銀月の夜
残された過去を拾い上げた男の話です。感情の揺れはかなり筆者に寄せている気がします。
銀月の夜
真夏日だったから、やけに寝苦しくて参った。少し微睡んだけれど、眠れなくて。私はシモンズのベッドを軋ませながら起き上がった。窓から青白い月光が射している。木々の頭が揺れて、水平線を垣間見させる。フローリングに、黒い窓枠が落ちている。その窓の中に一つ、月の影があった。昨日まではよそ行きの服が山積していた場所だった。私はシモンズから降りた。部屋の隅にある淋しげな、首のところがお洒落に曲がったスタンドランプを点ける。窓際のセネシオが、その厚い頬を染める。薄橙に少し欠けた窓枠の中から、私は月を拾い上げた。
銀色の、少し物騒な、小さな月だ。
枕元のスマートフォンを取る。挿してあった充電コードは、その中途を掴んで引き抜いた。スマートフォンが、勝手に点灯した。
1時28分。通知はない。
酷く簡潔なパスワードでロックを開けながら、フランネルのソファに座る。左手に握られた月は、雑然としたガラステーブルに置く。私はスマートフォンを軽くいじって、何時も使っているSNSを開いた。友人達の何でもない旅行写真だとか、愚痴だとか、よく分からないポエムだとかが並ぶ中で、彼女はやはり私の目を引いた。彼女はその友人の投稿写真の中で、少し若々しく写っていた。特別顔立ちが良いとか、スタイルが抜群だなんて事はない。最寄りの大学で一日探せば、三人は同じ服装の子が見つかるくらい流行に乗っかるし、聡明で特別気立てが良いというわけでもない。それでも私は、彼女が忘れられない。あの日を越えても、それは一向に変わらなかった。
『ちょっと話したい事があるんだけど、通話かけてもいいかな』
あぁ、遂に来たか。私はその連絡を受けた時、そう思った。何とは無しに、そんな気はしていた。近頃会う回数も目に見えて減っていたし、会っても昔ほどよく話さなくなった。私は酷く気を遣っていた。彼女もそうだった。彼女の服装が段々と流行から離れて、少しゆったりしたのも気づいていたし、好きだったピアスを付けなくなったのも勿論気づいていた。それでも、それでも私は信じるしかなかったのだ。私には彼女の思考を読む程の知性は無いし、彼女のスマートフォンを盗み見る度胸もない。だから、私は彼女を全面的に信用する他なかった。そして、ただ淡白になってゆく彼女を、私は傍観するしかなかったのだ。
あぁ、なんて酷くありふれた事だろう。
どうしようもないと割り切っている。彼女の選択を責める気なんて無いし、仮にそうしても無駄だと分かっている。時間はもちろん戻せないし、できなかった事を悔やむしかないことも。それでも私は、期待してしまうのだ。ある日唐突に連絡が来て、あの緩やかに温かい関係に引き返せるのではないかと。私はそれを、待つしかなかった。
漆塗りのサイドボードから、ヘネシーを一本取り出す。少し歪な、紅いハンドベルみたいな形をしている。薄橙の灯に当てられて、その液体は妖艶に照った。これを買ったのはいつだったか、もう忘れてしまった。
小洒落たロックグラスに氷を入れて、ヘネシーを注ぐ。くわんくわんと小気味良い音がする。私はずっとSNSを眺めている。彼女に連絡しようか迷う。
『こんばんは、夜遅くにごめん。部屋で君のピアスを見つけたのだけれど、届けに』
私はそこで指を止めて、全て消した。本当はなんて事ない筈だ。忘れ症の彼女に、今までだって何度も送った文章の筈だ。それでも、考えてしまう。こんなことをされて、彼女は迷惑じゃないのか。無闇に傷つけるだけじゃないのか。
どうすればいい?
私はグラスを掴んで、一思いに呷った。舌の奥だけに確かな冷感を与えて、喉へ滑り込んでゆく。40%のアルコールが喉を焼いて、酷く熱い。鼻に息を通すと、豊かな葡萄と酒の香りが抜けていった。
ああ、美味しいな……
……多分。
酒の味なんて、私には分からない。このブランデーだって、彼女に勧められて買ったものだ。
そういえば、よくこの酒を飲んでいたっけ。
もう一度、ブランデーを注ぐ。くわんっ、さっきより控えめに音が鳴った。今度は少しずつ、口に含んで流し込む。
やっぱり、分からないなぁ。
スマートフォンで時計を見る。2時14分だ。呆けて飲み続けたら、飲み過ぎてしまった。顔が酷く酒臭いし、暖かい膜に包まれているように暑い。それでも、気分は良いんだ。段々快活になってきている。このまま酒気に任せて、彼女に送ってしまおうか。私はもう一度、スマートフォンのロックを開けた。SNSのアプリアイコンをタップして、彼女のページを開く。ダイレクトメッセージのアイコンが、彼女の笑ったアイコンの横に鎮座している。心臓が麻縄で縛られたみたいに痛くて、私は少し、指を止めてしまった。
酩酊していても躊躇ってしまう私は、稀代の甲斐性なしだね。
ヘネシーのボトルネックを捕まえて、私はそのまま口を付けた。常温のブランデーが喉に押し寄せて、私の目じりに涙が溜まった。喉の上の方で止めていたブランデーを、一息で吞み下す。胃に入ったそれは、私の全身を燃やし始めた。段々と段々と、視界が揺れ始めた。
あぁ、うん、いい感じ。
ダイレクトメッセージの入力欄をタップして、キーボードを呼び出す。
『こんばんは、夜遅くにごめん。部屋で君のピアスを見つけたのだけれど、届けに行ってもいいかな』
最後の「な」を打ってすぐ、送信ボタンを押す。画面の右側に、濃い色のフキダシが出る。フキダシが無意味なカウントを始める。
アルコールが強く脳に作用して、私は幽体離脱を繰り返した。銀のピアスを掴んで、フランネルから立ち上がる。真っ直ぐ立った筈なのに、私の身体は右に傾いて、そのままガラステーブルに脚をぶつけた。
ガシャン。
ヘネシーが波立つ。ガラステーブルから、白磁のマグカップが落ちる。幸い、コーヒーの渋が残るだけだった。
気にも留めないで窓へ向かう。その途中で、スタンドライトのスイッチを切る。部屋を覆う薄橙が優しく消え去って、蒼白の月明かりだけが残った。
ゆっくりと手を伸ばして、クレセント錠を捻る。滑らかに窓がスライドして、夜風が部屋に流れてくる。空を見上げれば、丸い銀月が私を眺めている。私は握った手を開いて、ピアスを月光に当てた。月光には程遠い、とても儚げな光が、小さな銀月から溢れた。涙が一雫、銀月に落ちた。ブランデーのせいだろう。
広い窓台に足を乗せて、転がるように登る。開いた窓の正面に居ると、夜風が酷く冷たい。意識が段々とはっきりしてきて、視界の揺れも止まってきた。けれども私の考えは、とうに決まっていたんだ。
ざざぁ。
遠くで水平線が揺れた。足元のセネシオが、憂いた視線を向けた。私はゆっくりと少しだけ歩いて、そして……。
開けっ放しの窓から絶えず夜風が吹いて、真白のカーテンを揺らす。白磁のマグカップから流れた渋が、シンコールのカーペットを鈍く染める。月光は絶えず注ぎ、誰もいない部屋を照らしていた。
寝静まった家具たちは知らない、主人が何処へ行ったかを。夢見の木々達は知らない、自分の足下のことなんて。
ただ、彼らは知っている。その男の行く末を。残された銀月たちだけが、知っているんだ。
了
銀月の夜