初恋ごっこ
初恋ごっこはおしまい...
何度決心したことだろう、でもあの部屋で耳元に囁く彼の低く切ない言葉、熱い吐息に抗えなかった。もっと責めてと枕に額を押し付ける淫らな私。やがて彼を憎み、そして自分を呪う日が来た。
第一話 トラック
陽春の柔らかな光が射し込む日曜日の朝、近所の並木道でもソメイヨシノがほころび始めている。秋葉俊夫は、両親の住む家、自分の育った古い家を去年大改築し、今は妻の佳子と4人で暮らしている。一人娘の麗奈は少し変わっていて、高校卒業後ウィスキーの勉強をしたいとアイルランドへ行ってもう2年にもなる。妻の佳子とは連絡しあっているようだが父親は妻からしか情報は伝わってこない。まぁ元気でやっているんだろうな、などと思いつつ台所で湯を沸かし地元産の静岡茶を淹れた。まだ家族は起きてこない。広い庭には雀たちが鳴いている。
去年秋にようやく郷里の静岡に返してもらった俊夫である。高校卒業後、機械メーカーに就職した彼はその後30年間以上に亘り全国の営業所を転々としたが、体に衰えが見え始めた両親の看護をしたいからと本社人事部に転勤を申請していたところ、ようやく静岡営業所長の辞令が出たのである。一流メーカーの営業所長となれば地元では名士扱いされ、いわば故郷に錦を飾った格好になり、その点俊夫は密かに満足していた。実際、同期高卒の中では俊夫が最初に所長になっているのだが、トップセールス表彰を何度も受けてきた彼への処遇としては妥当なところであり、今回の人事異動は彼の貢献に報いるという意味も込められていた。
「おはようございます。日曜日だというのにいつもお目覚めが良いですね」
妻の佳子はいつもこんな風な言葉使いをする。それだけでなく、夫を立てて自分は控えめな言動に徹する明治時代のような女である。もちろんそういう妻に不満などないし、むしろこちらが畏まってしまうこともある。もうちょっとざっくばらんでもいいのだけどなあ、と窮屈に感じることもあるがそういう性格なのだから仕方ない。それに俊夫の今があるのもまさに内助の功があったからだと誰もが認める。これまで営業マンとして全国を廻ってきた俊夫だが、後方の憂いなく戦えたのは妻のお蔭である。一度、娘の麗奈が交通事故で入院した時もずっと病院に寝泊まりして介護したのも妻である。折悪くその時俊夫は初めてのアメリカ出張を命ぜられていた。会社に事情を説明して出張メンバーから外してもらおうと思ったが、妻は気丈にも「麗奈のことはご心配なく」とアメリカへ送り出してくれたのだ。会社にもこの経緯はいつのまにか漏れていて「秋葉君、娘さんの容態はどうだ?」と当時の所長が深刻そうな表情をしていたのを覚えている。
「ああ、おはよう佳子。実はね、メタボ解消するため運動でもしてこようかと思ってさ。前回の健康診断で正常値を越えてしまったからな。そこで先月オープンした市の体育館を思いついたんだよ、それにウチの所の女の子たちも来ているらしい。からかって来ようかな、なんて朝から企んでいるんだよ」
「まあ、あなた、メタボ解消はよろしいですけど。折角のお休みなのにお嬢様たちがあなたなんかにお目にかかるなんて可哀そうですわ」
「あはは、可哀そうとはご挨拶だな。まあいいや、もし見かけたら男子トイレにでも隠れていることにしよう」
「そうなさってくださいね、人間やりつけないことをやるとロクなことにならないのですから」
「用心しよう。運動着やシューズは昨日の帰りに用意しておいたのでね、早速行ってくるよ」
やりつけないことをするとロクなことにならない。この言葉が後で実現するなど俊夫も佳子も想像していなかった。
自転車で5分のところに体育館がある。昭和40年代に建設された施設が老朽化したので全面的にリニューアルオープンしたのだ。小学校時代に利用したが、400メートルトラックだけがわずかにその面影をとどめている。ロッカールームに入るとまだペンキの匂いがする。シャワー室もピカピカに光っているしサウナまである。トレーニングジムには筋トレマシンをはじめトレッドミルや自転車。それにダンスを楽しむ鏡張りのスペースまである。25メートルプールは5レーンでガラガラに空いている、なるほど、これで市民利用料200円なら安い、ウチの女の子たちも楽しいはずだ。
そして屋外のトラックに出てみた。赤茶色の地面は昔と変わっていない。向かい側の松林もそのままだ。俊夫は観客席からトラックを思い出深く眺めていた。そうだ、小学5年の時にやったリレー競争でアンカーを任された俺はゴール前で足がもつれて倒れてしまったんだよな。失格になって悔しくて泣いていたところに看護班のあの子、そうだ太田和美が来てくれて擦りむいた膝を手当てしてくれた。あぁ太田和美か…
俊夫は我に帰って階段を降りトラックに立った。さあ、今日は初日だし無理をせず2キロ、ゆっくり5周走ってみよう。まずはストレッチしてと。スタート地点の後方スペースで手足を曲げ伸ばししていると前を一人のグレーのシャツを着た中年女性が通り過ぎてゆく。あれ、まさか太田じゃないよな。俊夫を一瞬ドキリとした。たった今あいつのことを思い出したところで、いくらなんでも手品みたいに現れるはずがない。
ストレッチも入念に済んだところで俊夫もゆっくりとトラックを左回りに走り始めた。朝の早い時間、走っている人の数はまばらで5~6人といったところか。あのグレーのシャツの女性もゆっくりと走り続けているが、俊夫の方に注意を向けている素振りはない。やはり別人だったのか。俊夫が3周を走り終えようとしたところで、女性はスタート地点で止まり、少しコースから外れて置いてあったリュックからペットボトルを取り出して水分補給を行っていた。あと100メートルでスタート地点到着、徐々にあの女性の姿が大きくなってくるが彼女は動かない。俊夫は「人違いだったら謝ればいいだけだ」と意を決し、息を切らせながら彼女に近寄った。
「あのう、失礼ですけどもしかして太田和美さ…」
彼女はニッコリして
「秋葉俊夫君ですね、昔このトラックのリレーですっころんで泣いていた」
なんという偶然だろう。俊夫は嬉しさよりも驚きが何乗にも重なって言葉にならなかった。
「なんだ、気がついていたのか。よくオレだってわかったな。すっころんでお前に手当てしてもらったことをさっき思い出していたんだぜ」
「まぁ、それはそれは。ねえ、秋葉君、せっかくだから一緒に走らない?私はあと2周で今日はオシマイなんだけど」
話の急展開に戸惑いながらも、俊夫は少し余裕が出てきた。
「あぁ、いいな。俺とお前が初めて会ったこのトラックを今になって走れるなんて思いもしなかったぜ」
俊夫の甘ったるいセリフなどロクに聞きもせず、和美はさっさと走り始めていた。
「俊夫君、実はね、あなたがもうこの街に帰ってきているんじゃないかという予感はしていたの。だってご両親のお宅の表札は変わっていないし、去年には改築工事をしていたみたいだし。もしかしたら俊夫君がご両親と一緒に住んでいるのかな、なんて思っていたのよ」
俊夫はわざとゆっくりペースで走ってくれている和美の右に寄り添いながら久しぶり和美のちょっとハスキーな声を聞いていた。
「去年の秋に戻って来たよ。それまでは全国ドサ廻りでさ、えらい目にあったぜ。太田の方はどうしているんだよ」
和美は一瞬はにかんだような表情を見せ
「あはは、太田ねえ。今は佐藤です。でも実家の店は変わらず太田スーパーです。場所ももちろんあのまま、公民館の向かいだわ」
和美が結婚したことは知っていたが、佐藤という名前に変わっていたことは初めて知った。
「今でも店は手伝っているのかい?」
「うん、でも主に帳簿付、パートさんのスケジュール管理、商品の仕入れや廃棄などね、家の中でパソコンとにらめっこ。主人もサラリーマンやっていたんだけど、結局はウチの店を手伝うことになって、今では主人が店長よ。私の父も今年に引退だわ」
「お子さんは?」
「一人息子がいたんだけれど数年前に病気で亡くなったわ」
うっ、想定外の答えに俊夫は戸惑った。つまらないことを聞いてしまった。
和美は空気を読んで務めて明るい声で言った。
「ねえ、俊夫君のお子さんって女の子でしょ?ずっとそうじゃないかと思っていてたのよ」
俊夫もわざとゲラゲラ笑いながら
「さすがだな、その通りです。今はアイルランドにいるよ」
「やっぱりね、お酒の勉強でもしているのかしら」
和美は小学生のころからカンが鋭くてクイズが得意だった。今回もヒントなしで当てて見せた。
「恐れ入るよ、その通り。麗奈っていう名前なんだけどウィスキーの勉強がしたいんだってさ、変わっているだろ?」
あっという間の2周だった。そのまま観覧席に戻り二人で水分補給をしながらトラックを眺めると、遠くに中学生たちが大きな掛け声を出しながら走っている。
「俺たちってさ、小学5年から51歳までだからちょうど40年になるのか。長いなあ」
「ねえ、俊夫君。これだけはハッキリさせておきましょう。私たちの過去はともあれ、今はそれぞれ別の家族を持ち、別の人生を歩んでいるのよね。俺たち長いよな、なんて言葉はやめてちょうだいね」
虚を突かれた俊夫はすぐには言い返す言葉はなかった。もちろん俊夫も今さら和美と寄りを戻そうなどとは思ってはいなかったのだが、偶然に会えた嬉しさでついつい甘ったるい言葉が出てしまった。
「いや、すまなかった。そんなつもりはなかったんだよ。あまりにも偶然だったんでついついヘンなことを言ってしまった。」
しょぼくれた俊夫の横顔を見ながら和美は小さな声で言った。
「私にはね、偶然ではなかった」
「えっ?だって偶然だろ、こんなところで会うなんてさ」
俊夫は和美の真意を図りかねていた。
「だからさっきも言ったでしょ。改築している家の横を毎日通りながらもうすぐ俊夫君に会えるかもしれないって!これから店に出るから帰ります。来週の日曜日はもうちょっとペースアップして走ろうね」
和美は怒ったような顔で階段を駆け下り消えてしまった。俊夫は「一体なんなんだよ、こいつ?」と昔から悩まされてきた彼女との様々な場面が浮かんでは消えた。
第二話 夫婦
体育館で熱いシャワーを浴びてもなお、俊夫は興奮から醒めてはいない。正直言って和美とのことはもうずっと昔のこととして忘れてしまっていたのだ。それが一体どうしたことだろうか、あの赤茶色のトラックに降りたとたんに、初恋の相手、和美がまるで魔法のように湧き出てきたのだ。もう一つ驚いたのは、和美が自分と会えるのではないかと密かに期待していてくれたことだ。いや、オレだってもう孫がいても不思議でない51歳だ。小学校時代の同級生女子と偶然会ったからといって、お前が想いを寄せていてくれたなら、なんてことにならない分別はある。和美にしてもスーパーの仕事もあるし、オレとなんか遊んでいるヒマはないはずだ。更衣室で大型扇風機の前で体を乾かし、紺色のパーカーを羽織るとそのまま自転車に飛び乗った。しかし自分でも可笑しい、なんでこんなにウキウキしているんだろう。いい歳してみっともねえな、と思いつつもついつい春風の中で鼻歌なんかしている。東風に花吹雪が舞う風景は、故郷自慢の光景だ。今朝は何もかも明るく新鮮に目に映る。
「ただいま、久しぶりにいい運動だったよ。おい佳子、初日なのに2キロも走ったんだぞ。すごいだろう」
俊夫はこぼれるような笑顔を妻に向けて叫んだ。両脚はまだジョギングする真似をしている。
「あら、それはようござんした。ねぇ、あなた何だかいいことでもございましたの?」
女の勘は鋭い、佳子は夫の普通ではない興奮した様子を見てすぐに感知した。俊夫もやっと我に帰り、食堂の木椅子に座って冷たい麦茶を一杯飲んだ。体育館であった出来事、どうしても佳子に話したいという欲望は抑えきれない。
「いや、実はさ、体育館で偶然小学校時代の女子と会ったのさ。トラックで彼女らしい女性が走っていたので思い切って声をかけたら、なんと向こうもオレに気づいていたってわけ」
小学校時代の女子ということでとどめ、そこから先のことを言わなければ、堂々としていればいいだけだ。それ以上の関係は妻には言うまい。
「あら、それはまたようござんした。会社のお嬢様たちと鉢合わせになるのでは、と心配すればこの通り。瓢箪から駒ですわね」
結婚当初から佳子はこうやって俊夫の話を引き出すのが上手い。今回も妻の術中にはまりつつある。まぁ佳子が相手だし少しくらいならいいかな、と気も緩む。
「おい佳子、他言は無用だぞ。その女子というのは太田スーパーの和美さんという人だ。5年生の時に同じクラスだったんだけどな、リレー競争でオレが転んで彼女が手当てしてくれたのがきっかけで仲良くしてたんだわ。それでさ、中学、高校も地元の公立に一緒だったんだよ」
佳子はいつもの謎めいた微笑をしている。
「太田スーパーさんなら時々行きますわよ。あそこはお野菜が安いのよね。でもあなたくらいの女性の店員さんなんかいらしたかしら。知っていればご挨拶申し上げたものを」
ほら来た、こうやって時々意地悪な口を密かに叩く佳子、やばいな、これ以上は言わぬが花だ。
「和美はいつも裏方を務めているらしい。店頭にはあまり出ないんだってさ。だから挨拶もしようがないってわけだ」
俊夫も妻の意地悪に半分くらい返したつもりだった。しかしそれで収めてくれる佳子ではなかった。
「あら、スーパーに出てなくても毎週日曜日にあなたのお相手をなさるのでしょうから、やはり折を見てご挨拶に参ります」
図星だ。でもつまらない勘違いをされても困る。
「おいおい、オレは健康のために折角始めたことだから行くけど和美は店があるから来ないらしいよ。あのな、オレと和美はそんな仲じゃないよ。ただの同級生だ。もちろん彼女には店長しているご主人もいるし」
こんなデタラメがよく出てくるものだ、と俊夫は自身で驚いた。今まで誠実な佳子に対して自分もできるだけ隠し事をせず、嘘もつかずにきたと自負している。
「いいえ、私はなにもそんなことを気にしているのではありませんよ。ただ、私以外の方には和美なんて呼び捨てはおよしになったほうがようござんすわ。誤解されますことよ。それに太田さんのご主人のことなど、わたくし訊いていませんことよ」
うっ、女の触覚はどこまでも伸びて来る。最初からこの話はしなければよかった、と今さら後悔する。この場は佳子の機嫌を損ねてはまずい。
「いや、本当にそうだな。人の噂は尾ひれがついて街中に広がるから用心しないと。さてと、昼飯はオレがチャーハンを作ってやるよ。お前はゆっくりお茶でも飲んでいろ」
佳子は何も言わず桔梗に水をやりに庭に出て行ってしまった。
和美の自宅はスーパーに併設されているので職住一体となっている。和美の両親は新潟で農業を営んでいたが、戦後二人で上京して裸一貫からスーパー太田を築きあげ、高度成長期の波にも乗り繁盛してきたのだ。しかし拡大路線は取らず、あくまで地元の目線で商売を続けてきたために、顧客は世代を越えて掴んでいる。オイルショック騒動の時も、状況を的確に判断してトイレットペーパーの爆買いを抑えたのも和美の父であった。その両親も70代後半になってきて、母はすでに家事に専業し父も直接店に出て来ることは少なくなってきた。本来であれば和美の一人息子が跡取りになって欲しいところであったが。3年前に癌で死んでしまったのだ。年老いた祖父の嘆きは一様ではなかった。跡取りがいなくなればスーパーは人手に渡すか。あるいは閉店するしかない。今の太田スーパーには重い空気が漂っている。
和美は自転車を玄関脇に停め、寝室で仕事着に着替えると元気よく夫の喜久雄のところに現れた。実は夫の喜久雄と妻の和美はお互い2回目の結婚だったのだ。和美が最初に結婚した相手は太田の婿養子として迎えられ、父の厳しい指導もあって将来を期待されていたのだが、なんと恥ずかしいことに店の金を持ち出して女と逃げるという暴挙に出たのだった。店の信用もあるので警察には届けなかったのだが、一年ほどして前夫はみすぼらしい姿で帰ってきたのだった。女に騙されたらしいのだが、有無も言わさず離婚、そのまま出て行った。和美が30歳になった頃、市営の結婚相談所の仲介で今の夫、佐藤喜久雄を紹介され結婚した。佐藤は前妻と死別していたが、子供はなく年は和美より3歳上、県内の物流会社に勤務する堅い男であった。縁談はすぐにまとまり、和美の両親も大喜びであった。また喜久雄はスーパーを継ぐという条件にも応じてくれていたので、太田家はまさに春爛漫であった。和美も「悪いことのあとには良いことがある。お天道様は日ごろの行いを見ていてくれたのだわ」と喜久雄に感謝する毎日であった。もともと物流会社勤務の喜久雄だったので、スーパーの仕事の要所は心得ており、義理の父を立てながらもいろいろと手直しや改革を行ってくれ、そういう喜久雄を父は目を細めて眺めていた。
「ただいま、あなた。ごめんなさいね、遅くなってしまったわ」
謝っている割には和美の顔は珍しく輝いている。
「なんだ、もう帰って来たのか。今日は日曜日なんだし、ゆっくりしろよ。店の方はオタカさんが仕切ってくれているから心配ないよ」
「ありがとう。でもみんなが働いているのに自分だけ遊んでいては申し訳ないわ」
和美は両親から受け継いだ昭和モラルからどうしても脱却できない。遊ぶイコール悪事と思っているのだ。
「あのな、遊んで頭を柔らかくすることだって仕事だぞ。今日は店には出るな、パソコンも禁止だ。これは店長命令だ、いいな、わはは」
なあんだ、それなら体育館で秋葉君ともう少しゆっくりできたのに、と反射的に和美は思った。しかし顔色には出さず、夫に向かって言った。
「それじゃお言葉に甘えて今日は遊ばせてもらいます」
「そうしろよ。それにしても今朝のお前、嬉しそうだね。いいことでもあったのか?」
和美は普段あまり明るい顔つきをしていないだけに、喜久雄はニヤニヤしながら訊ねた。
和美も勢いで正直に答えた
「さすがだわね、実はね、体育館で小学校の同級生とバッタリ出会ったの。なんだか懐かしくなって、二人で競技場を走ったりしていたのよ」
喜久雄はますますニヤニヤしている。
「はぁ、そりゃまた結構なことだったね。うむ、男か女かなんて野暮な質問はやめとくけどさ、お楽しみもほどほどにしとけよ、わはは」
息子との死別以来、妻が暗く沈んでいたことを喜久雄は密かに気に病んでいた。毎日、スーパー雑務と家事に追われて、娯楽や趣味など持つ余裕などなく暮らしていた妻に対して、どんなことでも良いから彼女の気持ちが明るくなるようなことがあればいいのに、と日ごろから願っていたところだ。そこに来てどうも今朝の妻の表情からは、小学同級生の男と偶然出会ってウキウキしているらしい。正直言ってその男に頼みたい気持ちだ。
「和美とこれからも仲良くしてやってください」
しかしそれが後日、想定外な形で実現してしまい、その結果、自分の身にも恐ろしいことが降りかかろうとは喜久雄も和美も想像していなかった。
第三話 合鍵
二人が市立体育館で再会して、4か月が過ぎようとしていた。真夏の太陽が容赦なくグランドを照りつける。二人は熱く溶けるような赤茶色の地面を蹴りながら、もうかれこれ30分は走ったであろうか。中学、高校と陸上部に所属していた和美が俊夫のコーチ役を買ってでてくれた。最初は和美について行けず、それに翌日会社でも筋肉痛に悩まされ、苦しくてたまらなかった俊夫は「こんな辛い思いをするなら走るのはもう止めようか」と思ったことさえあった。しかし日曜日の午前中しか和美と会えないことは分かっていたし、それに妻の佳子にもメタボ克服宣言をした手前、憂鬱な思いのままに毎週体育館に来ていたというのが偽らざる俊夫の気持ちであった。しかし先月あたりから、自分の身体が軽くなってきたのがわかってきた。事実、体重も2キロほど落ちた。大好きなビールや脂分の多い食事を控えたのも効果があった。いずれにせよ、これまで仕事一筋で健康に気を配らずに飲食し続けてきた醜い身体が、和美の指導で改善しつつあることは望外の喜びであった。しかし和美のコーチもなかなか厳しい。それに体育館では和美はあまり口をきいてくれない。時々、走り方やスピード調整を俊夫に指示するだけで、終わったらすぐに帰ってしまうところが俊夫にとっては少し不満だ。まるで「私はここに走る目的で来ているの。秋葉君にはついでにコーチしてあげるだけ」と言わんがばかリのそっけなさ。俊夫は和美がそういうツンデレ女であることは承知している。ツンとすればするほど、本当は「かまってちゃん」な女なのだ。いや、別に今さらかまってみたところでどうなるものでもない。オレだって運動が目的で来ているんだ。そうは言っても和美のお蔭で身体がみるみる健康になってゆくのだから、何かお礼はしてやんなきゃ。たまにはビアガーデンにでも誘ってやるか。俊夫も結局なんだかんだ理屈をつけながらも和美のことが気になる。恋愛ではない、友情でもない、ノスタルジーでもない、いやきっとその全部だな。あいつとオレは小学5年で初恋同志、その後中学で一緒に大人になったんだから。しかし今日も和美はそそくさと運動靴をバッグにしまい込み、挨拶もろくにせず階段を駆け上り消え去った。
日曜日は終日休みと夫の喜久雄には命令されているけど、午後は特にやることもないし結局はパソコンのスイッチを押してエクセルシートを開けてしまう。パート従業員の管理は思いのほかに気を遣うものだ。子供が風邪をひいたとかでパートに休まれてしまうと、そのやり繰りで苦労させられるのは和美である。まずは義父、場合によっては義母の応援を頼まなければならない。それでも間に合わなければいよいよ非番のパートに連絡して頼むのだが、休みの日になかなか来てくれない。ある時など、その日の当番だったパートの妹を経験者だというので手伝いに来てもらったことがあった。薄利多売のスーパー経営は人件費抑制が課題であり、ギリギリの人数で切り盛りしている。
エクセルに入力しながらも、和美は今日会った秋葉のことを思い出していた。最初に会った今年の春から毎週日曜日は欠かさず秋葉とトラックを走っている。雨の日は体育館内2階に設置してある楕円形の200メートルコースを走る。2キロ走ったところで秋葉のマックススピードまで上げてゆくのだが、お互いに黙々と走るだけ。4キロ走り終えても、和美は俊夫にその日の反省点を手短に話すだけで、まるで部活みたいな味気なさだと和美も思う。しかし「過去はともかく、今は別々の生活」だと俊夫を窘めてしまった手前、自分からは親しく話しかけることができない。自縄自縛のツンデレ状態、昔から私ってこうだったわ。
和美は自分に問いかけてみる。私の頭の中には小学校の初恋の俊夫君と50歳を過ぎて営業所長をしている中年太りの秋葉さんが同居している。もちろん中年太りの男などに興味はない。しかし同時に彼は初恋の男、しかも何十年ぶりに出会った男なのだ。いまさら愛だの恋だのということにはならない。夫の喜久雄は妻の和美を大切にしてくれるし、今の生活を壊すことなどあり得ない。壊せば女と逃げた前夫と同じ過ちを犯すことになる。でも初恋の相手は影のように私に絡んでくる。トイレや風呂にまでもしつこく後を追って来る。本当は俊夫から優しい言葉をかけと欲しいと願っている、近所を少しドライブなんかしたら楽しいだろうな、なんてパソコンのキーを叩きながらボーっと思っている私は情けない。ダメ、もう限界だわ、次の日曜日で秋葉君と会うのは最後にしよう。走りたいなら平日に時間を見つけて体育館に来ればいいだけの話だ。彼には店のシフトが変わったのでしばらく日曜日は来れない、とでも言い訳すればいい。秋葉君は別にガッカリもしないだろうからそれで解決する。
翌週の日曜日は台風接近のため朝から強い風雨だった。俊夫は近距離ではあるが車を出して体育館に向かった。出る前に和美にはメールで「今日はやめておこうか?」と一応伝えたのだが、今日は会って話したいことがあるので歩いて行きます、との返事であった。話したいことって何だ?しかも台風の今日でなくてはならないというのは解せない。
「やあ、おはよう。台風の中歩いてきたのか。大変だったね、今日は中止にしてもよかったんだけどな」体育館入口でずぶ濡れになった和美を見つけて、声をかけた。
「いいえ、台風だろうがなんだろうが今日は絶対に秋葉君に会わなければならなかったの」
冗談を言っている目ではない。俊夫は今日の和美は尋常ではないことに気がついた。これまでもそうだった。和美は突然何かにとり憑かれたように変なことを口走ることがあった。何やらイヤな予感がする。
「そうか。それでその会わなければならないという用件って何だい?」
俊夫は呼吸を整えながら静かに訊ねた。ここで和美を興奮させてはいけない。
すると意外にも和美はニコニコしながら
「たいしたことじゃないのよ。走った後で話すわね。ずぶ濡れだし着替えてくるから、秋葉君はランニングコースでストレッチでもしていてちょうだい」
キツネにつままれたような気分である。真剣かと思えばおちゃらける。でも密かに心配した「スーパーに金を貸してくれ」ということでもなさそうだ。
「お待たせ~、今日は大雨で体育館は貸切状態だね。さあて秋葉君、問題です。今日は何の日でしょう?」
和美はいたずらっぽく笑いながら俊夫の顔を覗いた。
「何だよ、唐突に。えーっと、お前の誕生日じゃないよな、するとオレの誕生日、そんなわけねえか。いや、エジソンが電球を発明した日とか」
俊夫も記念日には他の男たち同様に無頓着である。こんなことで和美の機嫌を損ねてはマズいなぁ、などと思いながらも素直に「わからない」と答えた。
和美はますます嬉しそうに、まるで俊夫をイジメるように言った。
「あれえ、忘れちゃったのかなあ、私たち二人にとって大事な想い出の日なんだけどなぁ」
ますます困惑する俊夫の顔を楽しむように和美はとんでもないことを言い放った。
「今日はね、二人の初体験記念日」
俊夫は穴のあくほど和美を見つめた。そうか、そうだったのか。もちろん日にちまでは覚えていないが、確かに中学2年の夏にふたりは同時に初体験を済ませた。あの時の記憶が突然俊夫の頭にフラッシュバックした。
「あはは、思い出してくれたみたいね。さあ、走るわよ」
なんだか今日の和美はいつになく上機嫌じゃないか。心配することなんかなかったみたいだ。俊夫は胸を撫でおろし、いつものペースで和美と誰もいないコースを走り始めた。
「だけどさあ、お前よくそんな日まで覚えているな」
和美の最初の一言で二人の空気は和んだ。久しぶりに和美と部活ではない話ができて楽しいのだ。しかも初体験記念日など突拍子もないことを持ち出されるとは愉快でならない。
「当たり前でしょう、自分の部屋で女の子の一番大切なものを秋葉君にあげたんだから。あの時、すごく痛くって泣いちゃったのよね」
昭和歌謡オンパレード、二人の気持ちはあの中学時代のヒット曲とともに甦った。
「そうだったな。オレも初めてだったからさ、緊張しまくりで何度もトライして最後にドッキング成功だった」
和美もゆっくり走りながら視線は窓の外に向けていた。そして突然なにを思ったか大笑いし始めた。
「おいおい、今度はまた何だよ」
和美は可笑しさをこらえながら
「そうそう、そのドッキングに何度も失敗して、秋葉君たら椅子に座らせて私のアソコをず~っと眺めていたでしょ。恥ずかしいやら可笑しいやら!」
俊夫は体育館中に響くような大笑いをした。
「わあ~っ、あったなそういう事件が。どこに挿入していいかわからず、理科の観察みたいにずっと覗き込んでいたわけさ。実は内緒で週刊プレイボーイの袋とじ版で予習してきたつもりだったんだけど、実戦には役に立たなかったんだな」
和美も負けてはいない。
「私もね、少女雑誌ひまわりの性教育コーナーで予習していたつもりなのよ。あの時代はネットもなかったし、友達からこっそり借りて読んでいたら顔から火が出るような恥ずかしいことばっかりじゃない、もう読むのは途中でやめちゃったわ。純情だったんだわね、私も」
体育館で人がいないことをいいことに、二人して大いに初体験談義で盛り上がっていた。和美はできることならずっと俊夫とこのまま走っていたかった。こんな下世話な話を普段の生活をすっかり忘れてすることが楽しくて仕方がないのだ。もうずっと昔のことだけど、二人にとっては鮮烈にして少しコミカルな想い出である。俊夫にとっても初めての女は和美である。しかも試行錯誤しつつ最後は無事に着陸したという甘酸っぱいメモリー、こんな台風の日がその記念日だったとは面白くて仕方ない。
あっという間に1時間がたった。40周8キロを走った計算だ。外はビュービューと風が吹き、雨が大きな窓に当たっている。二人は更衣室前の玄関ロビーに降りてきた。
「ああ、今日は本当に愉快だったな。そんな記念日、ずっと忘れていたよ。さてと、和美。さっきオレに話があるようなことを言ってうたよな」
「うん、でもね、もう終わったの。その記念日のことが話したかったの」
自分が情けない、ここに来るまでの風雨に打たれながら固く決心した秋葉君との別れが言えないなんて。
俊夫は大笑いをしながら
「なんだなんだ、そういうことか。オレはまたお前が今日でお別れします、とかなんとか言うんじゃないかとヒヤヒヤしたぜ。さてと、雨も強いし家まで車で送って行くよ」
「ありがとう、嬉しいな。俊夫君とドライブできるなんて何年ぶりかしら」
ツンデレはもう限界だわ。ドライブ、というところに語気を強めたつもりだった。和美は坂から転げ落ち始めている自分が止められない。
俊夫はなんでもない顔をしながら
「せっかくだから昼飯でも一緒に食うか、和美に時間があればだけど」
「今日はね、珍しく午後も休みなのよ。おなかすいたわね、何がいいかしら?」
心の中では和美に誘いを断られるではないかと心配した俊夫も急に明るい顔をして
「そうだなあ、ちょっと遠いけど漁港近くの天ぷら屋でもどうかな」
「わあ、友八ね、なつかしい。何年も行ってないわ。あそこのお刺身もグーなのよね」
嬉しさを隠さない和美の輝く表情を見て俊夫も大満足。
「今日は二人の初体験記念日です。思い出させてくれた太田和美さんに敬意を表し、不肖この秋葉俊夫がご馳走して差し上げます」
「初恋」という合鍵が、それまで二人を重く隔てていた古い扉を徐々に開けている。合鍵は無味乾燥だった日々を突然ディズニーワールドへ変えてくれる魔法みたいなもの。あぁ、神様、どんどん転がり落ちる私を赦してください。でもこれだけは誓います、絶対に浮気だけはしません。誰もいない雨の駐車場までビニール傘で走り、車に飛び乗った二人。その瞬間俊夫の腕の中に飛び込みたい強い衝動を和美は必死にこらえた。
第四話 嵐の海
日本料理「友八」は明治15年創業の老舗。和美と今の夫である喜久雄が見合いをした店でもある。和美はそれ以来この店を訪れることはなかったが、料理がとても美味かったことはよく覚えている。会食後、二人で漁港近辺を散歩したところでいきなりプロポーズされて和美も驚いたが、すぐに応諾したのが我ながら可笑しかった。きっとあの美味しかった料理のせいだと今では納得している。その見合いの話を俊夫に話してみたくなった。それに喜久雄が二度目の夫であることも、まだ伝えていなっかたのだ。店の重い格子戸を開けると、二人は六畳の奥座敷へ案内された。普段は硝子障子から駿河湾が望めるこの部屋も、今日は浜辺の松林しか見えない。
「ああ、今のご主人とは再婚だってな。うちのヨメがそんなことを言っていた。でも良いご主人でよかったじゃないか、禍転じて福となすだよ」
俊夫は事も無げに言った。和美は少し驚かしてやろうと思っていたのでちょっと肩透かしをくらった気持ち。それにしても自分の過去が俊夫の奥さんにまで知られているとは驚かされる。和美はもう一つ俊夫に言いたいことがあった。
「ねえ、秋葉君。もう昔のことだからこういうこと訊くのは野暮を承知だけど。どうしても訊いておきたいことがあるの」
さあて、お出ましになったぞ、オレの過去の問い詰めが。しかしこうして老舗の和室で正座して対面していると、もう何もかもがお伽話のようにフワっと海に溶け込んでしまうようで、隠しても仕方がないように思えて来る。
「いや、問い詰めは覚悟していたよ。遠慮なく訊いてくれよ。今さら…」
「それじゃあ訊きます。あなたが東京で就職が決まって静岡を出て行く新幹線ホームで、必ず私に会いに夏には帰って来ると言っていたでしょ」
やっぱりその話か。俊夫の心にも釣り針のようにずっと引っかかっていたことだ。ちょうどその時、料理が運ばれてきたので俊夫も一呼吸置いた。和美は雨の庭をじっと眺めている。中居が部屋の襖を静かに閉じてから俊夫は独り言のようにつぶやいた。
「都会の絵具に染まってしまったんだよ」
和美はそれを聞いて噴き出した。笑いを押し殺すように
「私が体育館で言ったひと夏の経験のお返しってわけ。あなたもやるわね」
俊夫はちょっと襟を正すように続けた。
「いや、聞いてくれよ。確かに新幹線ホームでは絶対にお前と将来結婚したいと思っていた。だけどな、初めて来た東京ってところが若いオレには楽しくて仕方なかったんだ。ロックコンサートとか毎月行っていたし、それに代々木公園で竹の子の仲間にも入れてもらっていた。同じ年代の地方出身者たちが寄り集まって青春を謳歌するのが東京、そこで若い女の子たちとも仲良くなる。飲みなれない酒なんか一緒に公園広場で朝まで飲んだこともあったな。会社でも新入社員のオレなんか先輩女子社員が可愛がってくれたりするんだぜ。オレは30歳のお局さんに目を付けられて、彼女のアパートに入り浸りだったし」
「女のアパートに入り浸り」という箇所で和美の耳はピクッと動いた。そんなことだろうなとは思いつつも、なんだか悔しいような気持ちもする。
「へぇ、秋葉君って東京でモテモテだったんだね。それじゃあ私のことなんか忘れるはずだわ。でもさ、私が書いた手紙に返事くらいくれてもよかったでしょ。」
これだけは和美も許せない。心変わりしたならそうだと何で書いてよこさなかったのか。今頃になって俊夫の不誠実さを恨めしく思った。それ以来、俊夫のことを忘れようとして実家のスーパーの仕事に狂ったように打ち込んだ。そして20歳の時、両親に勧められるまま、あまり気の乗らない見合い結婚をしたのだ。
「それを言われるとツライよ。何通も和美から手紙が来ているのは知っていたけど、もう読む気にもならなかったんだ。本当にすまなかった」
俊夫は万感の思いでテーブルに手をついて頭を下げた。自分勝手で不誠実そして嘘つき、それが若い和美をどれだけ苦しめてきたことか。いくら謝っても償いきれない。
「秋葉君。もうずっと昔の話でしょ。きっとそうなんだろうなと諦めていたし、今日直接あなたの口から本当のことを聞けて納得できたわ。ありがとう」
不覚にも俊夫の目頭に熱いものが込み上げていた。初恋、初体験を経て高校卒業時には曲がりなりにも結婚の約束までしていたのに、東京でいい気になっていた自分がおぞましかった。その自分を和美は許してくれるというのだ。涙が溢れてきて止まらない。
「やだぁ、秋葉君ったらなに泣いてんのよ。ほら、お料理が冷めないうちに頂きましょう」
和美は刺身、それに天ぷらなどを小皿に取り分けながら「俊夫君にハンカチーフください~」などと鼻歌で笑顔を見せている。体育館でも料理屋でも和美はここぞという場で場を明るくひっくり返す。
ゆっくりと食事を終え駐車場に戻った二人だったが、暴風雨は強まるばかり。漁港の桟橋は高潮に呑まれ、巨大な水柱を上げている。台風が接近するにつれ、戸外での運転は危険になるのは明らかであった。
「こんな漁港にいたのでは危ないな。早く戻ることにしよう」
両ドアをしっかりロックしたのを確認すると、俊夫は発進したが強い雨でワイパーをフル稼働させてもフロントグラスは曇る。こんな台風の時に、なにも海辺に来なくてもよかったと今更ながら悔やんだが、とにかく安全運転で帰るしかなかった。ラジオ放送にスイッチを入れると、現在台風は中心気圧925ヘクトパスカルで駿河湾上空を東北に向かって時速15キロで移動中との情報であった。
「それにしてもひどい風雨だぜ。こんなことなら近くのファミレスにしておけばよかったな」
「そうね、身の危険を感じるわ。どこか途中で安全な場所が見つかればいいのだけれど」
俊夫はちょっと声を荒げながら
「そんな場所があればとっくに避難してらあ!」
ハンドルを握りしめる俊夫も緊張の極みにいた。
和美はじっと前方を見ている。海沿いの低い県道は今にも高潮が押し寄せて来るような様相を呈している。このままでは本当に危ない。
「命には代えられないわ。俊夫君、その先の信号を左に曲がって」
はっと俊夫は思い出した。高校3年の時、家のクルマをこっそりと持ち出し、無免許運転で和美を最後に抱いたホテル「レインボー」。俊夫は左にウィンカーを出して緩やかな坂道をゆっくりと登った。時々ザーっというバケツをひっくり返したような雨水がフロントガラスを襲いかかる。
「お部屋はこの奥の112号室です。どうぞごゆっくり」
フロントの老婆からプラスチック棒の鍵を渡された。
「レインボー」はいわゆりラブホテル。いくら一時避難とは言え、こんな場所、しかも最後に二人が愛を交わしたホテルでと、と俊夫は思った。黒い扉の部屋に入ると中央にキングサイズのベッドに派手な紫色のカバーがかかっている。しかし二人は避難できた安堵感から同時にベッドに身を投げ出した。
「いやぁ、今日は和美のお蔭でタイムマシーンにでも乗ったような気分だよ。楽しいしスリリングだし郷愁も味わえる。さすが初体験記念日だな」
俊夫は少年のように手足をバタバタさせながらベッドの上ではしゃいでいる。和美はその隣で仰向けになってベージュの天井を黙って見つめている。
「秋葉君、あのさぁ、結婚してから浮気したことある?」
俊夫をバタバタしていた手足を止めて、和美の横顔を見た。
「あはは、だらしねえけど一度もない。全国の支店を3年くらいで家族帯同で転勤していたし、仕事は猛烈に忙しいしそんなヒマはねえよ。第一、オレみたいな風采の上がらない男に靡く女なんかいるもんか。あ、もしかしてここで襲われるんじゃないかと期待しているのか。一時避難でホテルに来ているだけだから、それは無理だろな、あはは」
くだらない冗談を言ったつもりが二人はしばし重苦しい沈黙、そして和美は呟いた。
「私も浮気なんかしたことないよ。スーパーの仕事でヘトヘトだったし、たまの休日は寝ているか、気が向けば体育館で走るくらいしかなかった。それでも今の夫が優しい人だったからやってこれたの。でもね、息子が死んでから私たち夫婦も話をあまりしなくなってしまった。夫も私も悲嘆に暮れる毎日を送っていた。夫は息子の所持品を見るとやりきれないから全部処分しろと言うけど、私は形見として全部取っておきたいと言い返したら、夫はたけり狂ったように私を殴ったの。でもその眼には大粒の涙があったのよ」
子を亡くした親の思いは俊夫にもわかる。もし自分の娘が死んだら生きている気力も湧かないにちがいない。
「いろいろなことがあったんだろうな。でも今のオレはこれでも和美に感謝しているんだぜ。鬼コーチのお蔭でみるみる痩せてきたからな。それに足腰も強くなって、今では階段の上り下りも楽にできるようになった。それにさ…」
和美はさっきから黙っているので顔を覗き込むと、寝息をたてている。そりゃそうだな、毎日クタクタになって働いて、今日は体育館で走って、おまけに台風でラブホテルに避難するというまさに破天荒な一日だった。でもこうして安心して寝ている顔を見ていると愛おしさがこみ上げる。最後に静岡駅で別れた時の18歳の面影が蘇ってくる。とにかく風邪をひかせてはいけない、そっと毛布をかけてやり、頭に枕を敷いてやった。
「はぁ~、よく寝た。今何時かしら?」
「おっ、起きたのか。ちょうど5時になったところだ。うまい具合に台風は去ってくれたよ。ほら海の向こうに薄日が差しているだろ」
西側の小窓を開けると、確かに穏やかな海に太陽が沈みつつあった。
「あのね、秋葉君。大事なお話があります」
「おいおい、またそうやってオレのことからかうつもりだろ。まだ今日は何の日か、とか言うのかよ?」
和美は硬い表情で呟いた。
「今日は二人の浮気記念日です」
キョトンとした俊夫は次に爆笑、もう一年分笑いたい気分だった。
「そうか、二人とも浮気は未経験だから記念日か。だけど残念ながら今日はそうならなかったな。さて、帰るぞ」
俊夫はスポーツバッグを掴み、内線でチェックアウトを告げようと受話器を取ったところ、和美はそれを取り上げて元に置いた。
「おいおい、冗談はもういいよ。ご主人だって心配しているだろ。台風の中、お前が帰ってこないのだから」
和美は受話器に手を置きながら静かに言った。
「さっきね、夢の中で息子が出てきたの。やっと母さんを心から癒してくれる人が出て来たねって。息子がね、智彦がそんなことを」
和美はワッと泣きじゃくりながら俊夫の背中にしがみついた。俊夫と別れてから自分を苦しめてきた様々な苦い思いを全部ここで吐き出したかった。俊夫にそれらを体で受け止めてほしかった。秋葉君にだったら抱かれてもいい。秋葉君は初恋、初めての男。高校卒業してからずっと秋葉君のことを心の奥で待っていた私。結婚してから、これだけ苦しんだんだもの、一度だけならいいでしょう神様。
第五話 潮騒
秋空は、どこまでも青く天を突き抜ける。猛暑だった今年の夏も終わり、10月初旬の日曜日は心地よい涼風がトラックを走る二人の顔を爽やかに撫でる。あの台風の日まではなんとなくぎこちなくツンツンしていた和美も、今では素直に俊夫を再び愛し始めていた。和美は「不倫というのは見知らぬ人と出会って関係を持つこと。秋葉君は初恋の人なんだから、今になって再び愛しても不倫にはならない」という実に都合のいい理屈をでっちあげた。いや、今の和美にとって理屈なんかどうでもよかった。頭は少し禿げ上がって、お腹も少し出て昔の精悍な秋葉君とは違うけれど、この人と一緒にいることが何よりも癒される。もちろん夫の喜久雄は申し分のない人だけど、思い出の質量が秋葉君と夫では違いすぎる。
「今日は先週よりずいぶんと涼しくて走りやすいわね。このままいつまでもどこまでも秋葉君と走っていたい気分になる」
「あっ、それオレもちょっと勉強したぞ。走っているうちに脳からアドレナリンとかいうホルモンが分泌されて、ランナーズハイという快感が…」
「秋葉君のバカ!秋のロマンチックな気分に浸って口にしたのに、何よそのアドレナリンって」
そう口を尖らせながらも、和美の目はキラキラと輝いている。桜咲く4月に再会した時とはまるで表情が違っている。もちろん俊夫も和美と会えて幸せではあったが、和美は少し度が過ぎるようにも見える。いや、度が過ぎてもいい、二人は初恋の仲なのだから憚ることなどないのだ。いつのまにか俊夫も和美のペースに巻き込まれていた。いつもはトラック20周8キロで終えるランニングだが、いつまでも走っていたいという和美の言葉に乗せられて、結局は25周10キロを走った。俊夫は不思議と疲れを感じない、いやそれどころかこの秋の爽やかな朝陽を浴びて、あと5キロくらいは走っていたい気分になっていた。
「いや、本当に今朝は気持ちがいいなあ。ランニングがこんなに楽しいとは思わなかった。これも和美コーチのお蔭だよ。体調もどんどん良くなっていくし、真面目に感謝しています」
俊夫は照れもせず、笑いながら大きく目を見開いて和美の方を向いた。和美も負けずに言い返した。
「秋葉君は私の王子様です!」
おいおい、いくらなんでも51歳のオッサンに王子様はねえだろ、と思いつつ黙って和美にウィンクの真似をしたが、馴れないことで右目が潰れたようになったので和美も吹き出した。目の前のトラックでは中学生たちが県大会に備えて練習しているのに、中年男女がデレデレする姿は見られたものではなかった。
「さあ、お弁当にしましょう。今日は秋葉君の好きなトマトサラダも作って来たのよ」
シャワーを浴び着替えた二人は、体育館に隣接する小高い海浜公園まで足を運び、テーブルベンチに腰掛けた。木漏れ日は濃い影を和美の横顔に落としている。和美も同じ51歳だがこうやって陰影がつくとけっこう年増も綺麗に見えるものだ、などと思う。いや、有体に言えば毎日でも抱きたいイイ女だ。元かと言えば俺が和美を大人の女にしてやったんだから、再び抱いても不倫ではない。俊夫もまた勝手な言い草を心の中で繰り返していた。
海岸道路を西に向かって走りながら、いつもの信号を左折する。あの台風の日に俊夫に抱かれてからというもの、体育館でのランニング後は毎週「ホテルレインボー」に立ち寄る。市の中心にもいくつかホテルはあるが、レインボーは中心から離れているし何より二人の青春の想い出が詰まった場所なのだ。あの台風の日は神様に一度きりという約束で赦してもらったのに、今日までずっと関係は続いている。初恋ごっこはあの日でおしまいにする決意で暴風の中を歩いて体育館まで歩いて来たのに、結局は秋葉君の太い両腕が私を押さえつけてしまう。いえ、それはずるい言い方だわ、求めているのはむしろ私かもしれない。彼に耳元で囁かれると背筋がゾクゾクと感じるし、舌で全身を嘗め回されると恥ずかしいくらい喘ぎ声を上げてしまう。それに私の大好きな後ろ攻めで私は歓喜に狂う。先週なんか、気がつくと大人の玩具を差し込まれたので思わず振り返ったら、秋葉君が悪魔のような笑みを見せてスイッチを入れ替えしていた。こんな痴態やめてえ、と叫びながらも白い枕カバーに額を押し付けて言われるままに腰を突き上げている私。地味なスーパーのオバサンがやることではないと思えば思うほど、秋葉君の用意した蟻地獄へ落ちてゆく。
思い起こせば、中二で初体験をして以来、秋葉君意外の男とはセックスを楽しんだことはなかった。今の夫とも長男が生まれてから交渉はなかった。お互い忙しくてそんな心の余裕もなかったし、両親とも同居していたから猶更だった。今はそのご無沙汰分をイッキに取り戻している。50歳を過ぎてこんなにも激しい快楽が中年女を待っていたなんて思いもよらなかった。秋葉君は浮気したことがない、なんて言っていたけどあれはウソだわ。女の快感スポットを知り尽くし、玩具まで巧みに操るのがその証拠。もしかしたら今も私の他に誰かと不倫しているんじゃないかしら、と疑えば疑うほど嫉妬で身体が熱くなってくる。ダメ、絶対に秋葉君だけは渡さないわ、まさか奥さんいもこの同じ玩具を使っているんじゃないでしょうね….さすがにそれは怖くて聞けないけど、同じ玩具を突き刺さしているのなら、きっと私の方が狂喜しているはず。秋葉君のあの悪魔のような笑みでピンときたわ。
性の饗宴を十二分に楽しんだ二人はターンテーブルの丸いベッドに横たわった。
「毎週ここで、秋葉君に調教されているみたいだわ。なんかムカツク」
「あはは、これまでランニングでさんざん調教してくれたからそのお返しさ」
和美は俊夫の厚い胸に顔を乗せながら、人差し指でクルクル胸をなぞっている。初恋の男とこうして身体を寄せ合う安心感、そしてこれまでの砂を噛むような味気ない人生をまさに虹色に変えてくれるホテルレインボー。やっと苦しみや絶望から解放され楽園で暮らせる時が来たと和美は自己に弁解していた。もちろん夫を裏切ることはやるせない気持ちで一杯である。あんなに優しくて和美のことを思いやってくれる人はいない。でもバレなければいいんだ、息子の智彦も認めてくれたんだ。
「ねえ、私たち、これでいいんだよね。不倫はいけないことなのは重々承知しているけど、私たちって初恋同志だから100パーセント不倫でもないんだよね」
「うん、オレも同じことを考えているよ。でもバレたらオシマイだぞ。くれぐれもラインやメールの履歴はすぐに消そうな。決定的な証拠になっちまうから。ほら、ちょっと前にそういうことしてライン履歴で不倫がバレた女性タレントがいただろ」
「あなたも気をつけてね、秋葉君。夜中にラインなんかしながらニタニタしていれば、奥さんに怪しまれるんだから。女はそういう勘が鋭いのよ」
そう言えば、佳子が最近何やらよそよそしい態度を取ることがある。あれは疑っていることなのかもしれない。
午後4時、無情にもチェックアウトタイムが来た。いつまでもこうして一緒に寄り添っていたい気分の二人であったが、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。夕陽が西の海へ沈みかかり、秋風が桜の枯葉を浜辺へと運んでいた。二人の車はホテル駐車場から再び市街へとゆっくり走り出した。
「ねぇ、綺麗な海だわね。水平線あたりが豆電球の束みたいにゆらゆら揺れているわ」
左隣で運転している俊夫は思わず
「ほお、詩人みたいなことを言うね。そんじゃさ、沈む前にちょっとだけ浜辺に降りてみるか。でもちょっとだけだぞ、人に見られたらヤバイからな」
「うん、じゃあちょっとだけね」
和美は嬉しくてたまらない。一分でも長く一緒にいたかったのだ。
側道の駐車場に車を停め、砂浜におりると潮の香りがツーンとしてきた。周囲に誰もいないことをよく確認してから、水際まで手をつないで歩いた。実に美しい景色である。夕暮の地平線、ウロコ雲、そしてかすかな潮騒…静岡に生まれてよかったと心の底から思う瞬間である。そして今は手を握って初恋の相手といる。あぁ、神様、ありがとう。こんな素敵な時間をくださって。夕陽で朱に染まる和美の頬にに、一筋の涙が流れていた。
あ、そうだ、忘れていた。ホテルに入ってからスマホ電源をずっとオフにしていたんだわ。オンにして着信記録を見て驚いた。母から100件以上の電話不通履歴がある。尋常じゃないわ、とにかく母さんに電話しなきゃ。
「もしもし、私、和美。母さん、何度も電話くれたみたいだけど、何かあったの?」
打ち寄せる波に素足を洗わせながらも和美はしっかりとスマホを握っている。
「もしもし、和美!アンタ今どこにいるの!喜久雄さんが家で突然倒れて救急車で運ばれて今病院にいるのに、アンタって全然電話に出ないんだから。もしもし、聞いている?」
母親は電話の向こうで怒鳴っている。和美も真っ青になって叫んだ・
「どこの病院なの?ねえ、どこよ!」
「県立昭和病院の集中診療室よ。あんた、すぐに来なさい!」
話を横で聞いていた俊夫も血の気が引いた。二人がホテルにいる間に和美の夫が病院に運ばれたらしい。とにかく一刻も早く病院へ駆けつけなければ。
二人は砂浜を一目散に駆け抜け車に飛び乗り、昭和病院へ向かった。ここからおそらくあと30分くらいはかかるだろう。
「ねえ、秋葉君。主人は大丈夫よね、ねえ」
和美が動揺するのは無理もない。よりによってこんな時に夫が倒れれば心は乱れるはずだ。
「突然倒れたってことは、発作か梗塞かもしれないな。とにかくここは落ち着くことだ。いいか、和美。病院に到着しても取り乱してはいけないぞ。」
正直言って、俊夫はイヤな予感がしていた。ご主人の最悪の場合も想定しておかなければならない。病院前の玄関口に車が到着すると、和美は兎のように飛び跳ねて中に入って行った。何かわかったら連絡しろとだけ最後に和美に言い残し、俊夫はいったん自宅に帰ることにした。自宅に着いても、俊夫は気が気でない。もちろんご主人の安否も心配だが、こんな時間まで和美はどこにいたんだ、と両親に問い詰められるのは必至である。心配事は次から次へと膨れ上がるばかりで、その夜はまんじりともせず、月曜日の朝を迎えた。
最終話 修道院の朝
東棟4階の集中治療室まで和美は駆け上がった。息を切らせながら祈るような気持ちで治療室に飛び込むと喜久雄は人工呼吸器を当てがわれ、和美と喜久雄の両親に見守られながらベッドで横になっていた。扉がバタンと開くと、4人の目は一斉に和美に向けられた。
ちょうどその時回診に来ていた主治医に和美は懇願するように叫んだ。
「先生、どうか主人を助けてください、お願いします!」
医師は努めて冷静に言った。
「奥さんですか。ご主人は午後1時頃にご自宅で倒れられ、お母さんに発見された午後3時までそのままの状態でした。その後病院に救急車で運ばれたときは、脳卒中で意識不明の重体でした。できるだけの治療は施しますが、予断は許しません」
沈痛な表情で医師はそれだけ言うと、病室を出て行った。和美の母親が治療室の外に出るように和美を促した。
「喜久雄さんが居間で倒れてから私が発見するまで2時間経っていたのが致命的だったと先生はおっしゃるのよ。もっと早く病院に担ぎ込まれていたら処置のしようがあったけど、おそらくもうダメだと仄めかしておられたわ。ねえ、和美。あんたがこんな時間までスマホのスイッチを切って誰と一緒にいたかくいらいは見当ついているよ。喜久雄さんもね、それに気づいていながらもあんたの青春の想い出を大事にしてやりたいと黙認してくれたんよ。これまで辛い思いしかしてこなかったあんたに、少しは楽しい思いをさせてやりたいとも言っていたのよ。もちろん私も父さんも地べたに頭をこすりつけて侘びたわ。喜久雄さんの寛大さにあんたも私たちも甘えてきた結果がこれなのよ。あんた、喜久雄さんとご両親にどうやってお詫びするつもりなの!」
夫の優しさに胡坐をかいて、同級生と密会を楽しんでいた自分を呪った。そして相方の俊夫に対しても憎悪が止まらない。私たちの初恋ごっこが夫の死を招いた。もし私が家にいたならば、夫は助かったのかもしれない。このままで済むはずがない。きっと二人には天罰が下る、いえ、下らなければ不公平だわ。その時、医師と看護師が集中治療室に飛び込んでいった。和美は怖くて中に入れない。間もなく和美の母が外に出てきた。
「たった今、喜久雄さんは息を引き取ったよ」
葬儀はセレモニーホールで、しめやかに執り行われた。参列者は温厚な顔をした喜久雄の遺影に手を合わせ焼香を済ませた後、斜め後ろに控える和美に黙礼をする。その突き刺すような目線に和美は耐えながら深々と頭を下げる。既に街中で噂になっているらしい、今までそれに気づかず浮かれていた自分に今さらながら恥じ入るばかりであった。
桐棺の中で眠る夫は実に穏やかな顔をしている。今にも起き上がって「おう、和美。帰って来たか。今日のランニングはどうだった?」などといつものように話しかけてきそうだ。夫の急逝をまだ和美は受け入れられない。そして何より俊夫との密会を知っていたなら、なぜ叱ってくれなかったのか、それが悔しくて情けなくてたまらなかった。
翌日の告別式。桐棺は黒塗りの霊柩車に喜久雄の両親の手によって乗せられた。喜久雄の両親から和美が火葬場へ同行するのは遠慮して欲しいとの異例の申し出があったのだ。遺骨はそのまま持ち帰り、佐藤家の墓に埋葬すると言うのだ。喜久雄の墓参りにも来ないで欲しいと強く申し渡されている。どれだけ彼らが和美を憎んでいるかがよくわかる。和美は霊柩車の後ろから目立たぬように見送ることにした。クラクションを鳴らしながらゆっくり発進する車に数珠手を合わせながら、もう二度と見ることのない夫の姿をもう一度思い浮かべた。間もなく車は見えなくなった。和美は力なく後ろを振り向くとなんと俊夫が喪服姿で和美の方を黙って見ていた。黒い喪服を身に纏った男と女が、ホールの細い円柱を挟んで向かい合った。俊夫は小さく和美に頭を下げたが、和美はじっと俊夫を見つめている。やがて和美は玄関の中に消えて行った。俊夫はそれでもその場を離れることができず、火葬場の方角に目を向けていた。
あの日、海岸から病院へ和美を送り届けて以来、彼女から全く連絡はなかった。眠れぬ夜を過ごした俊夫だったが、翌日営業所から帰宅すると妻の佳子から喜久雄の逝去を知らされたのだ。覚悟はしていたものの最悪の事態に俊夫は呆然自失としながら出勤した。本来であれば出勤どころではなく、和美のところへすっ飛んで行ってやるべきなのかもしれないが、妻の佳子は、夫と和美の密会中に喜久雄が倒れ、そのまま亡くなったのだということを匂わせる様な言い回しをしてきた。すでに和美と俊夫のことは佳子をはじめ周囲に漏れていたようだ。そんな中でまさか和美に会いに行くわけにはいかない。それに俊夫が和美にラインやメールを送っても、全く反応がないのだ。
仕方なく出勤はしたものの全く仕事が手につかなかった。喜久雄が脳卒中で亡くなったのは不幸なアクシデントだと自分に言い聞かせた。しかしもし昨日の昼に和美が家にいて、喜久雄が倒れた直後に病院に搬送していたら命は助かったかもしれない。喜久雄が倒れた1時頃に我々二人は体育館のテラスでのんびりとサンドイッチを食べていたのだ。のみならず、そのあとはホテルで喜久雄を、いや佳子も裏切りながら平然と性の快楽に溺れていたのは紛れもない事実だ。喜久雄を殺したのは我々二人だ。そう思うと俊夫は何もする気力も起きず、何も食べる気持ちにもなれない。
翌日が告別式、そして出棺と聞いていたが、参列するわけにもいかず、会社は休むことにして、午後になると喪服に着替えて家を出た。玄関で妻は「お帰りになったらお話がございます」とだけ俊夫に言った。俊夫は無言で頷いた。もう覚悟はできている。
セレモニーホールに到着すると、ちょうど出棺を済ませ霊柩車が出てゆくところであった。俊夫は建物の角に隠れながらも発車のクラクションを聞くと、両手をしっかりと合わせた。心の中はただ「申し訳ありませんでした」という言葉しか思い浮かばない。俊夫はひたすら喜久雄の冥福を祈った。自分が代わりに倒れていたなら、どれほど心が楽だろうと思わずにはいられない。車が見えなくなったところで、ようやく俊夫も角から現れたところで柱を挟んで和美と立ち向かいとなったのだ。玄関の中に消えて行った和美を見送りながら、俊夫の心には「共犯」という忌まわしい言葉が沸々と湧いてきていた。
年が明けて、和美から自筆の手紙が自宅に届いた。
「秋葉俊夫様 主人の四十九日も終わりました。これからの法要はすべて佐藤様方で執り行われているので私はもう完全に部外者です。その辺の事情はもう秋葉さんのほうでご賢察のことと思います。私は今、北海道は旭川にいます。今年の初めにカトリック修道院の門を叩き、すべてを修道院長様に正直にお話ししたところ入門を許されました。今は神に仕えるシスターとなるべく修行中です。今回のことで己の罪深さに恐れ慄いています。私が主人を殺したという事実は、たとえ法律は見逃してくれても、神様は許してはくださらないでしょう。ミケランジェロの「最後の審判」のように、きっと私は罪人に振り分けられ地獄に突き落とされるのです。それでも生きている間は、犯した罪を神様に祈ることで少しでも償いたい、優しかったあの人の魂にひれ伏していたい、そう思い立ってここに来ました。この修道院での生活は私の心を徐々に癒してくれています。どうぞご心配なさらぬように。もう秋葉さんとは二度とお目にかかることはありませんが、どうぞお体に気をつけお過ごしになってください。それではどうぞお元気で。 フランチェスカ太田」
俊夫はその手紙を何度も読み返した。俊夫も佳子から離婚届を手渡され、あとは押印して市役所に提出するだけとなっていたのだ。今回は幼馴染との不倫というだけでは済まない事件となってしまった。ただでさえ昔気質の佳子なのに、醜聞の的となった俊夫と結婚生活を維持することはできなかった。俊夫は届け出に押印すると居間のテーブルに乗せた。コート姿に着替えると、和美の手紙を懐に入れそのまま静岡空港へタクシーで向かった。
その日の夕暮時、旭川の修道院の中庭で、礼拝堂の窓を一人見つめる男がいた。冬の旭川は氷点下20℃にまで下がることもある極寒の地。こんな場所で暖房もない中庭で立っていること自体が尋常ではない。修道女がその姿を見つけ。2階の宿坊から中庭に降り用件を尋ねると「いや、明晩また来る」と言い残してどこかに消えて行った。そしてその男の言う通り翌日の夕刻に再び中庭に現れた。この奇怪な話は修道院の中で知らぬ者はなかった。和美はその男が俊夫ではないかと思った。そこで修道院長に自ら願い出てその男に会いに中庭に出た。イチョウの木の下で俯いていたのは果たしてその俊夫であった。
和美は彼に近づき、とにかく寒さから逃れるために修道院の玄関ホールへ案内した。
「秋葉さん、事情はこの前手紙でお知らせしたつもりです。これ以上、何か私に御用でもおありですか?」
「ああ、俺も君と同じ罪人だからな、神様に一緒に祈りたいと思ってね」
思いもよらない俊夫の申し出に和美は躊躇した。できればこのまま静岡に帰ってもらいたかった。第一、修道院の礼拝堂は原則として男性は入れないことになっている。しかし俊夫の目は驚くほど落ち着き払っている。和美も覚悟を決めた。
「わかったわ。一緒にイエス様にお祈りしましょう。ただ修道女たちが怪しむから、あなたは一旦外に出て、裏門からそっと入ってきてここに戻ってきてちょうだい。鍵は開けておくわ。私は急用ということにして旭川市内に泊れるよう院長様にお許しをもらっておくわ」
俊夫は言われたままに、いったん中庭を通って正門を出た。2階の窓からは修道女たちが俊夫を訝しげに眺めている。俊夫は外でしばらく待機してから裏門から中に入り玄関ホールに廻ると、すでに和美が待っていた。和美は俊夫の手を取って急ぎ足で礼拝堂の重い扉を鍵で音をたてないように開け、祭壇前最前列の固い椅子机にたどり着いた。大きな窓からは満月の光が礼拝堂に差し込み、祭壇の十字架は床に濃い影を落としている。二人にはもはや言葉は要らなかった。和美も俊夫も自身が地獄に落ちることは覚悟している。しかし落ちるにしても最期は二人で手を握って一緒に落ちたい。そう、「最期の審判」で番人たちに棍棒で殴られ足蹴にされながら地獄に落ちてゆく罪人たち、それが和美と俊夫だ。
礼拝堂には暖房が入っておらず、気温は外気とそれほど違わない。冷凍庫のような礼拝堂で二人はただひたすら手を合わせて祈った。喜久雄に神の祝福があることを、そしてその代償に二人は地獄に落ちる覚悟はできていることを。和美の唱えるカトリックの言葉を俊夫はあとに続いて言う。この繰り返しであった。次第に二人の身体は寒さで凍るように冷たくなってきた、それでも二人は祭壇に向かって跪き祈る。やがて二人の意識は遠のいてくる。
「神様、どうぞこの罪深き二人を…」と和美が再び唱えた時だった。突然十字架のイエス像が口を開いた。
「汝らの罪はこの十字架とともに私が背負っている。さあ、来るがよい」
和美は驚きのあまり、自分の耳を疑った。
「秋葉君!聞こえた?今の神様の声を!」
凍え切った俊夫はわずかに目を開いて和美を微笑みながら見つめた。
「ああ、聞こえたよ。神様はオレたちを赦してくれたんだな。天国へ行けるんだな、和美」
そう言うと俊夫は机にガクっとうつ伏せとなりそのまま動かなくなった。和美は朦朧とする意識の中で神に感謝の言葉を続けた。
「神様、ありがとう。あなたは私たちを慈悲深く見守ってくださったのね」
和美の溢れるばかりの涙目の向こうに、窓の外の朝陽がかすかに輝き始めた。あっ、俊夫君だ!小学校5年のリレー大会で、倒れそうになりながらも死力を振り絞ってゴールテープ目指している秋葉君。なつかしい競技場のトラックはクラスメートたちで埋め尽くされ応援合唱。そうよ、そのまま走り抜けて。私はここで待っているから!(完)
初恋ごっこ