『暁蕣華の咲く処』(ある子竜の物語)第1章〈1〉 ~フラットアース物語②

第一章: (がい)
亥……云甲抱子、或云二人抱孩児。二人而男女。男女而家也。而子被堅守。



そこは暖かくて、甘い匂いのする〈気〉に満たされていた。気を透かして射し込む光は暗い朱色をしていて、そのほんの(わず)かの明滅(めいめつ)が、優しい眠りに誘ってくれた。
眠っては目覚め、また眠る。濃厚な力に満ちた気を取り込んで眠り、目覚めて更に一回り大きくなった体を確認して、それから身を丸めて芳醇(ほうじゅん)な気の海に抱かれ、また眠りに落ちた。

突然に、安穏(あんのん)な眠りは〈呼ぶ声〉によって侵害(しんがい)された。
はやく、と声は呼んでいた。
『はやく。早く。閉じてしまう。』
声に()かされて仕方なく、丸めていた体を大きく伸ばしてみたけれど、やはり(はし)に届くにはまだ足りなかった。
(まだだよ。)
答えて、また甘い眠りに(もぐ)り込もうとした。
『早く、速く、ここへ!』

しかし、声は消えることなく一層激しさを増し、切迫した色を含んで呼び続けた。
(まだ。……だって()だ足りないのだもの。(いま)だ時に及ばず。)
それだけを答えると、知覚を閉ざして暖かな気を引き寄せた。もう(しばら)く、このまま優しい海に包まれて夢を見るのだ。やがて来る〈その時〉の夢を……。

その時、世界が揺れた。
『ここへ、()()へ!』
呼ぶ声は今や、閉め出すことが出来ないほどに強くなっていた。
優しく包み込んでくれていた気が揺れ、波立ち、動き始めた。それに逆らって出来る限り身を縮め、その揺れをやり過ごそうとした。だが、世界は最早(もはや)留まることなく、揺れは激しく速さを増し、一点を目指して流れ出していた。
世界の端へ、果てへ、出口へ、外界へ!
ーートキ、ココニキワマレリ。窮陰凝閉……(きわ)マル陰、()リテ閉ヅ。


〈1〉

聖王暦第Ⅲ期一六二年・緑の年(うるう)
年は蒼、紅、黄、白、黒と進み、そして緑へと戻る。少しずつ遅れて行く季節を調整するために、緑の年の最後に(うるう)月を配した。なので、緑の年は常に十三ヶ月となるのである。
六年に一度(めぐ)ってくる冬の終わりのその一ヶ月を、人々は緑の月と呼んだ。太古の昔、人に濁水に沈むことのない土地と安らかな夜を取り返し、作物の育て方を教えてくれた聖王を忘れないようにと、聖王の末裔(まつえい)たる王家の色を冠して、緑の月と呼ぶのだと言う者もあったが、正確な由来はもう誰にも分からなかった。

それはともかく、緑の月は王家の直轄(ちょっかつ)地であるラムゼイ州では祭りの季節であった。
王が天神地祇(ちぎ)に、これまでの六年間の安寧(あんねい)無事を感謝し、次の六年の繁栄と豊作を(こいねが)うのが緑の月なのだ。
緑の月の祭りはまず、五方の地祇(くにつかみ)(そう)(こう)(おう)(はく)(こく)の各家の氏神の祭りを行ない、最後に天神(あまつかみ)である女神シュンヨウと聖王ロレムセイを(たた)える祭りを行うというもので、ひと月の間に合計六回もの祭事が行われた。

だから、緑の月の三十一日間は祭りを見物する為に、地方からも大勢の人々が王都にやって来た。その人出を目当てにして、商売人が集まるのは当然のことだった。
そして、人が集まる所には、それを狙ってよくない連中も入り込んで来るものだ。
なので、王都の治安を担当する護民官や、王族の警護にあたる竜師(りゅうし)勿論(もちろん)のこと、普段は街道関所、砦の警備維持にあたっているラムゼイ州師(しゅうし)も、その多くが王都トゥバルクンの治安確保の為に集められていた。

そう言うわけで、王都トゥバルクンは、夜の遅いこの時刻になっても、それらの人々がもたらす喧騒(けんそう)(あふ)れかえっていた。
その喧騒の中から抜け出して、男は一人で街の外れ、もう辺りには数件の家しか建っていない畑道を、足早に歩いていた。男は濃い紫色の上下服を着け、腰には細身の剣を下げていた。長袖の袖口と背中に垂れる後ろ(えり)の縁取りは緑。それは、武官の中でも選び抜かれた者、王直属の軍隊である〈竜師(りゅうし)〉の一員であることを示すものだった。

男は、その身分からするとかなり質素な田舎家の一つへと入って行った。
迎えに出た人物の顔を見て、男は最初、不審な顔をした。だがそれは、すぐに驚きと緊張に取って代わった。男を待っていたのは、望んでいた朗報だった。
やがて、奥の部屋から赤ん坊の小さな泣き声が聞こえてくると、家の中にいた人々に笑顔が広がった。



§

最初に感じたのは、激しい痛みだった。
これまでずっと身体を包んでいた暖かい気は滑り落ちて消え、代わりに鋭く(とが)った光と威圧的に侵入してくる音、口と鼻を焼く無味乾燥な気、激しく肌を叩き揺さぶる存在(何か)、そして様々な〈モノ〉が発する無軌道な波動が、一緒になって飛び込んで来て、全ての感覚器が一斉に悲鳴を上げた。
(きけん、キケン、危険! 殺される!!)
その信号は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に痛みとして伝えられ、咄嗟(とっさ)に身を丸めて、侵入して来るモノから逃れようとした。だが、警告信号は消えるどころか増すばかりで、ついに我慢できなくなって声を上げた。

(たすけて、助けて!)
すると、身体を叩き付けていた存在(何か)が笑った。
〈笑った〉と言うのは正しくないかもしれない。けれど、伝わって来たその波動は、〈世界()〉が(ささや)きかけてくれたものに良く似ていて、それは〈笑う〉と表現するのだと教えてもらった。だから、知っている限りの言葉で表現するのなら〈笑った〉のだ。

ぐん、と身体が浮いて、すぐに落ちた。
〈世界〉に満たされていたものより、少しだけ熱い気に包まれて、警告信号が(わず)かに弱くなった。だが、それも(つか)の間、今度は肌を叩いていた存在に、身体の表面を(くま)無く探られて、声を出して不快を(うった)えた。
けれど、そんなことはおかまいなしに、温かい気の中から引っ張り出され、乾いた硬い物で肌を(こす)られた。感覚器が出す警戒信号はいまや限界に達し、本能が、逃げろ、と告げていた。

ところが精一杯もがいてみても、手も足も思うように動いてくれなくて、しっかりと身体を(つか)まえている存在を振りほどくことが出来なかった。
もう一度、身体が浮いたと思ったら、次に下ろされたのは〈世界()〉の匂いのする存在の上だった。助かった、と安堵(あんど)するひまもなく、肌を叩かれるよりも、もっと衝撃的な音にいきなり揺さぶられて悲鳴を上げた。
必死になって全身の力をかき集め、その力を身体に沿うように広げて、侵入してくる音を閉め出す防御壁にしようと試みた。

ようやく薄いながらも全身を(おお)う防御壁が出来て、ほっと息をついた時、その音に聞き覚えがあることに気が付いた。力の障壁越しに弱まったそれは、まさしく甘く芳醇(ほうじゅん)な気に満たされていた〈世界〉に、優しく響いていた〈母〉の声だと分かって混乱した。
母の声は(うれ)しい、と伝えて来た。生まれて来てくれて嬉しい、と。
それを聞いて、そうか生まれて来たのか、と思った。

〈世界〉の外側には、更に大きな世界が広がっているのだと教えられていたけれど、こんなところだとは想像していなかった。
(だって、母の語る外の世界は、もっと穏やかで楽しそうな場所に思えたのだもの。)
納得したら、警報信号は、ぱったりと途絶(とだ)えた。
()えた、というよりは、身体の中にある何か、それまで頭から足の先まで駆け(めぐ)っていた何かの力が、急速に身体の後ろ、それとも中かな?……に退(しりぞ)いて行ったという感じで、とにかくよく分からないけれど、かわりに別の何かが、それに取って代わった。

同時に肌を覆っていた障壁も消失してしまったので、(あわ)ててもう一度、体中の力をかき集めようとしたが、出来なかった。さっきは出来たはずのそれが、上手く動かせなくなっていたのだ。
それに加えて、身体の中に満ちていた力も、不安になるくらいに弱々しいものになってしまっていた。これでは障壁を作るどころか、(おそ)いかかってこようとしているモノに触れただけで、散らされてしまう。そう思ったら怖くなった。

力が働かなくなったのは、何かが入れ代わったせいだとは分かったものの、どうすれば戻せるのか、そもそも、どうして代わってしまったのか分からなくて、無性に心細くなって泣き出してしまった。
「どうしたの、私の赤ちゃん。……よしよし、かわいい子。」
優しく(なぐさ)める母の声がして、背中を軽く叩きながら身体を揺すってくれた。
しばらくそうされていたら、落ち着いて来た。落ち着いたら、泣いていたことが急に恥ずかしくなった。なにしろ警戒信号はとっくに消えていたし、聞こえているのは穏やかな母の声だけだった。抱きしめられて一定の調子で背中に触れる手は、心地よい振動を身体に伝えていて、泣く理由なんて一つもなかった。

気がつけば、荒々しく(むしば)むように侵入しようとしていたモノも、全て消え去っていた。
(どうなってしまったのだろう。体の中の何かが入れ代わった時に、世界も変わってしまったのだろうか……?)
考えても分からなかった。分からなかったけれど、視覚も聴覚も触覚も、世界が普段と変わらないと告げていた。鼻と(のど)が少しひりひりするのは、大声で泣いていたせいだ。

だから恐る恐る、目を開けてみた。
最初に差し込んできたのは暗い朱色の光だった。まばたきするとぼんやり(にじ)んで、それからまた光がはっきりと見えた。目を動かす度に、様々な光が飛び込んで来るのが面白くなって、ぐるりと辺りを見回した。
「まぁ、目を開けた。」
母の弾む声が聞こえたので、声の方を見た。様々な色の混ざり合う不定形な世界の中で、黒い瞳がじっとこちらを見つめているのだけは、しっかりと見分けられた。

「じゃあ、私は知らせて来るわね。やきもきして待っているはずだから。」
近くにいた誰かがそう言って出て行き、残ったもう一人が近づいて来たので、母はそちらへと目を向けた。
母よりも小さいその誰かに(のぞ)き込まれて、母にぎゅっとしがみついた。
その誰かは、最初に体を(つか)まえて叩いたり振り回したりと、嫌なことをされた存在だと気がついたからだった。
「元気な泣き声じゃから大丈夫、大丈夫。」
けれど、(しわが)れた声でそう言って、そっと頬をさすってくれたその誰かの手は、母の手と同じくらいに優しく温かかった。

「あの、でも……。」
不安気な母の声を(さえぎ)るように嗄れ声が答えた。
「初産じゃからな。ままあることさ。小さいがすぐに大きくなるよ、心配しなさんな。気楽にしておいで、その方が乳の出も良くなる。……そうさなぁ、目は父親似だねぇ。丈夫に育つさ。」
それを聞いて母は声を出して笑った。それから、小さな声で歌を歌って聞かせてくれた。母の腕のなかで揺られている内に、気持ち良くなって眠りに落ちた。
(うん、平気。ここに危険なものは何もない。体の感覚器は全て平常。なによりも母さんが笑っているのだもの。安心、安全、安穏、安堵(あんど)……、安息、安臥……。)



§

どのくらい眠っていたのだろうか、ちくちくと注意を(うなが)す感覚に目を覚ました。目を開けても辺りは暗くて何も見えなかったが、すぐ側に母が眠っていることを、もう一つの視覚が教えてくれた。
(じゃあ、誰が……?)
誰が、と考えて、目を覚ました理由に思い当たった。
(誰かに呼ばれたのだ。今も呼んでいる。)
行かなくては、と体の奥底から応える声がした。注意を促していたのは、こちらの感覚だった。
けれど、今現在、体に満ちている力の方は、得体の知れない呼び声に(おび)えていた。
(行ってはだめだ。ここは安全なのだから。)
二つの力が支配権を握ろうと体の中で争って揺れた。

(行こう。……(とど)まるべきだ。……行かなくては。……だめだ!)
引っ張り合う二つの力の間で、揺れの幅はだんだんと広がって行き、体の内側が外側に、外側が内側に引き出され()かれるような苦しさに、声を出して助けを呼んだ。
(おかあさん!)
母に抱かれると内側の声は消え去り、それと同時に呼ぶ声も聞こえなくなった。しばらく母の温かい腕の中であやされて、もう一度眠りに落ちた。
しかし、いくらも経たないうちに呼び声に起こされ、同じことが繰り返された。その度に母を呼び、母の腕に抱かれて安全を確認して、また眠った。

朝が来て、昼が過ぎて、夜になってもそれは続いた。
呼び声が聞こえる度に、行かなくては、と内側の声が誘い、もう一方で、ここが安全だと留める声もした。はじめは圧倒的に留める声が優勢だった。だが、争いが繰り返されるごとに、誘う声が強さを増して来るのが感じられた。
そのうちに、母に抱かれていても呼び声が聞こえるようになった。どうやらそれは、誘う声が強くなって来たことと関係がありそうだった。
それでも、母の腕の中にいる間は安心していられた。体の内側で応える声がしなかったからだ。

次の日、昼の間ずっと母の腕に抱かれていた。夜には仕事から帰った父が代わってあやしてくれた。
実のところ、父のことは少し怖かった。なにしろ父とじっくり顔を合わせたのは、その夜が初めてだったのだ。
夜番に当たっていた父が、家に帰って来たのは、昼を過ぎて後刻(ごこく)に入ってからだった。母の腕に抱かれて出迎えた父は、鋭い刃先のようなひんやりとした波動の持ち主だった。

父が帰って来た途端(とたん)に、家の中の波動が変わったのが、はっきりと感じられた。ほんの少し(たる)んでいたものが、父に一(べつ)されて、ぴんと背筋を伸ばして起立したと言うのか、小さな隙間もぴったりと閉ざされて、えっと、何て言うか、そう、きりりと引き()まった、そんな感じがした。
たから、夜になって母の腕から父の手に渡された時は、緊張のあまり体が固まってしまった。お行儀良くしていなくちゃ、と思ったら動けなくなったのだ。父に抱かれてしばらくの間は、息を詰めて父の様子を(うかが)っていた。そのおかげで、呼ぶ声のことを、すっかり忘れてしまっていたくらいだ。

正直に言って、父の腕の中はあまり居心地が良くなかった。見つめられて緊張するというのもあったけれど、それよりも体の落ち着く場所がなくて、ふわふわぐらぐらするのが気持ち悪かった。手足で均衡をとって、落ちないようにしていたけれど、ばたばた暴れているみたいで格好悪かったし、それに、その行儀の悪さを、いつ父に(とが)められるかと気が気でなくて、眠るどころじゃなかった。

でも、だんだんと疲れてきて、どうしても目を開けていられなくなった。何度目かに落ちそうになったところで、恐る恐る、下ろして欲しいと訴えてみたのだけど、なかなか父に伝わらなくて、最後には、やけになって大声で訴えた。だから、ようやく父が抱くのを(あきら)めて、(かご)の中に下ろしてくれた時には、本当にほっとした。

けれど、父の手から離れるとすぐに、体の内側で争う声が聞こえた。
ついさっき下ろして(もら)ったばかりなのに、また抱いてとお願いするのは何だか怖くて、内側の声に向かって、静かにして、と念じてみたが、精一杯に意識を集中させても、それは一向に収まらなかった。
結局、二つの声の争いが激しさを増し、体がばらばらに弾けそうになるまで我慢した。けれど、とうとう苦しくなって、長椅子に座ったまま(かたわ)らで眠っていた父に助けを求めた。

(助けて、父さん!)
抱かれているのが嫌で、さっき散々ごてた後だっただけに、聞いてくれるかどうか不安もあったけれど、父は声を聞くなり、飛びつくようにして抱き上げてくれた。そうすると、体の内側で争っていた声は、ぴたりと静まった。
抱き上げた後、父は不審そうに部屋の中を見渡していたが、やがて小さく首を振って長椅子に座り直すと、今度は両腕でしっかりと抱えてくれた。
苦しさから解放されてほっとしたら、急激に眠気が(おそ)って来た。父の腕の中は強くて静かな波動で満たされていて、いつの間にか眠りに落ちていた。



翌日もその次の日も同じように、昼間は母に、夜は父に抱かれて過ごした。
相変わらず、呼ぶ声と体の内側で争う二つの声に悩まされていた。嫌なことに、呼ぶ声は日毎に近くなっていて、今日はもう、家のすぐ外まで来ていた。
いったいどんな奴が呼んでいるのか、どうしてこんなに苦しめるのか、それを知りたくて声のする方を探してみるのだが、まだ一度もその姿を見ることができなかった。
(絶対に見つけて、とっちめてやる。)
そう心の中で決めていた。
(だって、そいつのせいで父も母も、ろくに眠れていないのだ。申し訳なくて、文句のひとつも言ってやらないと収まらない。)

でも、楽しいこともあった。
夜、眠れずにいると、父が色々な話を聞かせてくれるのだ。街の様子とか、王宮の中のこととか、知らない事をたくさん教えてくれた。母の歌も大好きなのだけど、ほんの少しだけ、父の話を聞く方が好きだった。
父は軍人という仕事をしていて、王宮に住んでいる王様にお仕えしているのだそうだ。王宮はとても大きくて、円形の屋根は翡翠(ひすい)色の(かわら)()かれていて、すごく沢山の人達が働いているって教えてくれた。
もう少し大きくなったら外に、街や王宮にも、連れて行ってくれるって言うから、楽しみに待っていることにした。
それから、父の故郷にある湖の話もしてくれた。対岸が見えない程の大きな湖に、今頃の季節には、北からの渡り鳥が集まって、冬越しをしているのだと言っていた。
そんな話を聞きながら、夜を過ごした。

翌朝、いつものように父から母に手渡されて、母の歌ってくれる子守唄を聞きながら窓の外を眺めていた。空から白いものがひらひらと降って来て、窓の玻璃(はり)()らしていた。よく見るとそれは、庭の木々にも降り注いで、枝の先端を白く染めていた。
「あぁ、珍しく雪になったのね。」
同じように窓の外を見ていた母が呟いた。それを聞いて、出掛ける支度を済ませた父が傍にやって来て、綿を入れた服を着せてくれた。そして、行ってくるよ、と頬を()でて、それから仕事へ出かけて行った。

父が出て行くのを待ち構えていたように、呼び声が聞こえた。その声が、予想以上に近くから聞こえたので驚いた。思わず大声を上げそうになって、辛うじてそれを()み込んだ。不思議そうにこちらを見つめる母を、何とかごまかして、目線だけで声のする方を探した。
呼ぶ声は確かに家の中から聞こえた。けれど、見回してみても、どこに隠れているのか、全くその姿を見ることはできなかった。
呼ぶ声に呼応して体の内側で誘う声は、もはや留める声と半々になっていた。加えて、誘う声はとても魅力的だった。誘う声が応える度に、何故かうきうきとした気分になった。

内側の声は一日中聞こえた。母の腕の中にいても、もう、応える声を抑えておく事はできなかった。
(行きたい。けど、行っちゃいけない。)
そう強く心に念じて、呼ぶ声と誘う声を無視することにした。
けれど、聞かないでおこうと思っても、どうしても意識は声の方を向いてしまい、いつもは心地よく響く母の歌声も、その日はほとんど耳に入ってこなかった。

日が暮れて蒼の半刻の三点鐘が鳴る頃、いつもより遅く父が帰って来た。
父が戻ると、家の中の波動が引き締まって、少しだけ呼ぶ声が遠退いた。けれど呼ぶ声は家の中から閉め出されても、しつこく外壁や窓に張り付いて、どこかに入り込める隙間はないかと探している、そんな感じがした。それでも、隙間なく見張りが立っているという事で安心出来た。これなら、出て行こうにも出られないからだ。

深夜、一刻間だけ仮眠を取っていた父が起きて来て、母と代わった。
夜、父と過ごすのはいつも決まって居室だった。居室に入ると、すぐに父は火鉢に火をおこした。奥の温かい寝室から来たので、居室は余計に冷たく感じられた。父は長椅子に腰を下ろすと、温かい毛織りの外套(がいとう)の内側に抱き込んでくれた。

依然として声は呼び続けていた。どうやら声は、玄関側の窓の外から聞こえて来るようだった。目を凝らして窓越しに声のする方を見ても、星明かりに庭の木の影が見えるばかりで、やはりそこには何もなかった。それに、窓の玻璃(はり)も揺れていなかった。
(声は聞こえるのに、玻璃(はり)が揺れないのは変だ。)
そう気が付いて、窓の外に耳を(そばだ)てて、風の声や葉擦れの音、犬や猫、近所の家畜の鳴き声を確認した。聞こえて来る全ての音は、空気を揺らし玻璃(はり)を揺らして伝わって来るのに、呼ぶ声だけは玻璃(はり)を揺らさないし、周囲の空気も揺れてはいなかった。

(どうやったら、そんな事ができるのだろう?)
不思議でしかたなかったが、意識を凝らして、呼ぶ声の聞こえて来ると思われる場所を探ってみても、そこには何の波動も感じられなかった。そこに何か存在があるのなら、必ず波動を発しているはずだ。だから、波動がないということは、そこには何も存在しない、と言うことになる。
(なのに声がする。どうして?)
考えてみても、答えは見つからなかった。声がする度に、窓の外を確かめてみたものの、(わず)かの波動もそこに感じることは出来なかった。

「……う、これを見てごらん。」
目の前で白いものが揺れて、ようやく父に名を呼ばれていることに気が付いた。
(しまった。声に気を取られていて、父さんの話を全く聞いてなかった。)
見上げた父は、険しい表情をしてこちらを見ていた。
「ほら、これが見えるかい?」
顔の前に差し出された父の手には、革紐に(くく)り付けられた小さな白い石が握られていた。

それは変わった石だった。変わった、と言ったのは、父が手にしているその石からは、複雑に干渉し合う何十もの波動が感じられたからだ。家の壁に使われている石は、どれも冷たくて静かで、高さが低くて幅の広い数種類の波動しか持っていなかったから、石とはそういうものだと思っていたのだ。

もっと良く見たくて、白い石に手を伸ばした。石はまるで小さな火鉢みたいに、触れた指の先から全身に温かさを伝えてくれた。
(父さんの波動だ……。)
白い石から感じられる波動の中核を成していたのは、鋭くて(つよ)くて冷たくて静かで、それでいて内に(はげ)しいものを含んでいる、大好きな父の波動だった。それから、もう一つ、石の波動ではない、父の波動とよく似ているけれども、(わず)かに違う波動が含まれていた。
(誰だろう? 知らない波動だけど……、父さんと比べると、ほんの少しだけ(あつ)くて(やわ)らかだ。)

「これが気に入ったのか?」
じっと石を見つめていたら、父が笑いながらそう声をかけて来た。
勿論(もちろん)だよ、と即座に答えると、父はまた笑った。
「これは大切なお守りだ。」
そう言って父は頬を軽く()でてくれた。そして、その白い石は、幼い頃に父の父、つまり祖父から父に渡されたもので、今までずっと父を守ってくれたのだ、と話してくれた。
「お前にあげるよ。この玉石が今度はお前を守ってくれるように……。」

父は手に持っていた白い石を、服の紐に結びつけてくれた。そうすると、石が触れているところから全身に、温かい波動が広がって来て、まるで二人の父に抱かれているような気さえした。ぽかぽかと温かく気持ち良くて、呼ぶ声のことなど気にならなくなっていた。
(このまま、もう少し、夢……見て、眠るの……。)

『暁蕣華の咲く処』(ある子竜の物語)第1章〈1〉 ~フラットアース物語②

『暁蕣華の咲く処』(ある子竜の物語)第1章〈1〉 ~フラットアース物語②

太古の昔、ホーシア大陸には人と竜が築いた国があったと言う。けれど今や、竜はおとぎ話の住人で、誰もその姿を見たことはない。 竜が守護するというイスタムール国で生まれた、ある子供の物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-08

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