桃花源(とうかげん)
「─今回の作品はどう言った情景かしら─」師匠がそう言い細めた眼を向けて来た。
「─年明けに詣に出かけようとしましたら、下駄箱の奥に綺麗に磨かれた大きな革靴を見つけました。先年亡くなりました夫の物で出して眺めていましたら何だか切なくなってしまい、詣でを取りやめました─」素直にそう応えると何故か頰が火照るようだった。
「─そうなのね。確か、まだお若くしてお亡くなりになられたんでしたね─哀しい句ね─。くる年の 詣でに 見留む 土間の靴─」レイアウトされたパネルに掲げられた桂子の作品を詠むと感慨深げに小さく息を吐いた後、師匠は奥のブースに入って行った。
行き際に一度振り返り何かを言った様だったが籠った音が聞き取れず曖昧に笑みを返し頭を下げた。
「─やはり買い替えなくちゃ駄目みたいね補聴器─手話も身を入れて覚えないと」そう口の中で呟くと大きく伸びをして公民館の外に出た。
秋を過ぎ、時折吹く寒風に乾いた落ち葉がからからと音を立てて転げている。見上げると銀杏の大木の枝に時折丸い頭を見え隠れさせてコゲラが可愛いらしい仕草で短いドラミングを繰り返していた。
「─じきに、冬か─」またそう呟くと俄かに吹き抜けた強い風に肩をすぼめる様にして踵を返した。
「─林檎、お下げして来て」起き抜けの腫らした赤い目を気にしながら息子の進一に言うと、
「─うん。けど昨夜はかなり遅かったんだね。気づかなかったよ俺」そう応えて含み笑いをした声色で、
「─あまり飲み過ぎないでくれよ?親父のこともあるし、酒は度を過ぎるとキチガイ水なんだから」かつてのヒトラーの口癖を用い窘める様にそう付け加えた。
「うん。分かってるわよ。だけどたまにはいいじゃない。母さんにだってあるのよ。お付き合いくらい─」そう言って冷蔵庫から小さな瓶を取り出すと自家製の梅干しを摘んで一つを口に入れた。
「─病院には今度いつ行くの?聴力が落ちてること、ちゃんと言わないと駄目だぜ?」酸っぱさに萎んだ母親の表情を可笑しそうに見ながら進一が訊いて来た。
「まだお薬が残ってるもの。無くなる頃に行けばいいでしょ」他人事のようにそう応えた。
突発性の難聴を患ってもう三年目になる。原因は夫の死にあった。浴槽の中に浸かりながらの急逝だった。誰よりも愛おしく頼りにしてた夫のその異常で突然の死に心は元より身体が反応し切れず無意識のうちに働いた防衛本能が極度のストレスを誘引し五感の内の聴力に蓋をしてしまったのだろう、と医師は淡々と告げた。当初はいきなり失われた聴覚に完全にパニックに陥り緊急入院した先の医師、看護師にまで辛く当たった。様々な治療を試みたが思うように効果は上がらず、人工内耳の施術の話もあったが嵩む治療費とまた不確定な治癒率に不安があり承諾は控えた。だが八方塞がりの暗澹たる気持ちの中、インターネットを検索していると同じ様な病状に悩む人たちが思いのほかいることを知ると救われる気がした。
「─あ、─そう言えばあんた、何か話があるって言ってたわよね。なあに?何の話?」欠伸を押し殺しながらそう訊くと少しの間の後、
「─あのさ、会ってもらいたい人がいるんだ」短髪の頭をがりがり掻きながら進一が応えた。照れ臭い時に見せる仕草だった。すぐにピン、と来て、
「あゝ、みーちゃんね。何よ、今更改まって。何度も会ってるじゃない」そう笑って言うと、
「─違うんだよ。彼女じゃない、んだ─」俄かに神妙な面持ちになりそう応え背ける様に目線を落とした。そう言えば最近の息子の会話に彼女の名があがることが無くなっていたことに気づいた。
「─どうしたのよ。あんなに仲が─」言い掛けて思わず言葉を呑んだ。自分の子供のこととは言え入り込み過ぎてはいけないプライベートがあって当たり前だと思い直した。心身のバランスを崩してしまった自分を絶えず労わり支え続けてくれているその心根の優しさを信頼し切っている。年代に関係なくしばしば起きる男女の恋愛事情の不可思議も嫌気が差すほど身近で見聞きして来た。
「─いいわよ。日曜なら、いつでも」努めてさりげなくそう応えると進一はホッとした表情に笑みを戻し、翌週の日曜を約束すると仕事に出かけて行った。玄関のドアが閉まる音がすると、カタン、と音がして飼い猫のクウが尻尾を立て足下にすり寄って来た。
「─あら、起きたんでちゅか。お腹空いたの?」途端に相好を崩して腰を屈めるとクウはニャー、と小さく鳴いた後その鼻先をざらついた舌先で舐めた。
「─本当なの?」向かい合わせにいる美里に眼を向け瞬きも出来ずに桂子がやっと口を開いた。俯き小刻みに肩を震わせている彼女に掛けるべき言葉を探しながら自分の全身から血の気が引くのを感じていた。
「─いつのお話?」その声が思わず上擦った。
「─二か月前です」濡れた瞳を上げて美里が消え入りそうな声で応えた。
「─堕ろして欲しいって─あの子が─本当に─?」下がらぬ溜飲を疎ましく感じながらももう一度確かめると、美里は再び目線を落とし今度は小さく嗚咽を漏らした。
眩暈がするほど思考が混乱していた。補聴器を通して聴こえて来る店内に流れている明るいポップスが邪魔に思えた。
つい昨日、突然掛かってきた美里からの電話に応じ二人は駅近くのカフェで向き合っていた。先般の進一の様子から察すると上手く行ってはいないようだが二人は高校在学中からもう長い期間交際している。
「─もう一度、きちんと話がしたいんです。だけど彼、電話にもラインにも─応じて─くれなくて─一度だけ─職場に行ったんです─でも─わたしを振り切るみたいに─」声を詰まらせながら美里が言った。暫くの間の後、
「─あの、費用は。その─その時の─」言いながら下賤な問いかけを恥じると刹那に桂子の眼からも涙が溢れかけた。
食材は眼に映るのだが何の考えも浮かばなかった。ふわふわした覚束ない足取りの感触のまま結局何一つ買うことなくスーパーを後にした。ぼんやり歩いていると唐突に肩を叩かれ、振り返ると友人の雅美が笑顔で立っていた。
「─どうしたのよ?ぼうっとして」いつもの明るい口調で雅美が言った。
「─ううん。大したことじゃないの」そう応えたが深く沈降仕掛けている自分の心に不安を抱き始めていた。難聴と同時期に罹患した鬱の前兆に俄かに慄いていたのだった。
普段ならプライベートなことには一切蓋をし誰に対しても身構えて向き合うのだが、突然持ち上がった一人息子の大きな欺瞞を誰かに問いかけてみたかった。ホッとする意見を求め縋りたい気持ちだった。
雅美とは句会の教室で知り合った。歳下だが歯に衣着せぬ物言いが面白く短絡的な性格が共通している様でウマが合うのだった。以前教室でのお茶会の折、桂子の聴力のことを知り憐憫の言葉をかけて来た他の生徒に、
「何言ってんのよ。それが今のこの人の個性なんじゃないの。何も知らない癖に変な慰め方しないで頂戴!」そう一喝したのだった。
「どうしたのよ。あからさまにおかしいじゃないの。話しなさいよ」夕刻の空いたファミレスでエスプレッソの白い小さなカップの縁に口を近づけながら雅美が繰り返した。
「─ねえ、どういうこと?」憤りを孕んだ詰め寄る様な姿勢に息子は物怖じした様に応えなかった。
「─せっかくの命をないがしろにしたのよ?あんたたち二人の身勝手で─」俯いた無表情な顔つきから何も読み取れないもどかしさに苛立ちを抑えられなかった。
「─命を─授かった命を─あんたたちは─一体─」言い掛けたその声が詰まり、涙が溢れ出てきた。視界の先にいる息子が酷たらしく揺らいで見えた。
「─無事にね─命が、みんな無事に─産まれるとでも─簡単に─待ってるだけで─産まれてくれるなんて─本気で─あんたは思ってるのッ─!」激昂が上手く言葉にならなかった。
「─あんただってね─」
「知ってるよッ─」桂子の声に被せる様に進一が言い眼をあげた。
「知ってるよ。母さんが難産して苦しんだ挙句、俺も一緒に死にかけたんだろ─命が簡単に産まれるなんて考えてないよ─」その声が震えていた。
「─なら、どうして?どうして、せっかくの命を─」呼吸を整えながらそう改めて問うと暫くの間の後、
「─遺伝子があるだろ」ポツリと応えた。
「─え」桂子が息子を見据えた。
「─遺伝するんだろ?俺の障害は」俄かに光を無くした眼差しで母を見返して進一が繰り返した。咄嗟に返す言葉に窮していると、
「─どうして─どうやって責任取れるんだよ?─美里は何も知らないんだ─自分のせいで障害持って─産まれる子どもに─どこにも異状のない、彼女にも─」そう言った息子の顔がくしゃっと歪んだ。
進一の発達障害が診断されたのは小学校に入学して間もなくのことだった。
授業中に教室を抜け出しては結構な距離のある自宅まで上履きのまま帰宅することもしばしばで、反省を促せば理解した風に項垂れ謝罪もするのだが時間を置かずにまた奔放な行動を取ってしまう。集団の中での周囲に合わせての行動が苦手で突如癇癪を起こしては暴力を振るい同級生に大きな怪我を負わせてしまったこともあった。
「─ご家庭の環境やしつけに問題がある訳ではありませんね。お子さんは明らかにADHDです。発達障害の一つですね」医師からその言葉を聞いた途端、背中から冷たい水を浴びせられた様に血の気が引くと強い眩暈に襲われ膝から崩れ落ちた。治療はカウンセラーによるセラピーと抗ADHDによる薬物療法になるが進一の場合個人差があると云う副作用が強く、何度かの摂取の後控えるようにした。
「─何てことはない。男は一生働いて家族を養えればいいんだ。大体、そんな感じのヤツは昔からクラスに一人はいたさ。医者ってのは何でもかんでも病気にしたがるもんなんだ─」欠かさない晩酌の徳利を傾けながら夫が笑っていた。そうよね─。大勢の輪の中で落ち着きがないなんて家の子に限る訳じゃない筈だ。現に家庭での普段の振る舞いにおかしな所は別段見つからない。真に受けるつもりはなかったが夫のその言葉に少なからず救われる気がしていた。だが小学校三年生のある日、大きな事件が起きてしまった。
学級全体で「金のガチョウ」と云う劇を学芸会の演し物に決め、一番要の役柄に進一が選ばれた。推薦したのは担任の先生で中々クラスに溶け込めない進一を案じ、好意的に抜擢したのだが一部の生徒がそのキャスティングに声を立てて笑った。
「マヌケでバカな三男の役だもんな。一番にあってるよな」心ないその言葉に皆が笑った。授業中も落ち着きなく先生に指名されても答えられず勿論テストの点数も悪い進一だったが、子ども心にもいつも遠慮勝ちに目立たない様に自分の立ち位置をわきまえていたつもりだったらしい。だがその一言が自分を浮き上がらせ俄かに注目される存在にしたことが腹立たしく我慢出来なかったのだろう、急に立ち上がりその生徒に近づくと振りかざした拳をそのまま顔面に下ろしたのだということだった。
鼻を押さえたその指の間をはみ出して溢れ出る真っ赤な血が流れるのを見ると耳を両方の掌で塞ぎ狂った様な声を上げて教室を飛び出して行ったという。病気のことを心の内に否定し続けしまい込み学校側にも何も伝達していなかったことを強く後悔させられた。
「─俺が─どのくらい─苦しんだのかなんて誰にも分からない─いつも自分はみんなと違うんだって─いつもそう思ってて─自分の子にだけは、─イヤだよ─そんな思いさせるの─」そう言い終わると進一はテーブルに突っ伏し肩を震わせながら嗚咽を漏らした。
言葉がなかった。掛けてやるべき言葉が見つからなかった。
翌日、重く沈んだ気持ちを引きずったまま教室に入りストールを外しながら椅子に掛けた途端、今までほとんど会話もなかった丁度同年代と思しき生徒から突然声を掛けられた。
「─大変ね。色々─」その言葉にきょとん、と首を傾げると、
「─親戚にもいるのよ、多動症の子が─」女はそう付け加えた。少しの間の後、ハッと気づいて辺りを見回すとすぐに雅美の姿を探した。愉しげに他の生徒と談笑していた。思わず咎める目線を向けると一瞬確かに合わせた目線を逸らす様にした後、また何食わぬ笑顔を戻し会話し始めた。
「─そんなに気にする様なこと?別に面白おかしく話してる訳じゃないでしょ?」響き渡る強い詰りに鼻白んだ風に笑みを引き攣らせて雅美がそう応えた。教室が終わった人気のないロビーで二人は向き合っていた。
「信用してたから話したんでしょう?友達だと思って、信用してたから─」蒼白に繰り返すと少しの間の後、
「─なら、誰にも話したりしないことね。人の口に戸は立てられないんだから」挑む様な目つきでそう言い放って来た。
「─随分と酷い言い方するのね。あなたにだってあるはずよ?プライベートな知られなくない事情が」瞬きもせずに言い返すと間髪いれずに、
「わたしは話さないもの。誰も信用したりしないし。それにあなたが抱えてる悩みなんかより、もっともっと深刻な人だってたくさんいるんだから。自分だけが不幸だなんて、ドラマのヒロインみたいに悲劇に浸らないことね─わたしね、暇じゃないのよ。あなたみたいに保険金でのんびり暮らしてる訳じゃないの。─失礼するわ」そう撥ねつける様に言うとそのまま背を向けて去って行ってしまった。
半ば茫然と立ち尽くしその背を見送っていると悄然とした寂しさが衝き上げ、また泣き出したい気持ちに桂子は慌てて天井を見上げじっと耐えた。
「─あなた。独りだよ、わたし─。嫌なこと、辛いことばかりで─どうしようもなく独りぼっち─何ともならないことがたくさんあって─ねえ、どうしたらいい─?」生前好物だった林檎をお仏壇に供え掌を合わせながらそう呟いてみた。遺影に写る優しい笑顔と共に蘇る逞しい腕枕が切ないほど恋しかった。鈴を打ち暫くじっとしていると視線を感じふと振り返ると猫のクウがこちらを見てちんまりと行儀良く座っていた。
「─いてくれたんだ」そう言うと尾を高く上げ伸びをし、ニャーと優しい声で鳴いた後膝下に近づき細めた優しい眼差しで主人を見上げた。
「─加奈さん、って言うんだ。職場の同僚だよ」駅から程ない場所にある老舗の割烹料理屋でテーブルに向き合い頰を紅潮させた進一が言うと、隣に正座した女性が緊張した面持ちでしかし丁寧に頭を下げた。
「─はじめ、まし、て。加奈、です─」綺麗な細い声だが吃音だった。
「─進一の母です。はじめまして」にこやかにそう応えながらも桂子には息子の心情が窺い知れなかった。前の恋人が哀しい決意をして堕胎した事実を大きな衝撃として払拭出来る筈もなく、またそれから日の経たぬうちに新たな彼女を紹介する神経を疑わざるを得なかった。
「大切な話なんだ─」そう言ういつになく真剣な態度に不承不承応じ、新たな彼女の存在にしても最近になって頻繁に通話やSNSでのやり取りする様子から察しはついていたが、深く傷つけてしまってはいたが母親としては長年の馴染みがあり親しみのある美里とよりが戻ることを心密かに期待もしていたのだった。
「─吃音症なんだ。加奈さん─生き別れたお父さんのDVが原因でね」唐突に進一が話し始めた。
「え─あんた、今そんなことを─」慌てて桂子が制しようとすると、
「いいんだよ、母さん。二人で相談して決めたことなんだ。加奈さんのお母さんにも会ってね、俺の障害のことも伝えてある。─もう、隠し事は嫌なんだ。だから母さんにもこの人のこと、ちゃんと知っておいて欲しいんだ」しっかりと母親を見つめる眼差しに迷いは感じられなかった。
「─俺、この人を護りたい。結婚する」そうきっぱり言い切り浮かべた息子の笑みはかつてない清々しさと自信とに満ち溢れて見えた。
年の瀬になり忙しなさにも拍車がかかり始めた頃、クウが突然居なくなってしまった。寒さに弱く炬燵を出していない時は家の中の少しでも暖かい場所を探し出して香箱を拵え転寝ばかりしているのだが、朝晩のご飯時になっても姿を見せない。三日も日が過ぎると心配は極限になり昼夜問わず時には隣街にまで足を運び三毛猫の姿を探して歩いた。自身もすっかり憔悴してしまい食欲も無くなると頻繁な外出も祟ったのかとうとう風邪を引き高熱に臥せてしまった。
「─この寒さだからね。アイツに耐えられる訳ないよ。きっとどこかの家の軒先きにでも潜り込んで、元気でいるさ─」この春先に結婚式を控え、毎週末の休日には式場のスタッフとの打ち合わせや招待状の発送やら事前の準備に追われ暇のない進一が寒風に晒され赤く染めた頰を両の掌で擦りながら宥めるように言った。
「─だといいんだけどねえ─」すっかり気落ちしたそんな様子を気にしたのかもう一度笑いながら何かを言ったのだが俄かに聞き取れなかった。
「─え、なあに」そう聞き返すと、今度は真顔を寄せ、
「─だいじょぶかい?最近、前よりも聞こえ難くなってるみたいだけど─?」そう言って眉を顰めた。確かに新しく買い替えた補聴器をつけていても時として音が籠る感じで相手の言葉が聞き取れなかったりすることがある。五感を損なう不安は折に触れ悍ましいほどの恐怖と孤独感を伴い全身を鷲掴みにする。掛かりつけの医師もその進行に気づいていて早めの手話の修得を勧めているのだった。
その晩が熱のピークだったのだろう、真夜中に全身にかいた汗をタオルで拭い下着を着替えようと朦朧と立ち上がると、どこからか小さく鳴き声が聞こえた気がした。音のする方向を見てふと予感がし慌てて厚手の綿入れを羽織り玄関に出ると、今度ははっきり仔猫と思しきくぐもった鳴き声が聞こえた。一瞬眼が止まりそっと下駄箱の戸を開けると果たしてクウが亡き夫の靴の中にすっぽり収まり大きくはないその身体の下に庇うように二匹の赤児の猫を抱いていた。見た目にもやつれてはいたが桂子の顔を認めると目を細めて微かにミャー、と鳴いた。
俄かに賑やかになったキッチンの床に大小、三匹の猫が舌鼓をうちながらミルクを舐めている。本来なら暖かい季節に子を産み育てる本能を備えている筈が、あえて厳寒期を選んだことが我が家の愛猫らしいと考えると小さな命が微笑ましく一層の愛おしさが募るのだった。同時に新たな息吹きの成長が勇気を与えてくれるようで、ここのところ自らの動向にも覇気を持てている気がしていた。
猫たちが入っていた夫の大きな革靴をまた丁寧に磨き仕舞い込もうとした時不意に、
「─すまんな─」と後ろから声が聞こえた気がして思わず振り返ってみると引き戸の隙間から入り込んだ冷たい風が嵌め込まれたガラスを小刻みに揺らしているだけだった。
大きな木箱に頑丈に打ちつけられた釘を釘抜きで引き抜き蓋を開けると詰まっていた芳醇な香りが部屋の中いっぱいに広がった。毎年送られてくる「陸奥」は程よい酸味が美味の大粒の実で夫の大好物だった。
「─今年もい出来だなぁ」と俄かに思い出したようなお国訛りで笑う夫の声が聞こえて来そうな気がした。
「えは家族三人だはんでな─」そう言いながら三粒の大玉をお仏壇に供え、大柄な身体を縮めて掌を合わせる背中を思い出す。
「どれ、今年はクウたちの分を併せて五つお供えしようかしら─」そう言いながら工夫して台座に林檎を重ねていると、
「─母さん、手紙が入ってるよ」そう言って進一が白い封筒を差し出して来た。
夫、誠一の肝臓に異状が見つかったのはまだ五十になる手前のことだった。
高校を卒業しモノ造りに関心の深かった誠一は家業の農家を継ぐことを嫌がり父親の旧知である地元青森でも腕の良さが評判の棟梁に弟子入りを志願した。
「─今更大工なんて流行ねよ。わが一代限りでい。せっがぐの親父さんの農園ば継ぎな。」棟梁は初めそう言って笑い取り合わなかったが繰り返す熱心な申し入れに根負けする形で弟子にしてくれた。人付き合いと口先はあまり上手ではないが器用な手先とまた実直で頑固な職人気質が気に入られ厳しい修行の許、十年足らずで一人前だと太鼓判を押されると後年には宮仕事からもお呼びの掛かる腕の良い職人として自他共に認められる存在となった。
馴れ初めは桂子がまだ二十歳を過ぎたばかりの頃、母親の知人で世話好きな年配の女性の半ば強引な勧めによる見合いの席で知り合った。端正で男らしい顔立ちがかつての昭和スターにも似ていて、無口で無骨な感じだが優しい笑顔とのギャップが魅力的で一目惚れしたのだった。物心つく前に生き別れた父親の憧れをその面影に見い出したのかも知れない。歳の差は一回り近くもあったが懸命に背伸びをして甲斐甲斐しく小まめに尽くすと誠一もそれに応えるように優しく接してくれた。幸せに満ち足りた新婚生活だった。
だが暮らしに影が見え始めたのは間も無くのことだった。酷い難産だったが何とか長子も授かり全てが順風満帆に見えた頃、酒好きが高じて深酒を繰り返してはしばしば仕事の工期を遅らせたり、酷い二日酔で上棟式に欠席してしまうこともあり職人として次第に顰蹙も買うようになって行った。
ついには地元での受注もなくなり生活さえも覚束なくなると伝手を頼って逃れるように関東に転居した。懲りた筈だがやはり中々嗜好は抑えることが出来ず、やがて肝臓への負担が澱のように溜まると飲酒を控えても例えようのない全身の怠さで下請けの仕事も休み勝ちになり、やっと掛かった病院で肝硬変を診断され緊急の入院による加療を勧められた。だが病院嫌いを頑として押し通そうとする依怙地とも言える姿勢に限界まで我慢し耐えて来た桂子は息子と共に別居の決意をした。誠一の自暴自棄の暮らしぶりは一層拍車がかかったがほとぼりも冷めると孤独と後悔の念に苛まされたのだろう、不承不承自ら入院加療を知らせて来た。親子が胸を撫で下ろしその準備を整え迎えに向かった恐らくはその前日、既に他界してしまっていたのだった─。浴槽に浸かったままの姿で息耐えていた─。喩え一時的とは言え懲らしめの為に傍を離れたことへの申し訳なさと必ず癒えることない後悔の深さは言葉に出来ない。無骨だけれどもいつだって精一杯妻子を抱きしめてくれていた大きな掌の温かさを忘れたことはなかった。幸せの風景に二度と描かれることのない優しい笑顔を思い返す度に遣り場のない自責の念と悲しみが心を締めつけるのだった。
「─最近、ばっちゃの体調良ぐねんだ。誠一の七回忌ば早めにやるべど思います。ご苦労なごどだばって、足ば運んでぐださい。」手紙なのに訛りで書かれた乱れた文字に義父の少し嗄れた声が蘇り重なり、昔深い雪の中の停留場で自分たちの到着を待ち侘びてくれていた皺深い優しい顔が浮かぶと、温かいものが衝き上げ不意に眼からこぼれ落ちた。
「─辛えびょん?申す訳ねね。バカ息子のせいで。暮らす向ぎはどうだい?」老いてはいたが変わらぬ優しい笑みを浮かべ労わる様に義父が言った。
「どうも。何どがやってらはんで─」釣られて出た久々の方言に桂子も息子と眼を合わせて笑った。
「本当さ、むったどお米やら林檎やらすか送れねで。かにな。」昔ながらの囲炉裏に炭を焚べながら義母が言葉を添えた。加減が良くないと言っていた義母だったが、顔色も良く思いのほか元気そうで安心した。二人とも久方ぶりに会う進一の成長振りに目を見張り、間近な結婚を報告すると相好を崩して喜んでくれた。
「─すっかり大人になって、入って来だどぎ誠一がど思ったわあ─」義母はそう言うと小さな背を伸ばして進一の肩にじゃれつく様に節くれだった両掌を置いた。
法要は本当に身近な数人だけで執り行なわれた。
「─人はいづが必ず死ぬ。必ず、と言う断言出来る真理は「死」にのみ当ではまる。それまでの「生」は修行じゃ。修行だば辛ぐでも当然のごど。ばって辛えど言う字は一画加えれば「幸」に代わる。わすが筆一本の我慢で、人生は変わるのじゃ─」読経唱題の後の老齢の住職のご説法が心に沁み入る様だった。
山菜やら根曲がり竹やらの塩漬けや干し柿やらをたくさん土産に貰い少し離れたバス停に向かう途中、桂子はうっかり足を滑らせ右の足首を挫いてしまった。
「大丈夫?母さん─」心配そうに駆け寄る進一に、
「─大丈夫大丈夫─」そう笑って応えたのだがどうしたものか身体が持ち上がらない。少し踏ん張るだけで利き足首に激しい痛みが走る。痛みに顔を歪め大きく溜め息を吐いた時、進一が屈んだ背を向けて来た。
「捻挫かも知れないよ。早く─」不安げに首を回してそう言った。
おずおずとだが背に身を預けるのはいつ振りぐらいだろう。高く見える雪景色が余計美しく見えた。息子の背中が思いの他広く逞しいことにも驚いていた。心地良く揺られながら、
「─ごめんね?重いよね─」そう訊くと進一は黙って首を振り暫くの間の後、
「─知らなかったよ。─母さん、痩せてたんだね─こんなに」言葉尻りを少しだけ上擦らせてそう応えた切り黙々と歩いた。ざくざく、と雪を踏みしめる音と時折緩く吹く寒風が肩越しに見える息子の白い吐息をかき消した。やっと遠くに停留場が見えた頃、
「─ねえ、どうして彼女なの?─美里さんじゃなかったの─?」わだかまりを思い切って訊いてみた。進一は一瞬だけ足を止めて何か言いたげに首を回しだがまた前を向くと黙って歩き出した。
「─やっぱり、縁よねえ─。母さんも同じだった─父さんとは─深い縁で結ばれてたもの─」自答する様なその言葉に、
「─再婚は?─考えてないの─?─まだまだ若いんだし」進一が訊いて来た。思わず込み上げて来た笑いを噛み殺して、
「─無理よ。だって、あんなに素敵な人─他にいる訳ないもの─」そう応え小さく笑い声を立てると、進一の背も小刻みに震えた。
帰宅し節分が近づいた頃、著しく低下している聴力を意識する様になった。だが不思議なことに以前みたいな居ても立っても居られない様な恐怖や不安はなかった。
それよりもお式を前にして懐妊したと言う加奈の身体が心配だった。本人たちが気づいた時には既に三月が過ぎていたと言う。知らせを聞いて恐る恐る眼を向けた時息子は、
「─大丈夫だよ。二度と過ちは繰り返さない」そう言って笑っていた。
自分とさほど変わらぬ華奢な身体つきで食も細い加奈の体調が心配でならなかった。同時に初孫への特別な思い入れが日々膨らみ、内緒で買い物に出かけては男女兼用の産着等を選んで買い置きしたりもしている今が幸せだった。
節分の豆をお仏壇に供えていたある日、唐突に加奈が一人で訪れた。
「─どうしたの?何かあった─?」不安げにそう訊くと加奈は笑って首を振り、
「─お母様、に─会いたく─なって」と言い俄かに頬を染めた。素直な言葉が嬉しかった。
「ありがとう。─今、お茶でも淹れるわね」そう言っていそいそと台所に向かおうとした時突然、
「あっ、─」加奈が小さく声を上げ前屈みに胎を押さえた。慌てて駆け寄り桂子も腰を屈めお胎に触れると、顔を傾けた拍子にどうした訳か補聴器が外れてしまった。それを拾おうと床に眼を遣った時、触れた掌の下からドクン、と確かな胎動が伝わって来た。同時に不意に記憶の奥深くで遠い日の息子の産声が蘇った気がした次の瞬間、眼を合わせた加奈のか細い笑い声がぐるりを取り囲む賑やかな生活音を伴い、一斉に耳に飛び込んで来た─。
了
桃花源(とうかげん)