穢れた土俵・記者編
2017年からの相撲界での騒動。ずっとリアルで追い続け、一時は渦の中に飲み込まれた私。ずっと抱き続けたモヤモヤが、ある日突然ファンタジーの奇跡のように、ヒラヒラとひとつのストーリーの中に収まって行き、妄想物語が出来ました。あまり相撲を知らない方々にも、色んな立場から見ていただいて、楽しんでもらえるような作品に出来たらいいな、と思っています。
妻の転機
年が明けて1月も半ばを過ぎた頃、尾山範子は、勤め先でいつものように仕事に励んでいた。
範子の勤め先は、手頃な価格が中心のインテリアや生活雑貨の小売専門店だ。
7年前、35歳の範子がパートで働き始めた時は、まだ関西の郊外を中心に店舗を拡大している最中だったが、今では東京に本社を移して全国展開している。5年前フルタイムになってからはアルバイト社員、アルバイトなのか社員なのか変な名前に変わり、接客だけでなく仕入れや、自分を含むアルバイトの勤怠管理なども携わるようになった。なんだかよく立場が解らないが、勤めらしい勤めをここでしか経験したことのない範子は、求められるままに応じるしか無かった。
今年は暖冬で、冬物の動きが良くない。
もう早めに在庫処分して、春先の商品をいれるべきか。範子はストックヤードで、思案しながら在庫の動きを確認しているところだった。
「尾山さん」
範子は自分を呼ぶ声に振り向いた。
見渡しても、ラックに積まれたダンボールが見えるだけ。
また考え事をしていたから、空耳でも聞いたかな?
ふと、自分がまたがって座っている脚立の下を見ると、店長の矢崎が「こっちこっち」と手を振っていた。
「あ、店長」慌ててタブレットをしまい、脚立を降りる。上司を見下ろしたまま話すわけにはいかない。
「すいません、上から返事して」
「いやいや、ちょっと尾山さんに話があってね。主任には言ってあるから。会議室いい?」
矢崎は説明しながら、もう会議室に向かって歩きはじめていた。
店長に続いて会議室に向かうと、中に西日本統括本部長の谷原が居た。
「え! 統括本部長?」
驚いて後退りする範子を、まぁまぁまぁと店長が会議室に押し入れる。
長い名前だが、西日本統括本部長とは範子たち現場から見て、店長(係長)、エリアマネージャー(課長)、シニア・マネージャー(部長)のその上。
西日本のエリア全体を統括するのが谷原なのである。
三年前、役員候補としてずっと東京本社に在籍していた谷原が50歳で突然関西に赴任し、各店舗を視察して回った時は「左遷か」はたまた「水戸黄門ならぬ全国行脚か」と噂されたものだ。
しかし、その後は半年に一度、顔を合わすかどうかも怪しい、雲の上の存在がどうしてまた。
何か、やらかしたか? あたし・・・
範子が突っ立っていると、その統括本部長が自ら隅に置いてあるサーバーに向かってお茶を入れようとしていた。
「あ、すみません、私が」
畏れ多くて自分でお茶を取りに行こうとすると、谷原は笑顔で制した。
「いいんですよ、掛けてください」
ホテルマンのようなスマートな動作で、紙コップのお茶を3つ置く。
あ、すんません、と先に座っていた矢崎がお茶をすすった。
ほらね、こんなとこも違うわ。
赴任当初の視察で、直接話しかけられた時にも感じたが、東京出身の谷原本部長は、在阪三年経っても未だにキレイな標準語で丁寧に話す。
それは、範子たち現場のパートやアルバイト社員にも同様だった。
矢崎店長や同僚たちは「水臭いわぁ」「雲の上の人って感じ」と言うのだが、範子には新鮮で好印象に映った。
なんか一人前に扱われているような。尊重されている気がして「アタシ仕事してる」気分になれた。
42歳、二十歳と高校二年生の母と言えば、おばちゃん、と言われても仕方がない。
それでも範子が、ドラマで見るようなオフィスや、谷原のような絵に書いたビジネスマンに、未だに憧れを抱くのは理由があった。
二十歳で阪神・淡路大震災が遭い、大学休学中に妊娠、結婚、そして子育てに励んできた範子がパートで働き始めたのが35歳。
フルタイムで働けるようになったのは、両親が商売を引退した、ほんの五年前、範子が38歳のことである。
自分が普通に大学を卒業し、就職していたら、どんな人生を歩んでいたんだろう。
谷原は自分が行けなかった、もうひとつの世界の住人として、範子を刺激する存在だった。
「尾山さん、聞いてる?」
範子の物思いは、眼の前でヒラヒラと手を降る矢崎に遮られた。
「すんごい、ええ話やと思うよ。僕も鼻が高いわ」
「え? あ、すいません、何の話でしたっけ?聞いてませんでした。」
「なんやな!」矢崎がコケた。
「急な話だからね、面食らうのも仕方ないですよ」
谷原が、少し笑ってフォローを入れた。
「ストレートに言いますね。正社員になって、私のブロジェクトに入ってもらえませんか、という話です。」
矢崎が畳み掛けた。
「ただの正社員登用ちゃうで、幹部候補中途採用や」
頭の中で変換が出来ず、範子はロボットのように繰り返した。
カンブコウホチュウトサイヨウ・・・?
*
「カンブコウホ・・・なんやて?」
範子と同じように、母の康代が振り返って復唱する。
「だからぁ、幹部候補の、正社員を雇うための、中途採用なんやてば」
鍋の材料を一緒に用意しながら、範子は母に、今日自分に起こった、思ってもみない出来事を話して聞かせていた。
今日は水曜日。週に一度は家族みんなで夕食を取ると決めている日だ。
それに合わせて範子もシフトは早番にしているし、
長男の直(なお)長女の未知(みち)も、早く帰ってきている。
範子と子どもたち、そして両親の林一範と康代は、京都に隣接する大阪、摂津と呼ばれる地域で暮らしている。
いまの家は駅から20分ほど離れた静かな住宅街だが、幼い頃からつい5年前までは駅南商店街の出口と国道が繋がる場所に住んでいた。
一階を店舗、二階を住まいにした建物だった。
震災で一度ダメになって立て直したが、8年ほど前から駅の北側の開発が進み、高層マンションやショッピングモールの建設計画が持ち上がると、それに追随するように駅南側の土地も値上がりし始めた。
すると母はパタパタと商売をたたみ、駅から少し離れた小さな建売住宅に居を移し、跡地に学生向けマンションを建ててしまった。
マンションと言っても、実質はアパート、良くてコーポじゃないの? と範子は思ったが母のヨミは正しかった。
駅の北側の開発が完了すると同時に出来上がった「マンション」は、実際の見た目や設備より、駅と商店街近くという利便性もあって若者に受け、沿線の大学に通う学生で、すぐ満室になった。
また、両親が家賃収入者になって家に居てくれるようになったおかげで、範子はパートからフルタイムで働けるようにもなったのだから、林家の誰も康代には頭が上がらなかった。
「で? 範子が幹部になんのん?」母が日本酒を手酌しながら、改めて聞いた。
「それはまだ、わからへんけど・・・」
鍋の蓋を開け、具の様子を見ながら範子が返事した。
ダイニングテーブルから一番テレビに近い席には、父の一範が夕方からずっと座っている。
「おじいちゃん、相撲終わったんやろ? テレビ変えさせてえよー」
長女で高校二年生の未知は、そう言いながらも一範の前に缶ビールを置いてやる。
代わりに一範が黙って未知にリモコンを渡す。
「ほら、鍋出来たから、直も来て」
範子が声を掛けると、大学から帰ってそのままソファで何か読んでいた直が
「俺、解ったで、おばあちゃん」と話しながら席に着いた。
「お母さんとこの会社が、薄利多売の店舗拡大路線から、一人あたりの単価の引き上げとオンリーワン展開に路線を変えたってことみたいやわ」
「あらまー、直。凄いやんかー。今のお母さんの話だけで解ったん?」祖母が目を丸くする。
「アレ、読んだから。」
直が指差す方を見ると、リビングの低いテーブルの上に、範子が持ち帰った企画書が置いてあった。
「もう、勝手に読んで! 社外秘なんやからね」
「だって出しっぱなしやったんやもん」
直が首をすくめて、祖母に助けを求め隠れる。
林家のドンの一番のお気に入りを自覚している直は、祖母の機嫌を取るのがうまい。
「えーやんか、範子。それより直。企画書読んで意味解るのん?カシコなったなー」
祖母の康代としては、社外秘の資料を勝手に読んだマナー違反よりも、孫の成長の方が頼もしい。
「当たり前やん、おばあちゃん。誰や思ってんの、マーケの授業も取ってんねんで、俺」
直は兵庫の私立大学で経済学部に籍を置いている。
「なんなんー? オンリーワン路線ってー」
未知は、会話にとりあえず参加してみるが、それほど興味はなさそうだ。鶏にしようか、タラにしようか、具を選ぶ方が忙しい。
「店舗拡大からオンリーワン、というのは、横に薄くひろーく、から、縦にふかーく、ということよ」
身振り手振りで説明すると、祖母がまたまた食いつく。今はアパートの大家だが、康代も基本的には商売人だ。
「それでそれで?」
「ただのチェーン店やったら、どこ言っても同じもの売ってるやん? それやったら近い方がええわな」
「うんうん」
「でも、近くのお客さんは、その商品を一度買ったら、もう要らんやろ?」
「壊れへんかったら、いらんわな」物持ちのいい祖母が言う。
「でも、今持ってるものより、ちょっと高くても、もっと使いやすいものとか、いい気分になれるものが出たら?」
「買い替えたいかな?」祖母が間髪入れず答える。
「それやんか。」
いぇーい、とハイタッチをする祖母と孫息子。
この二人は昔からノリが合う。
「おじいちゃん、その塩ポン取って」
二人のテンションに付いていけない未知は、淡々と祖父に指示を出す。
晩酌をしながら、皆の話を聞くともなく聞いていた一範も、目の前の「塩ポン酢」を淡々と未知に渡す。
林家では、祖母と直、祖父と未知のコンビが知らず知らずのうちに出来上がっているように見えた。
未知が、そんなに会話はしないものの、何故か祖父と一緒に過ごすのが多い気がするのは、やはり幼い頃から父親が不在だからだろうか。
「でも、いい話やと思うよ、俺も」
直が範子にビールを注いだ。
「そうかな、まだよう解らんし」
「そんなことないよ、簡単な話よ。まず戦略として、いいと思うし、人選も正しいと、俺は思う。」
直もビールを一口含み、真面目な顔になる。
そうだ、直も去年、成人式を迎えた。
「専門的な話はともかくとして。既存の店舗の売上を伸ばすんやったら、リピーターさんの囲い込みと、店舗の個性は必要やしな。その為にお客さんや地元を詳しく知ってる人、そういう人がダイレクトに会社に意見出来る仕組みを作るのが一番てっとり早い。消費者代表、主婦代表として。」
ハアー、直、すごいわ。
あらためて範子は感心した。
谷原本部長の解説が、関西弁に翻訳されると、こんなに解りやすくなるのかぁ、ということを感心していたのである。
「お兄ちゃん、ババ転がしの才能あるんちゃう? なんかソレッぽく聞こえるで。実演販売とか、セミナー詐欺とかしたらいいんちゃうー?」
話に参加できない未知が、拗ねたように茶々を入れた。
「あほか、実演販売は詐欺ちゃうぞ。プレゼンや、プレゼン。失礼な」
妹にツッコミを入れると、直は箸を置いて、改めて範子に向き直った。
「未知みたいなアホは、どーでもいいけど、尾山範子さん。」
「はい」反射的に範子も居住まいを正す。
「パートからフルになって5年やろ? それで正社員として新規プロジェクトの重要な仕事のオファーが来るって、滅多にないチャンスやで。期待されてるんやで、お母さん」
食卓が一気にお祝いムードのように盛り上がったが、当の範子は戸惑っていた。
そんな家族の様子を、一範は複雑な思いで見つめていた。
みんな揃っての夕食の後片付けは、直と未知の役目である。
範子がフルタイムで働くようになって、子どもたちが作ったルールだ。
範子は一旦部屋に戻り、企画書に目を通していた。
「エリア・ブランディング・プロジェクト」
地域の地元パート・アルバイトの中から優秀かつ、一定の勤務経験のある人材を「ポイントマネージャー」として抜擢し、統括本部長直轄のプロジェクトに配置する。
ポイントマネージャーは統括本部長の元、担当店舗の店長、エリアマネージャーと協力しながら主に商品の企画開発から接客担当者の人材育成まで、より顧客のニーズに応えるブランディングを提案指導し、地域における店舗のポジショニングの引き上げを担う。
人選は推薦メンバーの中から本社で審査で決定。ただし、この業務は企業の経営企画や経営戦略にも関わってくるため、幹部候補としての正社員登用を希望する者に限る。
うーん。言葉が難しい。こんな世界に自分が入っていけるのだろうか。
「範子」襖の向こうに父の一範の声がした。
「え?お父さん?」
襖を開けると、やはり父が缶ビールを2つ持って立っていた。
「どしたの、珍しい」
「入っていいか?」
招き入れ、襖を閉める。
「お父さん、お風呂は?」
「今、母さんが入ってる、今日は要らん」
「ふうん」
まぁ、そこに座れと、父はあぐらをかき、缶ビールを範子に手渡した。
「・・・さっきの話なんやけどな」
「あ、正社員の話?」
「直はいい話やと言うてたけど、どうすんのや」
範子は返事に困った。まだ内容を理解した、と言うだけで、自分が当事者だという実感が無い。
迷っている様子の範子に、父が話し始めた。
「哲さんのことは、どうすんのや」
父の口から久々に夫の名前を聞いて、範子はドキッとした。「どうするって」
「あんなことがあって、一人で福岡行かせたまま、もう十年や。もう子供らが小さいから手が離せへん、ちゅう年でもないやろ?」
そうか、夫の哲が行って10年、つまり左遷されてから10年の月日が流れているのだ。
「ここ何年か、哲さんはこっちには全然顔も見せへんけど、お前や子供らは時々は会ってるんか?」
「会ったのは・・・尾山のお父さんが入院した時が最後かな。二年前?」
「その後は? お前が向こう行ったりしてへんのか」
「してない、電話やLINEはしてたけど・・・」それも、しばらくご無沙汰していることは黙っておいた。
「正社員で働くとか、幹部候補とかいうんやったら、まず最初に相談するべきは哲さんと違うんか」
「そんなん、女性が仕事をするのに夫の許可とか」
「そういう問題違う。」
父はピシャリと言った。
滅多に口を開かない一範の、毅然とした一喝にビクついたのは範子だけではなかった。
母の部屋に入るタイミングを失った直が、襖の外で、二人の話を聞き、身を固くしていた。
「お前は哲さんが一番大変な時、苦しい時に一人で行かせた。それだけでも親としては申し訳ないと思ってんのに、哲さんは福岡行ってからも、ずっとお前らに生活費を送り続けてる。その金額を知ってるんやろ」
範子には返す言葉が無かった。
哲が振り込んでくる口座は母に預けたままで、必要な時はいつも母に頼んで引き出してもらい、残高はおろか通帳を開いたことすらなかった。
「哲さんと結婚した時、お前はまだ若かったし。例の事件で哲さんが飛ばされた時も、まだ子供も小さいのにお前は受け止めきれへんやろう、思うて母さんも父さんも黙って引き受けた。でも」
父が言葉を切って、ビールを飲み干した。
「お前が自分の仕事とか、人生とかもう一度考え直すつもりなんやったら、逃げるな」
「・・・」
「哲さんとちゃんと話し合って、それから結論だすのが筋や。そやないと、父さんも母さんも、哲さんに義理が立たへん。けじめやからな」
父が部屋を出て行ってしばらく、範子は身動き出来なかった。
夫の哲が大阪本社から福岡に左遷されて10年。
なるべく考えないように、子どもたちや、目の前のことだけに奔走し、自分たち「夫婦の問題に向き合うことから逃げたかった」という本心を、父は見抜いていた。
「プロジェクトのメンバー選考試験は3月初旬。あと一ヶ月半ありますが、推薦を受けるか受けないかの返事だけは、2月半ばには下さいね。尾山さんが残念ながら受けられない、となった時に次点の候補者に連絡しなければいけませんから」
谷原の言葉が、頭によぎった。
うわぁーーーーー、選考試験の前に、私にはもっともっと嫌な、シンドい宿題があったよーーーー。
範子はいつものように、クッションに顔を埋めて声をミュートしながら、ジタバタした。
襖の隙間から、そんな母の様子を見ていた直は、掛ける言葉が見つからず、そっと襖を閉めた。
人生詰んだ男
範子が父と話をしていたのと同じ頃。
遠く西の玄界灘の暗闇を見つめながら、煙草を手に佇む男の姿があった。
「おお、哲ちゃんやないか?生きとったか」
製版部長の山田が、からかうように声を掛けてくる。「ああ。山さん、すんません。外部の人間がいつもいつも」
「ええよ、ええよ。哲ちゃんは身内も同然、顔パスじゃ。さむないか?」
山田は電気ストーブのコンセントを入れに行く。
上にはパソコンでプリントアウトしたポスターがデカでかと貼ってあった。
「帰る時は、コンセントから抜いて!火の用心」
ここは大手印刷会社の九州工場の敷地内にある屋外喫煙所。
昼夜二交代で働く社員たちのリフレッシュの為に作られた、この屋根付きの喫煙所からは玄界灘が見渡せ、細かい作業の多い社員が目を休めに来たり、物思いにふける絶好の場所だ。
冬場は海風に吹きっさらしなのが玉にキズだが、誰ともなく古いソファや電気ストーブなどが持ちこまれ、肩身の狭いスモーカー社員の憩いの場所でもある。
「おー、さむっ。」
一本加え、火をつけようとする山田の手元に風が吹き付ける。尾山が山田の手元を手で囲った。
「サンキュ。たまには夜勤もしてみるもんやな、珍しい人に会えたわ」
山田が吐いた煙は、すぐに風に揉まれて消えてしまった。尾山もずっと持ったままだった一本に、難儀しながら火を付けた。
しばらく二人は黙って煙草を吸っていたが、山田が切り出した。
「慣れたか? 求人誌。」
尾山がクスッと笑う。
「求人誌、なんて言うたらみんな怒りますよ。」
「えーやないか、『アーネイ』なんて横文字の名前になる前は、求人しか載せとらんやったがな。あ、お得意さんに失礼か」山田が失敬、と恐縮して見せた。
「この印刷所から、タウン誌に異動して・・・もうすぐ3年です。雨宮さんたちに言わせると『求人を 含む 、情報タウン誌』らしいです」
「モノは言いようやな。」
また沈黙が降りる。
二人はだまって、真っ暗な海を眺めながら煙を吐いていた。
二人の後方には、印刷所の大きな敷地が広がる。
印刷所が面した大通りの向かいにビルが立ち並び、そのひとつが、福岡支局のある新聞社。
交差点を挟んで斜め前にある雑居ビルのワンフロアが、尾山の今の職場だった。
山田が神妙な面持ちで切り出した。
「なぁ哲ちゃん、どれくらいになる? 大阪の本社から・・・出たの」
「気ぃ使わんで良いですよ」
尾山は風で短くなってしまった煙草の火を、灰皿に押し付けた。
「本社から左遷されて10年。支局で3年、記者をクビになって地獄に落ちて・・・」
「哲ちゃん。」
山田は尾山の腕に、手を掛けた。
その先は話さなくていい。
山田の無言の思いやりが、尾山には温かい。
「大丈夫です、山さん。五年前のあの時、この会社が引き受けてくれへんかったら」
前を向いたまま尾山が呟いた。
「あのまま、あそこに居たら、きっと俺は死んでました。山さんたちには・・・ほんま、感謝してます」
山田は、もどかしい表情のまま、尾山の横顔を見つめていた。
そして何か言葉にしようと口を開きかけた瞬間、尾山の仕事用ガラケーが振動した。
*
「ヒルアンどこいったー? ったくもー、入稿時期しか会社来ないくせに、来てもサボってばっかりでー!」
鬼の副編集長、雨宮亮子がいつものように吠えた。
尾山哲の今の職場、新聞社系タウン誌を発行する編集部は月一回の締切日を迎えていた。
編集部と言っても、編集専任は編集長を含む4人だけ、あとは広告営業も兼務する社員と、補助要員として学生アルバイトが出入りする10人程度の小さな会社だ。
ヒルアンとは、雨宮が名付けた編集部での尾山を表す仇名である。意味がよく分からない若い社員に雨宮は
「そんなことも知らないの? 昼行灯っていうのは、もったいないって意味よ。明るい昼間に行灯をつけるのは油がもったいないでしょ?」と、最初の頃こそ、気を使った説明をして誤魔化した。
しかし「いくら支局からの出向とはいえ、本社から来た元社会部記者なんて、こんなタウン誌に必要ある?」と続けて悪態をつく雨宮を見ている内に「編集部にとって無用な人員」という意味でしか使っていないことを、みんなが理解するようになっていた。
その態度からも解るように、言うまでもなくこの編集部の実権を握っているのは、副編集の雨宮。
自称では尾山より年下らしいが、中身はバブル世代のイケイケっぽい、というのが若い社員たちの評価である。
中央にある雨宮のデスクの左手に鎮座する本来のトップ、編集長の那須田は、自分のPCモニターに隠れるようにして、雨宮の様子を伺うだけだった。
「いま、電話してますからー」
社員の一人が、自分の受話器を手で抑え、隣を指差す。隣では中堅社員の橋本が立って受話器を持ったまま、雨宮に合図している。
「ったくもう」
文句を言いながら、雨宮が椅子にドスンと腰掛けると、すぐ目の前にある電話の外線ランプが赤く光った。
「ちょっと誰か―」と周りを見渡すが、みんな手が離せない。
「はいはい」仕方なく雨宮は、空になった小さな紙パックドリンクを握りつぶし、受話器を取った。
「はい、アーネイ編集部。もしもし?」
受話器の向こうは、何やら周りが騒がしい。
「ちょっと聞こえにくいんですが、どちら様ですか?」
「すいません、尾山哲さんはいらっしゃいますか」
聞いたことのない声の男性から、尾山の名が出ると、雨宮は眉間にシワを寄せた。
「あー? 尾山ですか?。尾山はですね、いつもように、居ないんですよー。」
副編ったら、外部の人にまで尾山主幹の八つ当たりしてるわ・・・仕事しながら社員たちがチラ見する。
「あの、本人の携帯に掛けても繋がらなくて・・・夜なら会社に来ると、そちらの方に伺ったんですが」
男性は穏やかに続けたが、雨宮の苛立ちは頂点に達していた。
なんだ、あいつ、私用電話まで受けさせてからに・・・。
「ええ、ええ、締切の日だけは会社に来られますよ。手伝いにねー。でも、今は居ないんですー。忙しいんで、また明日にでも掛け直してください、では」
ガチャンと叩きつけるように電話を切る。イテッと社員たちが、電話の相手に対し同情の念を寄せる中、橋本が声を高くした。
「あ、ヒル・・・じゃない尾山主幹? やっと出てくれたぁ。」
もう、これ以上雨宮さんの血圧上げるようなことしないでくださいよ・・・・とは口に出せない。
「あ、ごめんなさい。編集ページ上がりますんで、チェックお願いします、急いで戻ってください」
雨宮は冷蔵庫の中を何やら探していたが、目当てのものを見つけることが出来なかったのか「もおっ」と冷蔵庫の扉を閉めた。
「ったく。このクソ忙しい時に私用電話まで。なーにが編集主幹だ。主幹ってなによ、論説書くような新聞じゃ有るまいし。情報ページなんて多くて16ページしかないっつーのよ!」
歩きながらでも文句を言い続ける雨宮は、自分の発した「主幹ってなによ」ポイントで、ブスブスと火力を上げていく。
「人生詰んだ男に対する、最後のハナムケなのかー? 主幹ってのは--」
「副編集長」橋本が雨宮を遮った。
「尾山さん、戻ってくるそうですから。その辺で(やめときましょ)」と目配せする。
雨宮も、他の社員たちの視線に気づき、何事も無かったかのように「はいはい、みんな仕事仕事」と切り替えた。
雨宮の苛立ちは理解できなくもないが、そこまで言うのは言い過ぎだし、若い社員が雨宮の真似をし始めると困ることになる。
根は悪くないんだけど、あの人はノッて来ると、自分の言葉に勢いついちゃうからなぁ。
橋本はバランス感覚に優れている分だけ、ストレスも多く抱えることになっていた。
作業に戻ろうとする橋本に、後ろのデスクに座っていた、新人営業の若い男性が恐る恐る声を掛けた。
「なに?」
「何か、手伝えることないですか」
今年の1月から入社した、広告営業の吉田だった。慣れてくると広告営業も編集部の手伝いをしたりもするが、なにせ、今日は彼にとって始めての締切日。ずっと借りてきた猫のように固まったまま、この修羅場を見続けていたのだ。
「あ、じゃあ吉田くん、夜食買ってきて、夜食。さっちゃんと一緒に」
少し離れたテーブルで、角2封筒に貼り付ける伝票を書いていた女子大生が、はーいと手をあげた。
二人に千円札を三枚渡して見送ると、橋本はため息を着く。
雨宮ではないが、クソ忙しさがピークに達するこの3日間に、上司のハンドリングだけでなく、新人営業の教育まで手が回らない。
「さてと」橋本は意を決したように、仕事に戻った。
しばらくすると、さっちゃんと呼ばれていた女子大生アルバイト、伴田早智子と新人営業の吉田が戻ってきた。
早智子が自分の買い物袋を打ち合わせテーブルに広げ始めると、手の空いた社員たちが、好きなものを取りに集まってきた。
吉田の袋も受け取ると、早智子はテーブルに出す前に、5個で1パックになった乳清飲料水とチーカマを取り出し、吉田に渡した。
「吉田くん、これは橋本さんに直接渡してきて」
吉田は「はいっ」と忠犬のように、橋本のところにやってきた。
「ああ、ありがと」
橋本は、早智子がこの買い出しの短い時間に、吉田を手懐けたことを悟った。
さすが。やるわね、さっちゃん
橋本に目配せされて、早智子は違う違う、と目の前で手を振ったが、橋本はもう次の動きに移っていた。
編集長のデスクの隣にある密談コーナー、つまりパーテーションに隠された打ち合わせソファで、雨宮が休んでいる。
「雨宮さん、例のモノ、要りますか?」橋本が近づいてパーテーション越しに声を掛けた。雨宮は幼児が好んで飲む、5個で1パックになった乳清飲料水が手放せない。さっき握りつぶした一本で冷蔵庫にもストックがなくなったようで、今日は怒りが増幅していたのだ。
「ちょーだーい、安らぎのいっぽーーーーん」
編集長が、雨宮の熱を冷ますように、パタパタと仰いでいた。
尾山は、ちょうど早智子たちと入れ違いに帰ってきて、雨宮から最終チェックの原稿を渡され、仕事を始めていた。
雨宮のデスクを中心に、向かって左が編集長、右が主幹の尾山の席だ。
自分の席に戻る前に、橋本は尾山の前で立ち止まって、メモを渡した。
「尾山主幹に、昼間と先程お電話あり。相手は不明、男性。個人携帯に掛けても繋がらないとのこと」
尾山は、メモを読んで橋本を見上げる。
「ありがとう」
橋本は会釈をして席に帰っていった。
カラテ社員と、影の編集長
締切の夜から一週間が過ぎた。
毎月1日発行の来月号の作業はすべて終わり、冊子が納品されるまでの、この何日間かが、アーネイ編集部にとって一番穏やかな日々だ。
もちろん、既に次号の準備に動く者も居るが、そうでない者は、この時期を休日出勤の振替に使ったりして編集部は閑散とすることが多い。
そんな中、内勤OJT中の吉田は、暇だからといって休む訳にもいかず、ポツンと席に座っていた。
来月から営業OJTだから準備しとけ、と言われても・・・
「何すればいいか解んないしなぁ・・・」つい心の声が漏れてしまう。
吉田の後ろの島から、橋本が声をかけた。
「吉田くん、どうしたの?」
「いや、あと何日もしたら、営業OJTらしいんですけど、準備と言われても・・・」
橋本はガラ空きの営業の島を見て、なるほどと理解した。
「来月から、どう動くか聞かされないまま、放置されているわけだ。」
「まぁ、そんな感じです」吉田が情けない笑みを浮かべた。
「じゃあ、レクチャー兼ねて、ランチでもいく?。この精算終わったら私も半休にしようと思ってたから。」
吉田は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「ほんとですか! 行きます、行きます。あ、伴田先輩も一緒に行ってもらえますか?」
たまたま出勤していた早智子に吉田が声を掛けると「何で、私が」と早智子はそっぽを向いた。
だが、橋本がデスクの女性社員に電話番を頼んで、改めて「行けるよね?」と誘うと、早智子は諦めたように渋々付いてきた。
「隠れ家だから、オープンにはするな」と釘を刺された上で、橋本が連れてきてくれたのは、大通りとは逆方向の住宅街に差し掛かった、老夫婦が営む小さな洋食屋だった。
「吉田くん、アーネイにようこそ。そして内勤OJT卒業、おめでとう」橋本がペリエを掲げた。
「あざーっす。初めての食事会、嬉しいです」
満面の笑顔の吉田、微笑む橋本、そして無表情の早智子のグラスが、チンと音と立てた。
「ごめんね、そう言えばちゃんとした歓迎会とか、全然開いてもらってないでしょ?」
「いえ、あ、はい。実は」吉田はちょっと拗ねてみた。
「入社して、ただただ皆さんの邪魔をするばっかりなもんで、歓迎会もないのかと」
「いやいや、そういう訳ではないから」橋本が恐縮したのを見て、吉田が慌てて打ち消す。
「冗談です、大丈夫ですから。このひと月、皆さんの仕事、見てたら理解しましたから。ほんと締切の日以外は、バラバラで集まることってあんま、ないんですね」
「月イチの合同定例会議、月曜の各班進捗会議も集まってますよ。編集部には長居しないけど」
ペンネアラビアータを口に運びながら、早智子が補足する。
「そうなんですか?」
吉田はチキンピカタを切り分け、おかみさんが大盛りにしてくれたライスと一緒に頬張った。
「各班って言っても、営業メインの班と、編集を兼ねる人たちの2班しかないんだけどね。そもそも会社も一応フレックス勤務ということになってるし、一同に揃うのは稀ね」
吉田は食べながら、橋本の話を聞いた。
来月から吉田がどんな風に営業の仕事を学び、独り立ちするか、という流れを、橋本は解りやすくレクチャーしてくれた。
「どういう業種のお客さんを担当するかによって、稼働時間が違ってくるけど、定例の会議を除いたら自分でスケジュールを組めるようになるから、慣れれば何とかなるわよ」
「お客さんに広告出してもらうのって、大変そうですね」
「そうでもないですよ。」
ずっと黙って聞いていた早智子が、食い気味にツッコミを入れた。
「作業はともかく、営業することに関しては、ここは楽ですよ。所詮、御用聞きだから」
「さっちゃん」橋本がメッという顔をする。
せっかく、その部分を避けて説明したのに。
辛辣すぎた? と早智子は横目でチラと橋本を見た。
「え? 大変じゃないんですか? 伴田先輩、教えてくださいよ」
先日の買い出しに同行した時から、吉田はすっかり年下の早智子の後輩と化している。
「先輩、お願いしますよ、気になるじゃないですか」
「大変なポイントは、そこじゃないってこと。教えてあげた方が親切じゃないですか?」
早智子が橋本に進言する。
橋本もちょっと考える、吉田はまっすぐな目で見返してきた。
「うん・・・じゃあ、いずれ解ることだから、触りだけね。」
橋本の説明によると、このアーネイという媒体は、親会社の新聞社の求人欄や、折込にされていた求人広告チラシを、まとめて別刷りの冊子にしたのが始まりだ。
したがって営業が広告欄を埋めるために走り回る一般の媒体と違い、初めから「掲載するメンバーありき」で作られる冊子なのだ。
そして、そのクライアントは、新聞社の顧客や、繋がりのある企業や店舗でほぼ埋め尽くされ、アーネイ広告営業は新聞社の広告担当の代わりに、原稿を直したり、発行された冊子を届ける作業を代行しているに過ぎない。
それはある意味、ガツガツする必要の無い、恵まれた媒体とも言えるが、もう一方では「媒体(会社)としての主体性を持っていない」とも言える。
それはもちろん編集ページも同様で、巻頭の特集記事として紹介される新店舗や新サービスも、実は親会社である新聞社が、いつ、どのタイミングで、どの企業(店舗)の、何を載せるかまで、すべて指定してくる、というのだ。
「ええ!そうなんですか?」吉田は解りやすく驚いた。
「編集部が良いと思うから紹介してるんじゃ・・・」
「声がでかい」早智子が吉田の口にパンを突っ込んだ。
橋本もシッと指を立てる。
「言ったでしょ? 求人ページや折込チラシが母体だったって。」
「それって・・・情報タウン誌って言えるんですか? どっかの会社のパンフレットなんじゃないんですか」
吉田の鋭いツッコミに、おお、と早智子が目を光らせた。
「そーいうことを言わないの、吉田くん。いい?」
珍しく高圧的な橋本の勢いに、吉田はナフキンで口を拭き、膝に手を置く。
「会社としては、大事なポイントだからキチンと理解しておいて。」
「・・・」
「そもそも求人広告っていうのは、労働法に照らし合わせた掲載条件の厳しい規定があるの。だから必要な情報を正しく掲載したら、新聞の求人欄みたいな小さいスペースは、規定の掲載だけで終わっちゃうでしょ? でも企業や店舗からすれば、もっと会社やサービスの良さを伝えたいのよ、例え就職希望者でもね」
橋本の口調が、変化する。
「その点、アーネイの編集ページを使って頂ければ、その会社や店舗が、なぜ人を必要としているか、という根拠を、解りやすく説明してあげることが出来るんです。この街で、こーんなに素敵な新しい店舗や、新しいサービスが開始されるんですよ。この企業の、この事業はこーんなに将来性があるんですよ、だから、人手が必要なんですよって」
スラスラ話す橋本のフォークに、パスタがクルクルと巻かれていく。
パスタを巻きながらでも言える、テンプレートの営業トークなのだろう。
「だからアーネイの営業は新規をガツガツ取りに行く必要は無い代わりに、既存顧客の様子をちゃんと見守り続けていく必要があるの。求人したい、というニーズが出たら、その時の予算に併せて、新聞に掲載するのがいいか、編集ページで詳しく取り上げるのがいいのか、提案していくことなの。」
「どっちに掲載したとしても、親会社は損しないようになってますしね」
「さっちゃん、またぁ」
橋本の話の内容を、ゆっくり消化するように、吉田はしばらく黙っていた。
明らかに吉田のテンションが下がっていることに、早智子が先に気付いた。
「なんか、物凄くガッカリしてるように見えるけど」
吉田はちょっと口ごもった。
「なんかあの・・・そういうマスコミも在ることを、自分が知らなかったんで。・・・思ってたのと、ちょっと違うな、と」
「・・・そういうマスコミ?」これは、まずい流れか? と橋本は思った。
「自分、アーネイの求人見て、応募したんスよ。業種別ページの、マスコミ欄に載ってたもんで。てっきり本を出すのがメインの会社で、その為の資金集めが広告の営業だと思ってたんです。祭りの時の協賛金みたいな・・・」
三人の間に気まずい沈黙が垂れ込めた。
特に橋本は、バツの悪さを感じていた。
さっき自分が流れるようにまくしたてた「求人広告っていうのは、労働法に照らし合わせた掲載条件の厳しい規定があるの」の言葉を思い返したからだ。
誤認誘導。
サイアクの四文字が浮かんだが、それを慌てて打ち消した。
決して嘘は掲載していない。
求人情報誌でアーネイのような会社を分類すると、業種はマスコミ・広告業界となる。デザイン会社やコンテンツ制作、もっと言うなら、他の媒体では写真館までマスコミ業種に入れたりもする。
また、アーネイは毎月出している求人広告情報誌以外にも、数は少ないにしろ出版物を発行した実績が有るには、ある。
とはいえ、吉田の言葉は痛い。
「思ってたのとは、違いました」
はアーネイだけではなく、人手不足に悩む企業では辞めていく人間から発せられる一番多い理由だったからだ。
アーネイの新入社員にとって、締切の修羅場体験がの第一関門とすれば、外回りは、今後やっていけるかどうか、自問自答する時間を与えてしまう第二関門である。
それを前に、少しでもフォローになれば、と思ったのに・・・この状態から、どう展開したらいいものか・・・
隣で解りやすく悩んでいる橋本を察して、早智子が沈黙を破った。
「アーネイが、思ってたようなマスコミの会社じゃなかったら、吉田さんは辞めるんですか?」
さっちゃん、直球!
橋本の血の気が引いたが、予想に反して吉田は打ち返して来た。
「いや、辞めません。本作りがメインにしろ、宣伝がメインにしろ、自分は広告もらってくればいいんですし。それに」
吉田は二人を見て、ニヤッと笑った。
「とりあえず実家には、マスコミ で、言い通せなくもないですから」
意外。こいつ、なかなか骨あるじゃん、と早智子は思った。
「実家? どこなの」。
「俺は、鳥取です。」
早智子のタメ口に橋本が反応したが、吉田はあっさり受け入れている。
「鳥取なんだ、どうして福岡へ?」
「自分、中学、高校と空手に熱中してたから、勉強好きじゃなくて。でも、親がどうしても学校行けって言うから、こっちの専門(学校)入ったんです」
珍しく早智子が真正面から吉田を見つめ、まるで面接官のようにフムフムと頷いている。
明らかに話の流れが変わった。
橋本はとりあえず、危機から開放されたことに安堵していた。
「その後、一旦就職したんですけど性に合わなくて。フリーターみたいなことしてるうちに、プラプラしてるなら実家に戻れって言われて、それで就職。」
「マスコミの業種を探した理由は?」
「マスコミで就職したって言えば、親もマトモに働いてるって思うかと思って」
「親を黙らせるために、か。よっぽど帰りたくないんだな」
早智子が初めて吉田に笑顔を見せた。
吉田もつい嬉しくなって笑顔を返した。
「はい、帰りません。伴田先輩にも出会えましたし」
「調子に乗んな」
早智子がツッコミを入れた瞬間、テーブル裏返して置いてあったスマホが振動した。
名前を確認すると、早智子は真顔で橋本の目を見る。
橋本も知っている人物からなのか、橋本は即座に電話に出るよう促した。
「わたし、ちょっと失礼します」
「わかった。」
橋本の言葉に手を挙げて合図した早智子が、店の外に出て、誰かと話しながら視界から消えた。
「あ、吉田くんはゆっくり食べてて」
「いや、はい。もう、ごちそうさまです。」
「そう?」橋本はデザートのメニューを吉田に見せる。
「あ、自分はコーヒーだけで。それより、聞いていいですか?」
「なに?」今度は何を、とギクリとする橋本。
「橋本さんと伴田先輩って、長いんですか?」
「長い?」
「なんか、あうんの呼吸というか。二人とも博多弁出ないし、ご出身が同じとか」
「ああ」橋本がホッとして笑った。
おかみさんにデザートと飲み物を注文し、橋本はようやくいつもの落ち着きを取り戻していた。
「さっちゃんと私は幼い頃からの知り合い。お互いの祖父がジッコンの関係? とかいうやつよ。出身は二人ともナイショ、九州人ではないことは確かね。」
「血は繋がってないんですか?」
「直接は繋がって無いけど、ほぼ親戚みたいな仲かな。でも、どうしてそう思ったの?」
「なんか、二人ともタダモンじゃない感じ、します」
橋本が声を出して笑った。
「いや、ほんとっス。特にあの伴田先輩って、二十歳って言ってたけど、そんじょそこらの二十歳じゃないですよ」
吉田は締切の日に行った、早智子との買い出しを語りだした。
何も指示されずに出ていったのに、時間帯や編集部の今後の動きを読んだ上で、必要なものを的確に用意していく様子。
コンビニ全体を一度見回しただけで、レジの二人の能力から他の客の状況まで把握して、領収書を誰に作らせればいいか、瞬時に判断したことまで。
「橋本さんはもちろんご存知だと思いますが、あのひとは凄いです。自分は伴田さんに弟子にしてください、って言ったんですが『「弟子とか、舎弟とか絶対言うな』って言われたんで、後輩と名乗ることにしたんです」
橋本は笑いすぎて涙を拭いていた。
「並々ならぬ心酔ぶりね、吉田くん、さっちゃんより年上でしょう?」
「4つ上です。でも年は関係無いです。すごい人は凄いんです。」
ちょっとこの子、思ったより見どころあるかも。橋本も、吉田を見直していた。
「橋本さんも凄いです。と、いうか、感謝してます。正直に話してくれて。だから、正直ついでに、教えてもらえますか」
「え、まだあったの?」
「雨宮さん、副編集長のパワハラについてです。」
あ、そこに来たか。
確かにあの締切の夜を、初めて見たこの子にとっては、雨宮はそう映っただろう。
橋本は、アーネイの実情を吉田に話し始めた。
広告はもちろんのこと、編集ページの企画対象や取りあげ方など、アーネイの全ての編集権が、アーネイ編集長ではなく、新聞社の広告部にあることは、さっき話した。
「その広告部の中に、アーネイの創設を唱えた人が居て、その人のことをみんな『影の編集長』とかカゲヘンとか呼んでる」
「影の編集長まで居るんですか・・・」
「で、ウチで唯一、影の編集長と実質的に仕事をしている人が、雨宮さんなの。」
「て、ことは那須田編集長とか、尾山主幹とかは?」
「表向きはあの二人が雨宮さんの上司だけれど、本当の上司は影の編集長で、那須田さんと尾山主幹は完全にお飾りよ。広告部の人なんかは『何かあった時の首切り要員』って陰口叩く人もいるくらい。」
吉田が眉をひそめた。
「影の編集長が指示した規制の中で、出来るだけアーネイの主体性や独自性を表現しようと努力しているのは、雨宮さんだけ。
彼女が一人だけでアーネイを守ろうと、影の編集長に対して説得したり、交渉している人なの。
みんなも頼りにしている分、彼女のストレスの大きさが解ってる。
だから忙しい時に多少、ストレス発散で暴れたとしても、仕方ないと思って見逃しているのかな。
悪い人で無いことは、吉田くんも解ってあげてほしいな」
「・・・なるほど、そういう理由があったんですね。」
すいません、と吉田が頭を下げる。
「いいのよ。初めて見たら、驚くのは当たり前だから」橋本は胸をなでおろした。
これが東京なら、こんな釈明では済まないだろう。吉田が空手マンだったことも助かった。
「・・・でも、その上の二人ですけど」
言うか言うまいか、迷いながらも吉田が苛立ちを滲ませる。
「二人?」
「編集長と、尾山主幹っスよ。卑怯っていうか、だらしないっていうか。なんで、雨宮さんに嫌な役目を押し付けてるんですか? 雨宮さんより高い給料もらってるハズの二人があんなじゃ・・・」
「上の二人には、アーネイから給料は出てないわよ」
「え?」
吉田にはどういうことか、意味がわからなかった。
「二人とも、株式会社アーネイの所属では無くて、出向組なの。」
「シュッコウ?」
「簡単に言うと、元の会社に在籍したまま、違う会社で働くことよ。那須田編集長は、新聞社の福岡支局からの出向、お給料は福岡支局から出てるわ。定年までの腰掛けみたいなもの?」
「じゃあ尾山主幹も? でも、まだ40代ですよね」
「尾山主幹も出向の扱いだけど・・・那須田さんとは少し立場が違う。まだ籍は大阪本社のはずよ」
「大阪本社? って・・・」
「彼は大阪本社、社会部のエース記者『だった』人」
「エース記者? あの尾山主幹が」
吉田は、締切の夜に初めて見た、尾山の姿を思い返した。
編集部の隅っこにある小さな自分のデスクで、原稿に目を通しては、黙々とハンコを押している40代半ばの冴えないオジサン。
あのひとが、エース記者 だった 人。
橋本も、すっかり冷めてしまったポットからカップに紅茶を注ぎながら、自分の発した言葉の苦さを感じていた。
エース記者『だった』人、か・・・
そんな時、編集部で留守番をしているデスクの女性から、困った様子の電話が入った。
「橋本さん、尾山さん宛に来客なんですけど、ちょっとあの・・・・戻って来てもらえませんか?」
穢れた土俵・記者編