エリ

 あれは私がまだ中等部にいた頃でした。
 クラスには一人、とても素行が悪い生徒がいて、名前は確か、エリと言いました。彼女はいつも授業はサボって出歩いているか、席についていても深い眠りに包まれているかのどちらかでした。彼女は何度先生に怒られても、なんにも感じていないような無表情で、どこかとてつもなく遠い場所を見つめているようでした。きっと彼女は平凡な私なんかとは全く違った人生を歩んでいくのだろうと10代前半の私は漠然と思っていました。
 私は一度だけ、その人に聖書を貸しました。
 私たちの通っていた学校はミッション系だったので、毎日、チャペルでお話を聞く時間があったのです。その時間には必ず一人、生徒が指名されて、みんなの前で自分が選んだ聖書のどこか一部を音読しなければいけませんでした。
6月頃、私が指名された時は、大勢の人に見つめられて、あまりの緊張に耳を熱くしながら、つっかえつっかえなんとか読み切ったあり様でした。
そして、この日指名されたのが彼女だったのです。2月の凍えるように寒い日、偶然私の隣に彼女が座りました。薄暗いチャペルの中で私の息も彼女の息も白く、ただ、下を向いて、始まりを待ちました。
 彼女はいつも聖書を持たずに手ぶらでチャペルにやってきます。授業はよくサボる彼女でしたが、この時間だけは毎日欠かさず出席していました。
 先生も彼女がいつも手ぶらなことは知っていたでしょう。それでも、彼女は指名されました。名前を呼ばれて、数秒の沈黙の後、彼女は椅子から立ち上がりました。私は彼女が聖書を持っていないのに指名されたことが、まるで自分のことのように思えて、心臓が弾けるほどに焦り、緊張していました。そして、いつも通りの無表情な彼女が口を開くか開かないかのところで、だらりと垂らされた彼女の腕に自分の聖書を押しつけたのです。彼女は私が押しつけた聖書を少しの間見つめ、受け取りました。それから、開いて読み始めました。
「コリントの信徒への手紙一 13章1―13節」
 大きくはないのによく通るような、そんな声で彼女は一度もつかえることなく、すらすらと読んでいきました。彼女が選んだ聖書の箇所は、これまで他の何人かの生徒も選んで読んでいたところでした。彼女がそこを選んだことに、私は、失礼ですが、なんだかとても意外だと感じました。彼女が、もっと私たちなんかが知らないような、特別な箇所を選んでくることを期待していたのです。きっと私は自分でも気づかないうちに、彼女に憧れていたのでしょう。私は気が小さくて、一度でも怒られれば亀のように顔を隠してそのまま二度と顔を出さないような、そんな人間ですので、彼女のように堂々と人のやらないことをやってのける強さが眩しかったのです。だからこそ自分勝手に彼女に変な期待をしたのでしょう。
 そのまま、読み終わって着席した後も私の聖書は彼女の手にありました。私は自分から貸しておきながら、彼女が無事に読み終わったことに満足して、返してもらうのを忘れていたのです。
 そして、その日の帰り、私のロッカーの上に聖書が返却されていました。それを見て私はやっとチャペルでのことを思い出し、自分にしては大胆なことをやったとじわじわと恥ずかしさと嬉しさがこみ上げてきました。聖書を手に取って、なんとなくぱらぱらと捲ると、栞が元とは違うページにありました。私の聖書には、黄色と茶色の二色の栞紐がついています。私はいつもその二色を聖書の一番最初のページに挟んでいるのです。しかし、今は黄色の栞紐が新約のあるページに挟んであるのです。この聖書に触ったのは、私と彼女しかいません。私は栞をいじっていないのですから、必然的に栞を動かしたのは彼女ということになります。私はそのページを読んでみました。そして、彼女のエリという名前を見つけました。
 線が引いてあるわけではありません。付箋がついているわけでもありません。ですが、おそらく、きっと、これが彼女の名前のすべてなのでしょう。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

 それきり、彼女と関わることはありませんでした。彼女はいつも通り授業をサボり、私は平凡に日々を過ごし、卒業しました。風の噂で、彼女は卒業してすぐに東京へ出たと聞きました。黄色い栞紐はあれからずっとあのページに留まっています。これから50年後に、今のことなんてなにもかも忘れてしまっても、黄色い栞紐をたどればきっと私は彼女のことを思い出すでしょう。

エリ

エリ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted