君の声は僕の声  第五章 5 ─杏樹─

君の声は僕の声  第五章 5 ─杏樹─

杏樹


 釣った魚を、今夜は庭で焼くことにした。秀蓮が火を起こすのを、聡と陽大は切り株で作られた椅子に座ってじっと見つめていた。
 火を前にすると黙って見つめてしまうのはなぜなのだろう。お喋りな陽大もひと言も話さずに火を見つめていた。やがて陽大の目が虚ろになり、うつむいた顔を上げると、好奇心を押さえられない子供のような瞳が、ゆっくり辺りを見回した。

「ここが秀蓮の家?」

 聡と秀蓮は驚いて杏樹を振り返った。ふたりとも火に目を奪われていたので、陽大から代わったことに気づかなかった。杏樹の少女らしい口調と少しだけ首を傾けて微笑む仕草は『マリア』だ。ふたりはすぐにわかった。

「玲と陽大が教えてくれたの。秀蓮の家に来たことも、貴方たちのやり取りも……。陽大は迷ってる。ふたりに話してしまおうか。杏樹を起こしたらどうかって」

「本当?」
 
 聡はマリアの顔をのぞき込んだ。陽大が心を開きかけていることは嬉しかった。そんなそぶりは見せていなかったし。でも、手放しでは喜べない。総は嬉しい反面、杏樹に会うのが不安でもあった。

「玲は? 玲は反対しているんじゃないの?」
「玲はあれから誰とも話さない。ひとりで本を読んで、文字を解読することに夢中になっているの」
「それは、無関心ていうこと? それともマリアや陽大に任せるっていうこと?」
「玲も悩んでいるんだと思う。でも反対してこないから、私たちが話せば、それはそれでいいと思ってるんじゃないかな」
「マリアはどう思うの?」
「私は……杏樹を眠らせておくことはいいことじゃないと思う。でも……」

 マリアは口に手を当てて困ったような表情を見せた。そしてためらいがちに唇を噛むと、小さな声で口にした。

「貴方たちは、私たちをどうするの? 杏樹が目を覚まして、杏樹だけが時間を使うようになったら、私たちはどうなるの? 今度は私たちが眠らされるの? それとも私たち、消えちゃうの?」

 不安そうな表情でそう言ったマリアの言葉に聡は驚いた。みんながそんな風に考えているとは……。

 だけど、消えてしまう……のだろうか。

 玲はちょっと苦手だけど、マリアも陽大も好きだ。みんながいなくなってしまうのは寂しい。自分が消えるなんて、本人たちにとっては寂しいでは済まされないだろう。

「消えたりはしないよ」

 秀蓮が魚に串を刺しながら穏やかに言った。秀蓮の自信のある口調に聡はほっとすると、立ち上がって秀蓮の手から串刺しの魚を受け取り、火の回りに立てていった。

「君たちはもともとひとりなんだ。元に戻るだけだよ」

 マリアは首を傾けている。秀蓮の言っている意味がマリアにはわからない。聡にもそれが具体的にどんなことなのか、よくわからなかった。答えを求めるように見つめるマリアに、魚を串に刺しながら秀蓮は話し続けた。

「人は誰だって、いつも同じ人間でいるわけじゃない。泣いたり、怒ったり。優しかった人が、悪いこともする」

 マリアが「あっ」と小さく声をあげ、何か思いついたように口に手を当てた。

「優しいマリアと、明るい陽大、泣いている心、感情に流されない玲。みんながひとつにまとまって、強い杏樹になるんだ。そうなれば、もう記憶が途切れることはない。みんなで時間と記憶を共有するんだよ」

 秀蓮は聡に串を渡すとマリアの横に腰掛けた。そして肩に手を置き、マリアの瞳の奥を見つめるようにして言った。きっとマリアだけでなく他の人格、もしくは杏樹自身に話しかけるように。

「辛い記憶を杏樹だけに残して、小さな心に痛みを引き受けさせるなんて良くない。みんな痛みを抱えて生きているんだよ。逃げちゃ駄目だ」

 秀蓮に見つめられたマリアの瞳が揺れている。聡はマリアの瞳を見つめながら考え込んだ。

 秀蓮の言っていることはなんとなくわかる。だけど、例えば秀蓮だって、笑っているときと怒っているときとでは印象が変わる。それでも秀蓮は秀蓮だ。でも、マリアと陽大は全くの別人だ。利き腕も違うし、性別も違う。心は年齢も違うのだ。

「…………」

 聡は腕を組んで視線を空に向けた。
 と、突然マリアの目に力が入ったかと思うと、肩に置かれた秀蓮の手を払いのけた。

「詮索しない約束だったよな」

 無表情の目が秀蓮の目を捉える。

 ──玲だ

 玲は秀蓮を睨みながら立ち上がった。

「詮索はしていない。無理に話を聞き出したり、杏樹を起こそうとはしていない」

 秀蓮も立ち上がり、穏やかな口調だがきっぱりと言い返した。

「放っておいてくれるかな。杏樹を起こしたら面倒なことになる。あいつはすぐに死のうとするんだ……、杏樹が自殺したら僕たちはみんな死んでしまうんだよ。わからないか? 僕は心たちを守らなければいけないんだ」

「心は僕たちについて来たんだよ」

 秀蓮が静かに言うと、玲は忌まわしそうな顔をして黙ってしまった。

「君は平気でも、心は僕たちを必要としている。それに、君が平気でいられるのは、心が一人で痛みを背負っているからだろう。心を守ると言いながら、小さな子供に苦しみを押し付けるなんて、ずいぶんと君は卑怯なんだな」

 秀蓮がゆっくりと、玲の心に突き刺さるように言った。
 玲はどんな事を言われてもカッとなったりはしない。玲はいったん秀蓮から視線をそらし、もう一度見つめ直した。秀蓮はじっと玲を厳しい目を向けたままだ。

 玲の視線が秀蓮から炎へと移った。玲の瞳に映る炎がゆらめく。焚き木のはぜる音が妙にとがって響き渡っていた。聡も秀蓮も何も言わずに玲の次の言葉を待った。

「そんなに言うなら杏樹を起こそう」

 炎で赤く染まった頬を動かさずに、秀蓮に向かって玲は言った。秀蓮の眉が少し動いた。

「いいな」

 聡を見つめた玲の瞳は揶揄するような目つきだった。聡がそう感じただけなのかもしれないが……。玲はまた炎に視線を戻した。聡は唇が渇くのを感じて唇を舐めると、そのままギュッと噛みしめた。

 聡は内心焦っていた。杏樹がパニックを起こしたら……止められるだろうか。

 秀蓮に目をやる。秀蓮も緊張している。だが、落ち着いて玲の変化を見ていた。

 炎を見つめていた玲の瞳がうつろになり、唇が微かに動く。
 焦点の合わなかった瞳が不意に大きく見開かれ、瞬時に怯えた表情に変わる。
 背中を丸め、首を引っこめたままあたりを怖々と見回し、聡と秀蓮に気づくと、体を震わせた。

「誰だ。あんた達は……ここは? どこだ……」

 杏樹の声は弱々しく震え、瞳は忙しなく動く。
 引っ込めたままの首を小さく動かしながら必死に辺りを見回し、何かに気づいたように自分の手を見つめてつぶやいた。

「僕は……」

 杏樹の手は震えている。その手のひらで頭を抱え込んだ。

「あの男たちがやってきて……僕を、どこかへ連れて行こうとした。だから、僕は……また死ねなかったのか……」

 震える声でそう言うと、杏樹は頭を抱えたままその場にうずくまった。
 しばらくそうしていたが、やがてそっと顔をあげ、怯えた目で聡と秀蓮を見上げた。

 その怯え方は『心』のそれとは違う。心は怖がりながらも人にすがるように怯えるが、杏樹の怯え方は自分以外のもの、すべてを拒絶するような怯え方だった。そんな風に人が怯えるのを聡は見たことがない。

 死にたい──と口にする人間も。

 そこにいるのは、杏樹の姿をしていても他の誰とも人格のかけ離れた、聡が初めて目にする少年だった。
 驚きに立ちすくむ聡の横を通り過ぎ、秀蓮は杏樹に笑いかけた。

「ここは僕の家。僕たちは杏樹の友達だよ」

 秀蓮が杏樹の前にしゃがみ込んでそっと肩に触れた。杏樹の肩が大きく震え、秀蓮の手を振り払うように、また頭を抱えてうずくまった。

「怖がることはないよ」

 秀蓮は杏樹の震えを止めるように両手を肩に置いた。杏樹の震えは止まらなかったが、杏樹は顔を上げて恐る恐る秀蓮を見つめた。

「友達? ──僕はあんた達なんか知らない……どうしていつもこうなんだ」

 杏樹は秀蓮から顔を反らすと、またふたりに目をやる。だが、ふたりと目を合わせようとはしない。明らかに動揺していた。

「記憶が、飛んでいて、いっ……いつも知らない所で目を覚ます。僕はおかしいんだ」

 声が徐々に大きくなる。頭をかきむしりながら「もう嫌だ!」感情が高ぶり、杏樹は叫んだ。

「嫌なんだ……」

 苦痛に顔をゆがませた杏樹に秀蓮が優しく声をかける。

「杏樹」

 秀蓮が杏樹の目を見つめ、杏樹の肩を両手でしっかり掴んだ。

「杏樹が僕たちを知らなくても、僕たちは杏樹を知っているよ。君はおかしいんじゃなくて、病気だということも知っている」

 秀蓮の言葉に杏樹は反応した。

「病気?」

 杏樹が顔を上げて秀蓮の瞳を交互に見つめた。

「そう。病気だ。だから治るんだよ。君は何も悪いことなんかない」

 秀蓮が杏樹の不安の拭うように柔らかに言った。聡は杏樹の横に座り、杏樹の背中に手を当てた。

 杏樹はふたりを、拾われたばかりの捨て犬のような目で見ていたが、やがて「それは、記憶が飛ばなくなるってこと?」と小さく言った。

 秀蓮がうなずくと「本当に治るの?」ともう一度訊ねる。

「君が勇気を出して、協力してくれたらね」

 怯えていた杏樹の表情が緩み、肩から力が抜けたとき、

「あっ!」

 急に大声を上げて、聡が勢いよく立ち上がった。視線は秀蓮の背中の先だ。秀蓮が振り返る。 

「魚……焦げちゃったよ」 

 聡が火に駆け寄り、慌てて串をぬこうとして「あちっ」と、串を落とした。魚は見事に炭になっており、地面に落ちた魚は無残に砕けた。
 
「あーあ。せっかく釣ったのに……なんだよこれ」

 その声に秀蓮がはっとなる。
 杏樹がそう言いながら立ち上がって秀蓮の横を通り過ぎた。杏樹は不機嫌な顔で串を拾い上げる。

「何でこんなになっちゃったの?」

 陽大の声だ。

 陽大は炭のこびりついた串を未練がましく、くるくると回している。秀蓮はおもむろに立ち上がると大きくため息をついて聡を見た。何も言わなくてもその目は聡に訴えていた。

 せっかく杏樹と話ができたのに、と。

 聡は秀蓮の視線から逃れるように、串で魚の原型をとどめない炭をつついている陽大をチラリと見た。それから大きく息を吐きながら、がっくりと肩を落とした。 

君の声は僕の声  第五章 5 ─杏樹─

君の声は僕の声  第五章 5 ─杏樹─

──そんなに言うなら杏樹を起こそう 炎で赤く染まった頬を動かさずに、秀蓮に向かって玲は言った。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-17

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