妖怪茸
茸不思議小説です。縦書きでお読みください。
大学のクラスメートと同人誌を発行して五年になる。「紅い草」という幻想小説誌で、同人は十八人、幹事は三人で、私が主幹である。幹事の三人は医学部の頃から、クラス誌を作ったりしていた仲間で、精神科医になった建石修、産婦人科になった斉藤町、私、上野球である。三ヶ月に一度は三人で集まって、雑誌出版の予定を立てる。その日も編集会議の予定だったが、土曜日にも関わらず、緊急なオペが入り、斉藤が来れなくなった。
そういうことで、建石と二人で食事をすることになり、新宿のホテルフィアットの四十一階にあるグリルに行き、ステーキを頼んだ。
「紅い草の相談は今度にしよう、上野のほうはどうだい」
私は内科医で、最近、高尾の私立病院に移ったばかりである。それまでは卒業した御茶ノ水の大学病院に勤務していた。今日来れなかった齋藤はその大学病院の講師である。
「今の時期、アレルギー患者が多いのは大学病院と同じだよ、重篤な病気の患者さんは、都内の病院に送るので、気楽なことは気楽だよ」
秋になると、春とは違った花粉のアレルギー症状が出る人が多い。寒くなるこの時期は自律神経に変調を来たす人も多いので、アレルギーとかぶる。
「なぜ移ったんだ、噂だと、新しい教授との折り合いじゃないかと言うことだが」
最近、教授選があり、もともと準教授だった先輩を推していたのだが、教授が他大学から来ることになったことから、潮時だと思い移ったのである。
「教授は来たばかりで、あまりよく知らないよ、だから折り合い云々ではないのだけど、自分の専門は自己免疫疾患なので、今度の教授の方向とは違うからね」
「そうなのか、斉藤が言ってたが、患者の評判は悪くないようだよ」
「うん、知っている、今度の病院は内科専門で、しかも大きい、それに内科もいろいろな部署に別れていて、むしろ専門が磨けるからね」
「確かにそうかもしれない」
精神科医の建石修は古くからある精神病院の院長である。初代の彼の祖父に当たる人が帝大をでて、精神病院のあり方に一石を投じた人で、人望の厚い医者であった。その当時としては珍しい開放型精神病院で、個人にあった芸術を使った療法をおこなっていた。
建石医院は神奈川の厚木の鳶尾山脇にあった。昔は何もないところであったが、今は団地が作られ、バスも頻繁に通る。医院と名乗っているが、昔から五十床近いベッド数があり、病院と名付けてかまわないのだが、名前を変えることをしていない。規則上、二十床以上あれば病院とつけられる。
そんな話の後に彼は自分の患者について話し始めた。
「不思議な患者がいてね、春と秋になると、胸騒ぎがはじまり、手足がむずむずして勝手にからだが動き出してしまうんだ。どこに行くという当てが無いのだが、いつの間にか山登りの支度をして、玄関を出て駅に行ってしまう」
「男なのかい」
「ああ、一人暮らしの男性だ。六十半ばなのだが、認知症の疑いで他の病院で検査をした、だが全くその気は無く、むしろ頭の働きはシャープで、我々より物事の判断は正しいかもしれないくらいなんだ、都内の私立大学の文学部教授をしてたけど、その症状が生じるようになったので早期退職をしたそうだ」
「胸騒ぎがするというのは、精神的なもののようだけど、手足がむずむずして無意識に動いてしまうというのは神経内科あたりじゃないのかな」
「もちろん、そちらにもかかったのだが、全く問題はないよ、脳の中はきれいなものだったし、精神科でも問題は見つからなかった」
「他の身体の異常はないのかい」
「うん、IGEはとても高いけどね」
IGEというのは血液の中の免疫グロブリンEというタンパクの略で、血液の中にはいってきたものにくっつく抗体の一種である。IGEの値が高いということは強いアレルギーの状態であるということになる。
「アレルギーを持っていれば、今の時期は当たり前かもしれないね」
「それもよく調べたらしいけれども、杉や桧やブタクサなどの花粉も、食べ物も、アレルギー反応は全くなかった」
「するとやっぱり、精神科領域ということなのかな」
「ただね、春と冬というのは、やっぱり、アレルギーが関係しそうなのだが、君の領域だよね、どうなんだろう」
「普通の人とは違うものに対するアレルギーなのかもしれないね、胸騒ぎは軽い動悸が生じて感じたのかもしれないとすると、自律神経の調子だから、季節の変わり目へのからだの順応が悪いのだろろうけど、動き出すことにアレルギー反応がどのように関与するかわからないね」
「どうだろう、一度、うちに来て、その患者に会ってみてくれないかな」
という話になり、一月後の日曜日の十一時頃に、建石の病院に行くことにした。大学時代の友人達は行ったことがあるのだが、私はいつも都合が悪く、初めてである。
小田急線本厚木の駅から、バスで二十分ほどの山の麓に彼の病院はあった。バス停から、十分ほど歩かなければならないが、広い庭園をもつ明るい病院である。明治に建てられた、石造りで落ち着いた建物が周りと調和して、日本にいるというより、ヨーロッパにいるような錯覚さえ覚える。庭も明るい花が植えられ、イギリス庭園風である。開放されている門から、数分歩くと病院の入口になる。玄関の前はロータリーになっており、駐車場が作られている。
緑色に塗られた、木のがっしりした入口の扉は、自動ドアーに改造されているが、その前に立っても開かない。そこで日曜日であることを思い出した。休診日の札の脇にインターホンがあるのに気がついた。
インターホンをおすと、すぐに「上野先生ですね、すぐ開けます」と声が聞こえた。きっと、自分の映像が、受付に映っているのだろう。すぐにドアが開き、建石が迎えに出ていた。
「やあ、遠いところによく来てくれた」
「いや、遠くは無いさ、八王子から横浜線経由で一時間半だ、大したことは無い、いいところだね」
「環境はいいよ、診察室のほうに来てくれよ、その患者さんは、検査のため一月ほど入院をしてもらっているんだ。観察中だし、本人の希望もあったしね、一応の生理機能の検査もしたんだけどね、この間言った通り問題ないんだ」
薄緑色に塗られた病院の中は、窓が多くて室内が明るい。診察室は庭に面した書斎といったほうがよいほどの、洒落たしつらえになっていった。患者さんとはソファーに向かい合って座る形になっている。
彼は室内で待機していた看護師さんに、患者を呼ぶように言った。
「座ってくれたまえ、患者の名前は市毛一毛(いちもう)といって、フランス文学の先生、翻訳ではかなり知られている人だ、ここに入ってはいるが、この間も話したけど、精神疾患ではないかもしれないよ、本当にわからない病気だ」
「動き出す時は、全く無意識なのかい」
「本人が言うには、途中で気が付くが、止めることができないそうだ。無意識のうちに支度をしているという、まあトランス状態ということかな」
トランス状態とは精神状態が通常でなく、無意識の行動が出るような病態である。
「入院してからはその症状が出ないのかい」
「いや、それが、入院してからのほうがひどい、三日に一度ほど、庭に出て彷徨っている。庭からは外に出られないからいいが、家にいたら、確かにどこかに行ってしまうだろうね」
彼の様子が記された日誌をわたされた。徘徊の様子が詳しく書かれている。天気の良い日に症状があらわれ、雨の日は起こらないらしい。その記録には温度湿度、気圧、風量風向すべて書かれている。
「そうなんだ、天気の良い日で、ちょっと風が強いような時に症状が起きている」
「結構朝早くに起きているね」
「そうだな、家に居る時もそうだったらしい、朝早く気がつかないうちに駅にいたそうだ、だが、ここに来てからは、朝ばかりじゃなくて、昼に突然起きたり、夕方だったりもするんだ」
患者の老人が入ってきた。
「市毛さん、どうぞそこへ、この人は私の同級生で、高尾の病院で内科医をしている上野先生、かまわなければ、市毛さんの症状を話してくれますか、私がしたのと同じ質問でもお答えいただけると助かります」
市毛一毛氏は背の高いひょろんとした紳士だった。白髪、細面で丸い眼鏡をかけているところは、高村光太郎のイメージである。
「市毛です、よろしくお願いします」
彼は建石の言ったことに頷いて、低音でよく通る声で挨拶をした。きっと講義は聴きやすかったに違いない。前のソファーにゆっくりと腰をかけた。
「最初にそうなった時、何かいつもと違ったことがありましたか」
「建石先生にもお話しましたが、いつものように朝四時に目が覚めて、朝風呂に入り、トーストに林檎ジャムをつけて食べ、紅茶を飲んで、グレープフルーツを食べた後に、胸騒ぎが始まりました。
「胸騒ぎと言うのは、何に対して感じたのでしょうか」
「何にと言うのはどういうことでしょうか」
「胸騒ぎは、自分の身や知り合いに何かが起こることが心配だったりするとき起きますね、地震がおきそうだとか、何が起こると思われたのですか」
建石が笑っている。きっと自分の精神科領域の質問だと思ったに違いない。
「それが、判らないのです、胸がむずむずと、と言うより、頭がむずむずとして、心もとないのです」
「仕事が残っているとか、そういった心配事も無かったのですね」
「私の特技は、頼まれた仕事などを速く片付けることで、帰るまでにしなければいけないことはすべて済ませて、何日かかかるものも、その日の分を決めて必ず片付けるので、何もありませんね」
羨ましい性格である。自分などなかなか仕事にけりをつけられなくて、尾を引かせてしまい、疲れてしまう。
「その後、意識が無くなって、駅にいたわけですか」
「はい」
「その前の晩はいつもと違いましたか」
「違うといえば、学生と一緒に飲みに行ったくらいです、たまに行きます」
「なにを飲まれましたか」
「その時はビールでした。面白い店で、茸料理屋でした」
「食べ物の好き嫌いや、食べると調子の悪くなるようなものは無いのですね」
「ありませんね、何でも食べます。茸は好きの部類です」
市毛氏はすこぶる精神的に健康な男性である。
「建石先生にもお話になったことだと思いますが、どのような趣味をお持ちですか」
「そうですね、本を読むことと、映画を見ること、美味しいものを食べることぐらいですかね」
「山登りの趣味はお持ちではなかったのですか」
「ありません、もちろん、高尾山程度のところには行きますけど」
そのとき、「あ、はじまりました」と言って、市毛氏が胸を押さえて、首を下げた。
私は建石を見た。
「様子を見ててくれよ、何度も見ているが、同じことをくり返しているよ」
市毛氏は五分ほど胸を押さえていると、やおら立ち上がって、院長室を出ていく。彼の顔を見る。目の焦点がはっきりしていないようで動きがない、視野が狭くなっていることであろう。その様子では、おそらく、心臓の動きのほうが先に変化を起こし、その後、気分的なものの変化が現れ、その上に、無意識の行動が生じるという段階を経たものではないだろうか。
「行かせていいのかい」
「うん、ついていってみてくれ」
我々も彼の後を追った。彼は無意識のようだが、手足の動きはどこといっておかしいところはない。あせっている様子も見られないし、いつもよりのろのろしていることも無いようだ。彼は庭に出る戸を開けると、置いてあるサンダルを履いて、病院の庭を歩き始めた。内庭といってもかなり広く、きれいに刈られた芝生の中に道があり、小さな花畑が所々にある。その前にベンチが置かれていて、散歩の患者さんが休むのだろう。周りには木が植えられていて、木陰が出来ている。彼は道に沿って歩き、木の下で立ち止まると、下を見回す。また歩いて木の下に行き、同じ動作をくり返した。三十分もそうやって、ほとんどの庭の木を回ると、建物に戻ってきた。
私は木の下のなにを見ているのか興味を持ったが、よく判らなかった。こうして戻ってきた市毛氏は自分の部屋に入り、ベッドに横たわると眠りに入った。
「これから、二時間ほど寝ると、いつもの生活に戻るんだよ」
「不思議だなあ、自己催眠のようにも見えるけど、まあトランス状態の典型かな」
「自己催眠ではないだろうが、ただトランス状態といっても、何か目的のあるような動きなんだ」
「血液をもらって、調べてみようか」
「うん、そのうち、こちらで採って、君のところに送るから、たのむよ」
「そう、三時間おきぐらいに採れるかな、それとその日の彼の活動記録」
「ああ、そうしよう、頼むよ」
その日は、彼の案内で本厚木駅ビルの寿司屋で食事をして帰った。
ほどなく、患者の血液と記録が送られてきた。
しかし、大学の後輩に頼んでおいた血液検査の結果がでたのは、血液がとどいてから、一月近く経っていた。血液中の免疫成分の検査は一日あれば十分すぎるほどであるが、この患者の血液はやはり特殊であった。調べた限りではアレルギーになりやすい食物の抗体は全く問題無く、その上、一般になりやすい、埃、カビ、杉、ヒノキ、ブタクサなどの抗体も少ない、さらに詳しく、調べられる限りの種類の植物の花粉などを検査したが、アレルギーは無かった。無かったから良いのではなく、無さ過ぎるところに奇妙さがある。しかし何に対するものか分からない抗体が多量にあり、それが、IGEを高くしている理由であった。そこを調べるのに二十日もかかったのである。まさかと思った椎茸の胞子に対する抗体を調べたところ、かすかな反応がでた。と言うことは椎茸の胞子そのものではなく、何らかの茸の胞子に対するアレルギーがあるのではないかと言う結論に至ったところである。
一日の変化を見てみると、この茸の抗体はいつも高い状態に保たれているが、特に、胸騒ぎが生じる少し前にさらにちょっとした高まりが見られている。そういうこともあり、その胞子に対する反応が、胸騒ぎの原因になる可能性は否定できない。免疫過剰反応が自律神経系の調子を狂わすことで生じる可能性は考えられる。しかし、動き回りたくなることに対する説明はできない。
そのようなことを建石に電話した。
「そんな反応が出ているとは面白いが、何の茸なのだろうね」
「茸のことはよく知らないが、何千と言う種類の茸が日本にはあるのじゃないかな、それをすべて調べるのは、まあ不可能だな」
「そりゃそうだな、その抗体がふえると、胸騒ぎがおきるのだな」
「もし茸の胞子が原因なら、そういうことになるな、その胞子が飛んでくると、胸騒ぎがおきるのかもしれない」
「そういえば風の強い日のほうがおきやすいね、市毛さんまだ当分入院していたいらしいので、免疫反応を低下させる薬を飲ませて様子を見てみるよ」
「そうだな、ちょっとでも効くようなら、茸の胞子が原因である可能性が高まるね」
そんな会話の数日後に、彼から電話がかかって来た。
「免疫反応を低下させる薬が効いてね、飲み始めた次の日から三日間、胸騒ぎがとまっていたんだが、四日目にまた胸騒ぎが起きて、庭をせかせかと歩いていた。前よりひどいので、その薬を飲んでもらうのは止めたよ」
「そうだなあ、より抗体が強く作られてしまったのかもしれないね」
「それでね、庭を本当にあわてるように歩き回っているのを見ているとね、木の根元で何かを探しているようなんだ」
「前に見たときもそんな感じだった。木の根元とはなんだろう、茸でも生えているのかな」
「いや、僕もそんな想像をしてしまったよ」
「あの患者さん、外を自由に歩けたら、どこに行くのだろう、家に居る時には電車に乗ろうとしていたんだろ」
「そうだな、一度、自由にさせてみるか、それで後をついていってみるんだ」
「なんなら、僕も行ってもいいよ」
「うん、計画が出来たら、土曜日からうちに来てもらって、日曜日にそうすれば、君も一緒に行ってもらえるね」
その患者さんには、私もかなり興味をいだくようになっていた。免疫と行動がどのようにつながるのか、科学的に知りたいところである。
しばらくの後、彼も時間がとれるということで、誘いの電話がきた。
幸いにも天気が良く、気持ちの良い日が続いている。
前の晩、奥さんの手料理をごちそうになり、次の日の朝、五時に院長室に行った。まだ日が昇らず薄暗い。
「眠れたかね」
彼の自宅に泊まるようにいわれたのだが、あえて当直室の一つを借りて、そこに泊まった。そのほうが医者としての自覚をうながし、目覚めがいい。
「眠れたよ、ずい分上等な当直室だ、大学病院とはずいぶん違うね」
「そうかな、でも高尾の病院も新しいし、待遇はいいだろう」
「うん、あそこもいいが、ここはやはり古くからの建物で、部屋が落ち着くね、当直室といっても、昔からのホテルの一室みたいじゃないか、立派な木のベッドで」
「そうかもしれないね、古いものだからね」
「市毛さんに動きがあったら、起してくれって看護師さんに言っておいたのだけど、何もなかったみたいだ」
「うん、昨夜は市毛さんよく寝ていたそうだよ、でも良く寝た次の日は必ずと言っていいほど、朝ごはんを食べてちょっと経つと、胸騒ぎを起している感じだな」
建石の言葉通りに、朝食を食べて少し経つと、看護師が迎えにきた。
彼の病室を入り口の窓からのぞくと、用意されていた外出の服に着替えているところだった。
「あとは、出てきたら、付いていこう、庭に出る戸は鍵をかけてある、外に出る裏口は開けてあるので、きっとそこから出て行くと思う、たまに看護師と一緒にそこから車に乗って買い物に出かけるからね」
市毛氏は身なりをきちんと整え、帽子をかぶって、廊下に出てきた。我々がいるにもかかわらず、目に入らないようで、いつもと変わらぬ歩き振りで、廊下から裏口にいった。
「これならば、おおっぴらに、くっついていっても、気が付かないよ」
「気楽な、尾行だね」
彼も笑顔で頷いた。
「ちょっとした散歩だな」子供のころの探偵ごっこだ。
市毛氏はバス停まで歩いた。かなり待ったが、本厚木駅行きのバスが来て、彼は乗り込んだ。建石は病院の車をだしてくれて、我々は駅まで先にいって待っていた。
本厚木駅に着くと市毛氏は切符を買って、中に入った。我々も後をついていくと、ホームにいた小田原行きの各駅停車に乗った。パスモのお陰で、このような尾行も難なく行なえる。
市毛氏は伊勢原駅で降り、大山ケーブルカー駅行きのバスに乗った。大山には麓から途中までケーブルカーがある。もちろん歩いていけるが、途中から石の階段でかなり大変である。
建石は「帰りに、豆腐を食って帰ろう」と、どうも治療から気持ちが離れている。伊勢原の豆腐料理はよく知られている。
市毛氏は傍から見ていると、他の観光客となんら変わらるところがない。バスが着くと、ケーブルカーのチケットを買った。我々も買って、彼より数人後の列に並んだ。一緒の車両にならないよう、間をおいたのである。
我々がケーブルカーを降りると、前の車両に載っていた市毛氏は、頂上に向かう石段を登り始めている。客に混じって我々も、同じ方向に向かった。
少し行くと右に曲がる道があり、彼はそちらのほうに行った。頂上に行く気はなさそうである。
ヤビツ峠の矢印がある。彼は周りを見ながら、いつものペースで歩いていく。二十分ほど歩いたところで、道添いの斜面から湧水が出ていた。竹筒が突き刺さっており、水がちょろちょろと出ている。市毛氏はその水を手で受けると旨そうに飲んだ。まるで来たことがあるような動作である。
ハンカチをズボンのポケットから取り出して、手と口を拭くと、そこからいきなり、直立姿勢になり、早足で歩き出した。不思議な行動である。我々も急いだ。
すぐに斜面の杉林に通じる小路に入ると、どんどんと林の中を歩き始めた。斜面を登るかたちになるが、ずい分早い。我々も百メートルほど後をついて上っていった。息が切れるほどである。
「おかしいね」
「うん、何かに引っ張られるようにして歩いている、明らかに自分の意思ではないね」
我々も追いついていくのに精一杯であった。
道は途中から、獣道になり、やがて明るい草地に出た。そこだけ木が生えておらず、仰ぎ見ると、木々の先端に囲まれて青空が丸く切り取られている。
彼はその真ん中にたたずむと、なにやら探すようにきょろきょろと草の中を覗いている。
「気が付かないと思うから、もっと近づいてみよう」
建石はそう言うと、市毛氏の様子がよく見えるところまで進んだ。
「あ、あれは、なんだ」
市毛氏の脇に紅い布のようなものが見える。
「女性のようだ」
草の中に紅いスカートをはいた女性が横たわっている。
私の足が何か硬いものを踏んだ。見ると、人の足の骨である。
「建石、見ろよ」
よく見ると、草の中に点々と人の骨がある。
市毛氏が、草地にかがんで、何かを取ろうとした。
「市毛さんをつかまえろ」
私は叫んだ。彼も急いで市毛氏のところにかけより肩をつかんだ。市毛氏が手に持っていたものを下に払い落とした。口に入れようとしていたところであった。
市毛氏は我々のほうを向いたが、我々が見えていないようである。落としたものを拾おうと、建石の手を振りほどこうとしたが、建石は彼をひきずって、その場から離した。
私は彼の手から落ちたものを拾った。
黄色い茸であった。これがアレルギーの原因だろう。
紅いスカートの女性はすでに死んでおり、おそらく一月くらい経っている。顔はもう肉が削げ落ち、頭骨が露わになっていた。その周りにはその黄色い茸がいくつか顔をだしている。周りには何体か判らないが、人骨が埋もれているようである。
私は、黄色い茸をいくつか採ると、ハンカチに包んでポケットに入れた。
「ともかく、市毛さんをこの場からつれだそう、その後で警察に連絡をしよう」
二人で市毛氏の腕を抱えて林から道に出た。市毛氏はまだ自分を取り戻していないが、従順に手をとられて我々に引っ張られ、歩いている。
ケーブルカーの駅まできたが、市毛氏は特に嫌がるわけでもなく、我々と共に麓に下りた。そこでタクシーを呼び、彼を乗せて、とりあえずそのまま建石の病院に戻った。
市毛氏は病室に入れられると、おとなしくベッドに横になった。
私はポケットから茸を出した。
ほんの三センチほどの小さな茸である。
「きっと、かなりの毒をもつ茸だろう、彼は食べようとしていたな、きっと食べたら、あそこにある死体と同じに状態になっていたに違いない」
建石は警察に電話をかけた。大山の林の中のことを伝えた。
「署長は知り合いなんだ、伊勢原署のほうにすぐに連絡するといってくれた、黄色い茸は毒の可能性があるので、気をつけるように言ったよ、科学捜査官も連れて行くようにとも言っておいた」
「だけど、なにがが起きたのだろう、事実は市毛さんが茸の生えているところに吸い寄せられた、ということだが」
「もう一つの事実は、市毛氏はこの茸の胞子にアレルギー反応を起こしたということだと思うよ」
そう言われて、私はひらめいた。
「この茸の胞子にアレルギーのある人間は、自律神経に異常をきたし、その結果、脳の働きが何かに支配されてしまう。いっときトランス状態になるわけだが、胞子の匂などに極度に敏感になり、匂いのするほうに吸い寄せられる」
「その可能性は高いね、だが、どうして茸のところに行かなければならないのかな」
「調べてみなければ分からないが、この茸は人間の死体が必要だったのじゃないだろうか、腐敗した死体の成分で育つのではないだろうか」
「とすると、その茸に抗体ができやすい体質の人間が吸い寄せられ、その茸を食べて死ぬという仕組みがあるということか」
「恐ろしい茸だね、人間の免疫機能を利用した、生活サイクルを形成しているんだ、だけど、茸が特定できたのだから、そのような体質の人もあの茸の胞子に対する抗体形成を弱めることは簡単だ、抗体の抗体を作って、反応を抑えれば問題ない」
「論文にまとめてくれよ」
「そうだな、もし、新種の茸だったら、建石茸とでもするか」
「よしてくれ、そんな妖怪茸に俺の病院の名前がついたら、患者が来なくなる」
彼は笑った。
「そうか、妖怪茸がいいね」
その後、警察の調べで、あそこで死んだ人の数は四十一名で、あの女性は死後一月半、東京在住で、家族から捜索願が出ていたということである。やはりおかしな行動するということで、精神科に通っていた。
我々も警察の聴取を受けた。事件性は無いことがわかり、科学的な解析が行われているが、ほぼ我々が考えていたことと同じ結論になりそうである。新聞はその茸のことを報道し、何人か同じ症状を訴えるものが名乗り出てきたが、茸が特定されたことから治療はたやすかった。もちろん、市毛氏も完治し、今では自宅に戻っている。
新聞は我々が妖怪のような茸だといったことから、妖怪茸と見出しをつけるようになった。きっと茸の名前もそうなるのではないだろうか。菌類学者達が総出で今研究を始めたところである。
建石から電話がかかってきて、こんな会話をした。
「人間がかからなくなったあの茸は死に絶えるのだろうか」
「どうだろうね、菌類は強いから、突然変異を起して、猫や犬が胞子のアレルギーになるように胞子を作り変えるかもしれないね」
「すると、猫や犬が胞子のアレルギーになり、胸騒ぎをして、トランス状態から、茸のところに吸い寄せられ、茸を食べて死ぬのかい」
「犬や猫が胸騒ぎをしたらどんな行動をとるのだろうね」
「漫画だね」
しかし、そういうことが起こる可能性があり、笑い話ではないのかもしれない。
「どうだろう、君が今回の騒動を赤い草に書いてくれないかな」
彼がそう言ったが、建石のほうが適任だろうと言うと、
「いや、どちらかと言うと、上野のほうが客観的に書けるよ、小説にしてみてもいいじゃないかな」
と言うので、今、SF的なものだが、妖怪茸と言うタイトルで小説を書いている最中である。
妖怪茸