H・I・バー灯台の竜灯(エィチ・アイ・バーとうだいのりゅうとう)
1
ポール・ヴィショップは、小さな灯台員でした。
日本で言う中学生くらいでしたから。
しかも、なりたての新米で、けさからここ、H・I・バー有人灯台に来たばかりです。
1932年のこのころ、アメリカの景気(けいき)は底値(そこね)、ホームレスは街にあふれていました。
ポールも子供のころはプール付きの中流家庭だったのに、今はフーヴァー村と呼ばれるバラック住まいです。
お父さんはけんめいに仕事をさがすものの、失業者だらけの社会ではうまく行きません。
家計を助けるためにポールも働かなくてはいけませんでした。
このお話は、そんな彼が体験(たいけん)したちょっと不気味で、少し悲しい物語です。
2
潮風(しおかぜ)、波音、遠い汽笛、板壁(いたかべ)のきしむ音、夜気(やき)に土台の鉄柱が鳴るハンマー音。
H・Iバー灯台は、メリーランド州チェサピーク湾の岩礁(がんしょう)に、スクリュー・パイル工法で建てられた六角形の小さなものです。
波を防ぐ高い鉄骨にささえられた外廊下(そとろうか)のある居住区と、その上に高くつき出た灯台部。
常駐(じょうちゅう)する2名で、湾内の灯台船をのぞく灯台や、ブイの点検管理(てんけんかんり)をするのです。
このころには電波による航路標識(こうろひょうしき)もできていましたから、その整備(せいび)もありました。
街中(まちなか)で育ったポールにとって、足元が常にうねり動いている海は、あまり好きにはなれませんでした。
なんとなくこわいのです。
それでも文句は言えません。
かべに作られた棚(たな)のようなベッドで、一生けんめい、毛布をひっかぶってねようとしても、ウトウトするだけで目ざめてしまいます。
仲のいい両親のいる、そまつでも暖かい自分の家が思い出されて涙が出そうです。
ちょっとホーム・シックになりかけた時でした。
おどしつけるようにヒョーヒョー鳴る風音に混じって、なにかワメき声がするのです。
まちがいなく人の声です。
よっぱらいのけんかなどとは全くちがった、なにかけいかい心をかきたてるものです。
こわごわ、ドアを開けました。
潮風、波音、ワメき声が急に高まります。
ふくすうのせっぱつまった銃声。
なにかの破壊音(はかいおん)。
パパパパパッという、かるい連続音は機関銃(きかんじゅう)のトンプスン?
数マイル先の海上で何かが起きているのです。
マフィアの出入りでしょうか?
このころはもう、民衆(みんしゅう)は彼らを見限(みかぎ)りはじめていて、映画やドラマのような街中での抗争(こうそう)はありません。
やがて、絶望(ぜつぼう)の絶叫と神に祈る声。
ゾッと身の毛がよだちます。
「主任っ、起きてっ。なにか事件かもっ」
南側のドアに飛びつきました。
昼間のつかれで爆睡(ばくすい)しているのでしょうか?
反応がありません。
ちょっとためらいます。
うっかり起こすとドヤされる危険(きけん)があるからです。
再び、さっきの場所にもどります。
点在する灯台やブイの明かりの先の、少し煙(けむ)ったやみの中。
東から変な白波が猛スピードでやって来ます。
と、見る間に潜航(せんこう)して見えなくなりました。
潜水艦(せんすいかん)?
クジラ?
ポールのしょぞくする『合衆国灯台サービス』は、沿岸や海上・航路上で、なにか異変を見つけたら沿岸警備隊(えんがんけいびたい)に報告(ほうこく)しなければいけません。
やっぱり、ドアに飛びつきました。
「すみませんっ。ねえ、起きてっ」
「うっせぇっ、起きとるワ。ったく、クソもおちおちできんか…」
反対側の北トイレのドアが開きます。
「放っとけっ。この時間、東方向に航行・停泊(ていはく)の船はない。運航表を見ろっ、バカッ」
「でも、沈没(ちんぼつ)とかしてるみたいです。助けなきゃっ」
主任のドラコス・ワンダーが目を剥(む)きます。
「ヤクザだと言っとるっ。おおかた、禁制品の争奪(そうだつ)だろう。スコットランドの犬畜生(いぬしくしょう)とユダ公、イタ豚の三つ巴(みつどもえ)だ。かかわれば、いづれの組からもうらまれる」
そのままふり向きもしないで、自室のドアを閉めてしまいました。
取り付く島もない、というのはこのことです。
ポールはそのまま、だまって立ちつくすしかありません。
でも、おかしなことがあります。
ワンダー主任の髪(かみ)はペッタリと水にぬれていました。
こんな真夜中にわざわざ洗髪(せんぱつ)でしょうか?
3
ポールは回転(かいてん)する灯台灯の薄明(うすあ)かりの中で、またもや目をさましていました。
今夜もなにか音がするのです。
外ではなく、今度は部屋の中です。
もちろん、風に吹きつけられて建物がきしんだり、昼間との温度差で家鳴(やな)りがすることは知っています。
そんなことは気にしても仕方のないことはわかっています。
自分がねているわきの板壁(いたかべ)の中でしょうか?
それともやっぱり空中?
ひょっとしたら、ドラコス・ワンダー主任が、自室でずっとラジオをきいている?
六角形のH・I・バーは正三角形の集合体です。
各部屋も同様で、湾口(わんこう)に面した南はワンダー主任の部屋、ゲストルームをひとつおいて東にポール、次がキッチン。
そのとなりがシャワー室をかねた北トイレ、西に倉庫(そうこ)という形です。
倉庫には灯台灯に上がるはしごのような階段(かいだん)があります。
6個の同じ形の部屋が、真ん中の柱を中心に、ぐるりと東西南北を網羅(もうら)するのです。
まどはドアに小さい明かりとりのまど、両側に縦長(たてなが)のものがあって上下に開きます。
まぁ、現代のマンションでも音の伝わり方はそれぞれで、連日の怪奇音(かいきおん)が実はかなりはなれた別階(べっかい)の足音だった、なんていうのはよくあることです。
それでも気になってしまうのは、実はポールはこの部屋がきらいなのです。
いえ、気味が悪いのです。
東向きでまどが3つもある部屋です。
せまくても、こざっぱりと明るくて風通しがいいのに、これに文句を言うなんてとても許(ゆる)されないことです。
でも、ドアを閉めるとなにか閉じ込められたような圧迫感(あっぱくかん)と、目のはじでだれかがジッとのぞいているような変なけはいがするのです。
昼間は灯台やブイの点検修理(てんけんしゅうり)にいそがしく、部屋にいることはないのですが、夜、ねる時がいやでいやでたまりません。
最初はノートや紙がちらばるような音。
それから机や家具にぶつかるような響(ひび)き。
最後はなにかにおびえたような、にげまわるような、叫びのような声が、真夜中から丑三(うしみ)つ時まで延々(えんえん)とくりかえして止むのです。
はっきりしたものならまだしも、聞こえるか聞こえないかのような微(かす)かで、しかも気になりだしたらとまらないような神経(しんけい)にさわる音です。
これではねられません。
本来なら、ワンダー主任にすべてを話すべきです。
思いやりのある、人の話をきちんと聞いてくれる人なら、真相(しんそう)を突き止めようとするでしょう。
部屋を変えてくれるかもしれません。
でも、どうも望みうすです。
主任は背の高いしっかりした筋肉質(きんにくしつ)の、いかにも海の男でした。
声も大きく、自分の意思をきっぱりと伝えます。
体格や体質に恵まれた人の多くがそうであるように、この世の不思議なことはみんな気のせいか、精神(せいしん)の異常と考えてしまうのです。
こんなことを話したら、開口一番(かいこういちばん)に言うでしょう。
「バ~~~カッ」
4
早いものでH・I・バー灯台に来て10日になります。
ポールは部屋の真夜中の物音がどんなものか、だいたい把握(はあく)していました。
忍(しの)び足で外廊下(そとろうか)を通って、主任がラジオを聞いていないことを何度も確かめましたし、波音や風音(かざおと)、建物のきしみでもないことを、ちゃんと確認(かくにん)していました。
それからおそろしいことに、毎晩のせっぱつまった声が、きちん意味を持った言葉であることも…。
それはとぎれとぎれにこう言っていたのです。
「お、おまえだったのだな…罰(ばち)あたりめ…く、く、来るなっ…おそろしい…あああっ、神様っ…だれか、だれかっ、来てくれっ…助けて…ああ~…うわぁ、ああああ」
ああああ、でプッツリとぎれる叫びは、ポールにとっても総毛(そうけ)立つほどの恐怖(きょうふ)でした。
もう、わかります。
自分のこの部屋で、なにか事件があったのです。
それもおそらくは殺人でしょう。
ポールは最悪の幽霊部屋(ゆうれいべや)をあてがわれてしまったのです。
目のはじでのぞきこむのは叫びの主です。
ドアを閉めると押さえつけられるようにこわいのは、幽霊と2人きりになったからでしょう。
もう、頭をかかえてしまいました。
それでも、主任に報告(ほうこく)するのはためらわれるのです。
ワンダー主任にはだまっていたい、この思いがひしひしと強まるのです。
4日後には、ここに来て初めての日曜休暇(にちようきゅうか)がもらえます。
ポールも主任に連れられて、一番近い港町ボルティモアに行くことになっています。
ボルティモアはみなさんもご存じの、ワシントンDCの北東の街です。
目的は朝のお祈りなのですが、そのあとは夜の22時ころまでなら、自由に街を見て回っていいのです。
週に一度の休みですから、夕方には交代の人がきて、灯台の灯はちゃんとともしてくれます。
このころは長持ちのするハロゲン電球が採用(さいよう)されていましたが、まだ、自動化はされていなかったからです。
ポールはあることを決意しました。
そして辛抱(しんぼう)強く日曜日を待ったのです。
5
ボルティモア教会での礼拝(れいはい)が終わると、ワンダー主任はさっそく行きつけの喫茶店(きっさてん)『神様の喫茶室』に転(ころ)げこみたがります。
それでもポールが図書館に行きたいとたのむと、ちょっと眉(まゆ)をしかめましたがついて来てくれました。
マフィアが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するような危険な街に、中学生くらいの少年をひとりで置いておくわけにはいかないからです。
この街はざんねんながら、現在でも危険ワースト6に入っています。
意外なことに主任は、自分も小難(こむずか)しい背表紙の並ぶ奥まったところで、本を物色(ぶっしょく)しはじめました。
こんなこと願ってもありません。
急いで新聞コーナーに走ったポールは熱心に新聞をあさります。
ありました。
すぐに見つかったのは、事件が去年の出来事だったからです。
あらましはこんなものでした。
1931年、3月11日。
日の暮れがたのことです。
今は台風でこわれてありませんが、以前はH・Iバー灯台の近くにもうひとつ有人灯台があったのです。
同じ『合衆国灯台サービス』の技師(ぎし)で、友人でもあるヘンリー・スターリングさんは、H・Iバーに灯台灯がついていないのを見つけ、警察に通報(つうほう)しました。
警官とともに行ってみると、作業用の小舟もなく、いるはずの灯台員2人の返事がないのです。
ひとりはウルマン・オーウェンズさん、もうひとりはドラコス・ワンダー主任です。
東のドアを開けると、部屋中に本やノート・紙がちらばり、机やいすや戸棚(とだな)などの家具はひっくり返ってひどいありさまです。
そしてその真ん中にはオーウェンズさん自身が大の字に倒れていたのです。
壁(かべ)には血のあと、遺体のそばには血のついたナイフが落ちていました。
すわ、殺人事件ということで捜査局(そうさきょく)は真っ先にワンダー主任をうたがいます。
でも、主任にはしっかりとしたアリバイがありました。
その日は知人の結婚披露宴(けっこんひろうえん)に出席のため、作業ボートに乗ってルスだったのです。
披露宴ですから、目撃者(もくげきしゃ)も多数います。
しかもこのことは、事件の前の2人の日誌(にっし)に、予定としてきちんと書きこんでありました。
無実はあっという間に晴れたのです。
次にうたがわれたのは、暗躍(あんやく)しているマフィアです。
禁酒法時代ですから、酒・たばこ・麻薬(まやく)の密輸(みつゆ)が横行しています。
警察や沿岸警備隊の目のとどきにくい湾上での取引は、いつものことだったのです。
捜査局(そうさきょく)は、その取引を見てしまったために消されたのだろうと考えました。
いかにもありそうなことです。
『合衆国灯台サービス』の社員は、そうしたことを通報しなければいけない規則(きそく)になっていましたから。
それでも驚(おどろ)いたことに、検視官(けんしかん)が遺体(いたい)を調べたことで、またまた捜査はくつがえされました。
オーウェンズさんの体にはアザがひとつあっただけで、ナイフの傷(きず)あとすらなかったのです。
医師は彼が、脳梗塞(のうこうそく)か、心臓発作(しんぞうほっさ)で病死したものだろうと診断(しんだん)しました。
そのために部屋が荒れていたのだろうと。
両方ともとても苦しい死に方で、気絶(きぜつ)できれば幸い、できない人はジタバタとしばらくあばれるからです。
では、壁(かべ)の血やナイフの血痕(けっこん)はどうなのでしょう?
検視官はそれも本人のものであり、苦しまぎれにあやまってぶつけた鼻血だろうと解釈(かいしゃく)しました。
落ちていたナイフが不思議でしたが、アメリカではえんぴつをけずったり、ちょっとしたものを切ったりと、日常的に便利に利用します。
新聞記事でも問題になってはいませんでした。
事件性はなかったのです。
6
ポールはこうしたことをしっかりと頭に入れて、主任のところに帰りました。
ワンダー主任はさっそく、自分の目的である喫茶店(きっさてん)に向かいます。
でも、この当時、『喫茶室』というのは、もぐりの飲(の)み屋のことなのです。
隠語(いんご)でスピーク・イージーとも言われていました。
合衆国政府が禁酒法で、お酒の製造販売(せいぞうはんばい)や所持(しょじ)、輸出入を禁止しています。
おおっぴらには営業できません。
そこでちょっとしたトリックでごまかしていたのです。
メニューの『ムーンシャイン・ティー』は密造酒(みつぞうしゅ)で『フット・ジュース』は安ワインのことです。
ウイスキーなどのハードリカーを飲みたければ『ジャグ・ジュース』と言わなければいけません。
きわめつけは壁の引き出し。
秘密の厨房(ちゅうぼう)につうじていて、そこからお酒が出てくるのです。
お店にいる従業員(じゅうぎょういん)の女の人の多くは、男の人の相手をします。
「あら、ぼくちゃん、新入りの灯台守(とうだいもり)?」
ドラコス・ワンダー主任にお酒を持ってきた人が声をかけてきました。
「あっ、あ、あの、はじめまして。ポール・ヴィショップです」
初めてのお店の雰囲気(ふんいき)にすっかりのまれて、とぎまぎと返事をします。
「まぁ、かわいい監督(かんとく)さん」
女の人はピューリタンなのでしょう。
新教徒の人にとってヴィショップ(司教=しきょう)は監督の意味なのです。
「メアリ、なんでも飲んでくれ。空腹なら食ってくれ。このボウズにもなにか取ってやって、ついでに飽(あ)きさせなきゃ、チップはずむぜ」
そう言って主任はさっさと知り合いの席に行ってしまいます。
海の安全を守る灯台守は船乗りたちに好かれていて、みんながおごってくれるのです。
メアリさんが気を利かしてミルク・ティーを運んできます。
本物のティーで、チョコチップの入った大きくてかたいクッキーかそえられています。
おそいお昼のかわりです。
「あ、ありがとう。…で、あの、あのぅ」
ポールがおずおずと言葉をかけます。
「なぁに?」
「ええとぉ、その、え、H・I・バー灯台殺人事件のこと、知ってます?」
「え?ああ~、ドラコスさんから聞いたの?知ってるわよぅ。忘(わす)れもしないわ。あの時、知り合いの披露宴(ひろうえん)でね、あなたの主任さんもいっしょだった。そのルスに起きたのよ。気の毒に…。なにかの発作(ほっさ)だったっていうけど謎(なぞ)が多いの」
「え?謎?謎って?」
思わず身を乗り出すと、メアリさんはわらいます。
「こんな話に興味(きょうみ)あるの?…まぁ、そうよねぇ、自分の灯台のことですものね。じゃあ、え~とね、謎って言うのはね、亡くなったウルマン・オーウェンズさんのかたわらに落ちていたナイフについていた血、人間の物じゃないんだって。もちろん、魚とか動物でもなくて、なにか得体(えたい)の知れないものだって。ね?謎でしょ」
「…じゃあ、オーウェンズさんはそれと戦ったってこと?」
「う~ん、真相(しんそう)を知ってるのはご本人だけね。それに謎はまだあるわ。まぁ、これはわたしとドラコスさんとの間のことなんだけど、彼、毎週礼拝の後に飲みに来てくれるのよ。でも2ヵ月にいち度くらいは途中(とちゅう)でどこかに行ってしまうの。帰って来ると髪(かみ)がぬれてるのよ。あの人、とび色の髪でしょ。ぬれると黒くなってすぐわかるの。事件のあった披露宴(ひろうえん)の日なんか、会場にきた時からぬれてたわ。どこでなにをしてるのかしら」
「え…。ぬれてる?髪が?」
ポールは息をのみます。
H・I・バー灯台での最初の夜に、トイレからでてきたドラコス・ワンダー主任の髪。
ヤクザの抗争(こうそう)にはかかわるな、と言ってドアを閉めたあの時の髪も確かにぬれていたような…。
7
気の毒なウルマン・オーウェンズさんについては、まだ後日談(ごじつだん)がありました。
同じ1931年に当局は、H・I・バー灯台の北にあるテイラーズ・アイランドで、大規模(だいきぼ)な密造酒組織(みつぞうしゅそしき)を一網打尽(いちもうだじん)にしました。
これは大手柄(おおてがら)です。
そのおり、捨て台詞(すてぜりふ)でしょうか?
組員がこう嘯(うそぶ)いたのです。
『けっ、灯台守と同じ目に合わせてやるぜ』
『なんだって?』
捜査官が気色(けしき)ばむと、相手はたちまち口をつぐみました。
『いや、何でもない…』
これを受けて、警察組織はオーウェンズさんの遺族(いぞく)に頼みこみ、墓(はか)を暴(あば)いて遺体の解剖(かいぼう)に着手しました。
キリスト教は宗教上の理由から、土葬(どそう)だからです。
結局、組員の言った言葉のうら付けは取れませんでした。
検視(けんし)の結果は、頭蓋骨(ずがいこつ)に骨折があるものの、直接の死因は心臓肥大(しんぞうひだい)による心停止ということでしたから。
やっぱり、病死という結果だったのです。
世間の人々はまあまあ、これで納得(なっとく)したようでした。
でも、疑問(ぎもん)は残ります。
ポール・ヴィショップの部屋で、いえ、去年はオーウェンズさんの部屋ですが、そこで毎晩、夜中にくり返されている事件の再現は、とても病死には思えません。
それに陰(かげ)でささやかれている、人間ではないナイフの血の謎(なぞ)。
オーウェンズさんはきっと心臓発作(しんぞうほっさ)でショック死するくらいの、なにか異様(いよう)なもの、おそろしいものを見たのではないでしょうか?
8
月日は過ぎて行きます。
ポールは、毎晩の物音にもあまりこわがらなくなりました。
慣(な)れたというより、気の毒なオーウェンズさんに同情しながらも、灯台守の一員としての自覚に目ざめたのです。
海の安全を守るために夜はしっかりねむる決心をしたのです。
そう思うと、幽霊(ゆうれい)にもつうじたのでしょうか?
物音はやがて止んでしまいました。
そのかわり、それと入れかわるように薄気味(うすきみ)の悪い事件がおきたのです。
ボルティモアの街の岸壁(がんぺき)には、いろいろな倉庫(そうこ)がたくさんならんでいます。
その中の、とりわけ古い廃墟(はいきょ)のようなひとつで、なんと、食い荒らされた複数(ふくすう)の人間の死体が発見されたのです。
まだまだ新しいもので、胴体(どうたい)が骨ばかりだったり、手足や頭がなかったりと、惨憺(さんたん)たるありさまです。
するどい牙(きば)でかみくだかれていて、なにか凶暴(きょうぼう)で大きな動物のしわざに見えました。
そして食われた全員が、そこで闇取引していたマフィアの組員であることも判明(はんめい)したのです。
たちまち、街中をおそろしいウワサがかけめぐります。
「シー・サーペント」。
海竜(かいりゅう)という、海の化け物が犯人だというのです。
このメリーランド州チェサピーク湾には昔から蛇(へび)のような体に手足がついた、ちょうど日本の龍(りゅう)のような生き物がいるという話があります。
もとはといえば、湾の北方に住むサスケハナ・インディアンの伝説(でんせつ)です。
長さは3~10メートルほどもあるといいますが、はっきりしません。
大きさは自由に変わるらしいのです。
アメリカではマサチューセッツ洲のアン岬(みさき)でも同じようなシー・サーペントの話があります。
でも、アン岬の海竜が縦(たて)に体をくねらせるのに対(たい)し、チェサピーク湾のものは蛇そっくりに横にうねるのです。
ですから、巨大な爬虫類(はちゅうるい)ではないかと言う人もいます。
そんなこんなで、チェサピークから取った『チェッシー』という、かわいらしい名前もついています。
これは近年になっても目撃談(もくげきだん)があるからで、学者の中でも太古の生物の生き残りとして、存在(そんざい)を信じる人もいるくらいです。
なぜかというと、この湾の入り口には3,500万年前に小惑星(しょうわくせい)が衝突(しょうとつ)していて、直径90キロもの穴があるのです。
その影響(えいきょう)で海が深くなり、恐竜時代にいたといわれるモササウルスやバシロサウルスの生存(せいぞん)の環境条件(かんきょうじょうけん)が整えられたのでは、と考えられているのです。
なんだか夢のような話ですが、街の人にとっては、この海竜の存在がにわかに信憑性(しんぴょうせい)の高いものになったのです。
「シー・サーペントは絶対にいる。しかも陸に上がれるんだ」
人々は声をひそめて、そう言いあいました。
9
ドラコス・ワンダー主任とポールは、今日もブイの修理(しゅうり)にいそしんでいます。
風がなく、波静かな日は、斜(なな)めになって沈(しず)みそうなブイをさがしだして、たくさんついている貝やフジツボをけずり落さなくてはいけません。
ゆれる小舟の上で、海に落ちる危険もあるなかなかの重労働(じゅうろうどう)です。
主任はとても機敏(きびん)な人で、慎重(しんちょう)にすばやく、安全に仕事を進めます。
その手際(てぎわ)の良さはほれぼれするくらいで、ポールは今ではワンダー主任をとても尊敬(そんけい)していました。
最初のうちこそ、とっつきにくくてこわかったのですが、主任の電気や電波技師としての技術や知識(ちしき)もすばらしいのだったからです。
おまけに灯台守は気象(きしょう)を観測(かんそく)したり、予測(よそく)したりして、記録を取ったり報告したりするのですが、それがよく当たるのです。
とくに霧(きり)の発生など、主任が霧笛(むてき)の準備をはじめると必ず濃霧(のうむ)になるのです。
それらをまのあたりにするうちに、自分も早くそうなりたいと、一生いっしょうけんめい努力するようになりました。
主任もすぐにその気持ちをわかってくれて、熱心にていねいに教えてくれます。
ポールにとって忙しい中にも、とても楽しい毎日でした。
そんなある夜中のことでした。
ポールはトイレの帰りに、いつものように海を見わたしていました。
自分たちの担当(たんとう)する、慣(な)れ親しんだ海が、とても好きになっていたからです。
暗い波間がやみにかすむ遠くから、なにかが白い波頭(なみがしら)を立ててやって来ます。
真南からで、もうれつなスピード。
ポールはここにやってきた晩にも、同じ光景を見たことを思い出しました。
あの時は船の沈む音や人の叫び声で、少しばかりこわい思いをしたのです。
今度は幸いなことにそういう音は聞こえません。
ちょっと安心してジッと見つめるうちに、それは見えなくなりました。
おおかた、アメリカ海軍のナーワル級潜水艦(せんすいかん)でしょう。
1930年に作られていて、大型でとてもりっぱなのです。
東側の自室に帰ろうと目を離(はな)した時でした。
いきなり海の中からなにかが上がって来る、ザバァッという音が響(ひびき)きます。
ポールは何気なく振り向いて、
「キャアァッ」
と言ったきりこしをぬかしてしまいました。
こわくてこわくて、外廊下(そとろうか)にたおれこんだまま両手で頭をしっかりかかえて、床にぺったりとひれ伏します。
ドタドタとなにかが近付いて来ます。
体をこれ以上小さくならないくらいに縮(ちぢ)めて、神様に祈ります。
「なにやってる?」
不思議そうな声にハッとわれにかえりました。
ワンダー主任がのぞきこんでいます。
悲鳴(ひめい)を聞いて、部屋から出てきたのでしょう。
ペンキをあつくぬった手すりの間から見える海にはなにもいません。
いつもの通りです。
「なんだ、夢でも見たのか。ガキんちょだなぁ」
そう言われて、ポール・ヴィショップはとても恥(は)ずかしくなりました。
とてつもなく大きくて長い影(かげ)のようなものを見た気がしたのですが、確証(かくしょう)はありません。
なにかを見まちがえて、ひとりで怖がっていたのならバカみたいです。
「あ、ごめんなさい。お休みなさい」
真っ赤になってそう言うなり、急いで自分の部屋にかけこみました。
そして、主任の頭がぬれていたかを確かめるのを、忘(わす)れてしまったのです。
10
ポールは夢を見ていました。
きっと、オーウェンズさんの幽霊のしわざでしょう。
日の暮(く)れる前の明るい海が見えました。
H・I・バー灯台からの、いつもの平和な風景です。
ウルマン・オーウェンズさんが自室から出てきました。
新聞で見た顔にそっくりでしたから、まちがいなく本人です。
今日は海面にもやがたちこめはじめたので、いつもより早めに灯台灯をともそうと考えたようです。
やはり灯台守のくせで、海を見わたします。
はるか遠くからずうっと近くまで目をうつして、ギョッとしました。
もやにまぎれて、わけのわからない青黒い灰色の生き物が、灯台をささえる岩場にズルズルとはい上がったのです。
とてつもなく巨大で、日本の龍(りゅう)そっくりに見えましたが、せいぜい10メートルくらいでしょう。
それでも、こんなものをいきなり見ればだれだって仰天(ぎょうてん)します。
オーウェンズさんは特にそうでした。
と、言うのは、街のみんなが半信半疑(はんしんはんぎ)のうちから、シー・サーペントの存在を堅(かたく)信じていたからです。
あれはいつだったでしょう?
ブイの点検修理(てんけんしゅうり)の時でした。
波間に白いセルロイドのおもちゃのようなものがういています。
目をこらしてよく見ると、なんと人間の手。
肩(かた)のあたりから下で、手首には小型(こがた)リボルヴァーをにぎったままです。
この手の主はきっと、ものすごくこわかったのでしょう。
人間はあまりにおそろしいと筋肉がこわばって、持ったものを手放せなくなるのです。
そして、マフィアの組員であることもわかります。
銃身の短いリボルヴァーは便利にかくし持てるので、彼らに人気があったからです。
本当は通報しなくてはいけないのに、オーウェンズさんは目をそらしてしまいました。
実は、以前にも人間の一部を思わせる、あやしい肉片を見たことがあったからです。
その時のものと同じように、強くするどい歯でかみ切られたのがわかりました。
このメリーランド州チェサピーク湾にはサメはいません。
こんなことができるのは伝説の化け物しかいないのです。
その化け物が、いきなり自分のいる灯台の真下に現れたのです。
ウルマン・オーウェンズさんはどれほどおそろしかったでしょう。
それでも必死(ひっし)に目をこらしました。
見まちがいだと思ったのです。
その結果、さらにおそろしいものを見てしまったのです。
シー・サーペントがなんと、人の姿(すがた)に変わったのです。
ほんの一瞬(いっしゅん)でした。
オーウェンズさんはちょっとの間だけ、自分の目をうたがうようにパチパチまばたきしました。
そして、目の前の情景がまちがいないと悟(さと)ると、わなわなふるえながら、
「ワンダーさんっ、来てくれっ」
と、叫ぶや、自室に飛びこんだのです。
そのあとの光景(こうけい)は本当にびっくりするものでした。
オーウェンズさんはドアにかくれて、なにも知らずに入ってくるドラコス・ワンダー主任をいきなり、ナイフで刺(さ)したのです。
きっと一撃(いちげき)で倒(たお)すつもりだったのでしょう。
夢の中だとわかっているのに、ポールの体はおそろしさでガタガタとふるえます。
でも、主任、いえ、シー・サーペントにはあまり効果がないようでした。
「お、おまえだったのだな…罰(ばち)あたりめ」
ののしられて、ワンダー主任は悲しげに首をたれました。
そしてふたたび、竜の本来の姿を現したのです。
せまい部屋です。
10メートルくらいあった体は人間ほどに小さくちぢみました。
もう、これ以上、友達のオーウェンスさんをこわがらせたくなかったのかも知れません。
動物は人間以上に、自分の心の悲しみを全身で表すことがあります。
この時のシー・サーペントがそうでした。
ウルマン・オーウェンズさんとドラコス・ワンダー主任とは仲の良い相棒(あいぼう)でした。
よく気も合って、二人で力を合わせて、このH・I・バー灯台と海を守りぬいてきたのです。
それでも、オーウェンズさんは、ワンダー主任が人間でないというだけで、今まで築(きず)いてきた友情をふりすててしまったのです。
ぬれたたて髪のしずくが涙のようにキラキラかがやいていました。
竜のようすを見れば、危害(きがい)をくわえる気なんかないことは明白です。
竜はとてもつらく悲しそうでしたが、それでも信頼(しんらい)にみちた目を向けていましたから。
それを見ても、オーウェンズさんの心と態度(たいど)は変わりませんでした。
「…く、く、来るなっ…おそろしい」
恐怖(きょうふ)と憎(にく)しみにするどくとがった声で、冷たくそう言い放ったのです。
竜はほとんど倒(たお)れるのではないかと思うほど、力を失ってふるえました。
そしてズルルッとよろめいて、頭をかかえるような動作をしたのです。
その姿は、シー・サーペントが人間と同じ心を持っていることを示していました。
「あああっ、神様っ」
オーウェンズさんのほうが、まるで人の心を持たないかのようでした。
叫びながら、部屋中の物を竜にめちゃくちゃに投げつけてきます。
「…だれか、だれかっ、来てくれっ」
その自分の声で、さらにおびえるのです。
きっとおそれのあまり、少し気がおかしくなってしまったのでしょう。
もう、こうなっては例(たと)え神様でも、オーウェンズさんをとめることは不可能(ふかのう)に見えます。
今にも食われてしまうのでは、という疑(うたが)いに心を支配(しはい)されて、冷静(れいせい)に正しい判断(はんだん)ができなくなっているのです。
「…助けて…ああ~…うわぁ」
オーウェンズさんは手足を振り回してひたすら荒(あ)れ狂い、ついに紙の束(たば)をふみつけます。
ズルッとすべって、はげしく壁(かべ)に顔をぶつけ、はずみであおむけに倒(たお)れて頭をひどく打ちつけます。
「ああああ」
悲しいことに、そのまま心臓マヒをおこしてしまったのでした。
警察は初動捜査(しょどうそうさ)をまちがえていました。
事件はドラコス・ワンダー主任のルスに起きたのではなかったのです。
主任はこの思いもよらない別れの後、人間の姿になり、小舟ですぐに披露宴会場に向かったのです。
そのため、メアリさんが言うように髪がかわききっていなかったのでしょう。
ポールは心底おびえながら目覚(めざ)めました。
オーウェンズさんの幽霊(ゆうれい)は、自分の身に起こったことをそっくりそのまま再現(さいげん)して見せたのです。
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もう、ねむるどころではありません。
これでわかりました。
2度も見た海の白波、あれは見まちがいでも潜水艦でもないのです。
街の人が蛇に手足がついたような竜、とウワサする「シー・サーペント」そのものでしょう。
そして、その生き物は人間の姿(すがた)になれるのです。
人間に化けて、人のふりをして、この灯台に住みついているのです。
ポールはこわいよりも、むしろ混乱(こんらん)しました。
でも、ある種の魚類やこん虫はたくみに別の物に擬態(ぎたい)したり、相手の脳(のう)を狂わせて、自分の思うようにあやつったりします。
人間社会では昔から悪い人を、人間の皮をかぶったオオカミ、などという言ったりします。
これは例(たと)えですが、それが本当でない証拠(しょうこ)などどこにもありません。
未知(みち)の生物であるシー・サーペントは、人間が思いもよらないような能力(のうりょく)をそなえているかも知れないのです。
いろいろ考えてしまって、目がさえているうちに朝になりました。
朝食を作るのはポールのいつもの役目です。
トーストにカリカリベーコン。
たまねぎ、じゃがいも、にんじんのいためものを少し。
それにミルクたっぷりのコーヒー。
ドラコス・ワンダー主任は、これらをおいしそうに平らげます。
いつもとちっとも変りません。
どう見ても人間です。
もちろん、髪もぬれていません。
昼間は昼間で、今日は岩礁(がんしょう)の上に立つ、大きめの灯台灯の分解掃除(ぶんかいそうじ)です。
このような固定灯台は、光を遠くまでとどかせないといけないため、「フレネル・レンズ」というプリズムのような三角形のレンズを組み合わせてあります。
ガラスの量が少なくてすむので、大きさのわりに軽(かる)く、凸レンズの性質も失っていません。
よごれやホコリ、虫のフンや死がいなどでくもってしまうと光の効率(こうりつ)が悪くなってしまうため、定期的にみがくのです。
子供の小さな手は、この作業にとてもつごうがいいものでした。
ポールが主にみがき、主任は電気系統(でんきけいとう)の不具合(ふぐあい)を見たり、サビを落としたりしながら、構造(こうぞう)を教えてくれます。
いつもどおりの優秀(ゆうしゅう)な主任さんです。
オーウェンズさんの見せてくれた、あのおそろしい夢(ゆめ)は本当なのでしょうか?
本当に主任はシー・サーペントなのでしょうか?
ただ、ひとつだけ、気になることがあります。
名前です。
ドラコスはドラコ、つまりドラゴン(竜)の意味があるのです。
ワンダーは驚きの、です。
直訳(ちょくやく)すれば、ドラコス・ワンダーは「驚異(きょうい)の竜」となるのです。
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考えてみれば、ウルマン・オーウェンズさんは本当に気の毒でした。
幽霊が一生けんめい、自分の最期のようすをポールにつたえようとするのは、きっと真相を警察に通報してほしいからでしょう。
自分が心をゆるせると思っていた相棒(あいぼう)のドラコス・ワンダー主任が、人を食うシー・サーペントだったなんて!
その時点で、友情も信頼も、積み上げてきた心のつながりもすべてふっとんでしまったのです。
大人は子供とちがって、人間も他の動物を食べるのだから、他の動物も人間を食べても仕方がないのでは?なんて考えたりしません。
神様は祝福(しゅくふく)して、人間が海や陸のけものを食べることをおゆるしになりましたが、その逆は聖書にも書いてありません。
大人は長い人生で心が頑(かたく)なになっていて、信じられるものや安心できるものは自分の経験上(けいけんじょう)のことがらや、政府や経済学者の言うことなのです。
自然界では現実に、敵や食料となる生き物をだましたり、あやつって利用する生物たちがいるのに、そんなことは考えもしないのです。
その点、ポールは子供らしく、考え方が柔軟(じゅうなん)でした。
昔からの伝説では、海には「シー・サーペント」のほかにも「海馬(かいば)」というものがいます。
これは馬の上半身に魚のしっぽがついていて、ひづめはひれになっている怪物(かいぶつ)です。
船があらしで難破(なんぱ)すると、正直で信心深い船員だけを、その背にのせて助けるといわれています。
ポールの考えでは、善(よ)き人を助ける怪物がいるなら、悪い人を食べる化け物もいていいはずです。
現に、シー・サーペントはマフィアの組員ばかりを食べています。
ワンダー主任がたとえ、人間に化けた竜であっても、それなら取り立ててこわいとは思えません。
主任に食べられてしまうようなこと、つまり、悪いことややってはいけないことをしなければいいのです。
他人を傷つけたり、殺したり、いじめたり、ぶったりなぐったりしなければいいのです。
人のいやがることや悲しむこと、つらい気持になったり、苦しんだり悩(なや)んだりすることをしなければいいのです。
こう考えたポールにとって主任は、いえ、竜はもう、ちっともおそろしいものではありませんでした。
ポールでなかったなら、人間を食うなんてけしからんと警察にかけこみ、幽霊に見せられた恐怖の夢の話をしたかも知れません。
悪くしたら、軍隊が大砲(たいほう)やミサイルをドラコス・ワンダー主任に向けるような事態(じたい)になったかもわかりません。
でも、大人の多くは、きっと信じないでしょう。
「シー・サーペントが人間に化けるって?あはは、うまい冗談(じょうだん)だ。だけど、あんまり言うなよ。バカに見えちゃうぞ」
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それから間もなく、また日曜休課(にちようきゅうか)の日がやって来ました。
教会でのお祈りの後は、いつもの『神様の喫茶室』で楽しみます。
でも、この日はとてもこんでいて、メアリさんはいそがしそうでした。
ワンダー主任もそれをわかっていてそばにいてくれるのですが、船乗りたちがおおぜいやって来て次々と話しかけます。
ポールにとって大人の話は、正直言ってかなり退屈(たいくつ)でした。
手持無沙汰(てもちぶさた)で周りを見わたします。
竜が化けたものがドラコス・ワンダー主任なら、ほかの人たちはどうでしょう?
自分のとなりにいる裕福(ゆうふく)な船主(ふなぬし)は「セミクジラ」。
その向こうの老いた漁師は、潮風に洗われた「かしの帆柱(ほばしら)」でしょうか。
なんだか、自分も本当は人間ではない気がしてきます。
主任と気が合うのですから、ひょっとしたら子供の「シー・サーペント」かも。
真実の形をうつしだす鏡(かがみ)があったら、自分はどんな姿でしょう?
いろいろな楽しい空想(くうそう)をしているうちに、ポール・ヴィショップはトイレに行きたくなりました。
いつもなら、
「トイレに行ってきます」
そう言って席を立ちます。
でも、今夜の主任はこぼれた酒のしずくで、テーブルになにやら図を書いて説明しています。
まわりのみんなも、うでぐみをして熱心(ねっしん)に聞いています。
ちょっと声をかけづらい雰囲気(ふんいき)でした。
すぐに帰ってくればいいのです。
『神様の喫茶室』のトイレは、せまくてゴチャゴチャと入りくんだ、きたない路地(ろじ)に面しています。
家々のまどには鉄格子(てつごうし)がはまり、有刺鉄線(ゆうしてっせん)がからめてあります。
暗い庭だか道だかわからない空き地には、木箱(きばこ)が乱雑(らんざつ)につみあげられて、それがくずれてこわれています。
ちらかっていてじゃまなのに、だれもかたづけようともしないのです。
危険であやしい、いやな雰囲気(ふんいき)です。
たいていの人なら、さっさと自分の席に帰って行ったでしょう。
でも、その時のポールはちがっていました。
こわいもの見たさでしょうか?
行ってみたい気分にかられます。
ポールは自分ではもう、充分にボルティモアの街になじんだつもりになっていたからです。
それに、これは近頃強く感じることなのですが、ワンダー主任は自分を子供扱いしすぎるのでは?
ポールは最初のころより知識も技術も体力もずいぶん向上してきています。
ひょっとしたら、大人にだって負けないかも知れません。
少しだけ冒険(ぼうけん)して、自分に自信をつけたいのです。
危険なら、すぐにもどればいいのです。
ドキドキしながら一歩ふみ出します。
なんだかワクワクします。
暗くてきたなくてせまい路地(ろじ)を、ドブネズミみたいにうろつくのが、こわいくせに楽しいのです。
人がいないのをさいわいに、スリルいっぱいのスパイみたいに家々のまどをのぞきこみます。
ちらかった台所やゴミだらけの居間(いま)。
アルコール中毒(ちゅうどく)なのでしょうか?
やたらに家具にあたりちらしているおじさんと目が合いそうになって、首をちぢめます。
古いボロボロのアパートメントのこわれた入口には、なにやら大人が集まってゴソゴソしています。
その中の数人が山高帽(やまたかぼう)に白シャツ、つりズボンのチンピラのかっこうをしているのにはゾッとします。
マフィアに見つかったら大変です。
向かいの家の鉄のドアが開くけはいに、きもを冷やして明るいほうににげます。
明るいところは大通りなのです。
もう、夜の22時近いので、車も人通りも少ないですが、街灯(がいとう)のある道には安心できます。
見おぼえのあるこの通りを右にまがれば、『神様の喫茶室』には最短距離(さいたんきょり)で帰れます。
ポールがその方向に歩きだした時でした。
角を曲って2,3台の車がやって来ました。
その時、反対側からも車が1台来てすれちがいます。
先頭がパパッとクラクションを鳴らします。
すれちがいの1台が無灯火で危険だったからです。
まるで合図のようでした。
真っ暗な車がいきなり、クラクションを鳴らして注意した車に弾幕(だんまく)をはったのです。
あっという間のおそろしい光景でした。
トミー・ガンと言われる機関銃(きかんじゅう)とふくすうのショットガンで、車体には見る見るたくさんの穴が開きます。
運転していた人はどうなったのでしょう。
車は消火栓(しょうかせん)につっこんでこわれ、水が吹きあがります。
後続(こうぞく)の2台は必死に歩道にのりあげ、車道でないところを通ってにげていきました。
ポールは呆然(ぼうぜん)とわれをわすれ、声も出ません。
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これはマフィアの入団儀式(にゅうだんぎしき)だったのです。
わざとヘッドライトを消してあぶない運転をして、反対側から来る車にクラクションを鳴らさせるのです。
鳴らさなければそのままですが、鳴らしてしまったら最期です。
すれちがいざまに銃弾(じゅうだん)をうちこまれてしまうのです。
ねらわれるのはなにも知らない一般(いっぱん)の人たちです。
これをマフィアでは「度胸(どきょう)づけ」と言っています。
最初にいちど非道なことをしてしまうと、あとは感覚(かんかく)がマヒして、どんなひどいこともできるようになってしまうからです。
ヤクザとは本当におそろしい人たちです。
「おまえ、見たなっ」
いきなり後ろから、犬畜生なみに首根っこをつかまれます。
ポールは一瞬でちぢみ上がって、口もきけません。
「こいつ、灯台守のガキだぜ」
取り囲んだ3~4人のチンピラのひとりが言います。
きっと『神様の喫茶室』に出入りしていて、顔を見知っていたのでしょう。
「海水浴でもさせてやれ」
意地の悪い言葉に、みんなが大喜びで賛成してしまって、ポールはずるずると引きたてられます。
すぐ裏の波止場(はとば)には、きたないタグ・ボートが止まっています。
「やめてっ。ほく、なにも見ていません。なにも言いませんっ。お願いですっ。海水浴なんかしたくありませんっ」
港をはなれて行く船の甲板(かんぱん)で必死に命ごいをします。
でも、だれもが面白がってゲラゲラわらうだけで、ポールの言うことなど聞きもしないのです。
ポールは心から自分の行動を反省(はんせい)しました。
探検(たんけん)などしなければよかったのです。
子供がひとりでウロウロしても無事でいられるほど、ボルティモアの街は安全ではなかったのです。
きっとこのまま、暗い海に放りこまれてしまうのでしょう。
だれにも気付いてもらえないままにです。
「主任~っ、ワンダー主任っ。助けてぇ~」
見る見る遠ざかって行くボルティモアの波止場に向かって、声をかぎりに叫びます。
きっと、むだでしょう。
だまってこっそりと席をぬけてきたのです。
主任は、ポールがこんな海の上で危険にさらされているなんて、思ってもいないはずです。
もう、恥(はじ)も外聞(がいぶん)もなく、思いっきり泣き叫びました。
そうしていないと、こわくてこわくて気が狂いそうになるのです。
「やかましいっ」
チンピラのひとりが平手打ちをくらわせてきました。
げんこつでなかったから、まだよかったのですが、ポールの体は簡単(かんたん)に甲板のはしまでふっ飛びます。
まわりがバカにして、どっとわらいます。
「なっさけねえガキだな。もう2~3発くらわせてシャキッとさせろ」
リーダーでしょうか。
偉(えら)そうなひとりが、いばって言います。
こんなに痛くてつらいパンチは1発でたくさんです。
ポールはブルブルふるえながら、甲板につっぷしてしまいました。
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ガゴンッ。
タグボートの船底になにかが当たります。
ズズズズという衝撃(しょうげき)があって、船がグラグラとゆれます。
どうしたのでしょう?
なにかに引っかかったのでしょうか。
チンピラたちも真っ暗な海面をのぞきこみながら不安そうです。
海がゆっくりと、不気味に渦巻(うずま)いています。
なにか大きな生き物がいるのです。
チンピラたちが、あっという間に大パニックになりました。
だれもが大声でわけのわからないことを叫びながら、身に付けた拳銃(けんじゅう)を取り出します。
リーダーが船倉(せんそう)にある機関銃を取りに走ります。
でも、その時にはシー・サーペントは船をひと巻き巻いていて、蛇そっくりにしめつけていたのです。
バリバリと船の竜骨(りゅうこつ)が砕(くだ)け、甲板がふっとび、重いエンジンが波にのまれていきます。
「わぁ、助けてぇ~」
今度はチンピラが命ごいをする番です。
とび色のたて髪を持つ竜が大きな口を開けます。
それを最後に、ポールは甲板の切れはしにしがみついたまま、気絶(きぜつ)してしまいました。
「いつまでボーっとしてる?」
そう言われて、ハッと目覚めます。
あわてて自分のまわりを見回しても、暗い海面もちぎれた甲板もありません。
チンピラだって、ひとりもいません。
そのかわり、見なれたH・I・バー灯台のいつもの外廊下(そとろうか)が見えました。
まるで夢のように、ポールは自分の部屋の前にいたのです。
でも、夢でないしょうこに体はびしょぬれですし、そばでのぞきこんでいるドラコス・ワンダー主任の髪の毛もぬれています。
「ああ、ありがとうございます」
ポールは思わず、主任に力いっぱいとびつきました。
涙がどしゃぶりの雨のようにあふれます。
「助けてくれて、ありがとうございます。ぼく、あの時、もうダメだって思いました。だまって勝手なことをしてごめんなさい。本当にバカでした」
そうです、そのとおりでした。
ワンダー主任が竜になって来てくれなければ、あのまま海の藻屑(もくず)と消えていたでしょう。
くぐもった海の中の物音を識別(しきべつ)するシー・サーペントのすぐれた聴覚(ちょうかく)は、ポールの必死の叫びを聞きとることができたのです。
ワンダー主任はだまってなにか考え考え、いつまでも頭をなでてくれました。
そして、その体はとてもあたたかかったのです。
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「シャワーを浴びて先にねろ。おれは舟を取って来る」
やがて主任が言いました。
作業用の小舟は港に置いたままです。
明日も仕事で使うのです。
ポールはすなおにトイレをかねたシャワー室に向かい、主任は大きくて勇ましい竜にかわって波間に消えていきました。
でも、それがドラコス・ワンダー主任を見た最後でした。
翌日(よくじつ)、つかれきったポールがやっと目を覚ますと、灯台の周りは大さわぎになっていました。
明け方にこわれたブイのそばで、だれもいない作業用の小舟が見つかったのです。
中には修理(しゅうり)道具が使うばかりになって並べてありました。
人々が言うには、
「きっとワンダー主任は街からの帰りに、こわれかけたブイを見つけたのだ。直そうとして、夜の海に落ちてしまったにちがいない」
警察も全く同じ見解(けんかい)でした。
ポールはそれについてはなにも意見を言いませんでした。
ただ、泣きました。
本当に涙がかれるまで泣きつくしたのです。
西洋では竜は化け物や悪魔ですが、東洋では神様です。
とくに日本では竜神といって雨雲や雷などを支配(しはい)します。
そして多くの伝説を持ちます。
その中のひとつに、ある岬(みさき)の話があります。
昔は「沿岸航海(えんがんこうかい」と言って、船は陸地のそばを通りました。
でも、陸の近くは地形や気象(きしょう)のえいきょうを受けやすく、海流や岩礁(がんしょう)などもふくざつで、本当はとても危険なのです。
それでも魚を取ったり、物資(ぶっし)を運んだり、人が移動したりするためには、危険をおかしても通らなければいけません。
昼間はまだしも、夜や天候の荒れた日、潮の満ち引きで海流がみだれる大潮(おおしお)の時などは、悲しい遭難者(そうんしゃ)が出たりしたのです。
沖に住む竜神は、これに心を痛めました。
そして夜な夜な灯をともして、それを岬の突端(とったん)の松の木にかかげたのです。
これを『竜灯(りゅうとう)』といいます。
松の木が選ばれたのは、単に背が高いというだけでなく、植物の王様で、神様の寄り代(よりしろ)だったからです。
人々はこの明かりを見て、どんなに暗い夜や大嵐の日でも、進むべき航路を見失うことがなくなりました。
竜神に心から感謝し、そのまねをして石のやぐらを組み、そこに灯をともしたのです。
日本では、これが灯台のもとになったと言われています。
そしてその歴史は、アメリカの建国の歴史より長いのです。
アメリカのシー・サーペントであるドラコス・ワンダー主任も灯台守として、夜な夜な明かりをかかげてきました。
これは東西の竜の不思議な一致でしょう。
主任がなにを思って突然、H・I・バー有人灯台を去り、ポール・ヴィショップの前から姿を消したのかはわかりません。
でも、このあと、アメリカはソ連との冷戦時代に入り、灯台の無人化を進めることになるのです。
灯台守が必要なくなって、やがていなくなってしまうことを予見(よけん)していたのでしょうか。
それとも自分がいなくてもしっかりやっていけという、ポールへのメッセージだったのでしょうか?
動物には「子離れ」という時期があります。
子供が心身ともに成長して、ぼうけん心からひとりで行動したり、自分を試そうとワザと危ないところに行ったりするようになると、その子の成長を妨げないように、親が離れていくのです。
動物である竜の主任も、その心を持っていたのでしょうか?
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月日がたち、ポールはりっぱな大人に成長し、主任技師として、H・I・バー灯台をはなれて行きました。
『合衆国灯台サービス』は、そのころには湾岸警備隊に統合(とうごう)されています。
ですから、多くの部下を持ち、メリーランド州全体の灯台やブイを管理するのです。
このころのアメリカは第2次世界大戦も終わり、再び豊かな国になっていました。
それでもざんねんなことに、共産主義(きょうさんしゅぎ)へのおそれから、兵器の開発や軍事訓練(ぐんじくんれん)を強化していたのです。
そんな1957年のことでした。
アメリカ海軍は戦闘機パイロットの夜間訓練のため、H・I・バー灯台から数マイルの海に、いらなくなった古い船をうかべて攻撃(こうげき)させたのです。
それがどうしたことでしょう?
パイロットはパニックになって、なんと灯台にミサイルをうちこんでしまったのです。
幸いに爆薬(ばくやく)は入っていなかったので被害(ひがい)は小さかったのですが、灯台の明かりと船の明かりは全くちがいます。
軍部もパイロットも「かんちがいをした」と言ったきり、多くを語りませんでした。
ポール・ヴィショップはこの話を聞いた時、胸が高鳴りました。
どれだけ時間がたっても、ドラコス・ワンダー主任との突然の別れが、悲しくて悲しくてたまらなかったのです。
「ひょっとしたら、ワンダー主任が姿を現して、わざと灯台をこわさせた?そして自分に直しに来いとさそっている?」
こんな疑問が心にわくと、いてもたってもいられません。
いそいでスケジュールを調整(ちょうせい)し、陽が落ちる夕方に着くように時間をえらびました。
波の静かな、穏やかな夕暮れでした。
灯台灯に穴が開き、土台の鉄骨がいくつかこわれた、なつかしいH・I・バー灯台が見えてきます。
昔の思い出がいくつもいくつも心によみがえって、熱い涙がほおを伝います。
ポールはしだいに暗くなっていくチェサピーク湾を見わたしました。
遠い沖に白波は立つでしょうか?
主任は会いに来てくれるのでしょうか?
灯台の土台ささえる岩場に、古い記憶(きおく)そのままに波が寄せていました。
H・I・バー灯台の竜灯(エィチ・アイ・バーとうだいのりゅうとう)