君の声は僕の声 第五章 6 ─杏樹の母親─
杏樹の母親
「陽大のお母さんでどんな人?」
結局一匹も魚を食べることができず、明日の朝食にとっておいたパンでお腹を満たし、その代わりに明日の朝焼くためのパン生地を居間のテーブルで陽大と並んで捏ねながら、聡は何気に訊ねた。
「僕に母親はいないよ」
陽大は平然と応えた。
一瞬、聡の頭の中が空っぽになる。聡の手が止まっているのを見て、陽大が聞き返した。
「杏樹の母親のことか?」
そうなるのだろうか……? 瞬時に考えられぬまま聡は「うん」と返事をした。
「綺麗な人だよ。杏樹に似て」
「…………」
陽大の答えは何かしっくりこない。聡はパンを捏ねる手を止めて少し考えてから更に訊ねた。
「陽大と杏樹は、同じ、顔……だよね?」
それを聞いた陽大は、眉根を寄せて不快そうに「そんなわけないだろう?」とパン生地を置いて口を尖らせた。
陽大は怒っている。予想していなかった陽大の反応に、聡はどういう事なのか理解できず返事に困った。口を尖らせたままの陽大に「そう、だよね」と、取り合えず笑っておいた。
陽大は何も言わなくなった聡をちらりと見て、またパン生地を丸め始めた。ふたりの会話に耳を傾けながら、秀蓮はベンチに座って地図を広げている。
「杏樹のお母さんとは、話をしたことあるの?」
「そりゃあね。あまり自分から話をする人ではなかったけど、僕が話しかければ楽しそうに聞いてくれたよ……でも、僕が話したことを信じてくれなくて、よく嘘つきだって言われたな」
「──杏樹は?」
「杏樹はよく怒られてたよ。あいつは要領が悪いから」
陽大は鼻で笑い、肩をすくめてみせた。
「『結』が、杏樹のお母さんがよく歌を歌ってくれたって」
「ああ、小さい頃はね。よく歌ってくれたよ。あの頃はまだ優しかったから」
聡の手が止まる。地図を見ていた秀蓮も陽大の言った言葉に反応して顔を上げた。
陽大はふたりの様子を気にも留めずにパン生地を丸めると、「はい、出来上がり」と、パン生地をトレーに並べ「明日はまた釣りに行く、そして魚は僕が焼くよ。いいね」と、念を押すように聡に向かって指さして言うと、口笛を吹きながら寝室へと入って行った。
やっぱり陽大と杏樹は別人だ。と聡は思う。そして「あの頃は」という言葉が気になった。
聡と秀蓮が遅くまでキャンプの計画を話し合っていると、そこへ玲がやってきた。黙って椅子に座ると、古代文字の本を開き、何も言わずに玲はページをめくった。ふたりは玲の邪魔にならないように声を落とした。しばらくして玲が本に視線を落としたまま、おもむろに口を開いた。
「杏樹はパニックを起こさなかったようだね」
本から顔を上げた玲は、いつもの調子だ。
「まだ混乱しているようだけど、これから時々杏樹を起こすようにするよ。かまわないか? もちろん君たちの前だけだ。キャンプでは眠らせておく」
「あ、ああ、もちろん」
玲の唐突な提案に一瞬言葉を詰まらせたが、秀蓮は微笑みながらうなずいた。まさか玲からそんな言葉が聞けるとは聡も秀蓮も思っていなかった。
「ありがとう」
礼を言うにも、相変わらずどこか高飛車な態度ではあるが、玲と少し距離が縮んだことに聡は満足だった。
※ ※ ※
真夏の太陽がアスファルトに照り返す。行く手には、アスファルトから陽炎がゆらゆらと立ち昇っていた。うだるような暑さの中、タツヒコはアリサワとふたり、寮へと向かっていた。
「雨の日のアスファルトは靴が汚れずに済むけど、真夏はいけませんねぇ」
タツヒコがネクタイを緩め、流れる汗をハンカチで拭きながらうんざりして言った。
「もう少しだよ。森に入れば涼しくなるさ」
アリサワが言ったように、森の中は、今までの暑さがうそのように涼しかった。重なり合った枝が太陽の熱を遮り、適度に湿った土は、アスファルトで火照った体をひんやりと包んでくれた。風が梢を揺らす音が心地良い。
「夏休みの少年たちの行動をチェックするなんて初めてですね」
「ああ」
「…………」
それ以上何も言わないアリサワにタツヒコがまた口を開いた。
「事務所に泥棒が入ったって、もっぱらの噂ですけど、それと関係があるんでしょうかね」
「…………」
アリサワはなおも黙っている。
「上層部は隠しているけど、銃声が響いていたって言うじゃありませんか……しかも盗みに入ったのは子どもだって噂ですよ……寮の少年を疑っているんでしょうか?」
タツヒコはちらりとアリサワを見た。
「さあね。俺たちは上から言われた通りに動くだけだよ」
アリサワの口調は穏やかだが返事は素っ気ない。アリサワは仕事でも的確に簡潔に話すだけで、それ以上の事はあまり話さない。特に愛想が悪いという訳ではないが……。
これ以上なにを聞いても無駄だと思ったタツヒコは黙って歩いた。
「杏樹はどこへ外泊しているんだ?」
「だから、自宅だって言ってンだろ」
アリサワの質問に、管理人室のソファに深くもたれ、手足を組んで天井を見つめたままぶっきらぼうに櫂は答えた。タツヒコの額に青筋が浮き上がるのを櫂が顔色を変えずに見つめていると、アリサワが疑わしそうに目を細めた。
「杏樹が? ──あの家にか?」
アリサワの言葉に引っかかるものを感じた櫂とタツヒコの視線がアリサワへと向けられる。
「あのって言われても、俺は杏樹の家を知らない。──何? そんなことまで報告しなきゃいけないわけ? 俺たちを規則で縛るのか」
櫂は声を落とした。
アリサワは小さくため息をつくと、テーブルに置かれた夏休みの外泊届に手を伸ばし、パラパラとめくり始めた。
「君のお友達が面会に来たようだね」
アリサワは手を止めず、外泊届に視線を落としたまま訊ねた。
櫂は黙っている。
タツヒコがびっくりしてふたりを交互に見た。彼は知らなかったらしい。
「珍しい事もあるものだね。それに、君に同じ年頃の友達がいたとはね」
アリサワが顔を上げた。
ふたりの涼しい視線がぶつかる。
「ああ。友達じゃなくて、親類の子供だけどな。俺にだって、それくらいの知り合いはいるさ」
櫂は足を組み換えながら、アリサワから視線を外さずにじっと見つめていた。
「そうか、それは安心した。それじゃあ、来週の君たちのキャンプは? どこへ行くんだ」
櫂の眉間がピクリと動いた。アリサワの口調は詰問するようなきつい言い方ではない。この男はいつも穏やかに喋る。優しげな目で櫂を見つめてはいるが、その瞳の奥にはくすぶっている何かがあると櫂は感じていた。
「そこの湖だよ。もっと森の奥まで行くかもしれないけどね」
櫂は組んでいた腕をほどき、肘掛に手を置くと「なんでそんなこと聞かれなきゃいけない?」とソファの背もたれから身を起こした。
「先月、もうひとつの特別クラスの生徒が釣りをしていて、川で溺れて死亡する事件があってね。君たちはご両親からお預かりしている大切な体だ。何かあってはご家族に申し訳がたたないからね」
アリサワが変わらぬ口調で言った。この男は常に冷静な態度で会社の命令には私情を挟まずに動く。櫂がそんな言葉を信じたりしないとわかりながらも、サラリと言ってのける。隣りでアリサワの言葉を鵜呑みにして、心配そうに頷いているタツヒコとは大違いだ。
「あんまり規則をうるさくすると、俺たち逃げちゃうよ。俺たちを詮索しないほうがいい。そっちも困るだろう? 俺たちがいなくなったら」
意味ありげにわざとらしく言ったが、櫂の予想する通り、アリサワは変わらずに涼しい顔をしている。
「──上の連中に言っとけ」
声を落としてそう言い捨てると、櫂は管理人室のドアを思い切り閉めて出て行った。
「何なんだ。あの態度は」
タツヒコが頬をひきつらせた。
「まあ、いいさ。櫂の言う通りだ。彼らを縛るのはよくない。夏休みに外泊をするのはいつものことだ。湖付近でキャンプ。杏樹もそういうことで報告しておこう」
アリサワはそう言ってソファから立ち上がった。つられて立ち上がろうとしたタツヒコは、テーブルに出された冷たいお茶を一気に飲み干した。
「それにしても杏樹はどうしたんでしょうね。杏樹の家族がここに面会に来たことは一度もなかったはずです。杏樹のあの家に、の『あの』ってどういう意味です?」
寮を出て森の中を歩きながら、タツヒコがちょっと気にかかる、といった程度に軽く訊ねた。
「そんなこと言ったか?」
「言いましたよ。──ねえ、どういう意味です?」
答えを聞きだそうとのぞき込むように見ているタツヒコに、アリサワはため息交じりに話し始めた。
「たいてい、この寮にやってくる少年たちの家ってのは、子供を早く連れて行ってくれって家族が多いんだ。小人が家にいると噂になれば、近所からは白い目で見られ、孤立してしまう。「特別クラス」がまだなかった頃は、伝染病のように扱われ、小人の出た家は隔離されたそうだよ。世間に知られる前に子供を売り飛ばしたり、森の中に捨てたり、小人がいると密告された家で不審な火事が相次いだり、そんな闇に葬られた子供がたくさんいたって話だ。──半年前に君と訪ねた家みたいに、息子を手放したくない家族はまれだ」
「…………」
「それでも杏樹のような家は他にはなかった。杏樹の家は、見た目には普通の家族だったが、あの子はここへ来たとき体中あざだらけだったんだ。体も痩せていて……。医者が治療しようと服を脱がせようとすると、極度に嫌がってね。噛みついたり、暴れて部屋じゅうをめちゃくちゃにして……手がつけられなかった」
タツヒコの顔が歪む。
「母親は杏樹によく似た綺麗な人でね。大人しそうな人だったよ。杏樹を連れて行くとき、杏樹を抱きしめて、泣きながら『ごめんね』って何度も繰り返していた。杏樹も母親を嫌がる素振りはなかったんだ。ただ、杏樹は震えていた──」
タツヒコの歩みが遅くなる。俯いたタツヒコの肩に手を置いてアリサワが言った。
「同情するくらいにしておけ。彼らはこの寮にいるのが一番いいんだと、俺は思うよ」
タツヒコは俯いたまま小さくうなずいた。
君の声は僕の声 第五章 6 ─杏樹の母親─