Fate/Last sin -21

「聖杯の……器?」
アーチャーは眉根を寄せて、自分のマスターの表情を凝視した。だが彼女は嘘や思いつきの戯言を口にしている顔ではない。アーチャーの眼を真正面から見つめ返した香月の顔は、真剣そのものだった。
「そもそも。この聖杯戦争は、既に三度行われている。それも、三十年に満たない短い月日の間に、です」
香月は三本、指を立てて見せる。
「一度目と二度目は、失敗に終わった。その時の聖杯戦争の首謀者は聖堂教会。聖杯を扱う方法も、その本当の使い方も、聖堂教会だけが知っていた。そしてあれはもう、決着のついた戦いです。関係者はほとんどが死亡しているか、魔術の表舞台には出てこない」
 二本、薬指と中指を折り曲げて、香月は言葉をつづけた。
「そして三度目は、一、二回目の模倣に過ぎなかった。けれど決定的な違いが一つ。
 それが聖杯の器の出現です、アーチャー」
 人差し指を下ろし、香月は疲れたように背後の壁にもたれかかって目を閉じた。大きく息を吐いて、乾いた血のついた右手で目頭を押さえる。作業の疲労が睡眠不足の身体に鞭を打っているようだった。だが彼女が言葉をとめることはなかった。
「聖杯の器は、聖杯に注ぎ込まれる魔力、すなわち、座に還ろうとするあなたがたですが、それを、一時的に受けとめる門のようなものです。六騎分のサーヴァントの魔力がそこに押し込められた時、それを一度に放って基盤への通路を開く。その時、器は役目を終えて、外装である肉体を吹き飛ばし、内装たる聖杯を顕現させる。いわば、器とは、聖杯が本来の姿に戻るまでの外壁のようなもの。
 三度目の聖杯戦争の時、一人の魔術師がこれを考案し、自身のサーヴァントの力を利用して作り上げたシステムである、と聞いたことがあります」
 アーチャーは窓の外に目を向け、「ふうん」としばらく香月の言葉を頭のなかで噛み砕いているようだった。やがて得心がいったのか、ぼんやりと白く光っている霧雨の空から目だけを逸らし、部屋の中に座っている香月を見る。
「気味が悪ィな。俺たちサーヴァントは現界する時に、聖杯によって一定の知識は与えられているが、そんな話は聞いたことがない」
「そうでしょうね。聖杯の器の存在を誰もが知っていたら、聖杯戦争はもはや『器』の奪い合いになる。そうなっては人間の肉体を外装として纏い、ヒトに擬態する意味がない。『器』は、ひっそりと、戦いが最終幕に差し掛かるまで隠されていなければいけない」
 アーチャーは部屋の隅に積み上げられた家具の上にあぐらをかいたまま、頬杖をついた。
「そうなるといよいよ変だ。なぜあんたがそんな重要な話を知っている? まして、あの男が『器』だと断言できるのも、おかしい」
「……」
 香月は血生臭さの残る部屋の空気を深く吸い込んで、それを吐き出しながら口を開いた。
「あの男は、魔術師でもないのに、全くの偶然でマスターとなった。そしてそこに都合よく現れたのがアサシンです。
私はこの儀式に参加する前に、『器』という存在を知りました。だから、あなたを召喚してすぐに、聖杯の器があるはずの聖堂教会を叩かせたのです。これまでの聖杯戦争の黒幕を考えれば、『器』はやはり今回も聖堂教会に管理されているのが妥当ですから。
けれど、その争いがもつれ、アサシンを追っているうちにあの男の元へ行きついた。アサシンは監督役との契約を放棄して、その男のサーヴァントになった。
……おかしいと思いませんか。普通なら、聖杯戦争で勝ち上がるためにサーヴァントは必須だ。増して、自分の手元に『器』があるならば、保護のためにもサーヴァントはやはり重要であるはず。だが監督役はアサシンを易々と手放して、魔術師でも何でもない、ただの人間を聖杯戦争に巻き込んだ」
 言いながら、香月はわずかに身震いした。ずっと頭のなかで組んでいた仮定が、いざ口に出してみると真実としか思えない。それと同時に、まるで全てが、聖堂教会にいるであろう監督役の思惑通りなのではないかという気さえしてくる。まだ直接その姿を見たことはないが、香月はその姿を思い浮かべて、口をつぐむ。
 その言葉の後ろを、アーチャーが引き取った。
「つまり、あの男こそ聖杯の器で、監督役はそれを保護したいからアサシンの契約破棄を許した、と? それだけではなく、監督役はあの夜に、アサシンが『器』と出会うことを予期していた、と」
「そうです」
 アーチャーはその返事を聞いてもなお、釈然としないといった様子で首を傾げ、唸っている。
「……何もかも上手く行き過ぎている気もするけどなァ」
 だが香月は顔色を変えなかった。
「当然でしょう。この聖杯戦争自体、聖堂教会の管轄による儀式に過ぎないのですから。監督役が全てを把握しているのは当たり前です。器のことも……」
「あんたがそう信じたいだけじゃないのか?」
 アーチャーが放ったその一言に、香月は初めて虚を突かれたように顔を上げた。
「どういうことです」
「そのまんまの意味だよ。マスターは、あの男をどうしても殺したくて殺したくて仕方ないんだろ。器とか監督役の目論見だとか、そんなものは、ただあの男を殺す合理的な辻褄合わせに過ぎない。結局は、全てが、あんたの仮説なんだからな」
「……それは……!」
 アーチャーは積み上げられた家具から降りて、つかつかと香月のもとまで歩み寄った。そうして、座り込んだままの香月の真正面まで行って、その青白い顔を赤い瞳で見下ろす。
「あんたは、聖杯の器だから杏樹という男を殺したいんじゃない。単に、死ぬほど気に食わねえから殺したいんだよ。死ぬほど殺したい相手に、たまたま殺すに値する合理的な可能性があるかもしれない、というだけの話だ。
そう言って、俺を納得させたいんだろう? 違うか?」
 有無を言わさないその口調に、香月は初めて苦虫を噛んだような顔を見せた。その脳裏には、あの夜、あの男に『絶対に最悪な方法で殺してやる』と啖呵を切った時の記憶がまざまざと蘇っている。
「……もし、そうだとしても」
 香月は吐き捨てるように答えた。
「何か問題が? 確かに、私はあの男をどうしたって殺したい。この手で、彼らに未来がないことを示さなければ気が済まない。八つ当たりと言われても今更ですよ。
 それに、私を焚きつけたのはあなたでもある。アーチャー。忘れたとは言わせない」
 香月のその言葉に、アーチャーは片眉を吊り上げた。
「覚えているさ。それに、別に殺すなとは言わない。もともと、最後の一人になるまで殺し合わなきゃいけないんだろう。順番など、それこそ今更だ。誰をいつ殺そうが俺は構わないし、殺せと言うなら殺すさ。さっきも言ったが、俺は命令されれば否とは言わない。
 もしマスターの言うことが正しくて、アサシンのマスターが『器』なら、それはそれで僥倖だしな」
 そう、あっけらかんと言い放って、アーチャーは足元の香月を見つめた。
 香月は、呆気にとられたように自分のサーヴァントを見つめ返す。その視線に、アーチャーは問う。
「何だ。何か意外だったか」
「……いえ。何も」
 香月は首を静かに振ってそう呟いたが、やはり収まりが悪いのか、小さく言った。
「……そうですね。意外と言えば意外です。あなたほどの英霊なら、私の願望には賛同してもらえないと思っていました」
 だから、彼が納得するような仮定を考え出した。
 もちろん、白石杏樹が『器』という仮説は、今までの経緯を全て踏まえたうえで導き出した、一つの真実であると自信を持っている。
 だが、自分はあまりに偉大な英雄を選んでしまった。生を尊び、人々の幸を望む英雄らしい英雄。そんな彼が、自分の願いを許容するわけがない。八つ当たりだと諭され、幼稚だと貶される。アーチャーはきっとそう言うだろう、と。
 もちろんそうなれば、令呪を切ることすら覚悟していた。
 私の願いは、故郷にいる彼と、今ここに居る私の幸福がどちらも叶うこと。今のままではどちらかを捨てなければならない。そして私はどちらも捨てられずにいる。だから奇跡に頼る。
 自分の幸福と、相手の幸福。
 そのどちらも手に入れているあの男が、聖杯を手にしたいなど、口にすることすら忌々しい。だから破壊したい。奇跡を手に入れたいのなら、既に手に入れたものを失って初めて願うべきものだと知らしめるのだ。
 そしてアーチャーは従うと言った。私の望みは、私が為したいことは間違いではない。
 香月は乾いた血のこびりついた右手を握りしめて、ブルーシートの上に立ち上がった。「行きましょう。誰よりも早く、『器』の居場所を探り当て……」 
 だが香月の言葉は途中で止まった。
「静かに」
 突然顔を険しくしたアーチャーに気圧されるように、香月は押し黙る。アーチャーはそのまま音もたてずに素早く窓際の壁へ近寄ると、一息に壁へ手を叩きつけた。
 ビィィ、と震動が部屋中に響き渡るような打撃だった。香月は「虫でもいたんですか?」と怪訝な顔をして、アーチャーが開いた手のひらの中を覗き込む。それを視認した瞬間、その目が鋭さを増した。
「……これは」
「やられたな。不可視の魔術を掛けられていたんだろう。今の話は、どこかの誰かに筒抜けだろうよ」
 アーチャーの固く大きい手の中には、ひしゃげた蜥蜴(とかげ)の残骸があった。だが単なる蜥蜴ではない。体を白銀の針金で精巧に造られた、魔術師の使い魔だった。



 最初の一騎の魂が流れ込んできただけなのに、もう足先の感覚が無かった。
「……」
 試しに、両方の足を引きずるようにして歩いてみる。
……爪先が持ち上がらず、床のわずかな段差に引っかかって、つんのめってしまった。あわてて壁に手をつき、体勢を立て直す。
 これほど早く、しかも直接的に、肉体への影響が出るとは思わなかった。でも、手先が使えなくなるよりはマシかもしれない。少しの間なら、誤魔化せる。……それもいずれ、意味が無くなるだろうけど。
「……」
 静かだった。彼女が外へ出て行ってから、当たり前だが誰もここへはやってこない。何度も眺めた窓の向こうは相変わらず霧雨で、空は真っ白に抜けている。天国みたいだ、という考えが頭をよぎって、あわてて振り払った。―――くだらない。そんな国があるわけない。あっても、自分は決してそこに行くことは出来ないだろう。辿り着けない場所に思いを馳せるのは、それこそ、魔術師だけでいい。
でも、と考える。
 でも、やっぱり―――行けるものなら、行ってみたい。本当に、誰もが安らかになれる国があるのなら。
 こんな道を辿らなければならないほど、運命というものに身を食い荒らされた自分でも、穏やかに眠れる場所があると、心のどこかで信じたい気持ちはまだ、ある。

ああ、だけど。もしその時、君がそばにいなかったら、やっぱり天国なんてものに意味はないだろう。





 教会の礼拝堂は静まり返っている。
 楓はそれほど広くない礼拝堂の中を、なるべく足音を立てないように縦断した。クララのいた部屋を出てから、それほど時間は経っていない。礼拝堂の中は、四日前にセイバーの宝具のせいで半壊したせいで修復中なのか、屋外のように寒かった。楓はコートの襟もとを押さえ、身を縮めるようにして礼拝堂の重い扉を開く。ところどころに、燃え焦げた跡があった。
「よい、しょ」
 全身で押すようにしてやっと開いた扉の隙間から、体を滑らせるようにして外へ出る。セイバーが召喚された日、確かバーサーカーはこの扉を蹴破るようにして中へ入ってきたのだ、ということを思い出して、楓は身震いした。
 教会の外は、石畳に覆われた広場になっている。
 楓は数段ある小さな階段を降りて、広場へ立った。霧雨が降っているが、大して気にもならない。空は曇天だが、白く抜けて変に明るい。
 ふと視線を地上に戻して、楓はぎょっとして身をすくませた。
 広場の向こう、古い金属の門を開いて、ベージュのコートを着た女性が立っていた。その女性も楓に気づいたのか、じっとこちらを見ている。まるで森の中で遭遇した鹿のように、警戒の糸をこちらに張っているのが見えるようだった。
 不意に、門の傍に立っていた女性が教会に向かって歩き出した。こちらを気にする素振りはない。ただの礼拝客だったのかもしれない、と思って、楓もまた門へ向かって歩き出した。
 こちらへ歩いてくる彼女は、二十代前半くらいの若い人だった。品の良いコートに身を包み、肩より短い黒髪は霧雨にしっとりと濡れている。両方の手は同じく黒い手袋に覆われている。
 広場の中央あたりで、その女性とすれ違った。楓は何気なく彼女の手元を見ていた。
 その時突然、女性が手袋を外した。
「……!」
 黒い革の手袋の下から、白い皮膚に刻まれた赤い幾何学模様がぞろりと姿を現す。
 思わず凝視してしまった楓の視線を、女は見逃さなかった。
「やっぱり。あなたも聖杯戦争のマスター、そうでしょう」
 楓はとっさに口を閉じ、黙ってその女を振り返る。黒髪の女はしばらく値踏みするような目で楓を見ていたが、楓が何も言わないのを察すると、わずかに口角を上げて笑ってみせた。
「私はバーサーカーのマスター。夜になる前に、セイバーのマスターを見つけたいのだけど、ご存知?」
 口調こそにこやかだが、その目は少しも笑っていない。こちらを油断させようとして猫なで声を出す人間がこういう顔をすることを、楓はよく知っていた。いつも人の顔色を伺っていたのが、この時ばかりは役に立ったというわけだ。
 楓は警戒心をむき出しにした声色で言う。
「どうして夜になる前なの」
「だって、夜になったら殺し合わなきゃいけないじゃない?」
 まるで明日の天気の話でもしているかのように気楽な口調で、バーサーカーのマスターは言った。
「私は別にその人を殺したいわけじゃないのですよ。ただどうしても、確認というか、作業というか……とにかく、やらなきゃいけないことが」
「私がセイバーのマスターよ」
 楓はバーサーカーのマスターの言葉の終わらないうちに、そう言い放った。
 彼女は口をつぐんで、一瞬だけ驚いたような色を目の奥に浮かべた。その隙に、楓は矢継ぎ早に言葉をつづける。
「あなたのサーヴァントが、セイバーをあなたのものにしようとしている事は知ってる。あなたの用事も、それに関係しているんでしょう」
 震えた言葉尻を悟られないように、一息で言い切る。
 バーサーカーのマスターは少しの間だけ楓の顔をまじまじと見つめて、やがてにっこりと微笑んだ。先程の宥めすかすような笑みではなく、本当に笑っているように見えた。
「良かった。それなら話が早いですねえ」
 そう言って、女は楓の方に一歩踏みこみ、右手を伸ばしてきた。
「な、」
 楓は身をよじるようにして半歩下がった。だがバーサーカーのマスターの方が速い。
 女は、人差し指を楓に向けた。途端、彼女の右腕の裾から青白い光が漏れる。
 ―――まさか、ガンド撃ちなのか。
 昔、母親から聞いたことがあった。ガンドは、ほとんど誰でも扱えるような軽微な呪いの類に過ぎない。けれど数多くある魔術師一門の中にはガンド撃ちを専門とする家もあって、その魔術師が魔術刻印を通して発動したガンドは、原典(オリジナル)と同じ威力―――すなわち即死をもたらすという。
 けれど、もう避けきれるだけの時間は残されていなかった。
 咄嗟に顔を庇った左腕の辺りを、熱が掠める。

 だが、それ以上のことは起こらない。不思議に思い、恐る恐る目を開けると、先程熱を感じた左腕に擦り傷のようなものがある以外、外傷はなかった。
 女は顔色一つ変えず、地面に伏した楓を見ている。楓は声を上げた。
「殺さないって言ったじゃない!」
「ええ、言いました。結果的に、あなた死んでないじゃないですか」
 飄々とした態度のバーサーカーのマスターは、右腕を下ろし、真顔のまま言う。
「今のはハッタリですよ。私はガンド撃ちじゃない。刻印を通したとしても、せいぜいが表面を少し掠めるだけ。即死なんて到底、無理です」
 楓は湿った石畳の上に手をついて起き上がりながら、体の奥で早鐘のように打っている鼓動を鎮めようと深呼吸をする。喉の奥に湿度の高い冷気が入り込んできて、ようやく楓は口を開いた。
「一体、何のために―――」
 その女は問いには答えず、じっとりと濡れた黒い髪を耳にかけて、教師のような口調で逆に問い返した。
「セイバーのマスター。貴女はキャスター討伐の際にバーサーカーの力を借りる条件として、戦いの後、セイバーを私に差し出す、と。そういう契約を交わしましたね?」
 楓は唇を噛む。
「……不本意に、だけど」
「どうせそんな事だろうと思いました。サーヴァント同士で成立した契約だとしても、マスター同士の確認もなく、他人のサーヴァントと再契約など危険すぎる。彼はあなたのことを『三流以下の、魔術使いにも満たない小娘』などと調子よく評していましたが、それを判断するのはこの私。……まあ、先程の様子を見ていれば、バーサーカーの評は正しいと認めざるを得ませんけれどねえ」
 そう言って、バーサーカーのマスターはコートの内ポケットを探る。そこから取り出したのは、小さく折りたたまれた一枚の古ぼけた紙だった。表面が毛羽立ち、やや半透明に透かされており、墨と筆で書いたと思しき文字が表面に流れている。それは神社や寺で見かけるような、和紙だった。
「私は対価の無い、一方的に与えられるだけの契約は嫌い。だからここでちゃんと『取引』をして、成立させましょう。貴女はセイバーと、その令呪を私に預ける。私はセイバーとバーサーカーを使って、当面の目的を果たす。それが終わったらセイバーはお返しします。キャスター討伐の借りの分さえセイバーに返してもらえれば、あのサーヴァントに用はありませんので。もちろん、契約を交わした貴女のことも、私の目的の邪魔さえしなければ攻撃はしない」
 楓は思いもよらない提案に一瞬声を弾ませそうになったが、すぐに口を固く引き締めた。
「……おかしい。そんな面倒なことをしなくたって、あなたは用済みになったセイバーを令呪で自害させることだって出来るじゃない。そんな都合のいい契約、信頼できないです」
 彼女は一瞬目を見開くようにして楓を見て、小さくため息をつき腰に手を当ててこう言った。
「言ったじゃない。私は対価の無い契約は嫌いなんです。こちらが利になることがあるなら、等価のものを相手にも与える。そうして初めて対等な、貸し借りなしの取引になる。バーサーカーとセイバーの間では取引が成立しましたが、私と貴女の間には平等な契約はない。私が、ランサーとライダーの懐を掴むためにはセイバーの力が必要。そして貴女は、セイバーを私に貸す代わりに、当面の安全が保障される。そんなに悪くないと思いますけどねえ?」
 楓は口元に手を当てて考え込んだ。しばらくそうしてから、バーサーカーのマスターに向き直り、宣言した。
「……分かった。それでいいです」
 バーサーカーのマスターは楓の目を一瞥して、手に握っていた和紙の一片に目を戻す。そして手慣れた仕草で胸元から短く小さな折り畳みナイフを取り出すと、野菜の皮でも向くように、一切の躊躇なく指先に刃を滑らせる。女の指先から垂れた血が、和紙に赤い染みを作った。
「―――今より我と(なれ)をつなぐ杯に語りかく」
 黒髪の女の、場に似合わないほど朗々とした声が、教会の広場で響いた。霧雨はいよいよ小粒の雨となって降りしきっている。
「我は汝と契る。
 汝の剣を、かりそめに我の預からむ。汝の剣を、我のわざがために用いらん。汝、我に障らずは、此の契りはやぶれず」
 声が止み、バーサーカーのマスターはおもむろに楓の右手を握って和紙の上に持ち上げさせた。そして自分自身にしたのと同じように、小さく短い刃で楓の手の甲を切りつける。
「っ!」
 痛みは一瞬だった。だが、自分の手の甲から滴った血が、和紙の赤黒い一滴の染みに重なるのを見た瞬間、楓は激しい眩暈に襲われた。
 朦朧とする視界の向こうで、黒髪の女の気楽そうな声が聞こえる。
「さあ、これで用は済みました。私は私の仕事をしに行きます。貴女も、貴女の仕事をするのがよいでしょう」
 その言葉を最後に、楓の意識は途切れた。



「……! ……!」
 遠くで誰かが呼んでいる。
「……! 楓! 楓!」
 声がはっきりしたと思ったら、突然、肩を掴まれてガクガクと激しく揺さぶられた。
「わっ⁉」
「あ、生きてる! 良かったぁ! わーん!」
 飛び起きたと思った次の瞬間には、何となく聞き慣れた声と同時に誰かに抱きつかれ、楓はまた地面に倒れた。冷え冷えとした石畳に頭をぶつけて、楓は呻く。
「ち、千里ちゃん?」
 声の主は、大学でほとんど唯一言葉を交わす友人の稲葉千里だった。思えば、あの日の昼食の時に会話をして以来、顔を合わせるのは初めてだ。戸惑う楓に、千里は遠慮なく抱きついてから、やっと解放した。
 その友人の顔を見て、楓はぎょっとした。
「ど、どうしたの! すごい傷だよ!」
「……覚えてないの? 昨日の夜、風見市であったこと」
 千里の身体には無数の傷がついていた。体のあちこちに青黒い痣ができ、上着の裾からのぞく手足にはみみず腫れが赤く浮き上がっている。男の子のように短い髪は乱れきって、艶やかさを失っていた。
「昨日の夜中辺りから記憶なくて。気が付いたら、上着を着て大学の二号館の横の道路でぶっ倒れてた。体中痛いし、とにかくもう何が何だか……皆そんな感じだよ。何があったのか、誰も覚えてない。夜中にだけ戦争が起こったみたいだって……。とにかく、学校や公民館やら、全部避難場所になって、この教会も避難所になってるって聞いたから、家族と一緒にここに来たの。楓は? 大丈夫なの?」
 楓は呆然としてその説明を聞いていた。ふと辺りを見れば、教会の礼拝堂の重い扉が両方とも開かれ、広場にはぞろぞろと灰色の人だかりが出来ている。あのバーサーカーのマスターの姿はどこにも見当たらなかった。
「ねえ、楓? 大丈夫?」
 ハッと我に返って、目の前にいる友人に向き直る。楓は引きつる顔を隠すように、曖昧に笑ってみせる。
「う、うん、大丈夫。良かった、千里ちゃんが無事で……あ、ごめん。怪我してるよね。礼拝堂に行ってみよう、簡単な手当てくらいはできるかも」
 そう言って、誤魔化すように笑って立ち上がった。そのまま千里の手を引いて礼拝堂へ向かう。
 ふと目を向けた右手の甲には、既に令呪はなく、ただ薄く浅い切り傷が真一文字に轢かれているだけだった。
「……あのさ、楓」 
 礼拝堂に入ろうとする人混みの中で順番を待っているとき、千里が楓の顔を覗き込むようにして言った。
「何か、楓、変わったね?」



 教会の前に群がっていた人だかりを全て礼拝堂に通し、そう広くはない礼拝堂の中が一杯になってしまうと、今度は彼らの治療と手当てに追われた。楓と千里は比較的軽傷の類だったので、怪我人の間を縫うようにして彼らの応急手当てをした。彼らは病院からあぶれた人々だったので、すぐに命にかかわるような重傷者こそいなかったが、それでも皆一様に乱闘の後のような傷を負い、そして昨夜の記憶は一切抜け落ちている。
看護人のグループの中にはもちろんあの神父もいた。だがいくら目を凝らしても今朝方、悪夢の中で感じたような恐ろしさは湧いてこない。神父も、楓が礼拝堂の中で看護をしているのを見ているはずだが、向こうからは何の干渉も無いので、楓は未明の事は夢だったのか、といよいよ戸惑った。
 機会がやってきたのはその日の夜が更け始めてからのことだった。
 礼拝堂の明かりを落とし、楓は一人、暗く底冷えする地下の階段に対峙する。避難者たちも、千里も、礼拝堂で眠り始めているはずだ。監督役を探し当てて、何か尋ねるなら今しかない。
 何を尋ねるのかは、楓にもよく分からなかった。だが、今日の未明のことが重いしこりのように胸に留まっている。あの監督役ともう一度顔を合わせなければ、この淀みは晴れないだろう、という予感があった。
 右手に浮かんでいる、もう閉じた傷に触る。
「……よし」
 言葉とは裏腹に、その一歩はあまりに重い。だめだ、考えるな、と言い聞かせる。何か考えれば、この階段下に広がる闇に飲み込まれて押しつぶされてしまいそうだった。
 

 ギ、と嫌な音を立てて扉が開く。
 楓は恐る恐る、その扉と壁の隙間から顔をのぞかせて中の様子を伺った。――幼い時、父に叱られた日の夜、こんなふうに、父の書斎に行ったことを思い出した。まだ姉が家にいて、自分は魔術も魔術師も知らなかった時だ。姉――花ちゃんと私は、よく部屋でふざけて怒られていた。花ちゃんは手品が得意で、よく玩具がひとりでに動く手品を見せてくれた。……今思えば、あれは魔術だったのだ。花ちゃんは白銀の針金で色々な動物を作り、それを床の上で本物そっくりに動かす、という遊びをした。私はウサギや子猫の模型の方が好きだったのだけど、花ちゃんはよくトカゲや蜘蛛、ヤモリなんかを作って私を驚かせたりしたものだ。それらから逃げまどってバタバタと走り回り、そのせいで、私はよく階下の書斎の父に叱られた。私が許されて部屋を出ると、入れ替わりに花ちゃんがやってきて、肩をすくめてペロッと舌を出し笑っている。そして父の書斎に入っていくのだった。そういう日は大抵、私がベッドに入る時間になっても花ちゃんは戻ってこなかったのを覚えている。
 そんなことを思い出しながら覗き込んだ地下室は、黄色っぽい明かりで満たされていた。だが扉の隙間から伺う限り、人影はない。楓はゆっくりと体を滑り込ませ、後ろ手にドアを閉める。中に入っても、やはり監督役の姿は見えなかった。
「……な、なんだ……いない」
 張り詰めていた緊張が一気に解けて、楓は踵を返して礼拝堂に戻ろうとした。
 だがその時、視界の隅で何かが部屋の明かりを弾いて光った。
「……?」
 楓は辺りを見回して、それが部屋の隅に置かれている古びた作業台の上にあることに気づく。
 そしてその正体を知って、唖然とした。
「な、なんで……これが、ここに」
 作業台の上からつまみ上げたそれは、幼い頃に姉が作っていた、白銀の針金の動物模型だった。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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