中へ入った。病室を一直線に突っ切るためだ。いきなり視界に飛び込んできたハイドラを凝視する者もあれば、発狂冷めやらぬ喚き声を上げるものもあるが、彼は意に介さなかった。先にはもうひとつ扉がある。その向こうに、さらに下へと階段が続いている――使われることのなくなった地下病棟だ。この階段から廊下を行けば、やがては水路に出られる。
 ハイドラは階段へ出た。そうして重い扉を閉め、内から閂をかけてしまった。
 追手はどうしているだろう。どこかに放置された死体のにおいに囲まれながら、ハイドラは考えた。日は暮れ落ちただろう。船はもう出ない。とすると、あの邪魔な雇われ男は西の関門へ向かうはずだった。彼が逃げられないように。
 だが、ハイドラには関門へ行く気などない。地下水路の一本道を行った先、恐る恐る地上へ顔を出すと、海の上の月明かりが彼の目を刺した。凪いだ波の音が涼しく響いている。彼は地上へ這い上がった。短靴の底の泥を落とす間もなく、急いてハイドラは海岸へ降りた。波の飛沫が顔の上にちらちらと散った。危うい岩肌を進むと、そこは東の波止場だった。
 まだそう遠くないところへ、小船の白帆が揺れている。出港したばかりの密輸船と見えて、ハイドラはわずかに息を吐いた。この分なら、泳いでも追いつくだろうと考えた。
 船のマストに宝石のようなきらめきが見える。双眼鏡のレンズが月の光を反射しているのだ。海岸は警戒されている。
 ハイドラは音を立てずに海へ入った。そのまま船を目指して彼は水を掻いた。夜の海は、波がほのかにうねっている。彼の体は何度も攫われかかり、そのたびに重い疲れが彼の腕脚を襲うものの、水の冷たさはどことなく心地よい。
 彼に、少年の死に付き合ってやる義理はなかった。これ以上深入りしても、いたずらに命を縮めるだけだ。だから、これでいい。
 小舟に手がついた。見上げると、少し先から太い縄が下がっている。耳を澄ましても舟守の声は聞こえない。ハイドラは表面の荒れた縄を掴み、掌に刺さる痛みに目を覚ましながら、疲弊を殺して甲板へ上がった。積まれた酒樽に身を隠し、濡れたショールを脱ぎ捨てる。胸元のペンダントが淡く光っているのに、彼はその時気が付いた。
 見事な、と彼は思ったが、その矢先、足音と木の軋みがこちらへ近寄ってきた。息を潜めて身を縮めているうちに、音は再び去っていった。知らず息が浅くなり、心臓が速く波打っていた。彼は意識して深く息を吸った。
 船の上を過ぐ風は、夜が更けるにつれて強くなっていった。濡れた体が冷えるようで、ハイドラは小さく身震いすると、一度あたりを見回した。周囲は酒樽と木箱がひしめき合っていた。狭い床に小さな擂鉢が転がる。潮に交じって、ほのかに阿片が香るのを彼は感じた。薬種の密輸のようだ。
 ふと思い立って、ハイドラは樽のひとつを開けた。ずた袋に入れられた芥子がまず見えた。その奥に、同様に袋に入った阿片やハシシュが詰め込まれている。……さらに底を覗くと、そこには白布に包まれた小さな壺があった。
 膏薬のたぐいかと思い、ハイドラは何気なく、壺の覆いを捲り開いた。
「――――え?」
 中身は、ほのかに光り輝く緑の砂だった。

    ◇

「おい、今声がしなかったか」
「風の音の間違いじゃありませんか」
「いや、人の声だったぞ。お前、見てこい」
「へえ」
 億劫に腰を起こした舟守は、濃いウイスキーに酔っていた。赤ら顔で甲板に出た彼は、きょろきょろとあたりを見回して、そこに人影が見えないのを確認し、首を傾げた。
「誰もいねえじゃねえか」
 親方の思い過ごしだろうと高をくくり、踵を返した舟守だったが、その時、風が一段強く吹いた。床にわずかに散っていた銀紗のきらめきが、風に乗って彼の視界へ飛び込んだのは、さすがに酔っていても見逃しはしなかった。
「こりゃあ……? 親方あ! 燐翆玉がこぼれちまってますよ!」
 舟守の男は、時おりしゃくり上げながら、ふらつく足で酒樽へ近づいた。樽の縁に彼が手をついたその瞬間、頸へ冷たいものが当てられるのを舟守は感じ、その肩を大きく震わせた。
 ハイドラは舟守の背の布地を強く掴んで、その耳元に「動くなよ」と小さく囁いた。手にしたナイフには錆も刃毀れもなく、そのまま引けば容易く皮膚を裂くだろう。舟守は刃の感触にたびたび戦慄いて、「ひ、た、助けて……」と情けない声を漏らすばかりである。と、その時、船の奥扉が開いて、鈍い音が立った。ハイドラがそちらを見ると、大柄な男が出てくるところだった。男はハイドラと、彼に捕らえられた舟守とを見て目を見開いた。ハイドラは小さく舌打ちすると、舟守を盾にして男に向き直った。
「危害を加えるつもりはない。ちょっとばかり頼みがあるんだ」
「……人に物頼む態度じゃねえだろう。先に名乗れや」
「…………ハイドラだ。……エジェン薬商の、ハイドラ・アイエステス」
 エジェンと聞いた時、男の眉がわずかに上がるのをハイドラは見た。
「頼みってのは、何だ」
「どこか遠くに連れて行ってほしい」
「お前……何か馬鹿でもやったのか」
 ハイドラは首を振り、ショールの布地を捲り、首に下がるペンダントの淡い光を男に示した。
「連れ出してくれたらこれをやる。あの粉……燐翆玉だったか。典雅な名だな。あれと同じものだよ。売れば相当の金になるだろ」
 ハイドラの手元で舟守が息を呑むのが聞こえた。「どうだ」ハイドラは念を押すように低く言った。
「別にな。ここでお前を殺してもいいが」
「その場合はお仲間がどうなるかだ」
 彼は短刀を突き付けていた舟守の頸へ腕を回した。舟守はいくぶん小柄であったので、ハイドラの腕は舟守の首、気道を絞める形でこの骨を固める。腕に抱える咽喉の奥から、悲鳴ともつかない息が高い音を立てて滑り出てくるのを、ハイドラはその肌に聞いた。
 風が強く吹いている。船が妙に軋む音だけがこだまする。誰も彼もが黙っていた。前に立つ男はハイドラを注視して動かないが、その手がゆるやかに背へと伸びていくのにハイドラは気づいた。その腰元に何があるか。ナイフならまだいいが、銃か何かであったなら。
「……無茶なことは言っちゃいないだろう」
 ハイドラは腕に力を込める。焦りが彼の頸をそぞろに下っていった。
「ただおれは、遠くへ――――」
 言いかけたその時である。ハイドラの腕の中から、不意に何かの折れるような音が響いた。途端、彼の腕に強い重みがかかった。引きずられる寸でのところでハイドラが手を離すと、舟守の体は甲板へ倒れた。その口は泡を吹いていた。その首は折れていた。おそらく、折れた骨が頸を破ったのだろうと思われた。
「――――な……」
 その骨の硬さは、人間のものではありえない。
 ハイドラは絶句し、またその様子を見ていた男は、息を呑んでナイフを抜き、ハイドラに向かって刃を構えた。無理からぬことではあった。男は骨のことなど知らないのだろうから。
 ハイドラは舟守の頸に触り、そのもとにすでに脈がないことを確認すると、口元の泡を指で掬った。血交じりの泡だ。しかし、月の光にいま少し晒すと、泡の中に薄く光る砂のような粒があることに彼は気づいた。
 口の中に苦いものの広がる心地がするのを見過ごしながら、ハイドラは後退る男に向き直った。男は化物を見るような目で彼を見ていた。
「殺すつもりは、なかった……本当だ」
「……し、喋るんじゃねえ。寄るな、さっさと失せろ」
 男が宙へナイフを振るった。ハイドラは男から目を離さないまま、あの壺を樽の中から取り出した。
「燐翆玉だ。今死んだあいつも、飲んでたんだろう。口についていたぜ」
 蓋を取り払うと、ほのかに輝く美しい砂がある。ハイドラはわずかな量を指でつまみ上げた。そのそばから、燐翆玉の砂は指の隙間からこぼれて風に攫われていく。
「こいつは毒だ。骨の髄まで腐らせるような猛毒だ。陸でも同じようなことが起こってるのさ…………あんたもまさか飲んじゃいまいな」
 黒髪にまばらに隠れた碧眼が、男をじっと睨み据えた。男はナイフをハイドラに向けたまま、肩を強張らせた。
「早いとこ毒を吐かなきゃ死んじまうぜ。あんた、今すぐ水を飲め、それから腹の中身ごと毒を吐くんだ。そら、早く」
 ハイドラは言いながら男のほうへ寄って行ったが、男は彼を恐れつつ凝視したまま動かなかった。男の手元のナイフをハイドラは弾き飛ばした。
「早くしろと言ってるんだよ。水はないのか! それともお前、死にたいのか」
 低い恫喝に促されたか、男は水瓶へ駆け寄り、そのまま飲めるだけの水を飲み始めた。彼からも舟守と同様に強い酒のにおいがした。酔ったまま吐かせたら反吐が咽喉に詰まる可能性をハイドラは心配したが、しばらく様子を見るに、そのようなことはなかった。
「あの薬。どこで手に入れてどこへ売ったんだ」
 男が落ち着くのを待って、ハイドラは尋ねた。男は荒い息を繰り返しながら彼を睨んだが、さりとて口を噤むわけでもなく、「どういうこったよ」と不満げに言った。
「あれは、アラビアの行商から手に入れたんだ。それをエジェンが買い取って、後は、方々へちりぢりに売っ払ったって聞いてるが。……お前、エジェンの下にいるんだろう。何で知らねえんだ」
 ハイドラは目を見開いた。
 その時、彼の中で、ガウラスや上司の言葉が記憶から引きずり起こされていた。どこかにいってしまったという、ガウラスが「キリエに与えた宝物」。エジェン商には少しばかり大きな利益が入っている。彼らが買った燐翆玉は高価な石だ。その粉は、暗闇の中で薄く光る美しい薬になる。
買うにはいくらの金がかかるだろう。
「まさか」
 ハイドラは思案した。キリエは――何か病があったのかは知らないが――おそらく、エジェン商で燐翆玉を買ったのだろう。たくさんの顧客が置いていく、彼への「貢物」を代償に。ガウラスがキリエにやったものは、ハイドラが拾った燐翆玉だけではないだろう。その他の高価な品々は、キリエのための「薬」に化けたに違いない。
 ガウラスはキリエの死んだ晩、その部屋でエジェン商の兎印が入った薬包を見つけたのだろう。そしてエジェン商を訪ねたのだろう。顧客の死を知った薬売りたちは、娼館まわりへ薬を売り歩くハイドラに目を付けて、彼が独断でキリエに薬をやったとでっち上げたのだろう。
 話を信じたガウラスは、ハイドラのもとに怒鳴り込んだ。それがあの朝のことだ。
「……おれは仕事仲間に売られたわけだ」
 彼は嘆息してふと空を仰いだ。星の少ない晩だった。その間も、彼の胸元には燐翆玉が光を帯びてふらふらと揺れている。
 「おい」ハイドラは、また水を飲み始めた男に声をかけた。「陸に船を寄せてくれ」
 男は渋る様子でそのようにした。
 ほどなくして、歓楽街の明かりが迫った。
「エジェン商の地下に医者がいる。そこで一度診てもらえ。……仲間のことも悪かったな」
 ハイドラは男にそれだけ言うと、急いて船を降りた。腰元にまで海水が波打っていたが、彼は構わず、そのまま海を歩いて堤防を目指した。
 夜明けまでにはまだ間がある。

    ◇

 娼館の前に、ガウラスが巨躯を丸めて項垂れていた。無理もないことだとハイドラは乾いた心根で思った。疲れた足取りでそちらへ寄ると、濡れた靴底と砂とが音を立てた。ガウラスはそれに気づいて面を上げるなり、怒鳴り立てようとしたようだったが、ハイドラが口を開く方が早かった。
「死因が分かった。キリエの部屋に連れて行ってくれ」

 夜明けまでにはまだ間がある。娼館の明かりは落ちない。その角部屋の錆びたドアノブをハイドラは回した。部屋の中を一目見て、彼は後ろで震えるガウラスに目をやる。
「――――燐翆玉は知っているな」
「ああ。キリエに……お守り代わりにやったことがあるが、それが何だ。薬だろう?」
 虚勢だろうか、ガウラスは下手にせせら笑ってハイドラを見たが、青年はそのさまを鼻で笑った。
「いや、死因さ。部屋を見てみな」
 彼は扉を大きく開き、その中を顎で指した。
 その床は光っていた。まるで銀紗を振りまいたかのように。寒い日の星空はこのくらいは輝くのだろうと、ハイドラはぼんやり考えていた。
 輝く絨毯の中心で、膝をついたガウラスは目を見開いて戦慄いている。ハイドラはその眼前に、燐翆玉を掲げた。
「この光は毒だぜ。骨を腐らせて、死に至らしめる猛毒だ。キリエはこいつのせいで死んだ」
「……何を証拠に」
 青年は懐から壺を取り出し、蓋を開けた。その中身を半分ばかり掌へ空けてしまうと、床へこぼした。ガウラスの視線はそちらへ傾く。碧眼がそのさまを見下ろす。
「これを服用してた男に会ったが、少しばかり力を入れたら首が折れちまった。今、港に密輸船が停まってると思うが、そこに死体が転がってるから、朝にでも確認しろ。それからエジェン商にも、燐翆玉がまだあるはずだ。取引した金品もな。全部押収すりゃ、あんたが買ってやったお宝も出てくるだろうさ。その辺のことが済んだら、薬商どもはみんな警邏に突き出しちまえ……おれからの内部告発ってことは言うんじゃねえぞ」
ハイドラはポケットから、小さな包みを取り出した。くるんであったキリエの骨をひとつつまむと、彼はその脆い石をガウラスに差し出した。
「キリエの骨だ。握ってみなよ」
 ガウラスは言われるままに骨を受け取るとその手に握りしめた。軽い力であったろうが、それだけで簡単に欠けたのだろうか、男の太い指の隙間から、さらさらと骨片が砂のようになってこぼれた。
「男娼もまた夜の蝶だ。燐翆玉の光はさぞや、美しく見えたんだろ。焼かれる時まで手放さなかったくらいだ」
 ハイドラは、自分の声がどことなく冷えているのを疲れのせいだと思った。しかしそれとしても、目の前の男を愚かに思わずにはいられなかった。
「……ああ……そうだ、キリエは、光るものが大好きだった。異常なほど……ペンダントを、渡した日も、ずっと、ずっと握りしめて……嬉しそうに……」
 誰に語るものか、ガウラスは呆然と呟くと床に蹲る。ハイドラは震える大きな背を横目に、静かにその場を去った。部屋には男の汚い啜り泣きだけが残された。
 夜空の色が薄れ始めている。

    ◇

 風が止んだ。空は明らみかかっていた。
 ハイドラは丘に佇んでいた。野草と共に、罅だらけの白い柱が地面から顔を出し、頭のない石像が花の傍らに転がっている。誰も寄り付かない、神代の名残を留める遺跡である。
 青年は国を出ようとしていた。金の他には、印と付箋だらけの本を二冊だけ携え、またもう片手には、キリエの骨の包みと燐翆玉があった。それは持ち出せる限りの手の骨だった。
 彼は土をのろのろと掘った。見る影もなく砕かれた女神像の傍ら、乾燥した硬い土に、素手でいくぶん時間をかけて、手が縦に収まるほどの穴を作った。ここには誰も来ない。考古の好きな学者もこの辺りにはまるでいない。毒を埋めるならばここだとハイドラは考えた。
 手に巻き付いた革紐の中で、燐翆玉はまだほのかな輝きを放っていた。彼はしばらく光を眺めたが、やがて嘆息し、布を掛けたままの男娼の骨を、穴の底辺へ優しく置いた。キリエの柔らかな少年の掌を、彼は疲労の中に幻視した。そこへ握らせるつもりで、燐翆玉を穴へ入れた。骨は布越しに弱い光を受ける。ハイドラは、これでも何かの供養にはなるだろうと思った。
 しかし男娼にはどうであれ、ハイドラにとっては――その石はただの毒である。人の焦がれた美しさを、ハイドラはもはや解さない。
 青年の瞳が浅い穴を見下ろす。
 不意に朝日が高く差して、燐翆玉の輝きを奪い去っていく。





  

PHOSPHORADE

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