「彼」は「彼女」と入れ違い
海を語る「彼」の話
そうだね。今はこの人を「彼」とでも呼んでおこう。ともかく、「彼」は僕と違ってく問髪と黒い瞳をしていて、肌の色も違う。柔らかい躰にキツくコルセットを巻いて、長い黒髪も帽子で隠し、しゃべるとバレてしまうからってあまり口を開かず、丁寧な化粧はあくまでも肌の色を隠すため。でも二人きりのときだけはとても饒舌で、甘くか細く、まるでひどく丁寧に紡がれた白い糸のような綺麗な声で、旅をした思い出を語ってくれる。それは僕だけが味わうことができる、あまりにも貴重な時間だった。
僕は「彼」のことが好きなのかもしれないと思ったけれど、「彼」からしたらそれは迷惑なことなのだろう。あくまでも今は「彼」を匿っているだけなのだから。身分も性別も、何もかもを隠して。
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「彼」が僕の部屋に転がり込んできたのは、十日ほど前の話になる。来ている服はボロボロで、柔らかな四肢が見え隠れしていて、逃げてきたのだろうってすぐにわかった。最初は匿う気はなかった。面倒事に違いはないのだから。でも、「彼」の言葉を聞いて気が変わった。
「助けてほしい」
そう言われても困ってしまう。でも、まるで吹けば消えてしまう蝋燭のごとくか細い声は、それはあまりにも女性的であり、そしてその声を永久に聞いていたい気持ちにしてくれる。だから「彼」に興味を持った。この声を聞いていられるならば、多少の面倒事ぐらいは引き受けても良いか。そう思った。
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だから「彼」を匿った。なぜ、誰から、どこから、どのように逃げているのか、その何もかもを僕は知らない。知る必要はない。知りたくもない。そのほうが「彼」にとっても都合が良いのだろうから。だから聞きたくもない。「彼」も話したくはないだろうから。
夜。「彼」と僕を照らすのは、二本の壁に取り付けられている蝋燭だけ。本来は一人用の部屋だから、「彼」と一緒にいると少し部屋が小さく感じる。寝台も、二人で寝るには少し小さい。でも、だからこそ「彼」と一緒に時間は楽しみだった。
「海ってね」
その夜は、海の話。僕は海そのものを見たことはない。でも本で、挿絵で、どのようなものかを見たことはある。
「本で見たよ」
風もなく、蝋燭の灯りが揺れる「彼」の吐息が近い。甘い香りを独占している。それだけで、満足できる。
「本とは、全く違うの」
そうだろうね。頷き、「彼」の次の言葉を待つ。「彼」は、化粧を落とし色の違う肌を少し赤らめて、まるで張らせた糸を弾くような、鈴が地面に落ちたような、そよ風がその黒い髪を撫でたような、僕が「彼」を匿ったたった一つの理由であるその声を待つ。
「海ってね、すごく、ウルサイの」
ウルサイ? 首をかしげる。「彼」は、その上質な絹糸のような黒い髪を揺らして、僕に顔を近づけた。更に吐息が近くなる。「彼」のあまりにも整いすぎた顔はもう目の前であり、きっと僕が少し前に出れば、その口を塞ぐことができる。でもそうしないのは、それだと「彼」が迷惑をしてしまうから。
「そう、ウルサイの。色々と」
波の音。鳥の声。風は強く、歩けば砂の音がする。本の中の海はあんなにも静かだってのに。
「でも、良いね。そういうの」
僕は確かに静かな方が好きだし、だから「彼」の声が好きだった。だけれど、そのウルサさがヒト以外ならば、好きなのかもしれない。ウルサイヒトは嫌いだ。だけれど、ウルサクないヒトも嫌いだ。ヒトが嫌いなのかもしれない。「彼」のことは……好き、なのかもしれないけれど。
「私ね、行きたい」
私。これは二人きりのときしか使わない、「彼」の言葉。外では、いつも「彼」は俺と自分のことを読んでいる。そもそもあまりしゃべらないし、俺と言うにはあまりにもか細い声だから違和感しかないけれど、ともかく「彼」の外での二人称は俺だった。
「明日?」
行ったことがあるんじゃないの? そう尋ねると、「彼」は左右に首を振った。
「ううん、行ったことはあるよ」
その言葉に首を傾げる。それに構わず、「彼」は続ける。
「でも、もう一度行きたい。海が好きなの」
どうして好きなの? そう訪ねようとした言葉を飲み込む。なぜだろう、尋ねてはいけない気がした。その答えを聞けば、きっと僕は「彼」のことを手放さなければならなくなってしまう気がした。
「彼」は「彼女」と入れ違い