球体水槽のなか
あいまいで、あやふやで、はっきりしない。
空気を、噛んでいるようだと思いながら、誰のものかわからない球体水槽を、磨く。ひとは、いつのまにか、水槽のなかでしか生きられないものになってしまった。町には、家や、マンションの代わりに、無数の球体水槽が、並べられている。にんげんひとりにつき、ひとつの水槽がある。高さは二・五メートルほど、おとなひとりが直立しても余裕はあるが、水槽のなかのにんげんたちはみな、ひざをかかえてうずくまっているので、余分なスペースが多いなと、いつも思っている。
彼らは死んでいる、のではない。
仮死状態、なのだという。
よく、わからない。ぼくには、水槽のなかのひとびとは、死んでいるように見えるし、眠っているようにも見える。水槽は、水槽だけれど、水は入っていない。ぼくは、子どもなので、まだ、水槽のなかには入れない。球体水槽のなかで、おとなたちは、ひざをかかえて、うずくまっている。水槽に入れない子どもたちは、まいにち、おとなたち(主に、自分たちの肉親や、親戚など)の水槽を、ぴかぴかに磨いている。ぼくたちは、はたらいている。おとなたちは、うごかない。町は静かで、空はいつも薄雲におおわれている。
恋、というものの正体を、さいきん、知った。
実に厄介なもので、まいにち、なまえもしらないひとの水槽を、きれいになるまで磨いているのは、ぼくが、そのひとのことを好き、つまり、そのひとに、恋、というものをしているのだと気づいたとき、はげしいむなしさを覚えた。そのひとは、夏の海を想わせるようなスカートを、はいていた。栗色の髪は長く、きっと、ふわふわしているのだろうと思った。ぼくが担当している地域の、球体水槽のなかの男女比は、だいたい半々で、若いひとよりも、年配のひとの方が目立っているようだけれど、その実態は、判然としない。ひざをかかえて、うずくまっているので、若いのか、年老いているのか、不明なひとも多いのだ。
朝、目が覚めたとき、ぼくも、あの水槽のなかに入っていますようにと、祈る夜もある。
誰に強要されたのか、忘れているだけなのか、意識のないときに洗脳でもされたのか、もしくは、パラレルワールドにでも迷いこんだのか、いつから、町には球体水槽があふれ、おとなたちは、水槽のなかでしか生きられなくなり、ぼくたちは水槽を、まいにちせっせと、磨いているのか。ぼくというにんげんは、なにものか。そもそも、まず、ぼくは、にんげんなのだろうか、という疑惑。
ぼくが、恋、というものをしたひとは、スカートをはいて、髪が長いから、女の人だと、ぼくは、勝手に決めつけていたのだが、でも、ほんとうに、女の人かどうかは、水槽のなかの、実体に触れなければ、わからないのではないか、と、考え始めたら、世界の、この世界のあらゆることが、不透明に思えた。
球体水槽のなか