君の声は僕の声 第五章 3 ─古代文字─
古代文字
聡と秀蓮は朝食の用意をしながら、寝室のドアを気にしていた。杏樹が起きてくるのを待っている。ナイフを握っては目をやり、ナイフを置いては目をやる。が、杏樹はなかなか起きてこない。聡は我慢できずに杏樹を起こしに行った。
重そうな眼を開けたのは陽大だった。聡は内心ほっとした。ここで玲に目覚められたら面倒だ。今の状況を、玲を怒らせずに説明する自信が聡にはなかった。
眠そうな目をこすっている陽大を無理矢理引っ張ってきて椅子に座らせると、聡は立ったまま、陽大の目の前に紙を広げた。
「これ、陽大が描いたの?」
秀蓮も、焦る気持ちを抑えながら、椅子に座って陽大の反応を待っている。陽大は半開きの目で紙を見つめると眉を寄せた。
「なに、これ? 心の落書き……にしては綺麗に書いてあるな」
陽大は毛ほどの関心もないように言うと大きくあくびをした。聡はため息をつき、がっくりと椅子にしゃがみ込んだ。
「陽大以外の誰かが描いたんじゃないか? これは古代の文字なんだ。誰か古代文字を読める人がいるんじゃないか?」
秀蓮が古代文字の書物を見せながら答えを急かすように聞く。
「古代文字? そんなの読める奴いないだろう」
秀蓮の真剣な表情にも、陽大は顔の前で手を払い「あ、玲なら」と、思い出したように言った。
「玲はパズルが得意なんだ。頭もいいし。玲ならできるかもしれない」
「ああ、それなら僕が暇つぶしにやった」
玲があごを少し突き出すようにして、こともなげに言った。
嫌な言い方をする。
思わず仏頂面になるのを押さえながら聡はちらりと秀蓮に目をやった。秀蓮は玲の態度を気にすることなく話を続けている。
「この古代文字の意味が知りたいんだ。僕たちは来週、陵墓の遺跡へ、二千年前の王国について調べに行くんだ。だから、どうしてもこの文字を読めるようにしなければならない。玲、君に協力してほしい。お願いできるかな」
秀蓮の真剣な眼差しを冷めた瞳で見つめていた玲はしばらく考えていた。やがて、
「僕たちの詮索をしないのなら。──ここへ心を連れてきて、『杏樹』を出そうとしたんだろう? 『杏樹』を眠らせておいてくれるなら、協力してやってもいい」
玲の冷めた目に力がこもった。聡はドキリとした。やっぱり『玲』は気づいていたのだ。秀蓮は何か言おうとしたようだったが、「わかった」とだけ言った。
「なぜそんな事をするんだ?」
興味なさそうに玲がぼそりと訊ねる。
「君は今の姿のまま、ずっとあの寮にいるつもりなのか?」
玲の眉間にしわが寄った。秀蓮の言葉に興味を示したようだった。
「王国が滅びた原因を探れば、小人が生まれた原因が解る。そして僕たちが生まれた原因も……そう思ってる。原因が解れば、僕たちは大人になれるかもしれない」
秀蓮は玲の瞳を見据えてゆっくりと言った。秀蓮は、玲の瞳の奥にいる人格たち、あるいは、杏樹自身に言っているように聡には思えた。玲がどう受け止めたのかはわからない。
「なるほど」
玲は顔を動かさずに瞬きだけをして返事をした。
秀蓮の話を冷静に受け止めている玲の反応を聡は不思議に思った。これまでのいきさつを玲は知らない。いきなりこんな話をされて、瞬時に納得するものなのか。陽大が玲は頭がいいと言ってはいたが……単に興味がないのだろうか、聡は玲のクールな横顔を見ていた。
「遺跡には『陽大』も一緒に行くんだ」
秀蓮が言うと、玲が「何?」と、眉をひそめて不快感をあらわにする。
「ここに『心』をひとりで置いていくわけには行かないだろう?」
秀蓮が微笑んでそう言うと、玲は「勝手にしろ」と言って、そのまま引っ込んでしまった。聡はため息をついた。玲はプライドが高くて気難しい。緊張する。
「どうだった?」
朝食をテーブルに並べ、席に着きながら陽大が聞いてきた。
「やっぱり玲だったよ」
秀蓮はそう応えると、胸の前で両手を合わせた。秀蓮はいつも食事の前と後に手を合わせる。聡も同じように手を合わせると陽大も手を合わせた。その仕草が自然だったので、聡は咄嗟に「君も食事の前に手を合わせるの?」と、口に出した。聡が手を合わせるようになったのは、ここへ来てからだ。
「杏樹の両親がやっていたから、僕たちもやらされたんだ。寮ではやらなかったけど」
そう言って陽大はパンにかじりついた。陽大にとって手を合わせる行為は、ただの習慣に過ぎないようだった。
「玲は何て?」陽大が軽い調子で、口を動かしながら聞く。
聡は、杏樹が何人もの人格に分離しているということを受け止められるようになった。だが、陽大と玲が別の人格だとわかっても、同じ顔で聞かれるとどうも妙な気分になる。けれど、陽大の飾り気のない態度と玲の偉そうな態度は大違いだ。とても同じ口から喋っているとは思えない。ぼんやりと陽大を見つめている聡に代わって秀蓮が答えた。それから玲に「詮索しないように。杏樹を眠らせておいてくれ」と言われたことも話した。
陽大の口が止まる。
陽大は聡や秀蓮に警戒することはなくなったが、それでも秘密を打ち明けるほど、ふたりに心を開いてはいない。
「陽大は記憶が途切れることに不安はないの?」
秀蓮がパンをちぎりながらさりげなく聞いた。
「詮索するなって言われたんだろう?」
「『玲』にはね。『陽大』は、どう思うの? ここへ来た時も驚いていただろう? 僕だったら怖いと思ってね」
上手い訊ね方だと聡は感心して秀蓮の横顔を見つめた。詮索するなと言ったのは玲だ。玲とは約束をしたけれど、他の人格と約束したわけではない。
秀蓮の口調は柔らかく、自然な会話だった。それでも陽大の瞳は秀蓮の視線を避けるように神経質に動いた。
「──怖いさ。すっごく怖いよ。いつも気がついたら知らない所にいて、知らない奴がいて、知らないことが起こってる」
陽大の手が小刻みに震えていた。
「あの時だって……」
はっとして陽大は顔を上げた。心配そうに聡と秀蓮が見つめていた。
「無理に話さなくてもいいよ。僕たち、陽大が話してくれるのを待ってるから。僕たちは友達だよ」
秀蓮が笑いかけたが、陽大はうつむいていなくなってしまった。顔を上げたのは純だった。不思議そうに辺りを見回す純に、秀蓮はここへ来て驚いた陽大へ話した時と同じように、純がここへ来たいきさつを話した。純は特に驚く様子も怯える様子もなく黙って秀蓮の話を聞いていた。
秀蓮は根気強かった。ひとりひとり別の人間として話そうと努めていた。
純はあまり感情を表さない。少しぼんやりしているように見える。必要な会話しかしない。けれど、黙々と仕事をこなすことは得意なようで、食事の後片付けや、洗濯など、どちらかといえば聡がやりたくないことを進んでやってくれた。純が掃除してくれたおかげで、家の中が小奇麗になった。
聡が手際の良さに感心して礼を言っても、純はちょっと笑ってうなずくだけだった。クールな玲ともまた違う。玲も感情的にはならないけれど、それは感情よりも理性が勝っているからのように思える。だが、純は感情そのものが無いように聡には感じられた。
いち日の仕事をひと通り終えた聡と秀蓮は、テーブルの上に陵墓の地図を広げて話し合っていた。
今日は風がほとんど吹かない。無風になると、すぐにむっとして汗ばんでくる。暑さに集中力が続かず、聡がテーブルに突っ伏して寝ている横で、秀蓮は静かに地図を確認していた。
「暑い……」
そう呟いて風を待っていると、窓から流れてきたのは風ではなく、細いけれど澄んだ美しい歌声だった。聡が驚いて顔を上げる。窓を見ていた秀蓮と目があった。
ふたりが歌声の主を確認しようと玄関の扉を開けると、山羊の傍に立っていた杏樹が慌てて手を後ろに隠した。
「ごめんなさい」
子供っぽい口調で謝ると、うつむいてしょんぼりとした。勢いよく扉が開いたので、山羊に草を与えていたのを怒られると思ったのだろう。
「心?」
聡が訊ねると、杏樹は首を横に振った。その仕草は心と似ている。聡と秀蓮は「誰だか解るか」と目で探り合い、お互いに小さく首を横に振った。
誰だか判らない。
「君の名前は?」
秀蓮が子供に話しかけるように優しく訊ねた。
「結」
初めて聞く名前だった。
君の声は僕の声 第五章 3 ─古代文字─