遠く、離れて

 チチチ、という音に振り向けば先輩がコンロに火をつけて煙草を咥えていた。
「煙草吸うなら換気扇つけてくださいね」
「ん」
 返事は返ってきたものの、その手が換気扇の紐に伸ばされる様子はない。コンロで煙草に火をつけるなんて、初めて見た時は驚いたが、先輩と同じ研究室にいた二年間ですっかり見慣れてしまった。それをまさか自分の家で目にすることになるとは思わなかったが、膝を曲げ、上半身を屈めたそのなんとも苦しい体勢が懐かしくて、すこしだけ感傷的な気分になる。  
 なかなか点かない火に先輩が首を傾けるたび、雑に耳に掛けられていた髪が、危なっかしく円形の火の上を揺れる。
「髪、燃えますよ」
「ちょっとくらいいいよ」
 やっと火が付いたと曲げていた腰を叩く先輩の、すぐ横に垂れている換気扇の紐を引く。先輩の吸う、街でよく見るメジャーな銘柄の煙草を受動喫煙していると、嗅ぎなれたというほどではないが、やや親しみをもつくらいには嗅ぎ続けていたにおいが、学生時代のあれこれを引っ張り出そうとするのをなんとか抑える。社会人一年目だから、感傷的な気分になるのも、ノスタルジーを求めるのも、仕方がないのだ。
 だけど、周りはどんどん進んでいく。学生時代に戻りたいねと愚痴り合った同期も友人も、いつの間にか社会人の顔になっているのだ。愚図な私は置いていかれないように、ぬかるんだ地面をなんとか歩んでいく。
「そろそろ行くか」
「そうですね。あ、数珠!入れ忘れた」
「なくったって平気だよ」
「いや、だめですよ。先に駐車場まで行っててください。すぐ追いかけますから」


 たいして歩いてもいないのに、慣れないパンプスで足が痛い。今さっき、後輩に言われた言葉が頭を何週も回っている。
「追いかけるって言ったって、ねぇ、先生」
 煙になっちゃ、追いかけようがありません。

遠く、離れて

遠く、離れて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-10

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