イスタムールの戦い【1章】 ~フラットアース物語①
九竜宮最下層・王の間
「二の竜、私も行くよ。」
王の言葉に、八竜達は皆、何を言い出すのかという視線を玉座へ向けた。そして、玉座の王の澄んだ冷たい黒瞳と出会って、八竜達は息を呑んで目を伏せた。
ひと呼吸おいて、二の竜は答えた。
「分かりました。そのように整えます、我が君。それでは……。」
言葉をつむぎながらも二の竜は、王の心を覆す方法はないものかと、思案をめぐらせていた。
「彼方では、ヨウと名乗る。同行する者達にも、そう伝えておいて欲しい。」
二の竜の言葉を遮って玉座から返された答えは、二の竜の策略など見抜いているのだぞ、と言わんばかりに素っ気なかった。
「御意のままに。」
しぶしぶながらそう答えて、二の竜は頭を垂れた。頭を上げる前に、王が広間から退出して行く気配が感じられた。王の気配が奥の間へと消えたのを確認して、二の竜は立ち上がった。他の竜達の咎めるような視線を感じてはいたが、二の竜にはそれに応じる気はなかった。
だが、広間を出ようと歩き出した二の竜の前に、三の竜が厳しい顔をして立ち塞がった。他の者達も、成り行きを見守ったまま動かなかった。
「他ならぬ王ご自身がお決めになられたのだ、誰にも覆すことなどできない。」
二の竜は、淡々とそう言っただけで、歩みを止めようとはしなかった。その動きに合わせるように、三の竜は、退いて道を譲る格好にならざるを得なかった。それでも、諦めきれないように、三の竜は、二の竜の背中に向かって声をあげた。
「しかし、苦しまれるのは王なのだぞ。それをお止めせずに……。」
「掟については、王ご自身が最もよく知っていらっしゃる。臣下である八竜が何を言うことができるだろう。」
それ以上言うことはない、という意思を示して、二の竜は広間を出て行った。
残された三の竜以下の五人の竜達は、不安を浮かべて、王の姿の消えた玉座を見遣ったが、もう誰も、何も言わなかった。
第一章〈苡〉:それぞれの思惑
聖王暦第Ⅲ期一九八年・緑の年 十月半ば
秋の収穫もほぼ終わり、冷たい北西風の吹き始めたイスタムール国は、例年ならば新年を迎える用意を始めようかという、楽しい忙しさに追われている頃のはずであった。しかし、この年は別の、とてもありがたくない忙しさで賑わっていた。西の国境を接する楽浪国との戦争の準備で、国中がざわめいていたのだ。
王都トゥバルクンの北西に位置する王宮でも、各地からの報告を持った伝令達や、遠征の為の物資を積んだ荷車が、盛んに出入りしていた。
そして、その王宮の奥では、特別な客人を迎える準備に、集まった全ての人々が、ぴりぴりと緊張していた。何しろ、その〈特別な客人〉とは、王族とごく一部の側近のみが知る、一般の人々にとっては、お伽話の中の生き物でしかない〈竜族〉だったのだから。
竜族がこの国に来たのは、一番近くて五年前の現王の即位式の時だった。その時は、一日だけの滞在であったが、それでさえ、非常に気難しくて、怒りっぽい竜族を接待するのに、王族たちもその側近たちも、数ヶ月分の仕事を片付けたような気分になったものだった。それが今回は戦の為、その滞在は数週間、場合によっては何ヶ月にも及ぶかも知れないのだ。
戦いで竜族を招く、これはもう九十年ぶりの災厄であった。
イスタムール国は、その建国が東方の国々の中で最も古い。起源をたどれば二千年前のホーシア大王国、ロレムセイ聖王にその端を発すると言われている。
聖王は竜族の力を借りて、四海に勢力を拡げていた魔物ヨードゥールを駆逐し、国を興した。そして竜王と「再びヨードゥールとの戦いが起こる時、竜族が守護する」という契約を結び、その証に竜王から、深紅の宝玉〈竜炎石〉を与えられたと、聖王の伝記は告げる。
イスタムールの民ならば、子供でも知っているこの物語は、しかし、市井の人々をはじめとして、貴族の大多数、彼らは儀式で竜炎石を身に付けた国王の姿を拝謁する機会もあるはずだが、彼らも含めて皆、ただの伝説としか思っていなかった。
竜族が実在する、ということを知っているのは王族、そして王自身が選んだ一部の側近達だけであった。従って、竜族が王宮に滞在する場合、その身のまわりの世話は、王族と事情を知る側近達が行うことになる。勿論、その準備は、王宮で働く使用人達が行うが、それら一般の者達を、特別な客人に会わせる訳にはいかなかった。
ただでさえ、慣れない仕事の上に、とてつもなく気難しい竜族の相手とあっては、王を筆頭に側近達は、史上最悪の災難だと思っていた。「なぜ自分の時代に」と、誰もが溜め息をつかずにはいられなかった。
竜族を迎えるのはいつも、奥宮殿の中央に位置する〈焔の塔〉と決まっていた。そこには〈火炎の祭壇〉と呼ばれる祭壇があり、王家の宝である竜炎石は、通常そこに安置されているのだ。
この祭壇もまた、竜王が造ったと言われるものだった。王以外の者が竜炎石を動かそうとしても、全く動かすことが出来ず、竜炎石も、その即位にあたって、竜王が王と認めた者のみが身に付けることが出来ると言われていた。
そういう不思議な祭壇のある焔の塔で、イスタムール国王、緑伯暖は、自身二度目となる竜族外交団を迎えるべく、その準備に奔走していた。この場に現れる予定の竜族は五名。外交官の役割をもつ二の竜とその随行が四名、いつの時代も決して変わることのない竜族の外交団てある。
そしてその竜族の外交団の長は、必ず二の竜と決まっていた。これは長い歴史の間、代々の王に受け継がれて来た虎の巻『竜族取扱い極意』なるものにそう書かれているのだから間違いない。二の竜に付き従う者達の顔ぶれは変わることがあるが、その人数は常に一定であった。
八階建ての焔の塔は小さな丘の上にあって、政務や宴会の場となる花の宮殿と、庭園を挟んで、その背後に続く王族の住まいである奥宮殿とに、囲まれるようにして建っていた。むしろ逆に、この塔を中心に王宮が発展した、という方が正確であったかもしれない。
前回使用されてから五年が経っていたので、人々の手によって全体が開け放たれ、隅々まで清掃された塔は、新鮮な空気を吸い込んで、まるで生き返ったとばかりに伸びをしたように思われた。
塔の中には、強い香りを嫌う竜族の為に花などは飾られることなく、各階の小部屋と接している共用の広間に、匂いの少ない酸味の香を少量だけ焚いてあった。
華やかな夜会に慣れた女官達は、この香に戸惑い、量を増やした方が良いのではと、幾度も進言したが、その都度、これで良いと言われている、とこちらも困惑した監督者からの答えが返ってきただけであった。
塔全体が装飾らしい装飾も行われず、実用性のある家具以外は置かれていない部屋は、窓の数自体が少ないこともあって薄暗かった。まるで、身分が高い者を幽閉する北東の塔のようだと、準備の総指揮にあたっていた王の叔父、緑公衛が思わず溢したくらいであった。
それでも、これが慣例なのだから仕方がなかった。もう少し居心地良くできれば、とは考えても、竜族は彼らについて質問される事を嫌う。怒りっぽい彼らの機嫌を損ねてまで聞きたい事だとは、誰も思わなかったのである。
§
後刻、焔の塔では、王を筆頭とする迎えの一団に緊張が走っていた。「今行く」という竜族からの知らせが、王にもたらされたのだ。
すぐに、人々が居並ぶ祭壇の向こう側、古の聖王が描かれた壁との間に、赤い陽炎のような光が現れ、それは見る間に分かれて五つの炎になった。そして、それらがたちまち、篝火のような明るさにまで膨れ上がった、と思った時には、炎は五つの人の姿に変わっていた。
人の姿と言っても、それは、おおよその外見だけの話だった。彼らは皆、褐色の厚布で作られた外套を、ほとんど顔が見えないくらい目深に被っていた。竜族は人に近い外見をしてはいるが、それでも明らかに人とは違う。それを分かっていて、彼らは極力、人前にその姿をさらさないようにしているのだ。
伯暖王は進み出て、竜族の一行に出迎えの挨拶を述べた。それに対して、一行の中でひときわ背の高い一人が、大様に頷いた。それが二の竜だった。
伯暖は五年前にも彼に会った事がある。それを確認して、伯暖は少し胸を撫で下ろした。一度しか会った事がないとは言え、見知った者がいるというだけで、緊張感は随分と和らぐ。それに、二の竜が同じ人物だと言う事は、この五年の間に、竜族の側にも政変はなかったと言うことだ。
竜族は、その王が変わると、その配下も全て変わるらしい。「らしい」としか言えないのは、この国に来るのが常に二の竜だからで、何代か前の王が書いた記録に、二の竜の言葉としてその事が記されていたのだ。
二の竜というのは、竜族の役職の呼び名で、竜族の王は、八竜と呼ばれる側近を従えている。竜族の身分は、純粋に〈力〉で決められ、二の竜から九の竜まであるその役職は、それぞれに違った役割を持っているらしかった。
これらの情報は、今回竜族を迎えるにあたって、宰相である黄子清が調べ上げたものだった。彼は、伯暖が持っていた覚え書きに加えて、黄家に残る記録と、彼の妻の実家である紅家にも手をまわして、竜族に関する資料を集めた。そのおかげで、伯暖は、五年前には知らなかった竜族についての様々な知識を得る事ができた。
竜族の滞在には、この塔を使って貰うこと、そして、足らぬ物があれば、何でも言って欲しい、と告げた伯暖王に、二の竜は冷めた視線を向けた。
「構わないでくれ。我等がここに来たのは戦の為だ。ヒトの王には、他にやるべき事があるだろう。」
二の竜のぞんざいな物言いに、伯暖王の背後から、小さなざわめきが起きた。伯暖が振り返ってそれを抑えるよりも先に、竜族の中から声がした。
「二の竜。」
その声は小さかったが、咎めるような響きを含んでいて、二の竜は、ちらりとその声の主へ目を遣った。
「………あぁ。………ここへ。」
二の竜は明らかに戸惑った様子で、随行の一人を彼の側へ呼んだ。
二の竜が、いや、竜族がそうやって感情を表に見せるのは、珍しいことではないだろうか。少なくとも、歴代の王の覚え書きには、竜族には感情がないと書かれている。その所為もあって、伯暖は、その者に興味を持った。
進み出て来たのは、小柄な人物だった。竜族は押し並べて、人より背が高い。その中でも頭半分ほど高い二の竜の隣に並ぶと、胸の辺りまでの身長しかなかった。
二の竜は、その人物に頷くと、伯暖王の方へ向き直った。
「……我々の事は、この者がいたします。どうかお気遣い下さいませんよう。」
まるで決められた台詞でも読み上げているような調子で、二の竜は言った。そして、これで良いのかと尋ねるかのように、傍らの人物へ視線を落とした。
それへ構いもせずに、その者は二の竜よりも半歩前へ進み出ると、身に纏っていた外套を外した。それを見て、伯暖は驚いた。いや、彼だけではない。伯暖の後ろで、黄子清が僅かに息を呑んだ気配がしたから、子清もまた、その若者に驚いたのだろう。
その人物は、どこからどう見ても、普通の少年だった。肩までの黒い髪に澄んだ黒い瞳、竜族の特徴を示すような所は少しもなく、身に付けている服も、イスタムール国のそれと大差ないものであった。
「コウヨウと申します。」
その若者は、優雅に頭を下げて、そう名乗った。その仕草もまた、普段、伯暖が見慣れているものと変わらない。つまり、イスタムールの貴族だと言われても、全く違和感がないものだった。
加えて、彼は人の基準で見て、まだ十二、三歳の子供に見えた。竜族に関する記録の中に、これほど若い竜族の記録はなかったはずだ。そもそも、子供や老人の竜族が存在するのか、という疑問でさえ、これまで伯暖は考えた事がなかった。
「こうよう……どの、ですか。」
伯暖は、前例のないこの竜族の若者を、どう扱って良いのか戸惑っていた。
どの、は不要です、と笑顔で応じて、お世話になります、と少年はもう一度頭を下げた。その受け答えを聞いて、二の竜が僅かに顔を顰めたのが見えた。
(この若者は、一体何者なのだろう。)
伯暖は、竜族らしくないその若者をじっと見つめた。それを見返す少年の黒瞳は、赤子のように邪気がない。
(名前までこの国の者と変わらないという事を、どのように解釈するべきなのか。)
伯暖は先程、少年が名乗った時に受けた衝撃を、まだ抑えきれずにいた。それは、彼にとって忘れられない名前だったのだ。伯暖は、この若者がそれを知っていて、わざわざそれを名乗ったのではないかと、思ったくらいだ。だが、いくら何でも、それは考え過ぎと言うものだろう。それは、イスタムールの名前の組み合わせとしては、特に珍しいものでもなかった。
竜族は、この国によくある名前から、その呼び名を選んだのだろう。単なる偶然だと、伯暖は思い直した。しかし、これまで、竜族がそんな配慮を見せたことはない。何故、今回に限って、と言う疑問は消えなかった。
さほど長らく考え事をしていたとも思われなかったが、伯暖は、陛下と呼びかける子清の声に、ふと我に返った。
「そろそろ、竜族の方々には、お休みいただいては。」
背後から子清にそう声を掛けられ、伯暖王は頷き返した。
彼らを部屋へ案内することを二の竜に伝えると、彼は、その前に一つ頼みがあると切り出した。ところが、どんな難題が降って来るかと身構えた伯暖に、二の竜は、中々その続きを言わなかった。その側では、コウヨウが試すように二の竜を見上げている。
「あ……。その、この………。この者が、この国と、ヒト族について、見てみたいと言っていて。だから、時々で良い、誰かつけてくれないか。……あぁ、そう……して頂きたいと思い………まして。……差し支えなければ。」
随分と時間をかけて、ようやくそう言い切った二の竜に対し、コウヨウは笑いを堪えてそれらを聞いていた。一方、それを見遣った二の竜は、憮然とした表情だ。
主従が逆転したようなその様子に、伯暖は、めったな者は選べないな、と考えていた。勿論、竜族の頼みを断る訳にはいかない。彼らは、この国を救う為に、わざわざ竜界からここへ来ているのだ。その恩に比べたら、その願いはごく小さなものに過ぎない。ただ、誰をこの少年の相手として選ぶかとなると、それは非常に難しかった。問題の一つは、その竜族の若者の正体が、はっきりとしないことだった。
竜族は本来、人の姿をしていない。彼らが竜界から出て来る時に、人の姿に変化するのだと言う。そしてその外見は、その者が持つ力が強い程、より人に似ると言われていた。
それは二の竜と、他の随行の者を見比べても分かる事だが、それからすると、その少年は、二の竜よりも上だと言うことになる。二の竜より上の位は、一の竜、つまり竜王しかいない。だが、それにしては二人は、随分と気安い様子に見えた。それに、伯暖には、その若者に二の竜を上回る力があるとは、思えなかったのである。
これは王である伯暖にしか分からない感覚だったが、彼は即位した時、竜王の力の一部を分け与えられていた。そのおかげで、彼は竜炎石を持つ事ができるのだが、それと同時に、伯暖は不思議な感覚も手に入れていたのだ。彼は竜の力を持つ者を見分ける事ができた。つまり、代々の王は、即位の時に竜王の力を貰い、それは部分的だが子供達へ引き継がれる。その力は、伯暖にとって、炎の暖かさのように感じられた。そしてそれは、竜族についても同じ事が言えた。
竜族からは、緑家の人々のそれとは、比べものにならない程の強い力を感じられた。それは、随行の者と比較して、より二の竜で強い。しかし、その若者からは、緑家の者と同じくらいの弱い力しか感じられなかったのである。
伯暖は、背後に居並ぶ家臣一人一人の顔を思い浮かべながら、慎重に考えを巡らせた。そして、しばらく考えてから、伯暖は一人の若者の名前を呼んだ。
「黄玄初。……前へ。」
「えっ? は、はい。」
広間の隅の方、出迎えの一行の一番後ろから、戸惑ったような返事が上がった。
居並ぶ人々が道をあける中、場違いな所へ引っ張り出されたという感じの若者が、進み出て来て伯暖王の前に膝をついた。
「立つがいい。」
「あ、はい。……陛下。でも、俺には、いや、私には……。」
「見苦しいぞ、玄初。陛下がご指名になられたのだ、黙ってお受けしないか。」
傍らに立つ宰相の一喝に若者、黄玄初は身を竦めた。
兄上、と助けを求めるように見上げた弟の視線を、宰相は完全に無視した。
「二の竜、玄初は、宰相であるこの黄子清の弟にあたる者。今年の国試で主席及第にて官吏になったもので、まだ実務の経験は浅いのですが、その知識は広い範囲に及びます。」
伯暖王の紹介を受けて、二の竜は、ほんの一瞬だけ玄初へ目を遣ったが、さして興味もないといった様子で視線をそらした。
「勝手なお願いをお聞き入れ下さり、有難うございます。」
代わりにそう応じたのは、コウヨウの方であった。彼はそれから、玄初の側へ歩み寄って、よろしくお願いしますと言って、さりげなく手を差し出した。
こちらこそ、と玄初も、いつもそうしているように、ごく自然に握手を交わした。たが、コウヨウが王に目礼して、竜族の所へ戻って行く時になって、玄初は、二の竜が自分をきつく睨んでいることに気が付いた。
何かやらかしてしまったかと、玄初は、思わず傍らの兄を見上げたが、こちらも厳しい視線を彼に向けていたので、玄初は慌てて目を伏せた。
二の竜は、行くぞ、とだけ言うと、案内に立った緑公衛の後について、さっさと歩み去って行く。
「では、玄初様、また後ほど。」
コウヨウはそう言って、玄初にいたずらっぽく微笑むと、竜族の一行を追いかけて広間を出ていった。
竜族の一団が祭壇の間から去ったのを見届けて、出迎えの人々から安堵の溜め息が漏れた。
「陛下、あの者は……。」
退出する王の後を追いかけて祭壇の間を出た所で、黄子清は伯暖王に問いかけた。
「子清、私もそう考えている。だからこそ、だ。」
「しかし、玄初では……。」
言い止した子清に、伯暖は宥めるように言った。
「子清、もう少し、弟を信頼してやっても良いだろう? 心配性の兄を持つと、弟も苦労するな。」
「陛下こそ、随分と玄初を買っていらっしゃる。」
お互い様か、と伯暖王は笑った。そのまま、王の居室がある緑玉宮へと足を向けた伯暖王に、子清は一礼をして、王の去って行くのを見送った。それから、自分の執務室へ戻ろうと、廊下を引き返した。
「兄上!」
焔の塔を過ぎた所で、後を追いかけてきた声に、黄子清は足を止めた。まだ、塔の前で立ち話をしている貴族達の一群から、玄初が早足で、子清の方へ向かって来るのが見えた。
「あ、あの……。」
王から思わぬ大役を与えられ、動揺して兄を呼び止めたものの、いざ兄の前に来ると、玄初は次の言葉を失った。年の離れた長兄のことを誰よりも好きで、憧れとしている玄初ではあったが、宰相の地位にある兄は、正直なところ苦手であった。
その瞳は、用がないのなら忙しいのだから邪魔をするなと、言外に告げている。
何か言わなくてはと焦る気持ちが、先程の疑問を口に上らせた。
「あの少年は、人のように見えましたが……。」
それを聞いた兄が顔を顰めたのを見て、玄初は、またやってしまったと思った。
(兄は根拠のない質問を最も嫌う。)
「必要な知識はお前に教えたはずだ、後は自分の頭で考えろ。それから、コウヨウ殿に挨拶を終えたら、私の部屋へ寄るように。」
それだけ言うと、用は済んだとばかりに子清は踵を返した。それを待ち構えるように、国官達が報告を持って、宰相に近寄って来るのが見えた。
遠ざかる兄の後ろ姿を見送って、まだまだ兄上は遠いなと、玄初は溜め息をついた。
(確かに、竜族を迎える役目に選ばれてから、必要な知識は教えてもらった。でも、あの場にいた誰もが、あの少年のことを疑問に思っていた。)
焔の塔の入り口では、高官達が、まだひそひそと話し続けていたが、兄に窘められた後では、その輪に加わることも気が引けて、玄初は祭壇の間に戻った。
さっきまで大勢の人が集まっていた広間は、今は人気もなく、しんと静まり返っている。コウヨウが戻って来るまで、特にすることもなかったので、玄初は何気なく、祭壇の間の壁画を眺めていた。
それはロレムセイ聖王の戦いの様子を、浮き彫りにして描いたものだった。剣を掲げた聖王の姿、それを守るように大きな翼を広げた竜王、そして、その聖王と竜王の前には、聖王の子供達だと伝えられている四人の人物の姿がある。さらにその横には、このイスタムール国を守護する大きな鳥の姿の翼竜族が二体、それから、敵国の守り神である蛇竜族の姿が、こちらも二体、並んで描かれていた。
竜族の接待という役目を与えられ、兄に連れられて初めてこの壁画を見た時、玄初は違和感を覚えたのだった。その時は、大きな役目を与えられた緊張と、矢継ぎ早に説明する兄の言葉を覚えようと必死で、何がそう感じさせたのかを考えている余裕がなかった。
改めてこの壁画を見て、ようやく、玄初は、それが何故かに思い当たった。
(ここに描かれている姿は、皆同じ方向を向いている。まるで、全員で協力して敵に立ち向かっているみたいだ。……これは、子供の頃から繰り返し聞いていたお伽話とは違っている。)
「兄上は、この壁画の事は何もおっしゃらなかったな。」
(それに、兄上の教えて下さったことも、それまで抱いていた竜族の印象とは、随分と異なっていた。)
先程、王が竜族に紹介していた通り、玄初は官吏になったばかりだ。本来なら竜族の接待という大役を与えられるような立場ではなかった。それにも関わらず、役目に選ばれたのは、宰相である兄の推薦のおかげだろうと、玄初は考えていた。
しかし、その経緯がどうであれ、役目を与えられたからには、精一杯勤め上げなくてはならない。玄初は短期間で必要な知識を身につけるべく、必死に学んだ。
とは言え、昼間はまだ慣れない文官の仕事に追われていたし、兄も宰相としての仕事と、州公としての仕事を兼任していたから、それらの政務を終えて、玄初の勉強は夜中になることが殆どだった。そんな宰相を見兼ねて、時には、伯暖王自ら、竜族について話をして下さったこともあった。
「竜族の寿命は人よりも長い。どれくらい長いのかは分からないが、私の即位式の時に来た二の竜は、少なくともこの九十年の間、ずっとその地位にある。彼は人の基準で二十五歳くらいの年齢に見えたが、九十年前の記録でもその年齢に見えたと書かれている。」
ある夜、玄初を政務室へ招いて、伯暖王は語った。
「九十年前ということは、淑奉王の時代にも、その二の竜が?」
玄初がそう尋ねると、伯暖王は、いいや、と首を振った。
「その戦いの時の二の竜は違う者だった。知っているとは思うが、その戦で淑奉王は亡くなった。その後、相次いで王の兄弟や子供達も亡くなり、緑家の男子が絶えた為、血縁の翠家の者が新たな緑家を興して、王位を継いだのだ。戦から一年後に行われた新王の即位式では、二の竜も代替わりをしていたと言う話だ。」
思い返してみると、玄初の授業には、何故か常に、王が付き合って下さっていた。そうして、いつも側で笑って見ていて下さった。玄初は、不敬だと思いつつも、心の内で伯暖王のことを父親のように慕うようになっていた。
「竜族は人の姿で現れるが、完全に人と同じではなく、その瞳や、手や足など体の一部に竜の特徴が残っている。だから、一目で竜族と分かる。竜族は人と同じ様な食事はとらない。人の食べ物で口にするのは果実だけだが、古い民話では竜は人の魂を食べるとも言う。」
教本でも読むかのように淡々とした兄の言葉に、玄初が目を白黒させているのを、横で眺めていた伯暖王が笑って窘めた。
「あまり弟をいじめるな、子清。怯えているではないか。玄初、竜は誰の魂でも食らうと言う訳ではない。」
「ええっ! それではやはり、竜族は人の魂を食べるのですか?」
益々怯えた顔になった玄初を見て笑っている王を、今度は宰相の方が窘めるように言った。
「陛下、助けになっておりませんが。」
「そうか? だが、それが事実だ。」
竜族についての説明を受けながら、玄初は、兄と伯暖王の二人にからかわれているような気がしたものだった。二人の言葉のどこまでが本気で、どこからが冗談なのか、玄初には、さっぱり分からなかった。
(そう言えば、竜族は力が強い者ほど、より人の姿に似せることができる、という話だったな。)
と言うことは、どこから見ても人にしか見えないあの少年は、二の竜より強い力を持つと言うことになる。
しかし、竜族の外交団の長は必ず二の竜で、それ以外の者がなることはないと、はっきりと伯暖王はおっしゃっていた。竜族の階級は人のそれよりも厳しく、階級の上の者が全ての決定権、発言権を握る。例え二の竜がいない場所で竜族に話しかけたとしても、二の竜と話すようにと言われるだけだと聞いた。それなら、やはり一行を代表している二の竜が、一番高位にあるということになる。
(それなら、あの子は何者なのか。)
玄初の物思いは、いつまでも同じところを回り続けていた。
第一章 ―2―
§
焔の塔一階にある祭壇の間から続く階段は、二階の食堂兼居間のような大きな部屋へとつながっている。その大部屋の脇に、一つの小さな部屋があり、最奥には上階へと続く階段があった。つまり上の階へ行くには、必ずこの部屋を通り抜けなければならない。言わばこの部屋が、塔の関所の役割りを果たしていた。
二階へと案内された竜族達は、一通りの説明を聞くと、さっさと割り当てられた部屋へと姿を消した。ただ、コウヨウは一人、二階のその大部屋に留まって、部屋の中を見て回っていた。
竜族を案内して来た公衛は、部屋の入り口に立って、注意深くコウヨウの行動を見つめていた。
コウヨウは、竜族の為に用意された品々を確認した後、部屋の隅に焚かれていた香を消した。それから、公衛の方を振り返って、一瞬迷うような様子を見せた。
「用がございましたら、私がお伺いいたしましょう。」
それを見た公衛が、先にそう声をかけた。
「いいえ、それには及びません。」
コウヨウはそう言うと、部屋の中央に置かれた大卓を回り込んで、公衛の前へとやって来た。
「申し訳ありません。二の竜があなた様のお名前を伺わなかったので。何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「そうでしたな、自己紹介がまだでした。私は緑公衛と申します。」
本当に何から何まで竜族らしくない少年だ、と公衛は顔には出さず、心の内で苦笑した。過去に、竜族に名前を尋ねられた者など一人もいないと、公衛は自信を持って言えたからだ。
(竜族は人に興味を示さない。竜族にとっては、王とそれ以外の人間という二つの区分だけで十分に事足りるのだと、今まで聞かされて来たのだが……。)
「殿下、恐れながら、お気遣い下さいませんよう重ねて申し上げます。この戦時下に、このような雑事で殿下のお手を煩わせる訳には参りません。もしもお許しいただけるのであれば、竜族の身の回りのことは全て私が行います。殿下にはこのような仕事ではなく、陛下の側でなさるべきお役目がおありになるはず。」
その受け答えを聞いて、公衛はさらに驚いた。
(この少年の知識は正確だ。……そう言えば、陛下にも、この国に興味を持っていると言っていたな。)
公衛は、しげしげと目の前の少年を見ながら思った。自分が緑公衛とだけ名乗ったにも関わらず、それを受けてすぐさま、殿下と呼びかけた。
(黄玄初には、「様」と呼んでいたのだからな……。)
このことは、この竜族の少年が、イスタムールの貴族の名字とその敬称について、正確な知識を持っていると言うことを示していた。
(陛下の前で見せた振る舞いといい、王族貴族への知識といい、六公家いずれかの子弟と言われても通用する。)
一体どこで、そのような知識を身に付けたのか興味はあったが、公衛にはそれを口にしないだけの分別はあった。そのような詮索で、竜族の機嫌を損ねる訳には行かない。この戦にあたって竜族の力を借りること、その目的において、この疑問はなんら利益をもたらさないと、公衛は自らに断じた。
「では、そのお言葉に甘えさせて頂きましょう。もし、他になさるべきことがなければ、これから必要な所へ、紹介を兼ねてご案内したいと思いますが。」
「はい、では少しだけ、お待ち頂けますでしょうか。二の竜に断って参ります。」
軽く一礼をして三階への階段を上っていく少年を見つめて、これならばこの塔から出しても問題はあるまい、と公衛は考えていた。
(誰にも、人ではないと気付かれることはないだろう。陛下にも、そうご報告申し上げよう。)
階段を抜けて三階の廊下に出ると、二つ並んだ手前の扉を、コウヨウは何の合図もなしに開いた。すでに心話で行くことは伝えてあったし、そもそも、竜族は目で見なくとも、全ての存在を感じることが出来る。
「何もそんなに、ふて腐れることないだろう?」
壁を睨んだまま、絶対に振り返るものか、と言っている背中に、コウヨウは苦笑しながら声を掛けた。
「これから、案内を受けて下官達の所へ行って来るよ。」
二の竜の為に用意された部屋を一通り見渡して、コウヨウは言った。
(少し冷えるけれど、まだ香が残っている。この匂いは、二の竜の好きな香りではないな。)
「匂いが消えるまで、しばらく窓は開けておくよ。」
まだ拗ねている二の竜を横目で見ながら、部屋に用意された陶器に茶の葉を入れた。お湯を注ごうと、炉の上に載せられた鉄瓶に手を伸ばしかけたところで、横からそれを奪われた。
「自分でやります。あなたに世話なんてさせた日には寝覚めが悪い。」
「随分な言われようだな。」
あくまでも背中を向けたままの二の竜半ば呆れて、コウヨウは階下へ降りようと扉へ歩み寄った。
その背中を追いかけるように、二の竜の怒りに震える声がした。
「何もあの、……あのような振る舞いをされなくとも……!」
パリンと乾いた高い音が響いて、コウヨウが振り返ると、力を入れ過ぎて砕けた茶碗を握りしめ、なお二の竜は、こちらを見ないまま立ち尽くしていた。
「あなたはヒトではない。ヒトとして振る舞う必要などないはずだ。」
不機嫌さを隠そうともしない声で、二の竜が言い募る。
こと一の竜に関することになると、いつもの二の竜らしくなくなる。言いたいことがあるのに、真ん中を射抜く言葉を避けて通ろうとする。と、二の竜の古い友人である三の竜が評した言葉が、コウヨウの耳に蘇る。
(今がまさにそれ、だな。)
幾分意地悪な気持ちで、コウヨウはそう思った。
「相手を知りたいと思ったら、相手の習慣に合わせるのが一番の近道と、ヒトの諺にもある。まさに、それが手っ取り早いし、本音が聞ける。」
「ですが、あれは、必ずしも必要ではなかったはずだ。」
「あれって、握手のこと? 自然な流れだと思うけど。」
その場面を思い出したらしく、砕けた茶碗の欠片をさらに握りつぶす音を聞いて、コウヨウは溜め息をついた。
(やっぱり、竜族にヒトの習慣を理解しろという方が無理か……。これは、こちらが折れた方が後でやりやすいな。)
「分かった、分かった。……じゃあ、いい子いい子、してやるから、この話はこれで終わりだ。」
「ん? 何ですか……それ?」
気をそらされた二の竜が振り返る前に側に歩み寄ると、コウヨウはつま先立ちになって手を伸ばし、くしゃくしゃと長身の二の竜の頭を撫でた。
無造作に触れられて、反射的に二の竜の体が、防御姿勢を取ろうと硬くなる。
「ヒト族の年長の者が、小さな子供に、こうやって誉めたり、慰めたりするんだ。」
(相手に触れる。それはヒトにとっては、ごくごく普通のこと。)
「それは、私が子供扱い……と言うことですか。」
二の竜の声は震えていた。怒りではない。それは恐怖に近い感情だろう。コウヨウは、自分の行為が相手に与える感情をよく分かっていた。
(けれど、竜族にとっては最大の禁忌。そして……。)
「うん。駄々を捏ねるところとか、いい子いい子で機嫌が直ってしまうところとか、子供だね。」
「それはあまりな、言われようでは……。」
「さっき僕も言われたから、あいこだな。」
満面の笑みでそう切り返されては、二の竜に次の言葉はなかった。
「では、下で待たせているから、行って来るよ。」
「はい。我が君。」
思わずいつものように答えて、二の竜はしまったと思った。竜界を出る前にした王との約束。身分を隠すためにヒトの世界では決して口にしてはならないと誓った言葉。それを破ればどうなるか、二の竜はたっぷりと脅されて、この国へやって来たのだった。
不敵な笑みを浮かべたまま、無言で部屋を出て行った主君を見送って、二の竜は、竜界に帰ったらどんな罰が待ち受けているのか、想像もしたくないと思った。
コウヨウが階下へ戻ると、公衛がさりげなく室内の調度を確認しながら待っていた。
「長らくお待たせして申し訳ありません、殿下。」
「いいえ、たいして待ってはおりません。それから、一つお詫びを申し上げなくては。あなたのようにお若い方が一行に加わっているとは想像つきませんで、用意させて頂いた衣服には、あなたに合うものはなかったと思います。急ぎ用意をさせますが……。」
「いえ、その必要はございません。私のような者が一行に加わる事など、例外中の例外のことですから。」
コウヨウは少し考えてから、公衛に尋ねた。
「王族の身の回りの事を行うのは、従僕?……それとも、小性でしたか?」
コウヨウのその言葉に、公衛はまたしても驚いた。
「王宮で、公に雇われているのが、従僕と女官です。それに対して、王族が私的に雇う者が、近侍や侍女。小性はその下で、雑用をこなす者の名称です。」
そう答えながら、この少年には驚かされっぱなしだと、公衛は思った。
竜族は、高位の者でも自分の事は全て自分で行い、付き添いの者を必要としない。だから、この竜族の少年が、そう言う役割の存在を知っていようとは考えていなかったのだ。公衛は、半ば自分に呆れながらも、竜族に対する先入観を改めなくてはならないと肝に銘じた。
「その中には、私くらいの者もいるのではないでしょうか。」
公衛の反応を探るように、コウヨウは言った。
「そうですね。見習いの中には、同じくらいの年齢の者もおりましょう。」
公衛が頷くと、コウヨウは、にっこりと笑った。
「では、その制服の中に、私に合うものも見つけることが出来ますね。」
「それはもちろん。ですが、従僕達と同じ服を身に付けられるおつもりですか?」
そうすれば、全く王宮の者にしか見えないだろうが、と公衛は思った。だが、それはそれで、別の問題が出てくる。
「いけませんか? 新しく服を揃えて頂く手間をお掛けするのは、心苦しく思います。もし、そうしてはいけない理由がないのでしたら、制服をお貸し頂きたいと思います。」
そうコウヨウは言ってから、その上で、と続けた。
「必要でしたら、焔の塔の客人だと示す目印を付ける、というのでは、どうでしょうか?」
考えを読んだようなコウヨウの言葉に、公衛は内心ぎくりとした。勿論、老獪な王族である公衛は、そんなことは噫にも出さなかったが、次の言葉を選ぶまでに、一瞬の間が出来た。
「……それで構わないのでしたら、私に反対する理由はありません。しかし、本当に、それでよろしいのですか?」
「はい。制服を着ていれば、王宮の中で目立つこともないですし、ね。」
十分に含みを持たせたコウヨウの言葉に、やはり、と公衛は腹をくくった。
(ここは下手に思惑を隠して竜族の機嫌を損ねるより、素直に打ち明けて、私が責を負う方が良い。)
公衛が覚悟を決めて、口を開こうとするのを見て、急いでコウヨウがつけ足した。
「竜族に勝手に出歩かれては困るという事は分かります。二の竜も他の者達も、不要に外に出る気は全くないので、その点はご安心下さい。……ですが私は、先に陛下にもお願いしましたように、少しばかり人の世界を見てみたいと望んでおります。」
コウヨウはそこで言葉を止めて、少し考えるような様子をしていた。
「二の竜には呆れられたのですが、その……、私は、ヒトの世界が好きなのです。緑が多くて、たくさんの生き物がいて、鳥や虫や、それからヒトも。時間が空いた時に、少しでも、この世界を眺めることが出来たらと、そう思うものですから。」
照れたように笑って、コウヨウは公衛を見上げた。
「我儘な願いとは思いますが、どうか見逃してはいただけませんか?」
「見逃す、ですか?」
「殿下の仕事の一つは、伝説の生き物である竜と、ヒトとが、不必要な接触をしないように見張ること、ですよね。」
公衛は黙って頷いた。イスタムールの国民の竜族に対する印象は、決して良いものばかりではない。事情を知らない一般の者達が竜族を見たら、大恐慌に陥る事は間違いなかった。そう言った事態を防ぐのが、公衛の役目でもあった。
「そのことならば、黄玄初がお相手すると、すでに陛下がお認めになられているはずです。その条件の下ならば、私が口を挟む事ではありません。」
では、良いのですね、と確認したコウヨウに、公衛は、必ず玄初と行動して下さい、と念を押して、それを認めた。
良かったと、コウヨウの顔が綻ぶ。それを見て、ふと、公衛は孫の顔を思い出した。
(こんな顔で願いをされたら、それに抗うのは至難の技だな。)
「では、この奥宮殿を担当する従僕の控室へ、先ず、ご案内致しましょう。」
そう言って、公衛は先に立って階段を降りた。
だが、誰もいないと思っていた祭壇の間に人の気配がしたので、公衛はコウヨウを留め、先に広間へ入って行った。
「何をしている。」
ぼんやりと壁画を眺めているらしい人影に、公衛は鋭い声で言った。
すると人影は、飛び上がるようにして振り返った。
「これは、殿下。申し訳ありません。」
慌てて膝をつく文官の姿に、公衛は苦笑した。
「私は、何をしているのかと聞いただけだが、先に謝るとは、何かやましいことでもしていたのか?」
「い、いいえ! とんでもありません。俺は、いや、私は……。」
「やましいことがないなら、堂々としていろ、玄初。」
「はい……。」
しゅんとうなだれた若者は、あの歯に衣着せぬ鋭い宰相の弟には見えないくらいに気が弱い。これでは、厳しい荒海の宮中でやって行くのは難しいのではないか、と公衛などが余計な心配をしてしまう程だ。
「玄初様。もしかして、先程からずっとここで、お待ちになられていたのですか?」
公衛の後ろから、コウヨウの声がかかる。
「あ、いえ。特に役目もなかったので、少しここで考え事をしていたのです。どうか、お気になさらず。」
年下の、少なくとも外見はそう見える、コウヨウの笑顔に少しほっとして、玄初は顔を上げた。
「これから、この方を案内して行くのだが……。玄初、お前もついて来ると良い。一緒に紹介してやろう。そうすれば、この方のお相手を務めるのに、何かとやりやすいだろう。」
公衛にそう言われて、玄初はすぐに、お願いしますと答えた。
それから、三人は焔の塔を出た。塔を出ると、そこから真っ直ぐに延びる道の先に、白亜の建物が見えた。そこは、壁に緑玉石の装飾が施されていることから、緑玉宮と呼ばれているのだ、と公衛は言った。
「正面が王のお住まいになられている宮殿で、その左右が、王妃宮と太子宮になっています。」
そして、と公衛は、焔の塔の左右に連なる建物を指し示した。塔の周りには、小さな庭園が作られていて、その庭園の向こう側には、丘の斜面に沿って、幾つかの建物が続いていた。
「これらは、東翼と西翼と呼ばれていて、王族の住まいになっています。」
公衛は回廊を、彼の住まいである東翼の方へ歩きながら言った。
「今回、塔のお世話をする従僕達は、普段は東翼か西翼で働いています。その為、彼らの部屋は各々の建物内にあり、塔からは少々遠くなりますが……。」
公衛がみなまで言い終わらないうちに、コウヨウが答えた。
「構いません。用がある時は、私がそこまで参ります。……その間くらいなら、問題はないでしよう?」
ちらりと後ろを歩く玄初へ目を遣ってから、公衛は、そのくらいなら、と言った。
「ですが、日中は、玄初がお相手するでしょうから、何かあれば、彼に申し付けて下さい。」
分かりました、とコウヨウが応じたところで、東翼から一人の若者が姿を見せた。恐らくは、公衛達が焔の塔から出て来たのを見ていたのだろう。彼はすぐに、公衛に近づいて来た。
「李瑛か。少々変更があるのだ。」
見知った顔のその従僕に声をかけ、公衛はコウヨウを振り返って、こちらへと手招きした。
「コウヨウ殿。この者は李瑛と言って、東翼に働く従僕の中で組頭を務めている者です。従僕達は、幾つもの組に分かれて仕事をしているのですよ。組頭は、そのまとめ役です。」
そう紹介されて李瑛は、どうぞお見知り置き下さい、と軽く頭を下げた。
「塔の中の事は。私ではなく、この方がされることになった。」
他の組頭にもそう伝えておくよう公衛が言うと、李瑛は、お客人自らですかと、不思議そうな顔をした。公衛はそれに頷いて肯定してから、背後の玄初を示した。
「それから、黄玄初が、コウヨウ殿の代わりに動くこともあるだろうから、心得ておいてくれ。」
李瑛は玄初に目礼して、承知いたしました、と答えた。
「後は……、あなたの着替えのことでしたな。」
そう言ってから、公衛はしばらくの間、黙り込んだ。
「そうだな。李瑛、この方に合う大きさの制服を揃えてくれるか。……それに奥宮を示す肩章を、国章の入った物だ、それを付けておいてくれ。」
「私達の制服を……ですか?」
それで良いのかと確認するように、李瑛はコウヨウに目を向けた。
「そうして頂けると助かります。」
「戻りに受け取る。」
コウヨウの答えに重ねて、そう言った公衛に、李瑛が一礼をして下がって行く。それを見送って、公衛は再び、東翼を歩き始めた。
「さて、用意が出来るまで、もう少し城の中を案内いたしましょう。この奥宮殿は丘の上に建っているので、眺めがとても良いのですよ。」
一つ目の建物を通り抜けて階段を下り、二つ目の建物の外廊下へ出ると、公衛は、コウヨウを楼台へと導いた。コウヨウは珍しそうに、建物の装飾や植え込みの植物を眺めながら歩いている。
公衛はそれとなく、すれ違う従僕や女官達の様子を窺っていたが、誰一人として、コウヨウに注目する者はいなかった。彼らは皆、先頭を歩く公衛の姿をみとめると道を譲って頭を下げ、彼らが通り過ぎるのを見送った。
「東翼も西翼も、段々と丘裾へ下るように建っておりますので、建物を移動されると、初めは混乱されるかもしれません。」
楼台へ出た公衛は、そうコウヨウに言った。
楼台からは、眼下に広がる大庭園と花の宮殿、そしてその先には王宮広場と、広場の両側に建つ左右の騎士宮が見渡せた。
目を移すと、一段高くなった場所に焔の塔が見える。奥宮殿が建つ小高い丘は、焔の塔のある中央部分へ向けて抉り取られたような形になっていて、塔の真下は、垂直に切り立った岩壁になっていた。丘の背後には川が流れているから、焔の塔とその奥にある緑玉宮へは、東翼か西翼を通らなければ行けない構造だ。
公衛達が今いる楼台は、この建物の三階部分にあったが、先程通り抜けて来た建物から見ると、そこは地階になる。
「奥宮殿で働きはじめた者が経験する最初の試練が、この建物の複雑さかもしれません。玄初も半月ほどは、迷子になっていたのではなかったか。」
「一ヶ月以上です。」
公衛に言われて、玄初は情けなさそうに答えた。
「最初は兄の部屋から出た所で、どちらに行けば良いのか分からなくなって、随分と呆れられてしまいました。」
まあ、毎日ここにいた訳ではなかったから仕方ないと、公衛は笑った。
「宰相閣下も、奥宮殿にお住まいなのですか?」
「ええ。国王陛下のご配慮で、特別に。……黄家の当主である兄は、本来は、他の六公家の当主と同じように、あの花の宮殿の中に住まいを与えられています。」
そう言って玄初は、大庭園の向こうに見える緑の屋根の建物を指差した。
「ええっと、六公家と言うのは、蒼、紅、黄、白、黒、緑の各家のことで、このイスタムールはこの六つの氏族の連合国なのですよ。」
玄初の説明に、はい、と答えて、コウヨウは微笑んだ。その様子を見て、玄初が僅かに首を傾げた。
「……もしかして、ご存知でしたか?」
不安そうに聞いた玄初に対して、コウヨウは、いいえと首を振った。
(焔の塔のやり取りからして、彼がそれを知らないはずはないが……。)
そう思ったものの、公衛はそれを口には出さなかった。代わりに公衛は、陛下は、忙しい宰相の移動時間を惜しまれたのでしょう、と言った。
「ご覧の通り、花の宮殿から奥宮までは、少し距離がありますので。」
公衛のその言葉に、玄初も頷いた。
「兄は宰相になった時に、陛下から奥宮殿の西翼にも居室を頂きました。」
と、今度は、丘の反対側を指し示して、玄初は続けた。
「兄は、国王陛下が宮殿においでの間は花の宮殿にいて、奥宮へ戻られた後は、西翼で仕事をするのです。そうすれば、すぐに陛下の所へ伺えますから。」
「……玄初様は、お兄様のことを敬愛していらっしゃるのですね。」
唐突にコウヨウにそう言われて、玄初は、え、と言ったまま絶句した。
「だって、お兄様のことを話される玄初様は、とても嬉しそうですもの。」
笑いながら玄初を見上げるコウヨウの側では、まったくだ、と公衛が苦笑いを浮かべていた。
「宰相を兄と呼ぶ癖が、まだ抜けていないな。……国官としての自覚が薄い。」
しまったと言う顔をして、玄初は、申し訳ありませんと謝罪した。
「少し羨ましく思います。」
コウヨウはそう言って、焔の塔へ視線を移した。それを見た玄初は、ふと、竜族の家族はどんな感じなのかと考えた。だが、玄初がその疑問を口にする前に、そろそろ戻りましょうか、と公衛が声を掛けた。
「他の場所へは明日以降、玄初がご案内することになりましょう。」
公衛はそう言いながら、一瞬、含みのある視線を玄初へ向けたが、それ以上はなにも言わずに、コウヨウを連れて歩き出した。
戻る道すがら、公衛は、厨房や井戸の場所など、奥宮殿の構造を一通りコウヨウに説明しながら歩いた。三人が焔の塔の近くまで来ると、李瑛ともう一人の従僕が、彼らを待ち構えているのが見えた。
公衛達が近付くと、李瑛は歩み寄って来て、コウヨウにもう一人の従僕を紹介した。彼は子岐という名前の従僕で、玄初も見知っている物だった。
「子岐は、西翼の組頭の一人です。黄玄初様がご一緒と言うことでしたので、西翼をご利用されることもあるかと思ったものですから。」
「その方が助かります。俺……私は、西翼の方が慣れていますから。」
玄初の言葉に、子岐がちらりと笑みを零した。仕方のない奴だ、と公衛にも笑われて、玄初は顔を赤らめた。
「それから、こちらに制服を一揃い、ご用意してあります。」
李瑛はそう言って、二つの籠を差し出した。公衛は、それを開けさせて、その肩に付けられた記章をコウヨウに見せた。
「この緑の肩章が、彼らも身に付けているように、奥宮殿で働く者を示しています。そして、緑と銀の飾り紐と国章は王直属の印、これを帯びた者は、王の宮である緑玉宮へ入ることが出来ます。」
はい、とコウヨウが頷いたその一方で、玄初が、奥宮殿と言っても、王の印は注目されますね、と少し困惑したように呟いた。
「ええ。ですが、声を掛けられることは、まれでしょうから、助かります。」
普通に用事を言いつけられたりしたら、どうすれば良いか分かりません、とコウヨウが笑うと、李瑛も子岐も笑いながら、その時は、私達に申し付けて下さいと言った。
それをやや渋い顔で見ていた公衛は、しかし、何も言おうとはしなかった。
「他に、何かご入り用の物はございませんか?」
子岐がそう尋ねたのに対して、コウヨウは、しばらく考えてから公衛を見上げた。
「少し花を分けて頂いても良いですか。」
コウヨウはそう言って、庭園の植え込みを指差した。
「え? りゅう……。」
竜族は確か、花は嫌いだったのではないか、と玄初は思わず言いかけたが、公衛の大きな声が、先にそれを制した。
「勿論ですとも。」
お好きなものを従僕達に取らせて下さい、と言いながら、公衛は玄初を軽く睨んだ。指示を受けて、李瑛と子岐が側を離れたのを見て、コウヨウが玄初へ顔を寄せた。
「嫌いなのではなく、見慣れていないだけだと思います。」
小声でそう囁いたコウヨウに、玄初も声を落とした。
「花を……ですか?」
「ええ。私達の所で花が咲くのは、特別な季節ですから。」
「特別……?」
それはどんな時なのか、と玄初が考えている間に、李瑛と子岐が戻って来た。二人が摘んで来た花を受け取ると、コウヨウは目を細めて笑った。その姿を見て、まるで小さな子供みたいだな、と玄初は思った。
「あぁ、雨だ。」
ふいに、コウヨウが声をあげて空を見上げた。
奥宮殿は全て屋根のある廊下で繋がっているので、すぐに濡れる心配はなかったが、それでも風が吹けば雨が入る。公衛は一行を促して、焔の塔へ急がせた。
ところが、李瑛と子岐が塔の入口まで荷物を運び入れ、一礼をして去って行った後も、コウヨウは塔の前で空を見上げたまま、中へ入ろうとはしなかった。
「にわか雨ですね。空が明るいのですぐに止むでしょうけれど。」
玄初は、そんなコウヨウを不思議そうに見ながら言った。
「そうしたら、虹が見られるでしょうか?」
「ええ、陽もだいぶ傾いて来ましたから、見られるのではないでしょうか。」
玄初がそう答えると、コウヨウは満面の笑みを見せた。
「……にも、見せてやりたいな。」
「えっ?」
突然に、コウヨウの声音が変わって、聞き取り難い響きになったので、玄初は思わず聞き返した。
「あぁ、いいえ。……私達の所では、雨は降りません。それなのに、花の咲く時期を雨の季節と呼ぶのですよ。」
コウヨウは廊下の端に歩み寄って、雨の中に手を伸ばした。
「ええっと、花が咲くから、雨の季節ですか? 雨が降って花が咲くのではなく?」
玄初が尋ねると、霧が出るのです、とコウヨウは答えた。
「数年に一度、谷筋から霧が湧いて、国土を覆い尽くします。そうすると一斉に草が芽吹いて、花が咲くのです。……こちらの花のような鮮やかな色はしていませんが、それでも、褐色の大地に、その時だけ色がつく。」
そう言ってから、コウヨウは玄初を振り返って、少し考え込んでいた。
「……さっきの答え、訂正しておきます。」
何のことかと、玄初が口に出す前に、コウヨウが続けた。
「花が嫌いか、と言う話です。見慣れないのではなくて、皆、落ち着かない気持ちになるのでしょう。花を見ると、心が騒ぎます。」
「それは……、俺だって、春になって久しぶりに花を見れば、嬉しくなります。」
でもその時の自分は、きっと嫌な顔はしていないだろう、と玄初は思った。
「浮かれる……と言うのかな、祭りの気分のように。重要な任務の途中で、気が緩んではいけないと考えるから、……そんな気分にさせる花は、見たくないと思う。」
コウヨウは、慎重に言葉を探している様子だった。
「ここへ来る者達は、皆、とても緊張しています。何しろ、環境も言葉も習慣も、全く異なる土地に行くのですから。……もし失態をして、ヒトの王を怒らせでもしたら、戻って主君からどんな叱責を受けるか。そう考えて、戦々恐々としているのですよ。」
「それじゃあ、俺と大して変わりませんね。」
玄初の言葉に、コウヨウは一瞬、呆気にとられたような顔をして、それから、声をあげて笑い出した。
「ふふ……、あははは。」
ひとしきり笑ってから、コウヨウは塔を見上げた。
「……彼らも、そう思ってくれれば良いのに。」
そう呟いたコウヨウの横顔は、少し寂しそうに玄初には思われた。
「では、私はそろそろ戻ります。……殿下、本日は有り難うございます。」
「明日からは、玄初が伺います。今日はゆっくりとお休み下さい。」
公衛の言葉に一礼して、コウヨウは焔の塔へ入って行った。
それを見送ってから、公衛は、玄初を東翼まで連れ出した。
「全く、お前は危なっかしいな。」
公衛が溜め息まじりに呟いた。
「申し訳ありません。」
「……まあ、それが、お前を選んだ陛下の意図でもあるのだろうが。」
公衛は少し声を落とした。
「玄初。あの方が塔から出られる時は、必ずお前が付き添うように。お客人の滞在の間、お前は普段の仕事から一切解放されることになる。しっかりと見張るのだぞ。」
「え? は、はい。」
真意が分からないという様子の玄初を見て、公衛は眉を顰めた。
「何かあれば、すぐに私か、宰相に知らせること。それから、あの方の望む場所には、逆らわずにお連れするのだ。質問にも、お前の知る限りのことをお答えせよ。それと、これは何度も聞かされているとは思うが、竜族には決して嘘を言ってはならん。その加護を失う。」
「はい。」
真剣な顔で玄初は頷いた。
「あと、城の中では、必ず記章を身に付けていて貰うように。それが、あの方の身を守ることにもなる。王の印とお前の黄玉の飾りを見れば、よもや妨げるような者はいないだろうが……。」
公衛の視線が、胸元の飾りへと向けられたのを見て、玄初は、思わずそれに手をやった。それは国官として働き始めた時に、お守りだから、常に身に付けているようにと言われて、兄に貰った物だ。
(……そうだ。この後、兄上の所へ行くのだった。)
黄玉石から、祭壇の間での兄の厳しい顔を思い出して、玄初は少し憂鬱になった。兄に呼び出されたと言うことは、何かしら注意をされるのだろう。失敗をしないようにと、いつも気を付けてはいるのだが、兄に小言を言われずに済んだ日は、今までに一度もなかった。
「聞いているのか、玄初。」
そう公衛に言われて、玄初は慌てて、分かりましたと答えた。
「……まあ、良いか。陛下のご判断を信じよう。」
幾分呆れたように呟いて、公衛は玄初を解放した。
第一章 ―3―
§
コウヨウが塔の中に入ると、入り口に置いてあったはずの荷物は、既にそこにはなかった。二階に上がると、広間に据えられた大卓の横で、二の竜が気まずそうに立っていた。李瑛達が用意してくれた二つの籠は、大卓の上に置かれている。
(雨の後で、風が一段と冷たくなったな。)
コウヨウは、部屋の中の香の匂いが消えているのを確認して、窓に近づいた。
「あ、虹だ!」
目に飛び込んで来た鮮やかな色に、コウヨウは思わず声をあげた。その声を聞いて、二の竜も窓際に寄って来た。
「ほら、空に七色の輪だよ。」
しかし、コウヨウが指差した方向を見遣って、二の竜は盛大に嫌そうな顔をした。
「……ギズルガ。」
そう言って二の竜は顔を背けると、さっさと窓際から離れて行った。
「綺麗だと、思うけどな。」
二の竜の賛成は得られないみたいだ、とコウヨウは呟いて、もう一度、虹を見上げてから窓を閉めた。
それから持って来た花を大卓の上に広げて、コウヨウは、部屋に用意されていた器にそれらの花を適当に挿し始めた。
「アルドゥレイも、好きなものを持って行くと良い。」
傍らに立ってその作業を覗き込んでいる二の竜に、コウヨウは言った。
「……別に、要りません。」
素っ気なくそう言った割に、二の竜はコウヨウの手元から目を離さない。コウヨウは、小さな器に短く切った数輪の花を入れて、二の竜の前に置いた。
「じゃあ、それがアルドゥレイの分。後は、この部屋に飾って置くとしよう。」
「必要……ですか、それ。」
花の入った器をしげしげと見つめて、二の竜はが訊いた。
「ほとんどの時間を、この塔だけで過ごすのだから、少しでも楽しみがある方が良いだろう?」
それを聞いて、二の竜は僅かに眉を顰めた。
「では、彼らは、私達のことを隠し通すつもりなのですね。」
「そのようだね。」
「ギズルガとの戦いになるのです。私達はその為に、ここに来たのでは。」
「どうだろうね。……しばらく様子見ではないかな。」
コウヨウは、器に入りきらない花をどうしようかと思案しながら、そう答えた。
「ヒトだけでギズルガに対抗出来るとでも、考えていると言うことですか?」
二の竜の語気が強まり、コウヨウは手を止めて、二の竜を振り返った。
「と言うより、それほど深刻な状況ではないと、思っているのだろう。」
「私達の領土へ余波が届くほどの地異が、ギズルガに起こったのですよ。彼らがヒトの領分へ手を出した事は明らかです……それこそ、九十年前の我が方のように。」
「そのことをヒトの王が知るはずもないだろう? それに、聞かれない限り、こちらからは何も言うことはできない掟だ。」
コウヨウはそう言うと、別の器を持って来て、残った花を挿し始めた。二の竜は、自分に与えられた花を手に取り、しばらくの間、渋い顔でそれを睨んでいた。
「やはり、お一人で出歩かれることには、賛成いたしかねます。」
「その事は、もう何度も話しただろう。」
「ですが、ヒトに対して、私達の力を使ってはならないと言う定めがある中、万が一、何かあった場合、あのヒト族の若者では頼りなさすぎます。せめて、あなたを守れるくらいの者が……。」
「二の竜。それは、私がヒトに守って貰わなくてはならないほど、劣るということか?」
コウヨウの声から一切の感情が消えた。静かな声であったが、それは大声で一喝されるよりももっと、二の竜に対して効果があった。二の竜は、鞭打たれたかのようにその場に膝をついた。
「い、いいえ。決して、そのようなつもりではございません。」
コウヨウは溜め息をついて、二の竜の方へ向き直った。
「本当に呆れるくらいの心配性だな。ヒト族が何人束になっても、私には敵わない。譬えヒトの力しか使えないとしてもね。それは、お前が一番よく知っているだろう?」
はい、と答えたものの、二の竜は顔を上げなかった。
「だから、心配いらない。」
「はい。ですが……。」
「まだ、蒸し返すの?」
コウヨウの声に、幾分かの不機嫌さが混じり、二の竜は更に深く頭を下げた。
「いいえ。反逆に等しいことを申し上げてしまいました。ですから、処罰を……。」
「不問に付す。」
「しかし、それでは。」
「他には、誰も聞いていた者はいない。お前が忘れれば、何もなかったと言うことだ。」
二の竜は黙ったまま、跪いて胸の前で両手を重ね、恭順の意を表す竜族の礼をした。
コウヨウはそれに作法通りの祝福を与えてから、それ以上は何も言わず、また花を生ける作業に取りかかった。
§
「あんなこと、言われたって……。握手を求められて、それに応じないで、尚且つ、失礼にならないようにするなんて芸当、俺にはできないよ。」
玄初は西翼の部屋に入ると、寝台に突っ伏してぼやいた。
普段、玄初は、街の黄家の邸から出仕しているのだが、竜族を接待する大役を仰せつかったので、いつでも飛んで行けるようにと、兄が西翼の部屋の一つを彼に貸し与えてくれたのだった。
コウヨウと別れた後、いつものように、手が空くまで待っているよう言われて、兄の仕事が一段落するのを別室で待っていた。
しかし、部屋に入って来るなり、兄は叩きつけるように言ったのだった。
「どういうつもりだ。竜族は触れられることをもっとも嫌う、と教えたはずだが。」
何のことか分からず、唖然としている玄初を見て、子清は苛々とした口調で続けた。
「何故、二の竜に睨まれていたか、という話をしているのだが……。」
あぁ、とようやく思い出した様子の弟に、子清は、あからさまな溜め息をついた。
「竜族の機嫌を損ねたら、どんなことになるのか想像はつくだろう。我々はその為に念入りに準備をしてきたのだ。それをお前は、ぶち壊しにするつもりか。」
「申し訳……ありません。」
「剰え、お前は何故、二の竜が機嫌を損ねたのかという理由を、考えることもしなかったのだな。」
兄の言葉に黙って俯く以外、玄初は、どうすることも出来なかった。
「必要なことは教えた。そして、お前には、その知識を活かす能力がある。だから、その時、最も良いと思う答えを探しだすのだ。常に最上の答えを選べるとは限らない。だが、それが最上でなかった原因を見つけておけば、次には最上の答えに辿り着く可能性が高まる。その努力を惜しむな。」
玄初は俯いたまま、無言で頷いた。また兄の期待に答えられなかった、と言う情けなさに、顔を上げて兄を見ることが出来なかったのだ。
(……またやってしまった。)
一方、そんな玄初の様子を見て、子清もまた、弟に聞こえない程の小さな声で何事か呟いた。
それからお互いに、幾度か迷うように口を開きかけたが、結局、どちらも何も言わなかった。そのまま、二人の間に長い沈黙が落ちた。
先に動いたのは、子清だった。子清は、窓に歩み寄り、玻璃を透かして外を見た。昼間ならそこから焔の塔と東翼が見えるはずだが、すでに日は落ちて外は真っ暗だ。
「……何故あの竜族の少年は、わざわざ二の竜の機嫌を損ねるような行動をしたのか。その意図は何だ。どうして、外に出て、この国を見てみたいなどと言い出したのか。何の目的で、私達と同じように振る舞うのか。……それにあの外見も。」
心中の考えをそのまま口に上らせたような子清の独言に、玄初は窓に映った兄の表情を窺った。兄がそんな言い方をするのは、とても珍しい事だったからだ。
「玄初、それをお前に探って欲しい。」
そう言われて玄初は、顔を上げて兄を見た。
「コウヨウ様が、ここに来られた理由……ですか?」
そうだ、と頷いた兄の瞳は、いつものように冷静で思慮深く、そして、いつもより少しだけ寂しげに見えた。
「……出来る限りやってみます。」
その答えを聞いた子清は、西翼に部屋を用意してあると告げて、部屋を出て行った。
しかしその夜、兄の言葉と竜族についての様々な疑問が頭の中を駆け巡って、玄初は、ほとんど眠ることが出来なかった。
翌日の昼刻、玄初は花の宮殿から西翼を抜けて、焔の塔へ向かっていた。
昨日の公衛の言葉通り、玄初は、今日から国王陛下の特別任務に専従するという通達があり、普段の仕事は行わなくて良いことになっていた。
だが、朝になって玄初は、コウヨウから、午前中はお休み下さい、との伝言があったと知らされた。やることのなくなった玄初は、いつものように、午前中は仕事に出ることにしたのだった。ところが、王の任務と聞いている上官は、玄初の姿を見つけると、すぐさま戻るよう言って、彼を追い返した。それで仕方なく、玄初は奥宮殿へ戻って来たのだった。
(コウヨウ様の目的……か。)
やってみると兄に言ったものの、竜族の機嫌を損ねずに、その意図を探る方策など、玄初には一つも思いつかなかった。
(でも、兄上の手助けをしたくて、国官になったのだから……。)
玄初は一つ深呼吸をして、焔の塔の扉を開いた。
玄初が塔の中に入るのと同時に、二階へ続く階段から、コウヨウが姿を現した。
「こんにちは。玄初様。」
驚いた様子もなく声を掛けて来たコウヨウを見て、玄初は、彼が自分を出迎えに降りて来たのだと気がついた。
「俺がここに来るのを、見ていたのですか?」
見ていた訳ではありませんが、と言葉を切って、コウヨウは笑った。
「では、どうして分かったのですか?」
「玄初様が、知らせて下さったのです。」
「え、俺が?」
そうです、とコウヨウは答えて、玄初をじっと見つめた。
「え……っと、それは、どういうことですか? 俺は、花の宮殿から、直接ここへ来ましたし……。あぁ、俺は、先触れもせずに来てしまったんだ!」
慌てて無礼を詫びた玄初に対して、くすり、とコウヨウが笑った。
「その必要はありません。先に言いました。玄初様が知らせて下さった、と。……それで充分です。」
そう言われても、玄初にはさっぱりその心当たりがない。
「……すみません。俺には、全く分からなくて。俺はどうやって、あなたに知らせることが出来たのでしょうか? その……それを知っていれば、今後の役に立つでしょうから。良ければ教えて下さい。」
玄初の言葉に頷いてから、コウヨウは僅かの間、考え込むようにしていた。
「塔に来られるまでの間、私のことを考えていらっしゃいましたよね?」
そうコウヨウが言ったので、玄初は驚きながらも、そうだと肯定した。
「それが、知らせになります。……誰かが私達に意識を向ける時、私達はそれを感じることが出来ます。その思いが明確であればあるほど、それは強い信号となって私達に届く。」
「意識を向けると、信号になる……? 信号……とは、どんなものなのですか?」
困惑したような玄初の様子に、コウヨウもまた、困った顔をした。
「……そう、ですね。感覚を言葉にするのは、とても難しい。玄初様が、暗闇で火を見れば、明るいと感じる。触れなくとも、暖かいと感じる。それと同じように、私達は、生き物の発する意識を感じることが出来るのです。」
コウヨウの譬え話を聞いて、玄初はふと、伯暖王のことを思い出した。王が近くにいらっしゃると、玄初は何故か、暖かいような、ほっとするような、そんな気持ちになった。竜族について兄から授業を受けていた時、玄初は、大抵その感覚で、王が近くまでお出でになられていることが分かったものだ。
「それは、誰に対しても、そうなのですか?」
「近くにいれば、全ての存在、各々について。離れていれば、漠然とした全体の雰囲気のように。」
「じゃあ、誰がここに来るのかも、事前に分かるってことですね。……では、近くとは、どのくらいの範囲なのですか?」
「ふふっ。玄初様は、探究心旺盛ですね。」
コウヨウに言われて、玄初は兄から散々聞かされていた、竜族は詮索を嫌うという言葉を思い出し、内心冷や汗をかいた。
「ごめんなさい。気に障ったのならやめます。」
コウヨウは、そんな玄初の心の内も読んでいるかのように、大きな笑い声をあげた。
「あぁ、すみません。笑ったりして。……いいえ、私は二の竜から、ヒト族は私達に興味がない、と聞かされていたので。ヒトは私達を知ろうともしないと。……でも、それはお互い様ですね。」
玄初は、どう返事をして良いものか分からず、黙ってコウヨウの言葉を待った。
「どこまで個人を識別出来るか、という話でしたね。」
笑いをおさめて、コウヨウは言った。
「それは、私達がどれだけ敏感になっているかにもよります。ヒトも、集中していれば、些細な物音にも気が付くでしょう?」
そうですね、と玄初が頷くと、コウヨウは、それと同じことです、と続けた。
「私が集中している時は、この奥宮殿の範囲くらいなら、私達に関する話をしていることが分かります。ただし、奥宮殿にはたくさんのヒトがいますから、それは非常に疲れることです。ですから、私はこの塔を囲む回廊の範囲くらいにしか、その感覚を広げていません。」
「それなら俺は、この塔の近くへ来たら、今から行きます、と念じれば良いのでしょうか?」
玄初の問いに、コウヨウは首を横に振った。
「玄初様に限って言えば、それは違います。」
何が違うのか、と玄初が言おうとしたところで、先にコウヨウが口を開いた。
「玄初様なら、どこにいても、私に意識を集中して下されば、私には分かります。」
コウヨウはそう言って、握手を求めるように、玄初に手を差し出した。
「ヒトの持つ意識の力は弱いので、区別しにくいのですが、触れればその詳細を知ることが出来ます。私はもう、玄初様の特徴を覚えましたから。」
「それで、握手を求めたのですか……。」
昨日のことを思い出して、玄初は一人納得したように呟いた。
「それは、どうでしょうね?」
「違うのですか?」
さぁね、と笑みを浮かべて、コウヨウは言葉を濁した。
「ですが、気を付けて下さいね。」
「え? 何を……?」
「私達は、ヒトの意識に上る物事を知ることが出来る、と言っているのです。」
真正面からコウヨウに見据えられて、玄初はその黒い瞳から目が離せなくなった。
「こうして目の前にいれば、ヒトの意識は自然と相手に向きます。そして、その状態で考えることは、ほとんど私達に伝わります。まして玄初様は、より注意をしなくてはなりません。先程申し上げたように、玄初様と私の間には、距離の制限がないのですから。……昨夜は一晩中、私達の事を考えて、全く眠っていらっしゃいませんよね?」
「あ……。」
玄初は、昨晩からあれこれ悩んでいたその内容を思い出して、青くなった。
「止めにしませんか? こんな探り合い。」
コウヨウの口元は微笑んでいるが、その声は幾分低かった。
その言葉を聞いて、玄初がまず思ったことは、また兄に叱られると言うことだった。だが、事はそれだけに収まらない。兄からの頼みをやり遂げられなかったばかりか、それを竜族に知られてしまったのだから。それに、玄初はすでに一度、伯暖王の前で、二の竜の機嫌を損ねるという失敗をしている。二度の失態は、彼を推薦してくれた王の期待にも背くことになる。
(どうしよう。……どうすれば、挽回できる?)
これでもし、竜族の機嫌を損ねて、この国を見捨てられでもしたら、国官として、民にも申し訳が立たない。そう考えれば考えるほど、焦るばかりで次の言葉は浮かんで来なかった。
「あの……俺は、その……。」
「竜族に疑問を差し挟むのは、怒りに触れる……ですか?」
コウヨウの声音は、冷たい。
「それは……。」
玄初は、何とか言葉を継ごうとした。
(確かに皆、そう口にする。でも、本当はそうではない。それだけではなくて……。)
(違うのです。……竜族が恐ろしいのではなくて。)
(竜族は恐ろしいと思う。だって、外見も違うし、不思議な能力も持っている。……明らかに、俺たちとは異なる。)
玄初は息苦しさを覚えていた。目を逸らせたくても、コウヨウの黒い瞳が、一段とこちらに迫って来るように感じられて、身動きが取れなかった。
「ええ。ヒトと私達とは大きく異なります。……この会話だってそうです。」
コウヨウの表情は、冷たい微笑を浮かべたまま動かない。
(でも、コウヨウ様は変わらない。俺たちと同じだ……。)
「本当に、そう思っていますか?」
感情の籠らない声で、コウヨウは唇を動かさずに言った。その顔はもう、笑ってはいなかった。
「え……?」
ようやく気が付いた違和感に、玄初が意識を向けたその時、突然、祭壇の広間に、二の竜が姿を現した。
「何をした!」
二の竜の瞳は、真っ直ぐ玄初を見据えている。
「違うんだ。二の竜。」
何が起きているのか理解できない玄初を庇うように、コウヨウは、二の竜と玄初の間に立ち塞がった。二の竜はぴたりと足を止めたが、依然として、玄初をきつく睨みつけていた。
『答えろ。何故、我が君を怒らせた。』
二の竜の声は、まるで獣の咆哮のようで、何を言っているのか全く聞き取れなかった。その一方で、玄初の頭の中には、その意味が浮かぶ。
『やめないか。アルドゥレイ。』
囁くようなコウヨウの言葉は、玄初には意味が分からなかった。
『答えろと言っている。』
玄初の頭の中に聞こえる二の竜の声が、割れんばかりに大きくなった。玄初には、その声が力ずくで、彼の頭の中をこじ開けようとしているように感じられた。その力に押さえつけられて、玄初の意識が遠退きかける。
ぐらりと、身体が傾ぐのを感じて、思わず玄初は何かに掴まろうと手を伸ばした。振り返ったコウヨウが、玄初を助けようと一歩を踏み出したが、その腕を二の竜が捉えて引き止めた。
『二の竜!』
コウヨウは二の竜の手を払いのけ、玄初の体を引き寄せた。おかげで玄初は、コウヨウに抱きつくような形になって、辛うじて床に倒れ込むのを避けることが出来た。
「大丈夫ですか?」
まだ少し朦朧としながらも玄初が頷くと、コウヨウはそっと彼を立ち上がらせ、それから、茫然と立ち尽くしている二の竜を振り返った。
二の竜は、はっとしたように膝をつき、慌てて頭を垂れた。ほんの一瞬、コウヨウは二の竜を睨んだが、すぐに視線を逸らし、気を静めるように一つ小さな溜め息を吐いた。
「あの……。」
玄初は何か言わなくては、と口を開いたが、次の言葉は出てこない。
「……上に行っていろ。」
コウヨウに命じられて、二の竜が顔を上げないまま退出して行く。それを見送って、コウヨウが玄初に向き直った。
「大変申し訳ありません、玄初様。あなた様に不快な思いをさせましたこと、全て私の責任でございます。」
コウヨウはそう言って、深々と頭を下げた。
「や、やめて下さい。あの……、頭をあげて下さい。」
玄初の言葉にも、コウヨウは動かない。
(違う。言いたいことは、そうではなくて……。)
「その、謝るのは、俺……私の方です。……隠れてあれこれ探られるのは、誰にとっても嫌なものです。……私も、黄家の名前を貰った時に、そういう思いをしました。」
(そう、だから……。)
玄初は、ようやく言いたかった言葉を見つけた。
「俺は、竜族と仲良くなりたい。竜族の事をもっと知りたいと思っています。あなたが何か目的があって、この国にいらしたのなら、俺は、そのお手伝いをしたいと思います。だって、竜族は永い間、この国と国民を守って下さっている大切な協力者ですから。それに……。」
花を見て笑い、失敗を恐れて堅くなり、大切な者を守るために怒る。その行動は、玄初にも十分に理解できるものだ。だから、違いばかりではない、と玄初は思った。
「分からないから恐ろしいのなら、分かり合えれ
ば、友人になれるかもしれない。」
ふふっと笑う声がして、玄初はふと、相手が誰だったかを思い出した。
(そうだ、さっきの二の竜の言葉。俺よりも年下見えるから、つい気を緩めてしまうけれど……。)
「あ、ごめんなさい。……じゃなくて、申し訳ございません。その、わ……私は、その……、そんなつもりではなくて……。国官としても下位の私が、仮にも王に……。」
竜王に対して、友達などと不敬な事を言ってしまった。そう続けようとした玄初を、コウヨウが、遮った。
「玄初様、その呼び名は、口に出さないで下さい。……本来ならば、私はヒトの世界に出てはいけない掟になっているのです。ですから、どうかコウヨウと呼んで下さい。」
お願いします、と言われては、玄初は、分かりました、と答えるしかなかった。
「伯暖王があなたを選んでくれて良かった。」
コウヨウは、玄初に笑みを見せた。
「……もし許されるのなら、私も、あなたをもっと知りたいと思っています。ですが、今日はもうお帰り下さい。不眠不休では、玄初様の身体が持ちませんよ。午前中は、お休み下さいと申し上げましたのに、結局、出仕されたのでしょう?」
「あ……、はい。」
玄初は、赤面して俯いた。何だかコウヨウは、母か兄のようだ。
「宰相閣下には、玄初様が見聞きした通りのことを、お話し下さって構いません。」
その言葉に、そもそもの発端を思い出して、玄初はコウヨウの表情を窺った。だが、コウヨウは微笑んで玄初に会釈をすると、そのまま広間から出て行ってしまった。
その顔色が僅かに優れなかったことが、玄初は気になっていた。
§
「目の前にいる者の考えを読み取ることが出来る、と言ったのだな。」
焔の塔から出ると、玄初はその足で、花の宮殿にある兄の執務室を訪れた。玄初は、なるべくコウヨウの言葉を変えないように気を付けながら、塔の中で起こった出来事を兄に話した。子清は黙って玄初の話を聞いた後、それを吟味するように、しばらくの間考え込んでいた。それから、確かめたい事があると言って、玄初に幾つかの質問を投げかけた。兄がそうやって、厳密に情報を確認するのは常日頃の習慣だ。
正直なところ、玄初はその時間が苦手だった。兄の質問はいつも、玄初が見ていない物事を鋭く指摘した。玄初はその度に、自分の至らなさを反省するのだった。
「はい。強く思っていることほど伝わる、と。」
「では、お前は余程気を付けて、彼らの相手をしなくてはならないことになるな……。」
「えっと……。はい、気を付けます。」
そう答えながら玄初は、コウヨウが、彼だけは特別だ、と言ったことは、兄に告げない方が良さそうだと考えていた。
玄初の返事を聞いた子清は、一瞬、何か言いたげに彼を見つめた。しかし、しばらくの沈黙の後、子清は視線を窓の外へ向けた。
「もういい。……今日は街の邸に戻って休むと良い。」
でも、と言い止した玄初に、子清は手を伸ばして、彼の頬を軽く撫でた。
「昨夜は寝ていないのだろう。目の下に隈が出来ている。……慣れない役目の上に、難しい頼みをしてしまったな。申し訳なかった。」
そう兄に言われて、玄初は胸が痛んだ。兄の期待に添えなかったのは自分の方だ。だから、もう一度やらせて欲しい。玄初は兄にそう言いたかったが、子清はすぐさま側付の者を呼んで、玄初を、街の邸まで送るよう命じた。
他に人のいる場所で竜族の話をする訳にはいかない。玄初は結局、それを兄に伝えられないまま、王宮を離れるしかなかった。
§
面談が終わったのを見計らって、宰相の子清が伯暖王に近付いた。
「陛下、少々お時間を頂けますでしょうか?」
次の予定は、子清を含めた高官達との会議になっているはすだ。それを前にして、話したい事があると言うのは、不都合があったと言うことだろう。
頷いた伯暖王に、子清は人払いを願い出た。
「客人のことだな。」
側付の者が部屋を出て行ったことを確認してから、伯暖王は子清に言った。
「はい。……先ずは、陛下にお詫びを申し上げます。」
「どうした。玄初が何かやらかしたのか。」
そう言って笑った伯暖王に、子清は、その通りです、と苦い顔をして子細を語りはじめた。
「気にする事はない。責は全て私にある。」
子清の話を聞いた伯暖王は、そう応じた。
「ですが、やはりこの役目は、玄初には難しいかと存じます。どうか……。」
「それは、ならない。」
伯暖王は、宰相に皆まで言わせなかった。
「玄初には、続けるようにと、伝えて欲しい。」
「しかし、弟はこの度の一件で、著しく動揺しております。本日は、邸に下がらせておりますが、今夜も十分に休めるかどうか……。それに、彼らがまた、今回のような事態を起こさないとも限りません。」
だが、伯暖王は首を横に振った。
「確かに難しい任務を与えられて、玄初も疲れているだろう。……一日の休みを許そう。だが、その後は役目に戻るよう、玄初には伝えておくように。」
伯暖王は、やや強い口調で子清にそう告げると、次の会議の為に席を立った。
「お待ち下さい、陛下……。」
追いすがるように伯暖王を呼び止めた宰相は、いつも物分かりの良い彼らしくなかった。
「玄初なら大丈夫だ。竜族は、彼を傷つけることはない。」
どういう意味かと問いたげな顔をしている宰相に、伯暖王は言葉を続けた。
「彼らはこの国の民を守るために、ここにいるのだ。玄初も、このイスタムールの民の一人だろう。……それに、玄初は良くやってくれた。事を悪化させずに済んだのは、玄初のおかげだ。子清からも、労ってやって欲しい。」
そう言った伯暖王に対して、子清は黙って頭を下げた。しかし、その表情はまだ、納得が行かない様子だった。
だが、二人が話を続けるより先に、急くように扉を叩く音が部屋に響いた。
「至急、陛下にご報告申し上げたいことがございます。」
その声は、どうやら従僕ではなさそうだ。
「入れ。」
許可を受けて部屋に入って来たのは、竜師の武官だった。
「何事だ。」
宰相の問いに、武官は一瞬、迷うような表情を見せた。
「……国境の軍が壊滅した、との一報がございました。左軍右軍両将軍ともに、既に議場で、陛下のお越しをお待ち申し上げております。」
伯暖王は、傍らの宰相に頷くと、急ぎ会議場に足を向けた。
イスタムールの戦い【1章】 ~フラットアース物語①