君の声は僕の声 第六章 1 ─地図と羅針盤─
地図と羅針盤
その日は朝から真夏の太陽が照りつけていた。けれど、空気は乾いている。絶好のキャンプ日和だ。
遥かなカルシャン山脈の稜線がくっきりと浮かび、山が近くに見えた。
遊びに行くわけではないが、天気がいいに越したことはない。水と食料、それから食器やナイフ、そして地図と羅針盤をリュックサックに詰め込み、聡と秀蓮、そして陽大は家を出た。
テントや寝袋は櫂たちが持ってきてくれることになっていた。彼らとは、陵墓の入り口で待ち合わせている。三人は陵墓までの長い道のりを、陽大のお喋りに笑いながら歩いた。森が開けてくると、遥か都から続く陵墓までの一本道が見えてくる。整然と敷き詰められた石畳には、道の両脇に等間隔に植えられた並木が濃い影を落としていた。
「静かに! 誰かいる」
秀蓮が不意に立ち止まった。
長いあいだ森の中で生活している秀蓮は五感が鋭い。聡と陽大には何も見えなかった。
「誰? 櫂たちじゃないの?」
秀蓮の目線の先を陽大が目を細めながら見つめた。
「違う。大人だな」
「守衛?」
「守衛は陵墓まで行かないといないはずだ」
「カンパニーの人間じゃあないよな?」
「わからない」
三人は一本道を外れ、森の中から静かに男に近づいていった。やがて聡と陽大にも人影が見えるようになり、三人は茂みの間から男を観察した。
三十代くらい。背が高く、体もがっちりとしていて筋肉質。肩まで伸びた髪を後ろでひとつに縛り、無精ひげが伸びていた。よれよれのシャツに薄汚れたズボン。帽子を目深にかぶり、並木にもたれ、煙草をふかしていた。
「カンパニーの人間ではなさそうだな」
秀蓮が言うと、胡散臭そうな男の姿を見つめたまま聡と陽大はうなずいた。
「どうする?」
「気づかれないように遠回りしよう」
秀蓮がそう言うと、そっと方向を変えて三人は歩き出した。すると、
「おい、君たち!」
男が叫び、三人はびっくりして互いの顔を見合った。茂みの中にいる自分たちを見つけるとは、男も相当に視力がいいらしい。三人が動けずにいると、男は煙草をもみ消して走り寄ってきた。
「秀蓮は?」
いきなり男がそう聞いた。とっさに聡と陽大が秀蓮を見た。秀蓮は黙って男の様子を伺っていた。男は三人の様子から、「君が秀蓮だね」と無精ひげの口もとをゆるめて言った。
「俺の名前は呼鷹だ」
自分の胸に手を当て、大きなよく通る声で男は名乗った。変わった名前に三人は顔を見合わせた。
「瑛仁から君たちの事を頼まれたんだ」
そう言って男はリュクサックを足下に降ろすと、秀蓮に右手を差し出した。が、秀蓮は手を出すのをためらった。瑛仁から何も聞いてはいなかった。
「ああ、そうそう。これね」
そう言って、呼鷹は内ポケットから二通の手紙を取り出し、秀蓮に渡した。一通は瑛仁から呼鷹へ、もう一通は瑛仁から秀蓮宛ての手紙だった。
秀蓮が手紙を広げると、聡と陽大が手紙をのぞき込んだ。
「何だって?」
「彼は瑛仁の友人で、王立大学の教授だそうだ。僕たちは彼の教え子として『夏休みの研究』という名目で遺跡に入ることにしたらどうかと……」
「大学の教授?」
聡の目が呼鷹を上から下まで二回往復した。そして「あの瑛仁の友人……」と、顎に手を当てた。
どう見ても無精ひげを生やしたこの男が、大学の教授で、しかもあの上品な瑛仁の友人とはとても思えない。少年たちの疑念を察したのか呼鷹が微笑んだ。慣れないのかその笑顔はぎこちない。ますます怪しい。
「考古学を教えている。教鞭を執るよりも土を掘ってるほうが多いのでね。こんな身なりだが、瑛仁とは大学以来の友人なんだ。瑛仁が君たちに渡した書物は、私の大叔父が書いたものだよ」
いぶかしげに呼鷹を見ていた聡の目が輝いた。
「本当! それなら古代文字も読めるの?」
聡は身を乗り出した。聡の期待に満ちた表情に、呼鷹は苦しい笑顔になる。
「いや、残念ながらそっちは専門外でね」
聡があからさまに落胆の色を浮かべ、肩を落とした。その隣りで陽大は、呼鷹を恨みがましい目つきで見上げていた。
「期待させて悪かったね。まあ伊達に考古学をやっているわけじゃないんでね。お役に立てると思うよ」
そう言って聡と陽大に手を差し出した。
「おや? 君は……どこかで会ったことがあったかな?」
陽大を目にした呼鷹は、思い出すようにじっと見つめる。
呼鷹の手を握り返した陽大の顔が曇った。
陽大には会った記憶はないが、他の誰かが知っているかもしれない。返事に困っている陽大を助けるように秀蓮が話を振った。
「遺跡に入られたことは?」
「いや、皇室の人間以外は入れないからね。陵墓に来るのも初めてなんだ。──それから、俺に敬語はいらない。俺は君のお父さんと同じ、トヨミシカの出身でね」
呼鷹は陽大から手を離し、秀蓮に体を向けた。
「トヨミシカ?」
秀蓮が眉をひそめる。
「聞いてないの?」
首を傾けて自分を見上げる秀蓮の肩に手を置いて「では、歩きながら話そうか」と、呼鷹は聡と陽大に笑いかけて歩き出した。ふたりはその後ろを黙ってついて行く。
「トヨミシカは知ってる?」
「聞いたことは」
「お父さんから?」
「ええ。──人々が大地へ移住した時に山や森に残った人たちがいると聞いています」
「それだけ?」
「はい」
呼鷹は腕を組んで考えこんだ。
「大叔父と君のお父さんは同じ頃にトヨミシカから都へ出て行ったそうだよ。そんな訳だから、俺に敬語は使わないでくれるかな」
呼鷹は頭を掻いた。見た目には少年でも、自分より年上で落ち着き払った秀蓮に敬語を使われることは、決まりが悪いようだった。秀蓮が笑ってうなずくと、呼鷹はまた話を続けた。
「トヨミシカは、定住した頃からほぼ変わらない生活を今でも続けているんだよ。君が森の中で暮らせるのは、お父さんが身に着けたトヨミシカの生活の知恵のおかげだろう」
聡はトヨミシカという地名は初めて耳にした。歴史や地理でも教えてもらっていない。聡は黙って呼鷹の話を聞いていた。陽大も大人しく聞いている。
なぜ父はその話をしてくれなかったのだろうと、秀蓮は考えていた。自分が死んだあと、息子が少年のまま生きていくことに不安を抱えていた父は、自分の持っている知識をすべて教え込もうとしていた。死の直前まで、繰り返し、繰り返し言って聞かせた──
「トヨミシカの知恵……」
秀蓮がつぶやく。
「そう、お父さんの医術や薬草の知識も根底にあるのはトヨミシカがずっと培ってきたもの。それに載秦国や白人の持ち込んだ医療が合わさったもの。だから君のお父さんの医療は独特だったらしい。その医療が今に伝わらなかったと、瑛仁が嘆いていたよ」
呼鷹が残念そうに首を振った。
「ちょっと待って。それじゃあ、トヨミシカはこの国の町や村ではない……の?」
呼鷹の話を黙って聞きながら考え込んでいた聡が唐突に口を挟んだ。
秀蓮が聡を振り返る。呼鷹は眉目秀麗な少年に目を細めた。少年は好奇心に溢れた目で呼鷹の答えを待っている。聡の質問に答えようとした時、四人の耳に遠くからこちらに向かって呼ぶ声が届いた。櫂たちだ。
「この話は後でゆっくりしよう」
呼鷹の日焼けした大きな手が聡の肩に置かれた。
君の声は僕の声 第六章 1 ─地図と羅針盤─