水曜日の散歩道

1

 ぎっくり腰になった。ショッピングセンターの駐車場の入口で誘導棒を振っていたときだ。くしゃみをした瞬間、腰に稲妻のような激痛が走り、みるみる顔の血の気が引いた。まるで金縛りにかかったみたいに身動きがとれなくなった。日曜日の混みあった駐車場の入口で、跳び箱から着地したような体勢のまま警備員がぴくりとも動かないのだから、同僚が異変に気づくまで、さんざんクラクションを鳴らされる始末だった。
 整形外科医がレントゲン写真を眺めながら、ぎっくり腰などよくあることだといった調子で語る間も、激痛は続いていた。
 「それよりもね」と医師は言った。
 「腰椎の四番と五番の間が少しつぶれかけていますね。このままだとヘルニアになる可能性がありますよ」ボールペンで問題の場所を指し示した。
 確かに他の部分よりも、椎間板が狭まっているのがわかる。
 「竹内さん、失礼ですが、お幾つにになりますか」
 「来月で四十五歳になります」
 「腰痛の要因はね、はっきり言ってしまうと老化ですよ。いやなに、そんな顔なさらないで。背骨の老化はね、誰でも二十代以降じわじわと進行しているんですよ。これ以上悪化させないためには、インナーマッスルとアウターマッスルを鍛えないといけない。ちょっと後ろを向いてください。いいですか、この脊柱起立筋が・・」医師の指が背骨をなぞった。
 くすぐったい感じがしたが、それ以上に腰の痛みのほうがひどかった。
 竹内孝一。彼のことを矢吹要(やぶきかなめ)の名で呼ぶ人はもう少ない。かつては劇団『虹色派』の座長であり、小さなファンクラブさえ存在した。しかし劇団が解散してから、もう六年がたっている。髪の生え際が少し後退しつつあった。医師が口にした「老化」という言葉に軽い衝撃を覚えつつ、孝一は壁をつたうようにして診察室を出た。
 外で千鶴が待っていた。孝一は千鶴に支えられながら廊下を歩いた。
 「老化だって言われたよ」
 「そりゃあもう若くはないでしょ。くしゃみをしただけでこんなになるんだから」
 千鶴はいつものように弾んだ調子で笑った。たいして明るい気分ではないときも、彼女は弾んだ調子で笑う。苦笑とか、微笑とか、そんな微妙な笑い方ができないのだ。笑うときは笑う。そんな千鶴の性格が、孝一の心の支えになっている。
 「運動しろって言われたよ」
 「じゃあさっそく運動しましょう」
 「運動って、なにをすればいいんだろう」
 「とりあえず、散歩でもしてみよっか」
 タクシーに乗り込むにも腰を曲げられずに難儀しながら、その日はアパートへ直帰した。
 一週間ほどでぎっくり腰の症状はやわらいだが、腰のいちばん下のあたりにまだ痛みが残っていた。例の椎間板のあたりだ。これから毎週、二人で申し合わせて定休にしている水曜日に、近所にある河沿いのサイクリングロードを海まで歩くことに決めた。往復で二時間ぐらいの距離だが、休み休み行けばいいと千鶴が言った。
 水曜日の朝、千鶴はお弁当を作った。考えてみれば、二人で出かけることなどこれまでほとんどなかった。孝一は借金を抱えていたし、ショッピングセンターの食品売り場でアルバイトをしている千鶴の収入もたかがしれている。外食をしたり、旅行へ行ったりできるほどの余裕が二人の家計にはなかったのである。近くの河沿いを二人で歩くというだけでも、千鶴にとってはイベントであるらしい。朝から卵を焼いたり、おむすびを握ったりしていた。
 散歩なんて何年ぶりだろう。孝一はコルセットを巻いた腰をかばいながら、濁った川面を渡ってくる少し悪臭のあるそよ風を深く吸い込んだ。
「気持ちいいね、こーちゃん」
 千鶴は心なしか早歩きで孝一の前を歩いた。
 本当に散歩なんてひさしぶりだと孝一は思うのだった。外出が嫌でたまらなかった時期があったから。俳優としてブレイクしない自分、自分の才能を認めない世間、世の中のすべてが悪意に満ちているような気がしていた長い年月。明日の大スターかもしれない自分の傍らを無関心に通り過ぎてゆく人々。劇団の座長だろうがファンクラブをもっていようが、容赦なく酷使されるアルバイト。なにもかもが不満であり、世の中のすべてが冷たく感じられた。町を歩いていても、いつも孤立感がつきまとっていたのだった。千鶴と出会ってからようやく、少なくとも孤立感だけは薄らいできたように思う。
 「ほら、あの人たちを見て」
 お弁当の包みを開きながら千鶴が耳元でささやいた。
 作業着を着た初老の男女が立ち話をしている。サイクリングロードの清掃員だろう。
 「あの二人、すごく楽しそうに話してる。恋人かな」
 これは千鶴の癖だった。小説家を志望している彼女は、人間に強い関心を抱いている。いつも道行く人々を眺めては、あの人はどんな仕事をしているのかな、とか、あの夫婦はたぶんうまくいっていない、とか、あの若者は親の遺産で生活しているなどと想像するのである。しかしそれがあながち的を外していないように思えるから、孝一をよく笑わせた。いまも、お弁当の包みを開きかけたままじっと初老の男女を見つめて、
 「きっとあの二人は苦労人だね。あの歳で働いているからそう思うんじゃないの。あのいたわり合うような二人の表情を見てそう思うのよ。きっと二人とも、これまで伴侶に恵まれてこなかったんだわ。長い間孤独な生活をしてきたのよ。でも二人は、清掃の仕事で出会ったのよ。まだ二人はお互いの年齢を気にして恋心を抑えているけれど、それでも二人の距離は急速に縮まりつつあるのよ」
 「なるほどね。で、二人はどうなると思う」
 「付き合う。一生添い遂げるよ」そう断言した。
 千鶴はお弁当箱の蓋を開けると、もう一度清掃員のほうを見つめて言った。
 「長い苦難の道を歩いた人だけが、約束の地を見るんだわ。何度も言うけど、これがあたしの文学のテーマなの。あたしはハッピーエンドを追及してるんだよね。でもね、何がハッピーなのかは、人の価値観によってちがうでしょう。あたしはね、あぁこんなハッピーエンドもあったのかって思わせる作品が書きたいんだ」
 文学を語っているときの千鶴の目は輝いている。孝一はそんな千鶴の目を見るたびに十年という歳の差を思い、もはや取り返しのつかない自分の過去を悔いるのだった。
 孝一は大学を出ている。堅実に勤めていたら、今ごろはアパートで暮らしてなどいなかっただろう。大学一年生のとき、ミュージカルを上演するサークル『東京ミュークル』を結成し、それがマスコミにも取り上げられるほど話題になった。卒業するころには役者として生きてゆく意志をすっかり固めて、ミュークルの結成メンバー数人と、新たに公募したメンバーを加えて劇団『虹色派』を立ち上げた。孝一は「結成趣意書」を書くほどの意気込みだった。第一回公演のチラシの裏に、その文章が載っている。
 〈マスメディアが肥大した現代において、芝居の主流はテレビや映画の独壇場と化している。しかし、そもそも芝居というこの芸術は、舞台演劇から生まれてきたのではなかったか。僕たちはその原点に立ち返り、全国の演劇場から、新しいと銘打たれる演劇の可能性を発信してゆく心意気である。ビジネスに堕した芝居を、芸術の力で再生させるのである。今こそ僕たちは・・〉それ以上は読むに耐えない。孝一は思うのだ。若気の至りだと。読み返すたびに恥ずかしくなる。
 劇団が好評を博しているうちは、それが偽りのない志だったのは事実だった。しかし立ち上げから二年が過ぎ、小劇場の客席さえ埋められなくなってくると、孝一はむしろ積極的に大手芸能プロダクションのオーディションを受けるようになった。テレビや映画に出て、とにかく有名になりたかった。一日も早く知名度を上げて、俳優として生きていきたかった。劇団の活動費を稼ぐために費やされるバイトの日々が負担だったのだ。劇団員のすべてがバイトをしていたため、稽古の日取りを合わせるのも一苦労だった。チケットを売る作業、舞台装置を自前で作る作業、やることはいくらでもある。にもかかわらず、多くの時間をバイトに費やさねばならないのである。有名になって大金を得られれば、余計な苦労をしないでもすむと孝一は考えるようになっていった。
 大学時代からのメンバーは二年ほどですべて姿を消した。今からならまだ引き返せる、普通の人生に戻れる、退団の理由はみな同じだった。一方で、公募で集まったメンバーは芝居に青春を賭けていた。中でも平井翔平はハリウッド進出を夢見ており、孝一の頼もしい片腕になった。翔平は名もない芸能プロダクションを辞めて虹色派に入ってきた。酒に酔うとプロダクション時代のことをよく笑い話にしたものだった。
 「要さん、そんでね、そのプロダクションの広告にさ、君が明日のスターだ!って、ドカーンと書いてあったんすよ。俺、すげえ興奮しちゃって。で、オーディション受けてみたら、みごと合格通知っすよ。これで俺も明日のスターだぜぇって舞い上がっちゃって。だから俺、まだプロダクションに顔を出すまえから同級生に自慢しまくったんすよ。好きだった女の子にもね。そしたら、なんとなんと、レッスン料を七十万振り込まないとスターにはなれないってそこの社長が言うんすよ。でもそれを払えばじゃんじゃんオーディションを受けて、仕事もいっぱい入るとか説得されて、もちろんそんな金持っちゃいないから、親に頭下げて出してもらいました」
 「よくそんな大金を出してくれたなぁ」
 「土下座しましたよ!俺の人生がかかってる、ここで俺の将来が決まる、だからお願いしますって。でね、レッスンを始めたんすよ。俺みたいに大金を払ってきた連中と一緒に。そのレッスンの講師ってやつがね、元俳優を自称してて、梅宮辰夫とか高橋英樹みたいな大御所の名前をひんぱんに出して、いかにも知り合いみたいな感じで呼び捨てにするんですよ。梅宮も若い頃は・・みたいに。ちょーインチキ臭いっすよね!」
 翔平は腹を抱えて笑うと、振り返って「おねーさん、生ビールおかわり!」と声をあげた。
 「でね、そのインチキ野朗が、こう言ったんすよ。君たちは役者になるからには、死体の役だってやらなければならない。その覚悟はありますかって。おかしいでしょ?明日のスターじゃなかったの?これが新人の覚悟を促すためのことばだったらまだゆるせる。ところがですよ、最初にもらった役が、『ミスター熱血教師』の生徒の一人。しかも、ミスターのクラスの生徒じゃなくって、隣のクラスの生徒っすよ。そんなエキストラみたいな役ばっかり、かれこれ三年もね。ついには『やさぐれ剣士』で本当に死体の役をやらされた。斬られてうわぁーってシーンがあればまだマシっすよ。すでに斬られてるんすから!オカッピキが筵をめくる一瞬だけ顔が映りましたよ。
 こんな感じ。」翔平は生気のないとぼけた表情をしてみせた。そしてテーブルを叩いて笑った。
 「その映像をテレビで見てね、俺、なんだか情けなくなっちゃって・・。親に七十万も払わせてなにやってんだって。そう思ったら、俺・・」
 ジョッキを握ったまま急に翔平は下を向いた。水洟をすすり、やがて肩を揺すって泣き出した。翔平はそんな下積みを経て虹色派に入団してきたのだった。
 孝一は翔平の無念をさんざん聞いているから、自分は決して同じ轍を踏むまいと、大手の芸能プロダクションや映画の主演オーディションのみに的をしぼった。容姿にも、演技力にも自信があった。まがりなりにも劇団を率いる座長なのだというプライドもあった。
 しかし、ことごとく落とされた。
 オーディションの審査員は腕組みをして、露骨に溜息をつく。
 「なんだかなぁ、ありきたりなんだよねぇ」くさくさした様子で頭を掻く。
 「スランプだった打者が、ようやく放ったホームランだよ?その一打の喜びだけが問われているんじゃない。彼が打てなかった日々、迷い続けた日々、その深い闇が晴れて、何かが見えた瞬間だ!君の演技だと、ただホームランを打って浮かれているだけにしか見えないんだよなぁ」
 孝一は審査員の話にうなずきながら、内心では「うるせーよ」と唾棄したいような気持ちになっている。審査員の口髭、後ろで縛った長髪、おまえも絵に描いたような業界人じゃねえか、ありきたりじゃねえか。上着を肩に巻いてるやつなんて未だにいるとは思わなかったぜ。こんな俗物になにがわかるっていうんだ。偉そうな口たたくんじゃねぇよ!そう心の中でぶちまけて、一礼して会場を去る。そんなことの繰り返しだった。

2

 「ねえ、あのおじいちゃん、何を見ているんだろうね」
 千鶴が耳元でささやいた。
 サイクリングロードの果てるところ、護岸の先は海である。その海を眺めて佇んでいる老人がいる。千鶴の感性が見逃すはずもない人物だった。
 孝一はひさしぶりに長距離を歩いて息があがっていた。千鶴はそんな孝一のトレーナーの袖を指でひっぱりながら「ねえ、こーちゃんはあの人のこと、どんな人だと想像する?」
 「ああして海を眺めているわけだから、若いころ船乗りだったんじゃないかな。若かりし日を思い出しているんだよ、きっと」
 「それじゃあありきたりだなぁ」
 孝一は少しムッとした。「じゃあ千鶴はどう思う?」
 「あのおじいちゃんはね、瀬戸内水軍の末裔なの」
 「ここは東京湾だよ」孝一は笑って言った。
 「いいの、どこでも。とにかくあの人は瀬戸内水軍の末裔なのよ。でもそのことを知らないまま、あの歳まで生きてきたの。お役所勤めを引退して、何年かはゴルフをしたり園芸をしたり、悠々自適に暮らしてきたんだけど、最近になって、子孫に自伝を遺そうと思い立ったわけ。それで半分ぐらい書き進めたところで、自分の家系に触れる必要が出てきて、わざわざ本家の土蔵の中をあさって古文書なんかを眺めていたら、自分が瀬戸内水軍の末裔であることに気づいたのよ。瀬戸内水軍といえば、陸を走り回るように広い海を縦横に駆け巡った人たちなわけよ。中央の権力に屈しないで、自由に生きてきた人たちなわけよ。そんな水軍の血が自分の体にも流れているんだと思ったら、急に自分の人生が虚しく思えてきたの。書くべきほどのことが自分の人生にあったのだろうか、自分は水軍のように自由に生きたことがあったのだろうかって。そんなことを考えながら海を見ているんだわ。どう?」
 そう言われてみると、そんなふうにも見えた。
 老人の視線の先に、水軍の幟がたなびいているのかもしれない。忘れかけていた野蛮な血、あるいは情熱が、胸に込み上げているのかもしれない。
 「千鶴は、さすがだね」孝一は真面目な顔をしてつぶやいた。
 千鶴は相変らず弾んだ調子で笑うと、孝一の腕にもたれかかり、二人はもと来た舗道を引き返した。気持ちのいい汗が孝一の額から一筋流れた。
 毎週水曜日の散歩は三日坊主で終わらなかった。老化に抵抗しようとする切実な意志が、孝一を積極的にしていた。千鶴にとってはピクニックだった。そのために『カリスマ主婦が作るとびっきりのお弁当』という本まで買ってきたほどだ。前日の天気予報が二人の共通の関心事になった。
 「ただ歩くだけじゃダメなんだって」
 前を歩いていた千鶴が振り返って言った。
 「上半身をまっすぐにキープして、肘を軽く曲げて肩甲骨を動かすように前後に大きく振るの。脚は股関節を意識して大股で歩くとバランスのいい筋肉の使い方になるってネットに載ってた」
 「変な歩き方だなぁ。俺、その歩き方はしたくないや」
 「健康のためなんだからやらなきゃ。この歩き方は十五分程度でも効果があるらしいから、せめてそれぐらいはしないとダメ」
 二人は大股で歩いた。顔が上気して汗ばんできた。いつも休憩するベンチにたどり着いた頃には、孝一の息はすっかりあがっていた。
 「やっぱり俺の体、衰えたな。実感するよ。この程度でも苦しいや」
 「あたしはみるみる健康になっていく気がするわ」
 千鶴はぴょんぴょん飛び跳ねてみせた。
 河を渡ってくる風が汗ばむ頬を乾かした。平日の昼下がり、サイクリングロードのベンチに腰をかけて、川面や空を眺めながらお弁当の包みを開く。こんな穏やかなひと時を孝一は永く忘れていたし、千鶴も同じ気持ちだろう。
 ベビーカーを押した若い女性が、二人の前を通り過ぎていった。千鶴は水筒の蓋を開けながら、遠退いてゆく女性の後姿を見つめていた。
 「あのひと、綺麗な身なりだね。穏やかな顔をして。やっぱりあのひとは、そこの高層マンションの住人かな」
 孝一も千鶴と同じ方を向いた。やるせない思いが、胸の奥でうずいた。
 千鶴は口にしないだけで、やっぱり子供が欲しいのだろうか。本当は手狭で湿っぽいアパートなどで暮らしたくないのだろう。暖かくなってきたのに、どこにも旅行にさえ連れて行ってあげられず、二人で近所を歩いてお弁当を食べている。こんな生活が、みじめでないわけがない。俺がしっかりしないために・・。
 千鶴がお茶を差し出した。
 「あたしはね、あえてこう想像してみるの。あの人、実は高層マンションの住人じゃなくて、向こうの古い団地で暮らしているんじゃないかって。その方が意外性があっておもしろいし、あの人の魅力が倍増する気がするんだよね」
 千鶴の表情は嬉々としていた。悲壮感の欠片もない、いつもの千鶴なのだった。
 千鶴と出会ったのは三年前。ショッピングセンターの従業員休憩室で見かけたのが最初だ。それから半年ぐらいは、すれ違うときに「お疲れさまです」と声をかけ合う程度だった。あるとき孝一が給茶機の前に立っていると、背後に千鶴が立っていた。話しかけてきたのは千鶴のほうだった。
 「竹内さんっていうんですよね。竹内さんは、夢追い人でしょう」
 いまでも孝一は、この印象的な一声をはっきりと覚えている。
 「なにかやっていたか、今もやっている人。だって、家庭の臭いが全然しないし、いつも考え事をしているような顔をしてる。あたしは小説家を目指しているんです。前から一度、竹内さんと話したいなって思ってたんですよ」
 孝一もまた千鶴の興味を引かずにはいられない人間の一人だったわけである。なによりも孝一は「夢追い人」ということばに惹かれた。なるほど、そんな詩的な言い方もあるわけだ。
 始めのうちは「演劇を多少」などと口を濁していた孝一も、控え室で顔を合わせるたびに話しかけてくる千鶴の、屈託のない笑顔と奇抜なおしゃべりに心を開き、いつしか役者として生きてきた自分のことを、ぽつりぽつりと語り始めた。やがて、孝一の心の傷になっている「進藤光」のことまで話してしまったときには、千鶴は自分のアパートを引き払って、孝一の部屋で暮らしていた。
 お弁当箱をリュックにしまうと、千鶴は「うーん」と伸びをした。
 「あたしはまだ、普通の生活には興味ないなぁ。それよりも今は、ネズミに夢中なの。オオミユビトビネズミって知ってる?大きな目をして、長い尻尾を持ってて、三メートルぐらいジャンプするんだよ。あたしね、そのネズミを主人公にして『空跳ぶねずみタップの冒険』っていう童話の構想を練っているところなんだ。おもしろそうでしょう」
 「ずいぶん長い名前のネズミだね」
 「オオミユビトビネズミ。へへ。やっぱりタップのセリフの語尾には『チュー』って付けたほうがいいのかな。食べまチュー、跳びまチュー」
 「チューはありきたり過ぎないか?」
 「だよね。チューはやめまチュー」
 千鶴は大きく深呼吸すると、肘を前後に振りながら大股で歩き出した。孝一もリュックを背負うと、羞恥心と葛藤しながら大股で後を追った。

 日中の日差しが夏めいてきた。孝一は詰め所に入るなり、誘導棒を机に投げ出して椅子に座った。まだ腰が痛いのだ。長時間立っているのが辛かった。心待ちにしていた休憩時間、麦茶を一気に飲み干すと、虚脱したような溜息がしぜんと出た。携帯電話を見ると、翔平からの着信があった。翔平とはいまでもときどき連絡を取り合っているのだが、孝一の勤務時間を知っているはずの彼が昼間から電話をかけてくるなんて、よっぽど何か話したいことがあるにちがいない。孝一は煙草をくわえたままかけ直してみた。
 「あ、要さん、おひさしぶりです。元気っすか。腰のほうはどうですか。俺のほうは相変らずトラック転がしてますよ」翔平らしい覇気のある声だった。
 彼はいま故郷の金沢に戻り、父親の運送会社を継いでいる。
 「ニュース見ました?俺、ヤフーニュースで見たんすけど、進藤のヤツ、再来年の大河ドラマの主役に選ばれたらしいっすよ。ほんと、あいつ、とことん運のいいヤツっすよね。まぁ、運しかないけど。あんなのが大河の主役張るなんて、俺もう、日本の芸能界に愛想が尽きたって感じっすよ」
 「そっか、進藤が大河に・・。まぁ、ふーんって感じかな。俺はとっくに日本の芸能界なんて見捨ててるし」
 「そんなこと言わないでくださいよぉ。要さんにはまだまだがんばってもらわなくっちゃ。この先いくらでもチャンスはありますから。要さんに必要なのは運だけっすよ。芝居ってのはこうゆうもんだって、進藤のヤツに見せ付けてやってくださいよ。俺ね、ああゆう運だけで行っちゃう野郎って、今でも大嫌いなんだよなぁ。俺は断然、要さんのような実力派しか認めませんから。頼みますよぉ、俺は矢吹要の弟子だって、友達に自慢させてくださいよ」
 「もう休憩が終わるから。またかけなおすよ、ごめんな」
 孝一は慌てた口調で電話を切った。が、まだ休憩に入ったばかりだった。
 ショックを受けていた。ついに、進藤光が大河ドラマの主役に抜擢されたのだ。もう、完全に手の届かないほどの高みにヤツは行ってしまった。
 進藤光は元、虹色派のメンバーだった。確か、八回目の公募のときに入団してきた。劇団始まって以来の美男子で、最初は女かと思ったほど端整な顔立ちをしていた。しかし、ジム通いで鍛えられた身体はほどよく筋肉が隆起しており、性格もがさつで男っぽかった。団員の間でワイ談が始まると、ホスト時代に見聞した数々の淫行を面白おかしく語って皆を笑わせたものだった。孝一は、進藤のことが気に入っていた。
 進藤が入団してから二年目の秋、秋期公演の台本を配ったその日、彼は劇団を去った。
 皆が稽古場の思い思いの場所で台本に目を通していたときだった。その静寂を破るように進藤が突然立ち上がった。
 「また要さんが主役じゃないですか。ここって、座長しか主役張れないんですか。みんな要さんの引き立て役でしかないじゃないか。いったいどうなってるんですか」
 単刀直入に進藤に詰め寄られた孝一は、言葉を詰まらせた。何か言い返そうと身を乗り出しかけたとき、翔平が立ち上がって怒鳴り出した。
 「おい進藤、思い上がったこと言ってんじゃねえよ!てめぇはまだ駆け出しじゃねえか。要さんは何年この世界でやってると思ってんだ。生意気なこと言ってんじゃねえぞ」
 進藤はあきれたような顔をして笑い出した。
 「何年やってるとか、そんなことが問題になるんですか。何年やってるかで配役が決まっちゃうんですか。だったら映画もドラマも年寄りだらけですよ」
 「なんだこの野郎!」翔平が進藤に掴みかかると、団員たちが間に割って入った。
 進藤が突然こんなことを言い出したのは、おそらく彼が劇団の体質に疑問を抱きながらも、その思いを長らく抑え続けてきた結果にちがいない。二年間、孝一に気兼ねして言えなかった不満が蓄積して、ついに爆発したのだろう。
 これまで、孝一が主役を独占しても周りから不満の声が上がらなかったのは、出演者全員に花をもたせるように配慮された脚本を孝一が書いてきたからだろう。それぞれの役が相関図の重用な一点を占め、できるだけ全員が目立つようにしてきた。その中心に位置する役を孝一が担当してきただけだった。もし孝一が弁明するとしたら、きっとそう言ったはずだ。もっとも、それよりも大きな理由は、劇団の運営費と労力を一番多く負担しているのが孝一だったから、当然主役は座長のものという暗黙の了解もあった。
 その点に意義を唱えた進藤は、もう劇団にはいられない。
 「辞めます」と、進藤は孝一の目を見すえて言った。
 孝一は動揺していた。進藤の唱えた異議が正しいとわかっていたから。
 出演者全員に配慮した脚本、劇団への最高額の負担、それらはすべて、自分が主役をやりたいがための努力だったのだ。せめて自分の劇団で主役ぐらい張れなかったら、いったいどこに役者としてのアイデンティティがあるのか。孝一は、仲間の馴れ合いを崩さないよう細心の注意を払いながら主役の座にしがみついてきたのだった。そんなみっともない涙ぐましい努力と苦心を、皆の前であからさまに批判されて、孝一は恥ずかしさと怒りで全身の血が煮えくりかえるような気がしたが、必死に自制しながら、
 「辞めたきゃ、辞めろよ」と静かに言った。
 「お世話になりました」
 進藤は稽古場の隅に退いてゆき、バッグにタオルや水筒を詰め込んだ。彼もくやしくてやりきれなかったのだろう。皆に背を向けたまま大声をはりあげた。
 「俺は絶対に成功するからな!絶対に有名になってやる!」
 稽古場から出て行く進藤に向かって、孝一は吐き捨てるように言った。
 「なってみろよ。この世界がどんなに厳しいか、やってみりゃいいさ。おまえぐらいの芸歴で、思い上がるな」
 本心ではなかった。けれども、こう言うことで自分のキャリアを暗に強調し、自分が主役を演じることの正当性を進藤や他の劇団員に示したかったのだ。
 それが二人の別れだった。

3

 それから半年あまり経って、進藤は連続テレビドラマ『刑事(デカ)侍』の端役を射止めた。闇黒街の情報を垂れ込む男娼の役だった。虹色派の団員たちは「ここまでプライドを捨てたくないよな」と言って笑ったが、このドラマは高視聴率を獲得した。立て続けに進藤は同局の『背徳の館』に出演、一家を振り回すアル中の次男を熱演して好評を博した。劇中の彼が口にする「知ったこっちゃねえよ」という台詞は、その年の流行語大賞になった。進藤が演じる役はどれも異常なものばかりであり、泣けば鼻水ばかりかヨダレまで垂れ流し、素っ裸で女に足蹴にされるシーンもあった。端整な顔立ちは奇怪なメークをほどこされて地の良さを完全に損なっている。与えられた仕事をなりふりかまわずこなしているにちがいなかった。
 そんな進藤がひときわ光彩を放ったのが、映画『ガダルカナル 餓島』だった。荒んだ戦場を描破した映像はすさまじく、進藤は上官にケツを掘られたり、死人の肉を食ったりしたが、それでもなお生に執着して生き抜く二等兵の姿は観客を号泣させた。孝一も映画館で泣いた。この映画は海外でも話題を呼び、権威ある国際映画賞を受賞した。進藤は主演男優賞に輝いた。
 進藤のこのスピード出世を評して、翔平は「運が良かったんだ」と言う。ただの運だ、と。孝一も同意してみせた。しかし内心では進藤の精一杯の努力と才能を認めないわけにはいかなかった。
 孝一はいつも、ネットで進藤の記事を探して読んだ。下北沢のアパートで暮らしていた進藤が、有明の高層マンションの最上階を購入し、モデルの華香と付き合い、いつのまにかミュージシャンのRINKОと婚約したが、不思議系アイドル竜造寺愛とのお泊りデートをスクープされて破談になった。そんな記事が日々散見された。
 虹色派の活動はますます難しくなっていった。観客の減少をいかにしても食い止めることができなかったのだ。孝一は何度も、公演のチラシに「進藤光出身の劇団」と刷りたい誘惑にかられた。しかし進藤は円満に巣立っていったわけではない。どうしてそんな一文を入れることができるだろう。
 そんな折、孝一はキャバクラ嬢に入れ込んだ。知り合いの舞台監督が競馬で大穴を当てて、一晩かぎりの豪遊に付き合ったのである。そのとき入ったキャバクラでレイナと出会った。お店の一番人気であり、芸能人も顔負けの容姿だった。孝一は自分のことを「進藤光の師匠」だと言い、舞台俳優としては名が通っていると豪語し、当代きっての俳優たちをことごとく呼び捨てにして茶化した。レイナは孝一に強い興味を示し、メールアドレスを教えてくれた。貯金などいくらもないのに、孝一はレイナと会うたびに食事をおごり、服を買い与えたりもした。しかし世故に長けたレイナは、孝一が業界の底辺に生息する雑魚にすぎないことをすぐに見抜いた。だから決して体を許さなかった。それでもレイナに入れあげる孝一は、ついには複数の消費者金融に手を出し、劇団に投入するお金などまったくなくなった。
 孝一はさまざまなオーディションを受けた。大役を獲得することができれば劇団も存続し、借金も完済し、レイナもきっと付き合ってくれる。一発逆転に賭けたのである。進藤への対抗心もあって、相変わらず孝一は大手芸能プロダクションや大手映画製作会社に狙いをしぼった。つまらない脇役など絶対にやりたくない。二十年も役者をやってきて、どうして今さら、ラーメン屋の店主とか、セクハラで訴えられる上司とか、花瓶で頭を殴られる害者の役などができるだろう。しかし、ことごとく落とされた。
 劇場を借りる資金もなくなり、虹色派は活動を休止した。ちょうどこの時期、進藤主演の映画『サイキック執刀医』が大ヒットしていた。孝一は落ち着きなく煙草をふかしながら、机の前で腕組みをしたり、頭を抱え込んだりしていたが、やがて吹っ切ったように便箋にペンを走らせた。
  
   拝啓 進藤光君
 君の活躍を、いつも楽しみに見守っています。
 突然こうして君に手紙を出したのは、どうしても伝えたいことがあったからです。
 『ガダルカナル 餓島』の演技、本当に最高でした。人間の原質をえぐり出したような君の迫真の芝居に、ぼくは率直に心を打たれました。あの映画をみて以来、芝居とはなんなのか、役者とはなんなのか、そんな根源的な問いが、ぼくの魂を揺さぶり続けています。君に感謝しないといけない。君はあらためてぼくに、芝居の楽しさを思い出させてくれた。
 君と一緒に活動した日々が、今ではすごくなつかしい。君のあふれるばかりの才能が、まだ原石だったころの淡い輝き、それを知っている、数少ない目撃者の一人ですから。『サイキック執刀医』の藤村医師が、以前は劇団の会費さえ払えなかったほど窮乏していたこともあったかと思うと、そのギャップに、親心にも似た可笑しみを覚えたりします。
 虹色派のみんなが、君のことを誇りに思い、会いたがっています。多忙を極める君に時間の余裕などないのはよくわかっていますが、ぜひ一度、どこかで再会したいですね。ぼくをはじめ劇団のみんなに、君の芝居の妙技の秘訣を、こっそり語って聞かせてください。
 進藤光のますますのご活躍を、いつも祈っています。ご連絡をいただければ幸いです。

  追伸
  下北沢界隈のビールの味を忘れたとは言わせないぜ。
                          敬具

 進藤の現住所を知らない孝一は、彼が所属するプロダクション宛にこの手紙を出した。進藤が過去を水に流してくれるようにと心底から祈った。進藤が一言、たった一言、マスコミの前で虹色派や矢吹要の名前を好意的に口にしてくれれば、自分の人生はいっきに開ける。孝一はわずかな希望にすがり付く思いで、進藤からの返事を待った。少なくとも半年の間、毎日待ち続けていた。しかし、いつまで待っても返事は来なかった。もしかするとあの手紙は、多くのファンレターの中に埋もれて進藤の手に届いていないのかもしれない、そう疑ってみたりもしたが、さすがに半年も待って返事が来ないという事実を直視できるようになってくると、むしろ進藤の手に届いていないことを願った。無視されたのだとしたら、これ以上の恥辱はなかった。手紙にたくした一抹の希望は、巨大な後悔へと変わっていった。いつか進藤が、あの下心まる出しの媚びた手紙をバラエティ番組かなにかで話題にでもしたら、自分は日本中の笑い者になる。そう思うと眠れなくなる夜もあった。もう、自分の役者生命は終わったと思った。
 孝一の腰痛の遠因は、このころにあるだろう。
 かさんだ借金の返済のために、高収入のバイトを求めて転々とした。道路工事、電化製品の配送、水商売。高収入とはつまり重労働の別称であり、アパートには寝に帰るだけの生活が続いた。活動を休止した虹色派は、気がつけば自然消滅していた。翔平が東京を捨てて金沢へ帰るとき、二人は居酒屋で別れの杯を交わした。孝一はビールをあおり、泥酔しようとした。酔いにまかせて翔平に頭を下げたかったのだ。しばらくは無言で飲み続けた。
 「ごめんな、翔平。こんなことになったのは、俺がキャバ嬢に入れ込んだりしたからだ。いい歳をして、本当にバカだったと思う。本当に、すまなかった」
 「よしてくださいよ、要さん。劇団の活動ができなくなったのは、要さんのせいじゃないっすから。全然そうじゃないですから。今どきの連中は、携帯をいじったり、家でDVDを見たりして、劇場に足を運ばなくなったんすよ。時代の流れには逆らえない、それだけのことですよ。それにね、要さんは学生時代からずっと劇団の活動をしてきて、すべてを虹色派に捧げてきた。そんなストイックな生き方をしてきたんだもの、一度ぐらいキャバ嬢に夢中になったって、誰も責めやしませんよ。むしろ成功したときに、テレビで笑い話にすればいいぐらいです。俺は要さんを尊敬しています。要さんのおかげで、今日までやってこれたって思ってます。要さんに世話になったことも忘れてこの世の春を謳歌してるバカもいるけど、あんなヤツ、いつかボロが出て消えますよ。俺も親父が体調を崩したりしなきゃずっと要さんとがんばるんだけど、ほんと申し訳ありません。いつも要さんに迷惑ばかりかけて」
 夜行バスの停留所まで二人で歩いた。いつか虹色派を復活させよう、自分たちの個人事務所を持とうなどと、前向きな話に終始した。バスが来ると翔平は、「ありがとうございました!」深々と頭を下げた。このとき孝一は、ひとつの時代が終わったのだと実感し、翔平と抱き合って泣いた。

 水曜日の散歩は続いているし、これからも続けてゆけると確信して、孝一と千鶴は新しいウォーキングシューズやジャケット、それにスポーツタイツまで買った。いつも家計を切り詰めている二人にとって、ひさしぶりの出費だった。共通の趣味を得たことが二人の気持ちを高揚させた。途中で食べるお弁当も、楽しみの一つだった。
 千鶴がお弁当の包みをほどいたり、水筒の蓋にお茶を注いでいる間、孝一は空を眺めていた。綿をちぎったたような雲が、ゆっくりと流れていた。
 「あのさ、進藤光が、再来年の大河の主役に決まったんだって」空を眺めたままつぶやいた。
 「へぇー、すごいじゃん。なんの役なの?」
 「松永弾正。戦国時代の悪者だよ。その悪者をあえて主人公にしたところが注目されている。難しい役だけど、あいつには向いてると思うよ」
 千鶴は孝一にナプキンと箸を差し出すと、自分は指でプチトマトをつまんで口に入れた。
 「あたしね、進藤光の演技って、好きじゃないのよ。あのひとがこーちゃんの因縁のひとだからそう思うんじゃなくてね。あたしもね、一応芸術家の端くれだから、そのつもりで言わせてもらうと、あのひとの演じる役って、どれも奇抜でしょう。奇抜な役って、実はそれほど難しくないと思うのよ。オーバーアクションで、思いっきり顔をゆがめたり、叫んだり、暴れまわったり、そういうのって、案外簡単だと思うの。進藤光は上品な顔立ちだからね、そういうひとが下品なほどのオーバーアクションをするところに、あのひとの持ち味があるとは思うんだけど、本当の演技、お芝居の真髄って、なんでもない人物を、なんでもなく演じながら、だけど見る人の心に何かを残す、そこにこそあると思うのよ」
 「なんでもない人物?」
 「そう。つまりあたしたちのこと。どこにでもいるひとたちのことよ。スーパーでレジを打っているひと、駐車場の警備員、公園の清掃員、幸せそうな主婦、海を眺めているお年寄り。普通の人生を、普通に生きているひとたち。進藤光が演じてきたのは、特殊なひとたちばかりなのよ。芸術の本当のすごさって、なんでもないひとたちの、なんでもない日常の中に、美しい詩や、意外な物語を発見することにあるんだわ。自分でも気づいていなかった美しさや、醜さが、あたしにもあるということ。それを教えてくれるのが、芸術なのよ」
 孝一は千鶴の少し後ろを歩いた。すれちがうひとたちにいちいち挨拶をする千鶴の習性が、単なる社交性ではなかったのだと孝一は思った。自分はなぜ、主役にばかりこだわり続けてきたのだろう。そんな疑問が今になって心をかすめた。どうして脇役を拒絶し続けてきたのだろう。千鶴が言った「ふつうのひと」、そのふつうのひとのことをまるで知らなかったからだろうか。知らなかったというよりも、関心がなかった。スポットライトを浴びるひとたちだけが、この世に確かに存在しているのだと思っていた。たぶん、そうだった。
 千鶴がいつものように顔を寄せてきて、耳元でささやいた。
 「ねぇ、ホームレスって、どう思う?」
 千鶴の視線の先に、ゴミ箱をあさっている身なりの汚れた男がいた。
 「あたしね、ああいうひとを見るたびに思うの。ホームレスになるって、すごいことかもしれないなって。だって、いまの日本なら、働こうと思えば仕事の一つや二つ、きっと見つかると思うし、なにもゴミまであさらなくても、助けてくれる人や施設はあると思うんだよね。それでもあの生き方を選ぶには、きっと越えなければならない一線があると思うの。その一線を越えるのは、なみなみならぬことだと思うわ」
 孝一は、生気のないホームレスの、無精髭に覆われた横顔を遠巻きに見つめた。
 「ルンペンって、他人事じゃないかもしれない」
 なんだかそんなふうに思えた。
 「俺も、一歩まちがえたら、ああなっていたかもしれない。なにもかもが嫌になって、どうでもよくなって、ゴミ箱をあされば飢えがしのげる程度の食べ物が手に入るなら、もうそれでいいって、そんなふうに思えるほど、この人生がどうでもいいもののように思えたことがあったかもしれない」
 「それよ、それ!」
 千鶴は目を輝かせて孝一の顔を覗き込んだ。
 「今のこーちゃんなら、きっと日本一のルンペンを演じることができるわ」
 「それって褒められてるのかなぁ」
 二人は声をあげて笑った。
 サイクリングロードの果てるところ、海まで来た。
 いつか千鶴が「瀬戸内水軍の末裔」と言った老人が、いつものようにそこに立っていた。
 「今日こそ話しかけてみようよ」千鶴は意を決したように言った。
 「どうやって」
 「ふつうに話しかければいいのよ。あたし、あのひとがいつもあそこで何をしているのか、知りたいの。知りたい誘惑に打ち勝てないわ」
 自然な感じを装って、二人は老人のほうへ歩いてゆき、千鶴が「こんにちは」と声をかけた。
 老人は深い瞑想から醒めたように二人のほうを見て
 「こんにちは」と応えた。
 「おじいさん、いつもここにいますね。海がお好きなんですか?」
 老人は目尻の皺を深く刻んで微笑んだ。
 「丹田呼吸をしとるんですよ。臍下三寸のところに力を入れて、ふぅーと深く息を吐く。これを繰り返すと頭がすっきりしてくるんだなぁ。健康の秘訣ですよ」
 「おじいさんは、お幾つなんですか」
 「七十九になるかな。でも気持ちは二十年若い」
 「ぼくたちにも丹田呼吸というの、教えていただけませんか。いまね、ぼくたち、健康になろうとしているんです」
 「ああ、いいとも」
 三人で海に向かって立った。お腹に手を当てて、息を吐いた。
 「深く息を吐ききると、その反動で自然と息が吸い込まれる。そしたらまた吐く。息は吸おうとしなくていい。吐ききれば自然と吸い込まれるから」
 潮の匂いがした。防波堤に打ち寄せる波の音がおだやかだった。遠くに船尾を向けたフェリーが見えた。
 「おじいさんは、瀬戸内のひとだったりします?」孝一が切り出すと、「よしてっ」千鶴が顔を赤らめて袖口を引っ張った。
 「千葉の生まれだよ。以前はそこに見えるコンビナートで働いていたんだ。わたしも散歩が日課でね。曾孫がみたいから、長生きしようと思ってね。あなたがたは、お幾つ?」
 「四十五と三十五です」
 「ああ、まだ若いねぇ。うらやましいなぁ」
 そよ風が降りてくる空の向こうへ、海鳥が羽ばたいていった。
  
 もし、うだつの上がらないサラリーマンの役を演じるとしたら、彼がこぼす愚痴の中に、彼が生きてきた年輪(ねんりん)を刻もう。場末のソバ屋の店主を演じたら、ナイター中継に見入りながらも、まちがいのない手つきでソバを湯がく、その手つきを演じてみよう。もしホームレスを演じたら、生気のない表情の奥に、それでも生きていたい執着を込めよう。
 水曜日の散歩はまだ続いている。千鶴の少し後ろを歩きながら、孝一は好奇心にあふれた目で、通りすがりの人々を眺めている。
 孝一は郵便ポストの前で立ち止まると、ポケットから白い封筒を取り出した。俳優養成オーディション係と書かれていた。孝一はしばらく封筒を見つめて、それをポストに入れた。千鶴は先に行ってしまい、遠くで振り返って孝一のことを呼んでいる。「おそいぞー」
 孝一は背筋をまっすぐ伸ばすと、両肘を前後に振りながら、大きな歩幅で歩き出した。

水曜日の散歩道

水曜日の散歩道

あきらめた夢、ありますか?

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-14

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