君の声は僕の声 第一章
序章
もう限界だった。
少し休むつもりが立ち上がることもできない。
聡は自分の足とは思えない、自らの意思で動くことのない足を見つめた。
それからゆっくりと目の前にそびえ立つ山の頂きを見上げる。
切り立った頂きの上には、ぽっこりと笠のような雲が浮かんでいた。見た目には可愛らしい雲だが、この雲が山を覆っているということは、上空に強い風が吹いているということだ。
──嵐がくる。早く立ち上がらないと
辺りには嵐から身を守る場所は見当たらない。嵐が来る前に、目の前の崖を降りなくてはならない。
わかっていても体は動かなかった。聡は岩に背を預けたまま、虚ろな目で足先を見つめた。血に赤く染まった皮靴。痛む喉から、ため息にもならない小さな息が漏れた。
目の前が暗くなる。聡はゆっくりとまぶたを閉じた。静かに呼吸をする。このまま逝くのも悪くないと思った。
何も怖くはなかった。何の不安もない。何も考えず、心が空っぽになった。とても安らかな気持ちだった。長い時間が流れたように感じた。
けれどもそれは永遠ではなかった。
真っ暗だったまぶたの裏が明るくなる。眩しくはない。聡はゆっくりまぶたを開けた。あたりは明るかった。いくつもの太陽を合わせたように明るい。ひときわ輝く光の中心を、聡は焦点の合わない目で見つめた。そして一点を見つめたままうなずくと、おもむろに立ち上がった。
あれほど重くなっていた足が、今は思い通りに動く。痛みも疲れも感じなかった。
ゆっくりと辺りを見まわす。
聡の頬に、冷たい風が吹きつけた。
※ ※ ※
整然と植えられた並木の枝が、風に煽られ大きくしなる。
大小の料理店や酒場が立ち並び、毎日がまるで縁日のような賑わいを見せるこの通りも、今夜は明かりが灯る様子はない。どの店も木戸を固く閉ざし、路地裏を物色する野良猫の姿もない。これからやってくる嵐に備えて町に人影はない。
人々は家に帰り雨戸を閉じた。
黒く重い雲に覆われた低い空と、乾いた地面の間を土埃が舞い、いっそう町を薄暗くしていた。
やがて大粒の雨が降り始め、一瞬にして二千年の都の静寂が雨の音にかき消された。
都の中心、広大な大地に建つ、天界を統べる神である帝の居城にも雨は降りつける。雨は容赦なく城の瓦を叩きつけ、恐れた女官たちは慌ただしく奥へと引きこもってしまった。
迷路のように入り組んだ後宮の一室に、上等な絹の服が雨に濡れるのも気にせず、御簾の隙間から白い手を合わせ、一点を見つめている女の姿があった。
彼女の見つめる先には、この城の北の門──帝がお隠れになったときにのみ開かれる門がきつく閉ざされている。門からは、城下町を通りいくつもの町を越え、更に森を抜けた小高い山の中に建てられた陵墓まで、長い一本の道が続いていた。
天気の良い日には山の稜線はくっきりと見えるが、こんな嵐の日には山の姿を望むのはおろか、門の瓦屋根さえも見えない。
それでも女は、冷たい雨に濡れて震える手を合わせ、小高い山の遥か上空を見つめていた。
※ ※ ※
聡が欠伸をしながらそこから顔を出すと、外は明るくなっていた。
空を覆っていた重たい灰色の雲が風に乗って勢いよく流され、幾つもの山を越えた先にそびえ立つ岩肌が露わになる。雲の間から太陽の光が差し込み、モノクロだった山肌に鮮やかな色彩が施されていく。
手前の緑に覆われた山々の中腹には、白く細長い雲が漂い、まるで山すその川底から白い龍が空へと飛翔していくかのように見えた。
聡はそこから出ると、雨で水かさの増した川の冷たい雪解け水で顔を洗った。
雨上がりの空気が、十五歳にしてはまだ少年のような小柄な体を包み、森の濃い湿気が、象牙色の肌にしっとりと馴染んだ。
聡は立ち上がると、引き締まった体を誇るように雨にぬかるんだ大地を踏みしめた。まだあどけなさの残る顔が一点に向けられている。聡の琥珀色の瞳が、標高五千メートルを超える山々を捉えた。
山の頂きは、後から後から流れてくる雲に隠れ、いつまでたっても姿を現さない。晴れた日に見せる真っ青な空に切り立った姿よりも、雲に隠れたその姿は、遥かな天の高さを聡に見せつけ、人を拒む神々しさを放ちながら聡を見下ろしていた。
聡は生まれた時から見慣れたはずの山の頂きを、初めて恐れを抱いて見つめた。
──僕たちは今、あの山を越えようとしている。
あの山の頂きを越えなければ、僕たちに未来はない。山の頂きを越えることができたなら、きっと世界は僕たちを受け入れてくれる。もしも命を落とすようなことがあれば、それは自然淘汰なのかもしれない。
生命の営みからはみ出してしまった僕たちが生きるには、あの頂きを越え、二千年前に天空の海に沈んだという伝説の王国へ行くしか道はない。
あの頂きを僕たちは超えることができるのだろうか。越えたとしても、伝説の王国が本当に存在するのか誰にもわからない。
──だいたい、天空に海なんてあるわけないじゃないか
それでも、僕たちは行く。そこに僕たちの未来があると信じて。絶対に辿り着いてみせる。
聡は首から下げた胸もとの真っ赤な石を握りしめた。
──僕にはできる。絶対に諦めない
見えない山の頂きを睨みつけた聡の瞳に迷いはなかった。
神隠し
──また子供が神隠しにあったって
そんな噂が町に広がっていた。
森へ入ってはいけないということは、地元の子供たちなら言葉を理解する前から親に口うるさく言われていることだ。
聡は、足元を流れる川の先に広がる森を見つめた。
森に沿って流れるこの西恒川さいこうがわは、遥かなカルシャン山脈から雪解け水を運んでくる。この豊かな水が載秦国の人々の生活を潤していた。
川に架けられた橋を渡ると、大きな古い木製の門で閉ざされた森の入り口に立つ。門には繊細な彫刻が施されているが、長い間手つかずの状態で放置され、腐食し、塗装ははげ落ちていた。所々に残された塗料が、かつては美しく彩られていた荘厳な門であったことを物語っていた。
『森に近づいては駄目よ。あの森には、大昔に生贄にされた子供たちが、魔物になって陵墓の周りを彷徨っているの。そして子供を見つけると、子どもの姿に戻って『こっちだよ』って声をかけてくるの。そしてついて行ったら最後。何年経っても子供の姿のまま、永久に森から出られなくなるのよ。絶対に入っては駄目よ』
聡も生まれてから七年間、母親からうんざりするほど言い聞かされていた。子供はもちろん、皇族が祀られている禁足の地であることから、大人でも森には入らない。
けれども今、聡にはこの森に入って、どうしても手に入れなければならないものがあった。
数日前、聡の五歳年上の兄が右足に怪我を負った。大した怪我ではなかったが、傷が化膿してしまい高熱で苦しんでいる。熱が下がれば大丈夫と顔を青くしながら両親は言う。だが、往診に来た医者は両親に言っていた。特効薬はないと。ケイトウ草があれば、あるいは……とも言った。ケイトウ草のことは町の図書館で調べた。薬草はこの禁足の森に自生している。
門は固く閉ざされ、赤子の頭ほどもある南京錠が掛けられている。だがそれは、森への侵入を防ぐには役立っていない。門のすき間や木々の間から子供でも簡単に森へ入ることはできる。
聡は辺りに人がいないか確かめた。
つい先日も誰からどう伝わったのか、噂話が大好きな向かいの住人のせいで、母親から叱られたばかりだった。
「聡!」
家の外にまで響き渡る声で母親に怒鳴られ、聡は首を竦めた。
「おまえ、また森に行ったわね」
母親が腰に手を当て聡を横目で睨み下ろした。こんな時の母は手強い。
「行ってないよ」
聡は母親とは目を合わせずに口を堅く結んだ。母親は顔を寄せ、聡の瞳をじっと見つめる。それでも聡は顔を背けていたが、母親の視線は頑として動かない。聡はその無言の圧力に耐え切れず、またひと回りほど大きくなった母親の腰から、母親の顔へと視線を移した。
「本当だってば」
「嘘いいなさい。お前が森へ行ったって、ちゃんと聞いたのよ」
「誰に?」
聡を自信満々に睨みつけていた母親の目が泳ぐ。聡にはわかっていた。そんな話をするのは向いの住人に決まってる。
「誰に聞いたの?」
上目使いに聡が詰め寄った。今度は母親が肩をすくめるようにして体を引いた。
「あのばばあ、いつだって大袈裟なんだ」
聡が不満げに頬を膨らませる。それは母親もわかっているはずだった。母親だけではない。向かいの住人はとにかく噂話が三度の飯より大好きで、道端で誰かと話しているのを見かけない日はない。事を荒立てては町の住人を困らせていた。だが母は──
「聡。はばあなんで言うんじゃありません」
そう言う母親の口元は緩んでいる。聡は口を一文字に結んだままため息を吐いた。
「あのおばさん。どんな話でもこーんなに大嘘で固めて、本当のことなんて、こんなちっぽけなんだ」
そう言って聡は指で米粒くらいの輪を作ってみせた。「森へは行ってない。川までは行ったけど橋は渡ってないよ」
「同じことです。いい! 森に近づいちゃ駄目よ。森の中にはね……」
また始まった。この話になると長いんだ。聡は観念して目を閉じた。
「母さん」
「あら、慎。もう帰ったの?」
「うん。聡を借りてもいいかな? 町に買い物に行くんだ」
聡に光が差した。兄の慎が学校から帰ってきたのだ。
兄は成績優秀、品行方正で、学校の先生にも一目置かれていた。さすがの向かいの住人も兄に関しては噂話などしない。(良い噂はしないのだ) そんな兄は、聡にとっても自慢の兄だった。
聡は、母親が兄と話している隙に玄関へ行き、壁に掛けてある上着を急いで羽織った。それを見た母親は、慎に向けていた笑顔から厳しい顔つきになると
「お父さんが帰ったら、きつく言ってもらいますからね!」
そそくさと逃げるように家から出て行く聡の背中に向かって怒鳴った。
「助かったよ、兄」
石畳の道を歩きながら、聡が嬉しそうに兄に寄り添う。
「母さんのあの話が始まると長いからな。お前のせいでとばっちりを受けるのが嫌だったのさ」
兄はちらりと聡を見ると、肩をすくめた。
「どこ行くの?」
町の中心とは反対の方向に歩いて行く兄に聡は口を尖らせた。
「友達のところ」
そう言って兄は、突き当りの大きな屋敷へ向かう。
「すごいお屋敷だね。本当に兄の友達の家なの?」
高い塀に囲まれた屋敷を見上げて聡が口を開ける。
慎はそれには答えずに、その屋敷に入って行った。聡が好奇心に胸を躍らせながら後をついて門をくぐると、美しく手入れされた庭から、耳慣れない音が聞こえてきた。
慎が呼び鈴を鳴らすと音は止まった。音が聞こえた部屋の窓から、慎と同じくらいの歳の少年が顔を出すと、しばらくして使用人が出てきてふたりを招き入れた。
使用人のいる家に上がるのが初めての聡は、珍しい調度品に目を奪われながら、きょろきょろと辺りを見回している。
「聡」
慎に睨まれた。
「どうぞ」
使用人が扉を開ける。部屋には先ほどの少年が部屋の中央に置かれた木製のテーブルを大きくしたような物の前に腰かけていて「やあ」と手を挙げた。
「これは?」
聡は少年にペコリと頭を下げると、目の前の初めて見る物に目をきらきらさせた。
「これはグランドピアノと言って、楽器だよ」
少年はそう言うとピアノを弾いてみせた。先ほど庭に響いていた曲だった。この少年が弾いていたのだ。
聡は、初めて耳にする美しい音色と、少年の左右別々に激しく動きまわる指に呆気にとられて見ていた。
「こいつは音楽家になるのが夢なんだ」
慎がそう言うと、少年はピアノを弾いていた指を止め、聡に笑いかけた。
「ああ。僕が音大へ、慎は医大へ。一緒に王立大学へ行くんだよ、なっ。──弟?」
「うん、母親に説教をくらってたから、連れ出したんだ。悪い」
「兄!」
そんなこと言わないでよ。と言いたげに聡が口をへの字に曲げ、慎を見上げた。
「何をして怒られたんだい?」
「森に入っただけだよ」
しれっとして聡は言った。
「お前、やっぱり森へ入ったんだな」
慎に睨まれて聡は「しまった」と口に手を当てた。少年は声を上げて笑った。そしてふくれっ面で自分を見上げている聡の視線に気づくと、真顔になり、聡に向かって声を落とした。
「あの森に子供の姿をした魔物が出るのは本当だよ」
「なんだよ。お前、そんな話信じてるのか? らしくないぞ」
慎が苦笑いすると、少年はピアノの鍵盤の蓋を閉め、部屋に置かれたソファにふたりを誘った。そして自分もテーブルを挟んだ向かいのソファに腰掛けると、真面目な顔で話し始めた。
「先帝を陵墓へ埋葬するとき、僕の父は護衛を任されたんだよ。その時に一緒にいた役人のひとりがはぐれたんだ。そして見たんだってさ。森の中を彷徨っている子供を……」
「それは普通に森に迷い込んだ子供だったんじゃないのか?」
慎が特に気にする様子もなく返すと、隣で聡も頷いていた。
「それがさ。ひと月後、その役人の息子は行方不明になったそうだよ。未だに見つかっていないんだ」
聡と慎はゆっくりと顔を見合わせた。
数日後、いなくなったのはそう言っていた少年だった。
魔物の森
兄の話では、突然学校に来なくなったという。前日まで普通に学校に通い、いつも通りに別れたというのだ。先生は遠くの町の学校へ転校したというが「何も言わずに突然転校するなんて、ありえない」と兄は言い張った。けれど「親友との突然の別れは悲しいことだが、その話はもうしないように」と言われるだけで、両親に話しても同じだった。
「忘れなさい」
そう言って母は兄を抱きしめた。
「森へ行ったの?」
机に向かう兄の背中に向かって、聡そうが訊ねる。
「あいつはおまえとは違う。森へ行ったりなんかするもんか」
言い終えると同時に、壁に激しくぶつかる音が聡を黙らせた。兄が教科書を壁に投げつけていた。聡は思わず口をきつく結んだ。こんな兄は初めてだった。兄はしばらく床に落ちた教科書をじっと見つめていたが、やがて気だるそうに立ち上がると、教科書を拾った。
「この町には何か秘密がある」
「えっ?」
兄は黙ってしまった。聞き違いだったのだろうか──
兄は納得していないようだったが、その話をすることをやめた。誰に話しても返ってくる言葉は同じだった。透馬の家を訊ねても門前払いされるだけ。家でその話をすれば、母は辛そうな顔を見せる。聡も口にしなかった。
その晩聡が目を覚ますと、兄の寝台は空だった。居間から両親の話し声がする。兄は扉を少しだけ開き、両親の会話に聞き耳を立てていた。寝台の中にいる聡には、両親の話は聞こえなかったが、それから兄は変わった。
もともと医大へ行くと言ってはいたが、以前にもまして勉強するようになった。
本気になったのだ。
それから聡も森へは行かなくなっていた。
──だが
魔物の話など信じてはいない。聡の眉間に力が入る。その目で門を睨みつけた。
「ばばあに告げ口されたってかまうもんか!」
気丈な聡は森へと入っていった。
雲ひとつない真昼だというのに、黒く生い茂った枝や葉が幾重にも重なって太陽の光を遮り、森の中は薄暗い。まるで意思を持って土を張っていったような、太くむき出した根っこにつまずきそうになりながら、聡は薬草を探した。
森に入ってしまえばすぐに見つかると思っていたのに考えが甘かった。薬草はそう簡単には見つからない。日が暮れる前に家に帰らなければ叱られる。急がないと……。
聡は走りながら探し回った。枝をかき分ける腕に小さな切り傷が出来て血が滲んでいても気づかずに走り続けた。
薬草が見つからず、焦りの色が浮かぶ。
絶対に見つけてやる! そう自分に気合を入れると、それらしい草が聡の目に入った。聡は足を止めた。
手を伸ばそうとした、その瞬間。聡の頭上で、森の静けさを破るように音が響いた。と同時に、聡の目の前に木の葉がはらはらと舞い落ちてきた。見上げると、その場所だけ枝がしなり、梢の間から黒い大きな翼が羽ばたくのが見えた。
聡はその翼の大きさに目を見張った。それはまるで鳥に姿を変えた魔物のようだ。
跳ね返った枝が周りの葉をまき散らし、大きく空気を揺さぶる音が響き渡ったかと思うと、その翼はあっという間に遠のいてしまった。
暫く茫然と空を見上げていた聡は、気を取り直して草を手に取った。聡の口からため息が漏れた。よく似てはいるが探している薬草ではない。
「くそっ!」
聡は手に取った草を投げ捨てた。森までの数キロの道のりを走り、森の中を探し回った疲れと、薬草を見つけられないもどかしさに、聡はがっくりと肩を落とし、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
ぼんやりと膝を抱えていると、冷たい風が肌に当たり、腕がひりひりした。見るといつくもの小さな切り傷ができている。数か所から血が滲んでいた。
母さんが家に帰る前に傷を隠さなくちゃ。森に入ったのがばれてしまう。薬草はどうしよう。とにかく帰りながら探すしかないか……。
聡は深いため息をついて立ち上がった。
聡は自分でも方向感覚には自信があった。薬草を探しながら、森の入り口と、今自分がいる場所をおおよそ確認しながら走ってきた。森の入り口の方角へと体を向け、足を踏み出した。だが、全身からは力が抜けていた。項垂れて、目に入る草を横目に足を運ぶのがやっとだった。
とぼとぼと歩いていると、視界の隅に茂みを横切る人影が見えた気がした。
──大人ではない。
慌てて顔を逸らす。見てはいけないものを見てしまったのではないだろうか。
聡は足を止め、全身に鳥肌が立つのを感じた。
心臓の鼓動が早まる。血液が全身を巡り、五感が冴え渡る。
微かに人の気配を感じた。気配は徐々に耳に聞こえる音となり、間違いなく背後から草木を踏みつける音が近づいてくる。聡は瞬きもせずに、背後の気配に全身の神経を集中させた。
やがて聡の後ろで足音が止まった。
高鳴る鼓動を感じながら聡はゆっくりと俯いた。そして肩を引きながら肩越しに様子を伺った。
思わず声を上げそうになり息を止める。
聡の目に、裾のほつれたズボンからのぞく、土で汚れた乳白色の足が飛び込んだ。細く引き締まった足首は大人のものではない。
「迷子になったの?」
明るい声に、聡は思わず顔を上げた。
見れば普通の少年が立っていた。
兄より年上だろうか。身長は兄より高いが、体はほっそりとしている。その細い体から伸びる手足はスラリと長く、半袖のシャツからのぞく腕には、色白の肌には不釣り合いのしなやかな筋肉がついていた。
少年は優しげな笑みを浮かべながら静かに近づいてきた。聡の前まで来るとしゃがみ込み、少し首をかしげて聡を下からのぞき込むように見た。
柔らかな黒髪が、少年の顔にかかる。長めの前髪からのぞく瞳は、聡と同じ、琥珀色をしていた。
真っ直ぐに自分を見つめる少年に聡はたじろいだ。
「誰かを探しているのかい? それともひとりで森へ入ったの?」
「薬草を探しているんだ。|兄(にい)が怪我をして──」
少年が魔物でないという確信はないが、薬草が見つからない焦りと、少年の柔らかな物腰に気を緩めた聡は思わず口にした。
「薬草か……お兄さんはどんな具合なのかな」
「えっと、傷が膿んじゃって、熱が高くてとても苦しそうなんだ。お医者さんはケイトウ草がいいって」
少年は少し考えてから立ち上がると「ついておいで」と言って歩き出した。
少年の言葉に聡ははっとした。
母親の言いつけを思い出す。子供の姿をした魔物について行っては駄目よ、と。でも、目の前の少年はごく普通の少年だ。だいたい子供ではない。十三、四歳くらいの少年だ。だが、母親のような大人から見たら子供と変わらないのかも……。
ついて行ってはいけない。頭の中で自分自身がそう警告する。聡の歩みが遅くなる。
気づけばさっきの真っ黒な鳥が頭上を飛び回り、少年から数メートル先の木の枝に舞い降りた。鳥はじっとこちらを見ている。まるで少年が操っているかのように。
少年は、聡がついてこないのに気づいて後ろを振り返った。
「どうしたの? 薬草の生えている場所に連れて行ってあげる」
森の少年
少年は笑っているようだが、表情は読めない。
逃げなければ──
聡は自分の考えていることを悟られてはいけないと、早口に喋り始めた。
「あっ、あの黒い鳥さっきもいたんだ。とても大きな鳥だね。翼を広げたら、僕よりもずっと大きそうだ」
聡が鳥に目を向けると、鳥はその大きさを誇示するかのように翼を広げて飛び立った。それから大空に弧を描くと、またこちらに向かって降りてくる。鋭い口ばしは聡へと向けられていた。
聡は攻撃されると思いとっさに顔を伏せた。上目使いにそっと薄目を開けると、少年が空に向かって左腕を伸ばしているのが見えた。鳥はその腕に真っ直ぐ降りてくると、少年の腕を掴み、翼を収めた。
鳥は少年に甘えるように寄り添っている。だが、射抜くような鋭い目は聡を見つめていた。聡は、その大きさと威厳に圧倒され、身動きできずに目が離せなかった。
少年が聡の方へ歩み寄ってくる。思わず後ずさった聡は足がもつれ、バランスを崩し、しりもちをついた。思うように動かない自分の体に驚きながら、聡は強張った顔で少年を見上げた。
「そうか、君」
聡の怯えた様子に、少年は左腕をあげ、鳥を放り投げた。鳥は大空へ飛び去って行った。少年は鳥が悠遊と翼を羽ばたかせて飛んでいくのを満足そうに見つめ、その瞳を聡へと向けた。
「君は僕が『子供の姿をした魔物』だと思っているんだね」
少年はクスクス笑っている。
「僕は君と同じ人間だよ」
可笑しなところは何もないだろう? というように両手を広げてみせた。少年はもう笑ってはいなかった。落ち着き払っていて見かけよりもずっと大人びて見える。
「あの鳥はね、目が開かないヒナだったときに、巣から落ちて怪我をしていたんだ。手当をして、飛べるようになるまで僕が育てたんだよ。だから僕に懐いてるんだ」
少年はそう言って聡に手を差しのべた。聡は少年の手を取って立ち上がると、「ごめんなさい」と、素直に謝った。そんな聡に少年は微笑する。
「君が悪いんじゃないよ。大人に言われているんだろ? この辺りの子供はみんなそう言われて育つからね」
「お兄……ちゃんも? だめって言われているのに森に入ったの?」
少年はそれには答えずに歩き出した。聡もつられて歩く。
「この森は広いからね。迷い込んで、そのまま戻ってこない子供がいる。だから大人たちは子供を森に近づけないため、そんな話をするようになったんだろうね」
「お兄ちゃんは森に詳しいんだね。迷わないの? 何度も森に来ているの? 森に入って親に怒られないの? やっぱり魔物なんて嘘なんだね?」
不思議でいっぱいの聡に、少年は分かり易く答えていく。
「僕の父がこの森の植物の研究をしていたから、小さな頃から父に連れられて来ていたんだ。迷ったことはもちろんあるよ。でも、怒られたのは僕じゃない。父がね、怒られたんだ」
お父さんが? と聞こうとして聡は少年を見上げた。ふたりはいつしか並んで歩いていた。聡の好奇心に輝く瞳を見つめながら、少年が悪戯っぽく笑って話を続けた。
「長い間探し続けていた薬草を見つけて、夢中になっていた父が、僕を連れていたことを忘れてね。僕をこの森に置いたまま、一人で家に帰っちゃったんだ」
「ええっ!」
聡は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「あり得ないだろう? 息子を置いていくなんて。その時僕はまだ四つだった。日が暮れて、月明かりもない真っ暗な森で大泣きしていたところを、真っ青になって探しに来た父と母に見つけてもらったんだ。その夜、父は母に家から閉め出された。『息子の気持ちを味わいなさい』ってね。酷いだろう?」
そう言いながら少年は楽しそうに笑った。父親を酷いと言ったのか、母親を酷いと言ったのか分からなかったが、聡も声を上げて笑ってしまった。
「もう二度と森へ息子を連れて行かないようにと母に釘を刺されたけど、父も僕も懲りなかったよ。そのあとも何度か迷子になったけど、父と森へ行くのは面白かったよ。僕が学校へ行く頃になると、薬草のことを色々教えてくれてね。本当に楽しかった──」
そう言ったきり少年は黙ってしまった。
「それじゃぁ、お兄ちゃんのお父さん、今もこの森のどこかにいるの?」
聡が無邪気に聞く。
「いや、父はいない。僕ひとりだよ。僕はもう子供じゃないからね。ひとりで入っても誰にも怒られない」
それから、聡に向けられていた眼差しを空に向けポツリと言った。
「大人でもないけどね」
──なんだか話しかけにくくなって、聡は黙って歩いた。
「ここで待ってて」
少年はそう言うと、草の生い茂る中に入っていった。聡は心配そうに少年の歩いて行ったほうを見つめていた。しばらくすると薬草を手にして少年が戻ってきた。
「使い方を教えるから、よく見て覚えて。まずは葉っぱをちぎってくれるかい」
少年は、聡に薬草を渡すと、傍にあった枝を集めてあっという間に火を起こした。そして大きな厚い葉を摘んでくると、そこに聡のちぎった薬草を乗せ、火で炙り始めた。薬草が柔らかく黒っぽくなったところで火を止め。ポケットから白い布を出すと、炙った薬草を包んだ。
聡は、少年の鮮やかな手つきを呆気にとられて見つめていた。
「この布は清潔だから、そのままお兄さんの傷口に当ててあげるといいよ。残りは明日の朝、同じように火で炙って取り替えてあげて。炙りすぎないように気をつけてね」
そう言って聡に布を手渡した。
「凄い! お兄ちゃん魔女みたいだ」
聡は感じたままを素直に口に出し、手にした布をまるで宝物でも見るように目を輝かせた。
「それは……魔物とあまり変わらないね」
苦笑いする少年に、
「あっ。ごめんなさい」
聡は顔を赤くして頭をかいた。
少年は歩きながら薬草の貼り方とその後の処置の仕方を解りやすく説明してくれた。
「あそこから町へ出られる」
そう言って少年が指をさす。見ると森が開けて明るい光が差していた。
「森を出て真っ直ぐいけば、町までの一本道に出るよ」
「ありがとう。それと、ごめんなさい」
聡は少年を魔物と思い込んだことに、もう一度謝った。
少年の顔がほころぶ。少年はうつむいた聡の頭に手を置くと、「君は賢い子だね」そう言いながら腰を屈め、聡の瞳の奥をのぞき込むように見つめた。自分と同じ琥珀色の瞳。まだあどけない子供だが、その瞳の強さにある女性を思い浮かべた。少年は聡の瞳をしばらく見つめていた。二度も見つめられて聡は恥ずかしくて下を向く。
「ごめん。人をじっと見るなんて失礼だね。こちらこそありがとう。君と話が出来て楽しかったよ。お礼にこれをあげる」
少年はポケットから布袋を取り出すと、袋の中身を聡の手にそっと握らせた。子供の手でちょうど握れるほどの大きさの真っ赤に輝いた石だ。
「赤い、クリスタル?」
「これは【賢者の石】だよ」
「賢者の石?」
聡は眉をひそめた。
赤い石
「そんな伝説や絵本の中の作り話を信じるほど、僕は子供じゃないよ」
聡が、ちょっと不満そうに口を尖らせる。
少年は聡の予想外の反応に「そうか、それは失礼したね」と、笑い「でもね」と話を続けた。
「伝説は作り話ばかりではないよ。賢者の石というのは、ごめん。今僕が勝手につけた名前だ。だけど、この石には不思議な力があるんだ」
そう言って、石の握られた聡の手にそっと少年は手を添えた。
「【知恵の石】と言った方がいいかな。石の中には人体に影響する石がたくさんある。君は温泉には入らないか? 病気や傷を癒すのに温泉にはいるだろう? 肌の白い異国の人達が持ち込んだ薬のような即効性はないけれど、石も泉も、その薬草も、神秘の力を秘めているんだ」
少年は、じっと見つめる聡の瞳から、足もとに咲いている花に視線をうつした。つられて聡も花に目をやった。
「例えば、この足もとに咲いている花。この花の実は甘くて美味しい。疲れた時に食べるとちょっと元気になる。葉を擦って傷口に貼ると血を止めてくれる」
そう言いながら葉を摘んで擦ると、聡の腕の傷に草を貼り付けた。
「そして、煎じて飲むと胃薬になる。でも、根っこを食べると食中毒を起こす。沢山食べると死んでしまうくらいの毒があるんだ」
聡は目を丸くしてその花を見つめた。薬になるものが毒にもなる。死ぬほどの……。見た目には普通の可憐な花なのに。
「この石ころは、大きなエネルギーを抱いたこの星の欠片なんだよ。僕たち人間よりも遥か昔からこの大地にあって、気の遠くなるような長い歴史を見てきたんだ。僕たちよりも、ずっとずっと賢いんだ」
少年の言葉が、聡の心に何かを投げた。聡は、それが何なのか考えた。石が人間よりも賢いなんて信じられない。でも、何か分からないけれど心がゆったりと騒いでいる。聡はこの石が凄い物に思えてきた。
「何か分からないことがあったとき、出来ないことがあったとき、この石を握って目を閉じて念じてごらん。必ず分かるようになる。出来るようになる。ただし、努力はしないとね。努力なしで出来るなんて、それこそ伝説や絵本の中の作り話だからね」
分かったような分からないような……どこか子供騙しのような話をされて、聡の頭は混乱していた。でも、ひとつの傷もない透明に輝く真っ赤な石を見つめていると、感覚が研ぎ澄まされていくような不思議な感じがする。今の話が本当のことだと思えてくる。石が賢いものだと思えてくる。
石をじっと見つめる聡の肩を両手で掴み、腰を屈め、聡と同じ目線で少年は続けた。
「いいかい、忘れないで。この石の力を信じていれば、君は努力した分だけ知恵と力を手に入れることが出来るんだ」
少年の顔から穏やかな笑みが消えていた。掴まれた肩が痛むほど少年の長い指が肩に食い込んだ。
「もしかしたら、君の友達には簡単に出来てしまうことが、君にはなかなか出来ないことがあるかもしれない。でも信じて。努力するんだよ。そして絶対に諦めない。諦めたらそこで終わりだ。いいね、君なら出来る」
少年の真剣な眼差しに圧倒されて、聡はこっくりとうなずくことしか出来なかった。聡の中で色んな感情がうごめいていた。大声で何かを叫びたいほどの感情が溢れていた。
少年の顔に優しい笑みが戻る。肩から両手を離し、聡の頭をぽんと軽く叩いた。
「今日森へ来たこと、それから僕に会ったことは絶対に内緒だよ。家族にも、友達にもね」
「もちろん、誰にも言わない。絶対に。約束するよ」
「ありがとう。さあ、もう一人で行けるね。ここでさようならだ」
「お兄ちゃんは森にはよく来るの? また会える?」
聡の子供らしい素直な瞳から顔を逸らして少年は答えた。
「僕はこの町に住んでいるわけじゃないんだ。森にもそう来るわけじゃないし、それに君はもう、森には近づかない方がいい。森には危険がいっぱいある、甘く見ちゃいけない」
きつく言われて聡はたじろいだ。
「もう会えないの?」
聡はがっかりと声を落とした。だが、少年が答えに困っている様子に「ごめんなさい。僕、お兄ちゃんを困らせてるね」と聡は俯いた。
「君は本当に賢いな」
こんなに小さな子供に気を使われて少年は苦笑いした。
「もう少し君が大きくなったらまた会えるよ」
「本当に? 僕が子供だと思って嘘言ってない?」
聡は上目づかいに怪訝そうに言った。
「大人はこういう時、誤魔化そうとして平気で嘘をつくんだ」
「僕は大人じゃないよ」
そう笑って言った少年の表情が曇り、聡は確実に会える約束が欲しかったけれど、それ以上は言わなかった。
「さようなら、いろいろありがとう。約束は必ず守るし、石も大切にするからね。僕の名前は聡! 忘れないでね。またね! 本当だよ。また会おうね!」
そう言って少年が見えなくなるまで聡は何度も振り返り手を振った。やがて少年の姿が見えなくなると、家までの道を走り出した。
家に帰ると急いで台所へ行き、大きな樽に汲んだ水を桶に移して顔と手足を洗い、柄杓ですくった水を一気に喉に流し込んだ。桶に新しい水を入れ、汚れた服を脱ぎ、傷を隠すために急いで長袖に着替えた。
他に汚れていないか確かめてから、聡は少年のくれた薬草と桶を持って兄の寝ている部屋へ入っていった。
少年が教えてくれた通りに傷口を綺麗に水で洗ってから薬草を湿布した。身体の汗を冷たい水をしぼった布でふき取り、毛布をかけた。寝台の脇に腰をおろし、苦しそうだった兄の呼吸が落ちついてきたのを見届けると、聡はそっと兄の部屋を出て、居間の隅に立てかけてあるはしごを登った。
そこは寝台と小さな机が置いてあるだけの聡の部屋だ。部屋といっても居間と仕切る壁はなく、落下防止のために父がこしらえた手すりがあるだけだった。
居間と台所のほかに父と母の寝室、それともうひとつが兄の部屋だ。
半年前までは聡とふたりで使っていたのだが、王立大学の医学部を目指している兄の勉強のために、兄がひとりで使うよう父が決めた。兄は反対したが、聡はむしろ喜んだ。この小さな部屋が気に入っている。小さいけれど天窓がついている。立ち上がると頭をぶつけてしまうほど低い天井に、ではあるが。
この天窓から見る星空が聡のお気に入りだった。
寝台に腰掛け、少年からもらった真っ赤な石を取り出す。天窓へかざすと、西に傾いた太陽の光が反射し、部屋の小さな壁に七色のプリズムを描きだした。
その夜、聡はなかなか寝付けなかった。体は疲れているはずなのに、頭が冴えてしまって眠れない。少年からもらった石を眺めては少年の姿と言葉を思い出す。夕日の光を受けた輝きも美しかったが、月明かりの中の控えめな輝きは凛として美しい。
少年の言っていた、この石が見つめてきた歴史や知識が自分の中に入ってくる感じがした。石に閉じ込められた小さな宇宙が心の中で無限に広がっていく。
あちこちに向けられていたさまざまな思いが、ひとつにまとめられていくような不思議な感覚。
鮮やかな赤い炎が聡の中に灯った。
石の光
翌朝、聡はまだ暗いうちに寝台から起き出すと、家族が目を覚まさないように静かにはしごを降りた。昨日少年から教わった通りに薬草を火で炙り、清潔な布に包む。
兄の部屋をそっとのぞく。
兄は静かな寝息を立てて眠っていた。気づかれないように、そっと毛布をめくって傷口の湿布を剥がすと、そこには膿がべっとりとこびりついていた。聡はそれを家族の目に触れぬよう、紙に幾重にもくるんでごみ箱に捨てた。
傷口の腫れは引いている。額に手を当てると熱も少し下がったようだった。呼吸も落ち着いている。新しい薬草を湿布して聡は部屋を出た。
それから物置へ行って蝋燭と皮紐を探しだし、台所で蝋燭に火をつけた。テーブルへ皮紐を置きロウを垂らす。まだらに固まった紐についた蝋を蝋燭でこすり、綺麗に落としていく。蝋燭と余った皮紐を物置へ戻し、また静かにはしごを上った。
寝台の上に胡坐をかいて座り、蝋を染み込ませた皮紐を、器用に網目状に結び目を作っていく。少年からもらった石を取り出し、編み込んだ紐に包んでみる。多少不格好ではあるが、見た目よりも石が落ちないことが重要だった。何度も結び目を作り、しっかり止めた。それから力強く引っ張ったり、つまんだりして、石がしっかり紐で固定されたことを確かめた。最後に紐を通し、自分の首に下げて丁度良い長さに調節すると、【知恵の石のペンダント】が出来あがった。
台所の隅で顔を洗い、ペンダントを首にかけてみた。壁に掛かった鏡を何度も眺める。
まずまずの出来栄えに、聡はひとり満足げに微笑んだ。
学校が終わると聡は、友達と遊ぶ約束も寄り道もせずに家に帰った。【知恵の石】の力を試したかったのだ。
家に帰ると、聡の仕事である洗濯物を無造作に取り込んでカゴに放り込み、自分の物を部屋の箪笥へ突っ込んだ。それから兄の部屋へ行き、すっかり熱がひいて静かに寝ているのを確認すると、一番優しそうな『初めての医学』と書かれた本を拝借した。
机に本を置き、背筋を伸ばして椅子に座り目を閉じる。石を握りしめ、心に念じる。深呼吸をして、本を開く。開いたとたんに面食らった。知らない言葉だらけで読むことすらできない。聡はがっくりと肩を落とし、大きなため息をついた。
「いくらなんでも兄の本は無理かぁ……」
机に突っ伏すと、ペンダントが零れ出た。石の奥が小さく輝いた。
「駄目だ」
聡は起き上がり唇を固く結んだ。自分に気合を入れる。それから辞書を引っ張り出し、知らない言葉を引いてみた。が、載っていない。仕方なく居間へおりて、父の辞書を持ってきた。載ってはいるが、説明文に分からない言葉が使われているので、その言葉の意味を自分の辞書で調べる。
そうやってようやく医学書に書かれた言葉の意味が分かった。そんな調子だから、一ページ読むのにかなりの時間を要した。気がつけば太陽は傾き、部屋の中は本を読むには暗くなりすぎていた。聡の部屋には電気がない。電気があるのは居間と兄の部屋だけである。
聡は本を閉じ、両腕を上げて伸びをすると寝台に体を投げた。こんなに本と真剣に向き合ったのは初めてだった。辞書を何度も引くのが面倒くさいと感じなかったのも初めてだった。
軽い興奮を覚えながらも、心地よい充実感で満たされる。これが【知恵の石】の力なのだろうか。
聡は石を握りしめ、少年と石に感謝した。
それからも聡は、辞書を二冊使いながら医学書を読んだ。次第に辞書を引くにもコツを掴み、要領よく読み進めることができるようになると、本を読む速度も速くなっていった。
そうやって学校の勉強は授業でしっかり頭に入れ、家に帰ってからは別の勉強をするのが日課になった。友達と遊ぶことももちろん忘れない。友達との約束は必ず守り、聡は思い切り遊んだ。時には悪ふざけをしてみんなと先生に怒られることもある。聡は友達から信頼され、一目置かれるようになっていった。
両親はそんな頼もしい二人の息子の成長が何よりの楽しみになっていた。そして、聡が十三歳になった年、兄の慎は念願の王立大学医学部に合格した。
「僕は医者になりたい」
兄がそう父親に話したのは、聡が五歳のときだった。
兄が医者を目指すようになったのには理由があった。聡と兄の間には、本当ならもう一人兄弟がいたのである。難産のすえ無事に生まれてきた子供は、それから半年後、原因不明の病で亡くなったのだった。
そのころ同じようにしてなくなる子供は聡の家だけではなかった。
医者になるための勉強をする学校はこの町にはない。都の王立大学へ行くしかなかった。
「おめでとう! 慎はわが一族の誇りだ」
その日、お祝いに駆けつけた親戚一同にそう言われて喜んでいたのは、兄ではなく父だった。この町から都の大学へ行くものは年にひとりいるかいないかのことで、親戚中が大騒ぎだ。
聡はにこやかに彼らを家に迎えた。父も母も始終ご機嫌で客をもてなした。
聡は笑顔を絶やさなかった。そんな聡を心配そうに見つめる慎や両親の視線に気づかずに……。
テーブルの上のご馳走に誰も手を出さなくなったころ、聡はそっと家を出ようと、台所の裏口のドアに手をかけた。
背中に兄の声。
「どこ行くんだ?」
「ちょっと食べすぎちゃった。その辺歩いてくるよ」
聡は明るく笑って返事をした。
暗い石畳の道をひとり歩き、誰もいない広場に来ると、小さな明かりの灯った街灯の下のベンチに腰掛けて深いため息をついた。
兄がどんなに努力してきたかわかっていたから、兄の合格は聡にとっても嬉しい。心の底から一緒にお祝いをしたかった。でも、笑顔でいることに疲れてしまった。
そう、笑顔でいることに。
これが半年前だったら、従兄たちと、こっそりお酒を飲んで一緒に騒いでいただろう。だが、今の聡はそんな気分にはなれなかった。
聡はベンチに背もたれると、夜空を見上げた。街灯に小さな虫が集まっているのを、ぼんやり見ながら考えていた。
いつからだろう。
学校へ行くのが億劫になったのは。
聡は自分の変化に気づいた。今までのように学校の授業についていけなくなっていた。もちろん勉強自体が難しくなってきてはいるのだが、それだけが理由ではない。
初めはただのスランプだと思った。だけど、違う。勉強だけではなく、友だちとの何気ないやり取りにもついていけないときがある。そんなときは「ごめん、聞いてなかった」などとやり過ごしていた。そんな自分に友達も声をかけてこなくなったような気がする。
それでも勉強時間さえ増やせば成績は何とか維持することができた。でも、どうにもならないのが、体の成長である。
聡は入学したときから身長はクラスでもずっと高い方だった。体力も自信があった。
それが、近ごろは友だちに抜かされていく。まだまだこれからが成長期なのだから気にするほどのことではないと、自分に言い聞かせても不安は拭い切れなかった。
もう一度ため息をつき、【知恵の石】を手に取った。真っ赤な輝きが弱々しく見えるのは石を見つめる自分の心が沈んでいるせいなのだろうか……。
「聡」
暗闇の中から兄が現れた。
「悪かったな、気を使わせて。疲れたろう」
そう言って兄が聡の横に腰掛けた。
「なあ聡。おまえとゆっくり話ができるのも、今夜が最後だ。俺に話してみないか?」
星を見上げながら兄が言った。
悔し涙
「あ……」
聡が何も言えずにいると兄は微笑んだ。
家族の前では何事もないように振る舞っていたはずなのに、受験勉強で忙しかったはずの兄が気づいていたのに聡は驚いた。
兄に相談すれば必ず何か答えをくれる。兄はいつもそうだった。その時すぐに答えられない場合でも、数か月経ってから「そういえば、あの話……」などと、さも思い出したかのように話し掛けてきた。本当はじっくり考えて答えを探してくれていたのだろう。兄に話してみようか……。
聡は兄を見上げた。
「友達と喧嘩したんだ。大丈夫、ちゃんと仲直りするから」
意思の強さをそのまま表したような眉を三日月にして聡は微笑んだ。ここ数カ月で笑顔を作ることを覚えていた。
どうでもいいような悩みほど簡単に相談できるのはなぜだろう。聡は言いたい言葉を飲み込んだ。
「……。そうか。俺はもう都へ行ってしまうから、しばらくお前とも会えなくなる。何かあったら手紙でもいい、必ず俺に相談しろよ。お前は俺の命の恩人だからな」
聡ははっとして兄を見上げた。
「おまえ、俺が足に怪我をして熱を出したとき、俺の足に何かしたろう? お前が部屋に入ってきたのは何となく覚えてる。それから良くなったからな。俺は医者になる勉強をしてるんだ。自分がどれだけ危ない状態だったかくらいわかるさ。お前、森へ行ったんじゃないか?」
咄嗟のことに、聡は嘘がつけなかった。答えられない聡を見て兄が呆れて言う。
「やっぱりな。それにしてもよく見つけられたな。あの薬草は森へ行ったってそう簡単に見つけられるものじゃあないんだがな……。そうとう奥まで入ったのか? お前は無鉄砲なところがあるから──」
「父さんと母さんには言わないで!」
聡が必死な顔で言った。
「当たり前だ。森へ入ったなんて、心配症の母さんに言える訳ないだろう。──まあいい。おかげで俺は命拾いした。だけど、おまえは感情で動きすぎる。少し冷静に考えてから行動に移せよ。いいか。それと、何かあったら必ず俺に言えよ。借りは返す。ただし一回だけな」
人差し指を立てて兄は笑った。
部屋に戻った聡は、ベッドに仰向けになりぼんやりと石を眺めた。
『この石の力を信じていれば、君は努力したぶんだけ知恵と力を手に入れることができる』
少年の言葉が思い出された。あのとき、聡は少年の言葉を信じた。少年がとても真剣な目で言ったから。
あのときの少年に掴まれた肩の痛みが甦る。少年はそれから何て言ったっけ? 少年は食い入るように見つめて言ったんだ。
『友達に簡単にできてしまうことが、君には上手くできないことがあるかもしれない、でも信じて』
「そうだ。思い出した」
聡はひとりごちて上半身を起こした。
──なぜそう言ったんだ?
今の僕の状態じゃないか。聡は思った。こうなると少年には分かっていたのだろうか。少年に無性に会いたくなった。感情で動くな、と兄に言われたばかりなのに、聡はランプを持ってこっそり天窓から抜けだし、物置の屋根をつたって外へ出た。それから広場を通り、森への一本道をひた走った。
真っ暗な夜の森にランプの灯りは心細かったが、聡は気にならなかった。迷わず森の中に入り、少年を探した。
疲れを感じた頃、奥から何かがやってくる気配を感じた。聡の視線の先の茂みが音を立てて揺れている。聡が駆け寄ろうとした瞬間、現われたのは大きな灰色の犬……。
いや、狼だった。
聡は驚きと恐怖に足がすくんだ。この森に狼が出るなんて聞いたことはなかった。狼はじっとこちらを見ている。
体長は2メートルはあるだろうか。大人よりも大きい。こんな狼に飛び掛かられたら一溜まりもない。
聡は恐怖に震える手を、やっとの思いで顔の高さまでもっていき、ランプを高く掲げた。狼はランプの火にも動じることはない。微動だにせず、静かな瞳で聡を見つめていた。
聡は視線をそらさないまま後ずさりしようとするが、足は地面に捕まえられたかのように動かない。全神経を集中して狼を見つめた。
長い時間が過ぎたように感じた。
遠くで獣の鳴く声が聞こえた。
すると狼は何事もなかったかのように、そのままゆっくりと歩いて行き、その先の高い崖を軽々と飛び越えて走り去った。
聡の全身から力が抜け、ランプを持っていた手がだらりと落ちた。手には、びっしりと汗をかいていた。気がつくと目から涙が零れている。ほっとしたからではない。悲しいからでもない。
悔し涙だ。
狼は聡のことを、獲物でもなく、危害を加えるものでもないと判断し、聡に目もくれずに行ってしまった。狼は堂々としていて気高く見えた。灰色の毛並みは月明かりに銀色に輝き、聡を見つめる瞳は鋭い中に静けさをたたえ、心の奥まで見透かされているように思えた。
狼にくらべ自分がとても小さく思えた。
自分は少年に会って何を話すつもりだったのか、同情して欲しかったのか、何か言葉をかけて欲しかったのか。帰ろう。彼はあのときすでに言ってくれたじゃないか。
『信じて努力するんだよ。絶対に諦めない。君ならできる』と。
聡は涙をぬぐい森を後にした。
特別クラス
昨日まで蕾だった染井吉野が、枝の先でほころび始めていた。
タツヒコは事務所の窓から大樹を見上げた。染井吉野の隣では白木蓮が枝を隠してしまうほどに花弁を広げていた。その幹を覆うように雪柳が花をつけはじめ、根本には鮮やかな黄水仙が、工場までの小道を彩っている。
会長が玖那くな国から持ち込み、自らの手で植樹したと聞く。花の咲くこの季節は、異国にいることを忘れさせてくれた。
タツヒコが自国の本社から、この異国の地に渡ってから三年になる。二つの国は海を隔てた隣り同士で、同じ象牙色の肌と黒い髪に濃褐色の瞳だが、話す言葉に共通するものはない。
太古の昔から交流はあるものの、互いに侵略することもなく、それぞれ独自の文化をはぐくみ平和に暮らしていた。
タツヒコの国である玖那国に、大洋を渡った遥か彼方の大陸に住む肌の白い人々が、大洋を渡れる鉄の船を作り出し、海を渡ってくるようになった。彼らが持ち込んだ文化や技術が広まると、玖那国はそれらを吸収し、さらに発展させていった。
そして力を入れたのがエネルギー開発である。過去には国民の命をおびやかすほどの事故をおこした過ちもあったが、ようやく今の神楽マテリアルカンパニー(通称KMC)によるエネルギー開発に落ち着いた。
今では有害な物質を出すこともなく、環境を破壊することもない安全なエネルギー開発に成功している。しかし、玖那国は資源にとぼしかったので、この載秦国さいしんこく(さいしんこく)の資源を利用し、エネルギーを供給していた。
タツヒコははじめ、古い文化としきたりを重んじるこの国の人々に驚いた。五百年前に建てられた王宮に、二千年以上続く王朝が君臨している。
王宮の中ではいまだに時代錯誤な生活や儀式が続いているという。自然との調和を大切に、芸術や文化を愛して生きてきたこの国の人々にとって、白い肌の人々が持ち込んだものは、生活を便利にしてはくれたが、自然の調和を乱すものとして忌み嫌われ、一般家庭に電気や水道が通ったのもここ二、三年前からであり、まだ電気や水道のない家もある。
世界中の家に安全な電気の光を灯すのがタツヒコの夢である。
大学で資源工学を学び、首席で卒業し、憧れのこのKMCに就職したものの、本国で配属されたのは総務部。そしてここへ来てから任される仕事は事務や雑用ばかりだった。
大学で学んできたものが生かせないのは残念だったが、いつか会社に認めてもらい希望の仕事につけるように、与えられた部署で誠実に仕事をこなしていった。
載秦国へ来てから一年ほどしたある日、タツヒコは部長室へ呼ばれた。部屋に入ると部長の机の前にタツヒコよりも七歳年上の同じ総務部の先輩であるアリサワが立っていた。同じ部で働きながら、このアリサワはほとんど外へ出ているらしく、机に座って仕事をしていることはほとんどない。同じ部の人間も彼がどんな仕事をしているのか、よく知らないのであった。
その彼が同席しているということは、自分も彼と同じ仕事をすることになるのだろうか。
タツヒコは部長の前に立った。
「君に頼みたい仕事がある」
机に肘をつき、顎の下で組んでいた手を、椅子の肘掛けに戻し、部長が口を開いた。
※ ※ ※
兄が都へ発ってから一年ほどたった春とはいえまだ肌寒い日の昼過ぎ、聡が学校にいる時間に、彼らは訪ねてきた。
「今日は、わざわざお時間を頂きありがとうございます。息子さんのことでお話があります」そう言って、仕立ての良いスーツにKMCのバッジをつけたふたりの男のうち、年上の男が話を切り出した。
「息子さんはとても優秀ですね」
テーブルに出された茶器に手を添えながら穏やかな笑みを見せる。
そう言われて、悪い気のする親はいないが、聡の両親は怪訝そうに「はあ」とうなずいた。
「我が社が学園も経営しているのはご存知ですか」
「はい」
父親が答えた。
「ご存じかと思いますが、我が社では、世界最先端の技術でエネルギーの開発を行っています。そのための優秀な人材を、子供のうちから育てようと、教育にも力を入れています」
タツヒコはアリサワの横で流れるようなしゃべりを聞いていた。アリサワについてこの仕事を始めてから二年になるが、タツヒコはこの話を切り出すのがどうも苦手である。
この国には、古くから王立学校があり、国民は国の税金で学校へ通うことができる。だがKMCが学園を設立してからというもの、税金から払われるわけではない学費は当然高いが、優秀であれば、そのままこのKMCに就職できるとあって、小学部からそこへ子供を通わせる親が増えてきた。
もともとは自国の社員の子供たちのために設立したのだが、いつからか両国民を受け入れるようになった。中等部からは全寮制の『特別クラス』が設けられ、王立学校へ通う子供たちからも、成績優秀であれば引き抜かれて、全寮制で授業料、寮費いっさい免除のこのクラスへ編入が許されている。この『特別クラス』を卒業したものにはKMCのエリートコースが用意されている──らしい。
ふたりの男は、聡をこの『特別クラス』へ誘うためにやってきたのだ。ほとんどの親は、子供を説得し『特別クラス』へ編入させる。だが──
「お断りします」
それが聡の両親の答えだった。『特別クラス』は、親にとっては魅力的な話ではあるが、子供には幅広い選択肢を用意してあげたい、というのが聡の両親の考えだった。珍しい答えにタツヒコは驚いたが、アリサワは平然と続けた。
「息子さん、最近何か変わった様子はありませんか?」
アリサワの言葉に、聡の両親は顔をこわばらせた。
「何のことでしょう」
母親が平静をよそおって応えた。
※ ※ ※
その日、学校へ向かう聡の足取りは重かった。
「おはよう」
後ろから走ってきた少女が聡に明るく声をかけ、前を行く女の子たちの中に入っていく。
彼女は聡と一緒に級長を務めていて、今も聡に変わらない態度で接してくれる。近ごろ、他の級友たちは聡をあからさまに避けるようになっていた。教室が見えてくると、入り口付近で数人が話しているのが聡の目に留まった。
「今日の健康診断、またあいつかなあ」
「あの先生でかい声で体重読み上げるから嫌なんだよお」
「俺は別に。お前太りすぎ」
「おっ、はっきり言うか? いいよな、身長伸びた奴は」
「あっ、おい」
彼らのひとりが聡に気づくと、他の友人を肘で小突き、聡とは目を合わせずに、教室の奥へと行ってしまった。聡はうつむき加減のまま机につくと教科書を広げた。
「あいつが来ると気ぃ使うよな……」
ひそひそと話す声が聞こえてくる。
言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃないか。そうも思うがいい加減にうんざりしていた。聡が視線を感じて顔を上げると、朝、声をかけた少女が気の毒そうに聡を見ていた。それが少女の優しさであると解っていても、同情されたことが、聡の自尊心を酷く傷つけた。
混迷
「ああそう、気を付けて帰りなさい」
休み時間、聡は担任の先生に具合が悪いから帰りたいと告げると、先生は爽やかな笑顔でそう返した。
聡は先生のこの笑顔が好きだった。級長だからではなく、聡を頼りにしてくれていると感じていた。兄のように親しみやすい先生だと思っていた。でも今は、その笑顔の下に『厄介ごとはごめんだ』と言っているのが見える。
具合が悪いと言うのに「大丈夫か」のひと言もなく、笑顔で「帰りなさい」とはおかしなものだ。聡が仮病を使っていると気づきながらも知らぬふりをしているようだった。でも、今は、そのほうが聡にとって気持ちは楽だった。そんなわけで、聡はいつもよりずっと早く家に帰ってきた。なぜ今日に限って早く帰ってきてしまったのだろう。
運命だったのかもしれない。ずっと後になって聡は思った。
家の前で聡は足を止めた。見慣れない車。誰もいないと思って早退してきたのに、留守ではないのか……。だが、それよりも聡の興味は車に向いた。この辺りで車を持っている家はない。町でも車を持っているのは限られた裕福な家だけだった。珍しい車をよく見ようと、聡はぴかぴかに磨かれた車体にそっと触れた。
「凄いや……」
窓ガラスから運転席を覗く。間近で見るのは初めてだった。ハンドルの前に並ぶ見なれない機械に目を奪われた。ふと運転席に名刺が置かれているのに気付く。
『神楽マテリアルカンパニー』
KMC? うちに何の用だろう……。
聡はこっそり物置の屋根を伝って天窓から部屋へと入り、しゃがみ込んで階下の大人たちの話に耳を傾けた。
「どうなさいますか? 悪い条件ではありません。ご心配なら、一度見学されてみてはいかがでしょう? 子供たちが暮らしている様子をご覧になれば安心されると思いますよ」
穏やかな男の人の声だと聡は思った。
「今すぐに答えを出す必要はありません。よく考えてください。連絡を頂ければ、いつでも迎えにきます」
丁寧にそう言って男たちは立ち上がろうとした。
「考えてって言っても、他にどうしようがあるんです。もう今までのように学校へ行くことはもちろん、家から外に出ることだってできないじゃありませんか」
強い口調で母親がどなった。聡は自分のことだと思った。何の話しかは分からない。すると男は、興奮している母親をなだめるように言った。
「死亡届を提出して頂く……という方法もあります」
──死亡届!
叫びそうになり、聡は思わず手で口を押さえた。震える手で、そっとはしごへにじり寄り、耳を階下へ近づけた。
「死亡届を書いて頂ければ、その後の手続きはわれわれが致します。後は貴方たちで──」
母親の泣き声に消されてよく聞き取れない。
「今日は帰ってくれ」
父親が怒りを押さえているのが分かる。男たちが出ていき、扉の閉まる音が無言の居間に響く。聡は出ていくことができずに、口を押さえたままじっと座り込んでいた。今聞いた話を頭の中で整理しようとするが、思い出そうとしても頭の中は真っ白になるばかりだった。
長い沈黙のあと、父親が口を開いた。
「あいつらに任せるくらいなら、私たちで……。そうしないか」
「そんなこと……。私たちが聡を──死──んて」
母親は泣いて、何を言っているのか聞き取れない。
聡は混乱した頭で必死に考えた。どうやら自分はこれから学校に行くことができず、外にも出られない。父と母は、さっきの男たちが話していた『死亡届』を出すことにしないか、と話しているようだ。
──死亡届って僕の?
私たちの手で、って父さんと母さんが僕を?
迎えにくるって、僕はどこかに連れていかれるの?
聡は立ち上がろうとして机に手を置くと、重なっていた本を落とした。本が床にぶつかる音が、静まり返った家の中に大きく響いた。
「誰かいるのか?」
父親が聡の部屋に向かって訊ねる。
「聡、帰っているのか?」
父親がはしごに手をかけた。
母親がすがるような目で父親を見つめる。父親が重い体ではしごをきしませながら、一歩一歩上り始めた。
「聡……」
母親が祈るようにつぶやく。父親がはしごを半分ほど上り、聡の部屋の床から顔をのぞかせた。
「聡」
呟いた父親の髪を風が揺らす。
天窓から吹き込む風が、床に落ちた本のベージをパラパラと頼りなげにめくっていた。
透明な雪解け水が夕日を受け、オレンジ色に染められ流れていく。聡は土手に座って川の流れを見ていた。小さい頃、父に連れられてよく釣りに来た場所だ。
さっきの話はなんだったのだろう。本当に自分のことだったのだろうか。家に帰って、父と母にきちんと話しを聞こうか。いや、帰れない。ふたりは自分の名前を口にしていたし、死亡届を出して、あとは私たちで……と、はっきり言っていた。
小さい頃近くに住んでいた兄の友達のことを聡は思い出していた。突然いなくなり、近所の子供たちに聞いても誰も知らなくて、母親に聞いたら、遠くの学校へ行ったと聞かされた。その話をしてはいけないとも言われた。そのうちに忘れてしまった……。
聡は手にした石を川へ投げた。次から次へと怒りをぶつけるようにして投げた。これからどうしよう。家には帰れない。
兄の顔が浮かんだ。『何かあったら必ず俺に言えよ』と言ってくれた。
あの日、兄の友達がいなくなってから、夜中に起きて両親の話を聞いていた兄。あの時、兄は何を聞いたのだろう。あの日から兄は本気で医者を目指すようになったんだ。
──兄は何か知っているかもしれない。
でも都は遠い。お金もない子供が歩いて行ったところで、途中で保護されるのがおちだ。
途方に暮れていると、遠くから聡を呼ぶ声が聞こえた。父だ。聡が天窓から逃げたときも父は必死に聡の名前を叫んでいた。
──父さん
聡は立ち上がった。そして一歩踏み出す。
気持ちは父のもとへと走って行きたかったのに、聡の足は森への道を走り出していた。森の中をあてもなく走った。こんなにめちゃくちゃに走ったら、帰り道は分からなくなる。それでもかまわなかった。どうせ家には帰れないのだ……。
父親の声を振り切るように聡は走り続けた。
息が上がって、足がもつれ、木の根っこにつまずいて転んだ。立ち上がる気力もなくそのまま仰向けになって木々を見上げた。涙が流れてきた。聡はゆっくり目を閉じた。木々が風にゆれる音だけが耳に聞こえる……。
「こんなところで寝るなんて凍死するつもりかい?」
聞き覚えのある声に目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。慌てて上半身を起こし、声のしたほうを振り返った。細見で色白の少年が聡を見下ろしていた。聡はその少年を見て声もでないほどに驚いた。
少し長い前髪からのぞいた琥珀色の瞳が聡を見ている。
子供のころに森で出会った少年。聡が肌身離さずに持っていた【知恵の石】をくれた少年。あれから何度も森の入り口をうろうろしたり、町の人混みを探したが、会うことは出来なかった。それでも少年の記憶は薄れることなく、むしろ時が経つごとに、聡の心に鮮明に焼きついていった。
その想い出の中と少しも変わらぬ姿が目の前にある。すっかり子供の心に帰ってしまった聡は「お兄ちゃん」と叫びそうになった。が、つぎの瞬間はっとして言葉を飲み込んだ。
──そんなはずはない
揺れる炎
目の前に立っている少年は自分と同じくらいの年齢だ。あの時の少年だったら兄よりも少し年上だったから、今頃は成人しているはず。
少年は静かに微笑んで「僕の家に来るかい?」と、聡が返事をするのも聞かず、前を向いて歩き出した。聡の体は冷えきっていた。震えながら力なく立ち上がると、無言でその少年の後をついて行った。
少年は聡に何も訊ねない。聡の気持ちに邪魔をすることなく、ゆっくりと歩いていく。
夜の森は聡が思っていたほど暗くはなかった。月明かりが木の葉の間から差し込み、二人の足元を照らしてくれた。
聡は混乱していた。KMCの男たちの話。父と母の会話、泣き叫ぶ母の声。そして、前を歩く想い出の中の姿と少しも変わらぬ少年。迷い込んだ森で、聡に石をくれた琥珀色の瞳の少年。頭の中ではそれらが走馬灯のように巡っている。
月明かりに照らし出されて影絵のようになった森の道を歩いていると、聡の頭の中の現実は、スクリーンに映し出される映像となって、自分はそれを遠くから見ている観客のような気がしてきた。
少年と共に過去の時間を歩いているのか。
これは夢なのか。
それとも、うつつなのか──
小一時間くらい歩いただろうか。少年が歩をゆるめて聡を振り返った。
「あれが僕の家だよ。というか小屋だな」と、少し照れて笑う。
少年の視線を辿ると、板を張り合わせて入口と窓をくりぬいただけの、小さな古い建物が見えた。たしかに、お世辞にも家とは言い難い。家の南側には小さな畑があり、野菜が植えられていた。畑の横を通り、少年は扉を開けて家へと入っていった。入口の横には鳥小屋がありニワトリが数羽と、鳥小屋の横につながれて眠っている山羊が一頭飼われていた。
聡は少年の後をついて家の中に足を踏み入れた。
中は居間が広がっており、ふたり用のテーブルと椅子が部屋の中央に置かれている。
少年がテーブルに置かれたランプに火を灯すと、部屋の様子が浮かび上がった。壁際にはふたり掛けのベンチにクッションが敷き詰められ、ベンチの横には薪ストーブが置かれている。
家の中の家具は無骨で、すべてが素人の手作りのようだった。居間の隅には小さな台所があり、奥の壁には、別の部屋へと続く扉が二枚閉じられていた。北側の壁は、小さな窓を囲むように、一面が本で埋め尽くされている。棚はやはり不格好に歪んだ手作りだ。これほどの本を誰が読んだのだろう。
少年は聡をベンチに座らせると、自分は薪ストーブの前に腰を下ろし、慣れた手つきで火を起こし始めた。
そういえば、森で出会った少年も簡単に火を起こしていたっけ……
聡の家にはストーブはない。祖父の家には暖炉があった。家から走ってすぐのところに住んでいたのでよく遊びに行った。祖父のロッキングチェアに座って、祖父が暖炉に火を入れるのを見ているのが好きだった。いやなことがあるときまって祖父の家に行った。聡が泣いていても、怒って火をにらみつけていても、祖父は何も言わずにチェアを揺らしパイプを吸っていた。
今も祖父がいてくれたら……
少年は火を煽ることなくじっと見つめている。聡も黙ってその様子を見ていた。壁に掛けられた柱時計の時を刻む音だけが聞こえてくる。
やがて炎が上がり、少年が薪をくべると、いよいよ炎が燃えて立った。少年の白い横顔が赤く染まり、後ろの壁に二つの大きな影が揺れた。
パチパチとはぜる音が部屋の中に響き渡る。他に人の気配はしない。少年はひとりでこの家に住んでいるのだろうか。畑や動物の世話は彼がひとりでしているのだろうか。
聞きたいことはいくつもあるのに、言葉にするまえに消えていってしまう。ふたりとも黙ったまま炎を見つめていた。
聡が目を覚ますと、部屋中に美味しそうな匂いが漂っていた。ベンチから体を起こし、ゆっくりと当たりをうかがう。ここが自分の家ではなく、少年の家に来たことを思い出した。
「気持ちよさそうに寝ていたから、そのままそこで寝かせておいたけど、体、痛くはないかい?」
少年が食事をテーブルに運びながら声をかけてきた。
「あ、はい」
この少年が、子供の頃に森で出会った年上の少年か、初対面の同世代の少年なのか分からずに、聡は返事の仕方に迷った。
「お腹空いただろう? 簡単なものしかないけど、どうぞ」
少年が席について言った。テーブルの上には野菜のスープと茹でた芋、そしてチーズが並べられていた。
「これ、君が?」聡は椅子に腰かけながら「ここには君ひとりで住んでいるの?」とだけ訊ねた。
部屋の中を見回すと、建物だけでなく家具や道具もかなり使い込まれていて、ずいぶん前からこの森の中で暮らしていたことをうかがわせた。
「あの、どうして、僕をここに?」
少年は肘をついて指を組み、答えを考えているようだった。聡が少年の答えを待っていると、聡のお腹が大きな音をたてた。聡は顔を真っ赤にして慌ててお腹を押さえた。
「まずは食事をしよう」
少年が笑う。
「食事が終わったら、君が疑問に思っていることに答えるよ」
食事中は少年が手作りしたというチーズの作り方や、家の前に流れている川で魚が釣れるから、明日は魚を釣って食べようといった、当たり障りのない会話をした。食事の後片付けを終えると、少年は甘い香りのするお茶をいれてくれた。気持ちを落ち着かせる作用のある香草茶だという。聡はあの時の少年が植物に詳しかったのを思い出した。
家事の手際の良さからも、やはりこの少年が聡と同世代だとは思えなかった。
ストーブの前に椅子を移動し、二人はストーブの炎を眺めながらお茶をすすった。
やがて深いため息をついて、少年は話し始めた。
「ここには、僕ひとりで住んでる」
少年は言葉を選びながらゆっくりと答えていく。
「この家は父の研究所だったんだ。奥に研究室がある。父はこの森で薬草の研究をしていたから……」
聡が少年の言葉に反応して顔を向けた。石をくれた少年も、父親が森で植物の研究をしていると話していた……。だが少年は火を見つめたまま薪をくべ、聡を見ることなく話を続けた。
「僕も逃げてきたんだ、この森に。父が僕をここへ隠したんだ。それからずっとここに住んでる。君もKMCの奴らから逃げてきたんだろう?」
少年が聡へと顔を向ける。確信を持つように聞いてきた。
「どうして、分かったの?」
少年は一度目を伏せ、考え込んでから、聡の目をきっちり見据えて言った。
「もう少し君が大きくなったらまた会えるって、前に言っただろう?」
「!」
聡は驚きと嬉しさに、すぐに声が出なかった。
「やっぱり、あの時の……」
聡は泣きそうなり、それ以上言葉にならなかった。シャツの中に手を突っ込み、首から下げた石を少年に見せた。少年は赤く輝く石を見て優しい表情になった。
「ずっと、持っていてくれたんだね」
聡は何度もうなずいた。胸に手をあて、高ぶる気持ちを落ち着かせた。
「この石に何度も助けてもらった。この石のお陰で諦めずに済んだ。ずっとお礼が言いたくて、探していたんだ……」
「君が森へ来ていたことは気づいていたよ。でも……会えなかった」
少年は黙ってしまった。なぜ聡と会うことができなかったのか、聞かなくても分かることだ。聡は何も言えなくなってしまった。
長い沈黙があった。二人とも薪ストーブの炎を見つめたまま何も話さない。炎の揺らめきは、長い沈黙の気まずさを消してくれた。
聡は考えていた。この少年はあれからずっと少年の姿のまま、ひとり、この森の中で過ごしていたのだ。いや、おそらく、自分と出会うずっと前から……。
少年と再び出会えたことは嬉しいけど、あの頃と変わらない姿でいるのは、この少年は成長していない、ということだ。そしておそらく聡自身も彼と同じなのだ。少年が先ほどから真実を口にできないでいるのは、自分自身のことを語れば、聡が真実を知ることになるから言えないのだろうと思った。
「僕も……なんだね」
聡が炎を見つめたままポツリとつぶやいた。
「学校へ行けなくなるって母さんが言ってた。そういうことだったんだ」
そして、炎を見つめていた顔を上げて言った。
「僕は大人になれない──」
想い
「僕の名前は秀蓮」
朝食を食べながら少年が言った。言われて初めて、名前を聞いていなかったことに気づいた。聡の中では長い間、兄よりも年上の『お兄ちゃん』であったから、名前を呼び捨てにするのは抵抗があった。
そんな聡の気持ちを察してか「秀でも秀蓮でも、好きなように呼んでよ。今日から僕らは友達だ」と、笑って右手を差し出した。聡が遠慮がちに手を出すと、力強く握ってきた。聡はこそばゆかった。
朝食の片付けを終えた秀蓮は、寝室とは別のもうひとつの部屋。研究室に入っていって聡を呼んだ。聡が部屋に入ると、部屋の隅に立てかけてある釣竿を渡す。秀蓮の肩越しに部屋をのぞき込んで、聡は目を見張った。
部屋の奥にある奇妙な機械のようなもの。いくつもの硝子や金属の瓶が、何本もの曲がった管で繋がっている。釣竿が立てかけられていた横には、大きなはさみやナタが置かれている。窓際の棚には、見慣れない道具、それから瓶の中に怪しげに浮かぶ不思議な物体。そして、ラベルの貼られた大小の硝子瓶がぎっしりと並べられている。
天井からは枯れた花や草の束が垂れ下がり、テーブルの上に大きな鍋があり、中には黒々とした液体が異様な臭いを放っていた。
「魔女の部屋みたい……」
聡は思わずつぶやいた。
部屋を出ようとしていた秀蓮が目をまるくして聡を振り返る。
「あ、いや……」悪いことを言ったと思い、聡が慌てて訂正しようとすると、秀蓮は吹き出し声を上げて笑った。
「魔女か……。君は子供の頃にも僕にそう言ったね。そうか、魔女ね。今度、毒リンゴを作ってあげるよ」
笑いながら釣道具を持って部屋を出て行ったので、秀蓮が気分を害していないことに聡は胸を撫でおろした。
家の前の畑を少し下ったところに、小さな川が流れている。木の枝が水面に届きそうに垂れている、大きな岩の蔭をポイントに定め、近くに座れそうな場所を探して腰を下ろした。
「食べるのが目的の釣りだから、稚魚は川にかえしてあげようね。でも、釣れないと今夜の食事は野菜スープだけになっちゃうから、気合を入れて釣ってくれよな」
秀蓮が悪戯っぽく笑った。
「自給自足で食べているの?」
聡が心配そうに聞く。聡の家は農家ではないから、釣った魚を食べたことはあるが、肉も野菜もお店で買ったものしか食べたことがない。
「基本はね」
釣り糸にエサをつけながら秀蓮は答える。
「家の畑の野菜と、ニワトリは毎日卵を産んでくれるし、川には魚がいる。森には木の実や、動物や獣がいるし、ああ、肉や他の野菜なんかは手に入れるちょっとしたルートがあるんだ」
そう言って釣り糸を垂らすと、秀蓮は釣りに没頭してしまった。
聡は黙って釣り糸を垂れた。じっとしていると家族や学校のことが気になった。自分のことを探しているだろうか。KMCの人達はどうするのだろう。一度家に帰ってここにいることを知らせようか。いや、もし見つかったら自分だけではない、秀蓮まで連れていかれてしまう。
連れていかれる?
どこに?
秀蓮は知っているのだろうか。
「聡! 糸。引いてる!」
秀蓮の声に、聡は慌てて釣り竿を引き上げた。
「しっかりしろよ! 食いっぱぐれるぞ」
魚は今夜食べるには十分すぎるほど釣れたので、残りは燻製にすることにした。秀蓮は器用に魚をさばき、聡がバケツや釣竿を片付けて手伝おうとした頃には、魚を干し終えていた。明日の朝まで乾燥させる。その後は二人で野菜を収穫し、山羊の乳を搾り、その野菜と山羊の乳で聡がスープを作った。その間に秀蓮が薪ストーブに火を起こし、今夜食べるぶんの魚を焼いた。
食べるためだけに一日を使うことは聡にとって初めてであり、体はくたくたに疲れていた。おかげで、聡は考え事をする暇もなく、夜はぐっすり眠ることができた。
次の日からも、畑仕事や森に木の実を探しに行ったり、ニワトリと山羊の世話など、食べることに時間を費やすこととなった。慣れてくると午後には仕事が終わるようになり、自由な時間ができた。
聡が居間のベンチで暇そうにしているのを見て、「聡は何年生だっけ?」と、秀蓮が訊ねてきた。
いきなり何のことかわからなかったが、学校の学年のことだと気づき「八年生だよ」と応えると、秀蓮は、本棚から本を数冊選び、聡の膝の上に置いた。
「学生は勉強しないとね。学校の教科書ではないけど、内容は同じだから、分からないところは僕が教えるよ」
と、秀蓮が聡をテーブルへ誘った。
秀蓮は、聡が、教えなくても自分で勉強できるようだと見てとると、小さな活字でびっしりと埋め尽くされた、なにやら難しそうな分厚い本を読み始めた。
見た目は同級生だから、こんな本を読んでいると違和感がある。でも秀蓮の涼しい眼差しは同級生のそれではない。何にでもすぐに没頭してしまうんだな。聡は感心して秀蓮の横顔を見つめていた。
「何?」
「あっ、ごめん。なんでもないんだ。秀蓮の集中力は凄いなと思って」
それから、聡は聞こうか聞くまいか迷っていたことを口にした。
「体の成長が止まるということは、脳の成長も止まるのかな」
秀蓮は聡に向けていた視線を本に落とした。
「でも、君は難しい本を読んでる。秀蓮は、僕がこうなることが分かっていて、石をくれたの?」
秀蓮の瞳が揺れた。
「火を起こすよ。こっちで話そう」
火を起こすとき、秀蓮は決して慌てない。
ゆっくり火をつけ、炎が上がるのをじっと待ち、タイミングを見計らって薪をくべる。すると、余計な煙が上がることなく安定した炎が燃え続ける。薪ストーブをつける一連の動作を見ていると、聡の心も鎮まってきた。
頃合いを見計らったように秀蓮が口を開く。
「聡の言う通り……あのとき、こうなると予測はしていた」
「どうして?」
「君の瞳。成長が止まってしまう者たちは瞳の色がいくらか薄い。そして子供のように澄んでる。あの時の君の瞳は赤児のように澄んでいたから」
秀蓮が聡の瞳を見つめながら言った。
「者たち?」聡が眉をひそめた。
「僕たち二人だけではないよ。だけど、その話はちょっと待ってくれないか」
秀蓮は立ち上がり、台所へ行ってケトルに水を入れ、ストーブの上に置いた。椅子に腰かけると再び話を続けた。
「脳についてはよく分からないけど、体の成長が止まるんだから、大人の脳には成長しないと思う。ただ、脳の発達が著しいのは三歳から十歳までと言われているし、大人の脳だって、使わなければ衰える。だから聡に石を渡した。もともとカンが良さそうだったし、子供ひとりで森へ入ってくる度胸も持っていたから。──成長が止まる前に……。いや、止まってしまっても、君なら大丈夫だと思った」
一度聡を見つめると、また炎に視線を戻し秀蓮は静かに話し続けた。
「僕にも経験があるからわかるよ。周りの友達に抜かれていく。自分だけが理解できなくて置いていかれる。でも、僕には父がいた。父は医者だったんだ。僕の変化にいち早く気づいて、僕をここへ連れてきた。そして学校で教わること、医者としての知識。それから生きていくために必要なこと。知っていることは全部教えてくれた。どうせ未来なんかないって、やけになっていた僕に、父は根気よく諭してくれたよ」
「お父さんは?」
「もう、いない……。その石は、そのときに父が僕にくれた石なんだ」
秀蓮は父親を思い出しているのか、愛おしむような眼差しで言った。
「そんな大切なもの──」
もらうわけにはいかない……。そう思って聡はペンダントの紐に手を掛けた。
秀蓮がその手を止めた。聡を見つめる瞳は真剣だ。
「大切なものだから君に渡したんだ」
「!」
「その石には、父の想いと、僕の想いが込められている」
聡は秀蓮の顔を見ていられなくて目を反らした。
「──ひとりで、辛かったろう」
聡の胸に秀蓮の言葉が突き刺さった。抑えていた感情が一気に溢れた。
学校の友達にも、先生にも相談出来なかった。自分に期待していた両親には話せなかった。心配してくれた兄は遠くに行ってしまっていた。訳のわからない不安をひとりで抱え、耐えてきた。
誰にも打ち明けられなかった想いを、分かってくれる人がいる……。
張りつめていた糸が切れた。
溢れた涙が嗚咽に変わる。
秀蓮は、聡の震える肩に手を置いた。
君の声は僕の声 第一章