まなじりの微笑み

真夏の某日、第三研究室にて

 すこし前の話をしようと思います。あれはいつの日のことだったでしょうか。私がまだ大学に通っていた、たしか、夏の日のひどく蒸し暑い日だったように思います。あの日、東京は本当に暑くて、すれ違う人がみなハンカチを手にふらふらと歩いていました。私はなんとか大学にたどり着きましたが、もう全身が汗をかいて気持ちが悪く、とくに私はスラックスの中を汗が伝うあの感覚がどうにも嫌いで、いっそのこと今日はもう帰ってしまおうかと考えていました。
 すこし悩んだ末に、せっかく暑い中来たのだからと思い、私は図書室で本を探し、研究室に向かいました。研究室は無人に見えましたが、扇風機が一台、具合が悪そうに首を振っていました。
「こんにちは」
 部屋の奥まで届くように声をかけてみても、応答はありませんでした。
 扇風機の羽が回る歪な音だけが聞こえ、先輩方の話し声も資料をめくる音も聞こえませんでした。無人の部屋に向けて挨拶をした自分がなんだか恥ずかしく思えて、私は扇風機を切り、早々に研究室を出ることにしました。扇風機のつまみに指をかけ、回したその時、それまでまったく感じなかった気配が背後から私に近づきました。驚いて勢いよく振り向いた私に、その人は一瞬、目を広げましたが、すぐに何もなかったかのように私の指の上からつまみを回して扇風機を再び動かしました。
「つけたままにしておいて」
 私は扇風機からの風を受けながら、その人が大きく一つ伸びをして、来客用のソファに寝転がるのを黙って見ていました。

 今日の研究室での出来事を友人のAに話すと、Aは渡り廊下に響く大きな声でその人を非難しました。
「一人で扇風機を使うなど、どういう神経なんだ。だいたい来客用のソファに寝ころぶなんて! あってはならないことだろう。君は注意したのかい」
 くるりと私に向けられたAの強い瞳に私は慌てて首を横に振りました。
「そんな、注意なんて、相手がどこの誰かもわからないのに」
「だからこそ研究室に所属している君が注意すべきだろう」
「でも、もしあの人が客人だったら」
「そんなことあるはずがない。僕らとそう年も変わらないようだったんだろう」
「二つか三つ上のようだったよ」
「それならきっとここの学生だ。たとえ先輩であっても、注意するべきだったよ」
 Aの怒りですこし赤くなった顔が西日に照らされて、さらに燃え立つような赤色に染まっていました。
「でも、なんだか悪いことをしているようじゃなかったんだ。ただ、本当に許されたことをしているだけのような」
「君はわからないやつだな。いつもはっきりした意見を相手に伝えない。もっと自分自身の芯を強く持たないと、ここは我の強い奴らばかりだ。あっという間に取り残されるぞ。じゃあ、今日は古本屋に寄るから先に行くよ」
 そう残して足早に階段を降りて行ってしまったAを見送り、私はもう一度研究室へと足を進めました。

 研究室の前へ立つと、よくわからない緊張感に包まれて、暑さからくるものとはまた違った種類の汗が背中をつつと流れました。
 あまり音を立てないように戸を引いて、廊下から頭だけ研究室に入れるようにして、私は辺りを見回しました。
「失礼します、こんにちは」
 返ってくる声はなく、私は少しだけ緊張感から解放されて、息をゆっくり吐きました。そのまま奥の間にある来客用のソファを確認しましたが、誰も寝ころんでなどいませんでした。扇風機はその羽を止めて、いつもの位置で相も変わらず項垂れていました。なにもおかしなことなどない、いつもの研究室がそこにはありました。昼間のことはあまりの暑さが見せた幻覚、白昼夢だったのかもしれません。私の体内に残っていた僅かな緊張感も吐息に紛れてみなどこかへ行ってしまいました。

 Aはまだ怒っているのでしょうか。彼は厳格でいつも隙がなくて、それは素晴らしいことですが、自分がよしとしているものを人に押しつけるところがあるのです。私とAは四校時代からの友人ですが、Aは昔から私の優柔不断なところや、非現実的な空想を続ける癖を厳しく非難します。Aは確かに正しいのです。立派な立派な学徒です。ですが、私は最近そんな彼といると息が詰まるのです。こんなこと、言うもんじゃありません。きっと故郷の両親が聞いたら、私は三日三晩叱られることでしょう。両親は頼りない私をひどく心配しているのです。だから、四校で最も優秀だと言われていたAと私が親しくなったと話した時にはそれは喜んでおりました。明日になったらAに謝ります。馬鹿なことを話して悪かったと謝ります。
 先ほどの安堵とは違う深い息を吐いて私はなんとなく、出来心で来客用のソファに腰をおろしました。皮張りのソファはひんやりと冷たく、腰掛けてみると意外と大きく、なんだか冷たい大きな動物に包まれているような心地でした。
 なるほど、これで扇風機の風があったら大そう気持ちがいいでしょう。昼間の人を思い出して、ふふと笑えば、何かがすっと近づく気配に驚いて背もたれから身を起こそうとすると、私の肩を軽く抑えて、あの昼間の人が笑っていました。
「今度は一緒に涼みましょう」
 耳底をくすぐるようなその声に、はっと目を開けると、すっかり日は沈み辺りは暗くなっていました。皮のソファは私の体温を吸って生暖かく、背中にはじっとりとシャツがはりついています。私は自分が来客用のソファに沈んでいることを再度認識し、脱兎の如く駆けだしました。


 神田の夜は心地よい風が吹いています。私を見つけたAが片手を挙げて笑っています。卒業してからAは病院で、私は大学で働くことになりました。結局、私はあれから何年も経った今でもAに謝り損ねているわけですが、Aはずっと変わらない態度で親しくしてくれています。
しかし、私があの幻覚なのか、白昼夢なのか、夢なのかわからない場所で出会ったあの人のまなじりの微笑みを忘れられないと知ったなら、きっとAはやっと、私に愛想を尽かすことでしょう。

まなじりの微笑み

まなじりの微笑み

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-03

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