ハンナの奮闘記

 西の空が茜色から菫色に変わる頃、ハンナの家に兄の遺体が運び込まれました。
 くず折れそうになったハンナを、傍にいた幼馴染のレイスがあわてて支えます。
「ありがとう、……大丈夫よ」
 ハンナは胸を押さえてゆっくりと呼吸を繰り返すと、気丈に立ち上がりました。
「酔っ払って川に落ちたそうだ。たった一人の身内なのに気の毒にな……。だがな、こう言っちゃなんだが、飲んだくれの兄貴が亡くなったんだ。ハンナも少しは肩の荷が下りたんじゃないかね」
 ハンナに痛ましげな目を向けつつ、溜め息交じりに村長が言いました。そしてレイスに目をやると、
「これからもハンナを助けてやってくれ。なにかあったら私も相談に乗るから」
「もちろんです」
 その返事に安心したように頷くと、村長は「じゃあ、よろしくな」と言って帰って行きました。
 村長を見送ると、ハンナはフラフラとベッドの遺体に近付きました。硬く閉じられた目、わずかに開いた口元、血の気のない頬には泥が付いています。ハンナは泥を拭おうとして頬に触れましたが、思いがけない肌の冷たさに思わず手を引きました。
「兄さん、こんなに冷たくなっちゃって。本当に、本当に、死んじゃったのね」
 涙が見る見るうちに盛り上がり、やがて堰を切ったように溢れました。
「兄さん!」ハンナは叫ぶと遺体に抱きつきました。途端にボキッと音がして、続いてベキベキベキと骨が砕ける音がします。
 ハンナがハッとして身を起こすのと同時に、レイスが慌てて駆け寄って来ました。
 遺体はハンナが抱きしめた腕の形に窪んでいます。
「また、やっちゃった……」ハンナは溜め息をついて、「ごめんね、兄さん」と呟きました。
「大丈夫、……もう、痛みは感じないだろうから」
 レイスが慰めるように言いました。

 翌々日、兄の葬儀は村人たちに見守られてしめやかに行われました。この日はレイスも仕事を休んで、ずっと付いていてくれたので、家に戻ったハンナが最初に言ったのは、彼への感謝の言葉でした。
「ありがとう。レイスにはずっと甘えっぱなしね」
「気にするなよ。俺も親を亡くして一人だから、ハンナの気持ちはわかるつもりさ。これからも困ったことがあったら、なんでも言ってくれよ。俺にできることなら協力するからさ」
 レイスは領主の屋敷で庭師として働いています。屋敷には三人の庭師がいて、レイスは一番下っ端でしたが、真面目な仕事ぶりで親方や先輩に気に入られていました。さらに腰が軽く、且つ、口も堅いので、領主の信頼も得ていました。
「畑仕事、ここ二、三日休んじゃったから、明日からまた頑張るわ。大丈夫よ、あたし一人くらいなら食べていけるから」
五年前に両親を亡くして以来、怠け者の兄との生活をハンナは一人で支えてきました。主に畑仕事で生計を立てていましたが、生来飽きっぽい兄は農作業など見向きもしませんでした。そのくせ収穫した野菜を勝手に市場で売りさばき、売り上げは自分の遊興費に充てていたのです。
そんな兄でもたった一人の身内です。まして亡くなったとなれば、これまでのことは水に流そう、という気にもなります。
 ハンナが感傷に浸っていた時、玄関のドアがやや乱暴に叩かれました。ハンナは「弔問客かしら」と言ってドアを開けましたが、立っていたのは見知らぬ男でした。
「お前さんがハンナかい?」
 男は値踏みするようにハンナを見つめます。ハンナが頷くと、紙を取り出して目の前に広げました。
「お前さんの兄貴に金を貸していたんだ。これは借用書だが、兄貴が亡くなった以上、代わりにあんたに払ってもらうよ」
 ハンナは驚いて借用書を見つめました。金額は金貨三十枚、返済期限はひと月後になっていました。

 金貸しを見送ってドアを閉めると、ハンナはその場に立ち尽くしました。両肩はブルブルと震え、全身に怒りが漲っています。
「ハ、ハンナ」
 レイスが声を掛けると、くるりと振り返りましたが、目と眉は完全につり上がっています。
「あ、あンのぉ、バカ兄貴……」
 ハンナはゆっくりとテーブルの所まで歩いてくると、
「う、売り上げを、使い込むだけならまだしも、借金までしていたなんて。しかも……」
 両の拳をぎゅっと握ります。
「このあたしを、借金の形にしていたなんてぇ!」
 怒りに任せて右拳をテーブルに振り下ろしました。途端にベキッと音がして天板が割れます。
「ハンナ、気持ちはわかるけど落ち着いて。また修繕箇所が増えるよ」
 レイスが椅子から立ち上がって、宥めるようにハンナの背中を叩きました。
「だって、だって、悔しい!」
 今度は両拳でテーブルを叩きましたが、加減をしたので天板は割れません。ハンナは気持ちを落ち着けるように深呼吸をすると、ゆっくりと腰を下ろしました。その顔は興奮のあまり紅潮し、目は生き生きと輝いています。レイスは見惚れたようにボウッとしています。ハンナは村一番の器量良しなのです。
「この家のどこにそんなお金があるっていうのよ。いっそ家を売ろうかと思ったら、もう抵当に入っているっていうじゃないの。このままあたしに身売りしろっていうの!?」
 ハンナは両肘をテーブルに付くと頭を抱えました。金貸しの話によると、もともとの借金はもっと小額でしたが、返済が滞り利子が利子を呼んで、これだけの額に膨れ上がったというのです。
「金貨三十枚かぁ。なんとか用立ててやりたいけど、俺の年収の二倍だものな」
 レイスも溜め息をつきました。それから天板の割れ目をしばらく見つめ、思いきったように言いました。
「ねえ、ハンナ。いっそのこと、その力を使ってお金を稼げないかな」
 何の因果で怪力に生まれついたのか、とにかく三歳で四つ上の兄を投げ飛ばしたのを皮切りに、五歳で父を相撲で負かし、七歳の時にはレイスの肋骨にひびを入れました。誕生日にレイスから花を貰い、喜んで抱きついた結果です。
 こうして村一番の怪力に成長したハンナは、これまでにもふとした拍子にテーブルを壊し、ベッドを壊し、床に穴を開け、壁に穴を開けました。だからこの家の家具や壁には、壊れた箇所を修繕した跡が幾つもあります。以前は父親が直しましたが、現在はハンナが直しています。だからハンナの大工の腕はちょっとしたものなのです。
 しかし村人は誰もそのことを知りません。いくら器量が良くてもこの怪力を知られたら、「嫁の貰い手がなくなる」と心配した両親が「人前で力を使ったらいけないよ」と言い残したからです。だから修繕の跡は酔った兄が壊したのだと思われていましたし、知っているのは“被害”にあったレイスだけでした。
「俺もハンナに身売りなんかさせたくないし、第一そうなったら、嫁の貰い手の心配どころじゃないだろう。俺もできる限り協力するからさ。二人で返済方法を考えようよ」
 ハンナはしばらくの間黙っていましたが、やがて吹っ切れたように息を吐きました。それからレイスに目を向けると表情を和らげました。
「そうね。せっかくの怪力だもの。こういう時に役立てなきゃ」
 レイスも笑顔を返しました。緊張が解けたのかグウッとお腹の鳴る音がします。
「よかったら夕飯、食べていかない? たいした物はないけど、これからのことを相談したいの」
 レイスは笑顔のまま大きく頷きました。

 それから二日後、ハンナはレイスから仕事を紹介されました。
 レイスは庭師ですが、仕事は庭園の管理だけではありません。菜園の管理や造園も仕事の内でした。そういった中からハンナにできそうな仕事を、親方に頼んで紹介してもらうことにしたのです。
「今度別邸の庭に噴水を造るんだ。そのための穴を掘る人足を探しているのさ」
 穴掘りの道具なら、日頃から農具を使い慣れているハンナにも扱えるでしょう。また力仕事なのでハンナにはもってこいです。
「ただ給金はいいけど、女性がやるような仕事じゃないんだ。それに周りは荒っぽい男ばかりだから、嫌なら断っても……」
 自分で紹介しながら、くだくだと言うレイスを、
「なーに言ってんの。力仕事なら任せてよ。それにいまさら仕事にケチはつけられないわ。お金になるんなら、なんだってやるわよ」
 ハンナは笑い飛ばしました。

 翌朝ハンナは長い髪を三つ編みにして、チュニックにズボンという男のような格好をして、レイスの家に現れました。
「どう? これなら動きやすいでしょう。せっかく紹介してもらったんだから、レイスに恥をかかさないようにしなくちゃね」
 領主の別邸は村から程近い所にあります。今日はレイスも直接別邸に行くので、案内を兼ねて一緒に行くことにしたのです。
 朝からいい天気で頬に当たる風が爽やかでした。木漏れ日が街路樹を照らし、小鳥のさえずりも聞こえます。二人で歩くのは久しぶりなので、ハンナの気持ちも高ぶっているようです。
 けれどレイスは浮かれた気分にはなれません。ハンナの陽気な振る舞いに、いま一つ乗れませんでした。
「ごめんね。あたし、浮かれすぎかしら。レイスにとっては大事な仕事なのにね」
「いや、別にハンナが気にすることはないんだ。噴水の施工は初めてだから、少し緊張しているだけさ」
口ではそう言ったものの、レイスは少し複雑な気分でした。というのもこれから行く別邸は、苦い仕事場でもあるからです。
 別邸は周りを木々に囲まれた林の中にあります。街の喧騒から離れた静かな佇まいの建物で、レイスは時々領主に命じられて、ここに女性を案内していました。領主は治世者としての評判は悪くないのですが、女好きでも有名なのです。ただ奥方が焼き餅焼きで、領主の浮気に目を光らせているため、本邸に女性を招くことはありません。別邸はそのためにも使われていたのです。

 やがて二人は別邸に着きました。
 レイスが現場の親方や人足たちにハンナを紹介してくれましたが、皆一様に呆れた顔をしました。
「おい、レイス。本気でこんな娘さんに穴掘りをさせようって言うのか?」
 親方が顔を歪めてレイスに訊ねます。
 ハンナがいくら男のような格好をしていても、可憐な少女にしか見えません。
「大丈夫ですよ。こう見えて、けっこう力があるんです。並みの男に引けは取りませんよ」
 レイスが保障しても、親方は疑うような眼差しをハンナに向けました。
「まあ、いいだろう。人手は欲しいからな。せいぜい怪我をしないように気をつけるんだな」
「はい。頑張りますのでよろしくお願いします」
 ハンナは明るく答えました。
 親方から鋤(すき)を受け取ると、ハンナは意気揚々と男たちの中に加わりました。
 男たちは後から来たハンナに、最初は下卑た笑いを浮かべました。
「お嬢ちゃん、なんならおいらが手伝ってやろうか」
「ありがとう。でも結構よ」
 ハンナは澄まして答えると地面を掘り始めました。固い土は簡単には鋤の刃を受け付けてくれません。皆何度も鋤やシャベルで突いて、少しずつ掘っていきます。しかしハンナはまるで耕された畑を掘るように、軽々と土を掘り進めます。そして溜まった土もシャベルで山ほどすくい上げては、後方へ積み上げていきます。ハンナの掘った後には、あっという間に幾つもの土の山ができました。
その様子を見て、男たちは最後には顔色をなくしていました。
「おい、レイス。なんなんだ、あの娘は」
 親方が目を丸くします。
「言った通りでしょう。俺、力比べで彼女に勝ったことがないんです」
 レイスが汗を拭きながら答えました。レイスもせっせと穴を掘っていますが、ハンナの半分も掘れません。
 途中で大きな石が幾つも出てきました。男たちが重そうに持ち上げるのを、ハンナはヒョイヒョイと取り除きます。もうハンナをバカにしたり、好色な目を向ける者などいません。
「娘さん、こっちを手伝ってくれ」
「そこの台車を使うといい。あんたならまとめて運べるだろう」
 みんなハンナに積極的に声を掛け始めました。ハンナも笑顔でそれに応えます。またむさ苦しい現場に若くて美しい娘がいるせいか、皆の士気も上がり、通常より効率よく仕事が進みました。
「いや、たいしたもんだな」
 一日の仕事を終えると、親方が感心したようにレイスに言いました。
「こんな娘さんがいるとはな。お前さんと親しいのか?」
「ああ、幼馴染なんだ」
 レイスが自慢げに答えます。
「また明日も来てくれ。あんたがいれば仕事の効率も上がるし、皆も喜ぶ」
「はい、ぜひ! よろしくお願いします」
 初めて怪力を褒められたハンナは、嬉しそうに答えました。

 翌日もハンナはレイスと連れ立って家を出ました。早朝の道はわずかに靄がかかっていますが、雲間から幾筋も射しこむ光が今日一日の好天を示しています。
「天気が良くてよかったわ。雨だったら仕事にならないし、仕事をしなきゃお金にならないものねぇ」
「疲れは残っていない? いくら使い慣れた道具でも、一日中穴掘りをしていたら堪えるだろう」
 心配そうなレイスに、
「ぜーんぜん。そりゃあ確かに疲れたけど、お陰で一晩ぐっすり眠れたわ。もう、いつも以上に……」
 そこまで言い掛けて、ハンナの声が途切れました。
「どうかした?」
 レイスが促します。ハンナはしばらく言いよどんでいましたが、やがて躊躇いがちに話し出しました。
「あのね、軽蔑しないでくれる? あたし、この頃グッスリ眠れるの。その、兄さんが亡くなってから……。亡くなった悲しみよりも、開放感の方が大きいの。自分でもなんて薄情な妹だろう、って思うけど」
 そう言って申し訳なさそうに下を向きました。
「ハンナが気に病むことはないよ。村長さんも言ってたけど、兄さんはああいう人だったんだから。それに借金まで残していったんだ。むしろ恨んでも不思議じゃないと思うぜ」
「そうかもしれないけど……。でもね、レイスは十五歳でご両親を亡くしても、ずっと真面目に働いてきたでしょ。レイスにできるなら、十六で両親を亡くした兄さんにだって、できたんじゃないかなって。あたしみたいな妹がいなければ」
 レイスが首を振りましたが、ハンナは被せるように続けます。
「あたし、力も体力も人並み以上にあるから。それって言い換えれば、人並み以上に働けるってことよね。たとえば兄さんがいなくても充分暮らせるくらいに。だから兄さんによく言われたの。俺なんかいなくても困らないだろう、って」
 幼馴染ですからレイスも兄のことはよく知っていました。ハンナの顔は母親似ですが、兄は父親似です。父親の器用さをハンナは受け継ぎましたが、兄は不器用でした。ハンナは幼い頃から母親に家事を仕込まれ、兄は父親から力仕事を仕込まれました。でも生まれつきの怪力と器用さのせいで、何をやってもハンナの方が上手だったのです。
「もしあたしが淑やかでか弱い妹だったら、兄さんも真面目なしっかり者になったのかもしれないわ」
「それは違うよ」レイスがはっきりと否定します。「だってハンナは力を笠に着て兄さんを見下していたわけじゃないだろう。むしろ自分の力で誰かを傷つけないように、気を使っていたじゃないか」
 うっかりレイスに怪我をさせた時、ハンナがどれほど自分の怪力を呪ったか、怪我をした本人よりも嘆いていた姿をずっと見てきました。
「ハンナは力を隠すように言われて育ったから、怪力を引け目に感じているんじゃないか? でもそのことと兄さんのことは別だよ。妹が出来過ぎるからって僻むのは兄さんの弱さだと思う。ハンナのせいじゃない」
レイスの言葉に熱がこもります。
「せっかく力を持って生まれてきたんだ。理由はともかく、その力を存分に発揮できる機会が来たんだから、後ろめたく思う必要はないよ」
 ハンナはようやく顔を上げました。そしてまじまじとレイスを見つめます。
「な、なんだよ」
 照れ臭そうなレイスを見て、ハンナは表情を和らげました。
「レイスはいつもそうやって励ましてくれるわね。レイスが兄さんだったら良かったのに」
 しかしレイスは少し不満そうに、「兄さんかぁ」と呟きました。

 別邸に着く頃には、いつものハンナに戻っていました。
 親方や人足たちが昨日とは打って変わったにこやかな態度でハンナを迎えます。
「今日は何をすればいいんでしょう」
 親方もごく自然に、
「そうだな。まずこの手袋をはめてくれ。お前さんには大きいかもしれないが」
 ハンナは渡された革の手袋をはめました。五本の指の先がだいぶ余っています。
「門の所に石が積んであるだろう。あれを昨日掘った穴の側まで運ぶんだ。重かったら他の奴らの手を借りるか、一つ一つ台車に乗せて運ぶといい」
 ハンナは言われたとおり門の所まで行きました。一フィート四方の石が幾つも積まれています。それを屈強な体格の男たちが、一個を二、三人がかりで運んでいました。
 ハンナは手前にあった石を少し手前にずらすと、「ハアッ」と掛け声も勇ましく持ち上げました。さすがに軽々と、というわけにはいきませんが、持てない重さではありません。感心して眺めている男の前を、ハンナは悠々と通り過ぎ、穴の近くまで運びました。
「これ、ここに置けばいいのかしら」
 図面を見ながら指図していた親方に尋ねます。
「ああ、そこに置いてくれ」
 答える親方の声は溜め息交じりです。
 こうしてハンナは次から次へと石を運んでいきました。ハンナ一人で優に三人分の働きですから、仕事は順調にはかどりました。
 所定の場所に置かれた石を、今度は図面の寸法に削ります。
 親方が試しに鑿(のみ)と金槌(かなづち)をハンナに渡しました。
「ちょいと削ってみるかい」
 受け取ったハンナは、まるで木を切るように軽々と削りました。もちろんハンナが任されたのは大雑把な荒削りですが、それでも普通に削るのとはスピードが違います。
 その様子を見てレイスが声を掛けました。
「具合はどう?」
「いい感じよ。木と違って力を入れすぎても壊す心配がないもの」
 金槌がリズミカルに鑿の頭を叩いていました。

 こうしてハンナは毎日別邸に通い、男たちに混じって働きました。十日ほど通ったところで工事は職人の手に委ねられたので、ハンナができることはもうありません。代わりに作物の収穫や大工仕事を紹介されて、早朝から日暮れまでせっせと働きました。お陰で着実にお金を貯めることができました。
 しかしそうは言っても金貨三十枚は大金です。いくら必死で働いても、簡単に貯まるものではなく、まだ二十枚足りません。けれど返済期限まで、あと十日と迫っています。
 夕食の支度を終えたハンナは、レイスの帰りを待ちながら溜め息をつきました。
「俺の家が借家じゃなかったら、抵当にして金を借りるんだけど。そうすればハンナの借金は返せるのにな」
 ここまで親身になってくれるレイスへの感謝のつもりで、ハンナは毎日のように夕食のおかずを差し入れていました。
「いっそ怪力女で興行師に売り込もうかしら」
 そう呟いた時、レイスが帰って来た気配がしました。窓から外を覗くと、ちょうどレイスが家に入るところです。ハンナはおかずを持って家を出ると、レイスの家を訪ねました。
「こんばんは、今日は遅かったのね。あのね、ベーコンを貰ったの。じゃが芋とソテーしたからよかったら食べて」
 皿に盛られたじゃが芋からは、まだ湯気が上がっています。
「ありがとう。でも、申し訳なくて貰えないよ」
 いつもなら喜んで受け取るのに、今日は手を出そうとしません。
「どうしたの? なんだか元気がないわね。仕事が忙しかった? それともヘマして怒られたとか」
 スタスタと家に入ってテーブルに皿を置くと、レイスの顔をのぞきこみました。レイスは一瞬口を開きかけましたが、すぐに閉じました。そのままだんまりを決め込んでいます。
「ねぇ、レイス」ハンナのこめかみがピクリと動きました。
「あたしに話せないってことは、あたしに関わる事じゃないの? でなきゃおかずを受け取れない、なんてことないものね」
 ハンナの口角が上がりましたが、目は笑っていません。そのまま睨めっこは続きましたが、徐々にレイスの視線は下がっていき、やがて完全に下を向きました。
 その後も何度か溜め息をつきましたが、やがて意を決したように顔を上げました。
「ごめん、実は……」

 夕方、仕事を終えたレイスは、領主に直々に呼び出されました。
 前回、別邸に女性を案内したのは、ひと月以上前のことです。また浮気の虫が騒ぎ出したのか、と思いながら、領主の部屋に向かいました。
 重厚なドアをノックすると、「お入り」という声がします。レイスは「失礼いたします」と声を掛けるとドアを開けました。
 領主は椅子にゆったりと腰掛けて、テーブル越しにレイスを迎えました。年の頃は四十前後、恰幅がよくお腹の周りにはたっぷりと肉が付いています。
「最近、興味深い噂を耳にしてね。なんでも大変な怪力娘が領内に現われた、とか。聞くところによると、レイスの知り合いらしいね」
「はい、私の幼馴染です」
「ほぅお。で、その怪力ぶりに似合わぬ美女だというのは本当かね」
 レイスは嫌な予感がしました。だから思わず、
「いえ、ご主人様が関心を持たれるほどでは。日頃美女を見慣れていない者には、美しく見える、という程度で」
 言いながら、レイスは自分の目が泳ぐのを感じました。
「なるほど。ところでなぜその娘は、噂になるほど熱心に働いているのかね」
「その、彼女の兄が、最近借金を残して亡くなったのです。返済期限まで間がないので、必死でお金を貯めているのです。それで私も幼馴染のよしみで協力しています」
 領主の目が好色に光りました。
「そうか。では私も協力しよう。三日後、別邸に娘を連れてくるように」
 レイスは身を硬くしました。相手は自分の雇い主ですから、逆らうわけにはいきません。それでも精一杯、
「し、しかし、とてもご主人様にお会いできるような娘では。その、しょせん百姓娘ですし……」
 しどろもどろになりながら抵抗を試みました。けれど領主の方が一枚上手です。
「事と次第によっては、私が借金を肩代わりしよう。なに、安心したまえ。決して悪いようにはしないから」
 それでもレイスが尚も口を開けかけると、
「では下がってよい」
 話はそこで打ち切られてしまいました。

 一部始終を話し終えてレイスは肩を落としています。ハンナはしばらく黙っていましたが、やがて明るい口調で、「いいわ。領主さまに会うわ」と言いました。
「会ったところで、まだ“そうなる”って決まったわけじゃないでしょ。それに金貸しに売られたら、もっとひどい目に遭うかもしれないもの。それよりはマシよ」
 しかしレイスは首を振ります。
「自分の雇い主を悪く言いたくないけど、ご主人様は女性にだけは節操がないんだ。いっそ特定の愛妾を持ってくれた方がいいと、奥方様が悩まれるくらいにね」
「でも断ったらレイスの立場が悪くなるんでしょう。幼馴染ってだけで、これまでずっと力になってくれたんだもの。今度はあたしが力になる番よ。それで借金を返せるなら構わないわ」
「幼馴染ってだけ、なわけないだろ!」
 突然レイスが立ち上がりました。そのままハンナを見下ろします。
「今までずっとハンナを守ってきたのに。いや、実際はただ見守っていただけだけどさ」
 呆気にとられているハンナを前に、レイスは言葉を続けます。
「ハンナに骨を折られる痛みなら我慢できる。でもハンナを守れない痛みは我慢できないんだ」
 そう言われた途端、ハンナは顔が熱くなるのを感じました。胸の鼓動が急に速まり、身体まで熱くなってきます。
 子供の頃の肋骨骨折に始まり、ハンナの「つい、うっかり」のせいで、何度レイスに怪我をさせたことでしょう。打撲に捻挫に脱臼に、幸いどれも大事には至らなかったものの、「大丈夫だよ」と泣きそうな顔で笑っていたレイス。そのたびに申し訳なくて、ハンナの方が泣いていました。
 両親が亡くなった時も、悲しみにくれるハンナを慰めてくれたのはレイスでした。遊び呆けている兄への愚痴を、黙って聞いてくれたのもレイスでした。
 ハンナの胸に熱いものがこみ上げてきます。思わず立ち上がってレイスに駆け寄ると、そのまま勢いよく抱きつきました。
「レイス! 大好き!」
 途端にレイスが悲鳴を上げました。
 すぐに我に返って、あわててハンナは離れましたが、レイスは息も絶え絶えで涙ぐんでいます。
「ごめんなさい。つい……」オロオロとするハンナに、
「大丈夫、骨は折れてないから……」引きつった笑顔でレイスは答えました。

 お互いの気持ちは確かめ合いましたが、結局ハンナは「領主に会う」と譲りませんでした。
「もう期限がないし、他に金策はないもの。ここは思い切って割り切りましょうよ」
 そう話し合ったものの、やはりレイスは気が気ではありません。
 仕事中も鋏を持ったまま、ついボーッとしてしまいます。一本の木を剪定するのにいつもの倍も時間が掛かって、親方に心配されました。それだけならまだしも、花を摘みに来た奥方にまで、
「具合が悪いのなら、明日は休んでもいいのですよ」と声を掛けられる始末でした。
 しかし明日はハンナを別邸に連れて行く日です。親方には「ご主人様から別邸の庭の剪定を頼まれた」と言ってあります。だから、
「いえ、明日の別邸での仕事を済ませれば一段落つきますから」
 そう言って無理に笑いました。
 奥方が心配そうに顔を曇らせたので、結果的に浮気の片棒を担いでいるレイスは、ますます胸が痛みました。

 翌日、レイスはハンナを伴って別邸に向かいました。
 今日も朝からいい天気です。頬に当たる風も気持ちよく、三つ編みを解いたハンナの髪が歩くたびに揺れます。服装も赤いワンピースで小麦色に焼けたハンナの肌を引き立てていました。
 いつものレイスなら見惚れているところですが、今日は道すがら溜め息ばかりついていました。おまけに体の節々が痛みます。それは昨夜、ハンナがレイスの愛を受け入れてくれた結果でした。
 レイスが時々顔をしかめるのに気付いたのか、
「ごめんね。まだ痛む? 気をつけたんだけど、つい……」
 ハンナが顔を赤らめながら謝りました。
 この後のことを考えると気が重くなりますが、割り切ると決めた以上、沈んではいられません。

 やがて二人は別邸に着きました。
 心配そうなレイスに手を振って、ハンナは玄関へと向かいました。
 この間設置した噴水は中央のノズル部分の飾りが取り付けられ、あとは水を貯めるだけになっています。まさかあの時は、こんな理由で再び別邸を訪れることになるとは思いもしませんでした。
 ノッカーを鳴らすと待っていたように扉が開いて女中が出迎えました。
「ご主人様がお待ちです」
 ハンナのことはすでに承知しているのでしょう、女中は先に立って案内します。
 扉の向こうには広いホールがあり、正面には二階へ続く階段があります。女中はその階段を上がっていきました。階段の手摺は踊り場で左右に分かれ、女中は左側に曲がりました。踊り場の正面には立派な彫刻が置かれ、壁には絵が掛けられています。ハンナは女中の後に続きながら、それらに目をやりました。
 やがて二階の廊下に出ました。廊下の北側には窓があり、南側には部屋が並んでいます。女中は一番奥から二番目の部屋にハンナを案内すると、ドアをノックしました。
「お入り」
 中から声がして、女中がドアを開けます。
 部屋の奥の窓際の椅子に、恰幅の良い上等な服を着た男性が座っていました。この男性が領主なのでしょう。
 ハンナが部屋に入ると、ドアが閉められました。
「名前は、確かハンナだったね。うちの庭師の幼馴染だとか」
「はい」
 レイスのことに触れられ、ハンナの胸がちくりと痛みました。
「まあ、ここへ来てお掛け」
 領主に傍らの椅子を勧められ、ハンナはやや緊張した面持ちで足を踏み出しました。
 その時。
 突然ドアが開き、三人の男が部屋に乱入してきました。男たちはそれぞれ覆面をして、目だけ出しています。
「何者だ! 誰か……」
 領主が叫ぶよりも早く、一人の男が領主に襲い掛かろうとしました。が、それより一瞬早く、ハンナが男の背中を抱え込みます。腕をギリギリと力いっぱい締め付けると、男が悲鳴を上げました。そのまま男を羽交い絞めにして、力いっぱい横へなぎ倒します。男は勢いよく壁にぶつかって伸びてしまいました。
 ハンナはすぐに振り返り、後方の男たちに向かって身構えました。しかし二人目の男はハンナを避けて領主に向かって行きます。そこで今度は男の正面に回り込み、思い切り突き飛ばしました。突き飛ばされた男はドアの前に立っていた三人目の男にぶつかり、そのまま廊下へと投げ出されました。
 男は胸を押さえたまま、うずくまっています。どうやら肋骨が折れたようです。
 三人目の男はハンナと目が合うと、恐れをなしたのか逃げ出しました。
「待ちなさい!」
 ハンナが後を追います。廊下を走り抜け、階段を駆け下り、踊り場で追いついて後ろから羽交い絞めにしました。
 その時玄関の扉が開きました。
「ハンナ!」
 飛び込んできたのはレイスです。
「やっぱりだめだ! 俺、クビになってもいいから、きみを……」
 屋敷に駆け込んだレイスの前に、男が転げ落ちてきました。男はそのまま床の上で目を回しています。
 レイスは階段を駆け上がり、ハンナに訊ねました。
「あの、いったい何があったんだ? 誰なんだ、この男は? そうだ、ご主人様は?」
「こっちよ」
 ハンナが息を弾ませながらレイスを案内します。二階の一室に入ると、領主は椅子に座ったまま腰を抜かしていました。部屋の外に一人、中にももう一人、伸びている男がいます。
「ご主人様、お怪我は?」
 レイスが声を掛けると、
「暴漢、が、入ったんだ。その、ハンナという娘が、やっつけてな……」
 領主は目を白黒させて答えました。

 さて、見事、暴漢を撃退したハンナは、領主から謝礼として金貨二十枚を貰いました。これまでに貯めた分と合わせて三十枚、耳をそろえて返済したのです。
 金貸しはハンナがどうやってお金を貯めたのか、しきりに聞きたがりましたが、ハンナは口をつぐんでいました。また怪力娘の暴漢退治の噂が、領内に流れることもありませんでした。
 別邸とはいえ領主の屋敷が暴漢に押し入られ、挙句に女性に危機を救われたというのは、あまり自慢できることではありません。だから領主の名誉のために、暴漢騒ぎに居合わせた者は、みんな口をつぐんでいました。もちろんレイスが領主からお咎めを受けることもありませんでした。
 それから間もなくレイスは家を引払い、ハンナの家に引越してきました。結婚して新生活を始めるためです。
 二人で荷物を整理しながら、レイスはハンナに真相を話しました。
「あの暴漢騒ぎは奥方様の企てだったんだ。騒ぎが漏れなかったのは、そのせいもあるのさ」
 領主の浮気には奥方も心を痛めていました。娼婦ならまだしも、気に入った女性には手当たり次第に手を出すのです。中には領主の命令に逆らえず、仕方なく従う女性もいました。そこでいつか懲らしめてやろうと、一計を案じていたのです。
 そんな時に怪力娘の噂が耳に入り、案の定、領主は興味を持ちました。
 レイスが別邸へ行くのを口実に、女性を案内していたことも、奥方は気付いていました。領主に呼び出されてから急にレイスの様子が変わったこと、休養を勧めたのに別邸へは行こうとしたことから、奥方は浮気を確信しました。
「奥方様は以前から話をつけてあった男たちに、暴漢の振りをさせて別邸を襲わせたんだ。もちろんご主人様を懲らしめるのが目的だから、ハンナを傷つけるつもりはなくて、脅すだけのはずだったんだけどね」
 ところがハンナの怪力ぶりは奥方の予想を超えていました。そして事情を知らないハンナは存分に力を発揮したのです。
「なんだ、そういうことだったの。どうりでタイミングがよかったはずだわ。あたしが部屋に入って、ろくに話もしないうちに男たちが現われたのよ」
 ハンナは一人で軽々とテーブルを持ち上げると、部屋の中央に置きました。これまでのテーブルは修繕の跡だらけだったので、新しいテーブルを新調したのです。もちろんハンナの手作りでした。
「天板を厚くしたの。これでうっかり叩いたくらいじゃ割れないと思うわ」
 天板の厚さは優に四インチはあります。
「しばらくはご主人様も大人しくされるんじゃないかな。少なくても浮気の片棒を担ぐのはお役御免になると思うよ。俺もずっと気が咎めてたからホッとしてるんだ」
 こうして二人の生活が始まりました。新調したテーブルは今のところ、修繕をしないで済んでいます。その代わり、ベッドの修繕の回数は増えました。時々レイスの悲鳴が聞こえますが、二人はその後も幸せに暮らしました。

ハンナの奮闘記

ハンナの奮闘記

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-07

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