猫男の天空書肆

 ベアトリーチェを見ようとして振り返ったのだが、
 私は、彼女の近くにいたはずにもかかわらず、
 この幸福の国で彼女の姿を見ることができなかった。

               ダンテ「神曲 天国篇」より



               ★

 超巨大な三毛猫の口がぱっくり開き、
『にゃ~ん♡』
 と口腔内部の大砲じみたスピーカーから、割れ鐘のような猫の鳴き声が轟く。猫の頭の形をした店なんだ。両目はライトになっていて、星のようにペカペカ光っている。どでかい猫の首がロケットみたいに空を横切った。
『大阪、天王寺公園上空……』
 角町猫男はヒゲを撫でてマイクに呟きながら、レジカウンターにある制御盤のレバーを前へ倒す。天空書肆を操縦しているのは、国芳風の三毛猫顔をした人間である。
『6月24日【UFO記念日】。本日ハ晴天ナリ……』
 猫人間である猫男の空飛ぶ古書店「ねこブックス」はケツから火を噴いて着陸する。天王寺公園で青空カラオケをしていたオッサンたちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。そして地面に現れる「てんしば」の文字、芝生が広がる公園内には都会的なカフェやレストランがずらりと並ぶ。大阪時代の仲間に誘われ、これから四天王寺境内で開かれる青空古本市に参加するんだ。
 地球人が火星人との講和条約に調印し、戦争が終わった後は本の需要が急激に上がり、猫男は上手くやった。地球で見向きもされなくなった吉川英治や文学全集、ピカソやシャガールの大型豪華本なんかを持って行くと、火星で飛ぶように売れた。全てのテクノロジーが滅んだ焼野原の後に、人々はまた本を読み始めた。タコみたいな外見のくせに、火星人も地球の本を読んだ。お互い再興することの他にやることが無かったからだ。
 ひとしきり儲けた後、火星人の書画骨董を地球に持ち帰ることを思いついた古本屋のひとつが「ねこブックス」、ドサクサに華麗なステップで紛れ込んだ。火星の古民家に詰まったガラクタが黄金に変身する錬金術。戦後、地球でも火星の歴史や古い文物の研究が許可され、それらを扱う大学や博物館が増えた。莫大な公費をアッという間に消す手品師たち。猫人間、馬人間、虎人間、熊人間、猿人間、鳥人間、鼻が利く色んな動物人間の古本屋が、店を何倍にも大きくして火星から帰ってきた。
 1947年の今日、地球で初めてUFOが観測された。数十年後に民間用宇宙船の販売が始まった日付でもある。それに便乗して色んな催しが作られたが、四天王寺の「UFOの日の古本市」もその類だった。
 猫男が荷車で古本市用の本を運んでいると、荷台に天灯を山ほど載せた軽トラックが天王寺駅前に停車した。「いぬ書店」と書かれたドアが開き、中から犬人間が出て来た。
「あれ、犬八だ」
 犬八は細身のデニム・パンツに、進行方向別通行区分のバンドTシャツを着ていたが、珍しく黒いジャケットを羽織り花束を持っていた。
 同じ神田の古書店で修行したよしみで、独立したてのころは良くお互いの店を手伝った。幼稚園からの幼馴染で、東京の大学でも同級生になり、本や音楽、遊び場、洋服の趣味も合った。太い客のつてや稀覯本の知識などを得るのは、新参者には難しい世界だ。天王寺で代々書店を営む犬八の店には、親父さんがいたころから世話になった。犬八のおかげで、火星まで飛べる店舗型宇宙船の天空書肆(三井TOYOTA不動産製ヴェルファード)購入の頭金を用意出来たようなものなのだ。
 七年前、終戦のニュースが流れた晩に火星へと飛び立った。養子で犬八の妹の人美(ひとみ)や、彼女の友達の人巫子(ひみこ)にも別れを告げることが出来なかった。地球へ帰ってきてからは関西圏を中心に飛び回っていたが、気まずく思い、一度いぬ書店の店先へ挨拶に行ったきりですませていたのである。
 猫男は内心逃げ出したかったが、犬八はずんずん近づいてくる。それから相手は猫男を見つけた。
「おーい、猫男やんけ。ハッ、ハッ、ハッ」
 犬八は柴犬面でベロを出し、ハッ、ハッ、ハッ、とやっていた。
「よ。お。久しぶり。げ、元気?」
「四天王寺さんに行くんか? ハッ、ハッ、ハッ」
 犬八は猫男の荷車に積まれた本を睨んで、顔をしかめた。
「そう。犬八も、なに。オシャレして。彼女出来た?」
 ワン! ワン! ワン!
 犬八は思わず犬語が出た様子、
「アホ!」ぶうるぶる
「どこ行くの」
「ほんまに分からへんのか?」
「ごめん、もうすぐ市が始まる。犬八のところは出品しなかったんだ」
「妹の、人美の、命日やないか。あいつの親友やった人巫子も来とるはずや」
 飛行機の音が急に聞こえた。犬八の目の端が、かすかに光で膨らんだ。
「ごめん」
「この先にある河底池の花壇の前で死んだ。いつも天王寺公園で、本を読んどったわ」
「YOUTUBEで観たよ」
「死神チャンネルやて、ふざけとる」
「削除依頼は出したの?」
「いや、人美の願いや。出してない」
「なんで」
「人美はおまえのこと、好きやったんや」
「まさか、え?」
「死ぬ前にメールが来た。あんな動画でも、映像に残っとったら、おまえに観てもらえるやろ思たんや。炎上してネット・ニュースになっとったな。拡散して、どこに居たって、火星だって。何年も連絡を寄こさんような奴相手に、まあ」
「だけど。電話もラインも、全然来なかった」
「アホッ! お前が連絡出来ひんようにしたんやろが。何も言わず火星に行って、あいつが何も出来ないようにしたんじゃ」
「ん」
「おまえが火星に飛んで行った後、あいつは俺のところに来て一杯喋ったよ。あない無口な奴が、一晩中喋っとったんやで? 信じられるか。おまえに幸せになって欲しい、おまえが帰ってきたら良い人を紹介して結婚してもらう、人美はブルブル震えながら喋っとった。おまえのことを諦めるために一生懸命喋っとったんや。あない無口な奴が、YOUTUBERになったみたいに!」
「俺のことを」
「おまえが帰ってきたら可愛い女の子を紹介するんだって、何べんも言うてたんや……もうええ。人美は死んでもうたんや。ほら、古本市の準備があんねやろ。早よ行ってしまえ、去ね。ふう、ぎょうさん人が集まってるわ」



               ★



 ≪死神TV♪ エ・ブリ・デイ~♪
 (3秒ほどのOPアニメの後、死神が現れる。YOUTUBEの動画で死神は全身を覆う黒いローブに身を包み、髑髏の仮面をかけている。手には大きな鎌)
『ブンブン。はいドーモ、死神チャンネルの死神です♪ 今日は、この人に死を与えようと思いマ~ス♪』(ここで子供のイエーイという歓声の効果音)
『パン、パン、パン、パン♪ イェイ、イェイ、イェイ、イェイ♪』×4(掛け声に合わせて死神が踊る。編集でカットを多用する古典的なジェット・カット)
『今日の死ぬ人は、コチラ!』(どどん、という太鼓の効果音)
(シルエットになっていた人美の名前と顔写真のアップ)
『ハイ、ぷーん!』
(死神が手で放り投げるジェスチャーをすると、人美の顔がひっくり返り、跳ねまわり)
『ぷーん!』
(回転する顔写真はすぐ小さくなって、画面の隅に表示される)≫
 本棚を並べ終えた猫男はレジを蛙大学の学生バイトに任せ、テントの端でタブレットPCを眺めていた。人美の最期が映った動画は、登録者数280万人の死神チャンネルという死神系YOUTUBERによってアップされていた。人の死を司る本物の死神が、寿命が来た人間の死ぬところを動画にするという、悪趣味なタイプの動画投稿者だとまとめサイトに書いてあった。チャンネルの冒頭には「こう居るも みな骸骨ぞ 夕涼み」という一茶の句が引用されている。地球対火星戦争の終わり頃にバズり、爆発的に登録者の数を増やしたらしい。
 その後の展開はもう知っている。
 人美の簡単なプロフィールが紹介され、お涙頂戴のショートストーリーが語られた後、昇天するんだ。
 動画を飛ばすと、ちょうど人美が死ぬ直前だった。彼女は天国行きの超巨大なロケット花火に縄でくくりつけられ、大きな声で泣いていた。見ていられなくなり、ブラウザごとYOUTUBEを閉じる。空から雲雀の鳴き声が降ってきた。

 四天王寺の青空古本市はたいへん盛況しており、緑色をした五月晴れの中、フライパン上のポップコーンみたいに老若男女が跳ね回っていた。
 正門、阿弥陀堂、親鸞聖人奮蹟にも、境内には隅々までテントが張られ、おびただしい数の古本で溢れ返っている。本は店先に並んだ端から無くなっていき、ピアノで曲でも弾いてるみたいにレジを打つ音が鳴り止まなかった。閑古鳥も眠り込む普段の古本屋とは大違いで、幽霊もたまげて棺桶から飛び出す大騒ぎ。
 猫男はふと独立したばかりの頃を思い出した。当時は古本屋が多く集まる天神橋筋商店街に店を構えており、そこで同業者から大いに勉強させてもらった。ウナギの寝床みたいに狭い店内は静まり返り、たまに自転車のベルや中高生の笑い声、商店街のアナウンス、昭和の歌謡曲なんかがガラス戸ごしに遠く聞こえてくる。
 そんな頃から火星へと飛び立つまでの間、人美は何べんも猫男の店に来た。ただ、何を喋るでもなく、何かを買う訳でもなかった。店内をぐるりと回り、本を手に取り、時には何時間も立ち読みをする。人美専用の天鵞絨(びろうど)張りの椅子もあるくらいで。かと思えば戸を開くのみで敷居を跨がず帰ることもあったし、店の外から覗くだけで通り過ぎてしまうこともあった。
 しかし、店に入ってきた時には必ず本を一、二冊レジカウンターの上に置いた。買うのか、と聞いても、ただニコニコ笑うだけで黙って帰ってしまう。そんな本はとりあえず、人美のキープ本として脇の棚に突っ込んでおいた。ダンテの神曲、ホッパーの画集、宮部みゆきのサイン本……やがて人美のキープは一棚を占領し、二棚、三棚と増え、天神橋筋から天空書肆に店を移した後も本棚は残って、火星まで持って行くことになった。そこで商売が繁盛し過ぎて本が足りなくなり、結局、仕方なしにキープ分は全部売っ払ってしまった。
 まれに友人の人巫子も一緒に来店した。人美と同じ人人間の人巫子は太った女の子で、乱れ髪に瓶底眼鏡をかけ、いつもサイズの合わない服を着ていたっけ。高校卒業後は葬祭関係の会社に就職したらしかったが、今はどうしているのか。
「馬鹿だな」
 そうつぶやいて、猫男は自分の頬を強くつねった。
 火星での商売が大きくなるにつれ、人美のことも、地球のことも顧みることがなくなっていった。人美が見世物みたいになって死んだと聞いても、動転するほどのショックは受けずに、今日犬八に会うまでほとんど思い出したことさえなかったのだ。
 他の書店に挨拶をした後、バイトに命じて店じまいをした。午後からの約束もみなメールで断ってしまって、OPENと書かれたプレートをひっくり返す。明日からまたあくせく働くことになるだろうが、せめて今日一日だけは人美のために全て捧げようと思った。
 しかし弔うといってもどうすれば良いのか。戦前、両親が生きていた時には家に仏壇があった。黒檀の唐木仏壇の奥は金色に輝いて、ご本尊と塗り位牌の前に獅子が載った玉香炉、金の小常花、真珠や蓮の形をあしらった瓔珞などが飾られていた。高坏に果物、小倉山荘やたねやなんかのお菓子を載せて、お仏飯を供え、線香をあげて鈴を鳴らす……
 気付けば無宗教になっていた猫男に仏壇は無いし、簡単な供養の方法など知る由もない。インターネットで調べても仏教式のものばかりで、どうもしっくりこなかった。
 猫男はぐったりと目を閉じて考え込んでいたが、こうなっては自分なりの作法でやるしかないと思い、蛙人間の学生バイトを呼び止めた。
「残業代は払うからさ、近鉄百貨店まで買い物に行ってきてくんない」
「ゲーロゲロ。良いですヨ」ケロケロ
「ショコラ、フルーツジュレ、マカロン、ラングドシャ……そんな感じ、ヨロシク」
「ケロケロ?……ちょ、メモしまス」
「うん、あとお酒。女の子が飲むんだけどさ」
「はっはっは、なるほどケロ。それなら前に話していたドンペリニョンのピンクはどうでス? 親父の友達に聞いてみまス」
「おお、良いね。すぐ出れるかな。夕方までに帰れそう?」
「分かりました、行ってきまス」ゲロゲーロ
 それから帝塚山のフランス料理店でオードブルの盛り合わせをテイクアウトして帰ると、届いた品物と一緒にレジ・カウンターへ色々と並べてみたが、どうもしっくりこない。本を沢山積んでその上に置いたり、本棚やルイ・イカールの銅版画の前に飾ったりしてみたが、そもそも自分勝手の独自なスタイルなんだから、どうやってもチグハグで変てこりんな感じがした。
 画像フォルダの写真を印刷しようと思ったが、人美のものは一ファイルも見つからなかった。ベンガル猫の派手な元カノの写真と一緒に、ゴミ箱へ処分してしまったのかもしれない。
 店の中は本で埋め尽くされているはずなのに、急にガランと寂しく感じられた。これでもう、自分のことを本当に大切に思う人間はこの世に一人も居なくなったことに気が付いた。七年前に火星へ飛び立った時、望んだ物と引き換えに自分のどこかを失ったのだ。何を手に入れたのかはボンヤリとして分からなかった。そこまでして何が欲しかったのか、どういうつもりだったのかが思い出せない。全部終わったらここは、幸せで一杯になるはずだったのだ。
 もう少し自分に他人の心が分かったら。人美を火星へ連れて行くことも出来ただろうし、そしたら死の運命も変えることが出来たかもしれない。人美は死なずに済んだのかもしれないのだ。たくさん本を読んだというのに、なんで大事なことは何も理解出来ないんだろうか。
 人美は誰よりも多く猫男の古本屋に来ていた。たとえ幽霊になったって、戸をくぐれば猫男には分かるはずだ。なのに天空書肆のエンジンの泣音が聞こえるばかりで、それらしい訪れは何も感じない。
「馬鹿だな、馬鹿だな」
 猫男は自分の綺麗事めいた感傷に苦笑しながら、冷たいオードブルと、泡の消えたシャンパンのグラスを眺めていた。
 あべのハルカスを越えて、ねこブックスはゆるゆると上昇を続けていた。人美が唯一この店で購入した本はダンテの神曲で、物語の中で天国はあの世とかいう別次元ではなく、物理的に空の向こう側にあるものとして描かれている。ダンテは初恋の相手であり、24歳という若さで死んでしまった淑女ベアトリーチェと再会する。二人はひたすら宇宙空間へと昇っていき、火星や木星、金星を巡り、天国の死者たちと会話をする。
 バルコニーから望遠鏡で地上を見下ろすと、天王寺公園にUFO愛好家たちが集まって、複数の円陣を組んでいるのが見えた。UFOの日はお祭りで、屋台や野外ライブ場の明かりが灯り、みんなサイリウムやライターの火を揺らしている。犬八が組むインディーズ・バンドの、ドレミ音がもつれた涙声も聞こえて来た。みんなUFOや死者、遠くに居る何か目に見えないものに会いたいのだ、今日は。

 猫男はむかし天王寺の夕陽ヶ丘に住んでおり、人美のお屋敷は真法院町にあった。人美が親戚である犬八の家の養子になる前のことだ。
 人美の家は財産家で有名だったが、ずっと子宝に恵まれなかった。だから彼女が生まれた時、すでに五十路を越えた父のみならず、一家全体が頭からネジをぶっ飛ばしたみたいな喜びようだった。
 帯祝いには犬八だけでなく、特別に同級生の猫男も呼ばれた。大阪マリオット都ホテルの宴会場を全て貸し切る超盛大なパーティーで、テレビで見る歌手やモノマネ芸人も大勢呼ばれたというので評判だった。
 たしか人美が小学校へ上がった頃だと思う。犬八に誘われ真法院町へ遊びに行くと、彼女の父親の人男が、みんなでお月見に行きませんかと猫男を誘った。
 リムジンで舞洲の人工島へ到着し、ゆり園に集まっていた友人たちがおおぜい挨拶にやって来ると、人男は一人一人に金箔銀箔の散らされた天灯を渡した。灯篭は川に流すものだが、天灯は空に放つ灯火である。それはスカイ・ランタンとも呼ばれる紙で出来た熱気球で、内部の竹の先に固形燃料が取り付けられた、形は灯篭に似ているが何倍か大きなものだ。海べりの全員に天灯がいきわたると、人男の合図でいっせいに空へ浮かんだ。歓声が上り、大阪湾が月の光にきらめく中、何百もの天灯が舞い上がって夢のように美しい。人美はベンチに座る父に膝へ抱かれてちょこなんと、お機嫌に笑いながら眺めていた。
 人美はそんな風にして大きくなったのだ。月や星みたいにゆうゆうとして、戯れに頭へ花や折り紙をのせても、放っておけばそのままにこやかに一日過ごしてしまう。拍子抜けするほど大らかで、不満や人の悪口を言わない女の子だった。
 真法院町のお屋敷が火事を出して全焼すると、両親は逃げるように箕面へ移ったが、それからあっという間に死んでしまった。親戚中をたらい回しにされ、遺産を失った人美を養子として引き取ったのが犬八の父親である。本屋の子になったからかもしれないが、人美は口数が減り、本ばかり読むようになった。喋らない代わりに人の心が読めるようで、何でも先回りして済ますようになった。
 火星へ飛び立つ前の晩、人美が店にやって来た。タイトな白いタートルニットを着て、スカートにヒールというシックな格好に驚いていると、キープの本棚にあった神曲をゆっくりと引き抜いた。人美が猫男の店で本を買うのは、それが最初で最後になった。
 いま思えば、猫男を人美の元へ引き留めるために、あんなたくさんの本をキープしたのだ。あの子の唯一のわがままだった。もうどうしようもなくなり、お別れに本を一冊だけ買って、普段通り何も言わずに帰って行った。
『いらっしゃいませ♪』
 と来客センサーが反応して音声が流れた。びっくりして顔を上げる。現在のねこブックスは飛行中であり、客が入ってくるはずがない。
「すみません、今日はもう閉店で」
 言葉が続かなかった。入口に立っていたのは、人美を連れて行ってしまった死神だったからだ。



               ★



「こ、の、野、郎」
 レジ・カウンターに乗り出して叫ぶと、大鎌が床に落ち、黒いローブがひるがえった。猫男の爪が電光みたいに閃いて、闇でのたうつ死神の影を捕らえる。
「こんチクショウ。お前さえ居なければ、人美は。人美は。返せ!」
 必死に格闘していたが、気付けば掴んだ黒衣に手ごたえが無い。猫男は散らばった本の上で一人、埃まみれになって体を起こした。
 死神は髑髏の仮面をつけた女性だった。半袖の黒いサマーニット、スカートにヒールというシュッとした格好で、書家が夜の表面に鉄筆で刻したように流麗な立姿である。頸から腰にかけてが裸みたいになめらかで、ちょっと、思わずため息が出るくらい色気があった。
「あんたが、死神」
 猫男がうわごとみたいに呟くと、仮面が外れた。
 死の番人たる鬼の形相をしているどころか、丸い目のたっぷり潤む、上品に整った顔立ちをしている。赤い花が開くように、薄い唇の結び目がほどけた。
「ほんま、お久しぶりです」
「死神なんか知らない。俺のことも殺すのか。今日?」
「いいえ」
 彼女は眉を八の字にして、首を傾げながら笑った。
「人巫子です。人美ちゃんの友達の」



               ★



「ひ、久しぶ……お久しぶりです」
 たしかに聞き覚えある落ち着いた声だ。あまりのことに頭の中が真っ白になった。
「もう眼鏡かけて、ないんですね」
「どうぞ。そない固くならんと、昔みたいに心安うして下さい」
「いやいや。誰か分かりませんでした……なはは」
 人美が使っていた、赤紅色のむっちりした天鵞絨の椅子をすすめると、彼女は長い脚をたたんで浅く腰かけた。
「猫男さんが地球に帰ったことは聞いてたんですけど、やっと来れました。人美ちゃんのこと、一度話そうと思って」
「ありがとうございます。人美の遺影も何も無いから、変てこりんなことしてますけど。あ、シャンパン、飲みます?」
「ああ、懐かしいお店やなぁ」
「なんで人巫子さんが死神なんかに。びっくりしました」
「黄泉の国直営の葬儀社に就職したんですけど、死神部に配属されて。死神の宣伝のためにYOUTUBEをやったりして。あの動画、驚いたでしょう?」
「正直、良い印象は無かったですよ」
「ほんまごめんなさい」
「いや、仕事なら。しょうがないです」
「言い訳に聞こえるかもしれませんが、最初にYOUTUBEを始めるよう勧めてくれたのが、人美ちゃんでした。企画を提出してみたら、と。死神の仕事を上手く出来なかった私に、アドバイスしてくれたんです」
「死神の仕事って」
「難しいことを話しますが。人は直接に物理的な死を経験することが出来ません、他人の死しか経験出来ない。死は人間の想像力の中にだけ存在するんです。だから大切なことなのに、忘却されてしまう。そこで人々に死の概念を広報し、思い出させ、予告するのが死神の仕事なんです」
「死の予告」
「経済的、文化的に洗練された社会はエロスや死を隠蔽するようになります。だから登録サイトが発信する通知みたいなもので、この世にログイン中の人々にお知らせするんです。死を忘れるな、世界には死というものが存在すると。災害時にスマホの警報音が鳴るように」
「死について知らせるのが、そんなに大事なことですか」
「死は大事だから告知される。大事だから大事。それ以外の理由で説明しようとすると嘘になってしまうので、死神も死については沈黙せなあかんルールがあります。すみません」
 人巫子がふと横を向いたので、猫男もつられて目をやった。窓の外で天灯が一つ、光るクラゲみたいに宙を漂っている。そういえば今朝、犬八が軽トラックでたくさん運んで来た。
「人美ちゃんは動画制作も一緒にやってくれました。私がアップした人美ちゃんの最後の動画は、脚本から演出まで全部彼女が指示したものです」
「人美は、自分が死ぬのを知ってたんですか」
「もうずっと前、私が死神になった時に伝えました。死神は人がいつ死ぬかを知っています。しかし人の死の運命は、死神でも変えることが出来ません。人美ちゃんは文句ひとつ言わず、私のことを手伝ってくれました」
 彼女の声が湿って震えた。つられそうになり、鼻をすすって天を仰ぐ。
「YOUTUBEの動画では派手な死を演出していますが、撮影に協力してくれた出演者は、実際には苦しまずにあの世へ送られます。人美ちゃんの最期の日も、撮影はなごやかに進行しました。しかし私の友達を見送るんやから、カメラを三脚にセットしたり、照明や小道具を用意していても、自然と体が震えてきます。それでも人美ちゃんはあんな人やから、なにも言わんとニコニコ笑っていました。撮影が終わり花壇前のベンチに座っている時、ダンテの神曲を読んでたから、また読んでるんやねえとたずねると、うん、ほんまにええ話やで、めっちゃ深いと思うわと言って、煉獄篇の話を始めて、恋い焦がれた憧れの女性にやっと会えた時、天国までダンテを導いてくれた先生がいつの間にか消えて居なくなったところまでくると、急に黙って、えらく澄んだ目で遠く花壇の花を見つめてるんです。どないしたんか思て顔を覗き込んでも、まばたきもせんとじっとしてるんで、人美ちゃん、人美ちゃん、しっかりしいやと揺さぶると、人美ちゃんはみるみる笑顔になって、楽しかったあ、ウチいま火星に行っとったんよって呟いて……うそお、何しとったん、てたずねると、岩ばっかの場所に火星人のお客さんが集まる中、猫男さんが忙しそうにしてる隣で、椅子に座って本を読んどった、そんなことを言うてました」
「それが、6月24日」
「今日と同じUFO記念日。日が暮れるのに合わせて、人美ちゃんは徐々につま先から透明になっていきました。体が薄くなるのにつれて、おとぎ話めいた美しい表情になって、ウチ神曲は文章が好きなんよ、と言って、いくつか諳んじられました。
 人美ちゃんのために死神部のみんなも集まりました。部長がやって来て、ありがとう、そんな若さで死んでしまうのはホンマ残念や。死神でも運命は変えられへんけど、して欲しいことがあったら何でも言ってえな、みんなお礼がしたいんや、と仰られると、人美ちゃんは、ほんならここをお星様で一杯にして下さい、と。
 星……星って、あの空にある星のことかいな。そう、あきませんか? 難儀やなあ、電気ギラギラの大阪の夜空に沢山の星なんて、と言いますと、人美ちゃんは破顔して、嘘です嘘です。子供の頃、初恋の人と一緒に天灯が上がるところを見たので、もう一度見てみたいと思っただけです、と言ってまた笑いました。
 そのとき人美ちゃんの体は腿のあたりまで無くなっていました。部長に課長が耳打ちをすると、部長は目を大きく開いて、ホンマか、それエエやんけと言って人美ちゃんをベンチごと、空が良く見える位置まで移動させました。私だけ人美ちゃんのそばにいたのですが、後ろで死神部の人たちは何か慌ただしく走り回っていました。
 なにが始まんねやろ、と思ってじっと座っていると、公園を巡る木立の向こうに光の粒がきらめき、パラパラとたくさん舞い上がって、たちまち百千の星屑が夜空にちりばめられました。
 部長が人美ちゃんに、どんなもんや、見てみい。夜空を星で一杯にしたったぞと目を赤くして叫ぶと、人美ちゃんは鈴を転がすような声で小さく笑って、星やあ、ほんま綺麗やねえといって見上げていましたが、その横顔がふっと透き通り、瞬いてから消えてしまいました」
「いったい星とはなんだったのですか」
「宇宙船です。死神部はその時、YOUTUBEの動画撮影にご協力頂いたご遺族の方々に連絡を取りました。みなさま、人美ちゃんのためなら、といって快く引き受けて下さったそうです」
「ありがとうございました。教えてくれて。あなたが来てくれて、本当に良かったです」
 といいながら眺めていると、つくづく不思議な感じがして、
「しかし久しぶりに見ると、本当に変わりましたね。別人みたいです」
 そういうと、人巫子は白い歯を見せて、
「メイクや服の選び方は、人美ちゃんが教えてくれたんです。いつか猫男さんに会った時、私の代わりに見せつけてやってね、とおっしゃってました」
 といって顔を赤らめた。
 猫男は、人美が猫男に素敵な女の子を紹介すると言っていたという、今朝の犬八の話を思い出した。そう思えばなるほど、彼女のすらりとした輪郭がよりはっきりしてくる。ピンクの透ける雪白肌も、星みたいに瞬く目もとを縁取る長い睫毛も、ツヤツヤと心の形にしたがって光を放つ唇も、見れば見るほど、猫男がむかし人美に話した理想の女性そのままなのだった。
 人巫子は死神の大鎌にまたがると、魔女のように宙へ浮かんで帰っていった。猫男はすぐに人美の本棚を再現してやろうと思って、店中の本をかき集めた。何をキープしていたか、記憶が曖昧な部分もあり、そんな隙間は人美が喜びそうな本で埋めていった。
 窓の外は天の川の中にいるみたいに、無数の天灯や、UFOの日に集まった宇宙船の光で溢れていた。ひょっとしたらあの中に、未知の宇宙人や、亡くなった人の魂が紛れているのかもしれない。
 猫男は次々と本を並べていったが、珍しい本を見つけて手を止めると、
「ほら、これも読むやろ? 本棚に入れといたるわ」
 と笑って、人美の天鵞絨の椅子へ向かって本を差し出した。



おわり

ペトロールズ 「雨」
https://youtu.be/L7iPiD_6AEw

猫男の天空書肆

猫男の天空書肆

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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