たたりもっけが飛んでゆく

矢水びん 作

たたりもっけが飛んでゆく
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7
  8. 8

1

 彼は自分がどこにいるのかはっきりと解っていた。群生した植物、立ち並ぶ木々、地に転がる岩には碧い苔がびっしりと生えている。彼は森にいた。いや正確には、森の土の中にいた。
 彼の記憶するための器官は、まだ十分に発達していない。だから、彼は一体どうやってここへ来て、そしてどうして土の中にいるのか、ぼんやりとしか思い出すことができない。一番最初に覚えているのは、粘液にまみれた真っ暗で狭い通路を移動していることだった。その後、彼は閉じたまぶた越しにまぶしいものを感じた。まぶしいもの……彼はそのまぶしいものの名前が“光”だということは知らなかった。誰からも教えられなかったからだ。
 手足を動かそうとしても、全く動かない。体中全ての関節が、石膏で固められたように硬直してしまっている。口は開いている、そこに大量の泥が入り込んでいるのだが、苦しさは全く感じない。彼は呼吸をしていないからだ。
 彼は死んでいた。その身体は既に腐敗が進み、土中の微生物や虫によって、分解作業が行われている。落ちくぼんだ眼窩の奥に、カブトムシと思われる巨大な幼虫が鎮座しているのが解る。彼にとってそれらの生き物たちは、嫌悪の対象では全くなかった。何故こんなにも自分の身体に集まって、そして食い荒らしているのか、そこに恐怖は一切なく、純粋な好奇心だけが存在していた。
 すると、旺盛な食欲を見せていた彼らが、突如一斉にいなくなった。眼窩の底の幼虫さえもが逃げ出した。彼はその理由をぼんやりとだが理解した。自分の身体の周りから、奇妙な気配が迫ってくる。ゆっくりと、雨水が土に浸透してゆくかのごとく、じんわりと、彼に向かって全方向から気配は移動してくる。やがてその気配は、彼の身体をすっぽりと包みこんだ。
 彼の自我はじわりじわりと、その気配の中に溶け込んでゆき、ついには跡形もなく消え去った。
 かつての彼の自我を取り込んだ気配は、地中から這い出し、しんと静まり返った暗い森の中へと消えていった。
 ほう、ほう。
 どこかでフクロウが鳴いていた。

2

 どこの誰が言い始めたのかは知らないが、異ヲの街は時に“黒真珠”に例えられる。光沢のある黒いビル群が立ち並び、特に月夜、月光を浴びて黒く光る街並みは、確かに黒真珠を連想させる。
 しかし、そんな洒落た形容をかますのは、大抵は一度も街を訪れたことのない者か、夢見がちの思春期の若者(特に女性)、ナルシストの作家、そしてこの街の富裕層の住民ぐらいだ。一日でもこの街に滞在し、その空気を味わってみれば、黒真珠という形容の浅薄さ、中身の無さに気づくだろう。
 黒真珠でなければ何なのか。そう疑問に思ったならば、尋ねてみるといい。異ヲの街の人口三分の一を占めている貧困層の住民に。彼らは決まってこう言うはずだ。“黒い血”に決まってるだろ、と。
 異ヲの街の中心街には、大きなショッピングモールがある。赤レンガを敷き詰めた地面を、おびただしい数の人間が歩いていく。怪物の唸り声にも似た足音を響かせながら。今日も異ヲの街は、あまり浴びたくない、できれば飲みたくない雨が降り注いでいる。人間のおよそ四分の一はマスクを着用し、さらにそのおよそ三分の一はサングラスまで着けている。
 そんな人々の頭上、ショッピングモールを覆っているアーチ状の天井からは、コンクリート中のカルシウムが溶け出してできた酸性雨つららが無数に垂れ下がっており、汚れも酷い。そこで<あかなめ>と<天井下がり>は清掃作業をしていた。あかなめはこびり付いた汚れを舐めて落とし、天井下がりは酸性雨つららを一本一本やすりで削り落としている。それぞれが十人ずついて、ローテーションを組んで作業をしている。
 地面の排水溝からは絶えず蒸気が立ち昇り、その中で<煙羅煙羅(えんらえんら)>が楽しそうに踊っており、ある回転寿司屋では<小豆はかり>が、小豆を量る要領で、全く同じ大きさ重さのシャリを握り、職人に手渡している。行き交う人々の中にも、人で非ざる者たちが混じり、往来を闊歩している。
 ある子鬼が、ケーキ屋のショーウィンドウ越しに、パフェの食品サンプルを物欲しげな顔で見つめていた。腰みの一丁で、お世辞にも清潔とは言えない身体だ。しばらくすると、ケーキ屋のオーナーと思しき人間が出てきた。彼は子鬼にゆっくり手を差し伸べると、だしぬけに小さな角をひっつかんで、ぽいと路地裏へ投げ捨ててしまった。驚いた子鬼は「きゃっ」と叫んで、そのまま逃げてしまった。その様子を咎める者は、誰一人としていない。せいせいした、とでも言わんばかりの顔でオーナーが店内に戻ってゆく。店内では、人間だけが豪華なスイーツに舌鼓を打っている。店員も全員が人間だ。
 カランと音を立ててドアが閉まった。そのドアの上には『Human Only』の文字が、憎々しげに自己主張をしていた。
 異ヲの街に住む妖怪たちにとって、理不尽は日常だった。だから悲しいほどに慣れてしまっていた。異ヲの街の貧困層とは彼らのことで、社会的地位は人間に比べ格段に低い。
 先ほどの子鬼が暗い路地裏を駆けてゆく。一見絢爛豪華なショッピングモールだが、少しでも路地裏に入り込めば、そこは一気に腐敗の様相を呈する。酸性雨によって溶けかけているコンクリートの壁、地を這う蛆、宙を舞う蠅の大群。腐汁のような臭気がそこら中に立ち込め、黒いカビがそこら中に生えている。
 子鬼は裸足のまま路地裏を駆け抜け、人間の居住区との境界線までやってきた。周囲を見回す。目の前にはこれ見よがしに豪華な屋敷が建っている。その反対側には、みすぼらしい木製の民家。木材は腐りかけ、そこかしこからツタが伸びまくっている。子鬼は境界線を沿うように走り、一軒の古本屋へと飛び込んだ。名前は『文妖堂(ぶんようどう)』。
「ねえちゃーん!」
 飛び込むなり子鬼は、椅子に座り読書をしていた着物姿の女性に抱き付いた。えんえんと、袖に顔を埋めて泣きじゃくる。
 着物姿の女性は「またなんか悪戯したの?」と、怒り半分心配半分といった声色で訊いた。子鬼はぶんぶんと首を振る。ついでに鼻汁を着物に擦り付けた。
「あぁもう勘弁してよ……」
「悪戯して、な、いっ。人間、がっ……。ケーキ屋、パフェおいし、そうっ、だっ……だからっ」
 女性はため息一つ。
「なんとなく解ったわ」
 そして懐からちり紙を取り出すと、子鬼の鼻をかんでやった。
「いいかい弥奈(やな)。あんたはちっさいけど立派な妖怪なの。大方こうでしょ。食いしん坊のあんたは、よりにもよって人間様以外立ち入り禁止の甘味処のガラスにへばり付いて、よだれでもたらしながら物欲しそうに食品サンプルを見てたんでしょ」
 弥奈はうんうんとしゃくりあげながら頷いた。
 文車妖妃はあからさまにため息をついた。
「だって、だって……」
 仕切りに両目を腕でこすり泣きじゃくる弥奈。これでも曲がりなりにも鬼の仲間だろうか。本当に情けない。いつまで経っても幼くて、それでいて愚かしい人間に非常に近い欲を持っている。だから始末に負えない。その始末に負えない者が今、目の前で大声をあげて泣いている。その大声だけはさすがは鬼と言わざるを得ない。下手すると近くの本棚がぐらぐらと揺れそうなほどの音量だ。
 彼女は致し方なくとっておきの方法をとることにした。
「本読んでやるから、ね」
 これがそのとっておきの方法だ。というより、これ以外の方法を彼女は持ち合わせていない。
「……乱歩がいい」
「はいはい。じゃあ持ってきなさい」
「うん」
 弥奈は目じりに溜まった涙をごしごし腕でふき取ると、笑った。半分泣いていて滑稽な顔になってしまったが。
「まったく……」
 と呟くと、女性は再び本を読み始めた。弥奈は推理小説が並べてある本棚へ行き、吟味を始めた。
 そんな弥奈の様子を、着物姿の女性の妖怪――<文車妖妃(ふぐるまようび)>――は神妙な面持ちで見つめていた。
 
「『小林君、そんなところで、何をしているんだね。』聞きおぼえのある二十面相の声が――」
「ちょいとお邪魔するわよぅふぐっちぃ」
 不意に降ってわいた粘っこい声に、文車妖妃は顔をしかめ、弥奈はぶぅっとふて腐れた。文妖堂の入口に、一人の女性が立っていた。腰をくねらせ人差し指を口に当て、派手なラメ入りのチャイナドレスを身に着けている。その様は娼婦か、あるいは頭のネジが飛んでしまった人にしか見えない。
「ちょっと、今いいとこだったんだかんねっ」
 文車妖妃の朗読を、それもかなりいい場面でぶった切られた弥奈は、文車妖妃の膝から飛び降り、ピョンピョン跳ねながら非難した。読んでもらっていた本が、江戸川乱歩の名作『怪人二十面相』ということもあり、苛立ちもひとしおだ。
「あぁんもう、弥奈ちゃんてばほんっと可愛いっ。食べちゃいたい」
 身体をくねらせつつ、その女性は言った。
 文車妖妃はため息を一つ、あからさまに嫌な顔をして椅子から立ち上がった。めんどくさい奴がまた増えてしまった。
「で、今度はどんな話を持ってきたってのよコンコ」
 コンコと呼ばれた女性は「んふふ」と笑うと、店内に入ってきた。本棚に陳列してある本を、まるで愛撫するかのような手つきで撫で上げてゆく。その姿が、不意にかき消えた。
「曲がりなりにも客商売なんでしょ。もうちょっと愛想良く接客しなさいよね」
 変わりに一匹の<篠崎狐>が、トコトコと歩いてきた。このコンコは、一言でいえば銭の化身で金食らい子。その執着の力たるやまさにトリモチ級で、その昔、古いお堂で寝ていた時に火事に遭い、危うく火だるまになりかけたが、ご自慢の髭と毛並みが焦げてもなお、お札だけはしっかりと両手で抱き寄せていたそうだから筋金入りである。
「生憎ふうてん狐にくれてやる笑顔は持ち合わせていないの」
「だったら……作ってあげましょうか? 布団の中、でぇっ!?」
 コンコ突然悲鳴を上げて飛び上がった。その後ろでは弥奈が、はたきを逆に持ってしてやったりという顔をしている。
「こ、ここはいかん、いかんぞこれは。クソガキィ……」
 コンコは天井の梁の上で、両手で股間を押さえてプルプル震えている。
 付け加えておこう。コンコはオカマである。
「うるさいやい。ねえちゃんを誘惑しようとしやがって」
 勝手なことを言ってくる弥奈。誘惑だと、冗談じゃない。
「ねぇホコリ落ちてるからさっさと降りてくれない?」
「くぅぅ……あちしはこんっなにもふぐっちのことを想ってるっていうのに、どうしてなの? どうしてなのよっ? 取ればいいの? タマ取っちめぇばいいわけっ?」
 さめざめと泣くコンコ。正直うっとおしい。出来ればこの手でソレをもぎ取ってやりたいが、さすがに実行に移す前に取りやめた。男性の局部から発生する痛みは、とても口で言い表すことのできぬ程のものであると、どんな本にも例外なく記載してあるのを、文車妖妃は記憶しているからだ。
「はいはい話は聞いたげるから。早く降りてらっしゃいよ」
「そうこなくっちゃぁ」
 即、嘘泣きをやめたコンコは、しなやかに文車妖妃の机の上に着地し、前脚でひげを整えつつ、話を始めた。
「呪われた物件ってのがあってね」
「ありきたりね。月並みもいいとこだわ」
 文車妖妃は立ち上がり、一番近い本棚へ向かった。
「確かにね。で、その内容もありきたり。そこに住んだ人間が次々不幸になったり、病気になったり、死んじゃったりしてる」
「ますますありきたりね」
 文車妖妃が戻ってきた。手にはポーの『黒猫』。その表紙を見せつけるように、机の上に置いた。正直興味は全くわかない。そういった手合いの祟りや霊障の類は、妖怪にとってみれば別段特別なことではないし、大抵そういった目に遭う人間の方に罪があるからだ。
 コンコは『黒猫』に一瞥を送り、「ここまでなら、そうね」と言ってニヤリと笑った。
「その家に憑りついた悪霊やら魑魅魍魎の類、あるいは……コレみたいに何かしらの恨みを抱いて死んだモノの怨霊か」と、『黒猫』を指すコンコ。
「取り壊しちゃえばいいじゃん。そんなお化け屋敷」
 弥奈が言った。
「事はそう簡単じゃないのよオチビちゃん。そんなことが立て続けに起こったから、その物件を紹介してた不動産屋そのものの評判も落ちてきちゃったの。当然取り壊し。これで万事解決――」
「しなかったわけね」
 文車妖妃は顔を上げた。『黒猫』は膝の上で畳まれている。
「えぇその通り。そこの元住人が不幸な目に遭ったってのはさっき話したわよね。こういう場合は大概、引っ越せば収まるもんだわ。ところが収まらなかったの。あろうことか、続いちゃってるのよ。今現在も」
「どういうこと?」
 弥奈が近寄ってきて訊いた。コンコは得意げにフンと鼻を鳴らした。
「問題の物件が取り壊されたのは、今から一か月前。最後の住人は、ザナ・フリーマンとその妻アビィ・フリーマン。夫は銀行員、妻は主婦。特にこれといって問題の無い普通の夫婦だったわ」
「普通に見える人間が一番危険だって聞くけど」
「あら。どこのひねくれた哲学者様からの受け売りよ」
「誰でもいいでしょ。続きを話して」
「その物件――中庸の極みって言える一軒家よ――にフリーマン夫妻が住み始めて、まず最初に起こったのは、金縛り。二人とも同時にね。常に誰かから見られてる気がしたり、ドアが勝手に開いたり、ラップ現象、エトセトラ……。怪奇現象のフルコースの後、夫の肺炎。妻が包丁で大けが。飼い犬は変死し、どこに飾ろうが観葉植物はすぐに枯れ果てる。ここにきて我慢の限界になって、二人は家を出た。ところが……」
「不幸が、終わらなかったのね」
「えぇ。夫は職場をリストラされた直後、交通事故で死亡。遺された妻の唯一の希望だった赤ん坊は、流産。彼女は二日前に自殺したわ。流産した子供の姿を見て、こう……」
 コンコが右手を、頭の上をくるくる回した。
「なっちゃってね」
「どんな姿をしてたの」
「助産婦曰く、骸骨」
「何ですって?」
「骨だけで生まれてきたんですって。その赤ん坊」
 目が一つだの頭が二つだの、手足がないだのそういった人間の奇形児は知っているが、肉がないものはさすがに初耳だ。
「しかも一分間くらい、動いて、あごをパクパクさせて何か言ってたって。ま、産んだものが肉なしじゃ、流産扱いせざるを得ないわよね」
「ふぅん。それは面妖ね」
 そして文車妖妃は再び本を読み始めた。
「あらぁん、ちっとも面白くなさそうじゃない」
「実際にそう思ってるからね。人間が骨の赤ん坊を産もうが自殺しようが、あたしにはどうでもいい話よ」
「そのどうでもいい話に、ご褒美がついてくるってことなら、ちっとは面白くなるんじゃない」
「褒美って?」
 文車妖妃が顔を上げないまま聞いた。
「『ゴッホの手紙初版本』」
 文車妖妃の手が止まった。
「問題の物件に住んで、ヒドイ目に遭った人間たちの中に、希少本のコレクターがいるのよ。自分の身に起きてる問題を解決してくれたら、一冊無償で差し上げますって言ってくれてね。どう? ふぐっちはその本を読む、で私はそれを高く売り飛ばして儲ける、お互い得してうぃんうぃんじゃない」
 文車妖妃は本をたたみ、立ち上がると、二階への階段を駆け上り始めた。
「ちょっとどこ行くのよ」
「よそ行きの服に着替えるためよ」
 コンコの顔がにまぁと歪んだ。
「てぇことは、引き受けてくれるのね。うっふふふ」
 文車妖妃は書物の妖怪。文車妖妃にとって読むという行為は人間の食べる行為と同義であり、生存のための必須行動、並びに至高の娯楽享楽でもある。『ゴッホの手紙』とは、画家ゴッホが生涯を通じしたためた、血の滴るような情熱でもって書かれた告白の記録である。即ち文車妖妃にとって、血の通った“美味い”文章をじっくりたっぷり味わえる至極のごちそうとなる。おまけに、下手な改ざんや修正がほぼされてない初版本ときたら、それはもう絶品に違いない。
 文車妖妃は市松模様の着物に着替えながら、早くもその“味わい”を考え、悦に浸った。

3

 異ヲの街の中心街から少し離れると、決して豪邸とは言えないが質素とも言えない、いわば中流の家々が立ち並ぶ住宅街がある。ここの住人もほとんどが人間で、大企業あるいはその傘下にある中小企業に勤める社員が大半を占めている。
 規則正しく配置された家々の間を通る道路はしっかりとコンクリートが敷かれ、清掃も行き届いている。地面がむき出しで、ゴミがそこら中に散乱している貧困層の居住区とは雲泥の差だ。しかしそこを歩く文車妖妃は、むず痒さを伴うような居心地の悪さを感じていた。綺麗すぎるからだ。妖怪にとって最も心地よい環境とは、ありのままの自然の姿だ。例えそこが肥溜め並に不衛生極まりない場所であろうと、ある種の妖怪にとっては理想の場所となる。文車妖妃にとっての理想の場所は、言わずもがな本――それも手垢が付き色落ちした古書――に囲まれた書店だ。人間にとっては人工物で囲み切ったこのような無味無臭の環境が好ましいのだろうが、少なくとも文車妖妃にとっては、思わず顔をしかめたくなる嫌な場所だ。
 対して人間社会に上手く馴染んでいるコンコ、比較的感覚が人間に近い弥奈は、特にこれといった不快感も示さずに歩いている。コンコは若い男を見かけるたびにねちっこい声でナンパし、弥奈は文車妖妃の手を握りながら、よく判らない鼻歌を歌っている。そんな二人の様子を見て、文車妖妃は、軽蔑でもない、かといって憧憬でもない、不可思議な心境になった。
 道行く人々は、市松模様の着物に黒塗りの下駄と黒いポーチという文車妖妃の服装に、好奇と奇異の視線を送っている。対して文車妖妃はといえば、そんな視線などどこ吹く風。カランコロンと下駄を鳴らし、天下の往来をしゃなりしゃなりと歩いている。これがあたしですが何か問題でも? 文車妖妃は、自分に視線を送る人間全員にそう全身で宣言する。
 ここの住民らしき一人の人間が歩いてきた。住人はこちらを見た途端、即座に目をそらし、何事もなかったかのようにすれ違った。次の人間も、その次の人間も。見て見ぬふり、つまりいないことにされている。そうやった方が楽だからだ。彼らは自分の中に芽生えた差別や見下しといった醜い感情と向き合う勇気がない腰抜けだ。だから視線をそらす。この街における被差別者である妖怪が視界に入った瞬間に視界の外へと追いやって、自分は何も見ていない、だから何の感情も抱いていない、と必死に己を言い聞かせている。その行為こそが、最も卑劣な差別表現だとも気づかずに。
 文車妖妃は人間たちに思う。哀れだな、と。そして、人間には断じてなりたくない、と。
「ねぇねぇちょっと、あのコだけどさ、結構いい感じだと思わない? ふぐっち」
 返事がない。
「ふぐっち?」
「ちょっと今話しかけないで」
 文車妖妃はいつの間にやら、交差点の角に設置されているゴミ置き場の前にしゃがみ、大量のゴミ袋を漁っていた。
「ちょっとねえちゃん、おいらには卑しいことすんなって言っといてー」
 頬を膨らませ弥奈が抗議する。コンコはため息を一つ。
「しょうがないじゃないの。美味しそうなもの見つけちゃったんだから」
 と、文車妖妃は応えた。
 確かに、貧困層の居住区でたまに見かける、小汚い宿無しの人間のすることだ。はた目から見れば卑しいことこの上ない。しかし文車妖妃は、そんな人間に決して侮蔑の感情を抱いたり、ましてや嘲笑することは絶対にない。彼は生きるために、ただそれだけのためにゴミを漁っているからだ。そこには虚栄心はない。恥はあるだろう、人間としての誇りはズタズタだろう。しかしそれでもなお生きようとする彼らの姿は気高く、強いと思う。それと一緒ではないにしろ、今文車妖妃が行っている好意も、広義的には、それと似たようなものだった。即ち、生きるための必需品の調達だ。そしてほんのちょっとの、ハエがたかって雨風に汚れた本への、悲しい気持ち。
 ゴミ袋をかき分けて、奥から本の束を取り出した文車妖妃は、その中から一冊の本を抜き取った。余った本は元の位置に戻し、抜き取った本を大事そうに懐にしまった。
「何の本なのよ」
「取るに足らない本よ。人間にとってはね」
「あんたにとっては?」
「生活の必需品とだけ言っておくわ」
「さいですか」
 コンコはそれ以上質問することはなく、苦笑に近い笑みを浮かべた。

「もう何でもいいんで早く解決してください。今朝の早くに息子が……あ痛っ」
 ベルを鳴らした途端、中年の頭の薄い男性が顔を突き出し助けを請うてきた。その頭に何かが当たった。ミシンに使うボビンだ。
「あんたっ! 一体いつになったら病院へ連れて行ってくれるのよ!」
 家の奥からは、ぎゃあぎゃあやかましい初老の女性の声。
「あぁもう……勘弁してくれよ」
 男性は尻に敷かれていること丸わかりな態度で、眉毛を八の字に曲げてぼやいた。
 コンコに案内されたのは、閑静な住宅街の一角に建てられた庭と噴水付きの、階級でいうところの中の上のお住まい。家主はターウィル夫妻。今から約四か月前、件の物件に住んでいた夫婦だ。
 玄関先のポーチには、“Welcome”という言葉が、マットの上に刺繍の柔らかな文字で描かれている。文車妖妃はその文字の端に、決して見えない“without YOUKAI”の言葉を読み取った。こちらを見たターウィルが、ほんのわずかに頬の端を嫌そうに歪めたのを見たからだ。
 ターウィルの案内で、文車妖妃、弥奈、コンコが家の中に入った。
「ひどいわねこれは」
 文車妖妃は呟いた。足下には花瓶と思しきガラスの破片をはじめ、クマの手編み人形やらウールのセーターなどが、あちこちに散乱している。居間兼キッチンと思しき奥の部屋から、車椅子に乗った鬼の形相の女性が、キーキー喚きながら、手当たり次第にあらゆる物を投げつけている。こう言っては何だが、全く可愛げがなく、明らかな肥満体型だ。テレビに出ているモデルを見ながら、痩せたいわぁと言いながらお菓子を食うのを止めないようなタイプだろう。夫の右足にはギプスが巻かれているというのに、一切の容赦がない。溜めていた不満が爆発したという類ではなさそうだ。声にならないキーキーとした悲鳴と、完全に自己制御できてないその様子から察するに、恐らくヒステリーの発作の類だろう。
「今朝早くに息子さんが高熱出して入院して、連れて行った先の病院で旦那さんが車椅子に轢かれて足の指を骨折。そして帰ってきて、奥さんを息子さんのいる病院へ連れて行こうとしたら、車椅子が謎の故障を起こして動かなくなったんだって。で、現在に至るってわけ」
 と、コンコが言った。
 それは悲惨だ。その一連の騒動を撮って、どこかのテレビ局に売りつければ、『恐怖! 悲劇は連鎖する……呪われた夫婦』というようなタイトルで、オカルトものの番組に即採用されるだろう。
「散々だね」
 弥奈が無邪気に感想を述べた。
 さて、いわゆる“調査”を始めるのはいいが、こうお二人さんが目下戦争中(夫が圧倒的劣勢だが)では、出来るもののできやしない。
「ふぐっち、頼むわねん」
 コンコが催促してきた。こちらの事情も知らないで。そこで、
「あんたも手伝うの。まずは二人を落ち着かせなさい」
 補助員として働いてもらうことにした。
「えー私ぃ? キツい役じゃーん」
「何なら今ここで帰ってもいいのよ。『ゴッホの手紙』初版本は惜しいけど、風味が似てる新訳版持ってるし」
「あぁもう、分かったわよやるわよ」
 コンコは一歩前に出ると、懐からコインを二枚取り出し、ぽいと抗争中のターウィル夫妻の間に放った。
「この役立たず!」
 夫人が叫びながら手編み用の毛糸玉を投げつけた。空中で毛糸玉とコインがぶつかったその瞬間。グバァと毛糸玉がぱっくり割れ、牙をむき出し涎を垂らした口が現れた。
「ひぃ」と叫び、夫人は気を失った。対して夫は、
「ひぃ」
 こちらはコインと夫人の首を結ぶ直線に道ができ、その上を夫人の生首がケタケタ笑いながら転がってくるという光景を見て、気絶した。
 二枚のコインが床に落ちる。同時に、お化けの毛糸玉と夫人の転がる首は消えてなくなった。コンコは二枚のコインを拾い上げると、
「はぁん快感」と悶絶した。
 やはり腐っても狐。幻術はお手の物だ。どんなに金銭欲が豊富でしこたま稼ごうとも、人を化かすという原初からの行動は、何物にも耐えがたい快感であるらしい。傍から見る分には気持ち悪いことこの上ないが。
「そりゃあんたの十八番だろうけど、仮にもお年寄り相手なんだから少しは加減しなさいよ」
 人間が驚くのは妖怪の文車妖妃としても心地よいものではあるが、そのはずみでぽっくりと死んでしまったりなんかしたら、警察のご厄介になってしまう。ご丁寧にも、妖怪に対する罰則も、この異ヲの街の行政はしっかりと作ってくれている。妖怪の力を恐れてのことだろう。実際は、進んで人を殺すような妖怪はほとんどいないのだが。
 妖怪を生み出したのはほかでもない人間の心だ。文車妖妃はその愚劣さに辟易してこそいるが、人間が書いた書物が無かったら、存在すらしていなかった。年月を閲した豊かな文章を吟味できることもなかった。だからこそたちが悪い。ありがとう、だが反吐が出る、というのが文車妖妃の人間観だ。
「私の幻術ごときでくたばるようなタマじゃないわよこの奥さん。さ、次はふぐっちの番よ」
 まるで舞台役者のような大げさな身振りで、コンコは文車妖妃に道を譲った。
 やる気はある。だが乗り気にはなれない。この術――いやむしろ能力と表現した方がいいか――を用いると、あまり好ましくない副作用をもたらすからだ。だが、ゴッホの日記初版本という超貴重なごちそうが待っていることを思い、意を決して文車妖妃はそれを行おうとした。
 だしぬけに玄関脇の窓が弾け飛んだ。ガラスの破片が無数に宙を舞う。
 文車妖妃、コンコ、弥奈がそちらを振り向いた。
 骨がいた。正確には、溶解し切ってない肉が身体中にへばり付いている、“溶解人間”とでも言うべきモノが、割れた窓のサッシに猿のように座っていた。突然のことに文車妖妃は動くことができなかった。それが間違いだった。
 溶解人間は、一気に文車妖妃に飛びかかった。
「きゃあ」と悲鳴を上げ、顔をかばった。
 成功した。
 しかし代わりに左肩を、着物もろとも切り裂かれた。床に倒れる文車妖妃。その上に溶解人間は馬乗りになり、今度は首筋に己のむき出しの歯を持って行った。首を食いちぎるつもりらしい。
 しかし、その歯が文車妖妃の首筋にめり込む寸前、
「やめろぉ!」
 弥奈が怒声と共に溶解人間につかみかかり、頭蓋骨の二つの眼窩に指を突っ込で、ボウリングの玉のように掴み上げた。そして腕を一振り。溶解人間は近くに壁に思いっきり叩きつけられ、溶けかけた肉と骨が破裂するように四散した。曲がりなりにも鬼。その力は折り紙付きだ。
「驚いた……。ちょっとちょっと一体何なのよこのきもっちわりぃの」
 恐る恐る歩み寄るコンコ。
「もしかしてこれって……」
 コンコは腕の骨を見つけた。その手首に、入院患者用の赤いタグが巻きつけてある。識別番号と名前が記されており、名前は――
 ボビー・ターウィン。
 それによく見ると、骨はどれも細く、明らかに未発達のそれだ。
「まさかこれって、ここの息子さん?」
「わぁぁぁぁぁぁ!」
 その時唐突に聞こえてきた大声に、コンコは慌てて振り向いた。そこには、両手を顔に当て、床に突っ伏し、号泣している文車妖妃の姿があった。コンコは我が目を疑った。気性の強い文車妖妃が、確かに凄まじい恐怖を味わったであろうにしても、知人の前で外聞を気にせず号泣する姿は、いまだかつて見たことがない光景だったからだ。
「どうしたのおねーちゃん? 傷がいたいの?」
 弥奈が心底心配そうに声をかけた。が、文車妖妃の号泣は止まない。
 文車妖妃は、自身が感じた恐怖から泣いているのではなかった。左肩につけられた傷から受けた情報に、心が耐え切れなかったのだ。
 文車妖妃は書物から生まれた妖怪として、書物に記してある文字から、それを書いた人物が執筆している当時の感情や心境、そして抱いていたイメージを読み取る能力を持っている。それは文字に限定ではなく、例えば壁などにつけられた傷からも、読み取ることが可能だ。文字になっていないとはいえ、人が記したものであれば、ある程度は読み取れる。
 つい先ほど、あの溶解人間が付けた傷から読み取ったのは、暗い森、孤独と圧迫感、そして途方もない寂しさだった。その寂しさはあまりにも純粋で、あまりにも重く、あまりにも切実で、あまりにも激しかった。
 寂しさという単語は知っていても、感じることはほとんどなかった文車妖妃にとっては、到底処理できる代物ではなかった。体の中から寒くなり、この世のあらゆるものが冷たく感じられた。心では温かさを切望するも、それが決して叶えられないことを自覚すると同時に、全身が引き裂かれそうなほど痛み、心が氷に包まれてゆく。
 文車妖妃の視界は闇に閉ざされた。その闇の中、二つの淡い光が、並びながら左右に移動しているのを見た。その直後、文車妖妃の意識は完全に闇に沈みこんだ。

4

 その後が大変だった。突然号泣し意識を失った文車妖妃の姿を見るやいなや、不安と心配からか弥奈も号泣開始。さすがに気絶はしなかったものの、傍にいたコンコを大いに困惑させることになった。コンコはコンコで、溶解人間の襲撃から文車妖妃のこと、さらに弥奈の大泣きと、想定外の出来事が立て続けに起こったせいで、頭痛とめまいに襲われてしまった。
 とにかくこのままとんずらするのはさすがにまずいと思い、気つけ代わりにターウィン家の冷蔵庫から、銘柄もよく判らない洋酒をしっけいし一杯あおった。アルコールのおかげでどうにか錯乱状態から脱したコンコは、電話で警察に連絡。警察が到着する間、とにかく泣きじゃくる弥奈をなだめようと、知っている限りの冗談やほら話、子守唄等々を聞かせ続けた。警察が到着した時、弥奈はすっかり泣き止んでいた。文車妖妃には、弥奈が引きちぎったカーテンが毛布代わりにかけられ、コンコは疲労と悪酔いで満身創痍という有様だった。
「普通ならしょっぴかれても文句は言えない状況だぞ。ただでさえお前は、妖怪で、その上信用がないんだから」
 警察のパトカーがひしめくターウィン家前の路地。一人の恰幅の良い制服警官に、コンコは説教を食らっていた。いつもなら得意のマシンガントークでけむに巻くところだが、アルコールが十分抜けきっていないため、垂れた耳を生やした人間の姿でしょんぼりしている。
「事の顛末は分かった。後で詳しく署で事情聴取を受けてもらう」
「ちょっとちょっと待ってよぉ。何で私だけなのよぉ」
 救急車の後部座席に腰かけて介抱を受けている文車妖妃と、連れ添ってる弥奈を指差しつつ、コンコが言った。
「まともな目撃者がお前しかいないからだ。あの、着物の妖怪は衰弱してるし、子鬼はあれにぴったりくっついて離れようとせん。ターウィン夫妻は、主に奥さんの方が錯乱状態で、到底話を聞けそうにない」
「そんなぁ」
 何度も――主に詐欺罪で――警察の厄介になっているコンコ。いくら容疑者ではなくても、警察の門をくぐるのは非常に気分が悪い。
「文句は言わせんぞ。判り切ってることだが、お前は妖怪、俺たちは人間だ」
 種の違いは絶対的であり、決して覆すことはできない。コンコは制服警官の言い回しに若干腹を立てた。そのたるんだ尻に牙を食い込ませてやろうかと思ったが、一時の対抗心のために臭い飯を食う羽目になることがどれだけ愚かしいことか、コンコはこれまでの経験で嫌というほど痛感してきた。だから、こくんと一度頷くだけにした。
「ねえちゃん、大丈夫?」
「そう思うならもうちょっと小さい声で喋ってよ、もう」
 一方救急車の社内では、ようやくまともに話せるようになった文車妖妃が、すがり付こうとする弥奈を押しのけていた。
「応急処置はしました。……あくまで人間方式ですが。もしも後遺症が残るようなら、病院に行ってください。出来る限りの治療はします」
 と、傍の救急隊員が話しかけてきた。文車妖妃はその言葉の裏に差別的感情を読み取ろうとしたが、幸い何も読み取れなかった。同情の感情も。この隊員はただ己の仕事をこなそうとしているだけだ。人間妖怪の区別なく。文車妖妃はこの隊員を信じることにした。
「あぁ、これ」と、文車妖妃は自分の左肩に巻かれている包帯を指差し、「ありがとね。してもらっといてなんだけど、あたしの傷は“あたし流”の治療でしか治んないのよ」
 文車妖妃は懐から一冊の本を取り出した。ゴミ捨て場で拾った本だ。タイトルは『一から始める家庭の医学』。文車妖妃はページをめくり、裂傷の項目が書かれてあるページを一部破ると、それを自分の左肩に押し当てた。
 しばらくして巻かれてある包帯を取り去った。傷は完全にふさがっていた。
「あれ?」
 救急隊員は素っ頓狂な声を上げた。
「あたしは書物の妖怪なんだ。だから治療も書物で行う。もしなんだったら、同僚の隊員たちにも話しといてよ。また厄介になった時のためにね」
「は、はい」
 文車妖妃は立ち上がると、弥奈を連れて救急車から降りた。
「ちょっとふぐっちぃー!」
 途端、コンコが駆け寄ってきた。
「酒臭いわねぇ」
「だまらっしゃい、飲みたくて飲んだわけじゃないわよ。倒れたあんたを助けるためだったの。一体どうしたっていうのよ突然倒れちゃって、めちゃんこ心配したんだかんね」
 コンコは涙目になっている。いけ好かない奴ではあるが、こういうところが、文車妖妃がコンコを嫌いになり切れない所以だ。
「そうだよホントに心配したんだよっ」
「倒れたことを悪いことみたいに言わないでよ。あたしだってまさか倒れるとは思ってなかったんだから」
「一体何を感じ取ったの?」
 コンコが尋ねた。文車妖妃は周囲を見渡した。野次馬がそこら中にいる。その視線の三分の二は、人間の中に混じってる文車妖妃たち妖怪に注がれている。気にはならないが、気に食わない光景ではある。文車妖妃はコンコと弥奈を連れて、早足で現場から離れた。
 五百メートルほど歩き、パトカーの光が届かなくなった所で、文車妖妃は足を止めた。そこは小さな公園だった。
「何を感じたのか話すわ」
 文車妖妃は傍の古いベンチに腰掛けた。その隣に弥奈が、弥奈の隣にコンコが腰かける。キィと、ベンチが軋んだ。羊雲とスモッグの煙とが混ざり、グロテスクな模様を空に描き出している。時刻はもうすぐ逢魔が時。妖怪にとって、最も心地よく力がみなぎる時間だ。
「見えたのは森だったわ。鬱蒼としてて、とにかく暗かった。緑の木々が生い茂る豊かな自然って感じじゃなくて、黒くて異界みたいな森。それから圧迫感ね。体中を締め付けられるようなとんでもない圧迫感。小さな箱の中に閉じ込められたような……そんな感じの。怖かったわ。とにかく怖くて、寂しかった」
「寂しかった?」
 弥奈が言った。
「ただの寂しさじゃないのよ」
 文車妖妃は自分の肩を抱きながら言った。その手は小刻みに震えている。
「この世で一人ぼっちになったら感じるかも、という程の強烈な寂しさ。それが何十何百って伝わってきたの。一気にね」
「だからふぐっち気絶しちゃったんだ。自分の限界超えちゃって」
「恐らく。正直あたし、どこぞのバカな人間が、例の物件で自殺でもしたんじゃないかってくらいに思ってた。でも、あの寂寥感たるやそんなもんじゃなかったわ。数も大量だったし。それにあの半分溶けた子供……。コンコ」
「はいよ」
「こりゃ一筋縄じゃいかないかもよ」
「降りるっていうの? 『ゴッホの手紙』は諦めるって?」
 文車妖妃は不敵に笑った。
「そんなこと一言も言ってないでしょ。めったに味わえない“ゴチソウ”のためよ。俄然燃えてきたわ」
「そうこなくっちゃ」
 コンコはベンチの上に飛び乗ると、狐の姿に戻って器用にその場で一回転してみせた。
「でもぉ、私はちょっと抜けるわね。さっきのことで警察に事情聴取受けにいかなきゃなんないの。ごめーんね」
 と、ウィンク。対する文車妖妃はため息。
「人間の、特にお役所仕事ってのはどうしてこうもめんどくさいのかしら……。分かったわ。じゃあ弥奈」
「なあに?」
「ちょっとお仕事頼まれてくれる?」
「……ご褒美は?」
 文車妖妃はコンコを睨んだ。どうやら非常によくない影響を弥奈に与えているらしい。前は非常に素直だったが、このところ小賢しい手段を学びつつある。
「まったくもう。何がいいの?」
「『千一夜物語』読んで!」
「げっ」と、文車妖妃は顔をゆがめた。
「あれ長いし不味いのよねぇ」
「じゃあお仕事引き受けてやんなーい」
「分かったわよ。読んであげるから頼まれてちょうだい」
「はーい!」
「コンコ、例の呪われた物件が建ってあった場所、分かる?」
「ええ。西南のGハ通りの入り口から、五ブロック進んだところ。瓦礫の撤去作業がそろそろ終わる頃ね」
「解ったわ」
 そして文車妖妃は弥奈に耳打ちをした。話を聞き終えた弥奈は、「がってんっ」と敬礼し、一目散に異ヲの街の市街地へ駆け出した。
「じゃああたしは少し調べることがあるから、今日はここで解散ね」
「あぁんもう、付き添ってくれないの? か弱い乙女が、一人でむっさい男だらけの所に飛び込もうとしているってのに。乱暴されちゃうかもしれないわ。あちしの身体が汚されちゃうぅん」
 さながら悲劇の戯曲のヒロインのように、よよよとその場にはんなりと横座りをするコンコ。
「バカ言ってなさい。どうせ内心じゃ嬉しい癖に」
 コンコはぴょんと飛び跳ねて、
「久々に若い男のフェロモンにありつけるからねぇ。あ、でも気が滅入ってるのは本当よ。色々と警察にはご厄介になって来たからね」
「さいで」
 文車妖妃は立ち上がると、若干おぼつかない足取りで、市街地の方へと歩いてゆく。
「どこで何を調べる気?」
「さぁね、あたしにも分からないわ。知りたきゃフクロウに訊いて」
「フクロウ?」
 コンコは周囲の街路樹を見渡した。
 ほう、ほう。
 どこからともなくフクロウの鳴き声が聞こえてくる。
 そして見つけた。植木のてっぺんで、二つの目を淡く光らせている。その様子がまるでこちらを監視しているかのようにコンコには見えて、えもいわれぬ寒気がした。
「ちょっとふぐっち、あんた……」
 振り返ったが、文車妖妃の姿は既にそこにはなかった。
 再び植木のてっぺんを見上げた。フクロウの姿も消えていた。
 コンコは冷たいものが背中を伝うのを感じた。コンコは駆け足でその場から離れ、そのまま警察署へ向かった。
 少し離れた所、公園のすみに設置されたモニュメントの上。一羽のフクロウが、走り去るコンコの姿をいつまでも見つめ続けていた。

5

 その小さな体を存分に活かし、狭い路地裏や、人ごみの中、時にはよその家の壁に開いた穴を通り抜け、弥奈は異ヲの街の北西に位置する工業地帯に到着した。
 既に時刻は午後七時を回り、天には星一つない暗闇の夜空が広がっている。その下で、人間たちが、まるで熱病に浮かされたかのような狂気にも近い衝動でもって建て続けた数多の工場は、絶えず明かりを灯し、作業音を響かせ、有毒な廃液を垂れ流し続けている。外灯と内部から洩れる様々な色の光によって、闇夜にぼんやりと浮かび上がるその巨大な外観は、硬質の皮膚を持つ巨大な生物のように見える。あちこちに開けられた空気穴は毛穴を、漏れ出す水蒸気は吐息を、そそり立つ煙突は巨大な角を思い起こさせる。
 そばの道路をトラックが通る度に、もうもうと砂埃が立ち昇り、塵芥が舞い踊る。その中を、目を細め、口を手で塞ぎながら弥奈は一人駆けていた。
 時折ごほごほとせき込みつつ、足を泥まみれにしながらも走るのを止めず、たどり着いたのは<異ヲ廃棄物処理場>だった。どこからともなく漂ってくる腐敗臭が、弥奈の鼻に襲い掛かる。しかし弥奈は素知らぬ顔で、その巨大な建物の敷地内に入ってゆく。
 弥奈にとっては、この強烈な臭いは嫌悪どころかむしろ安堵の対象だった。何故なら彼の生家は、このすぐ近くを流れる川に沿って点在しているオンボロ長屋――通称『ゲボ川長屋』――だからだ。
 弥奈は生まれた時からこの臭いをかいで育ってきた。久しぶりの臭いは、弥奈を温かく懐かしい気持ちにさせた。
 しばらく敷地内を、外壁に沿って進んでいくと、端っこに、まるで追いやられたかのような立地の、一軒の小屋が現れた。綺麗に清掃してある他の施設とは違い、ススやらカビやら泥やら、暗がりでも十分判るほど汚れている。
 弥奈はその小屋へ足を運んだ。歩くたびに、にちゃにちゃと、地面に生えた苔が潰れる音が生まれた。
 小屋の中に入った。明かりは一切なく、真っ暗闇だ。
「おーい、なめさーんっ」
 弥奈の叫び声が、小屋の中に反響する。
 しばらくすると、
「はいなぁ」
 と、気の抜けた老人の声が奥の暗闇から聞こえてきた。続いてひたり、ひたり、と濡れた何かが移動する音と、ずる、ずる、という何かを引きずる音が。
 そして次の瞬間、弥奈の目の前に痩せこけた老人の顔が、天井から垂れ下がってきた。人間ならば、悲鳴を上げて逃げ出すか失神していただろう。弥奈はにぱっと満面の笑みを浮かべると、目の前の老人の顔に抱き付いた。
「ひさしぶりぃなめさん!」
「こらこらちいとは手加減せんかい、わしの頭蓋骨潰す気かいな弥奈」
 弥奈が抱き付いた顔の主は、<天井嘗め>のなめさんだ。痩せこけた老人の身体にぼろい腰みの一丁という出で立ちで、非常に長い舌を天井に伸ばし、その状態でぶら下がっている。
 なめさんは、当時ゲボ川長屋に住んでいた弥奈にとって、一番の遊び相手であり、親代わりであり、先生であった。妖怪のイロハを一から教わり、幼い身でこの異ヲの街で生きていくための術も教えてもらった。
 天井嘗めはその名の通り、家屋の天井を舐め、シミを作る妖怪だ。天井のシミは放置しておくと、そこからよくカビが発生する。その特性を活かし、なめさんはこの異ヲ廃棄物処理場で働いている。彼の業務はこの小屋での、生ごみ分解用のカビの培養だ。人間では健康面の問題から防護服の着用が不可欠な業務だが、妖怪の天井嘗めが行えば、その対策も不要というわけだ。
 弥奈が手を放すと、なめさんはくるっと器用に一回転し、着地した。
「ほいで、何か用かいな。弥奈や」
「うん、文車のねえちゃんが、頼みたいことがあるんだって」
「ほう、あの出不精の古書娘がか」
 なめさんはどこか意地悪そうに笑った。
「言ってみ」
「うん」
 そして弥奈は、今回の奇妙な事件の顛末と、文車妖妃からの依頼をなめさんに伝えた。
 なめさんはしばらく腕を組んで考え込んだ後、にかっと笑って「よかろう」と言い、のそのそ小屋の外へ歩き出した。
 弥奈はこっそりガッツポーズをとると、意気揚々といった感じでなめさんの後を追った。

 弥奈となめさんの二人がたどり着いたのは、処理場から五キロほど離れたところにある、住宅地の一角だった。既に時間帯は深夜。光源は、ポツリポツリと点在する外灯のみ。周囲の住宅の明かりは、ほとんど消されている。空を見上げども、月明かりも星明かりも、次々に吐き出される工場の排煙に、全て呑み込まれてしまっている。
 暗闇に近い夜。大気汚染云々は迷惑極まりないが、異ヲの街のような都会で、こういった限りなく暗闇に近い夜を体験出来るといった点のみにおいて、弥奈は汚染を嬉しく思っていた。
 二人の目の前には、住宅一軒分のスペースがあった。広さはおおよそ二十坪といったところか。何もないただの土地。雑草がまばらに生えている地面がむき出しになっており、周囲には侵入者を拒む有刺鉄線が張り巡らされている。
 かつてここに住んでいた人間は、閑静で住み心地の良い環境に幸福を感じていたのだろうか。つつましくも満ち足りた生活を享受していたのだろうか。それを確かめる術はない。何故ならここは――
「呪われた物件……の跡地じゃな」
 なめさんが言った。
「どう? 判る?」
 弥奈がひどく心配そうな顔つきで見上げる。なめさんはそんな弥奈の頭を、しわくちゃの手で撫でながら「待っちょれ」と軽く言うと、その細い体を器用に曲げて、有刺鉄線の間をするりと潜り抜けた。
 土地の中に入ったなめさんは、あーうー呻きながら、地面に視線を落として何かを探し始めた。その様は、落としてしまった財布を探す腰の曲がったお年寄りの姿そのものだ。
 それから十分ほど経過した時、なめさんは「よーしこれじゃ」と呟くと、地面にから小さい何かを拾い上げ、それをペロリと嘗めた。
 ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、と、舌鼓。すーはーと鼻から息を吸い口から吐く。まるでワインのテイスティングのようだ。そして、
「トウヒじゃな。樹齢は四、五十年といったところじゃ。ここいらじゃと、『痾ジの森』にしか生えとらん木じゃ」
「痾ジの森だね。ありがとうなめさん! 今度必ずお礼するから絶対来てよぉっ。じゃあねー!」
 文車妖妃からの依頼――天井嘗めの能力である、嘗めただけでその木材の種類を言い当てる能力を使い、件の呪われた物件に用いられた木材の産出場所を特定する――を成し遂げた弥奈は、右手をぶんぶん豪快に振りつつ、暗闇へと消えていった。
 残されたなめさんは、
「さてと、お礼か……。久しぶりに文妖堂の天井にありつけるわい。ひっひっひっひ」
 文車妖妃からの“お礼”の味を想像し、よだれを垂らしつつ笑っていた。

6

 翌日の夕方、警察署の入り口前で、一匹の狐がへばっていた。コンコである。常日頃、手入れを欠かさぬ優美な毛並みと出所不明な根拠不明な自信は哀れにも消え失せて、両耳は垂れ、尻尾はしなだれている。
「頼まれても抱いてやんねぇ、頼まれても抱いてやんねぇ……」
 引きつった口の端から、こんな言葉を漏らし続けている。さながら呪詛である。
 コンコが警察から受けた仕打ちは、いっそ清々しいほど、あらかじめコンコが予想していた通りだった。
 ゲジゲジの足の数より多い前科のせいで、警察に信用なんてまるっきしないなんてことは解り切っていた。それが原因で、必要以上に長い取り調べを受ける羽目になるだろう、と覚悟もできていた。
 しかしまさか、現在警察が取扱い中の全詐欺事件についての関与を、ご丁寧に一件一件追及されるとは思わなかった。幸福と不幸が同時にコンコに訪れた。その中に、コンコが関わっている事件は一つもなかったことが幸運であり、無関係だったために最後の一件までしつっこく、決してタイプでない男刑事と面を突きあわせる羽目になったことが不運であった。
 ほぼ丸一日取調室に軟禁状態だったため、コンコの自慢の毛並みは、無残にもゴワゴワになってしまっていた。
「もうっ、世界が嫉妬する毛並み帰せっつーの。早く帰ってトリートメントしたいわぁ。……ねぇあんたたち、判るわよねぇ? 私が今心でどんなことを望んでるか」
 前脚で痛んだ頭の毛並みをいじりつつ、コンコは目の前に立ち並んでいる文車妖妃と弥奈の二人に話しかけた。
「ごめんだけどシャンプーは後回しにして欲しいのよ」
 あっけらかんと文車妖妃は言った。コンコは両前脚を口元にやり、「おっ、乙女の命を、何だと思ってっ……」と唸り声と一緒に言った。
「あんたの乙女の命は無駄にはしないわよ。実はね……」
「あによ」
「今のコンコにしかぁ、どーしても頼めない用事がぁ、出来ちゃってねぇ」
 微妙に猫なで声な文車妖妃に、思わずわずかにコンコは後ずさる。この文車妖妃、一応常識人(妖怪)の範疇にいるのだが、時折とんでもないことを投げかけてくる。その兆候が、今まさにコンコの目の前で披露されている、上手いんだか下手なんだかよく判らない微妙なぶりっ子だ。
 これまでの経験を踏まえて、確実に言えることはたった一つ。
 承認したらロクな目に遭わない。
「こ、と、わ、――」
「<毛羽毛現>御用達の毛染め!」
 る……の言葉は、口から出る寸前でコンコの中へ引っ込んだ。
「ふぐっち、それホント?」
「贈呈。……今んところ予定だけどね」
 全身が毛で出来ている毛羽毛現の毛染めは、この街のいわゆるセレブの間で密かに流通していると言われているプレミアもので、妖怪にとっては、数年貯金してやっと手に入るといった具合の金額だ。が、目の前の文車妖妃は、暮らしこそ貧乏だが、その人脈の広さは折り紙付きである。知り合いに毛羽毛現がいても不思議ではない。
 コンコは腹を決めた。
 悲しいかなコンコの中の乙女は、どうしようもないほど乙女だった。
「予定を確定にしたろうじゃん。ふぐっち、何でも申し付けてくれてオーケーよ」
「じゃあ早速だけど――」

「助けてぇ! も、もう産まれそうなのよ! 早く開けて、開けてったらぁ!」
 必死の形相で声を張り上げつつ、緊急搬入口の扉をバシバシ叩いているのはコンコだ。
 その様子を、駐車場を取り囲むフェンスの向こう側の、茂みの中に隠れつつ見守るのは、文車妖妃と弥奈の二人だ。
「さすがオカマって感じね。そん所そこらの女よりよっぽど女らしいわ」
「女なのに女らしいって?」
 小首をかしげる弥奈。
「そのうち判るようになるから。弥奈、ほら、もうちょっとかがんで」
「うん」
 二人は息を殺して、コンコの“名演技”を見守る。背後には痾ジの森が、誘惑的な闇を作りだしている。
 痾ジの森を成しているのはほとんどトウヒの木々である。ここのトウヒは、倒木を苗床として育つ“倒木更新”を行っているため、数本がまとまった状態で生えている。その為、この痾ジの森は昼間でも夕方並に暗く、さらに地に繁茂する大量の苔によって、常に空気は湿り地面はぬかるみ、“根上がり”を起こした根だけが地面に無数に残っている。
 外観、環境、雰囲気、どれをとっても、妖怪にとってはこの上なく快適に住まうことが出来る、理想郷と言っても決して過言ではない土地である、いや、だった。
 理想郷を過去のものにしてしまった元凶こそ、今コンコが潜入しようとしている、『異ヲ第三総合病院』である。痾ジの森のおよそ三分の二もの敷地を拓いて建てられたその無機質な建造物は、痾ジの森から闇を無慈悲に追いやってしまっていた。
「急に産気づいちゃったのよ! お願い赤ちゃんを助けてぇ!」
 泣き叫ぶコンコ。その姿は人間の女性で、腹部が極端に膨張している。
 妊婦に化けて病院内に侵入し、地下があったら怪しい場所を徹底的に調べよ――これが、文車妖妃がコンコに与えた任務だった。美容院や映画館等で特別割引サービスを受けるために、これまで何度も妊婦に化けたことのあるコンコである。その完成度は折り紙付きだ。
 わめきつつ、コンコは不思議に思っていた。警察署前で文車妖妃は、妊婦に化けろと言った。この病院に産婦人科があることを、あらかじめ文車妖妃は知っていたのだろうか。いや、それはありえない。他の異ヲの街の病院と同じく、ここも『Human Only』のプレートが、搬入口のガラスに描かれているし、そもそも文車妖妃の身体の傷は病院では治療できない。
 文車妖妃は何かを隠している。それも、この事件の真相に関わる何かを、だ。まるで自分が、『シャーロック・ホームズ』のワトソンになったような気がしてきて、コンコはそこそこ不愉快になった。
 そのまま三分ほど搬入口でわめき続けていると、ようやく数人の医者と看護師が駆け込んできた。コンコをストレッチャーに乗せると、医者は周りの看護師にあれやこれやと口やかましく指示を始めた。
 ガラガラと車輪のやかましい音が耳へ、ストレッチャーの揺れが背中へと伝わってくる。コンコの視界には、下方に流れる天井と照明、そしてこちらをしきりに覗き込んでくる医者と看護師の顔しか見えない。時折感じるドンッという強い衝撃は、ストレッチャーがドアを押し開いた音だろう。
 へぇーこうやって出産の準備をするのねぇ。仰向けのまま廊下を滑りつつコンコは、男である自分が、疑似的ではあるが、妊婦の体験ができていることに、少し感動していた。
 いくつかのドンッという衝撃の後、コンコの視界は、明らかにそれまでとは異なる質の照明を捉えた。天井もデザインも全く違っており、金属製のものを動かしているガチャガチャという音がひっきりなしに聞こえている。
 ここが分娩室に違いない。
 そう判断した瞬間、コンコは懐から小型のきんちゃく袋を取り出すと、天井に向かって思いっきり投げ放った。
 巾着袋は天井にぶつかって破れ、中身の粉末が辺り一面に散らばった。医師たちはほんの一瞬「何だっ」と慌てた様子を見せたものの、すぐに大人しくなった。
 コンコが起き上がった。膨れた腹そのままで。コンコは茫然自失状態にある医師と看護師の目の前に、順番に顔を突き出し、聞き取れない言葉をささやいた。
 コンコがストレッチャーから飛び降りるとほぼ同時に、医師たちは動き始めた。
「消毒の準備をして」
「血圧、上百七十、下百五」
「呼吸を合わせてください、ひっ、ひっ、ふー」
 医師たちは誰もいないストレッチャーに向かって、ありもしない機械を操作しながら、分娩の準備をし始めた。
 コンコはしてやったりとニヤリと笑うと、悠々と分娩室を出て行った。やはり人間を化かすのは気持ちいい。
 出っ張った腹をポンと叩く。すると風船の空気が抜けるように、見る見るうちにしぼんで元の大きさに戻った。コンコはお得意の忍び足で、音もなく廊下を素早く移動する。時間帯が功を奏して、見かける人間は看護師数人だけで、見つからないようやり過ごすのは、造作もないことだった。
 コンコは更衣室を見つけると、すかさず忍び込んだ。ドアに鍵がかかっていたが、社会的によろしくない技術は山ほど持っているコンコである。髪の毛を留めていたヘアピンを折り曲げて、鍵穴にちょこちょこするだけで事は足りた。
 しばらくして更衣室から出てきたコンコは、ナース服に身を包んでいた。心なしか顔がほころんでいるように見える。
 医師たちにかけた幻術はそう長くは持たない。せいぜい十分が限界だ。解ければ当然騒ぎになって、面白くない事態になる。人間たちが騒いでくれる分には面白いのだが、その後に待っている文車妖妃のお叱りの方が面白くないのだ。
 地下に向かう扉は、コンコ持ち前の嗅覚と勘で、かなり簡単に見つけることが出来た。案の定『関係者以外立ち入り禁止』という赤いプレートが付けられているが、そんなものは無視である。
 早速“よろしくない技術”でもって扉の鍵を開けると、コンコは変化を解いて、わずかに開いた隙間からするりと中に潜り込んだ。
「ふふふっ、久しぶりだわね、こんなスリル」
 呟くと、前脚で空に円を描いた。すると空中に、青白い火の玉が出現した。“狐火”である。
 真っ暗な階段を、狐火の明かりを頼りにコンコは下って行った。

「ふわぁぁ、ぁ」
 豪快なあくびをかましたのは弥奈である。
「あんた妖怪なのに夜眠くなってどうすんの」
 太い木の根元に腰かけて本を読んでいる文車妖妃が言った。その頭上には、<提灯火>が弱めの火で燃えており、彼女の手元の本を照らしている。
「しょうがないじゃんか、おいらけんこーゆーりょーじだもん」
「妖怪に健康もなにもないでしょうに。全くどこで覚えたんだか」
「ねぇねぇねえちゃん」
 弥奈がすり寄ってきた。
「なによ」と、煩わしげに文車妖妃は答えたが、突き放すことはしない。
「あの病院に何があるの?」
 弥奈の問いかけに、文車妖妃は渋い顔をすることしかできなかった。確信があるわけではない。証拠、らしきものは見つけることはできている。しかしあくまでも“らしきもの”だ。確固たる証拠は未だ見つけることが出来ずにいる。
 しかし、一連の奇妙な出来事の発端が、この病院であることは間違いない。例の溶解人間から受けた傷から見えたイメージは、ここ痾ジの森と全く同じだし、始まりの“呪われた物件”に、この森の木が使われていたとなれば、ほぼ確定だ。
 おびただしい数の恐怖と寂しさを生み出した源泉は間違いなくここにある。それが何であるかはまだ判らない。だが、絶対に愉快な代物ではないことだけは確かだ。妖怪である自分にとっても。
「分かんない」
 弥奈にはそう言うしかなかった。言われた当人は頬を膨らませて不服の意を表したが、文車妖妃は意に介すことなく読書を続けた。
 突如、本の紙面が赤く染め上がった。やや遅れて、轟音。
 文車妖妃は慌てて顔を上げた。
 病院の一階の奥まった箇所から、もうもうと炎が上がっていた。
「ねえちゃん!」
 弥奈が叫んだ。文車妖妃が、病院の方へと猛然と駆け出したからだ。

「一体何なのよ、これ」
 コンコは、病院の地下にあったボイラー室の片隅で、全身を震わせていた。突然聞こえた轟音とそれに続く非常ベルの音に驚いたのもあるが、原因はそれだけではなかった。
 コンコの目の前には壁がある。何の変哲もないコンクリートの壁だ。だが、コンコは気絶しそうなほど強く感じ取っていた。壁の向こう側からにじみ出している、マグマにも似た猛烈な瘴気を。
 ほう、ほう。
 どこからか声が聞こえる。フクロウの鳴き声だ。
 ほう、ほう。
 ほう、ほう。ほう、ほう。
 ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。
 ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。ほう、ほう。
 一羽二羽どころではない数のフクロウの鳴き声が、コンコの両耳をつんざいた。思わず両耳を塞いで呻きながら地に伏せる。
「あんたたち……まさか……」
 コンコは気が狂いそうなほどの狂騒のるつぼに居ながらも、無数のフクロウの声が、その壁の向こう側から聞こえてくることを知った。
 その時、コンクリートでできているはずの壁が、まるで風に揺れるカーテンのように波打ちだした。
 こんなこと起こりうる訳がない。コンコは自覚していた。決して自分の気が触れたわけではなく、実際に壁が波打っているわけでもない。見えているのは幻覚だ。しかも、人間には見えない、“人間ではなく妖怪である”自分だからこそ見える幻覚だ。
「あんたたち、だったのね。かわいそうに……」
 壁の波は激しさを増してゆく。波が激しく移動していく中、波の谷間から何かが浮かび上がりつつあるのが見えた。丸っこい何かが。しかも一つではなく、無数に。
 人間の顔だった。まだ十分に成長し切っていない子供、いや、子供ですらない、赤ん坊の顔だった。
 コンクリートの壁はもはや完全に原形を失っていた。壁面に生じていた波も、次々に浮かび上がってくる赤ん坊の顔によって、すっかり消されてしまった。
 ほう、ほう、ほぉうぉう、ほあぁあ゛う。
 フクロウの鳴き声に変化が生じた。これまで無数に響いていた鳴き声が一つに収束しつつあった。そして徐々に聞こえてきたのは、
 あぁぁあんあん。
 赤ん坊の泣き声だった。
「かわいそうに……」
 コンコが呟いた。虚ろになりつつある心で。赤ん坊の顔を通して、激しい感情が流入してくる。恐怖と、寂しさ――あの時文車妖妃が感じたのと同じであろう、想像を絶する寂しさを。
 コンコはその顔を痛ましそうに歪め、虚ろな瞳に涙さえ浮かべながら、フラフラと何かに魅入られたかのように壁に向かって歩き出した。
 あぁあぁん、あぁあぁん。
 一斉に泣きじゃくる何百という赤ん坊の顔。それら顔と顔の隙間から、何かが伸びてくる。おびただしい数の、人間の腕だ。
 指も腕の太さもなにもかも未成熟な――即ち赤ん坊の――腕は、何かを全力で求めるようにもがいている。まるで、溺れた者が必死で空気を求めるように。
 そして、コンコの身体にその手の内の一本が絡みつこうとした、その時――
「コンコォ!」
 と、コンコの名を叫んだ者が、いきなり横から体当たりをかましてきた。突然のことにコンコは、身体を地面にしたたかに打ち付ける羽目になった。
「いったいわね何すんのよっ」
 自分にぶつかってきた者に向かって怒鳴るコンコ。
 すると「あんたの命を救ったのよ」と文車妖妃が言った。その顔からは、いつもの飄々とした雰囲気はなく、この上ないほど引きつって強張っていた。
「ほら見なさい」と、文車妖妃は彼女の首根っこを引っつかんで、件の壁の方に強引に振り向かせた。
 そこには、つい先ほどコンコが立っていた場所をさまよっている手の群れがあった。あとわずかでも文車妖妃の行動が遅かったら、最悪取り込まれて、どこか二度と戻ってこられない場所へと連れ去られていただろう。
 コンコの顔から、恐怖によって血の気が完全に失せた。助かったことへの安堵と、あの壁の赤ん坊たちから感じ取った途方もない寂しさによって。下手をすれば以前の文車妖妃のように号泣してしまうだろう。だがコンコは必死でこらえた。どうしても文車妖妃に伝えなければいけないことがあるからだ。
「ふぐっち、私判った。判ったのよ。あんたが感じたって言ってた、いっぱいの寂しさが一体誰のものなのか」
「えぇ、あたしも検討がついてるわ」
 そう言って文車妖妃は、懐から一枚の紙切れを取り出した。縁の一部が黒く焦げている。
「逃げるわよコンコ。さっきここの一階で爆発が起こったの」
 その言葉にコンコは顔面を引きつらせた。
「あんたまさか、その後にここに来たんじゃないでしょうね」
「そうに決まってんじゃない」
 文車妖妃は書物の妖怪。当然その身体は非常に燃えやすくできているため、火は彼女にとってまさに天敵だ。なのにこの目の前のバカは、自分が消し炭になるかもしれないというのに、わざわざここまですっ飛んできたという。暗いので見えずらいが、よく見れば体のあちこちに焦げ穴が空いてしまっている。
「おバカッ!」
 思わずコンコはその無謀さに怒り、怒鳴った。
「あんたっ……。このおバカ! あんたは燃えちゃったらそれで最期なのよ」
「説教なら後でたんまり聞くわ。今は早く外に――」
 文車妖妃の言葉は、そこで遮られた。ボイラーが突如、大量の蒸気を吹き出し始めたからだ。二人の姿は、瞬く間に蒸気の中へと消えた。
 そして、爆発。
 炎が部屋全体を包む瞬間、件のコンクリートの壁が爆風で崩れ落ちた。
 そこには――

「ねえちゃーん! コンコちゃーん!」
 空が白みだした頃、黒く焼け焦げ鉄骨がむき出しになった病院の前で叫ぶ、一人の子鬼の姿があった。
 弥奈は文車妖妃が藪から飛び出し病院に向かった時、一緒についていかなかった自分を激しく責めていた。
 突然の爆発。やや遅れて弥奈の肌に届いた熱い風。文車妖妃が病院へと駆けだした後、訪れたのは混乱と喧噪だった。まずけたたましい非常ベルが鳴り響き、炎の音に混じっていくつかの人間の悲鳴が聞こえた。出入り口から火だるまになって飛び出してくる人間もいた。その人間は、十数秒ほどのたうち回ったあげく動かなくなった。二階より上の階からは、避難用の緊急はしごが下ろされ、患者たちが大量の煙に巻かれながらも、必死に下へと降りていた。
 やがて病院の裏口から、ストレッチャーに乗せられ、点滴をされたままの患者が次から次へと運び出されてきた。中には心臓マッサージを受けている患者もいた。火の手の勢いは一向に収まる気配がなく、あちこちで人間の悲鳴と罵声と怒鳴り声が響き渡っていた。病院の駐車場は、黒く煤けた身体の医者と看護師、そして患者たちで瞬く間に埋め尽くされた。
 しばらくすると、消防車と救急車が合わせて十台以上到着した。消防士や救急隊員が、焼け出された医師たちから事情を聞きつつ消火活動の準備をしていると、またしても大きな轟音が響き渡った。人々の悲鳴が上がる。弥奈はその瞬間ぞくりとした。その轟音は地面の下の方から響いてきた気がしたからだ。
 もし今地下に二人がいたら――その想像は弥奈の恐怖心を容赦なく喚起した。全身が震える。頭の中で声がする。何やってんだよ早く助けに行けよ。だが、身体が動かない。声も出すことが出来ない。人間に助けを求めるのが嫌などというちんけな理由ではなく、本当に声が出ない。弥奈の脳裏に、文車妖妃の身体が焼き尽くされ、コンコの全身が炎に呑まれる映像が浮かび上がった。
 火が完全に消し止められたのは、空が白み出した頃だった。徐々に明るくなってゆく世界の中で、何百人という人間が苦しみ、泣き、怒り、呆然としていた。昏い痾ジの森を除くあらゆるものが色を取り戻してゆく中で、弥奈だけが灰色の心のままで立ちすくんでいた。
 病院の一階部分はほぼ全焼してしまい、ススと灰だらけになった鉄骨がむき出しになっている。二階部分は半焼状態で、内部には煙や炎に巻かれて死んだ人間の死体が、いくつか転がっているに違いない。その証拠に、早くも<蝶化身>や<人魂>が生まれ、上空には<ふらり火>が舞い、<首かじり>が死体を求めてやって来ては、警官や消防隊に追っ払われている。
 どれだけの間じっとしていただろうか。弥奈の身体からほとんど唐突にこわばりが取れた。
 藪の中から弥奈が飛び出した。突然現れた子鬼に、周囲の人間がざわつく。警官たちの静止の声をことごとく無視し、立ち入り禁止のテープをくぐった。
 続いて数人の警官が引っつかまえようと駆け出したが、弥奈はその小柄な体格を活かして警官たちの手をかいくぐり、全焼した一階部分へと入っていった。
 ぽたぽたと消火剤が滴り落ち、水蒸気と噴煙が所々立ち昇る中を、足の裏を真っ黒にしながら弥奈は駆けてゆく。文車妖妃とコンコの名前を叫びながら。しかしその声は、炎によって焼き尽くされた空間に、虚しく響き渡るのみだ。
 やがて弥奈は立ち止まった。
「おいお前、妖怪が人間の許可なく勝手に入ってるんじゃない!」
 そんな暴言を背後から浴びせられたが、弥奈は反論一つしなかった。ただただ無言で、どこか遠くを見つめるだけだ。
 そして、伸ばされた警官の手が弥奈の肩に触れた瞬間だった。弥奈の足下のがれきが突如、盛り上がった。
「うわっ」と声を上げ、警官たちが後ずさる。
 ガラガラと崩れてゆくがれき。その下から現れたのは、二つの肉塊だった。青みがかった白い肉の塊が、下手な人型の粘土細工のような造形で、ぶちゅぶちゅ音を立てながら動いている。その頭部には目も鼻も口も耳もなく、全身からは腐敗臭を発している。
「死ぬかと思ったわ、妖怪の自分が言うのもなんだけど」
 肉塊の一つが喋った。文車妖妃の声で。
「シャンプーどころの騒ぎじゃないわ。エステ行くわよエステ!」
 もう一つも喋った。コンコの声で。
「もう最っ悪。エステ代全部出しなさいよふぐっち」
「何でよ、嫌よ」
「あんたの命令に従った結果がこの有様なんだから責任取るのが筋っちゅーもんでしょっ」
 コンコの声の肉塊が、隣の肉塊をぶちゅっと叩いた。
「あーあ、命の恩人にそんなこと言っちゃうんだ。髪や肌どころか命を救ったのよこっちわ」
 ぐちゅぐちゅと地団駄を踏み、文車妖妃の声の肉塊が言った。
「オ、ト、メにとっては美貌は命より重要なの……あ、そっかぁ。年がら年中店に引きこもってらっしゃる文車妖妃、いえ“地味車ボンビー”さんには縁の無いお話でしたわねぇご免あそばせ」
「その毛皮引っぺがして闇市で売ってやるわ、さぞ高く売れるでしょーよ」
「PETA送りこむぞコラ」
「やってみなさいよペッタンコ野郎。あ、股間を除いて」
「よっしゃ、ちょっと歯食いしばってみようか?」
 ぐっちゃぐっちゃとケンカを始めた肉塊二つ。奇怪極まりない光景に、弥奈も警官たちも唖然とするしかない。
「き、貴様ら何なんだ! 動くな!」
 我に返ったらしい警官の一人が銃を構えた。
 二つの肉塊は警官の方を向き――顔がないので憶測だが――、一瞬動きを止めた。そして慌ただしく、「ちょっと撃たないで、化け物じゃ、いや化け物だけど、ちょっと待って、待っててね」などと言いながら、自らの身体の肉を引きちぎり始めた。
 肉片がぼたぼたと地面に滴り落ちてゆく。その光景に一人の警官はたまらず口を押さえた。
 やがて、肉塊の中から、
「ねえちゃん! コンコちゃん!」
 粘液にまみれた本人たちが現れた。放たれている悪臭をものともせず、弥奈は二人のもとへ駆け寄り、文車妖妃に抱きついた。
 べちょっという音がした。
「よかったぁ……、ねえちゃんたち、燃えちゃったのかと思って……」
 泣きじゃくりながら弥奈が言った。
「弥奈ちゃん弥奈ちゃーん」
 弥奈が振り向くと、そこには両手を広げて待ち受けるコンコの姿。
「コンコちゃんもよかったぁ」
 また、べちょっという音がした。
「あぁもう、ほんっとに可愛らしいんだから」と、コンコは弥奈の頭を撫でた。
「でも、どうやって?」
 弥奈が文車妖妃に問うた。すると、それに応えるかのように、三人の足下に散らばる肉片がビクンと震え、一か所に集まり始めた。
 警官たちはざわついた。
「ボォ」
 再び元通りの形になった肉塊が、間延びした声でそう呻いた、いや言った。右手を挙げて「やぁ」と言っているようなポーズをとって。
 文車妖妃は片手を挙げそれに応えると、言った。
「正直、駆けの連続だったわ。幸運にもあってくれてね。地下に“死体安置室”が。で、死体の肉があるならもしかしたらと思って呼びかけたら、そちらさんがいてくれたの」
「ボッ」
 えっへんと胸(らしき部位)を張る<ぬっぺふほふ>。
 死人の腐肉で出来ているぬっぺふほふにとって、病院の死体安置室は、火葬が主な異ヲの街では数少ない住まいとも呼べる場所だ。文車妖妃は完全に駄目もとで呼びかけた。もしいても無視される恐れは十分にあった。しかし幸運にも、いたぬっぺふほふはいわゆる、“いい人”だった。
「普段なら反対したわよあたしは。うじゅうじゅのきちゃない肉に包まれるなんて……い、痛っ、痛いわねっ」
 ぼこぼことぬっぺふほふがコンコを殴る。
「分かった分かったわよっ。感謝してるってちゃんとっ」
「ボ」
 ぬっぺふほふは殴るのをやめた。「分かればよろしい」といったところか。
「あんがとね。この恩は後日返すわ。いい死肉が見つかったら知らせるから」
「ボゥ」
 それを聞いたぬっぺふほふはコクリと頷くと、のっそのっそと歩き始めた。警官や消防隊はその外見に及び腰になりつつも、相手は無害な妖怪なので攻撃を加えるような真似はせず、ぬっぺふほふの通り道を作った。やがてぬっぺふほふは、痾ジの森の中へと消えていった。
「そこの妖怪三名、不法侵入と放火の疑いにより、直ちにその身柄を拘束する」
 その張りつめた声はだしぬけに病院の外から聞こえてきた。警官たちがざわつく。どうやら彼らにとっても予定外のことらしい。
 慌てた様子のコンコと弥奈の隣で、文車妖妃だけが動じずにいた。彼女の目線は一直線に、こちらへ突入してきつつある、武装した一団を射抜いている。
 異ヲの警察のSATI(Special Assault Team of Iwo)だ。この状況から察するに、どうやら文車妖妃たちを、非常に危険な妖怪と見なしているらしい。
「あぁ……とうとうシャバと永遠にバイバイの時が来たのね」
 無意味にはんなりとその場に座り込むコンコ。だが、
「ん? いや違うわよ。あたしたちじゃないわよ火ぃつけたのは!」
 すぐに立ち上がり仁王立ちでSATIに向かって抗議を始めた。
「相変わらず忙しい奴だこと」
 あきれた様子で文車妖妃は呟いた。
「ねえちゃん……」
 弥奈が不安げに文車妖妃の着物の袖をぎゅっと握ってきた。文車妖妃はしゃがみ込み、弥奈と目線を合わせた。
「大丈夫よ。あたしが何とかしてあげるから」
 その言葉は決して虚勢でも、弥奈を安心させるための嘘でもなかった。文車妖妃はこの展開を、爆発が起こった直後から、ある程度予想していた。“知られたくない秘密”を探っている自分たちを、放っておくはずはない。何かしらの手は打ってくるだろうとは思っていたが、まさか病院ごと焼き払おうとするとは驚かされた。不都合なモノや臭いモノがあれば即蓋をしてどこかに隠す。無駄に悪知恵の働く人間の常とう手段だ。
 文車妖妃はSATIに捕縛されながら不敵に笑った。そっちがその気なら、こちらもそれなりの手段を取らせてもらうことにしよう。妖怪が本当の恐ろしさを発揮する時とは、バカにされたり、ナメられたりした時なのだから。

7

 異ヲ中央警察署は、不気味のそびえ立つ数々のビル群に埋もれるような形で建っている。ビルのせいで日中陽が当たることはない――そもそもスモッグのせいで年中ほとんど曇りなのだが――。そのせいか、周囲の他の建物より一回り陰気に見える。
 ぽつぽつと、空から小粒の雨が降ってきた。異ヲの街全体にうっすらと紗がかかってゆく。<送り火>や<提灯火>、<叢原火(そうげんび)>などは我先にとどこかへ飛んでゆき、通りから伸びる小汚い路地では<傘化け>が、本来打たれて嬉しいはずの雨から逃れようと、自分の住まいへと急いでいる。また別の路地では、通常の三倍程の大きさの身体を持つ巨大なカエルを、<雨降り小僧>が不思議そうに眺めている。
 文車妖妃たちを乗せた護送車が、通りを突き進んでゆく。水たまりの水をはね飛ばしながら。その水が通行人にかかろうがお構いなしだ。
 車内にて、両手に手錠をはめられた文車妖妃は、対面に座っているコンコと弥奈を見ていた。二人とも不安と恐怖でいっぱいという面持ちだ。特にコンコはこれまでの行いがあるせいか、捕まる怖さをなまじっか知っている分、これまでとは明らかに違う警察の対応に顔全体が引きつっている。普段なら、両脇に陣取る体格の良いSATIの隊員に、色目の一つでも使うだろうが。
 やがて護送車は異ヲ中央警察署へと到着した。どんよりとした空よりも更に陰気な地下駐車場へと入ってゆく。
 三人は手錠をかけられたまま、SATIの隊員たちに囲まれて、エレベーターに乗せられた。明らかに古く、途中外から何度も金属の軋む音がして、エレベーター全体が時折ぐらぐら揺れる。
「一度業者に診てもらった方がいいわよ」
 文車妖妃が言った。
 返事は、なし。無表情の隊員たちはただまっすぐ前を見つめるのみだ。
 数十秒ほど上昇した後、エレベーターは十階に到着した。
 開いた扉の向こうには、紫煙まみれの空気と汚れた床と喧噪に包まれた某課……ではなかった。(異ヲの街にしては)清涼な空気と清潔な床と壁の廊下。傍らには観葉植物まで飾られている。三人は廊下を歩かされ、椅子と机以外何もない簡素な部屋に入れられた。三人を入室させると、SATIの隊員たちは扉を閉めた。ガチャッと鍵がかかる音がした。
「極刑なんて勘弁してよ……」
 コンコが言った。
「ねぇ、ねえちゃん僕たちどうなっちゃうの?」
 文車妖妃は弥奈の頭を両手で撫でつつ、「何とも言えないわ。でも、ただの犯罪者扱いじゃないってことは確かね。心配しないで、きっと何とかなるわ」
「その自信の根拠は何なのよ」
 問うコンコに、文車妖妃は答えた。
「妖怪の矜持って奴かしらね」
 コンコは意外そうな顔をした。文車妖妃の性格を鑑みるに、矜持といったような言葉を使うのは極めて珍しいことだ。
「あたしは、人間にどんなことを言われようがされようが、基本はどうとも思わないわ。別にこの異ヲの街を変えたいとも思ってないし、差別を受けてる妖怪を救おうとも思わない。でも、そんなあたしでもさすがに、今回みたいに、ナメられるのは勘弁できないのよね」
 文車妖妃は笑みを浮かべた。人間が夜間に見れば、たちまち卒倒してしまうような壮絶な笑みだ。妖怪であるコンコと弥奈にとっては、それはすこぶる魅力的な笑みに見え、つかの間二人は彼女の笑みに見とれた。
 その時ドアが開き、背広を着た人間の男が入ってきた。
「古本の妖怪はどいつだ」
「あたしだけど」
「ついて来い」
 男は体半分を部屋に入れたまま、顎をしゃくって退室を促している。
 弥奈とコンコを振り返る。二人は、追い詰められた小動物のような表情を浮かべている。それを見て文車妖妃は苦笑を一つ。「そいじゃ行ってくるわ」と、近所に買い物に出かけるかのような軽い挨拶を二人に送った。
 背広の男に連れられ文車妖妃が案内されたのは、同じ階の突き当りにある大きな部屋だった。ドア上部のプレートには“応接室”とある。
 室内には革張りのソファが二つと、高価そうな机が一つ、壁には異ヲの街のシンボルマークを織ったタペストリーが飾られている。その隣には“猩々(しょうじょう)よく言えども飛鳥を離れず”という文字が、掛け軸にでかでかと書かれている。口先だけで行動しない奴は鳥獣に変わりないという意味だ。有言実行と書けばいいところをあえてこの言葉を選ぶあたり、妖怪に対する差別意識が如実に表れている。そして、
「はじめまして。文車妖妃くん、だったね」
 机の向こうの椅子がくるりと回って、一人の老紳士が現れた。嫌味の無いぱりっとしたスーツを身にまとい、白髪交じりの髪をしっかりとセットした、いかにも温和そうな人物だ。
「私はこの街の市長を務めている者だ。さぁさ、そこにかけてゆっくりしてくれ」と言って市長と名乗った老紳士は、ソファの片側を文車妖妃に勧めた。
 文車妖妃はその言葉に応じソファに腰かけた。全身を緊張させ身構えたままで。本の知識と経験から、目の前の人物が人間で最もたちの悪いタイプだと判断したからだ。
「ゆっくりしたいとこだけど、これがあっちゃあね。お茶を出されても上品に飲めないわ」
 両手を突き出しながら言った。手錠の鎖がジャラジャラと鳴った。
 市長はくっくと笑った。そして文車妖妃の向かいに座りつつ、言った。
「その心配は無用だ。薄汚い妖怪に出す茶など、ここには無いからね」
 そうらやっぱり。文車妖妃は心中でえずいた。案の定たちの悪いタイプだ。
「あんたの妖怪に対する姿勢は、その一言でよおく解ったわ。で、あたしをここに呼び出した訳をお聞かせ願いましょうかね市長さん」
「その前に、だ」
 そう言いつつ市長は足を組んだ。
「一つ聞きたいことがある。君は一体、どこまで知っているんだね」
「どこまで? さてねぇ、何について訊かれてるのか分かんない以上は、答えようがないわね」
「とぼけるのはやめたまえ」
 市長の目がすぅと細められた。そしてやおらジッポライターを、懐から取り出した。
 カシャ、シュボ、カシャ。カシャ、シュボ、カシャ。カシャ、シュボ、カシャ……。
 カバーを外し、火をつけ、またカバーを閉じる。
 考えるまでもなく、文車妖妃は理解した。答えなければ燃やす、というこれは脅しだと。
 文車妖妃はため息を一つ付くと、手錠をかけられたまま懐に手を入れた。一瞬市長が警戒の色を示した、「ここから逃げようなんて思ってないから」と、彼女は言った。
「教えといてあげる。あたしは火にも水にも弱い。消すなんて、簡単にできるわ」
 その言葉に、市長は納得したそぶりを見せた。
 文車妖妃は懐から、例の焼けた紙片を取り出した。
「あたしが“これ”に関わったのは、報酬が欲しかったからよ。ここ最近、呪いの連鎖とでも言うべき怪事件が起きててね。その被害者の一人から、希少本を報酬に依頼を受けて、色々調べた結果、これに行きついた。ただそれだけの話よ」
「どうだか。妖怪は嘘が上手いと聞く」
「そりゃ人間もお互い様でしょ。あの狐のコンコはしょうがないとしても、少なくとも、今この場であんたを騙すつもりは一切ないわよ」
「……いいだろう。それで、君はどこまで知っているんだね」
 市長はライターをポケットにしまうと、あごで壁の掛け軸を指した。
 ――猩々(しょうじょう)よく言えども飛鳥を離れず――
 文車妖妃は市長の目を見つめた。彼の目は年齢を感じさせないほどの輝きを持っていた。だがそれは純真というよりは、野心の輝きに近いものだった。
「分かったわ」
 そう言うと、文車妖妃はソファから立ち上がった。そして部屋の中をゆっくり移動しつつ、言葉を紡いだ。
「あの病院で、不自然な爆発が起こった瞬間、裏に何かあるなとは思ったわ。コンコを使って病院内の調査を始めた直後のドカン。あたしたちを、あるものと一緒に葬るつもりだったのは明白よ。あるもの――それがこれ」と、机の上に紙片を置いた。
「本ってのはね、単に文字が書かれてる紙の集まりじゃない。そこにはそれを記した著者の念や想い、ある意味魂ね。それが宿ってる。その魂は、例え本が焼けて紙切れ一枚になっても、消えることはない。あたしはそれを、完全じゃないけど読み取ることが出来る。古書の妖怪として、ね」
 そこで言葉を切り、市長の顔を見た。一切の表情を彼は消している。
 文車妖妃は続けた。
「あの病院に行く前に、ちょっと図書館に行って調べてみたのよ。気になることがあってね。ここ数年の、異ヲの街で生まれた子供について。結論から言えば、普通だったわ。普通。先天的異常のある子供の出生率さえも。だから逆に怪しいと思っちゃってね。果たしてこれは本物のデータなのかって」
 文車妖妃は窓ガラス越しに異ヲの街を見た。
「大気汚染、水質汚染、土壌汚染……、こんな汚染まみれの環境で暮らしてて、そんなことあり得ると思う? 奇跡でも起きない限りそんなことは不可能よ。データは改ざんされていた。“異常”として生まれた子供たちは、どこへ行ったのか……言いましょうか?」
 ゆっくりと市長の背後に近づき、言った。
「痾ジの森に埋めたのよね。それも、奇形児として生まれた赤ん坊を」
 市長は一切の心の機微を表さないまま、自分の手の爪をいじっている。
「あの病院の地下で、あたしは見たわ。何百という数の赤ん坊の“怨念”をね。その昔、貧しさから間引かれた子供は<たたりもっけ>という妖怪になって、家に宿り災いを引き起こすと言われていた。まさか、現代でお目にかかることになろうとはね。一連の呪いの連鎖は、痾ジの森の木材を介して、たたりもっけが起こしていた、というわけ」
 文車妖妃は、再び市長の向かいのソファに座り、「そして、これ」と、例の紙片を市長の目の前にかざした。
「あの病院は、この街における出産のほとんどを請け負ってる。あんたたちは、病院側に依頼して、環境汚染が原因で生まれた奇形児を、秘密裏に処分していた。安楽死を選ぶと、子供が生涯受け取るであろう障害年金と同じ額の金を支払う、と両親に持ちかけて。……ここからは想像だけど、当然反対する人もいたはず。でも、特に最近だけど、この街の人間たちは周囲の目や、世間体といったものをひどく気にする。『ヒトの形をしてない自分の子供をご近所様に見られるなんて耐えられない』、あるいは『この子に辛い人生を歩ませるなんて耐えられない。これはこの子のためなのよ』、みたいな感じで首を縦に振ったんでしょう。あたしには理解できないことだけど」
 紙片をピンと指で弾いた。それは市長の膝の上に落下した。
「爆発が起きたのは薬品保管庫だった。でもあんたたちの本当の狙いは、隣の資料室だった。それが保管されてた、ね。大方、あんたたちの算段はこんな感じだったんでしょう? とある妖怪が人間様の高潔かつ厳格な“決まり”を破って、妖怪立ち入り禁止の病院に侵入した。そのワルイ妖怪はあろうことか、薬品保管庫に鬼火か何かで火を放ち、残酷にもか弱き病人がいる病院を焼き払ってしまった。善良なる市民の味方である警察は、この不届き千万の妖怪を逮捕、あわよくば退治。警察の活躍と妖怪の愚行はニュースとなり、異ヲの住民は、妖怪に対する嫌悪と差別意識を、いつものように抱くのでした……めでたし、めでたし」
 室内に沈黙が下りた。窓の外にしとしとと降っていた雨は、いつしか勢いを増していた。遠くで雷が鳴っている。
 そして沈黙は、パチパチパチという、社長が手を叩く音で去っていった。
「ハハハ。君、小説家にでもなった方がいいんじゃないかい」
「あたしは別に――」
 一旦言葉を区切り、文車妖妃は頭をポリポリとかいた。
「あんたたちを糾弾するつもりはないわ。どこまで知ってるかと訊かれたから、知ってることを答えたまでのこと」
 市長は力を抜いたように、ソファに深々と座り込んだ。
「そうだろうね。例え、仮に、その話が事実だとしても、私たちを罪に問える証拠は無い」
 逆に文車妖妃は、上体を前に出した。
「その通りよ。実際の所、さっきまでの話の三割は、あたしの想像が入ってるし、それに何より、しがない古本屋の店主に過ぎない妖怪のあたしが何を叫ぼうが、人間たちがまともに聞くわけないでしょ」
「そうだろうねぇ」
「でも、あたしも霞を食う仙人じゃないし、それなりに欲を持ち合わせているわけ。ゴッホの手紙初版本だけじゃ、満たされない程度の、ね」
「ほう。まぁ、発言の自由はこの街の住民全員に与えられた権利だからね。どうぞ」
「じゃあ……」
 文車妖妃は市長に顔を近づけ、耳打ちした。
 その瞬間、稲光が異ヲの街上空で発生し、激しい雷鳴が轟いた。文車妖妃の言葉はその音にかき消された。しかし、
「ハハハ。何を要求してくるかと思えば、そんなことかね。いいともすぐにでも許可を出そう」
 市長の耳にはしっかりと届いていたようだ。
「感謝するわ。あたしからは以上よ。そっちからは? 刑罰を受ける必要ありかしら。もしあるんなら、あの子鬼の弥奈って子だけは見逃してあげて。あ、狐の方は特に問題無しだから」
 すると市長は立ち上がり、人の良さそうな笑みを浮かべ、
「いやいや、文車妖妃“さん”。今回のことは、大変申し訳なく思っております。不慮の爆破事故に“偶然”巻き込まれただけでなく、治安維持のためとはいえ、全く関係のない二人の妖怪までも、こちらの誤認によって、警察に連行してしまうとは。今後、こういったことのないように、組織内の教育を徹底する所存でありますからして、どうぞ、今日はお帰り下さいませ」
 そして深々と頭を下げた。腰の角度からなにもかも完璧な姿勢。何度も何度も繰り返した末会得した完璧さであろう。文車妖妃は、ここで初めて怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「お得意の“謝罪コメント”ね。その面の厚さだけは感心するわ」
 文車妖妃は立ち上がり、踵を返して部屋を出ようと……「あ、そうそう」したが立ち止まり、振り返ってこう言った。
「言い忘れてたわ。フクロウに気を付けなさい」
「道中お気をつけて」
 顔を上げる市長。しかしその視線の先には、閉じつつあるドアがあるだけだった。
 ライターを取り出し、火を点ける。
 カシャ、シュボ。
 再び、稲光が生まれた。それは市長の横顔を一瞬、昏く照らした。彼の口元は、笑みの形に歪んでいた。

8

 数日後、相変らずの淀んだ空と濁った空気に包まれた、薄暗い路地にある文妖堂の店内には、周囲の環境とは全く異なる明るさが充満していた。
「どうどう? ふぐっち見てよこれ。やっぱ付ける人が付けると輝きも一味違ったものになると思わなーい?」
 明るさの中心にいるのはコンコだ。先の病院火災の日を最後に、一連の呪いの連鎖は終息し、コンコは、元の平穏な日々を取り戻した希少本のコレクターから、報酬のゴッホの手紙初版本を貰い受けることが出来た。予想より二割近く高値で売れたため、懐はホクホクだ。早速購入した趣味の悪いルビーのイヤリングを、頼んでもいないのに文車妖妃に見せびらかしに来ている。姿こそ人間だが、舞い上がり切っているせいか、尻尾がドレスからはみ出してしまっている。
「んーこの貧乏くさいえぐみ。たまらんのう」
 きゃぴきゃぴはしゃぐコンコの頭上には、もう一人の明るさの源がいた。梁にしがみつきながら、天井の味を堪能しているなめさんだ。余程文妖堂の天井が気に入っているらしく、恍惚の表情で舌鼓を打っている。
 二つの明るさが上から下から文妖堂を陽気にしている中、一人仏頂面で陰気になっているのは文車妖妃だ。報酬であるゴッホの手紙初版本の味は申し分ないものだった。そんじょそこらの本では絶対に味わえない血のしたたる汗臭い濃厚な文章は、怪我を負ったり焼かれそうになったり腐肉まみれになったり……と被った数々の災難を、一瞬で打ち消すほどの美味であった。
 舌と目に残る味の余韻を楽しみつつ、のんびり昼寝でもしようかとまどろんでいたら、この二人の襲撃である。うっとおしいことこの上ない。文車妖妃の機嫌は急転直下で悪くなってしまった。
 コンコは身を乗り出して、正直なところ全然似合っていないイヤリングを自慢げに見せびらかし続けているし、なめさんが動くたびに天井からはほこりが落ちてくるし、ぼたぼたと唾液まで滴り落ちてくるのだからたまったものではない。
 今すぐにでも叩き出したいが、二人は――特になめさん――は、今回の依頼の功労者だ。ゴッホの手紙初版本の妙味にありつけたのは、この二人のおかげでもある。そんな二人を無下にはできない。それぐらいの礼節は、いくら半ば隠遁の身であれどわきまえているつもりだ。しかしだからこそ、怒るに怒れないこの状況は、文車妖妃には非常に歯がゆい。
 濃厚だったゴッホの手紙初版本の口直しにと、あっさりとした星新一の文庫をつまんでいたというのに、苛立ちのせいですっかりえぐくなってしまった。
「ねえちゃーん」
 とそこへ、弥奈が小走りで駈け込んで来た。
「はいはい」
 渋い顔ながらも声色は優しく文車妖妃は返事をし、「どうだった?」と尋ねた。
 すると弥奈は、顔を目いっぱい輝かせて言った。
「すっごく美味しかった!」
 笑みで上がる口元には、甘そうな白いクリームが付いていた。
「そう。よかったわね」
 文車妖妃はそっけなく言うと、文庫を懐にしまい込みながら店の外へ出た。
「あれ? ねえちゃんどこいくの?」
「店ん中うるさいから避難するの。弥奈、あんた店番頼むわ。もしそいつらが本汚したり破いたりしたら……遠慮はいらないからね」
 弥奈は一瞬キョトンとした後、したり顔で敬礼のポーズをとった。
 使い古したぞうりを履き、仄暗い路地を歩きながら文車妖妃は、狭い狭い異ヲの空を見上げた。そしてどこで本の続きを読もうかと色々考えを巡らせた。
 その時。
 ほう、ほう。
 どこからともなく、フクロウの鳴き声がした――ような気がした。文車妖妃は一度立ち止まったが、すぐにまた歩き出した。そしてその音が聞こえてきた方角を見もせずに、一人、昏い路地の奥へと消えていった。

 とっぷりと日が暮れた夜半の異ヲの街。その中を疾駆する一台の黒い高級車があった。たっぷりと排気ガスをまき散らして進むその車のボディは、この街のビル街よろしく黒光りしている。
 この街の住民の裕福度合いを示す指標の一つに、車の汚れ具合がある。もし車を外に駐車させた場合、一時間足らずで、車は煤煙や埃などによって物の見事に汚れてしまう。つまり、いつもピカピカの綺麗な車に乗っている者は、屋根のある駐車場を持ち、外出のたびに清掃してくれる者がおり、且つ自分より貧しい者たちを見下したいという欲求を持つ者、ということになる。これら全ての条件に当てはまる者は数少ない。
 車内の様子は黒張りのドアガラスによって確認することはできないが、断続的にぽうっとオレンジ色の光が現れている。しばらくしてその光が現れなくなった頃、ドアガラスがわずかに下にスライドし、上の隙間から吸い終わったタバコが投げ捨てられた。その隙間から、一見穏やかそうで、しかし冷たく鋭い眼光を放つ目が、一瞬だけ覗いた。
 車内のオーディオからは、往年の洋学のヒット曲が陽気に流れている。白い手袋をはめ、制帽を被り、きっちりとした黒いスーツを着込んだ運転手の後ろ、後部座席に腰かけているのは市長だった。
 カシャ、シュボ。
 と、いつものようにジッポライターを弄る。先ほど吸った高価な煙草は、普段吸えば絶品のはずなのだが、今日に限っては安物以下の代物に成り下がっていた。
 市長は脳裏で悪態をついた。あの癪にさわる古本女についてだ。この数年隠ぺいしてきた真実を、下等な妖怪女に知られてしまうとは。
 確かに、あの古本女本人が言ったように、この街においては人間の地位は絶対的に妖怪より上だ。市の議会を糾弾するつもりはないと本人は言っていたが、相手は妖怪だ。何百余年以上に渡って、人間をかどわかし脅かし、時には食糧にまでしてきた奴らだ。信用なんてできるわけがない。あの時はたわいない要求だったが、今後それがエスカレートしないという保証はどこにもない。証拠は隠滅したが、あの古本女は“知って”いる。カードはあちらが握っているのだ。カード自体は弱い。しかし、時と場合によっては、非常に厄介なものへと変貌するだろう。
「君、便所掃除ってしたことあるかい?」
 唐突に市長が運転手に問うた。等の運転手はかなり困惑した様子で「はい」と答えた。
「なら解るね。使用してるうちに次第に厭な臭いがトイレ中に広まってくる。消臭剤とか芳香剤とかを使って、一応臭いは薄まるが、消えることはない。臭いを消すには、排水管の奥にこびり付いたクソを取り除かないといけないんだよ」
「はあ……」
「厄介な臭みは、元から絶たなけりゃ、意味がないよね」
 そう言って市長はにたりと笑った。
 その時だった。オーディオから流れていた音楽が、突如やかましいノイズへと変わった。聞いていた曲がお気に入りだったこともあり、市長は舌打ちをした。
「すいません」
 運転手は謝って、ラジオの周波数を調節するが、一考にノイズは消える気配がない。それどころか、徐々に音量を増してきている。
「なんだよこれっ……」
 運転手が焦りの声を上げる。すると、
「うおっ」
 運転手共々、後部座席の市長が前方へつんのめった。突然車が急停車したからだ。
「君、なにやっとるんだ!」
 罵声を浴びせかける市長。しかし運転手は、
「何もやっておりませんっ。勝手に停まったんですっ。くそっ……どうして……っ」
 運転手は必死に車のエンジンをかけ直そうとするが、うんともすんとも動かない。
 その時市長は、事の異常さを理解した。ヘッドライトが消えている。車内のありとあらゆる明かりも消えている。今や光源は、車外の外灯だけだ。自分たちがどこに停車しているのか、全く見当がつかない。そして何より、最も異常なことは、ラジオだけが今だにノイズを発しているということだ。
 市長は自身の身体が怖気立つのを感じた。久しく感じていなかった恐怖だ。
「さては、あいつらの復讐だな」
 こんな奇怪な芸当は、十中八九妖怪の仕業だ。どうせあの古本女と、それと一緒につるんでいた狐が、仕返しとこんなナメた真似を仕掛けてきたに違いない。丁度いい。これでこちらに、処分する大義名分が出来上がった。今に見ていろ。
 息巻く市長であったが、その心の昂りは、長くは続かなかった。ラジオからのノイズが段々と消えてゆき、代わりに一つの音が、次第に明瞭になりつつ市長の耳に飛び込んできたからだ。
 あぁぁあんあん。
 赤ん坊の泣き声だ。
 近くを通る車は一台もいない。人の話し声も聞こえない。街中どこにいても聞こえるはずの工場の音さえも聞こえない。完全な沈黙の中、赤ん坊の泣き声だけが、昏い車内を埋め尽くしてゆく。
 いつしか市長の体は、小刻みに震えていた。
 徐々に赤ん坊の泣き声が大きくなってゆく。まるでこちらに近づいてくるかのように。
 市長は弾かれるようにドアのハンドルに手をやった。しかし、
「おい! いい加減にしろ」
 一向にドアは開かない。ロックは解除されているにもかかわらず。
「君、早く何とかしたまえ!」
 半ば金切り声で運転手に怒鳴る市長。だが、
「おい君! 君!」
 手を伸ばし肩を掴んで揺さぶっても、運転手は何も言わない。振り返りもしない。
 ほう。
「ひぃっ!」
 降ってわいた鳴き声に、市長は悲鳴を上げ、身体をひっこめた。その衝撃で車全体が揺れ、運転手の制帽が落ちた。
 またしても、市長は悲鳴を上げた。しかし今度は、声帯を潰さんばかりの、ほとんど絶叫に近いものだった。
 運転手の頭部の、上半分が無かった。かつて脳があった場所に、それはいた――まるでそこを棲みかにしているかのように、一羽のフクロウが。
 フクロウはその大きく深遠な瞳で市長を睨みつけると、翼を大きく広げ、凄まじい勢いで市長の顔面に襲い掛かった。必死に抵抗する市長だったが、呆気なくフクロウの鋭いくちばしは、市長の左目をついばんでしまった。
 絶叫を上げる市長。
 そして、その絶叫が合図であったかのように、車内の隙間という隙間から、腐った肉と骨をまとった赤ん坊が、続々と這い出してきた。市長は残った右目でその光景を見るや否や、完全に狂乱状態に陥り手足をばたつかせたが、赤ん坊たちはそんな抵抗などどこ吹く風。瞬く間に市長の全身にまとわりつき始めた。
 何かが引きちぎられる音と、何かがへし折られる音、そして何かを咀嚼する音が生まれた。
 ぎしぎしと激しく車が揺れる。だが、次第にその揺れは小さくなってゆき、遂に止まった。
 それから数分後。車のヘッドライトが再び点灯した。エンジンがかかり、車内のライトも復活し、オーディオからは陽気な音楽が流れ始めた。だが、出発しない。
 黒塗りのドアガラスの内側には、滴り落ちる液体にまみれた小さい何かが無数にへばりついている。そのドアガラスが、モーター音と共に徐々に下へと降りてゆく。そして、全てが降り切った時、車内から何かがにゅっと外へ突き出てきた。
 それは、血にまみれた人間の骨だった。外に出た反動で頸椎が外れ、頭蓋骨が地面に落ち、ころころと転がった。
 頭蓋骨は、仰向けの状態で止まった。
 暗い暗い異ヲの空。その暗闇に紛れて、一羽のフクロウが、どこか遠くへと飛び去ってゆく。
 頭蓋骨の眼窩に残った右目が、その様子をいつまでも見つめていた。

たたりもっけが飛んでゆく

たたりもっけが飛んでゆく

  • 小説
  • 中編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted