カタコンベ

 

 少年はやっぱりそこにいた。ウォルターが見間違うはずなかった。
 と言うのも、傍らの所持品がちょっと独特だったから。イーゼルと絵具箱。小さな紙袋の上には色褪せたGジャンが乗せてある。
 前に見た時と違いがあるとすれば──このジャケットを少年自身が羽織っていたことくらいか。
 前回は夕方で、寒かったのだ。
 場所はローワーマンハッタン。サウスブリッジタワーズにほど近いB・D病院のバス停。
 そこにはシェードが設置してあって雨露くらいなら充分しのげた。前方には病院の専用駐車場が広がっている。
 ウォルター・ヴァレンは外科病棟勤務四年目の研修医だった。
 当直明けで、晩秋とは言え太陽の陽射しがキラキラして目を瞬く。一回通り過ぎてから、戻った。
「何してんの?」
 少年は別に驚く風もなく、
「友達を待ってるとこ」
 それから、ウォルターの顔をじっと見つめて付け足した。
「デートなんだ」
 ウォルターは手を振って別れた。
 自分の青灰色のトーラスは職員専用区域の一番端に停めてあった。そのせいでもなかったが。そこに行き着く前に引き返して来た。
「思うに」
 と、ウォルター、
「おまえのお友達は日にちを取り違えてるんじゃないかな? また夜まで待つつもりなら・・・それまで俺のとこへ来たら? 時間潰しにはなるぜ。TVもあるし」
「OK!」
 少年は微笑んで即座に荷物を掻き集めた。

 ウォルターの住居はトライベッカにある。
 ハドソン河沿いの倉庫街の一画。今にも崩れ落ちそうな古い13階建てのビルだ。
 それでも一応、海運業華やかなりし頃の威光に満ちた煉瓦造りだし、見た目より遥かに──近頃建築されたビルなどよりは遥かに──頑丈だった。
 一時は隣接するソーホー同様芸術家達に持て囃されもした。今でもこの手の風情を愛する(または家賃を愛する)少数派が住み続けている。
 ウォルターもその一人で医学生時代からここを離れたことがなかった。
 実は、ウォルターは医者ではなく芸術家になりたかった。今でも気が向くと写真を撮るが、才能が無いのはとっくに自覚していた。
 一方、医者なら才能が無くってもそこそこやって行けると言うものだ。大腿動脈に注射針を突き刺したり、喉頭鏡を覗いて気管チューブを挿入するのに〝特別の〟才能はいらない。そういうわけだから──
 少年に惹かれたのは、所持品のせいか、外見のせいか、ウォルター自身よくわからなかった。
 多分、どっちもだろう。どっちも最上級に魅力的だ。
 自分の急所を見事に突いている。
 〝芸術に携わる〟〝可愛い少年〟ときたら・・・

 ウォルターが内心自慢に思っている──3ヶ月を費やして自分で張ったのだ──美しい松材の床に立って、少年が最初に言った言葉はこうだ。
「あれは嘘なんだ・・・」
 てっきり、フラットの感想を聞けると思っていたのでウォルターはこれには面食らった。
「嘘って・・・何が?」
「友達を待ってる、ってヤツ。見栄を張っちまったんだ」
 荷物を降ろしながら少年は息を弾ませて、ひどく小さな声で囁いた。頬は上気して薔薇色だ。
(恥ずかしがってるんだな?)
 ウォルターは微笑まずにはいられなかった。
「普段、俺は正直なんだ。さほど嘘はつかないんだけど。あんたみたいな・・・ゴージャスな人の前で、つい、恥ずかしくってさ。だって、住む家もないって知られたくなかった」
「住む家もないのか?」
「追い出されちまって」
 それについて少年は多くを語らなかった。
「ねえ、あんた医者だろう?」
 窓際の乱雑なデスクコーナーに目をやって少年は訊いた。
「精神科医とか? だったら嫌だな。俺の嘘、とっくにバレてた?」
 精神科医でなくっても、とウォルターは思った。おまえの嘘はすぐバレる。あんな処に荷物と一緒に一晩以上座り続けて。それとも──
 皆、コロッと騙されちまうのかな? こんなコになら?
「名前は?」
 と聞いても少年は言いたがらなかった。
「ここにいる間は適当に呼んでくれていいよ。あんたが拾ってくれたんだから」
 と、きた。
「じゃ・・・チェリィ」
「安っぽいの!」
 少年は声を上げて笑った。
「丸っきり・・・売春婦みたいだ・・・!」


 空き部屋を貸してやってもいい、と申し出たのは最初のメイク・ラブの後のこと。
 4階にあるウォルターのフラットは、だだっ広いだけの居間兼台所兼書斎。あとは寝室とその横にもう一部屋あって、そっちは全然使ってなかった。
 一度模様替えを試みて、途中で気が変わって以来、放ったらかしのまま。
 壁紙も剥いでコンクリート打ちっぱなしの、梁も、何もかも剥き出しの状態。だから、家具一つ置いてない。
 ところで──
 家具がなくて何か不都合でもあるだろうか? ウォルターは研修医の身。当直も多い。一人きりの夜なら少年は空いているウォルターのベッドが自由に使えるし、居間のソファ(こればかりは奮発した黒い総革張りのストックホルム!)で寝てもいい。そして、二人一緒の夜は・・・
 まさにそういう夜こそ、スペアベッドの心配をする必要はないはずだから。

 実は、売春婦だと思ったから『チェリィ』と名づけたのではなかった。
 そこにはもっと純粋で、芸術的な、美しい理由があった。
 尤も、ウォルターはそのことを少年に明かす気は更々なかったが。
 チェリィはボッティチェッリから採った。
 最初に、仄暗い黄昏の中、バス停のオレンジ色の椅子に腰掛けている少年の前を通り過ぎたその瞬間、ウォルターは思ったのだった。
 その際、上着のポケットに入れていた手をギュッと握りしめてしまった。
(ワーオ! ボッティチェッリの大天使みたいだな!)
 その絵を知っていて、それから少年を見て、そう思わない人間はまずいないだろう、とウォルターは確信した。
 十五世紀後半、フィレンツェはスカラの聖アルティーノ病院の回廊にサンドロ・ボッティチェッリが描いた受胎告知の中の天使ガブリエル・・・
 完成後ほどなく、この大画家は有名なローマのシスティナ礼拝堂へ招かれたのだ、確か。

 ウォルターは学生時代、夏休暇を丸々全部注ぎ込んでイタリアを放浪した経験があって、バックパック一つの貧乏旅行だったが、その際直接その目で見た数多くの芸術作品の中で、その壁画を一番美しいと思った。
 美術書で某美術評論家が〝当時のフィレンツェ派が具有した画風の集大成〟だと解説していた。〝構図の気宇の大きさ、律動的な空間の配置。聖母と大天使の描写は甘美な感傷と溢れる熱情で人々を魅了する・・・〟
 甘美な感傷か。壁画を目の当たりにして、その通りだと、改めてウォルターは納得した。
 聖母がどんなだったかはとっくに忘れてしまった。片や、大天使の方は鮮烈に脳裏に焼きついている。
 中世の天才画家が描いたその天使は、濃い色の髪を無造作に風に靡かせて、寝室の前で額づく聖処女など見ずに、全くあらぬ方向を凝視していた。
 それで、壁画の前に佇んでウォルターは思ったものだ。
(コイツ、一体何を考えているんだ?)
 今、ベッドの中、自分の隣で膝を抱いて座っている少年は全く同じに見える。
(一体、何考えてんだ、コイツ?)
 それにしても──
 物凄い拾い物だぞ! ウォルターはつくづく思った。
 裸に剥いた少年の体がガリガリに痩せていて、腕は注射針の痕だらけだからと言って、何だろう?
 明らかに薬物中毒かアルコール中毒(或いはその両方)の徴候が見て取れる。それでも、拾い物に代わりはなかった。
 もう少し落ち着いたら、──そして、状態が深刻なら──医学的見地からそれなりのアドバイスをしてやろう。HIVテストはそれより早めに受けさせるとして・・・
 枕の形を直しながらウォルターはざっと大まかな計画を立てた。
 別の言い方をすれば、恋に堕ちたということ。
 季節的にもこれは好ましい。
 西海岸の都市ではどうか知らないが、NYでは恋は冬にするべきだと常々ウォルターは考えていた。
 朝見るたび寒暖計が零下近くにも下がって、街中いたる処灰色で、荒涼として、凍てつく季節にこそ。
 そして今日は十月最後の木曜日。足早に秋は過ぎ去ろうとしていた。


        
          +

「本日の院内ヘッド・ライン。耳鼻科のR・ブラフスキー先生と脳外科医T・ボイド先生の恋は破局を迎えた。東棟エレベータ内にて/南旧館に続く屋外通路脇のアザレアの茂みに捨て犬が三匹いる/小児科No.1美人看護師アリエス・ホッパーに恋人発覚。但し院外一般人・・・
 おっと、今日のイチオシ。11階VIP棟から患者が逃走して大騒ぎらしいぞ。資産家の名家だそうで箝口令が敷かれて関係者一同ピリピリしてる」
 院内報道官の異名を持つロベルト・バールバはランチタイムの職員専用食堂で教えてくれた。
 ウォルターはダナ・ズールカ、アレク・ソーントンと一緒に窓際のテーブルに座って聞いていた。
 いつもながら、バールバは何処でこういった情報を仕入れて来るんだろうと少々ビビりながら。
 これじゃ、俺がホームレスの男の子を拾ったニュースが彼の口から語られる日も近いかも。なにせ、病院の駐車場前のバス停だし、ナースやスタッフが事の一部始終を見ていたとしても俺は驚かないぞ。
「驚いちゃうわね!」
 隣りでズールカが口に出して言った。
「あんた、毎度ながらそんなガセネタ何処で集めて来るのよ?」
「おまえはさぁ」
 と、ソーントン。この男はいつも眠そうに間延びした話し方をする。
「医者じゃなくてぇ、ジャーナリストになるべきだったんだよなぁ」
「今からでも遅くないわよ、転職したら?」
 バールバを含むテーブルの研修医四人組はハッとして顔を上げた。
 すぐ後ろのテーブルにいたサンドリーヌ・ファーブルの意見だった。
 B・D病院の花形、若き──確かまだ四十過ぎ──心臓外科医。
 彼女を師とも女神とも仰ぐバールバはオーケストラの指揮棒よろしく硬直してピョンと突っ立った。そして、そのままランチの盆を抱えて出口へ一目散。
「近頃の研修医は暇そうね?」
 と、ファーブルが言ったのと、
「あ! 私、クリストフ先生に呼ばれてるんだった!」
 と叫んでズールカが立ち上がったのはほぼ同タイム。やや遅れてソーントンが続く。
「俺も──」
 いつも眠そうなくせにこういう時の反応はすこぶる速い。
「俺はリベイロ先生。珍しいロウショウ患者の治療に立ち会わせてくれるって・・・」
「君、確か──外傷外科のヴァレン君よね? ウチのお喋りバールバと同期だったんだ?」
 テーブルに最後に残ったウォルターに女医は話しかけてきた。
「君もバールバ同様、そんなに院内ゴシップに興味あるの?」
「うーん・・・」
 トマトジュースを飲み干しながらウォルターはなんと答えようか迷った。
 ここは正直に言うべきだろうか? 本当のところウォルターは他人のことなんてどうでも良かった。毎回(時間が合えば)一緒のテーブルに座るのは同期の好(よしみ)、友情の証(あかし)、友達の儀式、みたいなもの。たとえ、話の内容など殆ど聞いていなくとも、そもそも、友達などと思ってなくっても。
 自分には友達なんていない、とウォルターは思っていた。
 欲しいとも思わない。いつだって、恋人は欲しいけど、な。
「そうですね。ゴシップには物凄く興味があります」
 ウォルターは嘘をつくことにした。
「僕、子供の時から好奇心の塊で。それで医者を志した次第です。医術って〝知りたがり〟にピッタリの職業だし。先生もそうですか?」
 じっとウォルターを見つめたままファーブルは何も言わなかった。
 綺麗な女性だった。
 以前から誰もが思いもし、口に出して言ってもいるが。
 後ろのテーブルで微笑む女医を間近で見る機会を得てウォルターも改めてそれを痛感した。
 いつもは引っ詰めている砂色のまっすぐな髪。緑から赤までの微妙なグラデーションを持つ瞳。小さめの白い歯でベーグルサンドを噛みちぎりながらサンドりーヌ・ファーブルは言うのだ。
「医術は、平気で嘘が付ける人にピッタリの職業なのよね。思ってることを決して顔に出さない人向き。君なら・・・その点合ってるかもね」
 手首に留めていた若草色のゴムバンドを外して、ウォルターの目の前でサンドリーヌ・ファーブルは髪を束ねた。
「君、ベッドの中でもそんなクレイジークールな顔してるの? だとしたら、ぜひ、見てみたいものだわ」
 ファーブルはさっさと先に食堂から出て行ってしまった。
「────」
 誘われたんだろうか? ウォルターはその場に座ったまま暫く考えた。
 結局、臓腑を抉る強烈な嫌味だろうと言うところに落ち着く。流石、優秀な外科医ならではのことはある。


 当直明けのその日、夕食用の買い物をして昼過ぎに帰ってくるとフラットのドアが薄く開いていた。
 居間スペースの籐椅子に座ってスケッチブックを広げ少年はデッサンに没頭していた。
 モデルは同じ階に住むバレエ・ダンサーのキキ・バイアライだ。
「あら、お帰りなさい!」
 少年より早くキキの方がウォルターに気づいて挨拶してくれた。
「牛乳を分けてもらいに来て仲良くなったの。可愛いじゃない、あなたの同居人。画家志望ですってね?」
 ウォルターは台所へ行ってテーブルにひとまず買い物包みを下ろした。通りしな少年の肩越しに覗き見たデッサン画に感動していた。
(何てこった!)
 胸震える思いで呟く。こりゃ、やっぱり物凄い拾い物だ。〝見せかけ〟じゃない。あいつは〝本物〟のアーティストなんだ・・・!
 後でじっくりスケッチブックを見せてもらおう、と思った。
 買って来たばかりの牛乳パックを抜き取って、その他諸々は冷蔵庫にしまって、居間へ引き返す。
「ほらよ!」
 牛乳をバレリーナの小さいピンク色の乳首めがけて放り投げた。
 キキは、冷たいじゃないの、と不平を漏らしたがそれを抱えて裸のまま自分のフラットへ帰って行った。戻る途中で脱ぎ捨ててあった衣類を器用に足先で摘み上げながら。
「素敵な隣人だな!」
「気に入ってくれて俺も嬉しいよ。見せてくれ」
 手を差し出すと少年は素直にスケッチブックをウォルターに渡した。
「─────」
 そこには様々なポーズの踊り子が何枚も描かれていた。
 どれも素晴らしかった。
 力強くて、しなやかで、傲慢で、儚い。
 なんと表現すればいいだろう。つまり、この子にはリアルな才能があるのだ。例えば自分ではカメラを使ってもこういう風には、決して、永遠に、写し取れない、あのバレリーナのエッセンス・・・源(ソース)みたいなもの・・・
「あの娘と寝たことある?」
 籐椅子に寄りかかったまま足をコーヒーテーブルに乗せて少年が訊いた。
 ページを繰りながら上の空でウォルターは答えた。
「うん」
「やっぱりな! だろうと思った」
 勝ち誇ったように少年が言う。
「だって、あの娘、モロあんたの好みだもんな」
「俺の好みを知ってんのかよ?」
「勿論!」
 少年は指をパチンと鳴らした。
「じゃさ、あれはあんたの恋人?」
「違う」
 スケッチブックを少年に返して教えてやる。
「現在彼女には、俺なんか足元にも及ばない素晴らしい恋人がいるよ。さてと、」
 ウォルターはその時まできっちりと喉元まで上げていた革のライダージャケットのジッパーを下ろした。
 少年は裸足の足を美しい松材の床に戻してジィーンズの釦に手を掛ける──
「バーカ」
 引っかかったな? ウォルターは笑った。そして、少年が怒り出す前に下げたジッパーの中から暗い色の塊を取り出した。
 平べったい耳の照れた子犬だった。
「ウアッ・・・どうしたんだよ?」
 流石に少年は驚いて飛び上がった。
「拾ったのさ。病院の裏庭の茂みに捨てられていた。三匹いたって話だけど俺が覗いた時はコイツだけだった」
 子犬を抱き上げて少年はくすぐったそうな声で笑う。笑いながら言うのだ。
「な? 俺の言う通りだろ? あんたの好みを知ってる。コイツもまんまだな!」
「そうかい」
「気づかない? あんたときたらこういうタイプにてんで弱い。細っこくて、華奢で哀れっぽいの。賭けてもいい。ねえ? 今まで付き合った奴って、皆そんなだろ?」
「そうかな」
 ウォルターはデジタルカメラを持って来て子犬を抱いている少年を何枚か撮った。
 この手のカメラのいい処は効果の程をすぐに見られる点だ。
 悪くない、と、久々に──本当に久々に──自分の撮った写真を見てウォルターは思った。
(まあ、少なからずモチーフのせいもあるだろうけど・・・)
 特に気に入った一枚をプリントして少年にも見せてやった。
 少年は何も言わなかった。
 両手で──その頃には子犬はミルクをたらふく飲んでソファの横の、古いバスタオルを何枚か重ねた特製ベッドで丸まって眠っていたので──写真の両端を持って、長いこと黙って見つめていた。
 その様子をウォルターはまた撮りたくなったほどだ。
 祈っているように見える角度。街の灯りを煌めかせている元海運業ビルの馬鹿でかい窓が、この時ばかりは教会の薔薇窓に思えた。
「・・・信じられないよ!」
 とうとう少年は写真から顔を上げて叫んだ。
「これが俺だって?」
「え?」
 これにはウォルターの方が吃驚した。
 今経っても自分で撮影した写真を引き寄せると、一体〝何〟が信じられないのか探した。
 どこから見ても少年に生き写しの写真だった。別人ってわけじゃなし。よく撮れている。
「何か──何処か、変か?」
「こんな笑い方をしてる自分をさ、見たことがなかったから」
 少年は秘密を明かすみたいにくぐもった声で言った。
「つまり、こんなに幸福そうな顔って意味だけど──」
「おまえはいつもソレだけど?」
 と、ウォルター。
「俺の知る限り、そんなだけどな?」

 よほどウォルターの撮った写真が気に入ったのだろう。次の日から少年はそれを手本に絵を描き始めた。
 イーゼルにキャンバスを置いて──勿論、画材は必要な分、ウォルターが買ってやった。
 ウォルターは帰ってくる度、絵の仕上がり具合を見るのが楽しみだった。それから、少年の求めに応じて何回か、何度も、新しく写真を撮った。
 何度撮っても少年の微笑は完璧で、違っているとしたら(当然ながら)少年の腕の中の小犬が少しづつ、少しづつ大きくなっていくことだけ。
 最初の計画に反して、薬物治療の件やHIV検査の話をウォルターは少年に持ち出すのをやめた。少年の状態は一見してまともで(たとえ影に隠れて何かやっていたところで)生活に支障をきたす風でもなかった。
 台所の戸棚にウォルターがストックしている酒類が以上に減っているわけでもなし。
 言うまでもなく、ウォルターはセックスにおいては安全なそれを信条にしている。


        +


 少年はあまり外へは出たがらなかった。外は寒いと言って家で絵を描いている方を好んだ。
 冬服に限らず衣類をほとんど持っていなかったせいもあるかもしれない。
 が、いずれにせよ、ウォルターにとっても少年が自分のフラットでおとなしくしていてくれる方がありがたかった。
 ウォルターが休みの日には二人して一緒に出かけた。
 車でハドソン河上流のベアーマウンテンやハリマン等、州立公園をドライブしたり、でなければ、トライベッカ界隈をぶらぶら歩いて昔ながらの定食屋でゆっくりと食事をした。
 ウォルターの職場に近いサウスストリートくんだりまで足を伸ばしたこともあった。

 それは十一月とは思えない、よく晴れた暖かな1日だった。
 風は少々強かった。尤も、この辺りはいつもそうだ。
 木の桟橋を歩きながらウォルターは少年の髪が潮風に嬲られる様を見て胸疼いた。
 今やヤンチャ盛りになった〈雪解け〉もリードを付けて連れて来た。
 犬の名は二人して決めた。ロマンチックな響きだが、実態は雪が溶けた舗道のグチャグチャした色が体毛とソックリだからだ。春になると嫌でも目に入る。
「やあ、近くで見るとこんななんだ!」
 対岸に伸びるブルックリン橋を見ながら少年はふいに呟いた。
「でも、やっぱりここも〈飛翔する街〉じゃないなあ・・・」
 吃驚してウォルターは聞き返した。
「何だよ、それ?」
「知らない? エッチングにあるんだ。小さい頃、親父の持ってた画集でたまたま見て、素敵なタイトルだと感動した。うーん、画自体はさほどでもなかったな。と言うかそのタイトルから、俺はもっと別の風景を勝手に思い描いたわけ。以来、本物のソレを見てみたいと痛切に思うようになってさ」
 少年は指でフレームを作って覗く真似をした。
「窓枠から見る豆粒みたいな街、死ぬほど見て来たけどさ、何処も俺の〈飛翔する街〉じゃなかったな」
「・・・要するに」
 ウォルターは尋ねた。
「理想の街ってことか? 心象風景とか?」
「どうかな。わかんないけど。そうだな、俺にとってそこは天国に一番近いって意味かも知れない。そこに住んで、フツーに暮らして、そのまま天に近づける街・・・なんてね? ああ! 死がそんなだといいな!」
 凄い、とウォルターは思った。コイツ、画才があるのみならず詩人でもあるんだな?
 口に出してそう褒めると、意外にも少年は顔を顰めた。
「よしてくれ」
 傷ついたようにそっぽを向いてポケットに両手を捩じ込んだ。
 苔色に赤の縁取りをしたチロリアンコートはウォルターが貸してやったものだ。サイズこそちょっと大きいけれど少年によく似合っていた。
「俺はさ、ガキの頃から他に遊びようがなかったんだ。いつも一人で絵を描いたり、本を読んだり、ビデオを見たり。でなきゃ、あれこれ考えたり。どんな人間でも暇を持て余してんのに自由に好き勝手できなかったら──多少は上手くなるってもんさ。絵にしろ、何にしろ」



        +


 当直明けのその日、ウォルターが帰って来るとフラットのドアの前でユウコ・イバが待っていた。
 ユウコはキキのガールフレンドだった。何度か顔を合わせたことがあるので覚えていた。
 いつもパンツスーツにヒールの高いパンプス。真っ黒い髪をキリッとした顔の輪郭に沿って吃驚するほど短く切り揃えている。
「キキは仕事に行ったわ。あなたの同居人は留守みたい」
 ウォルターの姿を目に留めるなりユウコは言った。
「それで、あなたを待っていたのよ」
 鍵を開けながら、少年が留守とは珍しいな、とウォルターは思った。きっと、〈雪解け〉と散歩にでも行ったんだろう。
「キキから誰かさんがこっそり隠してる可愛い画家の話を聞いてね。それで職業的好奇心に苛まれて・・・ぜひ一度、見せてもらおうと思ったの」
 と、ユウコ・イバ。
 それを聞いて、彼女が画商だったことをウォルターも思い出した。以前もらった名刺には確かにそんな風な肩書きが書かれていたっけ。
 小さいながらノリータの何処かにギャラリーを持ってるって話。
 本人が不在なのでどうかとは思ったが、ウォルターはユウコを招き入れて少年の絵を見せることにした。
 別に嫌がらないだろうと考えたのだ。
 最近では少年は、家具一つ置いてない例の空き部屋をアトリエ代わりにしてそこで絵を描いていた。
 始終ドアは開けっ放しで、いつ何時ふらっとウォルターが入って行っても気にかける様子はなかった。
 そう言う意味で、少年は全然神経質なタチではなかった。
(それとも、俺の存在などハナから気にかけてないのだろうか?)
 画商を伴って少年のアトリエに入る際、ウォルターは時折り感じる〝違和感〟について考えてみた。
 出会った最初の日に既に気づいていたのだが。少年の視線は何処か虚ろで、全く別の世界・・・他の風景を凝視しているように見える。
 フィレンツェの大天使のように、漂っている・・・通り過ぎて行く・・・定まらない眼差し・・・

 一ヶ月足らずの短い期間にも拘らず、改めて並べてみると少年の描いた絵は思いの他、多かった。
 キャンバスは五つ。六つ目がイーゼルに乗せてある。
 そのどれもが、犬を抱いた自画像だった。
 執拗といっていいくらい、微笑む自分自身を描き続けているのだ。
 白いTシャツとジィーンズ、泥犬の小犬。籐椅子に座ってこっちを見て笑っている黒い髪に薔薇色の頬の少年・・・
(こっちを見て、笑っている? 違うな。)
 ウォルターはつくづくと思い知らされた。
 微笑はまたしても朧ろげに揺れ、通り過ぎて行く。少年の目は決して観る側の目を捉えようとはしない。どの位置に立っても、だ。
 そのせいでウォルター自身は、この少年の自画像が完璧なのか失敗作なのかわからなくなった。
 そもそも、少年がこんなに何度も繰り返しこのモチーフに執着しているのは何故だろう? 彼自身、納得していないのかも知れない。求めるものを逃し続けているのだ。でなければ──習作のつもりだろうか?
(何てこった、あの罰当たりめ!) 
 苦々しい思いでウォルターは口の中で毒づいた。
 自分だったら、一生に一度でも〝こんな絵〟を描いたなら、それだけでもう明日死んでもいいと思うだろうに。
 それなのにあいつはこれに満足してないらしい・・・
 一方傍らの画商は大いに満足したようだ。
 彼女は少年の絵が非常に気に入った。
「魅了されたわ!」
 ユウコ・イバは繰り返し言った。
「わかるかしら? これはとても素晴らしい作品よ。この子は特別な力を持っているわよ!」
 二、三作自分に預けてくれないかと画商は申し出た。その熱心さが並々ならぬものだったこともあってウォルターは承諾した。
 ウォルター自身、今は自分だけが知っている少年の才能を世間に問うてみたくてたまらなくなったせいもある。この殺風景な部屋の壁に重ねて置いてあるのと、ユウコ・イベの小さなギャラリーの片隅に並べるのと、行為としてはさほど違うわけじゃなし。
 それで、もし、少年の絵を欲しがる人が出現した暁には・・・
 少年にはその時になってから教えてやればいい。ひょっとしてこれは素晴らしいサプライズプレゼントになるかも。
 時間をかけて選んだ二枚の絵を両脇に抱えてヒールでよろけながらユウコはウォルターのフラットを出て行った。

 その夜、戻って来た少年とウォルターは喧嘩をした。
 喧嘩の原因は、勝手に渡した〈絵〉のせいではなくて、ウォルターの〈写真〉のせいだった。
 〈雪解け〉と一緒に帰って来た少年はムッツリとして不機嫌だった。
 夕食はとっくにできていた。ウォルターが腕に縒りをかけたポロネギとサーモンのグリル。サフランパスタ付き。
 それなのに、どうしたと言うんだ? 少年は一言も口を聞こうとせず、目を合わせようともしない。何よりこの、〝目を合わせない〟行為がウォルターを苛立たせた。
 出会った当初はあれほどウォルターを魅了した〝宙に漂う眼差し〟だが。こうして恋人同士として一緒に夕食を食べるとなると気に障ることこの上ない。おまけに昼間、何枚もの通り過ぎる微笑を見た後とあっては──
 胸の奥に燻っていた漠然とした不安が怒りの火種になった。
 そういうわけで、先にテーブルを叩いて怒鳴ったのはウォルターの方だった。
「何だって言うんだ? 気に食わないことがあるんならハッキリ口に出して言え!」
「気分が悪いんだ」
 とてもそんな風には見えなかった。
 少年の頬は薔薇色で目はギラギラ光っている。今しも飛びかかろうとしている密林の中の捕食動物のそれだ。
 ウォルターは思った。コイツ、血を見たがってるな?
「気分が悪いだと?」
 ウォルターはズバリと言ってやった。
「そんな風には見えないぜ」
「ホントに気分が悪いんだったら! あんたのクソ写真集のせいで!」
「!」
 暫くウォルターは黙っていた。
 少年を見つめたまま椅子を引いて頭の後ろで両手を組んだ。
 これではっきりした。怒る権利は自分にある。責められるべきは少年の方だ。
「勝手に見たな? プライバシィって言葉、知ってるか?」
「知るか」
 少年が何のことを言っているのか、ウォルターにはすぐわかった。
 机の引き出しにしまっておいたCDーRの中の〝アルバム〟を少年は勝手に開いたのだ。
 秘密保持という意味より嵩張らない合理性からウォルターは大切な自分の、自分だけの写真類をそこに整理保管していた。
 彼が出会い、愛してきた恋人達の写真。
 何人いたか、自分でもすぐには数えられない。一晩きりの付き合いもあれば半年位続いたり、二、三ヶ月一緒に暮らした相手もいる。着衣のもあればヌードのもあった。カメラが趣味だと言うと、皆、喜んで撮らせてくれた。
「俺のが入ってないのは何故?」
 そういうことか。ウォルターは内心少しホッとした。
「その理由を聞きたいか?」
 ウォルターは座り直して手をテーブルの上に置いた。少年ではなく自分の両手を見ながら、
「なんて言ったらいいかな。ありゃ、言わば──カタコンベだからだよ」
 咄嗟に出て来た、その場しのぎの言葉だったから我ながら吃驚した。
「恋の墓場。埋葬地」
 いったん口にしてみるととてもしっくり似合って、気に入った。
「おまえとは終わってないだろ? 少なくとも俺はそう思ってるんだけど? それとも・・・今夜にでもおまえの写真をあの列に加えようか? 加えて欲しいのか?」
 少年の言動は予想外だった。
 少年は皿をひっくり返して喚いた。
「あんなもの、焼き尽くしてしまえ!」
 こんな激しい少年を見たことがなかったのでウォルターは自分の分の怒りを忘れて、火の玉みたいに荒れ狂うその姿を茫然と眺めた。
「〝カタコンベ〟だって? 聞いて呆れるぜっ!」
 少年ときたら、テーブルの上のウォルターが丹精込めた料理の数々を全て床(美しい松材!)にぶち撒いた。
「で? あんたは何だよ? 〝墓守り〟か?」
(フォーカスが合ってる・・・)
 ウォルターは感動でいっぱいになった。
 〝微笑〟とは違って、少年の〝怒り〟は素通りしなかった。しっかりと対象──今、目の前にいる自分──を捉えて照射されている・・・
 試しにウォルターが少し動くと、少年の瞳はそれを追って正確に移動した。
 嬉しくなってウォルターは台所の椅子からソファ、コーヒーテーブルの横、TVの前へと次々位置を変えた。
 少年の視線は決してブレなかった。
「畜生! 後生大事に残骸なんかありがたがって・・・! 腐った亡骸を大切にして・・・!俺よりもあっちがいいのか? 生きている俺よりも?」
 最後には、勿論、ウォルターは飛んで行って少年をしっかりと抱きしめた。


        +


 これ以後、日々は平穏に過ぎて行った。
 少年は絵が何枚かなくなっていることには頓着せず、描き続けた。〈雪解け〉は少しづつ成長して行き、ウォルターは定められた勤務表通り日勤と当直とを今までになく精力的にこなした。
 変わったことと言えば、一度だけウォルターは耳障りな音のせいで目が醒めたことがあった。
 それは、当直明けの昼過ぎだった。
 前夜は重度の火傷患者の気管切開を完璧にやりおおせて、満足でもあり、クタクタでもあった。
 最初ウォルターは何処かの通りでまた水道管が破裂して、そのために道路を掘り返しているのかと思った。
 寝室はおろしてあるかーてんのせいもあってエニシダ色。何処もかしこもふやけて見えた。
 ベッドの自分の横に少年の姿はない。時計を見ると午後二時四一分だった。
 土を掘るようなザラついた音は隣室から聞こえていた。〈雪解け〉が今まで聞いたことがないくらい吠えている。
「〈雪解け〉!」
 一回だけ犬の名を読んで叱った。その後、クルッと体を反転して枕を頭の上に被せると再び瞼を閉じた。
(放っとけ・・・)
 ウォルターは思った。今度は彫刻でもやりだしたのかも。なにせ、俺の恋人は生粋の〈芸術家〉なんだから。
 その昼中、ウォルターは砂漠を歩いている夢を見ていた気がする。ダーティバックのデザートブーツを履いて一歩づつ慎重に歩いて行く。ザク・ザクザク・・・ 〈雪解け〉が前後をうるさく飛び回る。ワン・ワン・ワン・・・そのたびに砂粒がパパッと舞い上がる。太陽に反射して砂埃は緑から赤に至るまでの様々なグラデーションで煌めきながら散ってくる。髪に、睫毛に、肩に、メスを握る指先に。
 その夢の中で少年が何処にいたかは憶えていない。

 陽が落ちてから、漸く起きて、素肌にセーターを引っ掛けながら居間に出て行くと少年が夕食を作っていた。
 テーブルの下の〈雪解け〉を撫でる。
「おい、やたらに吠えてたなぁ、おまえ?」
「ペンキの匂いが気に障るんだろ」
 スペアリブを並べたフライパンを揺すりながら少年が言う。見ると、アトリエのドアが珍しくぴっちりと閉められていた。
 ウォルターはそっちへ行って、ドアを開けた。
 途端に、冷たい風が体を突き抜けた。
 真正面の、通りに面した窓が二つとも全部引き上げられていて部屋中十一月の木枯らしが踊り狂っていた。
 「!」
 だが、ウォルターが驚いたのはそんなことではなかった。
 部屋の片側の壁が、梁剥き出しだった処も、一つだけあった狭いクローゼットも、全部平らに均されて一面のフラットな壁になっていた。
 新聞紙を敷いた床の上にはコンクリの袋とペンキ缶。
 イーゼルや画材、描き上げた絵などは全部、反対側の壁際に寄せられていた。
 新しく出現した壁は刷毛の跡も生々しい大雑把なタッチで銀青色に塗られていた。勢い余ってか、所々点々とペンキの雫が飛んでいる。
 それはそれでとても美しかった。
 思わずウォルターは唸った。
 やっぱり色の選択が抜群だ。自分なら、この色はちょっと考えつかない。
 いつからそこにいたのか真後ろに少年が立っていた。振り返って、塗りたての壁を指差してウォルターは訊いた。
「海?」
 飛び散る白っぽい点々が波飛沫に見えたから。
 少年は否定も肯定もしなかった。ちょっと微笑んで、
「そんな風に見える?」
 黒い髪の先と頬に銀色のペンキがついている。〈雪解け〉は決して近づいて来なかった。キッチンのテーブルの下で泥色の前足の上に泥色の顎を載せて蹲っていた。
 それをいいことに二人はアトリエの新しい銀青色の壁の前で愛し合った。
 勿論その際、窓は閉めたが。

 翌日は非番で、出勤した翌々日のその日、病院でランチタイムにカフエテリアのテーブルに座って同期の面々と昼食を食べた。
 またしても懲りずにバールバは極秘情報を羅列した。
 この日のトップニュースは、なんと、麗しき心臓外科医サンドリーヌ・ファーブル失踪の報。
 バールバの声は沈んで平べったく、目の下には隈が出来ていた。それでウォルターはこの男が本気で女医に恋していたことを知った。
「・・・何度電話をしても応対がないと家族──両親と兄──から届出があったそうだ。アパートはもぬけの殻。とはいえ、前々日まで生活していた形跡は確かに残っていたとか。当然、病院も無断欠勤の状態。彼女のメルセデスは院内駐車場に留め置かれたままだ」
 何か事件にでも巻き込まれてなきゃいいんだが、とロベルト・バールバはぼそっと呟いた。
 ウォルターはファーブル医師が細い手首に巻いていた若草色のゴムバンドを一瞬、鮮明に思い出した。
 ウォルターの目の前で彼女はそれで砂色の髪を項で束ねた。嘘つきね、と言って。

 ユウコ・イベから電話が入ったのは次の日の昼のこと。
 少年の絵が売れたのだと言う。
 画商は弾んだ声で、
「今から小切手を持ってそっちへ行くわよ。次の絵も是非欲しいし、耳に入れておきたいこともあって、それで」
「ちょっと待った!」
 ウォルターは慌てて遮った。
 幸運にも、この時少年はシャワーを使っていた。バスルームのドアの方を窺ってからウォルターは声を潜めた。
「俺はこれから夜勤なんだ。そうだな、明日、仕事帰りに直接あんたのギャラリーへ寄るよ。この件は俺なりに特別の計画があるんで・・・」
 ユウコは察してくれた。
 少年がシャワーを終えて、雫を垂らしながら出てくる前にウォルターは素早くギャラリーの住所を書き留めて電話を切るのに成功した。

 夕方、病院へ行くために外へ出ると思いの他冷え込んでいて吃驚した。
 ゆっくりと車を出しながら季節は確実に冬に向かっていると思った。
 ハドソン街からキャナルストリートにぶち当たる辺り、ちょうど地下鉄の昇降口近くの交差点で信号待ちで止まった。
 道路沿いのビルの壁の看板が新しく取り付け作業中だった。
 広告の四角い断片がクレーン車でゆっくりと吊り下げられて昇って行く。
 ただそれだけのことなのに妙にウォルターは心動かされた。
 何かが──体の内側をチクチク刺激して、そっちに目をやらずにはいられない。ジグソーパズルのように嵌め込まれて行く広告版。
 フィレンツェの壁画を思い出した。
 聖アルティーノ病院の回廊にあった大天使のモザイク・・・
 そう、実はあの壁画もそういう意味では完璧ではなかった。つまり、所々剥げ落ちて剥き出しの空白が──
「!」
 後ろのアバロンにクラクションを鳴らされてウォルターは我に返った。
 信号はとっくに青に変わっていた。



        +



 結局、約束の日に、ウォルターは仕事の後でノリータはマルベリーストリートにあるというユウコのギャラリーには行けなかった。
 まだ当直中の朝の内に病院に直接電話が入った。個人的な呼び出しで電話の主はキキ・バイアライだった。
 素敵なバレリーナの隣人はひどく興奮していて彼女の話の全容がウォルターには中々飲み込めなかった。
 外科治療台横、つけっ放しのハロゲンランプの光が目に痛い。片耳を手で押さえて、病状を聞き取る時の職業的な声で繰り返し尋ねた。
「落ち着いて、キキ? 順序立てて言ってみてくれ。ちゃんと聞いてるから」
「だから、警察が来て・・・警察が来てるの・・・!」
 バレエ・ダンサーは受話器の向こうで泣き喚いた。
「何度言わせるのよ! ドクター! あの子が連れて行かれちゃうわ! 警察がチェリーを連れて行こうとしてるの・・・!」
 「!」
 慌ててウォルターは外へ飛び出した。

 こういうのはTVや映画で何度か見た憶えがある。その度に笑い出したくなったものだ。馬鹿もいいとこだと思って。絶対ありえないとも思った。
 白衣のまま医者なり研修医なりが街へ飛び出して行くシーン。そんなこと現実に在り得るだろうか?
 だが、実際にその時が来たらウォルターはそれをやった。
 白衣を翻して駐車場を一気に駆け抜け、焦っていたせいで鍵を二度も酷薄なコンクリートの床に落とした末、ドアを引きちぎるように開けて車に跳び乗った。
 いつもの家路を猛スピードで引き返して来た時、またしても例の交差点で信号が変わった。
 そのおかげで今度こそハッキリとそれを見ることができた。
 前夜の広告看板が完成していた。
 そこには、この世界中で誰よりも一番ウォルターが知っている絵が掲げられていた。
 泥色の小犬を抱く少年・・・
 真下には血のように赤いドックフード会社のロゴ・・・
『絵が売れたのよ』
 ユウコ・イベは電話で知らせてくれたっけ。
 ああ、なるほど。こういうことか。
 だが、今はそれについてそれ以上考えている場合ではなかった。
 今回は信号が青に変わる前にウォルターはアクセルを踏んだ。
 
 キキが教えてくれた通り住居ビルの前の車道にパトカーが一台停まっていた。
 自室の玄関前で数名の警官に詰問された際、ウォルターは自分の姓名と、このフラットの住人である旨告げた。その上で、一体何があったのか尋ねた。これに対しNYPDの制服をつけていない、刑事と思しき一人がにべもなく、詳しい話は署でと言った。続けて後ろの制服が〈ミランダ準則〉を読み上げたのを聞いてウォルターは自分が逮捕されたことを知った。が、肝心の逮捕理由が皆目見当がつかなかった。
 電話でキキは、少年も連れて行かれたと言っていた。
 麻薬関係だろうか? それとも──売春関係?
 それについてはウォルターは考えたくなかった。
 意識的に避けて来たことだから。
 ウォルターは少年のIDを敢えて確認しなかった。少年の本名はおろか年齢も。
 少年が未成年である可能性は充分にあり得る・・・
 廊下の突き当りのドアが薄く開いて、バレリーナが両手を口に当ててこちらを見ているのに気づいた。
 ウォルターはそっちへ向かって叫んだ。
「あいつは何処なんだ?」
 キキは指を上に向けた。
「?」
 自分が白衣姿だというのがますます滑稽に思えた。だが、こうなると脱ぐチャンスがなかった。
 両腕を警官に拘束されたままウォルターは階段まで引っ張って行かれた。
 天井から幽かな羽音が響いて来る。
 ヘリコプターだとすぐわかった。病院でも使用しているから。階段場の時代がかった吹き抜けを振り仰ぐと遥か最上階に少年の黒い頭が見えた。
 ヘリコプターの音はどんどん大きくなっている。その音に掻き消されまいとウォルターは声を振り絞ってその名を呼んだ。
「チェリー!」
 黒い頭が揺れ、少年が下を見下ろした。
 階上で少年も自分同様数人に拘束されているのがわかった。ウォルターは絶望的な思いに駆られた。
 ヘリで移送するとは、これじゃよっぽどの重罪ってわけだな?
「ウォルター!」
 次の瞬間、少年は両脇の男を突き飛ばして走り出した。
 階段を一気に駆け降りる。
 近づいてくるヘリコプターの耳障りな羽音に混じって少年が駆け下りる軽やかな足音が下の階にいるウォルターの耳にもはっきりと聞こえた。
 それから、多分少年に突き飛ばされて倒れた男達の悲痛な叫び声も。
「止めてくれ誰か・・・!」
「彼を、こんな風に走らせちゃあ・・・いけない・・・!」
 続いてウォルターの知らない名を呼んでいる女の人の金切り声。
「マーティ・・・!マーティ・・・!やめて、マーティ・・・!」
 勿論、チェリーは止まらなかった。マーティじゃないから。
 七階分一気に駆け降りた。その勢いのまま、四階の踊り場に至る最後の数段は飛んだ。
 唖然としている両側の警官を振り切ったウォルターが体ごと受け止めた。
 結果、反動でウォルターは大理石の壁面に背中を嫌と言うほど打ち付けてしまった。
 それでもしっかりと少年を抱きとめた。
「ゴメン・・・」
 腕の中で少年は言った。苦しそうに喘ぎながら、とても小さな声で。
 頬は薔薇色。それで、ウォルターは出会った日のことを思い出した。
 初めてここに連れて来た日、少年はやっぱり喘ぎながら頬を染めて謝ったっけ。
 ──── ゴメン。俺は本質的には正直なんだけど。
 今、少年は同じようなことを言っている。
「ああ、あんたに・・・迷惑をかけちまった・・・」
 少年の息は乱れて、とても一編には喋れなかった。喋るのがひどく難儀そうだった。
「あんたのおかげで・・・前向きに・・・最後まで・・・生きようかと思い直したんだけど・・・」
「いいから、チェリー」
 ウォルターはなんといっていいかわからなかった。
「いいから、黙ってろ」
「ああ、あんなことしなきゃよかった・・・ミスしちまって・・・」
「何をミスしたんだ? 大丈夫、チェリー。おまえは何も間違いなんて」
「俺を・・・許して・・・ウォルター・・・」
 その頃には少年の声はほとんど聞き取れないくらい小さく弱々しくなっていた。
 ここへ来て何が起きつつあるかウォルターが気づかないはずはなかった。
 仮にもウォルター・ヴァレンは四年目の研修医だ。
「あんたの傍に・・・少しでも長くいたかったから・・・俺はああするしか・・・」
 少年は死につつあった。
 ウォルターの腕の中で少年の息はどんどん細くなっていく。
「でも・・・これなら・・・いいや・・・これはけっこう・・・近いかも。俺が・・・望んだ通り」
「喋るなったら!」
「・・・飛翔・・・する・・・街・・・」
 チェリーを両腕の中にしっかりと抱きかかえたまま顔を上げると、すぐ上の階に少年を追いかけて来た人達が少年と同じく一様に真っ青な顔をして佇んでいた。少年を確保して最上階でドクターヘリを待っていた一群をこの時に至って、初めてウォルターは見た。
 警官以外には、背広姿の紳士とブルーのシャネルスーツの女性。
 救急輸送ヘリの音は今や耳を聾せんばかりだ。


      
        +


 正確に言えば少年が息を引き取ったのは収容された総合病院のICU内だった。
 ウォルターは立ち会えなかった。連行された警察社内でその報を聞いた。
 とは言え、ウォルターはその日の午後には解放された。
 流石に白衣は脱いで丸めて小脇に抱えて出て来たウォルターに廊下で待っていた弁護士が一通の封書を差し出した。
「こういう事態に備えて予めマーティン・ブリーエレ君は手紙を残していたのです」
 ブリーエレ家顧問の弁護士フィリップ・スペイドは教えてくれた。
「一通はご両親宛に。もう一通があなたにです。ご両親は全て納得なさいました」
 結果的に〝遺書〟という形になってしまいましたが、とスペイドは付け足した。
 その他にも、マーティン・ブリーエレの葬儀の日程や、今回の一連の騒動に置いて貴殿が被った不利益に対してはブリーエレ家が全面的に責任を負うつもりである等々・・・
 ウォルターの耳にはほとんど入らなかった。
 弁護士が去った後で、そのまま警察署内の廊下の隅、黒い人工皮革のソファに腰掛けて手紙を読んだ。
 それは少年が書いたとは思えないほどそっけなくて事務的な内容の手紙だった。
 もう少し書きようがあったのではないかと思うくらい。それによると──
 少年は本名マーティン・ブリーエレという貿易商エルベ・ブリーエレの一人息子で、心臓疾患のためB・D病院の11階(俗に言うVIP棟)に入院していた。
 要するに全ては予め計画されていたことなのだとか。マーティンはあの日、自分の意志で病院を抜け出して、かねてから病院内で数度見て勝手に好意を寄せていた若い研修医の元に転がり込んだのだそう。だから、誓って、ウォルター・ヴァレンが誘惑したわけでも、いわんや誘拐・監禁したわけでもない・・・
 ウォルター自身は院内で少年と会った──擦れ違った?──ことをどうしても思い出せなかった。だが、少年がそう言うのなら、そうなのだろう。
 警察署を出て、最初に目に付いたダンプスターに丸めていた白衣を投げ入れると、タクシーを拾って自宅へ返って来た。

 フラットは整然としていた。
 両親と警官がやって来た時、少年はほとんど抵抗しなかったことがそれでわかる。
 インターホンの音がした。
 ドアを開けると泣きはらした眼のキキが立っていた。足元には〈雪解け〉。尻尾を振って飛びついてきた犬を見て、始めてウォルターは不在の間キキが犬の面倒を見ていてくれたことを知った。
 ウォルターは心から礼を言った。
「色々と面倒をかけてすまなかったな、キキ」
「ううん。チェリーのこと、なんと言っていいか・・・本当に可哀想で・・・」
 バレリーナーは弱々しく微笑みながら、ごめんなさいと頭を下げた。
「私がもっと早く知らせていれば良かったのに・・・」
「いいんだ」
 と、ウォルター。
「あんたが謝ることはないさ。あんたはできる限りの速さでちゃんと伝えてくれたんだから」
 早く一人になりたかった。ウォルターは急いでドアを閉めようとした。
 が、バレリーナはその手を止めさせた。トウシューズこそ履いていなかったがしなやかで強靭な足をドアに差し入れる。
「そのことじゃないわ!」
 キキはきっぱりと言った。
「私ずっと前から知ってたのよ。あなたが勤務中、チェリーの処へやって来る人がいるのを。今日、警官からチェリーは病院をこっそり抜け出した名家の子息だって聞いて・・・それで私、後悔してるの。だって、もっと早い内にあなたにこの事実を教えてたらあなただってそれなりに対処できたかも知れないでしょ?」
 キキの行っていることがすぐには理解できなくてウォルターは黙っていた。
「その人がチェリーがここにいること密告したに違いないわ。絶対そうよ。だって、チェリー、脅されていたみたいだもの。つい最近だって、訪ねて来たその人と廊下で大喧嘩してたのよ。私がドアを開けて覗いたら、チェリー、慌てて引っ張り込んだけど、部屋の中でもひどく言い争っていたみたい」
 『少年の隠れ家を教えたクソッタレは自分だ』と、ウォルターはキキに叫びたい衝動に駆られた。
 あんたの恋人の画商に少年の自画像を託して、その結果があの広告だ。
 ウォルターは、そちらの方は見ていないがドッグフード会社の新しい広告は朝刊にも載っていたそうだ。少年の両親はそれを見て迅速に行動したのだ。
 とはいえ、勿論ユウコ・イベに罪はない。絵がどのように使われるかは彼女も知らなかったろう。
 キキはまだ熱っぽく訴えていた。
「かなり激しいやりとりをしてたのよ。『裏切り者』とか、『約束が違う』、『あんたがこれ以上のめり込むなら、許さない、もう協力しない』とか。
何、あれ、チェリーの元恋人? あいつが密告者よ!私、断言してもいい。きっとあなたとチェリーの仲を嫉妬したんだわ!」
 急に気が変わって、ドアを閉めるのをやめてウォルターは訊いてみた。
「それ、どんな男だった?」
「女よ」
 言下にキキは訂正した。
「いつも後ろ姿だけで顔は見てないけど。ほっそりとして背が高くて。トレンチコートに砂色の髪を一つ括ってて・・・」


 今度こそ完全に玄関のドアを閉めて、鍵もきちんと掛けてからから、ウォルターはアトリエへ向かった。
 少年が壁を塗り替えた日以来、そして、そこの床の上で愛し合って以来、足を踏み入れていなかったことをウォルターは改めて思い至った。
 ────そこには全く予想外のものが一つ、ウォルターを待っていた。
 銀青色の壁に直接、犬を抱いた少年が描かれていた。
 だが、それだけじゃない。
 こういう絵は初めてだった。
 それは、自画像ではなくて、人物画と呼ぶべきもの。
 少年の横に自分がいた。
 いつもの籐椅子に腰掛けた少年の後に寄り添って立つウォルター・ヴァレン……
 とても良く描けている、とウォルターは心底感心した。本当にあいつは才能があったんだ。
 鏡を見ている気分になる。或いは、自分の方が壁で、あっち側に幸福な恋人たちがいるようだ、と。
 大人気なくヤキモチを焼いてバカだった、とも後悔した。
 通り過ぎる……定まらない……漂っている少年の微笑の謎が解けたぞ。あいつの微笑の方向は前にはない。いつだって、後ろから寄り添っている俺に向けられているんだ。ウォルターはそう思うことにした。
 この構図が最終目的だったのだ。
 自分を描いてくれた最初で最後の作品でもある。
 それだから、金輪際破壊するつもりはない。
 たとえ、この後ろに何が塗り込められていようと。
 ウォルターは、二ヶ月近くも一番近くにいた恋人の深刻な症状も気づかないくらい愚かな研修医だったが、言い訳を許してもらえるなら、一重にそれは、恋をしていたからだ。昔から言うではないか、恋は人を盲目にする。
 そして今、愛する者を失って、多少は正常な研修医に戻った。少年が何ら医学的援助もなく体調を維持できたとはウォルターには到底考えられなかった。定期的に────それも頻繁に────彼には専門医のバックアップが必要だったはず。
 その少年の専門医は壁の後に眠っている。
(他には隠し様がないもんな?)
 少年に協力して脱走の手引きをしたのも、それから、俺の情報を提供したのも、あなたなんですか?サンドリーヌ・ファーブル先生?
 無論、今となっては、流石の女医も答えてくれるはずはなかった。

 ウォルターは自分のベッドを引っ張って来て肖像画の描かれた壁の前にピッタリと寄せた。
 いつの日か事の真相に気づいた警官達が戻って来て、ここが暴かれるのを恐れた。
 少年の最後の傑作を破壊して欲しくなかった。
 そういうわけで、以来、壁の前で寝ている。
 ペンキ(もしくはそれ以外)の匂いが嫌いな〈雪解け〉は決してこの新しい寝室に入ろうとしなかった。

 そこで寝起きし始めて数日後。
 朝、目が醒めると今年最初の雪が降っていた。
 そろそろ来る頃だとわかってはいたのでさほど驚きもしなかったが。
 どんよりとくすんだ鉛色の空から幾千もの白い断片があとからあとから落ちて来る。
 すると、壁画の背景も、当初思った〝海〟ではなくて〝空〟に見えた。波飛沫は雪。その雪の中で相変わらず二人は幸福そうに笑っている。
 それから、もっと気づいた。
 ベッドに腰掛けたまま、美しい松材の床に裸足の足を降ろして、雪の降り続く窓の外を見ていると、自分のいるこの部屋がどんどん上へ昇って行くように感じられる────
 飛翔する街はここにあった。
 
 ずっとこうして座っていたら、あっちにいるチェリーに会えるような気がしてならない。
 

                                             《   了   》
 



 



 

カタコンベ

 ★この雰囲気がお嫌いでなかったら、〈アットノベルス〉推理部門「とくべつの夏」もぜひ読んでいただけたらと思います。
 かつて捕鯨で栄えたアメリカ東部の島で、偶然出会った三人(ゲイの大学生・ヨット事故で父を亡くした高校生・日本から来た野心家の女写真家)が連続殺人鬼〈右足収集家〉の謎を追います。
 謎も純愛も仕込んでいます。

 ★〈小説家になろう〉でも連載開始しました。ジャンルは推理でR15、ボーイズラブのタグがついています。
 タイトルは「HERDー群れー」
 〝白鳥の王子連続殺人〟を担当する若い警官のもとへやって来た囮捜査志願の謎の少年…
 興味のある方はぜひ!

カタコンベ

80年代マンハッタンの青春群像。ゲイの青年医と家出少年の物語。当然倒錯の愛です。 苦手な方は回避願います。 ねえ、80年代って・・・こんな風景じゃなかった? ロフトと芸術家と悲しい恋と死体・・・

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-10-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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