不穏なもの

土井留ポウ

 わたしはある夜不穏なものを見た。そこは地下鉄の構内であった。宵の酔客らの足も絶えて、終電車の間際、郊外に近い小さな駅で最後の下り電車を待っていた。
 この日は金曜日で、わたしは先輩と会社近くの居酒屋で慎ましやかな会合をしており、というのも社長の他に従業員がわたしと先輩という二人の小所帯で、この日は先輩と二人、多少の仕事の話も交えながら、余暇の過ごし方、映画のこと、最近の大人数で活躍するアイドルグループのことなどを、店内の隅で向かい合ったまま比較的声量の落とした声で二人、適量なアルコールで休日前のささやかな息抜きを行っていた。
 先輩は基本的に無口で、わたしはどちらかというと馴れ馴れしいところが多分にあるので、あまりわたしばかり話すと失礼になりはしまいかと、わたしは特に映画の話などで身を乗り出しそうになるのを、抑制して先輩を覗いながら話をしなければならなかった。
  先輩とは九時頃には別れたが、わたしは妙に酒の影響からか頭が覚醒するので、回転寿司を覗いて二三の握りに焼酎を嗜んでいた。呆っと人々の交わす会話を聞きながらしばらくして店を出、その後別に用もなく駅前をぶらぶらしていたのだが、帰ろうかと切符を買った時に終電が迫っていたことを知った。
 わたしは構内で携帯を弄くりながら、電車を待っていた。構内は遠くに三人の男女がいるばかりであった。
 線路を軋ませて向かいのホームに電車が到着した。電車はそのまま最後の疎らな乗客を吐き出した後、街の中心部へと向かい、出発していった。
 携帯を見ながら、視界の上端に二本の足が凝っと地面に張り付いたまま動かないのを不審に思った。普通なら改札に真っ直ぐと向かっていくはずである。この二本の足はこちらを向いたまま視界の上端に張り付いたままだ。
  わたしは携帯から目を離し、その二本の足を見上げた。
  それは不穏な光景であった。線路を挟んで立っているのは、下半身は人間なのだが、上半身は人間よりも両生類に近かった。ジーパンを穿いた下半身に対して、上半身は裸なのだろう皮膚はビニール質のように光沢があり青い。紺色のジーパンなのだが全体がそのジーパンと同じ色をしている。ただ部分的に黒ずんでいるところもあり、一見病的にも見えるが、あるいはそういう模様だろうか。妙に首が長いのが亀を思わせる。上背がありプロレスラーのような体格をしている。毛は全く生えていない。大きな目がこちらを見ている。
  眼球に膜が張っており、目蓋を開けたり閉じたりする際、膜に溜まった水が泡になって目端から零れている。
  どうしようか、と思っていると、くんっと頭を擡げ反転した。歩き方が独特で、身体全体を大仰に動かして、歩く、いや歩くというより、徐々に推移しているといった感じだ。二本の足がつっかえるのか、一瞬内翻足にも見えるが、むしろ上半と下半の均衡が合っていず、何か二本足を出鱈目に蠢かしているだけのように思える。ゆっくりと改札へと続く階段の方へ向かっていく。しばらく見詰めていると階段の暗がりに姿を消した。
 わたしは携帯に視線を落とした。ホームの端の三人組がはしゃいでいる。男が女の頭を持って食うような素振りをしている。
「きょええ、きょええ、きょええ」
  女が嫌がりながら身悶えていたが、
「もう、やめてよ、やめてよ」
 などと、哄笑にかわった。わたしは深く息を吸い込んで携帯に見入った。
  電車が到着したのでわたしは乗り込んだ。
 他に乗客はいない。わたしは漫然とネットの画像などを見ていたが、突然電話が鳴った。先輩からであった。
 電話を取ると、今日はご苦労さん、などと前置きして、どうも明日は暇だから映画にでも行かないか、と映画に誘われた。わたしは即座に首肯する返事を伝えた。それより今、不穏なものを見たことをその返事のついでに言うと、それは多分見間違いだ、酔ってるから変な幻覚でも見たんじゃないのか、と幾分揶揄われ気味に言われた。話が通用しないのを感じ、では明日などと話を切り上げようとすると、連結部の扉が開いた。
  またも、あの不穏なものであった。わたしは電話を取り落としそうになった。ジーパンを穿いたその幾分人間にも近い謎の生物は、あの奇妙な動きでこちらに移動してくる。ばたばたと身体全体を動かすのが妙に目に煩い。わたしは電話を持ち直して、先輩に口頭で伝えようとしたが、もう向こうの方で電話が切られた後であった。写真を撮っておこうか、と携帯を向けた。二枚ほど撮った。わたしの前まで来ると、どさっと倒れるようにわたしの横に座った。
  移動するのに相当な労力を要するのだろうか、肺臓が圧迫されてその息が声音と混じり合い、動画で見た捕食された猪のような、危機迫るような呻きを吐き出した。ひぃふぅ、ひぃふぅ、と耳にも煩い。肺活量が多いのか吐き出した息が向かいの座椅子にはね返って風のようにわたしの頬に当たる。息は無臭だが生温かい。トラックの排気ガスを思い出す。
  この不穏なものはジーパンを穿いているところを見ると、何らかの人智との接触があるようだ。わたしは何となく英語を用いて、フー・アー・ユーなどと発音を明瞭にこう聞いた。特に応答はなかった。応答がないところを見ると、人語を解さず、もしかすると精神の存在がないか、希薄なのかもしれない。
 一瞬亀にも見える毛のない頭部は目の大きさに比べて脳味噌の容量が少なそうなので、いわゆる下世話な知識にもある脳の重要性の観点からは、人智を理解するには無理がありそうにも思えた。
 逆に理性の存在が皆無だとすると、生理的に忠実だと思われ、特に個体維持の観点から、食べる、という行為のみが希薄な意識にそれこそ情熱的にあるのだとすると、
「わあ」
  わたしは座席から立ち上がり、この不穏なものから身を反らせた。食べようとするつもりなのか。わたしは立ち上がる際携帯を落としてしまった。携帯はあの不穏なもののジーパンを穿いた足の下、座席の隙間に落ちてある。わたしは悲しくなった。あの不穏なものの股の下に屈んで携帯を拾うというのはその時のわたしには不可能なことに思えた。
「何処かへ行ってくれ!」
  人語を解していまいとしても、その時わたしが行い得た事柄は、気持ちを言語化して口に出すぐらいであった。
  電車が減速を始めた。車窓で無人に近いホームが横切っていく。ブレーキ音が響き渡り、車体が前後に振れた後、シャワァと何処かで空気が放出されて、それと同時に扉が開いた。 後ろの車両にいた客であろう、男が一人疲れた顔でホームを歩いている。
  遠くで笛の音が聞こえた後一斉に扉が閉められた。車体が前後に振られ、進行方向に動き始める。加速し、車窓でホームが横切っていき、景色は暗闇だけになった。
  わたしは携帯がなければ他人との接触が、特に住所の分からない友人などとは交際が断絶してしまうことに、愕然とした。何もかも他人との交渉は携帯を介して行われる。明日の先輩との映画の約束も、細かい時間などは携帯を介して行わなければならないだろう。 携帯をこんなところで失うなんてあまりにも馬鹿げたことだ。たんに不穏なものの足の下にあって拾うのに臆してしまい、拾わなかったなんて、お笑いにもなりはしない。
  仕方がない。わたしは片膝をついて、座席の下に屈んだ。頭上で苦しそうに吐き出す息が降りかかる。生温かい息がトラックの排気ガスを浴びているようだ。まるでトラックの下に屈んでいるような錯覚を覚える。どうかこのまま急に発進したりしないでくれよ。と、あの不穏なものの顔を思い浮かべたが、捕食動物に不可欠な牙の存在がなく、もしかすると植物の摂取が主なのかもしれない。
 恐る恐る二本の足の奥に手を伸ばす。ジーパンを穿いているところから見て、何らかの人為の接触はあるようだし、もしかすると、人間に対する上での教育がなされているとも考えられる。
  手の先で携帯に触れると、手前に引いた。しかし、もの凄い息だな。肺活量が尋常でないのだろう。ひぃふぅ、ひぃふぅ、って言っている。ようやく携帯を取り上げた。
  この不穏なものは凝っと動かないまま、あの大きな目で終始わたしの動作を追いかけていたのである。
 わたしは携帯を開いて、さっき撮った画像をチェックした。しっかりと対象を捉えてある。その時、何か中身が詰まったもの、例えば、林檎のような果実に圧力を加えて、破砕させた時にあるような、そんな声がした。
 不穏なものが何事か喋ろうとしているのか。わたしには分からなかったが、この声は非常によどんでいて、中身の詰まった果実を圧砕したようだと思った。目蓋を開け閉めして水の溜まりが流れ落ちる。眼球が黄色く、しかもビビッドな黄色だった。わたしの携帯を見て、また視線をわたしに戻した。
 携帯に興味があるのか。イエス。ディス・イズ・モバイルフォン。わたしは発音を明瞭にこう伝えた。相手に人語の理解があろうがなかろうが、この人間の様相のある存在に一種の錯覚に似たものを覚え、わたしは語りかけた。全く理解の得られないことを確認してまた携帯の画像に視線を戻した。
 再び、電車は減速を始める。車窓に無人のホームが横切っていく。ブレーキが掛かり、ゆっくりと電車が止まった。二秒ほど溜を措いた後にピシャアと扉が開かれた。わたしは携帯の画像を確認しながら降車した。
 そのまま携帯を見ながら改札に向かった。改札を出ると駐輪場で自転車を引っ張りだした。携帯を閉じてショルダーバッグに蔵うと、自転車に跨がった。自転車を漕いで、ひっそりとした国道を渡った。アパートに帰ると、そのまますぐに布団に潜ったが、アルコールの影響で頭が冴えていたので、しばらく携帯を見ていたが、二時頃だろうか、寝た。

  電話が鳴った。先輩からだった。おお、寝てた、と前置きし、今日は映画に行くって言っていたよね、とわたしに応答を求める。ええ、行きましょう。
 詳しい時間と詳しい車両を指定し、先輩は電話を切った。
 わたしは着替えて、多少時間までに早かったが自宅を出た。小腹が空いていたので駅前の立ち食いで腹ごしらえをした。ゆっくりと食べたので頃よい時間になっていた。切符を買い、ホームに立っていると電車が来た。
 二つ目の駅で、先輩が乗り込んできた。待った、などと挨拶の代わりに先輩は言った。いいえ、わたしは応答し、先輩は横に座った。それから特にお互い話す話題もなく、携帯(先輩はスマートフォンだったが)を見詰めていたが、昨夜見たあの不穏なものを思い出し、わたしは先輩に語りかけた。昨日何か不穏なものを見たんですよ。
 それは君見間違いだ、酒の成分から人体にある種の幻覚をもたらしたんだろう、と先輩は昨日と同じくわたしの話を揶揄いながら否定した。そう言われるだろうと証拠を残してきた。
 一応、写真撮ったんですがね。わたしは携帯の画像のアルバムを開き、先輩に指し示した。
 ああ。先輩はその画像を見て一言漏らした後沈黙した。よく撮れてるね、などと最後に言ったきり先輩の視線は自分のスマートフォンに戻る。
 先輩はわたしにイニシアティブを取られるのが嫌なのだろうか、と思ったが、あまり好ましい話題じゃないのだろう、仕方がない、とわたしも別の画像に目を移した。
  昨日見たの。先輩はスマフォに顔を向けたまま言った。ええ。それからわたしは笑い話を思い出した。その時携帯をそいつの足元に落としてしまってどうしようかと思いましたよ。うはは。途中にこの会話を挟みつつ電車はホームに滑り込んだ。
  街の中心部だけあってホームは賑やかだ。ピシャア扉が開かれた。わたしは携帯をショルダーバッグに蔵い、立ち上がった。先輩も立ち上がり、われわれは降車した。先輩はスマートフォンの画面を見詰めたままだ。
 中央プラザというビルの七階と八階に、映画館があり、われわれはそこに行った。
 小さな映画館で、上映されているのは現在四作品、二つは子供向けのアニメ映画だった。『チャーリー・モンブランの不快な一日』という米国のコメディ映画が面白そうだった。邦画では『せんぬき』という映画がやっているが、これはおでん屋の店主と不思議な女性客との大人の恋愛物語で、わたしは先輩と二人でラブストーリーは見たくなかった。
 ただし先輩の方は『せんぬき』を見たそうにしており、わたしは婉曲に上映時間の兼ね合いの点で、『チャーリー』の有利を挙げて、二十分の後にすぐ見れることを説いたが、先輩はそもそも『せんぬき』が見たかったらしく、われわれは三十分の待ち時間の後に『せんぬき』を見ることに決めた。

 おでんだけが煮えて、ぐつぐつと音を立てている。プアン。ガシャンガシャン、ガシャンガシャン。線路を軋ませて電車がガード上を通過する。もう夜も深みを増そうというところ。ガード下にあるおでん屋の店内に客はおらず、今日はどうやら坊主のようだ。まあ、こういう日もあるさ。もう店じまいするか。店主が暖簾を外そうとしたとき、がらがら、引き戸が開いて…
 わたしは欠伸を噛み殺して、席を立つ。先輩が見上げる。ちょっとトイレに行ってきます。ああ。先輩の頭が四分の一回転してスクリーンに戻る。
 薄暗い観覧席から外に出ると、多少混み合ったホールに、不穏なものがいた。
 同じく上映されているアニメ映画の影響で子供連れが多いホールに、子供にあれは何か、と指差されながら、歩いていた。歩くというよりは徐々に推移しているといった風で、ばたばたと身体全体を動かす大仰なものなので、目に煩い。昨日とは別のものだろうか、チノパンを穿いており、上半身は勿論裸で、青いゴム様の皮膚にところどころに斑の黒ずみがある。動画で見た捕食された猪の悶える声にそっくりな呻きを上げている。ひぃふぅ、ひぃふぅ、ひぃふぅ、ひぃふぅ。息が凄まじいので、子供の髪がそれで靡いている。
 わたしはショルダーバッグから携帯を取り出し、この場合、あまり関わり合いになりたくない姿勢を鮮明にして、携帯を見詰めながらホールを横切りトイレに向かった。
  トイレで用を足していると、ひぃふぅ、ひぃふぅ、声が近づいてきたかと思うと、不穏なものはトイレに入ってきた。振り返ると、わたしの後ろに立っているので、こまったな、わたしは思う。わたしに何事か用事があるように、身動きせずあの大きな目で見ていたからである。首筋に生暖かい息が絶えず吹きかけられていた。わたしは小便の水滴を揺すぶりだしてチャックを閉めた。
  振り返ってトイレを出ようとしたが、この不穏なものが通路を塞いでいて出られなかった。わたしは平手を前に突き出し、頭を下げて、進行方向に進むジェスチャーをすると、意味が通じたのか、不穏なものの身体が傾いて、人一人分が通れるスペースができた。わたしはそこを通ってトイレから出た。そしてホールを横切り、薄暗い観覧席に入り、先輩の横に座ると、先輩に言った。また、あの不穏なものがいましたよ。
 ああ。何処に。先輩がスクリーンから目を離さずに言った。いえ、そこのホールに。それでトイレに行ったんですが、そいつトイレまで追いかけて来ちゃって。
 知り合いなの。先輩が言う。いや、違いますよ。知り合いなんかじゃないですよ。
 それから先輩は沈黙したきり、映画に没入した。わたしも先輩の手前映画を鑑賞していたが、実際は筋を追うだけに終始していて、半分ぐらいは別の、将来のことや小学校の思い出などを観想していた。
  知らぬ間に先輩が立ち上がっている。もう終わりのようだ。スクリーンを見るとテロップが流れている。いやあ、面白かったですね。わたしは言った。
  先輩に続いて観覧席を後にした。ホールに出ると親子連れで相当に混雑していて、子供らはアニメ映画の景品のおもちゃを持って、楽しそうにしている。あの不穏なものを探してみたが、どうやらホールにはいないらしく、まだトイレで凝っとしているのであろうか。あるいはまた何処かへ彷徨っているのだろうか。恐らくチケットは持っていないであろうから、映画を鑑賞しているというわけではなさそうだ。あるいはまさか保護者がいるのか、などと黙考していると先輩が、これからどうしようか。振り向いてこう言う。では、飲みにでも行きましょうか。わたしが提案すると、今日は夕方から予定入ってるんだ。先輩が何食わぬ顔でこう言う。では、別れましょうか。うん、そうしよう。われわれは中央プラザで別れた。
  わたしはすることもないのでそのまま地下鉄に乗って帰った。駅前に定食屋がありそこで少し早い晩飯を食べた。そこはいつも薄暗くて厨房の物音だけがやけに大きく聞こえる店だった。料理が提供されると、そこはもはや空漠の静寂に包まれた。広い空間に椅子とテーブルだけが深い物思いに耽るように凝っとしており、わたしは内宇宙に一人っきりでいる、そんな錯覚を覚えさせる素敵な店だった。甘辛い焼き肉定食をいつも頼んでいた。焼き肉定食を食べていると突然引き戸が開かれた。珍しい。客か、と振り向くとあの不穏なものが店に入ってきたのである。
 身体中をばたばたさせて徐々に推移するように店内に入ってきた。興奮した猪のような呻き声を上げてテーブルの間を移動している。側面で赤と黒に分かたれた上下揃いのジャージを着ている。上衣を着ているやつをわたしは初めて見た。こちらに真っ直ぐ近付いてくるのである。
 どうしようか、と思っているとわたしの一つ手前のテーブルにどさっと倒れるように腰を下ろした。
 ひぃふぅ、ひぃふぅ、と気管が詰まって苦しそうに喘ぐような声を漏らしながら、机に手を置いている。机に手を置いた格好が一仕事終えた労務者のようだ。
  突然、首を天井に向かって真っ直ぐ伸ばして、小刻みに震え始めた。撚り合わせたゴムホースみたいな首だった。目蓋を開け閉めする度に乳白色の泡が目端から零れている。大粒の泡が先端から射出されるように、目端一面に広がる。異常なほど首を伸ばしながら。そんなに伸びるものなのか、というほど伸びるので、わたしはおいおいこれは大丈夫か、と一人案じた。わたしはショルダーバッグから携帯を取りだし、一応写真を撮っておいた。
 おばちゃんが厨房の方から出てきた。水の入ったコップを不穏なものの座るテーブルに置くと、伝票を挟んだ小さなバインダーとペンを取り出し、何になさいますか、などと注文を聞こうとしている。
 不穏なものは延々と首を伸ばし続けている。そのまま後ろにひっくり返るのじゃないかというぐらいにぐいーんと伸びきっている。
  森とした店内に響き渡るのは不穏なものの吐息の音だけだった。ひぃふぅ、ひぃふぅ、という危機迫った呻き声は鳴りを潜めて、安定した、ふぅ、ふぅ、という落ち着いた息に変わっていた。明らかに人間とは言い難い格好になっており、一メートルぐらい首だけが長くなっている。
 何になさいますか。おばちゃんは伝票にペンを添えて注文を取ろうとしている。きっと人語を解していまい。わたしはこころの中で鼻で笑った。また人語を解していようがいまいが恐らく金を持っていないだろう。わたしは立ち上がりおばちゃんに向かって言った。お勘定。
 金を支払い、引き戸を開いて店から出ようとする時、後ろから、何になさいましょう、という声が聞こえた。振り返ると、首の伸びきったままの不穏なものを相手におばちゃんは未だ注文を取ろうとしていた。

 明けて月曜日は会社に出勤する。わたしの職場は小さな町工場で、先にも記したとおり先輩と二人で一日中機械を回している。畳六畳ほどの空間に機械を二台並べわたしらは作業している。変態伸縮素材という特殊な材料を作っている。粘着性の強いタンパク質を含有した特殊な糊を層状に素材に塗り重ねて、変態伸縮素材は出来上がる。用途は様々で建材が主だが、変わった所では健康器具用品や矯正下着などに応用されている。
 ここら辺の工場の並びは(ガレージを活用した小さなものだが)会社は違うが全てがこの変態伸縮素材を作っているのだった。
 社長は近くで飲食店も経営しており、工場には時々見に来るぐらいだ。もっぱら先輩に工場の方を任せている。月給は引かれて十五万円でお世辞にも高いとは言えないが、ある程度馴れてきたこともあって、居心地は良かった。先輩はもう二十年近くこの仕事をしており、わたしより遙かにノウハウを分かっており、いずれこの工場は先輩に譲られることになるだろう、と社長と先輩との親密な関係を思うと、そんな推測をわたしは立てている。
 朝八時が始業なのだが、わたしは七時半に出勤して、前日生産した製品の出荷準備を始める。八時過ぎにトラックが製品を引き取りに来るのだ。この並びの工場は全て同じ製品を作っているので、ひとまとめにして搬送してもらう。先輩は毎日あやまたず八時五分前に来る。家が近いのだった。この日も七時五十五分になるとスマートフォンの画面を見詰めながら歩いてきた。スマートフォンから目を離さず、おはようさん。こう言ってわたしの傍を横切った。おはようございます。
 八時五分頃に狭い路地を通ってトラックがやって来、工場の前に横付けする。わたしは各工場の連中とともに共用のフォークリフトで代わり番こに製品をトラックの荷台に載せていく。わたしの番が来てフォークリフトを操作していると、路地の方から、一匹の亀がこちらに向かってくるのが目に止まった。わたしは波間に漂うようにゆったりと自然に口から言葉が漏れた。亀だ…
  その亀は手足が扁平でトータスではなくてタートルであろうと思われた。タイル地の肌がジェリー状の膜に覆われており、今し方路地の奥で産まれてきたように、頭を擡げている。但し、すでに成体の域に達していようというぐらい大きく、昔のブラウン官のテレビで言えば、十六インチぐらいだろうか。
  路地の奥から十字路を越えて、白いジェリー状の膜を纏わせたまま、こちらにゆっくりと近付いてくる様は、幾分奇妙だが、感動的な光景にも思われた。工場の前面は溝川があり、きっとそこに向かっているのだろう。わたしはそう思って作業の手を止めていた。他の工場の連中や運ちゃんもその亀に心を奪われている様子だった。
  亀はユックリとしかしながら確実に溝川に向かっていた。
  工場の前を横切ろうとした時、一羽の鳩が十字路の端の地面に着地した。突然、亀は大きな目を見張り、われわれにもその緊張が伝播した一瞬間の後、猛烈な勢いで手足を掻き回し、考えられない早さで鳩に向かって飛び付いた。工場の手前の暗渠になった路上の上で亀は交尾を始めたのである。
 工場の連中、運ちゃん、わたしも含めて皆その光景に哄笑を上げた。亀の必死な形相がわれわれにおかしみをもたらしたのだ。先輩も工場から現れ、あいつ何してるの、などと聞いてくるので、いやね、あいつ鳩を見て欲情したみたいなんですよ。ふーん、溜まってたんじゃないの。顔をほころばせたまま先輩はスマートフォンに目を移し、再び工場に入っていった。
  出荷を終え、トラックが走り去った後も、暗渠の上で亀は鳩をむさぼっていた。

  昼頃に作業を一段落させ暗渠の上を見渡すと亀は姿を消していた。路上に白濁した液体の溜まりを残していた。わたしと先輩はその路上に残された白濁した液体を見て、結構な量ですね、わたしは言った。何処か重たい、暗鬱とした気配を感じるのは、群がり始めた頭上の雲にも一因があるだろうが、それよりそこから醸される雄の沈殿した臭いが、わたしをしてそう思わしめた。結構臭いますね、わたしは言った。亀はきっと事を終えた後、この溝川へ潜り込んで、泳いでいったのだろう。むしろわたしには鳩の方が気になった。何処にも鳩の死骸らしきものもないので、あの鳩はあの亀の強烈なリビドーを受けて尚、平然と身を起こして羽撃たいていったのだろう。何食わぬ顔で今頃路上の滓を啄んでいるということか。
 誰か掃除しないとなあ、それより飯、先輩はそう言うとスマートフォンの画面を見詰めながら反転した。あ、ちょっと待って下さいよ。わたしは小走りについていく。
  路地を行き付けの蕎麦屋へ向かって歩いていると、電柱の傍らにジェリーを溢れさせた楕円の透明な容器が置かれている。大きさは十六インチのブラウン官テレビほどで、路上に引き摺られたジェリーの跡から、きっとあの亀の卵だろうと思われた。その卵の大きさと形状、透明な容器の中に覗えるミルキーな色味は、わたしの工場で使用している糊玉という原料にそっくりだった。糊玉みたいですね。わたしがそう言うと、先輩はスマートフォンから一瞬視線を動かし、本当だね。
  糊玉は略称であり、本来の名称はThithirhuyenとアルファベッドで書かれてあるが読めないのでわれわれは糊玉、糊玉と呼んでいるのだった。日本では製造しておらず、何処か海外からmade in Kalpanと表記されているとおり聞いたこともない国の代物だ。カルパンとでも読むのだろうか。パッケージには旧約聖書の天地創造を意識したイラストが描かれており、その上に注意を促す黄と黒の縞のシールが貼られ大きくNOT FOR FOODとある。アクリル製の容器にタンパク質を含有した特殊な糊が封入されているのだが、頭がぐらぐらする臭いは、ティッシュで包み隠したくなる代物だ。ココナッツジュースを飲む要領で上部を切り取り、機械のタンクに移して使用する。アクリル樹脂なので嵩張り、細かく砕いて再利用のごみに出すのだが、その仕事は勿論わたしの仕事だ。先輩は手が汚れるのを極端に嫌うので、ごみの始末など一切しない。
  蕎麦屋は路地を出た国道沿いにある、スナック二軒に挟まれた形で営業している小さな店だ。工場街なので狭い道路には絶えずトラックが行き交っている。先輩は大体が昼は蕎麦なのでわたしも一緒に蕎麦を食べることが多い。先輩はいつも盛り蕎麦だが、わたしは盛り蕎麦か、時にかき揚げ蕎麦も頼む。テーブルは壁沿いに二つあるきりだが、われわれはカウンターよりテーブル席を好む。店主と奥さんの二人っきりで、いつものように通うわれわれだが、二人とはそれほど親しい間柄ではない。いつものテーブルに着くと先輩は盛り蕎麦を注文し、わたしはどうしようか悩んだ挙げ句、やはり盛り蕎麦にしておいた。
  テレビではお昼のニュース番組が放映されており、詐欺事件の新しい手口や、大学教授のセクハラ問題、警察官による集団強姦などが、一連の流れで報道されており、わたしは見るともなく見ていた。するうち蕎麦が運ばれて来、われわれは寡黙に麺を啜っていたのだが、テレビは街中の中継に切り替わり、息を弾ませたレポーターが、大変です、突如海亀らしきものが集団発生し街の鳩や鴉を襲っています、と叫びながら、カメラクルーと共に街路を走っている。レポーターは、一体これはどういうことでしょうか、と喚きながら、カメラは路上に闊歩する六体ほどの亀を映し出す。そのうちの二体ほどが鴉を捕まえて、何処か沈殿した眼差しで、内燃するエネルギーを振り絞っていた。亀が鴉を犯しています!レポーターは絶叫した。
  あれ、さっきのやつじゃないですか。わたしがそれとなく言うと、先輩はおもむろに首を回し、ああ、さっきのやつじゃん。うはは、またやってんじゃんあいつ。先輩は珍しく噴き出した。

  仕事を終えると、わたしは一人駅前の回転寿司で晩餐を取り、赤や青の上等な皿でなくて薄緑の百円の皿を六枚ほど、焼酎で喉を湿らせ、酔郷の交わりにその身を浸した。八時頃に店を出て、地下鉄に乗った。駐輪場で自転車を引っ張り出し、国道を渡ってほろ酔い気分で自転車を漕いでいると、商店街の神社の傍らにある電柱の下に再び不穏なものを目撃する。電柱からの照明がスポットライトのようになってそれを照らしていた。
 わたしは自転車を止めて携帯を取り出す。写真に撮ろうと思ったのだ。色々な個体がいるのでコレクションでもないが、今度友人と邂逅した時には酒宴の肴にはなるだろう。
 この個体は意味深な動きをしていた。その個体は右足を軸にしてコンパスのように延々回転しているのだった。営業職のようなスーツ姿で、厚い胸板のために中のシャツのボタンが引きちぎられたのだろう、前がはだけ、濃紺の皮膚が晒されている。こいつは若しかすると元は人間だったのかもしれないぞ。わたしはこの時初めてそう考えた。
  念仏のような聞き取れない声を発しながらそれは回転している。うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ、うぇえ。単調なリズムに半回転する度に、うぇえ、と嘔吐くように舌を出す。どの個体にも言えることだが無表情で、ビビッドな黄色の眼球のその内部にはどんな高等な知恵の存在も物語ってはいない。人間にとって最も崇高な器官であると思われる脳のあるべき場所が真っ平らに、目の上部にはあるかなきかの額があるのみで、これでは読み書きしたり数を概念化したり出来ないだろう。人間だったとすれば何かの病気だろうか。
  わたしはしばらくこの回転する個体を観察し続けた。右足を軸に右回りで回り、半回転すると嘔吐いて舌を出す。単調な光景だったが酔っていることもあってか、何時までも見ていることが出来た。終われば塒にでも帰るのだろう、わたしは簡単にそう考えていた。ところが、それは一瞬であった。何度となく嘔吐いて回転を繰り返していたのだが、ある時、急激に胸が膨らんだかと思うと、明らかな異物が首に移動した。蛙を丸呑みした蛇のように首が肥大し、次の瞬間、うぇえ、楕円のアクリル容器のようなものを吐き出した。糊玉だ。わたしはそう思うも束の間、この回転していた個体は横様に倒れた。もうピクリとも動くことなく心なしかプロレスラーのようにも思えた体格が萎んでいるようにも感じた。死んでしまったのだろうか。わたしは気味が悪いので、いちいち確認などしなかった。 路上の真ん中に糊玉。いやこれは糊玉ではない、今日の昼に見た亀の卵に違いない。時が満ちると、上部が放射状にささくれて、中からジェリーを纏わせた海亀様のものが産まれるのだろう。してみると、あの不穏なものが大量発生したとか言う亀の産みの親ということになる。不穏なものは卵を産み落とすと、明らかに精気が喪失したように萎み、恐らく死んだのだろう。全く意味が判らないが何かが起こっているようだ。わたしは一応これも写真に撮っておいた。そして同じように不穏なものの死体も写真に収めた。死体の写真を手に入れたことで、次はこの不穏なものが産まれる姿も写真に撮れたら、ネタが増えて良いだろう。わたしは思った。

  翌日わたしは亀の大量発生の原因が分かったので、先輩にそれとなく話してみると、ああ、あのテレビでやってたやつ、などとあまり興味はなさそうだ。ええ、そうなんですよ、どうやらあの不穏なものが卵を産むらしいんです。昨日この目でみたんですよ。その不穏なものって何、先輩が聞く。わたしは携帯の画像を指し示す。ああ、この前君が友達だって言っていたやつだね。友達じゃないですよ。すると先輩は機械を止め、飯にでもするか。すぐにスマートフォンを取り出し画面を見詰める。わたしも機械を止め、先輩に随う。工場を出て路地を歩く。蕎麦屋に行くのである。
 この日も多少悩んだ挙げ句、盛り蕎麦を注文したが、蕎麦の運ばれてくる間、何気なくテレビを見ていると、一般の投稿者が携帯端末で録画したものらしい映像にあの不穏なものが映されていた。その様子は柔道着を着た不穏なものが単に街中を徘徊しているだけだったが、アナウンサーが映像に乗せて言葉を挿入し、人間に似ていなくもないですが、一体なにものでしょうか。近頃至る場所でこの人間に似たものの目撃情報が多発しています。映像はまた他のものに切り替わり、これも一般の投稿者のものらしく、何処かの森林公園に柄物のトランクス一枚の不穏なものが、ばたばた手足を動かして木々の間を移ろうている。突然現れたこの謎の人間。投稿者によると言語は介さないようですが、衣服を着用しており、なんらかの人知の接触はある模様です。アナウンサーが言う。その後スタジオの映像に切り替わって、コメンテーターとアナウンサーが問題の追及を始めたが、答えは出ないままだ。彼らは何処から来たのでしょうか。カメラを神妙に見詰めアナウンサーはわれわれに向かってこう言った。
 わたしは得意になって、メディアの連中はまだ昨日の亀と不穏なものの関係をつかめてないようですね。先輩は無言のままスマートフォンを見詰めたままだ。しばらくして、え、何か言った?顔を上げた。いえ、何でもないです。蕎麦が運ばれて来、わたしは黙々と麺を啜った。 

  週末の仕事終わりに一人回転寿司の回る皿を朦朧と見ながら焼酎を舐めていた。人々は酒宴に互いにささめき、時にどっと哄笑し、店内はウィークエンドの気分に充溢していた。わたしはほんのりと回る皿を見詰めて、人々の醸す平和なひとときに酔い、夢か現かのあわいにたゆたっていると、電話が鳴った。先輩からだった。また呼び出しか。わたしは電話に出た。今日はおつかれさん、いつものように前置きして、それで明日なんだけど。ええ、わたしはきっと呼び出されるのだろう待ち構えながら、相槌を打つ。先輩の用件は、明日ワンダーランドという不思議と冒険のアトラクションが売りのテーマパークに行きたいから、一緒に行こう、というものであった。ええ、行きましょう。わたしが応ずると、先輩は、じゃあまた電話するからと電話を切った。半年前にも先輩と一緒に不思議探検ワンダーランドには行ったはずだった。先輩は年間フリーパスを持っているので、相当なファンである。男二人でテーマパークもどうかとわたしは当初思ったものだが先輩の手前断ったことはなかった。再び、回転寿司の回る皿を見詰めて朦朧と酔郷の交わりに身を浸し、濡れタオルを被せたように弛緩して焼酎を舐めた。この前見た回転する度に不穏なものの発する羊の鳴くような、うぇえ、うぇえ、うぇえ、を思い出しながら。
  翌日九時頃に電話が鳴り、先輩からで、寝てた?などと前置きし、今日なんだけど…
 ええ。行きましょう。それからこの前と同じく時間と車両を指定し先輩は電話を切った。
 おはようさん。先輩はスマートフォンを見詰めたまま乗り込んで来、わたしの横に座る。 不思議探検ワンダーランドまではそれから一時間ほど掛かる。街の中心部で直通電車にに乗り換える。そこは海の上の人工島で、ジャングルを模した迷路での秘宝探検やまた神話に基づいた神殿でのアトラクション、宇宙基地に連絡しているピラミッド探索、アニメ映画にもなっているキャラクター達の織りなすファンタジーが舞台になっている。海外からもリピーターが数多くおり、この街の観光スポットになっている。本来ならば子供連れかカップルのデートスポットだろうが、先輩のように男連れで訪れる者も結構いる。
 アニメ映画のキャラクター達のイラストが描かれた電車に乗り、ワンダーランド駅へと向かう。車内はグッズを持った中高生などで満員の状態だ。座席に座っていたわれわれだがホットパンツの女子の剥き出しの太股が顔に密着しそうなほどの肉体の密林あった。熱気に性的な汗を股間に滴らせながら眼前を凝視していたわたしであったが、先輩はこの熱気には伝染しない模様で涼しい顔でいつものようにスマートフォンを操っている。
 目の遣り場にこまりますねえ、心持ち勃起の兆候を来したわたしは満たされない欲求を持て余しつつ、社会人を装うように苦笑した。人混みに揉まれながら降車したが、先輩は一人僻地にでもいるようにスマートフォンを見詰め、女子の漂わす安いガムのような甘ったるい臭いに誘われる気振も感じられず、その能面な顔からは、例えば暑いとか、狭いとかいった一般的な満員電車での苦痛すら感じられなかった。先輩は感情をほとんど表に出さないので、こうして映画やテーマパークなどに行っても実際楽しそうにすることなどない。寡黙にもわれわれは様々なアトラクションを見て回り、一通り済むと夕方頃には帰宅する。もし先輩にその後用事がなければ、飲みにでも行くのだろう。飲みに行くかどうかはその時にならなければ分からない。大体その頃になると、この後どうするの、などと先輩が聞いてくるので、では飲みにでも行きましょう、とわたしが提案するところで、応か否かの予定が定まるのだ。先輩は先輩だが飲みに行くのもいつも割り勘だ。飲みに行くか行かないかはグレーゾーンの状態にあるので、一応わたしはいつも飲みに行く金も余分に用意して出掛けることにしている。 
 満員の電車から予期していたとおりパークは休日ともあって大変な盛況ぶりだ。一つのアトラクションに待ち時間が一時間だとかの行列。他のにしましょうか。いや、ここがいいんだ。では並びましょうか。うん、そうしよう。先輩は毎度のスマートフォンで行列の痛苦もなしに無表情に画面と向き合っている。列の前が進むと、先輩も感応して二三歩前に歩き出す。特に会話もなく一時間、時間は流れ行き、今までの思い出や漠然たる将来のことなど、あの時ああしておけばよかった、こうしておけばよかったなどの悔恨から、よしこれからはこうしよう、ああしようなどの明確な意識を捉えた瞬間にもすぐにそれはあやふやになって、おや、今まで俺は何を考えていたんだっけ、ああ、あと十五分ぐらいかなあ、と現実に戻り、意味もなくパーク内をキョロキョロして、ちょっとジュース買ってきます、と色々コチョコチョして時間を潰し、神話に基づいた神殿内の乗り物探索は結果五分ぐらいで終了し、次は宇宙基地へのワープが可能なピラミッドの探索へと並びに行く。係員が言うにはここは二時間待ちで、わたしは即座に固辞を表明したが、先輩はもはやわたしを見ることもなくスマフォを見たまま、これに乗りたいんだよ。左様ですか。意味もなく小指の爪を噛んで薄く伸ばしてみたり、ストレッチしたり、ジュースを飲んだり、小便を我慢したり、時間を数えたり、自販機のマーケティングリサーチをしたり、ポールの頭を撫でたり、何か人生において非常に大切なものを発見したり、それはしかし全般的に見ると一部分でしかないことに気付いたり、列は五百メートルほどの間を滞りながらも徐々に確実に推移して、マスコットキャラの先導でわれわれはようやくピラミッド内に通され、前文明の築いたとされる禁断の宇宙基地へと足を踏み入れた。
 昼頃パーク内の喫茶で食事を摂り、先輩とわたしは寡黙に麺を啜った。
 結構楽しめますね。わたしは全くの反対のことを言って先輩を覗うが、先輩は全般そんなことに全く頓着なく、ただ寡黙に頷いたきり、いつものスマートフォンだ。先輩はそもそも何を考えているのか全体謎だが、ただ一つ理解できることは、わたしは完全に先輩より位が下であり、先輩自身が一分の疑念もなく大木が確実に大地に根付いているほど自然な態様で認識しているこの関係性において、わたしもまた一分の隙間もなくこの関係性を認識しているということであった。
 ジュースを飲み過ぎて尿が頻繁に出た。午後の一時ぐらいだろうか。パーク内の時計台のあるところで先輩を待たしてわたしは便所に駆け込んだ。この前映画館で便所に行ったとき不穏なものを目撃したが今日はどうだろう。この人混みだから何処かに混じってはいまいか。探してみたが、その気配もなく、いるのはアニメ映画のマスコットキャラクターたちが人を飽きさせまいという一個の約束を堅守して人を見つけては何らかのアプローチを仕掛けるのみだ。宇宙服を着た犬型のアンドロイド『ボビー』がわたしを見つけると千載一遇の好機というほど走り寄ってきて、握手を求められ、ハグを強制されたり、執拗こく付きまとわれた。連れを待たしていると言っても聞き入れてくれず、無理矢理静止させられ、特技と称する宙返りを披露されたり、ポーズを決めると再び握手を求められ、嫌がっているのにハグを強制され、忙しいからと腕時計を指し示してアピールするが、『ボビー』は一旦は驚いた振りしてその後落胆の意思を示すが、すぐに両手を振ってでもでもとわたしの手を取り、見ててね、と人差し指を示し、いくよ!せーの!と再び宙返りを披露する。さっき見たよと抗議するよりも早くハグされ、わたしの肩に手を掛けたまま、左手を前に差し出した。何をしているのか一瞬分からず呆然としたが、左手を前面に差し出すアピールと同時に背中を軽く押され、ようやく行ってもいいよ、という合図を理解したわたしは、肩に乗せられた着ぐるみの腕を振り払い、時計台へと急いだ。 
 時計台に近付くと俄に日が陰り、何か巨大なものが頭上を覆ったのを感じた。一瞬なにもかもの時間が止まったように感じ、観客の足が止まった。「きゃあ」という女性の叫声が発せられ、つられて見上げると、それは巨大な亀様の船であった。楕円の胴体から扁平の手足が突き出され、それは頭上をユッタリと浮遊している。前部に突き出されたゴム様の頭部には黄ばんだ眼球が覗われ、口は半開きの状態だ。地上に向けられた腹部に、特にUFOなどに見られるガラス玉のような大きな球体がポッカリ張り出している。UFOならばあの部分から光が放射されその光の筋を通って家畜などが吸い上げられる光景が繰り返し映画や漫画で描かれてきた。キャトルミューティレーションをするつもりか。いやここに牛はいまい。アブダクションか。先輩はスマートフォンを見詰めたままだ。涼しい顔で、まるで僻地にでもいるように。能面で、無表情のままに、自分が今浮き上がったことにも気付かない模様だ。光の帯が時計台の辺りに満ちている。そこにいた五六人の男女が重力に逆らって上昇していく。光の帯の向こうに覗える顔は皆一様に困惑の表情だ。恐怖とか絶叫とかいった様子がない。こんな漫画のような体験に実際出会すと皆こんなふうに困惑するしかないのだろう。ユックリと彼らは吸い上げられガラス球の向こう側に消えていった。地上のわれわれは為す術も無くその光景を見上げていたのだが、先輩は結局最後までスマートフォンに見入ったきり自分がアブダクションされたことすら気付いてはいなかった。

  朝目が覚めて何気なくテレビをザッピングしてみたが、報道には巨大亀の来襲のことは一切なかった。ただしある県では件の大量発生した亀が養鶏場の鶏と集団ファックを行っており、その大量に射出された残滓のために消毒活動を余儀なくされ、養鶏場の主は大きな出費ですよ、と項垂れ、鶏も廃棄処分される見込みだと、あるテレビ局は報じていた。
 不思議探検ワンダーランドでのあの出来事は目撃者も多数おり、大ニュースになってもおかしくはないのに、わたしは不思議に思った。全くワンダーランドだ。白昼堂々の犯行なのだぞ。巨大権力が何やら蠢いて事実を隠蔽する気じゃないだろうな。それとも何か、彼らは実際は何も分かってはおらず、単に動作が遅すぎるというだけのことなのか。確かにあの亀様の巨大な船は明らかな高度な文明の産物であり、未知との遭遇という点では、報道機関やあるいは政府にしても、われわれ凡百の民間人と変わらない知識しかもたず、そんな経験もないだろうに、随ってその問題に関しては何を為すべきか見当もつかない、そんなところだろうか。亀様の巨大な船が人を拉致したなんて唐突に報道してもいたずらに混乱を招くだけだ。と、まあ、色々考えてみたが、それは実際社会人としての義務感から出た他人事で、わたしの中には何処か先輩がいなくなって清々とした未知な感情が幾分小躍りしながら、目覚めの良い朝に、コーヒーを煎れ、奇妙な解放感で満たされていた。 そろそろ会社に出勤する時間だった。とは言え会社は先輩がいなくては到底回らないのだから、わたしだけが行っても仕方がないのではある。しかし若しかすると会社に行けば、先輩も無事帰還しており、いつものように、おはようさん、とやって来るそんな可能性もないことはない。まず一度行ってみて、いなければ社長の方に行ってみるのもいいだろう。社長は近所で飲食店を経営しているのだ。 

 喫茶『キュービズム』は朝十時からの営業だ。随ってまだ開店しておらず、CLOSEの看板の下がった扉をわたしは開けた。どうも。カウンターの上で海老に塩をまぶしていた店主の首がグルンと回りわたしを見る。社長である。一見カツラと見間違えるフサフサの黒髪が頭に乗っかっている。何だ、小田切じゃないか、工場はどうしたんだ。小田切はわたしの名字である。
 実はですね、社長、昨日先輩とワンダーランドに行っていたんですが、そこに突如亀様の巨大な船が現れましてね、UFOみたいに腹から光りを出してですね、ピカッと、それで先輩、連れて行かれました。現在行方不明です。わたしは単刀直入に言った。
 すると、海老に塩をまぶす社長の手がピタッと止まり、は、何を言ってるの君。
 嘘じゃないですよ。この目で見たんですよ。本当のことなんです。
 え、え、え、一体何。何を言ってるの。社長の口がポッカリとフェラさせられたように開いた。目は異次元の様子を覗うよう見開かれている。頭の上の鴉は非常に艶がいい。
 今日も工場に来ておりません。完全に連れて行かれましたから。携帯も圏外です。
 そして、わたしは最近話題になっている亀の大量発生とそれにともなう不穏なものとの因果関係を付け加え、更に不穏なものの発生原因と巨大亀との類推をほのめかした。
 え、え、え、何。その不穏なものって。社長が前のめりになってわたしに尋ねるので、わたしは撮りためておいた携帯の画像を指し示す。これです。
 社長はわたしの携帯をその海老臭い手で取り上げ、フムフム、フムフム、と何かを咀嚼するよう見詰めていたが、ああ、こりゃあ、昨日、テレビで見たぞ。
 そう最近テレビでやってますよね。それがこれなんですよ。それがどうも、言いにくいのですが、そのう、先輩もまた…ここでわたしは言葉を濁す。
 何だよ。はっきり言えよ。分からないだろ。何だよ。つまり北山もこうなったというわけか。北山は先輩の名字である。
 ええ。先輩も恐らくこの運命は避けられまいかと。いや、まあ、類推ですが、類推。
 たまらんなあ。社長はスッカリ了解したようで、天井を見上げ息を漏らした。
  すると、社長は思いついたように床にバウンドして、一回転し、勢い余って俎板の上に着地し、海老、ブラックタイガーが散乱した。
 ところで警察には報告したのか。
  いえ、まだですが、でもそもそも法律は人間に適用されるものでしょう、亀には適用されますか。いや、亀っぽい何者かというか。
 うーん。社長は苦悶するように天井を睨む。うーん。どんどん身体が反り返り、これほど反り返るか、と思ったところで、再び一回転し、わたしを見て、やはり警察には報告しておいたほうがいい。被害者は人間だからな。
 じゃあ、一旦警察に行ってきましょう。わたしは言った。

 工場の方はあの路地の並びの兄弟会社に協力してもらい、今日中のものは分担して製造してもらうことになった。明日からはどうするんだろう。先輩がいなくては到底回りそうにもない。社長が来ることになるだろうか。それにしても給料安いな。給料が安いぞ。ボーナスもないし…
 急に何か寂寞感に襲われ、転職の機運というか、今まで考えてもみなかったことが表層に現れだした。何だよ、変態伸縮素材って。安すぎ。まだ若いんだし、もっと給料の良いところがあるじゃないか。そうだよ。このまま安い給料で働かされて、その上あの臭い糊玉で身体中がべたべたに汚れるのも気持ち悪いし、不快の膜といおうか、あの工場にはそういった膜状のものが覆っているんだよな、身体中がべたべたするんだよ、アーァ、嫌だなあ。
 警察に行くと窓口がたくさんあり、何処に行けばいいのか分からず、取り敢えず手前にいた婦人警官に、わたしの先輩が巨大な亀様の船に拉致された、と来意を告げると、それでしたら刑事課の方でしょう、こちらは交通課なんです、刑事課はあちら奥まで進んで頂いて、それから右へ曲がり、階段を上ってください、するとそこに刑事課という看板が掛かっております、馬鹿でも分かります、そちらまでご足労願います、こちらは交通課なんです。と幾分ヒステリックな口調で婦人警官はわたしに言った。何処か怒っている風でもあってわたしは怖かった。わたしは言われた通り階段を上って、刑事課へ行った。
 ごめんください。扉を開けると、奇妙なほど埃臭い。スーツ姿と思ったらみんなラフな格好をしており、取り次ぎに来た若い刑事はTシャツで、前面に大和魂とプリントされている。はい。どういったご用件で。
 あのう。とわたしは幾分滞りながら先輩が巨大な亀様の船に拉致されたことを告げた。 若い刑事はわたしを見詰めたまま一切目を逸らさず、わたしが赤面しそうなほど真剣に、うんうんと頷きながら話を聞いていたが、わたしが話し終えると、突如立ち上がり、その件に関しましてはわたしも上の指示を仰がなければいけません、とクルッと反転して奥に消えていった。十五分ほど待たされた。
 若い刑事が再び姿を見せると、隣にスーツ姿の刑事というよりは役人風の男がおり、わたしに一礼すると、ちょっとすいませんが、と何処か憚るような素振りでわたしを個室に案内した。
 カツ丼が手配されそうな取調室だった。白熱電球が一個ぶら下がったきりで室内は薄暗い。灰皿が机に置いてあり、取り調べの際、ここで煙草をくゆらすのだろう。
 すいません、ここしか空いておりませんでしたもので。などとスーツの男はわたしに非礼を詫びたが、すぐに机の上のスタンドライトを点け、顔をスタンドライトに照らされたわたしは奇妙なほど被疑者の気分を味わった。 
 役人風の男は未だに憚るような低声でわたしに言った。
 先輩は、つまり西山多々郎さんですね、西山さんにはご家族はおられますか。
 わたしは知らない、結婚はしていないが、親や兄弟のことなどは全然知らない、社長ならば知っているだろう。とこう答えた。
 ふう。役人風の男は天井を見上げ深く息を吐いた。
 いやあ、これはかなり言い難いのですが、先輩、西山多々郎さんですね、西山さんはもう卵を産み付けられましたでしょうなあ、いや、これはトップシークレットなんですが、亀の卵なんですよ、亀っていってもただの亀じゃなくて、宇宙亀、最近よく鴉なんかを強姦している亀がいるでしょう、あれなんですけどねえ、もう連中やりたい放題なんですから、鳥類に異常に催すんですよね、鳥類が好きでねえ、もうやりまくり、たまらんでしょう。
 つまり、あの不穏なものになったってことでしょう。わたしは言った。
 え。何。それ。不穏なもの?役人風の男が聞いてくるのでわたしは携帯の画像を指し示した。
 ああ。これこれ。アンタこれよく撮れてるねえ。卵を産み付けられるとこうなっちゃうの。プロレスラーみたいでしょう。固いんだよ。この固い皮膚で卵を守るんだ。親亀がいてね、あの巨大な亀、アレ、あの船、あの中に親亀がいるんだ、船まで作るから頭がいいんだね、各国政府も大分あいつにはやられているから…
 え、もう各国でもやられているんですか。
 うん。もう大分征服されちゃってるねえ。あの船、相当高性能でレーダーに映らないし、それに亀だけに固いんだ、ミサイルでも全然効かないんだもの。それに数が多くてね。大分好き勝手にやられているよ。
 え。もうそんなに征服されちゃってるんですか。
 うん。でもあんまり言わないでくれよ。トップシークレットだからね。とは言ってももうネット社会だから、ほとんどの人間は知ってるよね。コンタクトは全然ないからわれわれは宇宙亀っていってるけど、本当に宇宙人っていうか、宇宙亀、いるんだね。世界は広いっていうけど、宇宙も広いよね。僕もね、明日からこの仕事辞めるんだ。もう終わりだよ。なにもかも嫌になっちゃった。バイトでもしとくよ。うん。うん。カツ丼でも食べようか。ここにいるとカツ丼食べたくなるよね。いいよ。僕が出すからカツ丼食べよ。カツ丼。

 警察に行ってもあまり意味がなかったのであった。もはやかなり征服されているようで、政府の方も為す術がないようだ。法律も関係なしに、人間を拉致し、卵を産み付け、産まれた亀は鳥を貪る。しかも質の悪いのは生殖機能に基づくものではなく純粋な快楽のみを謳歌しているようだ。連中にとって地球はまるでパラダイスに思えるだろう。
 警察からの帰り道、歩道を歩いていると、大きな二車線の道路が渋滞しており、その自動車の列の中に、かなり成長した亀が並んでいた。それは前後に自動車に挟まれた状態で凝っとしている。もはや軽自動車なみに成長しており、全く動く気配がないのは、どうやら車列と同じように信号待ちをしているようだ。信号が青に変わると、自動車は動きだし、ユックリと徐行して交差点を左折していく。もしや、交通規則を守っているのか、わたしは訝ったが、亀は前に続いて交差点を左折し、その後何処に向かうのか、道路を歩いて行く。しかし、そのあまりの緩慢な動きに亀は後続の車に次々追い越されていた。
 その時、わたしの身内には全くに労働意欲が喪失されてしまったことを感じた。亀は交通規則を守っているようだったが、人間に卵を産み付ける点において共存はし得ない。そのうちわたしもあの巨大な船に拉致されるのだろう。街は奇妙なほど平和であったがもはや終焉を迎えつつあるのだ。  
 わたしは携帯を開き、撮りためておいた不穏なものの画像をしばらく思い出に耽るように眺めていた。

不穏なもの

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