川のほとりに落ちていた物語
1
「むかしむかしあるところに」
と、たいていの昔話というものは、こんなふうにあいまいな始まり方をします。物語の舞台がどこであろうと、それで充分お話が成立するからです。つまり、人間の営みそのものが主題だからです。
昔話というものが、「むかし」を二度も繰り返すほど遠い昔から連綿と語り継がれてきたのはなぜかといえば、それが流行のファッションやモデルチェンジしていく車のようなものとはちがって、何かしら普遍的なものを伝えてきたからでしょう。一見、どこにでもありそうな凡庸なお話の中にも、わたしたちの心に通じる一筋の道があったりします。
これからお話しする昔話もそんな類です。
お話の中に「川」が出てきますが、これといって風光明媚なわけでもない、ふつうの川です。いまでもどこかの町中を流れているはずですが、きっと川岸は護岸工事が施されているでしょうし、高度経済成長期には生活排水が垂れ流されていたことでしょう。ようするに、ちょっと臭くて、あまりきれいでもない、どこにでもある川なのです。あなたの住む町を流れている川かもしれません。
そんなありきたりな川がとうとうと流れてゆくさまも、むかしむかしは綺麗でした。
川のまわりに青々とした田んぼが広がり、江戸時代の標準的な村落が平凡な生活を営んでいました。たくさんの田んぼをもっている家もあれば、わずかな田んぼしかもたない家もあります。農村では田んぼの広さがその家の経済状況をあらわしていましたから、わずかな田んぼしかもたない家は貧しかったのです。
川のほとりのいちばん小さな田んぼの家に、ヨネという女の子がいました。子だくさんの家族の何番目かの娘でしたが、いつも汚れた身なりをして、両親や兄弟たちと一緒に朝から晩まで野良仕事をしていました。けれどもヨネは身なりこそ汚かったかもしれませんが、仕事を終えると川辺にしゃがみ込んで、長い時間をかけて汚れた手や顔をきれいに洗い流すのでした。
ヨネの家の田んぼのかたわらには、村でいちばん大きな田んぼがあり、そこの長男は茂助という少年でした。茂助はいつも綺麗な身なりをして、しかるべき儒者の私塾へ通い、習字や算術、論語の素読などをしていました。親が村の名主でしたから、将来は野良仕事よりも、むしろ村の行政にたずさわる必要があって勉学の手ほどきを受けていたのです。
茂助は難しい書物や算盤や筆入れをひとまとめに紐でしばって、それをぶらぶらさせながら土堤を歩いてきます。ちょうど茂助が塾から帰るころ、いつも川のほとりでヨネが顔を洗っていました。
茂助はヨネのことが好きでした。
村の子供たちは、ヨネをブスだと言っていました。確かにヨネは美人ではありません。けれども茂助は、塾の帰りにヨネに声をかけるのを楽しみにしており、この楽しみがあればこそ、つまらない学問に打ち込むことができるほどだったのです。
「おヨネ、今日もお疲れさま」
茂助が声をかけるまで、ヨネは顔を洗い続けています。ほんとうは遠くから茂助が歩いてくるのを見て知っているのですが、茂助が声をかけてくるまで気づかないふりをしているのでした。
「茂助さん、おかえんなさい」
ヨネはいつも笑顔で茂助に応えました。
茂助はヨネのその笑顔がたまらなく好きだったのです。ヨネの笑顔を見ると、塾で優等生を気どっている嫌味なヤツと殴り合いの喧嘩をした後でさえも、嬉しい気持ちになれるのでした。
「茂助さん、目の下にアザできてるでねえですか。どうされたんすか」
「なんでもねえさ。たいしたことじゃねえ」
ヨネは手ぬぐいを川でじゃぶじゃぶ洗うと、
「これ、目のとこに当てておくといいです」
「すまねえなぁ。正直なところ、けっこう痛くって」
「茂助さんでも喧嘩とかするんですね。たのもしいや」
ヨネが急に笑い出したので、茂助もつられて笑いました。笑うとアザが痛みました。
二人はいつも、とりとめのないおしゃべりに興じていました。田んぼに化け物みたいな大きなカエルがいたとか、塾の先生は頭が薄くてマゲが結えないとか、ほんとうにどうでもいい話ばかりでしたが、二人はお腹をかかえて笑いました。ふいに会話が途切れることもありましたが、二人でぼんやり川の流れを眺めていれば不思議とそれも落ち着くのです。急にヨネが唄を歌い出すこともありました。ヨネは忙しい母親にかわって下の子供らの面倒をみていたので、子守唄だけは知っていました。子供を寝かしつけるための唄ですから、静かな抑揚をつけて歌います。
ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよい子だ ねんねしな
ぼうやのお守りは どこへいった
あの山こえて 里へいった・・・
ヨネのよく通る歌声は、川面を渡り、田畑の上を流れ、遠くに見える山の尾根までもとどくようでした。
茂助はいつもヨネの唄に聴き入ってしまいます。神様や仏様というものは、ヨネの歌声のようなものなのではないかと茂助は思うのでした。
茂助とヨネは幼馴染です。
村には「結」と呼ばれる相互扶助体制があり、田植えや家屋の茅葺の交換など、人手を必要とする作業は村人が総出で作業をします。そんなとき、普段はあまり交流をもたない男の子と女の子も、一緒に過ごす機会ができます。茂助もヨネも物心がついたころから、互いの存在を知っていました。
しかし、裕福な家の子と、貧しい家の子の間には、世間の眼差しやら、大人たちのしがらみがつねに厳しくまとわり付くのでした。村の辻などで親しく言葉を交わすだけでも、ヨネの親に見られればヨネがとがめられ、茂助の親族に見られれば茂助がたしなめられました。
昔の農村は、通説ほど貧しくなかったといいます。江戸時代になると社会が安定し、農具の技術革新、稲の品種改良が進み、物流もスムーズになってきました。景気がよくなると、同じ農家でも、商人的才能を発揮するものが現れます。市場で売れる作物の栽培を始めたり、高利貸しを営んだり、当時の商品貨幣経済に上手く便乗して成功した、いわゆる「蔵が建つ」勝ち組です。茂助の家などがまさにそれです。
一方で、ヨネの家のように、借金を抱えている家もあります。
ヨネが生まれる少し前、深刻な凶作にみまわれた年がありました。ヨネの家族は子だくさんだったため、蓄えていた雑穀類が底を尽き、翌年蒔くはずの種麦まで食べ尽くしてしまったのです。命にはかえられませんから仕方のないことではありましたが、これは破産を意味していました。次の年は種麦を買うために借金をしなければならなくなり、そのためには土地を担保にしなければなりません。しかしその後も借金を完済できるほどの収穫に恵まれず、土地の一部は質流れになりました。わずかな経済的欠損が利子となって急速に膨らんでゆき、それと共にさらに担保の土地も減っていきます。ヨネが物心ついたころには、もはや更生が不可能なほど家産が傾いていました。
だからヨネの記憶には、裕福な思い出などありません。たった一つ、十歳の夏祭りのときに、近所のおばさんが唇に紅をさしてくれたこと、そして生れて初めて飴を食べたことが贅沢な思い出です。
茂助はその年の夏祭りの夜に見たヨネの可愛らしい顔をずっと覚えています。近所の子供たちは「貧乏人が口紅なんか塗ってら」などと露骨にヨネをからかいましたが、茂助は真からヨネが美しく見えたのです。屋台の飴細工師から蝶のかたちをした七色の飴を買い、それをヨネに強引に差し出しました。
「今日はお祭りだから、これお食べ」
「そんなめっそうもねぇっす。もらえねぇです」
「もらえないことがあるか。今日はお祭りだから、えんりょは、いかん」
「飴なんて贅沢なもの食べたことねえから。ほんとにもらってもよいのですか」
「すごく甘いからなめてごらんよ」
「ああ、もったいねえ。こんなに綺麗な飴だもの」
しばらく細工飴をしげしげと眺めていましたが、やがて嬉しそうに茂助の目をのぞきこんで口にふくみました。それがどんなに美味しかったか、ヨネの表情を見れば一目瞭然でした。
この夏祭りの夜以来、茂助とヨネは仲良しになりました。
川べりには背の高い葦が生えていましたので、二人が人目を気にせずにいられる格好の場所だったのです。日が暮れるまでのわずかな時間だけが、二人だけでいられる楽しいひと時でした。
「茂助さんは、いまなにを学んでおられるんですか」
「今日はむつかしい漢詩文を習ったよ。あと算術」
「算術ってどんな学問なんですか」
「物の数を数えなくても、この算盤を使うと数がわかるんだよ」
「そんな、わかるものなんですか」
ヨネは茂助の算盤を手に取って、裏返したり玉をはじいてみたりしながらしげしげと眺めました。
「これ、教えてもらったらあたしにもできますか」
「できるよ。おヨネならすぐにできる。いつかおれが教えてあげるから」
「ほんとですか、約束してくださいね」
「ああ。きっとね」
そうしているうちにも辺りが暗くなってきます。農村の一日は日暮れと共に終わりますから、二人はあわててそれぞれの家路につくのでした。
「またあした」と言い交して。
やがて二人も知ることになるのですが、ヨネの家は茂助の家に多額の借金がありました。このようなしがらみと格差のある家の子供たちが、結婚に至る愛情をはぐくむことなどどだい無理な話でしたし、あり得ない時代なのでした。
茂助の家は村の名主であり、村落という行政単位の長なのです。しかも茂助は嫡男でしたから、手習い裁縫をしっかり身に着けたしかるべき家柄の娘が結婚相手として求められていました。そのことをヨネの両親はよくよく察していましたから、できるだけ早くヨネから茂助を遠ざけたかったのです。
ヨネに「月のもの」が始まると、両親はそれを待っていたかのように縁談を探し始めました。ヨネと茂助の仲がこれ以上深まるのを恐れたのもありますし、それ以上に「口減らし」のためでもあったのです。家族がひとり減れば、それだけ家計が楽になる。残酷な話かもしれませんが、これは死活問題でもありました。このあたりの事情は、いちいち説明されずともヨネはすべてを理解していました。昔の子供は親の苦労を目の前で見ていましたし、親の苦労と密着して生きていましたから、自分の幸せを優先したいなどとは夢にも思いませんでした。
ヨネの父親があわただしく探してきた縁談がまとまると、もうヨネは川辺で茂助の帰りを待つことはなくなりました
2
うわさ話によると、ヨネの嫁ぎ先は川の対岸の村にあり、婿は二度も女房に逃げられたいわくつきの男でした。ヨネよりも二十も年上で、ほめられたような評判のまったくない男でした。ヨネの家には嫁入り道具を持たせるだけの余裕もなく、またヨネの容姿が特別美しかったわけでもなかったので、結局、縁談の空席はそんなところにしかなかったのでした。
ヨネが嫁ぐと知って、茂助は深く傷つきました。なんとかヨネの婚姻を破談にして、自分の嫁に迎えられないものかと真剣に考えました。しかし両親がヨネを嫁として快く迎えるはずもなく、そんなことを言ってみたところで、父親に張り倒されるだけだとわかっていました。
この時代、父親の存在は絶対的なものでした。農家は家族で構成される会社のようなものでしたから、家長は父親であると同時に代表取締役のような存在でした。家長の手腕に家の盛衰がかかっており、家長が経営を誤ればヨネの家族のようになるのです。茂助の父親には無情なところがありましたが、それは経営に私情をはさまないためでもありました。農家の没落は生死にかかわる重大事だったし、ましてや茂助の家は名主職なのです。父親にしてみれば、茂助の嫁には高い教養と品格が備わっていなければ話にもならなかったのです。
しかしそれは世間並みの話にすぎません。ヨネの実家が貧しいからといって、ヨネに品格はなかったのでしょうか。ヨネが寺子屋にも通えなかったからといって、教養がないといえるのでしょうか。ヨネの容姿が世間からみて中の下程度だったとしても、茂助にとっては美しい花でした。
ヨネは早々に村を出ていくそうです。格式ばった結婚式はやらないとのことでした。身の回りのものを風呂敷につめて、橋を渡って隣村に移り住むだけの嫁入りです。今夜には家を出るそうだと、うわさ好きの行商人が立ち寄る家々に吹聴していました。茂助はそれを聞きつけました。
いてもたってもいられなくなった茂助は、家を飛び出しました。ヨネが村境の橋を渡る前に奪い去る覚悟でした。どこの馬の骨だかもわからねえ男になんか、絶対におヨネを渡さねえ。そう心の中で叫んでいました。
刈田に秋の虫が鳴いていました。茂助は橋の前に立ってヨネが通るのを待っていました。すっかり日が落ちても、うそ寒い橋の欄干に寄りかかって待ち続けました。長いこと待ち続けているうちに、やっぱりヨネを奪い去るなんてどだい無理な話ではなかろうかと考えはじめていました。奪い去ったところでどうする?まだ十五になったばかりのおれが、どうやってヨネと二人で暮らしていく?
江戸に出て暮らしたらどうかとも考えました。江戸の町には全国からたくさんの人が集まり、農業以外の仕事に従事しながら長屋住まいをしていると聞いたことがありました。そこでならなんとか暮らしてゆけるのではないか。しかしそんなことをしたら、両親はどうなる?
夜も更けてきましたが、ヨネの姿は見えませんでした。いまごろ茂助の家では、茂助がいないと大騒ぎになっているにちがいありません。きっと下男があちこちを探し歩いていることでしょう。茂助はもう少しここでヨネが来るのを待ちたかったので、橋のたもとに降りて、川辺の葦の影にしゃがみ込みました。
そこはよくヨネと二人で語り合った場所でした。年を追うごとにヨネのからだはだんだん変化してきて、胸のあたりが少しふっくらしてきていたし、腰のあたりも男にはない丸みをおびてきていました。そんなヨネの姿を見るたびに、茂助はヨネのからだをぎゅっと抱きしめたい衝動にかられたものでした。いまもその衝動を抑えきれずにヨネのことを待ち続けているのでした。
小石を川面に投げていると、ふと塾の先生の言葉が思い出されました。百姓にとって米よりも大切なものは「孝」である。親がおまえたちを育ててくれたのだ、その親に孝行できないで、どうして家が成り立つものだろうか。親から子へと継承される「家」こそが唯一無二の財産である、もし家を失くしたら、先祖の供養を誰がするのか。茂助は物心ついたときからそう教え込まれてきたのでした。いえ、茂助にかぎらず、すべての嫡男がそのような教育の中で育ってきたのでした。茂助はもうなにもかもがわからなくなって、明るい月を見上げていました。
葦のざわめく音に心づき、耳をすますと橋に近づく足音がしました。
茂助が土堤を登ると、ヨネとヨネの母親がこちらへ向かって歩いていました。母親がヨネの足元を提灯で照らし、ヨネは風呂敷包みを一つ胸に抱えていました。晴着をきているわけでもなく、いつもの色あせた木綿の着物に草履履きでした。これが花嫁の身ごしらえかと思ったら、茂助はヨネのことが不憫でなりませんでした。きっと人目をはばかるために、こんな時分に村を出ていくのでしょう。
ヨネは茂助の姿に気づきましたが、すぐに目を伏せてしまいました。ヨネの母親も下を向いたまま茂助と目を合わせようとしません。黙したまま茂助のかたわらを二人は通り過ぎていきました。茂助はヨネを引き留めることもできず、さりとて別れの言葉すら口をついて出てきません。ただもう息苦しいかたまりが胸の中で膨らむばかりで、たった一言
「ヨネッ」
と、一声を発するだけで精一杯でした。
その声でヨネが立ち止まりました。振り返ったヨネの目のふちに月の光が反射しました。なにかを訴えているような眼差しにもみえました。しかし母親に袖を引かれると、すぐに前を向き直し、親子は橋の向こうの闇の中に姿を消したのでした。
それからほどなくして、茂助も結婚しました。父親の決めた縁談で、新妻はトミといいました。
トミも近隣の村の名主の娘で、武家の娘でもなかなかこれほどの器量良しはいないとうわさされたほどでした。かいがいしく家事もよくこなすし、なにより夫を立てることをわきまえていました。家にとっての女の立ち位置のようなものを実によく心得ていたのです。これこそが、茂助の父親が嫁に求めていた資質と教養だったのです。その考えのまちがっていなかった証拠に、茂助自身が自分のことを幸せ者だと率直に感じていました。
トミが男の第一子を産んだ時、茂助の父親は感涙にむせて隠居し、茂助が当主になりました。
村の中を忙しく歩き回る茂助の顔には、生きがいとやりがいを得たものらしい爽やかな笑顔が定着したようでした。
名主という立場上、他村との交流に酒席を設ける機会がたびたびありました。そこで語られる近隣諸村のうわさ話は、よもやま話にすぎないようにも聞こえますが、村の運営にかかせない貴重な情報でもあったのです。そこで聞き集めた村外の情報を参考にしつつ、村の運営を構想していくのです。
しかし、情報に敏感になればなるほど、たとえばヨネのような他村へ嫁いだ一介の婦人の身の上まで耳に入ってしまうのでした。
ヨネは妊娠と流産を繰り返していました。あきらかに夫の配慮が足りない短絡的な子作りであり、ヨネは嫁いで早々に性欲の生臭い泥沼に引きずり込まれてしまったようです。しかも、ヨネの夫は無類の酒好きで、酒癖が悪く、酒代のために借金を重ね、ろくに村の会合にも参加しない鼻つまみ者でした。とんでもない馬鹿野郎だと、ヨネの村の名主が顔をしかめて言っていました。
茂助も所用があれば、橋を渡って隣村に足を運びます。けれども、わざわざヨネを訪ねに行くということはありませんでした。
茂助は世間体を重んじていました。茂助がヨネと往来で親しく立ち話でもしようものなら、口さがない連中に何を言われるか知れたものではありません。村人はいつも新奇な刺激を求めているのです。娯楽の少ない時代の人々の気晴らしといえば、絶え間なく飛び交ううわさ話以上のものはありません。茂助が気楽にヨネに会いに行けば、茂助の家もヨネの家も世間の好奇な眼差しにさらされてしまう恐れがあったのです。
それでも、田畑の向こうにヨネの姿を見つけることがありました。
色あせた着物をたすき掛けして、泥まみれになって働いているヨネがいます。ヨネはいつも一人で働いていました。夫は飲んだくれているのでしょうか。それすらも直接聞けないもどかしさに、茂助は舌を打つのでした。ヨネは屈んで土をいじっていますから、たぶん茂助が遠くから見ていることに気づいていません。いえ、気づいていたのかもしれません。
茂助はヨネを経済的に援助できないものかと考えました。しかし、それをすることで、ヨネの最後の誇りまでうばってしまわないかと自戒しました。金銭というものは難しいものです。喉から手が出るほどほしいものであるがゆえに、そんなあさましさを誰にもみられたくはないのです。恥も外聞も放棄してしまわないかぎり、他人から施しを受けることなどできるはずもありません。
村の行政にかかわって以来、茂助はお金というものの残酷さを知るようになりました。思えばヨネの家は、わずかな種麦を買うために借金をしたにすぎないのです。その借金が、一家のつつましい生活を圧し潰すほどに膨らんでしまいました。ヨネを口減らしのために嫁がせたにもかかわらず、相も変わらずヨネの実家は貧しいままで、ついに茂助が先代に代わって借金の返済をせまる立場になってしまいました。やつれたヨネの両親を見るたびに、娘の犠牲は無駄だったじゃないか、娘の人生を犠牲にした結果がこれなのか、そんなやり切れない気持ちがこみ上げてきます。しかし、これほどの苦労と屈辱を受けねばならぬほどの過失が、果たしてヨネの両親にあったのだろうかとも思うのでした。お金を稼いで財産を増やしていくという行為にも、向き不向きというものがあります。さらには運というものも付きまといます。農業経営の才格がなく、人生に追い風の吹かなかったヨネの父親をいくら責めたところで、責任の所在は、世間が考えているほど個人に帰するものではないのかもしれません。
考えてみればヨネの両親は、娘を娼家に売ることもできたはずでした。しかし、どんなにひどい婚家だったにせよ一応は農家に嫁がせたのです。それがせめてもの愛情だったのだろうと思えば、茂助の胸は痛むのでした。だからといって借金を帳消しにすることもできません。それをしてしまったら、高利貸しは成り立たなくなります。金を貸すのは慈善事業ではないのです。
ある年の春、悲しい風のたよりが茂助のもとにとどきました。
ヨネが亡くなったそうです。
またも妊娠したヨネは、今回は無事に臨月を迎えたのですが、分娩が困難を極めました。ヨネがどんなにいきんでも胎児が産道を抜けられず、泣きながら何時間いきんでも産み出せず、ついに母子共に力つきてしまいました。ヨネは深刻な栄養失調であり、とても出産などできる体ではなかったと、産婆が後に語ったそうです。
茂助は涙が出ませんでした。作り話でも聞いているかのように現実感がなく、何日たっても涙の一粒も出てきません。それがかえって息苦しく、胸のつかえが吐き気のように感じられました。じっとしていると息がつまるようで、いたずらに忙しく日々の仕事をこなしていました。
そうしているうちに、ヨネの死の続報のようなうわさが、ふたたび茂助の村にとどきました。
村境の川のほとりに、ヨネの「流れ灌頂」が設けられたそうです。流れ灌頂などといっても、いまの人たちは知らないでしょうから少し解説する必要があるでしょう。
昔は産婦が亡くなると、葬式とは別に、独特な供養がなされたのです。
水辺に四本の棒を立て、そこに「南無妙法蓮華経」のような経文を墨書きした布を張り、通りがかった人々が柄杓で水をかけてゆくのです。その経文が洗い流されて消えたとき、産死者が成仏すると信じられていました。流れ灌頂には他にもいくつかの形式があましたが、茂助の暮らす地域のやり方は、川のほとりに位牌を祀って、それに水をかけるというものでした。道行く人々が、位牌に書かれた戒名が消えるまでかけます。
この習俗の背景には、産婦が血にまみれて死んでゆくことから、あの世に行っても血の池地獄に落ちてしまうという宗教観がありました。柄杓で水をかけることで、その血を洗い流して成仏させようとしたのです。
産で死にゃまた身が血の池に
洗いざらしを百二十日
こんな歌も残っていますが、布や位牌に薄く墨書きされた文字は、おおよそ百回ほど水をかければ消えたといわれています。
ヨネの流れ灌頂が設けられたことは、すでに茂助も知っています。ヨネの死の続報のようなうわさとは、ヨネの位牌の戒名が、どれほど水をかけても消えないということでした。
茂助はじっとしていられなくなりました。ヨネの戒名を洗い流してやらなきゃならない、このおれがやらなきゃならない、もう世間も体裁も関係あるものか。門口を押し開けた茂助は、歩くことさえじれったく感じるほど気が高ぶり、村境の橋を駆けて渡りました。
川岸を少し行くと、そこにヨネの流れ灌頂がありました。
いかにも急ごしらえの粗末な台の上に、木肌の新しい小さな位牌が置かれていました。かたわらに川の水を汲み置いた桶があり、柄杓が立てかけてありました。
位牌には「清心米慈信女」と書かれていました。少し薄れてはいましたが、まだ文字は消えていません。
茂助はひざまずきました。
流れ灌頂の背後に、対岸の茂助の村が見えます。
川の波光がまたたくように輝いています。
かつてあの川辺で、茂助とヨネは語らったのでした。
思えば哀れなヨネでした。幸せなどとはほど遠い一生でした。貧しさの中で生れ、ついに貧しさから抜け出ることはありませんでした。
茂助は思いました。同じ命でも、人間に目の敵にされて踏み殺される毒虫もいれば、殿様に飼われて人様よりも上等な餌を食う犬もいる。人の運命もそれと同じで、裕福な星の下に生まれるものもいれば、不幸な星の下に生れ来るものもいるのだ。貧富貴賤などは天の気まぐれに過ぎず、おれが名主なのは名主の家に生まれたからで、そのことでヨネよりも人間の価値が高いわけでもなく、ヨネの価値が低いわけでもない。にもかかわらず、ヨネは貧しいまま死んでゆき、おれは一文たりともヨネを助けなかった。問題は金銭などではなかったはずだ。おれはヨネの袖口に幾らかの銭を突っ込んで、「ヨネ、おれらは夫婦になれなかったが、どんなことがあってもおれはおまえの味方だからな。独りだと思うなよ」そう言えばよかったのだ。
世間はヨネのためにこうして流れ灌頂を作り、道行く人々はヨネの成仏を願って位牌に水をかけてゆく。そのような優しさがあるのなら、どうして生前ヨネの力になってやれなかったのか。だれも助けてあげなかったのか。
いままで茂助の胸につかえていた吐き気のような感情が、いっきにあふれ出ました。茂助はおうおうと大声をあげて男泣きに泣きました。もう、誰に見られようと、どんなうわさをたてられようと、どうでもよかったのかもしれません。
いつかは茂助も年老いて死んでゆくでしょう。立派な家系図にその名をとどめるかもしれません。しかし茂助の子孫ですら、茂助がいかなる人間であったのか知る由もないはずです。ヨネのことも、茂助のことも、誰も知るものはいなくなり、毎日二人で眺めた川も、何世紀も後にはドブ川になってしまいます。泣きたければ、泣けばいいのです。この瞬間は今しかないのだから。
茂助は肩を揺すって泣き続けていましたが、ふと顔を上げると、小さな紋白蝶がひらひらと茂助のそばを舞っていました。
茂助はすぐに、それがヨネだとわかりました。
葬儀のときに蝶が舞うという話はよく聞きます。しかし大抵はアゲハ蝶です。いま茂助の眼の前にいる蝶は、しじみのように小さな紋白蝶なのでした。いかにもヨネらしい蝶でした。
なつかしいヨネの歌声が聞こえてくるようでした。
幼かった頃の笑顔がそこに見えるようでした。
茂助は涙で濡れた顔をほころばせて
「おヨネ」
と声をかけました。
紋白蝶はゆっくりと茂助の顔に近づいてくると、静かに茂助の唇にとまりました。
そしてひらひらと波光の上を渡ってゆきました。
茂助は柄杓を手に取ると、桶の水をひとすくい、ヨネの位牌の上に注ぎかけました。
そのひとかけの水が、位牌の文字を消したそうです。
川のほとりに落ちていた物語