菩薩の目

島 政大

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 ある夜更け、突然戸口を叩く音がした。
 夜分をはばかり、庵主を驚かせない程度の叩き方だったが、「お頼み申す、お頼み申す」かすれて搾り出すようなその語気は、あきらかに切迫していた。静観(じょうかん)禅師は布団を払い、土間へ駆け下りると、戸外の様子をいぶかるように、そっと引き戸を開けた。
 黒い甲冑姿の男が、崩れるように座していた。桃色の打掛をまとった女を背負っていた。
 月光に照らされた女の顔は、まだ十代半ばであろうか。顔は煤で汚れていたが、一目で庶民の娘ではないと知れた。
 激しい戦火を、いままさにくぐりぬけてきた様子であった。
 「この山に、有徳の僧がおられると、かねがねうわさに聞いており申した。それがしは、ただ一散に、ここを目指して落ち延びてまいったのです。どうか、我が主君の姫君を、いましばらく、ここにかくまってはくださらぬか。お願い申し上げまする」男は必死の形相で哀願すると、がっくりとその場に打ち伏した。わき腹に矢が突き刺さっていた。あたかも精魂尽き果てたように、男はそのまま息絶えた。背にいた娘は、張り詰めた恐怖心と、家来の死に取り乱したかのように、男の体を揺すって激しく泣きだした。
 夜陰に目を凝らして静観は辺りの様子をうかがった。
 こうしてはおられぬ。
 静観は男の遺骸を山林の奥へ引きずってゆき、肢体が見えなくなるまで枯れ葉をかけた。戸口で泣き崩れている娘を草庵に引き入れると、板敷きの床をはぎ、決して声をたててはならぬ、ここでじっとして居れと言いふくめて床板を伏せた。
 まだ戸外に人の気配はなかった。しかし、もし追っ手が草庵の戸を蹴倒して入ってきたら、いましがた息絶えた侍の太刀で応戦しようと静観は覚悟した。なにゆえの覚悟なのかわからない。ただ、死んでも娘を追っ手に渡してはならぬという一心で身構えていたのだった。
 将軍家の継嗣争いに端を発した争乱が、諸国の守護大名をも巻き込んで下克上の様相を呈している。洛外の山陰に隠遁して久しい静観も、天下のただならぬ情勢はかねがね聞き及んでいる。娘がその政争の犠牲者であることは言わずとも知れたことであった。

 山腹に雉の声がこだまし、やがて格子から朝日が差し込んできた。
 静観は草庵を出て注意深く辺りを見回した。麓の里の家々から炊煙がのぼっている。いつもと変わらない静かな朝だった。
 追っ手の気配はどこにもなかった。
 静観はできるだけ音をたてないように、そっと床板をはずしていった。
 昨夜の姫君は縁の下でぐっすりと眠っていた。
 疲れたのだろう。まだ幼さがのこる寝顔だった。
 たぶん、この娘の親族は根絶やしにされたにちがいない。もし、昨夜の侍が娘をここまで連れて来なかったら、きっと戦場の炎の中で雑兵たちから辱めを受けていたことだろう。およそ人間の欲望の中で、肉欲ほど醜いものがあるだろうか。戦乱で廃墟となった洛中にたむろする血の気が多い野武士たちは、女と見れば無理矢理廃屋に連れ込んで、集団で犯す。そんなときの男どもの顔は地獄の亡者をいたぶる鬼のようである。静観はかつて、そんな現場を何度も見かけた。そのたびに静観は激しい怒りをおぼえたが、鼻歌まじりに人を殺せるような荒くれどもを制止するだけの勇気も、成敗するだけの武芸も持たなかった。言い換えれば、つねに見て見ぬふりをし続けてきたのである。昨夜静観が、もし追っ手が踏み込んできたら太刀を抜こうととっさに覚悟したのは、そんな自分に対する積年の憤りがあったからかもしれない。
 女一人すら守る勇気がなくて、なんの仏者だろうか。仏に帰依するとは、己を完全に捨て去ることではないのか。己を捨て去った人間が、どうして死ぬことを怖れるだろう。もし追っ手が娘を連れ去ろうとしたら、我が身など膾のように切り刻まれても、野武士どもを刺し殺して道連れにすればいいのだ。静観が求めていたものは、その覚悟以外のなにものでもなかったのである。そして、その覚悟の上にしか、悟りの境地などあろうはずもない。
 この娘を守りぬこう。静観の胸に熱いものが込み上げてきた。静観の手が自然と娘の頬に触れたとき、娘ははっと目を覚ました。
 娘の目はおびえていた。まだ戦場の悪夢の中にいるのだった。
 「心配ない。なにも」
 静観は娘の手を握ると、ゆっくりと床下から引き上げた。

 「見てのとおり、何もない庵です」
 囲炉裏に薪をくべながら静観が話しかけると、初めて娘は静観と目を合わせた。
 「ここは安心です。都から離れているし、もし追っ手が来たら、また床下に隠れればよい」
 静観は自在鉤に鍋をかけた。娘の眼差しはぼんやりと庵室の中をさまよっていたが、静観の背後に祀られた菩薩像を見上げると、
 「焦げて、いますね」
 か細い声でつぶやいた。
 木彫りの菩薩像である。四尺ほどの細身の立像であり、胸元で合掌し、半眼のやすらかな面持ちをしている。その表情は、どこか微笑んでいるようにも見えた。袖付衣に腰帯を垂らした見姿は、ところどころが黒々と焼け焦げている。
「ああ、菩薩様ですか。この菩薩様も戦場の中に居られたのです。わたしも戦乱の世を逃れてここへ来た。だからそなたも、何も心配することはない。この菩薩様がきっと守ってくださるから」
 粥をつぎ、娘に差し出した。空腹だったのだろう。一口啜りこむと、娘の唇が少しだけほころんだ。それは静観が見た初めての娘の笑顔だった。
     *
 静観はかつて朝廷の高級官吏だった。しかし権謀術数の渦巻く政界から距離を置き、出世欲もなく、もっぱら学問にふけっていた。若き日の彼は天下の擾乱を厭い、戦火で荒廃した都大路から目をそむけるように、牛車に揺られているときも書物を手離さなかった。ある夕刻、読書に疲れた目を何気なく物見の外へ向けると、焼失した寺院の灰土に菩薩像が埋もれているのをみとめた。彼は従者に命じて牛車を停めると、引き寄せられるように駆け寄り、尊像にこびりついた灰燼をうやうやしく払って抱き寄せた。そのとき突然、出家しようと思った。なんと愚かな衆生の世、人間の業はついに同胞を焼き殺すにとどまらず、我々を救ってくださる菩薩様さえ焼き尽くしかけたのだ。もはや天は我々を許すまい。こんな醜い世などこれ以上見たくもない。強欲非道の世俗を捨て、一切の私心を捨て去り、菩薩の慈悲にすがって余生を送りたい。数日のうちに彼は剃髪してしまった。同僚の官吏たちは、あの御仁は気が狂れたのだとささやきあった・・。
 静観の眉間には、いつからか深い縦皺が刻まれている。すでに初老にさしかかるころだったが、笑うと青年のように輝いてみえた。粗末な法衣を折り目正しく着こなして、終日坐禅を組む様には犯し難い威厳があり、麓の里から食物や炭を布施としてとどけに来る者があとを絶たなかった。静観は日々、早暁から般若心経を読経し、一椀の粥をすすり、日が暮れるまで坐禅に励んだ。里の者に請われれば易しいことばで仏法を説いたりもした。
     * 
 落葉の下に隠した侍の遺体を埋葬するために、麓の里から人を出してもらった。静観は村長(むらおさ)の藤右衛門に事の一切を話した。
 新しく盛られた土の上に、淡い西日がかかっていた。村の衆は静観に手を合わせて山を下っていった。傍らに居た藤右衛門が辺りをはばかるように、小声で言った。
 「静観様、その娘、どうなさいますか。ここに居っては修行の妨げ、しかも口さがない連中がどんな下世話な噂をするかもしれませぬ。もしよろしければ、ひとまずわたしの方でお引き取り致しましょうか」
 静観は、我ながら怪訝に思うほどうろたえてしまった。
「引き取って、どうするのです」
「しかるべき尼寺でも見つかるまで、わたしの家で大切にお世話致しまするが」
「心配にはおよびませぬ。わたしは忠義の士から娘の身を託された。御仏のご加護を信じてのことです。なに、娘一人をしばらく庵に置いたところで、修行の妨げもなにもなかろう。それより藤右衛門どの、娘はいまだ追われる身、ほとぼりがさめるまで、このことを村外の者に口外せぬようお願いしたい」
 藤右衛門は深々と頭を下げると、山を下りていった。
 静観は、侍の遺品となった太刀を、まだ油断のならない状況の護身のために、菩薩像の傍らに立てかけた。
     *
 娘を匿ったときから、朝の目覚めも、粥の味も、薪の燃えるにおいさえ、以前とはちがったものに感じられた。
 暮しの中に若い女が一人現れたというだけで、庵室の黴臭さが一掃されたかのようであった。
 娘は、もはや自分の居場所が、この山中以外のどこにもないことを悟っている。だから草庵から出ていこうとしないし、たぶん、ここに置いてもらいたいという一心から、慣れない手つきで鍋や食器の類を頼まれもせず洗っている。
 静観は坐禅を組んだものの、すぐに体をくずして娘に話しかけた。
 「まだ名を聞いておらなんだ。名をなんと申す」
 娘は我に返ったように顔を上げた。
 「加代と申します」
 「なあ加代どの、こちらへ来て、少し身の上などを話してくださらぬか」
 加代は手ぬぐいをしぼると、囲炉裏の前に行儀よく座った。
 まだ十四だった。畿内では名の知られた武家の娘であった。静かに言葉を継ぐように、戦場のあらましを語り始めた。
 敵はおそらく、父に仕えていた地下侍の一党だったのではないかと加代は言った。あの日の晩、突如夜陰が真昼のように明るくなり、それが館を取り囲む松明であることに気づいたときには、たちまち無数の火矢を射込まれていた。大音声を上げて館に乱入した兵どもが加代の一族や郎党を撫で斬りにし、阿鼻叫喚の巷と化した館がいままさに焼け落ちようとする寸前、家来の中で最も身体の大きい男が加代を背負い、白刃を振り回しながら敵の攻囲を突破して洛外へ逃走した。この戦場のあらましは、静観が加代の話しをつなぎ合わせて理解したものであり、加代の話自体は断片的で脈絡がなく、記憶がひどく混乱していた。目の前で殺された肉親の姿と、男の首にしがみついてきつく目を閉じていたことだけを、最後に、短く話した。そして涙を流した。
 静観は再び菩薩像の前で坐禅を組み、加代は土間へ戻った。
     *
 寝具は加代にゆずり、静観は床上へ直に横たわり筵をかけて眠っている。
 その晩はことのほか冷えた。
 「お寒くありませんか」
 加代は何度も起き上がりかけた。しかし静観はそのたびに「気になさらぬでもよい。わたしは修行の身、どこででも眠れます」と笑ってみせた。
 囲炉裏の残り火が時おり弾けた。戸外はしんと静まり返り、今夜は雪が降るかもしれない。
 静観はこの歳になるまで、女を抱いたことがない。恋さえもしたことがなかった。在俗の頃は脇目もふらず学問に没頭していたから。
 特にの書物を好んで読んだ。古の学者たちは、人間の性が善なのか、悪なのか、大いに議論したものである。どちらの言い分にも一理あり、どちらの言い分にも欠けたものがある。この論争の行き着くところ、結論は。そんなことを飽きもせず考えてきたのだった。しかし、今では答えを知っている。人間の性とは、人間がしでかすこと以外の何ものでもないのである。美しかった都は争乱で灰と化し、多くの人間が殺されてゆく。これが人性の実相でなくてなんだろう。儒家が主張する「忠恕(ちゅうじょ)」、すなわち他人のことを思いやる真心がもし人の内に顕在するなら、戦乱など起こらぬのが道理なのだ。結局は、みんな自分のことがかわいい。過剰にかわいい。少しでも自分の利を害する者があれば敵対する。この世の不幸とは、すべてそこから派生する事象にすぎないのだ。だから、と、静観は心の中でつぶやいてみる。わたしは欲を捨てようと思ったのだ。自分の存在を突き放し、とことん苦しめてみよう、そうすれば、この世の醜さから逃れることができるかもしれない、と。
 筵の中で寝返りをうつと、静観は深い溜息をついた。それにしても、剃髪してからどれほどの星霜が過ぎたのであろう。思えば虚しい日々かもしれなかった。毎朝ありがたくいただいている粟や稗の粥、あれをわたしは一度でも美味いと思ったことがあっただろうか。人里離れた山腹での生活を、一度でも快適だと思ったことがあっただろうか。もう数え切れないほど、こんな寒い晩を独りで過ごしてきた。たった独りで。そう思うと、泣きたいような感情が胸の奥から込み上げてくる。
 静観は、加代の寝顔を遠巻きに見つめていた。二人の間にある囲炉裏はまだ暖かかった。その暖かさが、まるで加代の存在から発しているような錯覚を覚える。暗夜の果てに人家の明りをみつけたような喜びさえ感じる。加代のあどけない寝顔を見ているだけで、この世の善を信じられるような気もした。
 雪の降る音がかすかにきこえた。

2

     *
 村長の藤右衛門が、なにくれとなく世話を焼いてくれた。彼は静観に尽くすことが功徳を積むことであると固く信じているような人物だったから、草庵の新しい住人のことも当然のように憂慮してくれた。これは静観にとって非常にありがたいことだった。我が身一つなら雑穀の粥とボロ着一枚で生きてゆける。しかし元は武家の姫君である加代のことを思えば、せめて粥に漬物ぐらいは添えてやりたいし、白湯ばかりでなく茶も飲ませたい。なにより村娘が着るような活動的な小袖がなかったので、藤右衛門が末娘のお古を持ってきてくれたときは、深く手を合わせずにはいられないほど嬉しかった。
 さっそく静観は浅黄色の小袖を加代に差し出したが、ここへ来て以来、まだ一度も行水さえしていない加代の薄汚れた顔を見て不憫に思った。身体を浸すほど多くの湯も沸かせないし、大きな桶もなかったから、せめて熱い湯で身体を拭くことを勧めた。加代は洗い立ての小袖の手ざわりを楽しみながら、「はい」と嬉しげに答えた。
 ところが、静観の草庵は土間と炉間とを隔てる仕切りすらない。加代が行水を使っている間、静観は戸外に出ているつもりだったが、おもてはお寒うございます、わざわざ外に出ずともかまいませぬと加代は申し訳なさそうに言うのだった。静観はすっかり慌ててしまい、いやいや外に居るからと引き戸に手をかけたが、加代は静観の袖を取って引き止めた。
 「出なくともかまいませぬ。ただ、その、お目の毒になりますから、湯浴みをしている間、あちらを向いておいてくださりませ」加代も引き下がらないから、静観は庵室へ上がって、加代に背を向けて座り込んだ。
 着物の帯をほどく音が聞こえた。それから湯がちゃぷんちゃぷんと音をたてた。
 どうやら、加代も静観に背を向けているらしかった。
 静観は、我ながら困惑するほど心臓が高鳴っていることに動揺した。いま、自分の背後に女子(おなご)の裸がある。そのことで頭がいっぱいになっている。こんな馬鹿馬鹿しい感情はとっくに滅却したものと思っていた。しかし、静観が長らく女の肉体を意識したことがなかったのは、女に対して欲念を抱くほど直に女と接してこなかったからかもしれない。
 出家とは、欲心を刺激するあらゆるものから離れることであり、それによって欲心自体が滅却する保証があるわけではない。現に、自分の背後に若い女の裸体があるというだけで、静観の手は汗ばみ、呼吸すら苦しくなって、我と我が身を見失い、気がつけば、あろうことか加代が湯浴みする姿を、ほんの一瞬、のぞき見てしまった。
 白い背中だった。腰は折れそうなほどに細く、丸いかわいらしい尻があった。手ぬぐいで肩を拭っていた。
 すぐに静観は向き直った。苦しげに生唾を飲み込んだ。激しい罪悪感と、しびれるような恍惚感とが複雑にせめぎあっている。慌ててこの感情を打ち消すように、
 「寒くありませぬか」と声をかけた。
 「はい。ご心配にはおよびませぬ」加代も緊張したように答えた。
 しかしその声には、どこか静観のことを信用しきっている様子がうかがわれた。
 静観は落ち着きなく膝を揺すりつづけていた。

 「お待たせいたしました」
 加代の声がすぐ後ろで聞こえた。振り返ると、藤右衛門がくれた小袖を小奇麗に着た加代が立っていた。地味な麻の着物であったが、よく似合っていた。
 「お似合いですよ。これでやっとくつろげるのではありませんか」
 「はい。おかげさまで」
 加代はようやく年頃の娘らしい笑顔を静観に見せた。その笑顔を見初めて、静観の心もたまらなく満たされるのだった。
 粥の中に、山菜を入れた。大根の味噌漬もあった。藤右衛門の布施が、貧しい炉辺に活気を与えてくれた。鍋をかき混ぜている加代の横顔を見つめながら静観は、ときどきは白米などもいただきたいものだ、そんな思いがよぎったりもした。
 山の外気は一足ごとに厳寒へと近づいているようだった。惜しみなくくべた薪も、炉辺の周囲をわずかに温めているだけにすぎない。
 「筵だけでは、あまりにお寒いのではありませぬか」と、いつものように加代は心痛した様子で静観に声をかけた。
 けれども、ここには一組の薄っぺらな布団があるだけであり、もし加代の心痛をやわらげるためにできることがあるとしたら、静観と加代が一組の布団を分け合う他なかった。おそらく加代は、それでいいと思っているにちがいない。そのほうが気が安らぐだろう。いったい、なぜ加代と同じ布団で眠ってはならぬのだろうか、静観は思い悩むのだった。里の者たちは、親も子も姑も嫁も、こんなに寒い晩は身を寄せ合って眠るものだ。それは体温によって余計な薪を消費せずに済むからであり、薪はやがて燃え尽きるが、体温はいつまでも冷めないからだ。それだけの合理的な理由が床を共にする理由なのであって、わたしは何を恐れているのだろう。藤右衛門どのは食物や着物の心配はしてくれるが、寝具が不足していることまでは思い至らぬらしい。明日になったら頼んでみようか。それにしても今宵の寒さは耐えがたいものがある。きっと加代どのも寒いだろう。静観は身を縮めて襟をかき合わせた。
 寒風が格子戸をかたかたと揺すった。
 「そちらへ、いっても、よいだろうか」
 静観は思い切ったように、筵をはいでゆっくりと起き上がった。
 「ええ。ひどくお寒いですもの」加代は躊躇せず掛け布団をめくった。
 身体が触れないように加代のかたわらに身を横たえると、囲炉裏の暖より淡い、うっとりするようなぬくもりがあった。
 とてもよい匂いがした。
 静観はその匂いを呼吸しているうちに、不思議なくらい安らかな眠りに落ちてゆけた。もう長いこと忘れていた深いまどろみの底へ。
     *
 翌日、静観は寝具を借りに行かなかった。
 夜を心待ちにしていた。
 加代は草庵の住人になって以来、静観が坐禅をしている傍らに端座していることが多い。おそらく、肉親の冥福を祈っているのだろう。手を合わせて、いつまでも瞑目している姿がいじらしかった。静観は菩薩像を仰ぎ見て、どうかこの娘に幸多きことを。そう心の中でつぶやくのだった。

 月明かりが山林を青白く染めていった。
 静観と加代はまた一つの布団に入ったが、その夜の加代は静観に背を向けて横たわらず、静観の顔をのぞくように見つめた。
 「静観さま、人は死んだらどうなりますか。極楽浄土へ行ってしまって、もう此の世には戻らぬのでしょうか。わたくしのことを傍らで見守っていてはくださらぬのでしょうか」
 思いつめた表情だった。
 その表情を見て、静観の胸がつまった。
 「加代どの、御仏の教えでは、あの世に旅立った人は、もはや元の姿では還りませぬ。輪廻転生によって何ものかに生まれ変わるのです。加代どのも、やがて身まかられる時がやってくる。そして、何処かで何かに生まれ変わる。きっと来世で、お父上ともお母上ともなにがしかのかたちで再会できるはずです。それが縁というもの」
 「えにし」
 「そう。えにし。こうして加代どのとわたしがこの小さな屋根の下で語らっているのも、前世の縁によるのです。わたしと加代どのは、以前は親子だったかもしれませんね。だから、さみしくないのですよ」
 ここまで話すと静観は、無心に加代の頭を撫でていた。無量の愛情が加代のさらさらとした髪の毛を撫でていた。とても小さな頭だった。
 気がつくと静観は、加代に口づけをしていた。なにもかもわからなくなっていた。首筋に触れ、肩に触れ、加代は驚いたように静観の行動を遮ろうとしたが、静観の唇は加代の唇から離れなかった。舌先と舌先が触れた。静観は深い溜息を漏らすように加代の身体をきつく抱きしめた。やがて加代も身をよじるのをやめて、ゆっくりと両の目を閉じた。
     *
 草庵の屋根から雪が落ちた。
 坐禅を組む静観の傍らに加代も正座している。
 戸口を叩く音がした。藤右衛門だった。「お寒うございます」両手に大根を下げていた。
 静観は外に出ると、藤右衛門に小声で言った。
 「あい済まぬが、その、白米や、魚の類などがあれば、少々わけてくださいませぬか。少しでかまいませぬ。なにせ、年頃の娘がおりますから、できれば精のつくものを食べさせてやりたいと思うのです」
 藤右衛門は快く頭を下げた。
 しかし帰る道々「静観様のお願いとあればやぶさかでないが、それにしても坊様が、魚とは、の」水洟をすすって苦笑した。
     *
 静観が抱き寄せても、加代はまったく抵抗しない。口づけをすれば微笑んですらみせた。加代のほうから身を寄せてくることもあった。
 考えてみれば、加代は武家の娘であった。本来なら親の意向一つで嫁ぎ先を決められ、相手がどんな男であろうと妻となる宿命を教え込まれてきた娘なのだ。むしろ加代にとっては、家のしがらみとは別な形で出会った静観と暮らすことに、静かな安らぎを感じていたのかもしれない。
 静観は夜毎、加代の肉体を求めた。ときには四つん這いにさせたり、陰茎を握らせたりもしたが、加代は嫌がらなかった。これらの行為が静観の中で、ある一つの感情へと集約されてゆくことを加代が知りつつあったからだろう。行為の最中静観は「いとしい」と何度もささやいた。
 静観はいつも、幼い子供を寝かしつけるように、加代が寝息をたてるまで髪や頬を撫でつづけた。
     *
「やさしいお顔をしていますね」
 加代は仏像台に祀られた菩薩像を見上げながら、よくこう言う。
 しかし静観は、このところ菩薩像に畏怖の念を抱きはじめていた。
 陽光が庵室に差し込む時刻は、いつものやさしい菩薩の顔である。けれども、夜になると、菩薩の表情が深く沈んでいるように感じられ、その眼差しはどこか冷たかった。
 加代が現れるまで、静観の生活は厳格を極め、夜明け前に起き、日没と共に眠ることの繰り返しだった。それがいまでは、加代と夜具の中でいつまでも睦み合っている。静観はこれまで、深夜の菩薩像を眺めてみたことがなかったのだ。加代が眠った後、静かに身を起こして菩薩の顔を見上げてみると、まぎれもなくその眼差しは冷ややかであり、色事に惑溺する静観を非難しているように見えた。
 菩薩様は怒っておられるのだろうか。しかし静観は、そんな疑念を慌てて振り払った。菩薩は自ら犠牲を払ってでも衆生の救済に努めるという。いわば慈悲の化身なのだ。静観は夜具の中で加代の身体を強く抱きしめながら、むしろこの幸せな日々を祝福してくださいませぬか。そう何度も心の中で祈った。
     *
 静観は以前にもまして修行に励んでいる。加代との暮しに惑溺しているのは事実だったが、そのことで自分の求道心がいささかも揺らいではいないということを菩薩像に訴えたかったのである。里の者が布施を届けにやってきても、静観は坐を解かなかった。草庵を訪れる人々の応対は加代にまかせていた。このごろ加代はすっかり生来の明るさを取り戻したようであり、来訪者と親しげに談笑するまでになっている。里の人々は口々に加代の器量と人柄の良さを褒め、静観様はあの娘と所帯を持って、いっそのこと還俗すればいいのにとささやきあうのだった。
 静観の感覚器官は坐禅が深まるにつれて鋭敏になってゆく。かすかな葉擦れの音や室内の小さな物音まではっきりと聞こえてくる。修行を積んだ僧ともなると、線香の灰がフッと崩れる音まで聞こえるというが、静観の坐禅も十分その域に達している。だがそのことで、草庵を訪う人々が戸外で交わす他愛のない雑談まで聞き取ってしまい、例の「所帯を持って還俗すればいいのに」という悪意のない世間話が、庵室の奥に座した静観の耳に、はっきりと聞こえた。 
 とたんに心の平静を失った。もしや里の者らはわたしと加代が肉体の関係をもっていることを知っているのではあるまいか。わたしの淫行を冷笑しているのではなかろうか。これまで有徳の僧などと呼ばれて尊崇されてきただけに、静観の自尊心は激しく動揺した。念起こらば即ち覚せよ、そう何度も自分に言い聞かせてみたものの、もはや致命的なほど集中力を欠き、寸刻も無心になることができない。
 きっと誰かがこの家を覘いているのだ。わたしと加代の房事をどこからか覘き見て、その一部始終を村中に触れ回っている輩が居る。きっとそうだ。なんと汚らわしいことだろう。静観は草庵の隙間という隙間に板切れを打ち付けてまわった。汚らわしい、汚らわしい、どのような隙間も見逃すまいと血眼になって草庵の修繕に明け暮れた。加代には「すきま風がひどいゆえな」と言った。
     *
 ある夕刻、草庵の裏手で音がした。静観が出て行くと、下屋のところに藤右衛門が立っており、「これはどうも」笑顔で頭を下げた。
 「静観様、このところずいぶんと修行に打ち込まれているようですね。久方ぶりに拝顔致します」
 「なにを、しておるのじゃ」
 「はい?」
 「そこでなにをしておるのかと聞いておるのじゃ」
 「見ての通り薪を積んでおるのでございます。先日下屋を覘いたら薪がだいぶん減っておりましたからね。これじゃあ暖をとるにも不自由なことだろうと思いまして、こうしてお持ちした次第です」
 「それだけか」
 「はあ、それだけでございます」
 「のう、藤右衛門どの。そなたではないか、あることないことを村の者に吹聴しておるのは」
 「なんですって?」
 「わたしが加代と夫婦の関係を持っておるとな。いまも格子の隙から中をのぞいていたのであろう」
 「めっそうもござりませぬ。静観様、いかがなされたのです。あなた様らしくもない。わたしが一度でもそのようなことを・・」
 「黙れ」
 静観の眼に尋常でない怒気がこもっていた。
 「加代を匿ったとき、そなたは加代を自分の家に引き取ると申した。そなたあのとき、もしや色欲を抱いていたのではないか。いや、そうであろう。そなたはわたしを妬んでおるに違いない。それでわたしの悪口を垂れておるのだ」
 藤右衛門はしばらくあっけにとられていたが、やがてぽろぽろと涙を流し、「情けない。ああ、なんと、情けないお言葉。もはや二度と、わしはここへは参るまい」
 憤然として山を下って行った。
「情けないのは、そなたの人品ぞ」静観はなおも藤右衛門の背中に罵声を浴びせたが、加代が心配して様子を見に来ると、なんでもない、なんでもないのじゃとつぶやいて、薪束の上によろよろと腰をおろした。両手で顔を覆ったまま、しばらくそこでじっとしていた。

3

     *
 その夜、静観は夜具の中でいつまでも眠れずにいた。藤右衛門と仲違いしたことを激しく悔いていた。藤右衛門がここに来なくなったら、これから先、米や味噌のような高価な品はなかなか手に入らなくなるだろう。里の住人は藤右衛門のように富裕ではないのだから。しかも、村長である藤右衛門と仲違いをしたことが里の者たちに知れたら、もう誰も、ここへ布施を持って来なくなるかもしれない。そう思うと、明日からの糧が途絶えてしまうことに恐怖すら覚えた。
 しかも、と、静観はなおも沈んだ気持ちになる。もし加代に子が出来たら、わたしはもはや還俗せざるを得ないだろう。僧を辞めたところで、再び都で仕官できるだろうか。戦乱で荒れ果てた都に余分な官職などなさそうだし、すでにわたしは若くもない。百姓になりたくても、耕す土地もなければ、野良仕事の経験もない。都の治安は地に堕ちており、里の外は盗賊が跋扈している。加代がそばにいるかぎり、浮浪人にまで身を落すわけにもいかない。
 静観はたまらなく酒が飲みたかった。
 いっそ僧兵の仲間にでも加わって、都を荒らしてまわろうか。僧兵どもなら、妻帯していようが、獣の肉を食らおうが、誰も問題にはしまい。が、わたしのような文弱な男が僧兵などになってもきっと使い走りにされるだけだし、加代のごとき美しい娘を連れておったら、まちがいなく、加代は獰猛な男どもの慰み者にされてしまうだろう。それだけは、絶対に、
「嫌だ」
静観は身を起こすと、すがるような思いで、菩薩像を仰ぎ見た。
薄闇の中で、菩薩の目が静観を見下ろしていた。
真っ直ぐに見下ろしていた。
静観はおののいて目をそむけた。
囲炉裏の火が灰の中で消えかかり、凍てつくような外気が首筋に触れていた。
     *
 二三日ほど前から、加代の目のふちに隈がかかっているように見えた。「大丈夫ですよ」加代は笑ってみせていたが、徐々に食が細くなり、ついに一口も食べなくなった晩、少し横になりたいと放心したように言った。寝込んだときはすでに遅く、額に触れてみるとひどい熱だった。呼吸が荒くなり、全身からふきだした汗が小袖をびっしょりと濡らした。しばらくうなされていたが、やがて身をよじりだし、苦悶のうめき声さえもらした。静観は枕頭に座り込み、落ち着きなく手ぬぐいを桶水に浸しては加代の顔や首筋を拭っていたが、朦朧とした加代はおそらく無意識にその手を払いのけて、苦しげに身体をよじらせた。
 半日ほどこの状態が続いた。加代の容態はいっこうによくならなかった。
 むしろ、悪化していた。
 静観は不安を抑えきれなくなり、いつしか体が震え出した。
 加代はとんでもない大病を患ってしまったようだ。もはや一刻を争うだろう。一目散に藤右衛門の家まで駆けて、薬をもらうか、さもなくば都から薬師を呼んで来てもらうより他にない。それ以外に考え得る何ものもなく、静観は立ち上がると、蓑を羽織り、笠の紐をきつく縛るやいなや引き戸を開けて外へ出た。が、折からの豪雪は山道を深く埋め、一寸先が見えないほど吹雪いており、ぎざついた雪片がばちばちと静観の頬を打った。この辺りが大雪に見舞われることなどついぞなかったため、静観には藁沓(わらぐつ)の用意がなかった。あえぐように深雪を掻き分けながら歩みを運んだものの、これ以上先へは進めないという冷厳な事実を、凍え切った全身で思い知るしかなかった。
 風の唸りが地底から響いてくるようであった。静観の思念は凍りつき、吹雪きにいたぶられながらしばらく呆然と立ち尽くしていた。
 庵室に引き返した静観が見たものは、激しくのた打ち回る加代の姿であった。静観がすがり寄ると、顔から首にかけて発疹が出ており、それが非常な痒みを起こすのか、加代は爪を立てて発疹を掻きむしっている。何度手首を押さえても、異常な力で静観の手を振りのけて掻いた。みるみるうちに加代の皮膚は傷つき、破れ、血が噴出した。悲痛なうめきをあげながら、加代は全身を掻きむしった。静観が馬乗りになって加代の手を押さえつけていると、やがて加代は失神した。
 加代の四体に、泡立つように発疹が広がってゆく。破れた皮膚は鮮血を滲ませ、したたるほど膿んできた。静観は呆然として、なすすべもなく加代の手を握りしめていた。加代の爪の先に掻きむしられた肉片が食い込んでいた。
 天罰だ。
 静観ははっきりと悟った。これは天罰だ。
 静観はもはや、菩薩像のほうを見る勇気もなかった。
 加代が気を失っている間に、ありったけの薪を庵室に運び込んだ。囲炉裏の火を絶やしたら凍死してしまう。できるだけ薪を無駄にせぬよう、しかし庵室が冷え過ぎぬよう、静観は薪をくべた。ぱちぱちと音をたてて炎が揺らめいた。
 ほどなくして加代が身をよじりはじめた。そしてまた苦悶の声をあげるとのた打ち回り、激しく身体を掻きはじめた。
 加代、加代、しっかりせい! 静観もまた必死になって加代の身体を抑え付けたが、いったい加代のどこにそんな力があったのかと思うほどの強さで静観の手を払いのけ、爪を立てて全身を掻きむしる。静観はなすすべもなく、ただ呆然とうろたえるばかりだった。
 「神よ、仏よ・・」静観は思わず菩薩像を仰ぎ見た。
 その瞬間、静観は恐怖で凍りついた。
 菩薩像の鋭い眼差しが閃く刃のように静観を威圧していた。
 静観は全身の力が床に吸い込まれてゆくような虚脱感を覚えた。
 怒っている。菩薩様は怒っておられる。
 身体がわなわなと震えだした。
 そうしているうちにも加代はもがき苦しみ、四指の爪が全身の皮膚を引き裂き、えぐり、血が噴き出し、顔などもはや原形をとどめぬほどずたずたに引き裂かれていた。美しかった腕も乳房もずたずたに引き裂かれていた。血と膿みにまみれた肉体が痙攣してのけぞり、悲鳴ともつかぬ苦悶の声を搾りだしていた。
 それはもう、加代ではなかった。
 業火に焼かれつつある何かだった。
 静観はしり込みをしたまま震えがとまらず、涙が顎からとめどもなく滴り落ちた。
 邪淫を犯した罰が、これなのか。自らの手で、たったひとり愛した女を地獄に突き落としてしまったのか。静観は震える手で合掌し、藁にもすがるような心持で、救済を請う真宗の念仏を唱えた。
 静観は必死に念仏を唱えつづけた。しかし、悔恨の情が(はらわた)の奥底から湧き上がってくるのを抑えることもできなかった。いったいわたしは出家をして、いままで何をしてきたのか。かつてわたしは俗世を厭い、自ら無一物(むいちもつ)となってここへ来たのではなかったのか。しかしわたしの煩悩は、微塵も薄められていなかったばかりか、そっくりそのまま残っていたのだ。加代が現れたとき、わたしは自覚こそしていなかったが、確かに色欲を抱いていたのだ。この美しい娘を我ものにできるかもしれないと。そして案の定だらしなく肉欲におぼれた。わたしが出家をした本当の理由は、求道などという高尚なものではなかったのだ、そうにちがいない。出家者は世間を捨てたと宣言することで、この世のあらゆるしがらみから開放される。そして僧であることによって、当然のように人々から施しをもらえる。いわば安全地帯でのうのうと暮らしてゆくために、わたしは僧のふりをしてきたのではないか。日々の坐禅は粛々と僧のふりを演じるためにすぎず、しかしそんな自分の心根に罪悪感を抱かないわけでもなかったから、わずかな雑穀の粥をすすり、ぼろの法衣を着て、それで修行の苦しみを味わっているような気になっていただけなのかもしれない。
 加代の身体が大きくのけぞり、断末魔の叫び声を上げた。全身を痙攣させ、千切れるような悲鳴を何度もあげた。静観は加代の身体を押さえ付けながら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、狂ったように唱えつづけた。やがて加代は口から泡をふき、ぐったりと動かなくなった。静観は両目を見開き、加代の口に耳を寄せ、心臓を探った。
 かすかな呼吸と弱い鼓動が、まだ残っていた。
 まちがいなく、加代の死が迫っている。いったいこの娘に何の罪があったのか。静観は菩薩像に向かって「お救いください、どうかお救いください」と叫んだ。しかし菩薩像は冷たく屹立したまま、やはり静観を見下ろしていた。その表情は鬼のものであり、一欠けらの同情すら張り付いていなかった。静観は菩薩像の顔を見つめて、「なんなのじゃ、その顔は」呆けたようにつぶやいた。
「なんなのじゃ!その顔は!」静観は立ち上がった。
「罪を犯したのは、このわたしであろう、なぜわたしを殺さぬ。わたしの出家は偽りだった、大嘘だった、色欲に溺れたのはこのわたしであり、藤右衛門どのの善意を仇で返したのはわたしの悪だ、それ以外の何ものでもない。すべてわたしの汚れた魂が犯した愚行ではないか、なぜわたしを殺さぬ。わたしごとき虫けらなど、ひと思いにひねり潰せばよいではないか。なぜ加代をこんな目にあわせる、こんな惨い仕打ちをする、おまえは人間がもがき苦しむ姿を見て楽しんでいるのであろう、そうであろう!」
 静観は菩薩像の傍らに立てかけてあった太刀の柄をやにわに掴むと、鞘を払って投げ捨てた。静観の目が、真っ赤に充血していた。
 上段に振りかぶるやいなや、絶叫して菩薩の首を斬り払った。
 菩薩の頭がごとんと落ちた。ごろごろと床の上を転がり、静観の爪先にあたって止まった。
 静観は肩で呼吸をしながら立ち尽くしていた。
 菩薩像の首を斬った瞬間、静観は、自分は(いかづち)に打たれて死ぬものと思っていた。が、何も起こらなかった。
 全身から汗がしたたり、呼吸はなおもおさまらなかったが、心は妙に落ち着いていた。
 ようやく静観は、足元に菩薩像の頭が転がっていることに気がつくと、ぼんやりと視線を落とした。そして、立ちすくんだ。
 菩薩の顔がうっすらと微笑んでいた。それは、いつものやさしい菩薩の顔であった。
 静観は太刀を落とした。
 怒気を帯びた菩薩の顔は、囲炉裏の炎が浮き上がらせた陰影にすぎなかったのだろうか。
 静観はその場に崩れ落ちた。
 加代はまだ浅い呼吸をしていた。しかしいくらか苦痛がやわらいだのかもしれず、まるで寝息をたてているような息づかいになっていた。
 静観は加代のかたわらに這い寄ると、鮮血のにじんだ加代の額や頬にそっと手をあてた。そして涙をはらはらと流しながら、加代のからだを抱きしめた。

菩薩の目

菩薩の目

わたしは、罪を犯しました。

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