美食の女(びしょくのひと)

合挽き肉はパットに入れ前日に軽く塩胡椒し酒を振って置く。塩胡椒だけはちょっぴり高級な粗挽きにしている。刻んだ玉ねぎにも同じ様に食塩を振りひと混ぜしてラップを掛けてしんなりさせて置く。パン粉は使わない。卵は鮮度が高い割には安価なコンビニ卵が常用だ。とにかくねっとりするまで練りこみ、まとまりに照りが出るまで両掌で叩いたら大きめに平べったく成形しフライパンに蓋をして焼き上げる。焼き上げた後の旨味脂にたっぷりの微塵切り玉ねぎ、ケチャップにウスターソース、低カロリーの液体シュガーを混ぜるのだが、ここでコンデンスミルクを入れる。ソースに余計旨味と濃くが出るのだ。特製ドミグラスソースを存分にかけて頬張る一口目はまさに至福に値する。意識して少な目に盛りつけた押し麦入りご飯を思わず食べ過ぎてしまい、三杯目を平らげた辺りでやっと箸を止めじっと目を閉じ反省し始めるのだった。
「─ストレス発散法だもんね。唯一の─」そう言って自答し納得させる日々がもう長年続くと勿論そのしわ寄せが体型に素直に反映されていた。どう湾曲しても言い訳出来ない現実からの逃避を重ね、確かに料理の腕前は驚くほど上がったが折に触れ自責の念と後悔に苛まれる。独立の時妹から贈られた大ぶりの姿見は物が散乱してる奥の部屋に布を被せたまま久しく対峙していない。
「─うーん。やっぱり舞のウチが一番落ち着くなぁ。おつまみもめちゃ美味しいし」時折女子会の会場になる六畳間のフロアに仰向けにねっ転がり気持ち良さげに職場の同僚が言うとつい嬉しくなり、
「そう?なら、毎月の定例会にしようよ?会費制にしてさ。お料理は勿論あたしが作るから」等と自ら申し出もしてしまうのだった。
体質なのか「ぽっちゃり」の兆候は中学生の頃からあったが高校、短大へと進学しキャンパスに溢れるスレンダー美人に憧れ、一時期は精神的に追い込まれるまでダイエットに励んだりもしていた。だが入っていたテニスサークルで意中の先輩から告白され有頂天になって交際していた時に実は三股かけられていた一番最後のキープだと知ると酷い落ち込みの挙句「食」に捌け口を見出すことでやっと精神のバランスを保つ様になってしまった。問題の彼氏にはただの一言も詰ることは出来ず、いつまでもずるずる関係を引きずり顔色を窺いながら抱かれることに慣れてくるとそれが身についてしまった様で周囲からも嫌われないように身構えては八方美人な言動を表すことが癖になり、疲弊したその反動を更に食指に置き換える悪循環が常になってしまったのだった。
「─ね?太るのは簡単だけど、痩せるのは切ないくらい辛いでしょ?」どうしようもなく通い始めたエアロビのスクールで軽快に身体を動かし笑みを浮かべてインストラクターが言った。
「─んだよ。何で高い金払ってまで運動強要されなきゃいけないんだよ。仕事放ったらかしても痩せてぇってか」ある日、残業を断る時理由を正直に応えた舞に向かって直属の上司の吐き捨てる様なその言葉が悲しくて思わずその場で蹲り泣き出したこともあった。良くギャンブルにはまり莫大な借金に苦しんでる人の話を聞くが、食が高じて蓄え過ぎた贅肉で苦しめられている自分と取り返しのつかない点では似通ったもんだと思わず自嘲してしまう。
「─あのさ、ごめんね?俺、どうしてもその─おデブさんだけは勘弁なんだ─それに何だかさ、急激過ぎない?最近のその身体つき─」ついに怖れていた台詞をしかめ面で突きつけられるととうとう三番目のポジションからも外されてしまい、あと数年後には三十路の難儀な坂に差し掛かるにも関わらず以降驚く程長い期間沈降したまま恋愛の場への浮上の意地も意思も失ってしまっている。最近になって頻繁に誘われる様になった合コンでの立ち位置はどこかの女芸人よろしく盛り上げ役の請け負いを承知していた。時折、
「─よかったら、ラインとか交換してくれない?」等と優しい言葉を掛けられることもあったがそれは初めに太鼓持ちと繋がりを持ち最終的な的を射るための計画的な伏線に他ならないことが常だった。そういったことに耐え得る強靭なハートである筈もなく澱の様に積もり重なった傷心はいつしか恋に向け固く閉ざされ、自他共にガードの固い女として認識されるようにもなってしまっていた。

「─ねえ、舞。また月末くらいにいい?参加してくれない?」昼の休憩時間、綺麗な小鳥のさえずりみたいな声で深雪が近づいて来た。給湯室でカップ焼きそばにお湯を注いでいたが深雪がつけている強烈な香水の匂いが広くはない室内に瞬く間に充満して好物への食指が減退しそうで、眉間に皺を寄せ曖昧にだが間髪入れずに頷いた。インスタントは殆ど口にしないが焼きそばだけはお気に入りの商品があってわざと少な目にお弁当のご飯をよそった日には買い置きを持参するのだった。容器の中でほぐれた麺の捨て汁の匂いが好きで三分間が待ち遠しい。三十秒手前で湯を捨てると好みの硬麺で食べられる。深雪が入って来た時は既に二分近くが経過していてのったり話しながらよりによって流し台の前に立ち捨て場を塞いだ形になっていた。ボイラーの横にあるデジタルが残り三十秒を示すと急いで彼女を押し退け、湯を捨てた。
「ごめんね─」食い意地の張った行為が恥ずかしく膨よかな頰を赤らめると、半ば呆れた様に深雪は引き攣った笑みを返した。

「─あれ、お前どうかした─?」帰宅し寝室に入って直ぐに異状に気づくとプラスティックの小さなケージに近づいた。いつもなら元気にカラカラ回している滑車の音がしないことを訝しげに感じたのだ。「ノンタ」と名づけたハムスターはゴールデンの雄でペットショップで生後間もない個体の中から器量良しを選んで買った。良く懐いてくれて愛くるしい仕草で癒してくれる舞にとってはかけがえのない家族だ。ポストに投函されているチラシをハンドシュレッダーにかけて入れて置くと小屋に持ち入れ自分なりに工夫して寝床にしている。夕刻からは元気に動き回っている筈なのだがその日は姿が見当たらない。上蓋を開けチラシ屑の中をあちこち探ってみるのだが見つからなかった。
「ノンタ─」不安になり名前を呼んだ次の瞬間、餌箱の下の隙間からポッコリ毛頭が出てきた。
「よかったあ─」そう言いながらそっと掴んで掌に乗せたがどうにも元気がない。ぐったりと身体を横たえたまま薄い腹で呼吸をしている。ひまわりの種を口元に持って行っても反応しない。慌てて近くにあったタオルで全身を包み込むと駅前のペットショップに向かった。

「─保温してあげてますか?」小さな肢体のあちこちに触れて見ながら店員が訊いて来た。
「─あの、まだ暖かいと思ったから」不安げにそう応えると、
「ハムスターってひまわりの種が大好きでしょ?皮下脂肪がほとんどないから高カロリーな食べ物で自分の身体を守ってるんです。寒さにも人間が感じるよりもずっと敏感で例えば冬に擬似冬眠と言う仮死状態になることが良くあるんですよ。─今のこの状態は寒さに弱ってるんでしょう」そう言った。舞が思わず縋る様な眼を向けると、
「─大丈夫ですよ。とにかく簡易カイロか何かで温めてあげましょう」店員は穏やかにそう言いながらレジカウンターの下から使い捨てカイロを出すと包み直したタオルの隙間に忍ばせた。
「─これでいいでしょう。後は元気になってきたら砂糖水を上げてください。本当にぬるくしてね」そう付け加え優しい眼差しを向けて笑った。

就業後の更衣室は絶えず様々な香水の匂いが入り混じっていて基本ノーメイクでコロンも使わない舞にとっては耐えがたい空間になる。
「お願いね、舞。今日は大手の会社のエリートが集まるんだ。わたしたちも、そろ落ち着かないとね─」ロッカーに備え付けの鏡で丹念にメイクをチェックしながら深雪が満面の笑みを向けてきた。SNSを駆使しあちこちとの繋がりを自慢する深雪は市議会議員の父親を持つお嬢様で同期入社で舞と同じ管理事務の仕事をしているが何かにつけイニシアチブを取りたがる。過去の動向は知らないが噂によると恋多き女で不倫の経験もあるのだと、いつかの合コンの際偶然学生時代の同窓生だと言う男に耳打ちされたことがある。学祭でミスに選ばれたと云う容貌は確かだが折に触れ見え隠れする自己中な言動に辟易してる同僚も数多くいる。それでも何故か従属的に接してしまうのは皆各々が彼女に対してどこか引け目を感じていて、接触を敬遠しようとしても実に言葉巧みに自尊心をくすぐられ上手に取り込まれてしまうからだった。装うにしては自然で親友然とした好意に満ちた様子で差し出してくる手を無碍に無視することは出来ないと感じさせる近寄り方をしてくる。だが味方にできそうもないと判断した人間には明からさまに敵意を露わに向ける一面があり、場所を選ばずに挑みかかる様な言動に走ることがある。舞をはじめ並べて小心者の取り巻きたちにはその畏怖もあって一目置く要因になっているのだった。

手際よく席順を決めるのも深雪の役割だった。繁華街の中央に位置するもうすっかり馴染みのパブの店内に入るとすぐに店員が丁重に出迎えリザーブ席に案内してくれる。店自体深雪の父親の息がかかっているらしく接客のされ方が明らかに違う。折に触れそんな現実を目の当たりにすると母子家庭の決して裕福ではない境涯で育った自らとの差を無意識のうちに比較してしまいまた嘆息が漏れてしまうのだった。
恋多き似非乙女の触覚はそれが特性なのだろう、テーブルについている男たちの中からタイプの男を一瞥しただけで見抜く。いつも必ず十五分程度を遅らせて店内に入るのは鎮座した品物の物色よろしく見晴らしの良い位置から品定めをするタイミングを計算しているからだった。舞のアパートでの女子会では忙しなく支度する他を尻目に一人、
「─外見なら、こんなタイプが素敵よねえ」勝手に部屋の隅にあったファッション誌を手に、小さくあげた感嘆の声の先にあるキメ顔で微笑む男性モデルの流行りの風貌をにやけ顔で見つめながら胡座をかいてくつろいだりしている。

順に自己紹介するその晩の面々はスーツ姿にも隙がなく見るからにエリート然としていた。
「─え、と。─では、出逢いに乾杯しましょー!」同様に従隷にされた常連のカコが声をあげた。
席に着いたメンバーの中で一番控えめな女を演出して深雪がグラスをあげ可愛らしい声を合わせた。いつものシナリオの通り先頭を切って舞がジョッキのビールを一気にあおりドヤ顔でお道化ると一様に歓声が上がり、向かいに立つ自分好みのイケメンの笑顔を確かめた深雪が密かにほくそ笑んだ。
「─そろ、席移動しましょうか」場も馴染み始めた頃合いを見計らって席の移動を目線で指示されるとまた徐にカコが立ちそう声を上げた。
「─何だかさ、仕切りが上手だよね君ら。かなり慣れてる?」一人の男が言い舞に眼を向けてきた。俄かに上がった笑い声の中曖昧に笑みを返しながら思わず深雪に目線を泳がせた。
「俺の隣にどう─」案の定そんな他の誘いをやんわり避けながら深雪がお気に入りの隣に腰掛けいつもの上目遣いをあげるのを見た後、残りもの同士がのろのろと席を移動する。明らかに自分より見劣りのする面子を従えたヒロインはまたご満悦な笑みを浮かべゲームを堪能し優越感に浸るのだった。

唐突にスマホの着電が震えたのはその翌日、仕事がはねた後の頃だった。
『─昨日はありがとう。愉しかった。盛り上げてくれてた君の気遣いのおかげだよ─』受話器のフィルターを通しその落ち着いた響の良い声に思い当たるまで時間はかからなかった。
『─無理言って深雪さんから連絡先を聞き出しんだ─』間違いなく深雪の眼鏡に叶った男からだった。その声色は未だにファンであるロングランの深夜枠の人気純愛アニメの主人公の男に似ていて特に印象的だった。

いつもは気だるさだけを引きずっている終業後の車内で吊り革に揺られながらぼんやりした車灯に照らされ夜の車窓に映る珍しく生気に満ちた自分の顔を見ていた。
『─今度さ、二人で遊ばない?料理上手だって聞いてるし、俺家庭的な人に魅力感じるんだ─』そう言っていた低いトーンの声が心地良く耳に蘇る。そう言われてみれば今朝会った深雪の表情はどこか精彩に欠け自分に対しても素っ気なく感じた。なびくのが当たり前の持ち前の美貌に男が見向きもせず侍従に過ぎないメンバーの中から、選りに選って自分の連絡先を聞き出してきたことに大いにプライドを傷つけられたに違いない。その時の様子を思い浮かべるだけで小気味の良い思いが湧き上がり思わず笑みがこぼれてしまうのだった。

それから数日過ぎても深雪の舞に対する態度は明らかにおかしかった。朝顔を合わせても目線を逸らすようにして小さく挨拶を返すだけで昼の休憩には取り巻きたちを伴って出かけていたランチにも行かず独りコンビニ弁当を食べたりするようになった。
「─ね、何だか最近おかしくない?深雪」女王様を欠いた解放に安堵した感を隠せない様子でランチのサラダパスタを美味そうに頬張りながらカコが口をもごもごさせた。
「─こないだの合コン終わってからよね。珍しくイケメン君にお持ち帰りされなかったのかなぁ─」やはり侍従のマキが含み笑いを見せた。皆が同様の疑問を持ちだが恐らくは真実を自分だけが知り得ているのだと考えると言われもない優越感が頭をもたげてくるのだった。
「だとしたらいい気味よね。ね、舞?」カコが愉快そうに言った。
「─そうかも、ね」さり気なさを装い応えたつもりだがどうしても口元に笑みが浮かんでしまう。
『─美味しそうに食べるね』また男の響きの良い声が耳に蘇る。
昨晩初めてのデートで向き合ったイタリアンの店のテーブルでエスプレッソの小さなカップ越しにそう言っていた男の優しい眼差しを思い返す。一瞬意地汚さと認められ咎められたのかと身構えたが、
「─僕ね、美味しそうにたくさん食べる人が好きなんだ」思いもかけず男はそう付け加えてまた微笑んだ。
「─そうかあ。食のコーディネーターだね。素敵なお仕事だね」問いかけられた夢について健康を意識した食事を提供する仕事を口にすると男は理解を示した風に何度も頷いて見せた後、
「─尊敬するよ。どんなことでもクリエイトする夢を持ってる人はいつも輝いて見える。─応援するよ。心から─」真剣な面持ちでそう言ってくれ、別れ際にはスッと近づいて来たかと思うと優しく頰に口づけし、
「─思ってた通り気取りや飾りのない人だね。良かったらまた会って欲しい」端正な顔立ちの切れ長の眼を細めてそう囁いてもくれた。いつもは合コンで声を掛けられたりしても膨らんだ頰の肉に押し上げられ吊り上がった自分の細く小さな眼や化粧っ気のない魅力のない顔の造作を意識して気持ちに蓋をしては有り得ない夢を見ることを避けて来たのだが、まさに憧れそのものの男の風貌と自然な振る舞いに接するとその身構えは無為に等しく抗えなかった。明らかな美貌の深雪になびかなかったことが不可思議だったが十人十色の恋の中の万別なタイプの一つに自分が当てはまったのかも知れない、等と自分に都合よくとにかく他の考えの入る隙の無いほど男に惹かれてしまっていた。舞はそっと手元にあるスマホのアプリを確かめた。交換したラインに時折入る男からのメッセージが他愛のないものであっても繰り返し見る度夢心地の至福に浸り切ってしまうのだった。
翌週末の女子会にも深雪は参加しなかった。毎朝合わせる度沈んだ様子が気の毒に思えるほどだった。だが何か言葉を掛けてやるべきかと考えていた昼休憩の時間、逆に深雪から声をかけられた。
「─ごめんね?─ちょっと相談があるんだ」憔悴し何やら思い詰めた口調だった。

元来が強靭な内臓なのだろう、上品なグラスビヤーではいくらお代わりしても一向に酔いが回ってこない。
「─ねえ、もうやめなよ。いい加減呑みすぎだよ」眉間に皺を寄せ心配気にカコが窘めるが、もはやどんな言葉も耳に入ってはこなかった。
「─すいませーんっ!あのさあ、ピッチャーでくんない?このビール─。全然、酔わない不思議なビールっ」ヘラヘラしながらオーダーした後間もなくまた昨晩の忌々しい出来事が思い浮かぶと、途端に顔が歪み頰の肉に押し上げられた小さく円らな二つの瞳にそぐわないほど大粒の涙が溢れ流れ落ちるのだった。
仕事が終わり待ち合わせた駅前のカフェに入ると通り側の奥の席に神妙な面持ちで深雪が掛けていた。平日の中途半端な時間もあってか店内はまばらに客がいるだけだった。店内に漂うコーヒーの芳醇な香りがまだ夕食前の食指を刺激する様で止めようもなく小さく腹の虫か鳴った。
「─そう。本気なんだ。あんなにガードが固くて恋に臆病だった舞なのに─」顔を俯けて深雪が小さく呟いた。
「─うん。ごめん、ね。─正直、あんなに素敵な人がわたしなんかに声かけてくれるなんて思ってなかったんだけど─何もかもが憧れそのものの人で─」俯けた先の長く形の良い睫毛が小刻みに揺れるのを痛々しい想いで見つめながら舞が申し訳なげに応えた。
「─軽はずみに恋なんかしないって言ってたじゃない。遊び人っぽいし、あの人。─傷つくのはあなたなのよ?」諭す様に深雪が言った。聞き入れるつもりはなかった。心地の良い夢から揺すり起こされそうな不快を感じ強く首を振った。
「─そうなると思う、多分。釣り合わないもの─だけど、いいの」やっとそう返した。
「─そう。本気なんだね」念を押す様に深雪が繰り返した。
迷わずに舞が頷くと少しの間の後、深雪の肩が震え出した。
「─だ、だいじょうぶ?」咄嗟に泣き出したのかと思わず身を乗り出し声をかけ掛けた次の瞬間、俯けたその口元から漏れ聞こえて来たのは絶えかねたかの様な笑い声だった。
「─え」きょとんとして見つめた先に深雪が顔を上げた。当てた掌の下からくっくっと笑いをくぐもらせ涙まで込み上げたのか瞳を潤ませている。意味が分からずぼんやり見つめていた時唐突に、
「ほら、僕の勝ちだ─」店内に流れているシャンソンの低い音に混じって深雪の頭越しから声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。

「─悔しいよねえ、そりゃあ。何でね─何で、同僚として─人としてね─そんな─そんなことが─うんうん。いいんだよ。泣きな。泣きな、舞─明日はお休みだよ─一日中泣こう─切ない─う、うぅ─」酔いも回って同情に感極まったのかマキが声を詰まらせながら言った。
「─うん。─ホントに─好き、だった、んらからあ─」酩酊した怪しげな呂律でそう言い、上げたその小さく円らな瞳が潤んだかと思うと堰を切ったようにまた大粒の涙が溢れ出て止まらなかった。深夜で疎らだがファミレスの店内にいる人目を憚らずに舞は大きな声で泣き出した。切ない悲しみが次から次へと胸の奥深くから押し寄せた。
『ごめんね?彼女と賭けをしたんだ。ガードの固い君を落とせるか─本当は最後までいくことを賭けたんだけど、とても出来なくてね─君、とても善い人だったから。─ごめんね?』あまりにも身勝手な戯言を言い笑っていた男がそれでも優しく思え愛おしく思い返されて仕方なかった。悪戯に恋心を弄び抜いたそれが褒美なのだろう、仲良さげに腕を組み去って行く二人の背中に何一つ詰る言葉も投げつけられず曖昧に笑みさえ浮かべただなす術もなく立ち尽くしていた自身がとことん情けなく許せなかった。

泥酔し朝方目覚めたが身動ぎもしないでいた。頭の芯が重鈍く痛み異様に喉が渇いていた。どうして帰宅したのかも記憶にない。ベッドの周りに脱ぎ散らかした衣服をぼんやり見回していると自分の身体が冷え切っているのに気づいた。どこかで転びでもしたのだろうか、左の手の手首の辺りがズキズキ痛んでいる。そっと触れてみると指先がねっとり血に濡れた。驚いて身動ぎした時コトン、と何かが床に落ち重い頭を向けて見ると眉剃りに使うカミソリだった。また恐る恐る生々しいその傷に指を伸ばしかけた時ヒリヒリした痛みと同時にまだ酩酊した記憶の中で自分の手首にカミソリを当てた自分の惨めな姿と不意に男の優しい笑顔が脳裏に蘇り自然に涙が傾けた目頭からシーツにまで伝い零れ落ちた。自分は何をしてるのだろう─。いくら泥酔していたとは云えあまりにも愚かで情け無さ過ぎる─。反芻しながら耐えられない侘しさに全身を鷲掴みにされたように震えながら壁際に押しやっていた毛布を頭から被り嗚咽を漏らしているとどこからか俄かに賑やかな音が聞こえて来た。気になって涙にまみれた眼だけを覗かせ気配を窺うと音は玄関の方から聞こえて来るようだった。時折、がたがた聞こえる鈍い金属音と入り込んでくる冷気から玄関のドアが開いていることに漸く気づいた。仕方なく緩慢な動作で身体を起こし向かうとやはり古い建てつけの鉄製のドアは隙間を開け微妙に揺れていた。扉を閉め振り向き部屋に戻ろうとした時、何となく奥の部屋が気になり覗いてみると「ノンタ」のケージが横倒しに倒れていてベッドにしていた綿やら裁断した新聞紙やらが散乱していた。

既に夕刻の傾むいた弱い陽射しが林立している色深い銀杏の樹の長い影を歩道に落としている。疲弊し青ざめた頰に時折当たる風が冷たく感じるとまた泣き出したい気持ちが迫り上がって来る。どこかで生きてくれていればいいのだが、小さな命に数多の天敵を想像するだけで身震いがして居ても立っても居られない。部屋の隅々から住んでいるアパートの周りまでを時間をかけ細かく見て回ったのだがどこにも気配が無かった。就職して暫くは自宅から通っていたのだが毎日片道二時間を費やす疲労が仕事でのストレスに加え鬱積すると一年ほどで睡眠障害を自覚するようになり、会社から近隣の場所での一人暮らしを選択せざるを得なくなった。ノンタはそんな舞の体調を心配した母からその年の誕生日に贈られた。まだ小学生の頃に父親を病気で亡くし母子家庭で貧しかったがかなりの無理を自らに強い短大までを卒業させてくれた母─。
「いつも淋しん坊だからね、あんたは─。もしゃもしゃした口元が何だかお父さんの髭みたいね─」暮らしぶりを案じているのか少し不安げに部屋を見回しながら選んできたハムスターがケージの中で元気良く滑車を回す様子に目を止めやっと笑みを浮かべ吐息混じりに母が言っていた。
「ノンタ─」もう一度名前を呟くとまた涙が溢れてきた。泣き出すと再び男の顔が脳裏に浮かび包帯を巻いた手首の下の傷口がまた疼く様に痛んだ。
なす術もなく立ち尽くしていると街路樹の銀杏の葉がポツポツ音を立て髪にも冷たい雫が落ちると舞は絶望的に雨雲に覆われ始めた夕闇の空を見上げた。再び打ちひしがれ思わず疎らに行き交う人々の目線から隠れるようにして植え込みの根元に蹲り肩を震わせていると突然間近で誰かが足を止めた。
「─こんばんは」頭上から掛けられた穏やかな声に聞き覚えがある気がして半べその顔を上げたが、見下ろしている男の微笑みに記憶が結びつくまでには少し時間が掛かった。

目の前で行儀良く正座をして紅茶を啜っている男と向き合っている風景が不思議だった。
テーブルの上に敷いた厚手のタオルに半分身体を埋め小さな両の掌で抱え込みながら一心にヒマワリの種を貪り頬張っているハムスターの様子を愉しげに見つめている。
「─よかった。どうやら元気になって─」そう呟いて徐に指を伸ばすと今度は自分の掌にノンタを乗せ愛おしげに幾度も背を撫で付けた。
男は以前寒さに弱ったノンタを診てくれたペットショップの店員で園田と名乗った。後悔に苛まれ蹲っていた舞に声を掛けてくれ一緒に捜してくれたのだった。元来が臆病な性質で長い距離を移動出来ないことを想定しアパートのコンコースの側溝で震えているのを見つけてくれた。
「─ほら、君が捜し出してくれるのをじっと待ってたんだよ」這いつくばり擦り汚れてしまった自分のジーンズの膝を軽く払った後、悲しみと不安から解き放たれ泣きじゃくる頭をそっと撫でつけながら宥めるように優しくそう言ってくれた。
「よかったね、本当に」園田はソーサーにカップを戻しもう一度そう言うと穏やかに微笑んだ。整ったというよりも温和で左の頬が造る片えくぼが印象的な顔立ちをしていた。
「─あ、ありがと、う─」泣き腫らした眼を上げ込み上げて来る感情に詰まりながらやっと礼を言い園田が笑みを崩さずにゆっくり頷き返した時、舞の腹の虫が大きな音を立てた。

「─何があったの─?」誘われたイタリアンの店の奥の席に向かい合い舞の手の包帯を見つめた後、水の注がれたグラスの水滴に眼を落としたまま園田が問うて来た。
「─あの、これは─ちょっとしたはずみで─」咄嗟に愚にもつかぬ出来事を言い澱みまたじんわり蘇りそうになる感情に俯いていると少しの間の後、
「聴くしか出来ないけど、よかったら話して─?」そう言うとまた柔和な笑みを向けて来た。

「─そうか。情け無い人だね。だけど意地の悪い人はね─人に優しく出来ない人は、いつまでたっても幸せにはなれないんだ。いつの間にか神様に目隠しされて、手招きしてる幸福の居場所を通り越してしまうから─」園田は一言も言葉を挟まずに舞の話を聞き終えると、再び憤りを滲ませた舞を宥めるように優しい口調でゆっくり話し始めた。
「─ずっと前にね。妹にも話したことがある─。仲の良かった友達に意地悪されたって、泣きながら悔しそうにしてた─可愛かったよ。俺とは十も歳が離れてた。君みたいにハムスター飼ってて─とても可愛がってた─ノンタってさ。今、何年目─?」
「─あ、二年目です」そう応えると、
「─じゃ、あと一年くらいかな。寿命が─。酷いくらい、愛らしい生き物たちの命は短いよね。どうしてだと思う─?」またそう問うて来た。咄嗟に考えが及ばずぼんやり見返していると俯いて少しの間の後、
「─思うんだ、俺。生まれ変わるためなんだって─。なるべく早く生まれ変わるためなんじゃないかって─」そう自答するように言い眼を上げた。
「─きっと、人間になりたいんじゃないかな。何でも自由な─。どこにでも好きな場所に行けて、好きなもの食べられて─自由な人間に。きっと、狭いケージの中で懸命に滑車を回しながら、そんなことを夢見てるんじゃないかなって─。兄妹で話しながら、笑って見てた─飼い始めて三年が過ぎた頃─げっ歯が脆くなったのか大好きなヒマワリの種も噛めなくなって、あっという間に痩せ細ってね─ふわふわの体毛も抜け落ちて─ピンク色の骨ばった地肌の足で震えながら、それでも懸命に歩こうとしてた─兄ちゃん、何とかして─ 死んじゃうよ─ねえって─妹が泣きじゃくりながら─叫んでたっけ─」園田は不意に言葉を詰まらせると初めて眉間に皺を寄せる表情をしてじっと俯き暫くの間の後、
「─さっきまであった命は、どこに行ったの─?って─掌に乗せた硬ばって冷たくなった亡き骸に頰当てて─。─妹はその二年後に重い病気になってね─長く入院した末─五年前に─亡くなった─。─小学校にもろくに通えず─中学の入学式にも間に合わなかった─」園田はそこで言葉を切ると俯いた切り動かなかった。舞の中に居た堪れない感情がゆらゆら揺らいでいた。やがて運ばれて来た料理がテーブルに並ぶとやっとフォークに指を伸ばしながら、
「─君は、一人で生きてるの?」園田がぽつりと口を開いた。また返答に窮していると、
「─自分の病気を知ってからね。妹は変わった─兄ちゃん、─今朝もちゃんと目覚めたよ。ありがとう─お見舞いのりんご、美味しかったよ─ありがとう─缶詰のミカンも─ありがとう。─可愛いウサギのぬいぐるみもらったんだ─ありがとう─お友達からお手紙もらったよ─こんなにたくさん。早く学校においで─たくさん遊ぼうねって─勉強も教えてくれるって。行きたいな─。みんな、ありがとう─。お父ちゃん、お母ちゃん、新しいパジャマ、ありがとう─。あのね、昨夜大人になれた夢を見たよ─ありがとう─。兄ちゃん、今日も来てくれたんだね。ありがとう─本当に何にでも、ありがとう─ありがとうって─。─たくさんの人たちに支えられ─護られて、─彼女は─穏やかに旅立って逝った─。まるで─眠ってるみたいだった─。─教えてもらったよ─生きること─生きてることの意味を─。差し伸べられた掌を精一杯、握り返すことなんだって─絆を繋ぎ支え合って行くことなんだって─。それはペットでも何でも、愛するもの全部に向けて─。だから、だからね─はずみでも何でも─せっかくの命に恥ずかしいことは─ましてや自分を傷つけたり─背を向けることだけは─絶対にいけない─。生きていればこそ、なんだ─」訥々とだが丁寧に言葉を選ぶようにしてそう言うと眼を上げ長い間の後、
「─生きてるから傷つきもするし、辛いこと、悲しいことがたくさんある─。だけど、だからこそまた、─明日訪れるかもしれない幸せを信じられる─。大丈夫。君は間違いなく優しい人だよ。まだ君のこと、良く知らない。こんなこと言うのは変かも知れない。けどね─あんなに一生懸命、友達を捜してたじゃない─泣きながら、小さな命を助けようとして一生懸命─。他の誰かの何かと較べることなんてない─今も、これからも─たくさんの温かな掌が君を支えて、君も誰かに必要とされて行くんだ─」もう一度そう繰り返し潤んだ目尻を右の人差し指の甲で拭うと、やっと笑みを浮かべ片えくぼを戻した。
「─うん」頷くと同時に奥深くから胸一杯に熱いものがいきなり衝き上げ、ありがとう、ごめんなさい、の言葉がつかえて代わりにまた涙がこぼれ落ちた。


「─美味しそうに食べるね」園田が優しく笑った。件の男と同じ台詞に思わずびくん、と眼を上げると、
「─いや─食べることを楽しめる人はね、生きることを愉しめる人だから」園田はそう言葉を置き換え自分の皿に取り分けたサラダにドレッシングをかけようとした。
「─あ。それじゃダメ─」咄嗟に声が出てしまった。思わず頰が火照るのを感じていた。
「え─?」不思議そうに園田が見返した。
「─ちょっと貸してください」舞はそう言うとドレッシングのボトルを逆さまにし軽く左右に振りながら、
「─ほら。こうすると旨味が均一に混じって、もっと美味しくなるんです─」そうつけ加え目を瞬かせて少しだけ眩しげに園田に向き合うと、また頰を紅く染めた─。



美食の女(びしょくのひと)

美食の女(びしょくのひと)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted