ゼロサム
1
けい君は、私が見てきた景色を、否定も肯定もしなかった。けなしたり、あざ笑ったり、ばかにしたりすることもなかった。ただ、なるほど、と静かにうなずくばかりだった。
□
学園祭初日の校内は昼食どきを迎えようという頃で、人も増え、中庭に並ぶ模擬店もにぎわいを見せていた。空はどこまでも青く澄んで、陽射し柔らかな秋だった。
当番の時間に私は人込みをかき分けてクラスのたこ焼き店に向かったが、それまでいた教室から外に出ると少し寒気を感じた。ブレザーを羽織ってくればよかったと思った。晴れていても外では一枚必要だ。
そう思っていたくらいだから、模擬店を訪れた客にその光景を見たとき、なぜ寒気がこの光景の現れる予感だと気づかなかったか悔やんだ。私はなんの構えもないままその光景に接しなければならなかった。眼前の男は漆黒の闇をまとっていて、私はただその姿を恐れた。顔も見えず、誰だか分らぬその姿を呪った。気が動転し、鼓動が早まり、視界がかすむ。手が震え、声がかすれる。うろたえて、ふらふらよろめくのを私はようやく支えた。横でクラスの人間が見ている。しっかりしなければ。私は何をどう説明すればいい。
「大丈夫か」
と、けい君は私を見て言った。
「へ、なにが」
「目が泳いでるけど。いまの人そんなに嫌だったか」
「あのひと、顔が真っ黒だった」
けい君は次の言葉を継ぐのが少し遅れた。
「ん? どういうこと」
「私ああいうひとだめだ」
カウンターを模して並べた机に両手をついた。
「ああいうひと? どういうひと?」
わずかに腕が震えていた。息も浅い。視界がしばらくぼんやりした。頭の中がざわついている。
「なに、どうしたの、息苦しいの」
「だってさっきの人、すっごい顔が黒く覆われてたじゃない。見たでしょう……」
その人が去ったほうを指差してけい君を見た。彼と目があった。その心配しきりな視線が痛くて、私は我に帰るとそのまま口をつぐんだ。けい君は、だいじょうぶか、と言った。私はおおげさに胸に手を当て、息を整えた。
「覆われてたって何、どうしたの」
「えと、その」
「なに?」
「ごめん、その、今のは忘れて」
押し隠すことのできぬ動揺を、どう彼に説明できるだろうか。そればかり考えた。彼はこの錯乱を見たのだ。
すべてが終わった、と思った。体からは力が抜け、どこまでも深い憔悴が襲ってきた。これでこの高校での生活をふいにしてしまうかもしれない。そう思うと気持ちが塞いで、しおれてきた。
「あのさ」
私は残る生気をふり絞ってけい君に迫った。
「今の、何もなかったことにしてくれない。お願い。高橋くんは何も聞いていないし見ていない、私はなにも言ってないし、いつも通りだった。黒いとか、覆ってるとか、そんな訳わかんないことは言ってない。全部撤回して欲しい。お願い」
「ええと、そんなに見られても困るんだけど」
けい君は顔をそらし、たこ焼きプレートのスイッチを保温に切り替えた。
「唐突過ぎてよくわからないけど、杉崎はいつも通りだった、ということにしてほしいと」
「ほんとに頼みます」
「はあ」
けい君は頭をかいた。
「まあ、あれだ、女子に懇願されて頭ごなしに断る男はいないよ」
「そんな一般論じゃなくて。私はここにいる高橋くんという一個の人間にお願いなんです」
「ずいぶんだな。一体何の事だか、俺にはよく分かんないんだけど」
「何かは説明できない」
「なるほど」
目の前に来た客の顔が漆黒の闇に覆われ、えもいわれぬ不気味さで眼前に佇んでいるなどとは決して口にできなかった。それでは変人か奇人だ。自分の知覚には素直に従えない。見たものを見たと言わない。見たものは見ていない。大原則だ。
「だれにもこのことだけは言わないでほしい」
「わかった、わかったよ。いや、よく分からないけどさ、ひとまず俺を凝視するのはやめてくれない。秘密にしてくれと言うなら、そうするから。それでいいの?」
「それでいいの」
「言わなければいいのな。簡単だそんなの。俺そんなに社交的じゃないから」
「ありがとう。助かる」
「なるほど、俺に友達が少なくて助かったと」
「そんなんじゃないって。違うよ」
「そうか、まあなんでもいい。秘密にするよ」
そう言ったあとしばらくして、彼は、秘密かあ、と詠嘆をこめて口にした。そして何かを納得した表情を私に見せた。
「悪くない」
「ん」
「秘密ってのはすこしわくわくするしね」
「そんな、わくわくしないでよ。私はあんなところを見られてしまっただけでもう死にたい気分なんだから」
「ふうん。まあ、傍から見ていてずいぶんな混乱ぶりだったけど、ああいうことは無きにしもあらずだよ」
「高橋くんはそういう言い方が得意なの」
「そういうって」
「なんでも自分の理解に引き寄せてみる言い方」
「そんなことないよ」
「そう? よく知ってるみたいに言うけど、こんなのがよくあったらやってけないって」
小さめに言った。本当は大声で言いたかった。
「ふうん。でもまあ、俺が見てしまったのも事故だよ。そんなに落ち込むなよ。ね」
けい君は、小さく椅子に座った私を見下ろして言った。ため息が立て続けに出る。
「俺そんなに信用ならないかな。秘密は守るよ」
「本当に?」
「ほら。こいつ信用ならないって思いながら、落ち込んでる。大切なのは笑顔だよ。笑顔が大事」
「はあ」
「最後の学園祭だからね。できるよ」
「え、何を」
「ほら、立って」
「だから何」
仕方なく立ち上がった私を、けい君は中腰で、顔の高さを合わせて見つめた。彼の顔が正面にあって、私は何度も視線を外さなければならなかった。
「それでは、杉崎さんの出来る一番の笑顔を、さあどうぞ。さん、にい、(いち、はい)」
けい君は指で三から一までカウントした。いち、はい、で声を出さず、おまけに、はい、というところで、テレビの裏方の人のように、私のほうへキューを出すしぐさをした。
早く終えたい。やりにくい。私は、しかたなく流れで笑顔をつくった。
「こう?」
けい君は私の作った笑顔を見たきり、大笑いしてのけぞった。
「それ、笑顔じゃないって。困惑だよ。困った表情。杉崎さん、おもしろい」
けい君が大笑いしたので、模擬店の前を通る人がみなこちらを向いた。彼が笑うのはめずらしいことだった。私はテントの中央へ一歩下がり、小さくなった。
「からかうな。笑顔が出る気分じゃないんだから。ほんと気が利かない」
「ごめんごめん。ただね、俺にも一つ言わせてもらいらいたい」
「なに、まだなんかあるの」
「意味も分からず秘密を守れと言われるのも、ひどくやりにくいんだけど」
彼は咳払いすると、プレートで保温していたたこ焼きを黙ってパックに詰めはじめ、静かに話し出した。
「さっきの人、顔が黒く覆われてたってどういうこと」
私はすぐに言葉を口にしなかった。それで彼は手を止めて、体ごと私のほうを向くと、なぜ何も言わぬのかという顔をして私をのぞいた。
当たり前だ、何も言わない。
うつむいていたせいか、彼の見下ろしてくる視線が角度を持って落ちてきて、けい君の背の高いことを面倒に思った。
「言いたくない」
「じゃあ俺は一体何を秘密として守ろうとしているの。それくらい知っておく必要があるじゃない」
「ここで見たことをよ」
「漠然としすぎだよ。何が秘密か分からないのなら、俺が今日のことを誰かと話したとしてだ、これは秘密でないと思って俺は話すのに、杉崎さんはそれも秘密だっていう場合、どうなるんだ。責任持てない。秘密の範囲を明確にしておく必要がある」
「脅しなの? 説明しなければ広める、なんて言うんじゃないでしょうね」
「だとしたら」
「はあ」
またため息が出た。彼のほうを向いて、負けないように言った。
「あのね、一方的で悪いとは思う。私はただ、さっきの取り乱した発言やら行動を封印してほしいというだけなの」
「それは分かったよ。言いたくなければ言わなくてもいい。言ったとしても広めたりはしない。別段面白い話でもなさそうだし。ただひどく取り乱してたから、単純に気になったんだ。あんな姿見たことないし」
「普段から私をずっと見てるの? 気持ち悪い」
「そんなに言うのなら、やっぱ広めようかな」
「何が目的なの」
「だから目的なんてないから。本当に広めるわけないよ。別に話したくなければいいんだ。たださ、男女のあいだで秘密を共有するなんて、やっぱり俺わくわくするわ。そんだけ」
その言い方に腹が立った。あの光景を軽々しく扱われるのは我慢ならない。
「そんだけ、とか、どうせおもしろくもない話だろ、とか、腹立つのよ。ばかにしてるでしょ。そんな人に話すわけない」
「ごめんよ、秘密は守る。約束だ」
「そこだけはほんと頼みます。でも勘違いしないで。言っておくけど、これはあなたへの信頼とかじゃないし、たまたま一部始終を見られた挙句そのことを口走ってしまった相手があなただったというだけの話で、だからあなたに秘密にしてくれと頼む必要があるんだけど、単にそれだけなの。秘密を共有したとかで鼻息荒くするのやめて。それを約束するなら少しは話す」
「ああそうだな。わかった。なんでも守るよ。わがままな姫の仰せのままに。約束も増えてるし、どんな押しつけなんだよ」
秘密を守ってくれることに賭けて、なるべく話を広げないように場を収めるしかないと思った。
「とにかくおぞましい姿なの。そしてたぶん、あなたには見えない」
「おお、で結局話しだすのか」
「話すわよ。なんか腹がたつし、これ以上触れられたくないから。あれをもし高橋くんが見ることができたら、きっとあれくらい動揺しても当然だと思うはず。もし、ってのが悔しくてならない」
「なるほど。おぞましい、のか」
突然話しはじめた私の扱いには辟易するといった表情が彼に浮かんだが、彼はそれを口にはしなかった。かわりに言葉の繰り返しで時間を稼いで、私との間合いを取ったように見えた。そのあたりは評判通りだと思った。それにくわえて、彼の口調は不思議な響きをもっていた。私の話すことに対して脅迫的なまでに中立でいようとする響き。おぞましいという言葉の発音におぞましさを込めず、偶然おぞましいという順で母音と子音から構成される音の列を発声しただけ、と言いたげな様子だった。それもすこし私の癪に障るものがあった。どっちつかずでやりにくい。彼は私の話に対して判断を保留していて、私はどこまでを話していいか見当がつかない。
「人の顔全体が黒く見えるというのがおぞましいってこと?」
「遠くにいればまあいいとして、近づいてほしくない」
「それは……黒い化粧をしたような感じなの」
「違う。何というか、そんなんじゃないの。それだと眼とか鼻、表情は分かるじゃない。そうじゃなくて、すっかり覆われているの。顔を覆うように黒いものに包まれていて、眼も鼻も口も、全部見えないの」
「俺には顔見えたよ」
「だから言いたくないのよ。これは誰にも見えてないって言ったじゃない。奇人みたいに思われるから、あんまり言いたくなかったんだけど。でも言わないと、会うたびに興味本位で聞かれそうじゃない。そんなのやめてほしいから話すの。話すのは一度きり」
「ふうん」とけい君は小さく言った。興味あるようでも、ないようでも、どちらでもいいような共感だった。一番困る返事だ。
「それは、とりついた霊とかじゃないの」
「霊なんかじゃない。あれには触れることができるから」
「あれ、って言われても俺には見えない」
「さっきの男の人の顔にね、どろどろの液体みたいなのがべったりくっついているの。このたこ焼きをソースのたっぷり入った器に浸して取り上げたみたいに、顔というか頭全体が黒いの。一見するとよ。てかり方だって似てる」
私は透明のパックに入ったたこ焼きを指して言う。
「でもソースみたいに垂れ落ちることはないの。よく見るとね、顔の上で渦を巻いて対流しているのよ。海流みたいに。小さなウナギが顔の上にびっしり張り付いて泳いでいるようにも見える。ぬるぬるしてるの。がんばって落ちないように顔の上で泳いでいるの」
「それは気味が悪い」
「だからそんな人に会うと身構えてしまって、具合が悪くなるというか、うまくいかない」
「なるほど」
私の話を聞いたあと、けい君はひとことだけそう言った。それだけだった。他には何も言わなかった。言いしなに一度視線を私に向けたが、彼はふたたび手元に顔を戻してたこ焼きをパックに詰める作業に戻った。彼はほんとうに「なるほど」以外何も言わなかった。幻覚なんじゃないの、とも言わなかった。ほとんどの人がそう言うというのに。ともするとこの男はつるんとして、何の感興も好悪もないのだろうかと思った。こうも反応が薄いのは無関心からなのだろうか。狂言につきあいきれぬということなのか。もしくは有言実行、言った先から話をなかったことにしてくれているのか。いずれとも判断がつかなかった。
「なかなか大変なことだな。大人になっても治らない人見知りみたいな」
「それでうまい言い方をしたつもりなの」
私は冷めたパック入りたこ焼きの群れを前にして、運命を呪った。なぜ同級生の眼前にあれは現れた。現れなければこんなこと、知らない人間に話すことはなかった。
ふと、けい君は言った。
「よくわかったよ。俺が信用されてないってことも含めて」
「んー、でも、そんなことはないかもしれない」
「そう? フォローなのかそれは」
「だって信用できる人間じゃなきゃ困るから。そう思われてないと感じているなら、取り戻してください。お願いします」
「それはどうも。でも、なんで『んー』ってためらったの」
「そんなの躊躇するに決まってるでしょう。まともに話すの、ほぼはじめてなんだから」
「いや俺はね、そんな一般論じゃなくて、杉崎さんという一人の人間がなぜためらったのか、聞いてるんだ」
けい君は得意げな顔をした。
「やっぱりやりにくい」
「というわけだから、俺と話すやつは少ない。心配するな」
そのあと、けい君と私は金も払わず冷めたたこ焼きを食べた。話しをしていたら彼が多く焼きすぎたのだ。
けい君はわざと表面全部にソースをつけたたこ焼きを私の前に差し出した。
「やめてよ」
「怖がるなって。ただのたこ焼きだって。食べちゃえばなんてことない」
けい君は一口で全面ソースたこ焼きをほおばって、笑顔になった。
味はなかなかだった。冷えていたのに。
□
模擬店の悲劇。
彼に約束させたあとも、しばらくはこの日をそう名付けて忌み嫌っていた。知られてしまったのは悲劇としか言いようがない。けれど、ことけい君については、少しだけ安心した気分でいた。自分のことを信頼できると言い切る人間よりは、ずっとまともだし、ひょっとすると彼は状況をうまく見切る男かと考えた。もしそうだとすれば、彼は秘密を守りながらうまく立ち回ってくれるかもしれない。
□
はじめて黒いものの光景を見たのは、父においてである。まだ中学生になったばかりの夏だった。
父が普段より遅く帰宅してリビングに入ってきたとき、私の背中に冷たい風が吹くのを感じた。この時はその冷たさが何のしるしか知る由もなかったけれど、たしかにそれは兆しだった。はじまりの前触れであり、予感だった。
「おかえり」
私は普段通り父を迎えた。
「ただいま。ずいぶん遅くなった」
父は胸に都市銀行のバッジが光るスーツを脱いで、ダイニングテーブルの椅子に座る私の隣にそれを掛けると、ネクタイを緩めながら三人がけのソファーに体を投げ出し、大の字になった。自分の体重すら支えるのが億劫そうだった。
あまり父に近づきたくなかった。予感は生理的な不安を含んでいて、よからぬことが起こるんじゃないかと思った。とはいえ、それは父を避ける理由にはならない。私は自分の思いこみを抑えるようにして、いつもどおり缶ビールを冷蔵庫から出すと、ソファーの前にあるローテーブルに置いた。父は目を軽く閉じていた。声をかけても反応が薄かった。父から音がして、うん、と聞こえたようにも思えた。けれどそれは、首を曲げて窮屈になった喉を息が通って鳴った音のようでもあった。父はまったく動かなかった。ビールはそのままにしておいた。
冷えた缶が結露し始め、やがて水滴となりローテーブルに丸く水たまりをつくった。父を邪魔しないようにテレビを消した。母はシャワーを浴びていた。ドライヤーの音が洗面室から聞こえていたが、さっきそれが消え、マンションの七階にある部屋は静寂となった。缶ビールの表面に浮かんだしずくが美しい音を立てて流れた。その音色はなめらかで、つやがあった。私はうっとり目をつぶり、聞き入った。しずくはひとつ、またひとつと垂直に切り立つ金属を滑り落ち、聞いたことのない音を響かせた。
しずくの流れる音?
はっとして私は目を開けた。息を止め呼吸音を消してみる。するとまたしずくの音が聞こえる。たしかに聞こえている。聞こえることのない音が聞こえている。
感覚が鋭くなっているのか。それ以外考えられなかった。音には十分な質感があり、とても幻聴とは思えなかった。肌に感じる空気の感触も変だった。淀んでいると思っていた部屋の空気が流れているのを感じた。自分の息が気流を作り、父の息の気流と遠くでぶつかる音もわかる。足の裏の感覚も奇妙だ。絶え間なく細かな振動を感じる。表を通る大型トラックと建物に吹きつける風がマンションを小刻みに揺らして、床が震えているのだ。普段しない汗のにおいがする。遥かかなたで救急車のサイレンが鳴っている。どこまでも感知できている。少し怖かった。普段の何倍も精細なこの世の姿が五感を通して体に入ってきた。その研ぎ澄まされた知覚にとまどい、しばらく椅子にじっとしていた。
その増幅した知覚が捕えるものの中に、不思議な断片があるのに気がついた。この鋭敏さで私はいつもと違うものを捕まえたらしかった。
捕えたものは形を持たない知覚だった。この世にはない種類の知覚に思えた。だからそれはどの五感で感じることもできなかった。それは音色や、色、匂い、手触り、味を感じるために必要な物質性を持たなかった。けれどもそれは、きちんと捕えることができる。形を持たぬのに存在している。そういう知覚だった。
ひどく収まりの悪い、不思議な知覚で、形がないから顔もなかった。何と名づけていいか分からない。聞くことも、見ることも、嗅ぐことも、触れることも、味わうこともかなわない、にもかかわらず知覚できる一般的知覚、とでもいうのか。いや、純粋知覚、知覚それ自体、姿かたちがないのに感じる知覚……それでいながらまるで神秘性のかけらもない。形を持たぬのに存在するという状態が自然なのだ。経験したことのある知覚の外にある、未知の知覚。名前も顔もない知覚。
そんなものがどのような手段で認識できるかなど、分かりはしない。でもそれを私の澄んだ認識は捕まえていた。ただ、わかるのだった。気づくとそれはある、そういう知覚だった。
その不思議な知覚の断片を拾うのは骨が折れた。それは何かを私に伝えようとしていた。ただそういうものとして、そこにあるのだった。その伝達をつかみたくて、私は意識を引きしめた。
かなり分かりにくかった。それは言葉でも、音でもない。未知の姿の情報で、そこにはこれまでにない仕方で伝達内容が刻まれていた。私は顔のない知覚を読み解くことだけに意識を集中した。まばたきすら忘れていて、乾燥しきった目がちりちりしてはじめて忘れていたことに気がついた。視覚すらその時の私には邪魔だった。集中力のすべてを得体の知れぬ知覚に奪われ、引き換えに五感の全部が機能しなくなった。音が失われ、光が消えた。顔のない知覚はそれほど集中を要求した。それを理解しようと解釈するのは力技だった。いま誰かに名前を呼ばれても私は気づかないし、炎に包まれても私にはそれを知るすべがない。生命を持っていかれるほどに、その顔のない知覚は私を呼びたてた。
ある瞬間ピントが合い、その顔のない知覚が姿を見せた。それは具体的な明瞭さで、声とも文字とも、何らかの経験とも言えぬ不思議な状態で、その内容を伝えてきた。
起こるすべてを見とどけよ
目を閉じるなど私が許さぬ
耳をふさげば声が聞こえぬ
契機の緒をば敏く嗅ぎとれ
自余に混ぜぬ洞察をもって
その先にある光をもつかみ
光明あまねく行き届くまで
私の手から離れてはならぬ
はじめに私を見よ
無理に言葉にするとそういうことだった。私とは誰か。顔のない知覚そのものだろうか。それとも、顔のない知覚を発する主体だろうか。発してくるもの?
私は父を見た。目が光を取り戻していた。
そう、父だ。この知覚は父とともに訪れたのだ。あの予感だ。きっとそうだ。私は父を見た。父に耳を澄ました。
父の右肩に、黒いしみがあった。スーツを脱いだ時には気づかなかったが、十円玉ほどの大きさで、黒く正円に汚れていた。それがすべての原因だと思われた。黒い正円は、はっきりと、予感の凝縮したものだった。それは訴えていた。訴えるために、黒いしみはそこにいた。あるのではない。いた。
次第にその黒い正円のしみは大きくなりはじめた。しみは動いたのである。黒いしみは白いシャツの表面をひろがり、肩を覆う大きさになると中心を下から指で押したように盛り上がり、ドーム型に膨らんだ。高台のない漆塗りの椀を伏せたようなものが肩の上に現れた。
黒くて光を反射する半球状のそれから、強い匂いがした。それは草いきれの匂いだった。長く放置された土地に繁茂する草の匂いだ。その匂いを確かめようと父に近づくと、視界が放棄された土地に変わり、私は裸足のまま草むらの中に立っていた。
その棄てられた土地に人の立ち入った形跡はなかった。廃材が方々に朽ちて転がり、鋼材はさび付いたまま忘れ去られている。それを隠すように背の高さほどある大きな草が生えていた。冷え冷えとした風が絶え間なく吹いていて、空はくすみ、雲が早く流れている。草が風に揺れて体に覆いかぶさってきた。裸足が痛むのをこらえながら草をかき分けて歩くと、丸い空き地があった。ソフトボールができそうな広さだった。中央に背もたれのない丸椅子がひとつあって、父がひとり座っていた。こちら側を向いていたので、少し後ずさると草に身を隠した。しばらくすると景色に長方形の枠が現れ、枠が切り取った風景がドアのように開いた。ドアの奥は暗くて見えなかったが、そこからは空き地に向かってたくさんの人間が次々に現われはじめた。みな遠慮深い喜びに満ちているようだ。その人たちは言葉を持たず、顔がなかった。喜んでいると思えるのは身ぶりと言葉にならぬ声から推測できるだけだった。みな一様に黒く、影が立体となって動いているようだった。彼ら自身は影を持たなかった。
彼らはみるみる増えて父を囲んでいき、やがて父の姿をさえぎった。空き地は顔のない人々であふれはじめ、私は草むらの中に押し返された。ある一人が私に触れたが、その体は氷のように冷えていて、熱がなかった。そしてまた、ある者は力なく私を指差して、皆に私を知らせた。あなたもか。こいつもだ。彼らはそう言いたげに私に迫ってきた。私は彼らに囲まれる前に逃げた。草をかき分け走ると、いつものリビングに戻っていた。彼らに触れられた左肩が赤く腫れ凍傷になっていた。足の裏の皮も傷ついてひりひりした。
父を見ると、肩にあったお椀型のドームが破れ、その破片が周りに散っていた。破片はビターチョコレートが溶けるように形を失い始めていた。ドームの破裂したあとには黒い穴が残っていた。そこからは草いきれの匂いとともに冷たい風が漏れだしていた。草むらの風だ。背中に感じた予感はこの風だった。
父の肩にできた穴から黒いものが次々と外に姿を見せはじめた。粘ついた黒い液体だ。その質感は空き地にいた黒くて顔のない人たちと似ていて、液体は彼らが溶けて一つになった姿を思わせた。顔がない彼らは容易に一つになれるのだろう。誰だか分らぬうちに怯えて寄り添い、己と他の区別がつかずにいつのまにか境界は溶け去り、黒く形を失った彼らの集合体。それは無数の私が一つになった「私たち」だった。空き地に座る父を「私たち」が犯し、父の体に巣食っている。草むらの空き地にある父の体に穴をあけ、掘り進んで中に入り、そしてこのマンションにある父の体に達して肩を内側から穿ち、こちらへつながる通り道をつくったのだ。「私たち」はこちらの世界に踏み入れようとしているのだ。穴からあふれる黒く粘ついた液体は意志を持って動いていた。重力に逆らって父の顔を這いあがり、すでにあらかた父の顔を覆いながら額のあたりまで達していた。
私は「私たち」が父を覆うことに危険を感じた。「私たち」は父が草むらの住人になるのを歓迎している。彼らは祝祭をあげているのだ。父の顔を覆い、彼らと同じように、顔のない人間にしてしまうのだと思った。それが彼らの父になす通過儀礼なのだ。誰ともつかぬ漆黒の「私たち」が父をあの棄てられた土地へさらっていく。それは嫌だった。父が放棄地の住人になるなど解せぬことだった。私は父の勤める都市銀行の看板が街の至る所に見出せることを思った。その誇らしさを考えた。父はあちらの住人ではない。「私たち」によって父がなきものにされてしまうなどとは考えられない。あの草むらの空き地とのつながりを断たなければならない。
父を道連れにする「私たち」を父から剥ぎ取ろうと考えて私は猛然と進み出て父の前に立つと上にまたがり、顔を覆う漆黒に両手を差し入れた。漆黒は手首まで埋まるほど深く、見た目以上に抵抗のある硬いねばりだった。私は父の顔が見えるまでひたすらかき分け続けた。はじめはかき分け剥ぎ落とす先から次々と顔を黒い液体がせりあがってきた。私はその勢いに負けぬようすばやくかき分けた。黒く自他の別を失った「私たち」はきつく凍てついていた。手がすぐにしびれてくる。おまけに私の頭の中で「私たち」の声が鳴っていた。「私たち」の言葉にならぬ声が頭にこだましていたのである。頭が割れそうになり、きついめまいがした。「私たち」は父の中に兆した契機を喜んでいた。父とあの放棄地で語り合いたい。そう「私たち」は言っているように感じた。思いをともにしたい。私たちは父を苦しめるものから解放する準備がある。頼むから、かの放棄地へ来るように計らってくれ。私たちも多くの仲間が必要だ。多くの人間が必要なのだ。どうして抵抗をするのだ。どうして……
私は黒い覆いをすべて引きちぎり、はがし去り、父の顔を拭った。一度父の顔に光が差すと、漆黒の液体はおずおずと肩にできた穴へ戻りはじめた。穴に戻れないものはその場で力尽き、飴のように硬く固まった。
父は目を開けると、私が胸に馬乗りになっているのに驚いた。
「あすか、なにしてるの」
父は私のももを叩いた。恥ずかしくなって私は父から降りて、一人掛けのソファーに座った。
「父さん大丈夫? すごく疲れてるみたい」
「うん。まあ大丈夫」
「いま夢見てたでしょう」
「うん。なんで分かった」
「寝言、言ってた」
私はうそを言った。
「そうか。やけにクリアな夢だった。草原で誰かとしゃべってる夢だ。内容は分からないけど、とにかく楽しかった。おかげで体が楽になったし、汗もひいたよ」
「その草原にいってはだめ」
「そうなの? 夢占いか何かか」
「そんなとこ」
背後に母が立っているのを感じて、私は何をどう言い訳すればいいのか必死で考えていた。母は私が父の顔の上で空をかき分けているのを見ていたらしく、私のことを理解できないという顔で見た。
その夜はひどい疲労に見舞われた。「私たち」の声に耳を澄ますなど、もうしたくないと思った。彼らがどんなに目をそらすな、耳をふさぐなと言っても嫌だった。いつまでたっても指先が冷たくて、熱帯夜に手袋をして眠りに就いた。
その後しばらくは、私の見た光景について誰にも語らず、一人抱え込んでいたが、それはとてもつらかった。私を目撃した母の顔を思うたび、自分が超現実的なものを感じる力があるのだと思い、そのことがはっきりと恐ろしく、この知覚が何を意味しているのか、誰かの納得できる意見を聞きたかった。突然のことに不安で仕方なかった。
とうとう一人で抱えきれなくなった私は、あるときを境に友人に次々と話をした。知る人すべてに、一体私の遭遇した状況は何なのか聞いた。事の次第について話し、意見を求めてしまった。
当然の結果として、私の話を誰一人まともに聞く人はいなかった。私は話したことを後悔した。だが話さなければ気が狂いそうだった。あの日見たもの、感じたこと、顔のない「私たち」。すべては抱えきれず、しかしそれは抱えなければならなかった。いずれ私のそばから人が消え始めた。幻覚女。それが私の、中学を通しての裏の呼び名である。
幸いだったかは分からないが、私は自分の感覚を責めなかった。かわりに自分の感覚を理解できない周囲の人間を見下して正気を保っていた。誰も見ないものを見ている。その能力が友人を遠ざけ、私を鍛え、頑なにさせ、自分で自分を特別扱いすることで、誰とも言葉を交わすことのない日々に適応していった。それはつらかったが、手段としてはうまいやり方だった。
気持ちを張るのに疲れたときは学校を休むことがあった。それでも次の日はかならず登校した。選ばれた者が苦しむ必要はない。
けれどこれが続けられるとは思っていなかった。いつのまにか気づかぬうちに屈折した人間になってしまうと感じた私は、猛烈に勉強し、通うのに二時間はかかる高校に入学した。
知り合いは一人もいなかった。私は時間をかけて同級生と自分を同じ高さに思えるよう仕向けていった。そして努力はささやかに、幾人かの気心知れた友人というように実を結んでいった。ひとつ心残りなのは、私の見る景色を他人と等しく扱うことは出来ないということだったが、これは叶わぬ願いだった。私は悟られぬよう配慮することをいつも忘れなかったが、息苦しかった。
そこに現れたのがけい君だ。
□
私の周りから人が消えることもなく、恐れたうわさが流れることもないようだった。学園祭の話題も消え、曇天の冬空が空を占める日が増え始めると、彼への不信も、南に飛び去る渡り鳥のようにいつのまにか姿を消しはじめた。
□
けい君は成績こそとびぬけてよかったけれど、それ以外はからきしで、おまけに普段は何をして暮らしているのか誰も知らない、謎の多い人だった。ただ彼には得をしているところがあって、それは、その煙に巻いた日常とは裏腹に、誰が見ても麗しい容貌と着こなしセンスを持っていることだった。おかげで人からはわりと普通に接してもらっていたが、彼自身なにかを他人に働きかることはほとんどなかった。誰も必要以上にけい君に近づく者はなく、彼のほうもそれを望まない雰囲気で身を固めていた。恵まれたルックスも活躍する機会がないらしかったが、背は人よりこぶし一つ二つは高く、体もナルシズムを感じさせない適切さで引きしめられており、その辺に転がる優等生とは一線を画していた。ごくまれに見せる笑顔はなかなかの輝きで、話してみても別段あくが強いというわけではなかった。
だから、けい君について衆目の一致するところは「あの一歩引いた感じさえなければすごくいいやつ」ということだった。のりがわるくて、冷めたところがあったし、彼はいつも皆が歩む一歩後ろにいてそれを傍観して、だから前にいる人間の轍は決して踏まない。そんなところがなければ彼は、てっぺんは無理でも中の上くらいの人気者にはなれた可能性があった。明らかに、彼は持てる美点を帳消しにしていたのである。
「そんなこと、わかってる」
喫茶店で勉強を教えてもらっているとき、皆の評判を彼に話してみた。すると彼は椅子の背もたれにふんぞり返って言い返してきた。
「俺がその気になれば、人気者にもなれようよ」
「すごい自信」
「でもそんなのはただの道化であって、自尊心を満たすことはできても、腹は満たされない。食っていけない」
「食っていく?」
「そう。経済的には何の価値もない」
彼はきわめて実際的だった。
喫茶店に知った顔はなかった。私はそれ確かめると言った。
「高橋くんみたいなのが私の秘密にわくわくするなんて、あれはいったい何だったの。ちょっと気になってるんだけど」
「なんだろうね」
彼は一瞬考えた。
「一種の清涼剤かな」
「うっぷんはらしってこと」
「だって変な話だったし面白かったから、心にある風穴にあったかい風が吹いたんだ。すっきりしたというか、安らいだというか」
「ふうん」
私は彼のよくする口調で言った。それにしてもひどい例えをする。
けい君は私のまねした口調に対して大きく頷いた。
「俺ってそういうところが人から嫌われているんだろう? 鼻であしらう感じ」
「そうよ。その勘の良さがあるんだったら、もうすこし人当たりを良くできるでしょ」
「だから言ったんだ。人気者になるのは簡単だと。まわりの人間が求めるものを察知して、そこへ飛び込むように修正していけばいいんだ。周囲をよく観察することだ」
「なるほど」と素っ気なく彼のまねをして言った。
「なるほど」
そうやって彼は、私がしたまねに納得を示すと「その物言いは確かに興ざめだ」とひとりごとを言った。そして、自分のその発言と私のして見せた彼のしぐさすべてを、ふうん、と興味なさげに一蹴した。彼の「ふうん」のあとには何も残らなかった。
「高橋くんさあ、なんにも分かってないでしょう」
「そういうふりをしてみた」
「あえて?」
「あえて」
彼は珍しく笑った。何が面白かったのだろう。でも笑顔は輝いていた。
喫茶店を出ると、外は雪が降っていた。分かりやすい天気である。
「けい君が笑うから、こんなに早く雪が降ってきたんだよ。積ったりしてね」
私は薄暗い空を指していった。だがけい君は空の具合など気にせず顔をしかめていた。
「けい君って、まさか俺のこと」
「高橋慶四郎なんて仰々しい名前だから、軽々しくよぶことにした」
「やめようよ、そういうの」
「なんで」
「俺の中に杉崎がどんどん入ってくるだろう」
「風穴にあったかい風が吹くんでしょう。ならいいことじゃない。けい君に風を吹き込むのは私くらいでしょ」
「よかない。断じてよかあないよ。俺は道化にならない。食いっぱぐれたくない」
「人当たりの良さは経済的に必要だって」
「そんなのは形式的な問題だよ。ふりの問題だ。本質じゃない」
「なになにをする振り、のふり?」
「そう。なんとでもなる」
「ふうん」
「そういう『ふうん』てのが俺は、適切な距離があって礼儀があると思うんだ」
「それは、なるほど、と言えるんだろうか」
「そうか。ならば秘密をばらすまでだ」
「ははは。イエスマンで脇を固める小さな男だったか、けい君は。なるほど、で止めて同意してほしかったの? やりきれないよ」
と、ふざけた口調で言うと、私の横からけい君が消えていた。後ろを振り向くと彼は私を見たまま立ち止まっていた。何ごとかと思った。
「それは、否定できない」
彼は真顔で言う。
「普通そこは嫌悪を示して笑うところじゃないかしら」
「わかってる。ちょっと意表をついてみたんだ」
けい君は歩きだした。
「本当に?」
「秘密をばらしてもいいなら、その真偽について語ろう」
「わかった、わかったよ。ごめん」
けい君の顔は引きつっていた。彼の分かりやすいところは、藪をつつけば蛇が出るのをあらかじめ予告する点にある。そうやって、親しさから彼を批判する者を退ける。彼は何に聞く耳を傾けるのだろう。
□
そのころ彼以外に何の留保も置かず話ができる人はいなかった。言葉をセキュリティーセンサーにかけて会話することに辟易しているのだと、私は彼と話すごとに自覚していった。
中学生の頃、平気で学校を休むようになった私を、母はカウンセリングへと通わせた。もちろんそれには、一度見た奇行もまとめて矯正しようという魂胆が見え透いていた。私も母の手前、それで何も聞かれないのならと思い、しばらく通った。
しかし私はカウンセリングされるべき事柄を持たなかったので、毎週土曜日の午後、一時間半、知らないおじさんの笑顔を前にフリートークしなければならないこと自体が心労だった。
「何かお題のようなものってあるんですか」
初回にそう聞いた。
「とくにありませんよ。あすかちゃんの心の動きをそのまま、自由にお話しできればと思います」
「そうですか」
そこで繰り広げられるのは、まるで国家間の外交文章をリアルタイムで起草しているような、息の詰まる会話だった。息を詰まらせた原因は私にあった。カウンセラー相手だろうが言えないものはある。漆黒が父を包み込んでいるのが見えて、草むらの匂いがしました、私はそれが邪悪なものだと直感し、父が覆われるのから守るために必死でした。そんなことを話すわけがない。なのにカウンセラーときたら天下一品の聞き手なのだ。彼を前にするとうっかり口を割りそうになることがよくあって、私は畢竟、言葉の安全保障に走り、相手の「聞いてあげるセンサー」に触れない言葉を投げ続けたのだ。聞かれれば戦争になって、そのときは敗北すると思っていた。
しばらくののち、母同伴の定期的なブリーフィングの場で、カウンセラーから報告を受けた主治医が言った。あすかさんは非常に深い内的世界を秘めておられるから、それを大切にして生きていくことが大切なんじゃないでしょうか。ものは言いようだと学んだ。問題は私がその深い世界の中に隠していたのだ。それは誰にも分からないし、物事は何も解決しなかった。
けい君を発見してからというもの、私は彼とだけ話していれば苦労はないのにと思うようになった。けい君はすばらしい聞き手だった。秘密に感づかれまいと気を張る必要がない。彼は私の深い世界にずっと置いていたものを、すっかり知っているのだ。
私が彼をノックすると、嫌がることなくドアを開けてくれた。彼は訪ね人を選ぶ。誰かれ入れるわけではない。
ドアは風穴につながっていて、彼も私も、あたたかい風の吹くその場所で語らった。そこは贅沢なところだった。言葉をこわごわ選んだりしなくていい。
□
私がけい君に放棄地の草むらと顔のない「私たち」について話すと、彼は例のごとく「ふうん」と言ったが、続いて案外真面目な考えを寄こした。
「思うに、それって食えない人の怨念みたいなものじゃないか」
「なんで彼ら顔がないんだろう。言葉も失ってるのよ」
「この社会じゃ金と言葉はきつく結び付いてる。金を積めば発言の機会があって、そういう人はたっぷりと休暇をとって自分の教養を磨いている。食えない貧乏人に発言の機会はないし、教養を磨く暇もない。よって必然的に、言葉を必要としなくなる。言葉を失う。言葉を失うと、名前も失う。だから顔もなくなる」
「そういうもの?」
「そういうもの」
「父は金に困ってないのよ。根本的にけい君の言うことが当てはまらないんだけど」
「リストラされつつあるんじゃないか」
「え、まさか」
「俺もまさかだと思いたい。でも金のない側に親近感を抱いていたとすれば、そういうこともあながちないとはいえないと思う」
「そうなのかなあ」
「いらんことを言った。ごめん」
けい君は食えるところから食えないところへ境界をまたぐ場合についてだけひどく同情し、自分のことのように悲しんだ。その逆の企みについては、とても冷ややかだった。
「一度そうなれば、戻るのは難しい。だから食える人間になりたいんだ。杉崎の言う空き地に行かなくて済むように。そのために、どんなふりをすればいいか学ぶんだ」
「なるほど」
□
けい君の進学した大学は偏差値的に極上で、我々の高校が持つ歴代一位の記録をあっさり塗り替えた。関係者はあまねく歓喜し、有頂天になり、彼の実績は顔写真とともに恥ずかしげもなく各方面の宣伝材料とあいなった。
「見ていられない」と彼は言った。
「素直に喜べばいいのに」
「俺は彼らから何かを学んだ記憶はないが、彼らは自分達の成果だと思っている」
「相変わらずひどいことを言う」
「誰かれこんなことを言ってまわるわけじゃない。杉崎以外の人間に対して、俺はふりをしているから」
けい君は次の日の放課後、格別さわやかに造形した笑顔で担任とともに校長室へ行き、うやうやしく一流大学合格の報告をした。隅から見ていた私は、彼こそ本物の道化だと確信し、大声で笑いそうになるのをこらえて必死だった。
「凱旋報告お疲れでした」
「俺は彼らのワールドに顔を出せば英雄なんだから、英雄を気取っておくのが筋だ。そう思わないか」
「みんな喜ぶから?」
「そう」
「でもそれっていい気分なの?」
「いい気分だよ。ただ、なにしろとびきり狭いワールドだから、このいい気分ってのが、他の世界と照らし合わせてどうなのかわからない。誰もそんな比較をしないしね。まったく主観的にハッピーということなんだが、そこにわずかな悲しみすら感じてしまう」
「ふうん」
「それ、適切な同意の仕方だと思う。今回ばかりは」
「けい君はいつもこんな風に言うけど」
「うん」
「ということは、いつも物事にわずかな悲しみを感じているの。あらゆることに」
「つまり杉崎、俺は秘密をばらしてもいいんだ」
「もう同級生には会わないし、構わないけど」
「じゃあ俺らのあいだで秘密を隠しておく必要もないので、コンビ解消となるわけだが」
「そう来るか」
「お前は必ず俺を必要とする」
「それもいつまでかしら、なんて反論を出来ないのが悔しい」
「ありがとう」
□
卒業後、新たに製作された学校案内のパンフレットに校長とけい君の対談する様子が掲載された。写るのはもちろん道化の笑顔とはいえ、申し分のない輝きだ。
□
人目を気にせず彼をけい君と呼ぶようになったのは高校卒業の後だった。けい君のほうは、私のことをずっと、そのまま杉崎と呼んだ。あすか、と下の名前で呼ぶなど、何がどう転んでもあり得なかった。
けい君の大学は通学できず、彼は大学近くにアパートを借りることになったのだが、私は卒業の頃、彼が最後まで口を固く閉ざしてくれたことへの感謝で心があふれそうだった。
そこで私は、どの大学にも合格していないのに親にごねて部屋を借り、けい君の新居近くに引っ越した。彼と話が出来なくなるなど迷惑千万な話である。住所は手紙を書くからと言って教えてもらった。実に安易な男だ。
引っ越しの条件はその都市にある大手予備校に籍を置くことだった。私は出席管理の一番緩い学校を調べ上げ、そこに親からむしり取った受講料を収めたが、一度も授業に出る気はなかった。ただ、毎日朝と夕、予備校のエントランスにあるカードリーダーに在籍証を通すのだけは忘れなかった。親に出席状況が報告されるという話だった。
入学式の日、大学の正門で私はけい君を待ち構えた。彼に引っ越しを伝えていなかったからだ。大切なことは会って伝えなければならない。私はスーツ姿の男女に混じりジーンズにキャップという出で立ちで仁王立ちしていた。もちろん「混じる」などということはありえず、彼はすぐに私を見つけだした。
「ちょっと杉崎、おまえ何してんの。なんでここにいるの」
「ご近所に引っ越しました杉崎です。ごあいさつにと思って。どうぞお見知りおきを」
粗品のタオルを渡す私。
「はあ? 引っ越してきたの? いつ」
「今日の夕方荷物が届くの。私は前乗りで、昨日はビジネスホテルに一泊してた」
「本当なのかよ」
「うん本当。けい君、スーツ似合ってる。かっこいい」
彼はため息をついた。
「おまえ、本格的にストーカーはじめたのか? 通報するからな」
「そんなんじゃないよ」
「高校の時からそうじゃないか。杉崎よ、自覚がないとはどういうことだ」
指摘されても十秒くらい、言われたことの意味が分からなかった。でもけい君も、言いながら顔がゆるんでいた。彼は鍵を出すと私に渡した。
「なにこれ」
「夕方までどこにいるんだ。昼過ぎに帰るから、俺の家にいてもいいよ」
「ありがとう。でもいいのかな」
「いいよ、散らかさなければ」
彼は大学の眼と鼻の先に住んでいて、私に道順を教えると足早に校内に入っていった。私は校門から手を振った。彼も応えて振った。
彼は私の知らない大学世界に吸いこまれていった。
2
予備校に通う代わりにウエイターのアルバイトをはじめた。学生客中心の、ファストフードに毛の生えた電子レンジ系レストランが私を雇ってくれた。
学生以上に暇な私は、店長から見れば貴重なシフト調整弁だった。私もその地位を利用し、呼ばれた時は断らずに出勤し、あるかなきかの期待に応えた。そうした積み重ねのおかげか顔も名前も店長から覚えられた。背も小さければ腹の出た、もうすぐ三十路の斉藤さん。もちろん雇われである。
「君がいないとこの店は回らないかもしれない。頭が痛いよ」
シフトを組みながら斉藤さんが言った。
「そんな。私これ以上だと倒れます」
「それは困るなあ」
斉藤さんはボールペンのペン先の反対で頭をかいた。
「こっちのセリフですけど」
肩ひじ張らない店長で、突然の呼び出し電話も含めよく話をすることもあり、すぐに仲も良くなった。
□
バイトをはじめて二カ月ほどの頃、私はレストランの店内であの黒いものに遭遇した。梅雨が明け、きつい夏が訪れた日の昼下がり、その店にしてはめずらしくスーツ姿の男性客が二人訪れたのだが、片割れの顔が見事に黒いものに覆われていたのである。私の足は止まった。黒く覆われたほうの男は無口で、やはり草いきれの匂いがした。彼は漆黒の「私たち」に引きずり込まれたままだった。
その二人の注文を取りにいくと、黒いほうの男が「ホットコーヒーを」と口にしたが、息で口の周りを覆う黒いものが四方にはじけ飛んだ。
もう一人のほうの男性、黒い人物の上司らしき人は、私が見るに顔から胸にかけてしぶきに黒く汚されていたが、それが見えるでもなし、平然としていた。ただ一言私に言った。
「ちょっと冷房がきついんだけど、できれば緩めてもらえるかな」
私もひどく寒かった。男の吹き飛ばした漆黒が腕や服に飛び散っていて、それが私の体を冷やしていた。私は脳裏に「私たち」の喜びの声を聞いた。彼らは仲間が増えたことに歓喜している。男は体がここにあるのに、心はここにない。目の前の黒い男を、私はどうすることもできなかった。草むらから連れ戻すことはかなわない。
上司は黒い男にむかって何かを切々と語りかけていたが、男は終始反応が薄かった。はじめは上司も男の納得を一つ一つ確認しながら話しを進めていたが、しばらくするとそれもやめて話まで切り上げると、二人は無言でコーヒーを待っている様子だった。
いつまでたっても体の冷えが収まらず、私は同僚の、けい君と同じ大学に通う女の子に二人の注文を申し渡すと、トイレの紙で腕や服のしぶきを拭い、事務室へ勝手に引っ込んだ。
ドアを開けると、パソコンに向かって作業をしていた斉藤さんが振り返って私を見た。
「杉崎さん。どうかした」
店長が昼過ぎの時間帯に事務室で作業をするのは知っていた。
「顔が青いよ」
「急に具合が悪くなってしまって」
私は閉めたドアに背中をもたれて立ちつくし、男の黒い液体が飛び散った左腕をさすった。しぶきはもうついていないが、すっかり冷たくなっていた。エプロンは繊維に黒いものが染みていて、はたくと黒くにじんで、おまけに手についてぞっとした。まだ少しあとが残っている。
「大丈夫? 昼すごく忙しかったから疲れたんだよ。気を使う客も多かったしね」
店長が左腕を見ている。
「冷房の設定も女性にはつらいかもね」
「ええ」
体の凍てつきと空調は無関係だったが、そう思われるのは都合がいいので何も言わなかった。私はロッカーから薄手の長袖を出して羽織り、長テーブルにあるパイプ椅子に座った。
黒いしぶきは急に熱を奪いとる。次第に寒さが体躯の深みに染みていく。体が熱を生みだすよりも先に奪われる。
「ちょっと休ませてもらいます。すいません」
「まあ十分くらいは」
「なるべく早く戻ります」
「このころ疲れてる? ちょっと前もこんな感じで休憩してなかったっけ」
「そうでしたか」
「まあ、体には気をつけてね」
斉藤さんはパソコンのほうに向きなおって作業を再開した。キーボードをたたく音がしばらく事務室に響いていたが、その打鍵のリズムがはたと止まった。斉藤さんはキーボードの上から手も離さず固まったまま、ぎこちなく私に振り向いた。視線がエプロンに注がれている。私はあわせるようにエプロンをみて、大げさにも広げて確認した。
「エプロン、問題ありますか」
「いや。ちょっと杉崎の分を手伝いに行こうかな」
斉藤さんはパソコンをシャットダウンさせ、ドアのほうへ立った。
「だれがそんなに杉崎を疲れさせるのやら。見てくるよ」
「誰って、困るようなお客はいませんけど」
「そうなの? 客のせいじゃなくて」
「このところちょっと不規則に生活してしまって」
適当なことを言った。
「そうか、シフトを少し減らそうか」
「いえ、大丈夫です」
「最近杉崎を荒く使いすぎかなとは思うんだ」
「ダイレクトに収入減るので」
「もし具合悪いなら、集中してちゃんと休みなよ。必要なら病院行ってね。倒れられると困るから。それと、休みたいときは言えば考えるから、ちゃんと言ってね。言ってくれないと分かんないし、調整できないから」
「はい」
「うん。いい返事。この仕事は体力勝負だからね。いたわって」
斉藤さんはエプロンをすると出ていった。
この日の帰り際、私は注文を押し受けてしまった女の子に礼を言った。すると彼女はなぜかひどくいらだっていた。
「あなたをひいきにしている店長、むかつくのよ。私こんな仕事場辞めるから。高卒のくせにとりいって、なんなのあんた」
何を見聞きしたかは知らないが、私はあっけにとられた。そしてすぐ、ああこれが彼女たちのワールドから見た私への感想なのかと考えた。あまりに紋きりな価値観で、何の威力も感じなかった。
私はけい君の斜に構えた見方に学んでいるのだろうと思った。こういうときにうろたえないのは彼の得意とするスタンスだった。わずかに立ち位置をずらして相手をいなし、皮肉を飛ばしつつ、その上で道化になるのだ。それに彼女のあけるシフトの穴を次のバイト採用まで埋めさせられるのはこの私だ。
女は手を腰に当て、片足に体重をかけ、もう片方を私のほうに突き出している。ホットパンツから大根が生えている。自分の足の太さも顧みない頭の軽さなのか。
「あんたね」と私は言った。
「なによ」
「大学行きながら彼氏の作り方も知らないんだから当然よ。高い金出して何勉強してんの。実社会では人間的に私が勝ちなの。偏差値は意味ないの。残念ね」
結局女の罵詈雑言を返す刀で追いやることしかできず、言った途端自分まで嫌になった。けい君のひねくれはまねできないと思った。ただ、女の透き通るもち肌が一瞬のうちに紅潮したのは見物だった。
バイトが終わるとけい君の家に直行し、早速この話をした。けい君はそれほど興味がなさそうだった。私は興ざめした。
「あんまりおもしろくないか」
「どうでもいいことだよ。だって、お前もその女の子も、大なり小なりじゃないか。同じ穴のむじな」
あんなピーマン頭の女と同類扱いされて、頭にきた。
「けい君も女の子とおんなじワールドの住人なの? 私を高卒だってばかにするの。じゃあ私はなに、けい君に二股のかけ方も知らないくせに、とか怒ればいいのかな。それじゃつじつま合わせに私も明日から二股しなくちゃいけなくなるんだけど」
「そんなこと一つも言ってないよ」
「じゃあ何」
「どっちも自分で食ってない」
「はあ?」
「だから、そんないさかいは、気にするに値しない。もし俺がそういうことになっても同じだ。気にすることはもっと他にある」
そう言うとけい君は得意顔で私を見た。
「実は今おもしろい活動をやっているんだ」
「サークルとか入ったの。食えないのに?」
「将来俺たちが食えなくなるかもしれないからやるんだ」
「へえ」
「大学の自治会で禁煙広報をすることになったんだよ。キャンパス無煙化推進協議会の一員なんだ」
「なんだか名前だけはすごいのね」
「なに。名は体を表すよ。やってることもすごいんだ。俺たち大学生はね、社会のエリートなんだ。そうだろう?」
仕方なくうなずいた。彼はイエスを欲していた。
「そうなんだ。でね、煙草を吸うようになるのは大抵大学に入ってからだ。だが煙草は健康を損なうし、吸う時間分の生産性が落ちる。加えて医療費の増大に拍車を掛ける。美容にもよくないし、いいことなんていっこもない。そんな社会の害悪にだよ、率先して堕ちていく学生の姿を見ていられないじゃないか。社会の範となるために、禁煙を勧めなきゃならない。そういうことを広報して回るんだ」
大義をかざすけい君の弁を聞いて、少し違うじゃないかと思った。あらゆることに文句をつけがちな彼がそんなものに自分を重ねるなど、らしくない。代わりに私が文句の一つでも言わなければならない気がした。
「私高卒だから吸ってもいいの。エリートじゃないし」
「だめだ。論外だ。お前女じゃないか」
「なるほど母体がどうとかってね。でもさ、そんなのその人の好きにさせればいいじゃない。吸いたい人もいるでしょう」
「論外だ」
けい君は私の言葉が終わらぬうちから頭を抱えていた。
「切り捨てられたよ」
「そりゃ切り捨てるさ。吸いたくて吸うことによってがんになる。がんの医療費は社会保険でその一部がまかなわれる。がんになった者は必然、自分以外の保険加入者の負担の上にいる。迷惑をかけてる。保険加入者の負担は重くなる。だがこのご時世収入は伸びない。つまり俺ら吸わないやつの食いぶちが減る。ということはつまり、吸いたいという欲望において罪なんだ」
「欲望が罪? 息苦しくないの、それ」
「医療費が高騰して食えなくなってもいいのか」
「それは、嫌だけど」
家への帰り際、腹いせにコンビニで煙草を買おうと試みた。一軒目では青年向け漫画を立ち読みしながら考え、二件目ではスイーツに目がない女の子のふりをして悩み、結局買えなかった。けい君の怒るのは見たくなかった。
疲れた一日だった。
□
けい君の家には本当にものがなかった。
「ものがあっても仕方ないだろう。重荷になるだけさ」
そう言って、彼は少しでも不要なものは躊躇なく捨てるようになった。単位を取得し終えた授業のテキストは例外なく古本屋に売り払った。彼の学部ではそれで困らないらしかった。私は通いもしない予備校のテキストすら捨てられずにいたので、その思い切りの良さを、はじめは少しの羨望をもって眺めていた。
けい君は大学一年生の終わる頃、静かな冬の夜にめずらしく私の家に来て、声を幾分上ずらせて語り始めた。
「ちょっとこれは発見だよ。あのね、杉崎。大学では連続性のある授業ってないんだ。以前習ったことを知っているに越したことはないけれど、それよりも大切なのはね、先生の趣味を理解することなんだ。単位をよい成績で取るには、先生の好む世界を解答用紙に再現すればいい。それ以外の努力は無駄だ」
「大学のことはよく知らないし、私には何とも言えないけれど」
「そうなんだよ。これは食っていくための訓練なんだ。さしずめ如何に上司の気を察するか、といったところだ」
「けい君バイトもしたことないのに、なんでそんなこと分かるの」
「分かるさ、そのくらい」
彼はそう言い放って以来、発言を撤回することはなかった。単位を落とすこともなかったから、その発見は正しかったのだろう。彼の家からものが減り始めたのは、その直後だった。一年間のうちに買った各種テキストをリュックに詰めて古本屋に持ちこんだ彼は、手にした小銭で入ったマクドナルドから携帯で私にメールを寄こした。
「俺は先生の機嫌をとるために大学に来たんじゃないんだけどね(笑)今度からテキストはネットの古本屋で探すことにした。専門度合いの高い新刊書なんて、買うだけばかを見る気がしてね(笑)」
私は(笑)で義務的に笑った。文面がそう指示しているからだ。返事には「ふうん(寒)」という三文字を送り返した。その日は気温も低かった。
結果として彼の家に残ったのは、冷蔵庫と洗濯機、電子レンジとガスコンロ、テレビ、それに最低限の服と自分が眠るためのベッドだった。短期間でよくこれだけ決め手に欠ける部屋ができるものだと感心した。ビジネスホテルを思わせる匿名感はあっても、ここがけい君の部屋でなければならない必然を感じない部屋だった。何かひとつ強烈な印象がなければ、およそ寒々しくていられない。そう私は思った。彼が臭いたつ何かがあればいいのだ。例えばもし彼に敬愛するポルノ女優がいたとして、その全裸ピンナップでも貼ってあれば納得がいくということだ。肉欲的な好みが滴る象徴こそ、実に彼らしいものだろう。
唯一の部屋の特徴といえば調度がすべてアイボリーに統一されていることだったが、これはけい君の趣味ではなかった。量販店でまとめて買ったから、という理由だった。
「ちょっと物足りない。なんか部屋が寂しくないかな」
「色も、これといって深い意味はないのさ。ものが冷えればそれでいいし、ぐっすり眠れればそれでいい。先生の機嫌をとるためのテキストは安く買うに限るのと同じだ」
「関係あるのそれ」
「重要なのは機能であって、見た目とか値段じゃない。本質こそが問題だ」
「上滑りの道化にはなりたくない、というやつね」
「そう。よくご存じ。ふりなんて家の中ではしたくない」
けい君は解脱しきった僧侶を思わせる穏やかさで言った。
次に彼の家に行った時、彼のトイレの隙に、隠し持っていたアイドルの巨大ポスターを机の前の壁に貼った。オレンジ色の小さなビキニを着けた、とびきりスタイルのいい女が写る新聞見開き大ポスターである。
南の島の砂浜にいる彼女は太陽をさんさんと浴び、大股びらきで膝をついて立っている。眩しそうにつややかな黒髪をかき分けながらこちらを見ていて、伸ばした背筋のせいで胸の形の良さが際立っていた。居酒屋のビール広告を思わせる古風さが残念だったが、私はこれを貼ったことに満足だった。
「どうだねけい君。これで部屋がにぎやかになるよ」
戻ってきたけい君を後ろに感じた私は、ポスターの名前も知らないアイドルを指差した。
「何のつもり」
けい君は顔をしかめている。
「けい君にはこういう成分が不足してるんじゃないかと心配になって。本当は全裸のを見つけたかったんだけど、なくって。探すの大変だったんだから。私何冊エロ本買ったと思ってるの。感謝してくれる」
「論外だ」
「そうね。慌てて貼ったから、ちょっと斜めってるところは論外ね」
貼りなおそうとする私の手をけい君は制止し、顔色一つ変えずにポスターをはがした。それを折り目に沿ってきれいにたたむと、私の前に突き出して持ち帰れと命じた。家のゴミ箱に捨てるのも嫌だと彼は言った。
そんな彼は修行のように授業に顔を出し、ノートを取っているのだろう。先生の趣味を知り、機嫌を取るために。
彼は言った。
「先生の好きそうな事実を海馬あたりに一時保存して、そのデータを解答用紙に吐きだす。そうやって何を習ったか忘れるんだ」
「どうしてそんな悲しいことをするの。何かに生かしたらどう」
「そのほうが精神のためだからさ。たしかに俺は勉強しているのに何も得ていないというのが、徒労というか、悲しくはあるよ。でもこれは訓練なんだ。訓練とはそういうものさ」
「そうかな」
「悲しみを和らげるにはね、無意味に思われる成果を全部捨て去ることさ。忘却だよ。持っているだけ悲しいから、無駄な努力をした自分を忘れ去る。努力の成果と一緒にさ」
「昔はここで『ふうん』と言ったところだけど、最近のけい君にはそう言えないのよね」
「ふうん」
「そこでけい君が『ふうん』と言ったらだめでしょう」
「たしかに。秘密をばらしてもいいんだ、と言うべきだった」
「それもだめ。いつの話よ」
無煙主義者になった彼は大学の無煙化運動に参加する日もずいぶん多くなっていた。大学に入って彼のなした唯一の活動といえばそれだったので、気にいらぬところはあったが、何も言わないでいた。彼は仕事のように毎日大学に行き、笑顔で禁煙を推進し、少しずつ覚えたことを忘れて、何もない家に帰ってくるらしかった。気づけばけい君の語尾は「――さ」になっていた。
「大切なのは笑顔だよ」
高校時代にそう言ったのは、彼である。彼は滅多に笑わなかったが、笑った時は彼にしかない輝きがあった。いまはどこかから借りてきた笑顔で、輝きに欠けた。
彼の十全な笑顔を思い出したければ、入学式の校門までさかのぼる必要がある。私は時折そうしている。
□
名も知らぬアイドルのポスターは、捨てるのが惜しくて私の部屋に貼ってある。けい君のようにあらゆるものを捨てるには、まだ修行が足りない。修行をしようとも思わない。
風呂から出て下着のままで部屋をうろつくと、ポスターの女が私の体の貧相さを指摘するので寒々しかったが、彼にこれを剥がされた悔しさと比べれば可愛く、耐えるのは簡単だった。耐えられないのは、けい君が何に興味があるのか見えないまま笑顔をなくしていくことだった。何によってそれを取り戻せるのか、見当がつかない。
□
けい君は豹変したのだろうか。
それでも私は相変わらず、けい君、けい君と呼んで頻繁に遊びに行った。彼は大学二年生になり、私は浪人二年目になった。
彼の家では私が見ている景色を押し隠す必要はなかった。一番自然に人と話せる場所に私は行きたいのだ。けい君はもちろんそのことを知っているだろうが、そんな私を面倒がったり、邪険に扱うことはなかった。それはいつもうれしかった。
ただ、私は彼の時間を奪うほど通い詰めたので、本当に何も嫌がったりしないのが不満だった。彼は昔から私に文句を言わないが、それもどこか不自然だ。何を考えているのか見えない。
□
会うたびにけい君の姿は虚無僧に見えてきた。深あみ笠もしなければ、托鉢など絶対に持たない、さすらいもしない男。ただ家と大学を往復するだけ、時折禁煙ポスターを校内に貼り、禁煙チラシ入りポケットティッシュを配るだけの男。起きているあいだじゅう修行している彼にむかって、私は好き勝手に話をしていた。それはよいことだった。たまに男は「ふうん」とか「なるほど」と相槌を打った。それはたしかに、私の欲するものではあった。
「けい君って、どこか虚無僧というのか、修行僧みたい。ふうん、なるほど、論外だ、の三語でけい君はできてる。それ以外の無駄口を叩かないのね」
「その表現は正しいよ。俺はこの世でうまくやる。そのための下積みをしてる。今は言葉をとりいれる時期で、それほど出す必要がない。アウトプットはもっと先にすることだ。物事を正しく判断し、間違えない人間になるんだ」
「もうちょっと間違えてもいいと思うんだけど。私今ね、けい君が誰か自分以外の女と付き合ってたとしても、むしろ喜ぶかもしれない。人って感じがするじゃない。欲があるじゃない。こっちの女も捨てがたい、どうしようって」
「だめだよ。そんなの間違ってる」
「だから間違ってもいいという話をしてるんじゃない。聞いてた? けい君にはね、湧きあがるものを一つも感じないのよ」
「そういうものが最も間違いを生むのさ」
私は思わず眉間にしわを寄せた。
「いつもそうやって何でも分かったような言い方をする。けい君って、好いてくれる女がいるから、その子に間違ったことをしないようにってだけで一緒にいる男なのかな。だから私のこと押し倒したりもできないんでしょ。なんでこんな男のところにせっせと通ってるんだか」
「杉崎」
「こういうときくらい下の名前で呼んで、機嫌とるくらいのことはしたらどうなの。形だけでもいいから。ときにはけい君の言う『ふり』をしてみたら。道化になって人を喜ばせることくらい、すぐにできるんでしょう。まえ言ってた。軽い雑誌に載ってる彼女へのサービスの仕方とか、勉強すれば」
「そう。俺はいつでもそうなれるさ。でも、そんなふりはしたくない」
「ちょっと頭冷やしたらどうなの、ほんとに」
彼は一度も私を下の名前で呼ばない。できないのだと、このとき思った。彼にとって下の名前で人を呼ぶことは間違いなのだろか。よく分からない。
□
幾日かあとのバイトはもっと最悪だった。また顔を漆黒に覆われた人間に調子を狂わされた。
顔のない「私たち」に連れて行かれたままの人たちは、相も変わらず深く黒く、顔を塗りつぶされて店をうろついていた。一人少ない人数で回していたので勝手に事務室に隠れるわけにいかず、シフトの終わりまで、飛んでくる冷たいしぶきに耐えなければならなかった。「私たち」の体はひどく冷たい。彼らは体温を奪い、体の奥深くにある活力の源まで吸い取るようだった。
あと三十分で次のシフトに交代できる。そう思っていると、少し前からいた黒い客が私を呼んだ。
近づくと草むらの空き地の匂いがした。この人も向こうへ連れ去られたままだ。黒いものが顔だけでなく、肩から胸に掛けても覆っていた。「私たち」と同期しすぎて、行きすぎた一体感があった。
「この店、飲み物も出ないの。私、コーヒー待ってるんだけど」
おまけに面倒な客だった。
「お手数ですが、当店はドリンクバー方式ですので、お客様自身でお持ちいただくことになっています。お好きなだけ、どの種類もお飲みいただけます」
私はドリンクバーを指して言った。
「いまどきのレストランってのはそれが普通なのかしら」
いちいち黒いしぶきが顔に飛ぶ。だがそむくわけにはいかない。
「他店には詳しくありませんが、そのぶんお安くお食事を提供させていただいております」
「そう」
「注文を取った者の説明が足りなかったようで、失礼いたしました」
「ならコーヒー持ってきてよ」
「はい?」
「お詫びに」
黒に覆われたその女性はドリンクバーのほうを右手で指差した。ダイヤを散らした腕時計が照明を反射した。女と話しているあいだも「私たち」の歓声が頭に響いていた。
「すいませんでした。お待ちください」
深入りすると嫌なことになりそうだった。こんな客とのトラブルはごめんだ。クリームや砂糖を忘れずに持ち、一般的なブレンドコーヒーを選んでカップに注ぐとを運んだ。普通はしないことだ。
運ぶうちも「私たち」は頭の中で言葉にならぬ声をあげ、執拗に頭の奥を蹴り続けていた。そして顔の覆われた女クレーマーに近づくと、突然私の五感が奪い去られた。声がふだんより強いのだ。店内の明かりを感じないし、BGMも聞こえなかった。一瞬は停電かと思ったが、店の客の声が聞こえないから違う。「私たち」が女を通してこの店の中をのぞき、顔のない知覚をまき散らしているのだ。彼らは何を伝えてきている? 未知のやり方で伝達が行われている。それは私を強く呼びたてて、五感と意識を奪っていく。
視界に何度か揺り戻しのように店内の光景が浮かび、その映像の間に焦点のぼんやりした草むらの風景が見えたのが最後だった。そのあとは記憶がない。気づくと事務室の椅子にいて、斉藤さんが目の前で新聞を読んでいた。
「私、どうしたんです」
「君がコーヒーを運んでいる時に倒れて、客の服を汚したんだ」
斉藤さんは私のしているエプロンを指差した。コーヒーがこぼれて染みをつくっている。その中に漆黒の硬く固まった跡も混じっていた。
「すいませんでした」
「大変だったよ。まあ客も客で変わってたが、君も君だ。いらんことしてくれると困る。客がやけどしてたら大問題だったところだ。杉崎さんときどき調子悪くなるけど、ほんとに病気とかじゃなくて?」
「病気じゃないです」
「そうなの? そう言うんなら、そうなんだろうけど、あんまり派手こんなことが起こるようだと、かばいきれない。いろいろ考えなくちゃいけない」
「辞めさせられるんですか」
「すぐにではないけど。最近バイトの組合もあるから簡単に話が進まなくなってて、会社の研修を受けてもらうことになる。君が組合に入って交渉しに来られては面倒なのでね。もちろん自分で辞めますと言うなら話は簡単なんだけど」
「研修というのは」
「問題ある社員対象の三日間の合宿があるんだ。君も一応規則では社員なんだよ。宿泊費はかかるが、研修費用は三日分のシフトに入ったという形で計算して会社が費用負担することになってる」
「研修が終わると自動的にくびということですか」
「いや、そんなわけない。言ったようにこれは研修だから、成績優秀者は条件そのままで三か月雇用契約を延長する。まあ、そうでない人間は時給が下がって、シフトをかなり減らされるんだが」
この日以降のシフトは抹消された。今後は研修如何ということで、私は案内の入った薄い茶封筒を渡され、帰された。
レストランの裏口から外に出るとすぐ封筒を破り、街灯のあかりで案内を読んだ。はじまるのは十日後ということ以外、目新しい情報はない。
私はそのまま自転車にまたがると、けい君の家に走らせていた。ものすごいスピードで走って、道を飛んでいた夏の虫がぴちぴち顔を叩くのも気にしなかった。ただ、このままだとどうなるかを考えていた。どの職場でもこの奇妙な感覚が原因でトラブルを起こしてしまうだろう。それで職を転々とすることになるのは嫌だ。これからどうすればいいだろうか。どうすればいい、けい君。自転車を転がしながら彼に尋ねていた。意見を聞いてみたかった。何か言ってくれるかもしれないと思った。けれどあと一つ曲がれば彼のアパートというところまで来て、私はそこを通り過ぎた。あれほど通った彼の部屋のドアが遠い。遠ざけたのは私だろうか。
研修までのあいだ、私はけい君断ちした。粗が目立つとはいえこれまで頼ってきた彼に会えば、甘えて研修など行く気をなくすだろう。それに頭を冷やせと言った矢先、会うわけにもいかないし、彼の言うことなど聞かずとも分かっている。
「行って来ればいい。杉崎のためになるはずさ。いい訓練じゃないか。食うためさ、仕方ない」
おおよそこんなだ。彼の言うことが正論なのか、正論をまっとっているのが彼なのか、よく分からない。
しかし十日間を甘く見ていた。長かった。とても。
3
研修施設は聞いたことのない村の高原にあった。遠く山道を揺られ指定のバス停で降りると木造校舎が見えて、脇の電柱に看板が立ててあり、その校舎が研修施設だと案内がされていた。
降りた客は三人だった。次のバスは昼過ぎなので、これが全員である。自家用車で乗り付けることは禁止されていたが、校舎の前には広いグラウンドがあった。前を歩いている年上の男女二人が、自動車の置くスペースが十分あることについて二、三言葉を交わしていた。参加者が多くて駐車場が足りないのだろうと思っていました、三人だなんて、と男のほうが言った。
校舎は元小学校で、今は使われていなかった。下駄箱が往時のまま並ぶ昇降口から入ると、おはようございます、とスーツ姿の女性が現れた。受付職員のようで、手際良く三つスリッパを並べると、どうぞと勧められた。
必要事項を記入すると、三人は一番手前の教室に案内された。大人が座るには小さい学校机が並んでいて、教壇の前の三つにだけ資料が置いてあった。私が廊下から見て一番奥の席に座り、男性は廊下から一番近い席に、女性が中央に座った。
三人が静かに時間を待っていると、私の左側の開け放たれた窓から蝉の声が響いてきた。床も壁も木張りで、あめ色に陽光を反射していた。空調はなく、汗がこめかみを流れた。時計はまもなく九時を指した。廊下の床板がきしみ、人が近づいてくる。
教室の後ろにある引き戸が開いて受付とは異なる女性が現れた。彼女は教壇に立つとすぐ話をはじめた。
「おはようございます。私が今回の研修を担当します香西です。みなさんには遠いところからお集まりいただき、感謝します。あさっての午前中までという短い時間ではありますが、よろしくお願いします。それでは……」
といって彼女が書類を繰ろうと手を動かすと、彼女が右腕にしていた腕時計が外光をきつく反射して光った。
□
まず面接をします、と香西さんは言った。廊下側にいる人から、渡さんどうぞこちらへ、と男性の名を呼んだ。渡さんは荷物を置いたまま、別室に連れていかれた。
「あの研修担当の女性、顔と名前まで覚えてるんですね」
渡さんが案内される様子を隣で一緒に見ていた女性が言った。彼女は森口と名乗った。
「杉崎さん。お若いですね。どこの担当なさってるの?」
「担当? いえ、私はアルバイトですからなにも」
「バイトさん? 本当にバイトさんも来てるんだ」
「森口さんは」
「店長をしてます。でも上のエリアマネージャーから研修指名というわけです。あなたは店長から指名をされたんですか」
「はい」
「バイトを研修に行かせるなんて、聞いたことがないです」
「いちおうバイトも社員だからって言われて」
「その規定、最近できたんですよ。これは社員対象の研修でしょう。バイトもそれに入れるための形式的な変更かと噂されていたんです」
「そうですか。この研修で評価されなかったら私、辞めなければならないんです。自分でやめるよう仕向けられるんです。バイトもきちんと締め付けるってことだと思いました」
「ちなみに、どんな問題を起こしたの」
「客前で料理を運んでいるところを転んでしまって、客の服を汚したんです」
意識を失ったとは言わない。
「そうなの? 私もそれに似てるんです」
「森口さんもフロアに出ててやらかしたんですか」
「そう。やらかしたの。そういう日に限って上の人が偵察に来てたんです。滅多にしないひどいミスです。正社員の私がそんなことしてれば、まあ研修送りなのは当然なのですよ」
二人はため息交じりに微笑んだりした。
そのあとしばらく話をしていても、渡さんは帰ってこなかった。結局彼の戻らぬうちに森口さんが呼ばれた。呼びに来たのは知らない中年男性だった。
□
森口さんも戻らなかった。男性が再び現れ、私を別室に案内した。男はノーネクタイで、白のシャツは胸元が見えるほどボタンを外していた。髪が薄くて坊主だったが、背はけい君以上に高かった。
案内されたのは廊下を奥に進んだ突き当りの教室だった。男が先に戸をあけると、むっと植物の匂いがした。草いきれの匂いだった。私は入るのをためらってしまい、男に不思議な顔をされた。教室の中は黒いもののしぶきでひどく汚れていた。
机が教室の後ろに寄せてあり、面接官二人の机と椅子、私の座るだろう椅子だけを前に出してあった。面接官の席の一つに、漆黒の液体に覆われた人間が座っていた。顔のみならず体全体が黒く、見事な姿だった。この人はここにいるのに、完全にあちら側の人間だった。あの空き地の草むらに深く身を置いているのだ。これほどまでに完璧な人間もめずらしかった。
男は漆黒の隣に平気な顔で座ると、田中と名乗った。低く通る声をしていた。彼は入り口に立ちすくむ私に笑顔を投げかけ、どうぞお座りください、と言った。ただ、彼の指した椅子はどろどろと漆黒が飛び散って汚れていて、座りたくなかった。
「どうぞ」
田中さんがもう一度うながした。仕方なく腰を下ろすものの、そう耐えられるものではなかった。冷えて長く座ることができない。早く終わればいい。
「さて、面接なんですが、とても簡単です。こんなこと、失礼になるかもしれませんが、それを承知でお聞きします。私の隣にいる人の名前を言ってください」
「名前、ですか」
「はい」
答えられなかった。顔など見えないのだ。
「すいません、お名前を忘れてしまったんですが」
「わかりました。そういうこともあるでしょう。ならば、いつどこで会った人かでも構いませんから、覚えていることをおっしゃってください」
田中さんの隣の黒いものを見るが、微動だにもしなかった。私の体はすでに冷えはじめ、口を開けると歯が鳴りそうだった。
「何も思い出せませんか」
「すいません」
すると隣の黒い人間が口を開いた。
「私はあなたに二度会っています。よく思い出してください」
発話の瞬間に黒いものが部屋中に飛び散った。口元がわずかに露見したが、特徴の分かるほどではなかった。私の頭の中で耳鳴りのように「私たち」が笑い、踊る祝祭の音がしていた。黒に覆われた者の声は女性だったが、「私たち」の唸りが邪魔をしてはっきりと聞き取れない。言葉が失われかけている。彼女の声色が「私たち」のそれに似ていて、混じり合っている。間もなくこの黒い女性の声が失われ、言葉もなくすだろうと思うと、残念だった。あまり向こうに身を置き過ぎるのだ。まさか飛びついて私が顔や体を拭うわけにもいかない。
「たしかにわずかな時間しか会っていないので、記憶に残らないこともあるでしょうが、会ったのはさっきですよ。二回目はです」
田中さんがペンを回しながら言った。
「さっき?」
私は今日会った人間の顔を思い出そうとした。
「私はあなたと先程会った時と同じ格好です」
黒い女性がまた話した。足元に液体が飛んで、おもわずそれを避けた。田中さんはそれを見て書類に何かを記した。
これは何の面接だろうと、体温が奪われ朦朧とした頭で思った。意図がつかめない。意図があるとすれば、それは、私の奇妙さを白日の下にさらすことだろう。必死で私は考えた。さらしてなるものか、考えるんだ。
黒に覆われた者は手元だけ素肌をさらしていた。ブレスレットをはめているように見える。あれはもし、腕時計? 腕時計だ。文字盤が見え隠れしている。声は女性。今日会った、時計をしている女性。つけている腕は右だ。そうだ。しかし、時計が輝いていない。漆黒に汚れてデザインまでは分からない。それに、私ははじめて彼女に会った。二度ではない。だがそれ以外の女性も思い付かない。
「思い出しました。香西さんです」
私はそこで意識を失った。またか、と遠のく意識に思った。震えるからだを支えきれなかった。最後の視界に映ったのは草むらの空き地の光景だった。杉崎さん、と田中さんが何度も呼ぶ声がはるか遠くで聞こえた。
□
「杉崎さん」
男の声がして目を開けると、私がいるのはベッドの上だった。毛布と布団を重ねてかぶり、横になっていた。真夏である。
「暑いんですけど」
私は掛けてある毛布と布団をのけた。
「無理しないでください」
「着ているほうが体に悪いです」
寒くてならなかったが、頑なに言い返した。
「まだ顔が真っ青ですよ。低体温状態なんですから」
田中さんは私を見てうなずくと、ベッドの横にある机に熱いお茶を置いた。私の顔に驚きが浮かんでいたのだろう。この人は私の体が冷たいことを知っているのだ。私をここに運んだときに分かったのだろうか。
体を起こして部屋の様子を見ると、教室には違いなかったが、病院ふうのベッドが四つあって、私はその一つに寝ていた。横では森口さんが首まで布団をかけて眠っている。向かいに並ぶ二つのベッドの一つには人の寝ていた形跡がある。おそらく部屋の隅でストーブにあたる香西さんだ。スウェットに着替えた彼女はダウンジャケットを着て丸くなっている。もう一つのベッドはしわ一つない。
「香西、暑いから外にいるよ」
田中さんはそう言うと出ていった。香西さんはうなずいた。
うまく体温が戻らなかった。私はベッドから毛布をとって体に巻きつけると、お茶を手に、香西さんの横の椅子に腰かけた。蝉の鳴き声のするそばでストーブに当たるのは不思議な体験だった。
「香西さん? そうですよね」
「そうです。正解でした」
「よかった。体大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない。だからこんな格好なんじゃない。もうすこしあなたが言い淀んでいたら、私も倒れていた。三人目だったしね」
「香西さん、自由に黒くなれるんですか」
「黒く?」
「はい。いまは黒くないから」
「ああ、顔をなくすってこと。あの真っ黒のジャムみたいなので」
「そうです」
「失顔症って私たちは言ってる」
彼女は肩に穴を持っていて、服の首元をずらして私にそれを見せてくれた。昔見た父のものと同じだった。
「田中さんも見えるんですか」
「彼も見える。面接のとき、彼にだけは飛ばないようにしていた」
「あの、失顔症って病気なんですか。見えるほうも病気なんでしょうか。何かご存知ですか。ずっと知りたかったんです」
「質問だらけじゃない。まあ落ち着いて」
「すいません」
「詳しくは明日、田中が説明するでしょう。失顔症なんて言い方をしたのも田中で、なにも公式な呼び方とかなくて、それらしい言い方だから使ってるの」
それを聞いて、私は思わず顔が緩んだ。
「どうしたの? 何かうれしいの?」
「いま私、なんだかとても安らかな気持ちになってるんです」
「体が温まってくるから?」
「いえ、それよりも香西さんたちに出会ったことにです。あんな黒々としたものを見ている人が他にいるなんて、これまで思いもしなかったんです。同じものを見ている人がいるというのは心強くて」
「そういうことね」
「ここにいる人はみんな見えているんですか」
「森口さんも、渡さんも見えてる。それを確認するための面接だったわけ」
「渡さんは、どこに」
「面接室から逃げ出していった。耐えられなかったんでしょう。でも仕事であの場面に遭遇したら逃げられないんだからね」
「変に思われますよね」
「そう。渡さんはちょっとね。あれじゃ悟られる。でも杉崎さんと、森口さんは最後まで耐えた。あなたはその場で倒れちゃったけど、森口さんは持ちこたえたんだからすごい。森口さんは終わると一人で面接室を出たんだけど、教室に戻る途中の日なたで座り込んでいるのを受付の職員が見つけて、結局田中がここへ運んできたの。森口さん、もしここに運ばれなかったら、私から見ても何も見えていない人に見えた。それくらい完璧にやり過ごしてた。あんなに芯の強い人ははじめて。杉崎さんは少し感じすぎるのね。来る人たちに耳を傾け過ぎる」
「来る人たち?」
「あなた草むらの空き地はもちろん知ってるでしょう」
「はい」
見た景色のままを話せるのは新鮮な喜びだった。けい君の比じゃない。彼は非難しないだけで、それを見てはいない。でも香西さんは見て、同じものを指して私と語っていた。
「そこに顔を失った人たちが出てくるじゃない。それを『来る人たち』って言ってるの。ドアをあけて空き地にやってくるから」
「私は『私たち』と名付けてました」
「私たち? 面白いネーミングだけど、紛らわしくないかな」
「たしかに、紛らわしいですね。でも、こんなことを話して分かってもらえるなんて、幸せです」
「でしょうね。誰でもはじめはそれに喜ぶ」
すこしあいだをあけて、香西さんは言った。
「ちなみに、あなたは私の名前を当てたけど、森口さんは最後まで言わなかった。たぶん、分からなかったのよ。あなた、顔が見えないのにどうやってわかったの」
「時計です。右手にされているのが記憶にあったんです」
「よく見てる。それ、いい心がけ」
□
渡さんはグラウンドの倉庫の日陰にいた。私は香西さんに頼まれ、昼過ぎ、ジャム入りのコッペパンと牛乳を持っていった。
「逃げられないようになってるんだな、この研修。バスは夕方までない」と渡さんは愚痴を言った。
「それであなたは面接で何を聞かれました」
隣に腰を下ろした私に渡さんは聞いた。
「男の面接官が、隣に座る人間の名前を言ってくださいというものでした」
「同じだ」
「そうなんです?」
「簡単だったろ」
「いえ、難しかったです」
「また。年上だからって気にしなくていいよ」
渡さんは自嘲気味に言った。
「ただ名前を言うだけだ。向こうも聞いてくるからには知ってる人間がそこにいたんだろう? でも俺にあてがわれた人間は知らない人だった。面接官はきっと俺をはめたんだろう。もう四十になるというのにバイトしてる俺を追い出すための算段だろうよ」
「私も誰か分からなかったんですよ。知らない人間に見えました」
「そうなの、じゃあ全員知らない人の名前を言うよう仕向けられたんだろうか。それも嫌な話だよね」
「だってあそこにいた人、顔が黒くて見えないんですから、答えようがないじゃないですか」
渡さんはむせて、牛乳が鼻から流れた。無精ひげが白く染まる。彼はそれを拭いもしなかった。
「あんた、それ」
「私たちは同じものを見ているんです」
「本当か」
それを聞くと渡さんは涙も流した。
渡さんは校舎に戻ると田中さんと香西さんに詫びを入れ、準備された昼食の残りをすべて食べてしまった。この日、森口さんは夕方までぐっすり眠っていた。初日はみな疲れて、なにもできずに終わった。
□
「もうお気づきだと思いますが、ここにいる人は特別な能力を持つ方々です」
次の日、田中さんは講義の第一声をそう切り出した。
「これまでは、そのお持ちの感覚を隠してこられたと思います。しかし今後はそれを大いに活用して、仕事をして頂きたいと思うのです。ご自分に自信を持っていただきたい。研修ではそのためのお話をします。昨日の面接と称したテストは、あなた方が確かに見える方かを最終チェックするものでした。これも必要なこととはいえ、大変つらい思いをさせてしまったこと、お詫びします」
田中さんは前日とは違って麻のズボンと開襟シャツだった。教壇の上にはカンカン帽が置いてある。かぶってきたのだろう。今日も暑いですね、などと言い、田中さんはボトルの水を口に含んだ。
「さて。私たちはあなた方のような人材を発掘するために、全国の店舗に『見える』人間を配置してあなたがたと同じ人間を探していました。隠していて申し訳ありません。この能力者を探すというのが、一つの仕事です。そして能力を持つ者たちは顔を黒く覆われた失顔症――これは私たちの名付けた呼び方ですが――の人間を企業や組織の中に見つけ、それが及ぼす弊害を取り除くという仕事をしています。それが二つ目の仕事です。
表向きは、人材派遣業ということになります。人材を探し、派遣します。事業を行っているのは、みなさんが所属するレストランの親会社が全額出資で設立した会社です。私と香西はその会社に所属していて、私が副社長を務めています。そのほかの当社のデータは先日お渡しした資料にある通りですので省略します。
コアになる事業は、あなた方の才能で企業の体質改善をサポートすることです。今言った二つ目の仕事に当たるものです。そのために必要とされるプロフェッショナルな人材を各企業に派遣します。近年は人材派遣業も競争が激化していますが、我々が人材の安値競争に巻き込まれることは決してありません。希少な人材ですから、引く手あまたです。
当社と雇用契約を結んでいただけば、大変恵まれた条件で働いていただくことができます。これはお約束します。派遣先は名の知れた大企業で、近年急速にV字回復を遂げている企業のほとんどが私たちの助言を受けています。その企業一覧も資料にありますのでご覧頂ければ幸いです。列挙された企業名に驚かないようにしてください。知らない会社はないと思います。老舗から新興企業まで幅広く我々の能力を必要としていることがお分かりいただけると思います。わが社と派遣先企業は完全にウィン‐ウィンの関係にあります。なおかつあなた方は非常に希少な人材なわけですから、高待遇をお約束できるというのは納得していただけると思います」
田中さんは、一息ついた。
「ここにおられる方々には、企業の体質改善を行うコンサルティング業務か『見える』者の発掘業務、そのどちらかに就いていただくことを期待しています。
それにあたって、この研修では、これまで隠し通した能力について知り、自信を持っていただきたい。そして、私たちの事業にぜひお力添えをいただきたい。そう思っているのです」
□
森口さんはきっぱり言った。
「私は給料の高いほうの仕事に就きます。こんないい話もう二度とないでしょう。だってこれまで抑えていたものを使って仕事ができるし、なによりお金になる」
「僕はもうあれとは出会いたくないんです。あんな化け物を見るくらいなら、違う仕事がいい。でもどこにでもいるから、悩ましい」
「渡さん、そんなの我慢したらいいんですよ」
「僕はそれが出来ないから言うんです」
「杉崎さんは?」
森口さんが聞く。
「私は気の知れた人と仕事が出来ればいいんです。誰にも言えなかったことを共有する人と働くのは楽しそうです。それがついでにお金になるなら、何でも。任されるほうに行きます」
「なんでもか、杉崎さんはガッツがあるね」と渡さん。
「なんだかいまはお金のことが考えられません。私の見ている景色を他に知る人がいただけでも実感が湧かないくらいですから」
「理由は何であれ、渡さんはあすかちゃんを見習うべき」と森口さんは言った。渡さんは、そんな、ともごもご言った。
□
田中副社長は淡々と講義を続けた。
「ではさっそく、失顔症について話したいと思います。みなさんを苦しめるものを自信に転換するには、見えているものの正体を知らなければなりません」
副社長はボトルの水を口に含んだ。
「失顔症とは、誰もがかかる病です。
やまい、と言っていいか、実際は誰にも分かりませんが、私はそういう性質のものだと考えています。失顔症は、それを確認できる人間が限られていること、そして、確認できる人間も人に説明しがたいこと、この二つの困難から存在することすら世間に認知されていません。しかし私たちはこれを見ることができますから、この能力を生かすべく、研鑚を積む必要があります。
ここにいる方は失顔症の姿はご存知ですので省きます。その問題点に進むとしましょう。
失顔症のもたらす最大の問題は、ここでない世界についての想像をしなくなることです。つまりそれは、夢を見なくなること、人間の行いが止まらなくなることです。
特徴は二つです。固執性と自動性です。経験的にこの二つが罹患者の特徴だと思っています。
失顔症の方の一般的な特徴として、その仕事ぶりが驚くほど完璧だということが言えます。これは本当です。求められる品質以上のものを常に維持し、瑕疵はありません。プロフェッショナルとはこのことか、という仕事をなさる方たちで、私も往々にして出会って感銘を受けます。ただ、こうした美点は失顔症の方に多いというだけで、失顔症でない人は仕事ができないというものではありません。失顔症でない人も、仕事ができる人はたくさんいます。
ですから問題はその先にあって、こうした質の高い仕事をする人を、失顔症とそうでない人に分かつ分水嶺はなにか、ということです。それが、先に挙げた自動性と固執性の話です。この二つに自覚があるか否か、飲み込まれるかどうかが人を分かつのです。ですから、これから話すのは二つの特徴に飲み込まれてしまった場合です。自覚があり、飲み込まれないならば、失顔症にはなりません」
田中副社長はよく水を飲む。またボトルから口に含んだ。
「まず固執性についてお話しましょう。
固執性、これは想像力を失い、目の前のことにしか目が向かなくなることです。自分の外へ意識が向かなくなるのです。見ているものがすべてになり、そうした人は現存するものを強化する主体になります。
例えば既存の組織を例にとりましょう。会社や官庁などです。
ある組織に属する人間は程の差はあれ、組織の理念、目的、意志決定プロセスの正当性、運営は民主的で合理的か、任務遂行を考えた現実的組織か、などを少しは考えています。そしてときに現状を良くしたり、変えたりすることに思い当たります。つまり、夢を見るのです。今はないシステムを頭の中に思い描き、想像します。
他方、失顔症の人はそれをしません。彼らの焦点はつつがなく今日が終わることにあります。日常性に混乱をもたらす変革を退け、組織の保守に力点を置くのです。いまあるルールを自分の血肉にしてしまう人たちです。彼らは既存のルールを自分のアイデンティティーにしてしまうまで取りこみます。ルールとの境界がなくなって、その人のアイデンティティーとルールが混然一体になります。すると、ルールの破壊をもたらす外部刺激は一層遮断されます。自分が攻撃されるように感じるからです。これが固執性です。既存への愛と言えます」
副社長は小さな笑いを挟んだ。
「ちなみに固執性が全面的に悪いわけではありんせん。様々な物事と同じで両面的です。一長一短があります。固執性が望まれる場面も実際は多いのです。失顔症の方を切実に求める組織もある、という点にそれが象徴的に現れています。ただ一般的に、弊害が多いということです」
副社長はまた水を飲む。水が好きなのだろうか。
「次は自動性です。
これは固執性の延長線にありますから、まず確認しておくと、固執性の美点の一つは、変わってはならないものが変わらないということです。大切なことです。
しかし、そうした既存の維持を自分の存在理由に据えた人は、自分が棄損されることと、時代が進展して既存のものが変化することを区別できません。二つがないまぜなのです。ですから、時代の進展は忌むべきものです。敵です。敵に負ければ失顔症の人は自分を失いかねない。それでは困るので、既存のものを時代と無縁のままに保存しようとします。そうすることで彼らは彼らとして存在できるのです。時代に抗うことで、自分の存在理由を自分で準備するのです。そこでは倒錯が起きます。維持している機能が何のために存在するのかを見失い、変わらぬよう機能を維持することそれ自体が目的になります。固執性に陥った精神が崩壊しないよう、彼らはどこまでも機能を維持します。機械的にです。こうして、固執性は時代を越えて強化され、完成します。それが自動性です。夢を見なくなった先にあるのは、人間の行いが止まらない世界です。
失顔症の人は他の組織や時代の変化で自分が壊れてしまうの恐れています。それでますます自分の内面にある既存性を強化します。反省点は自分たちが他に目を向けないことではなく、既存のものへの執着心の不足に求められます。もっとこれまでのやり方で完璧にできたはずだ、というふうにです。それは彼らの心性として仕方がありません。
結果的に、既存性の強化は、失顔症の人に残る未だ既存のものが侵食していない部分、その人の固有性を担保している部分を完全に奪い去ります。人間の心はあまねく既存性に支配され、反対にその人の固有性は一掃され、人は知らぬ間に自分に植え付けた既存性を自分の固有性と勘違いします。既存のものを自分のもののように愛する人間が完成します。自動性は深く人間を変えます。既存のシステムを着た人間が出来上がるのです。
でもよく考えてみれば、それは組織人なら皆そうです。問題は、その人自身の意志が従来のものや既存のルールをコピーしたものでしかないのに、それを自分のオリジナルな意志と勘違いすることです。それが、飲まれるという状況です。振り回されて目的を見失い、脱水機にでもかけられたようにさっぱり自分の意志を吹き飛ばしてしまいます。おかげで、失顔症の人はとても穏やかなのです。確固とした意志を持っていらっしゃる。けれどお話を聞くと、何かが憑依しているとしか思えない。その人の口から出る言葉が、その人の言葉には思えない。そういう状態になるのです。このへんに分水嶺があるように思います。
失顔症の方の社会貢献は計りしれません。これは否定できるはずもありません。彼らの非常に質の高い仕事があって今日も暮らせるのです。社会に貢献するというのは素晴らしい。わが社もそうでありたい。当然のことです。しかし、とっくに貢献する対象を失っていてはどうでしょう。何のために? がなくなり、それでも機械的に貢献するとき、人間の意志はあってないようなものです。無化されている。
ただそれでも、人間は生きていきますから、最後は押し付けられたものを自分の内面に深く刻印して生きるほかありません。私という固有性が失われた以上、偽りの私を本当の私にする勘違いを肯定しなければ生きていけないのです。ですから、失顔症はそうした人が生きる一つの方法とも言えて、この点では病気扱いできません。個人の固有性をなくし顔を失うことが、安定して生きることにつながるなら、それはもしかすると、そのままでいいのかもしれません。
しかし、夢を見ないこと、行いを制止できぬことは大きな問題で、別の話です。昨日あったことは、私たちが望んでないものであっても、今日も手に取ることができなければならない。そうした、目的も意志も想像力も捨て去って、維持だけが残ってしまうのは問題です。望むか望まないかではないのです。それを問題にしていないのです。そしてそれが、問題なのです。維持それ自体が目的になっている。自己目的化した既存への固執です。ここにもっとも弊害があります。私たちはこれを取り除く仕事をしているというわけです」
副社長はここで一区切りつけたが、表情がなかった。話が終わるかと思った時、おもむろに彼は続きを話した。
「しかしとにかく、こうして人間は簡単に顔を失うのです。その人が誰か、分からなくなります。彼らは半ば死にかけたのです。我を失いかけた。そこへ既存のルールをはめ込んで、自分と名付けたのです。でも耐えられない。だから彼らは自然と意識をさまよわせ、集まりだした。そこが草むらの空き地です。『来る人たち』はなぜ集まったのか。こちらの世界で諦めた顔を密かに探しているのかもしれません。あそこは喪失を嘆くための土地です。そんな場所はこちら側にありませんから、別世界に準備する必要があったのかもしれません。
彼らは失顔症の者が増えると喜びの声をあげますが、実際はこちら側にいながら未だ既存のルールに飲まれず、ここではない世界を思い馳せる人間に怒りを覚えていると思います。そんな彼らのなせる唯一の対抗は仲間を増やすことです。草むらに顔のある人間を引きずり込んで顔を奪うのです。そのときにあげる勝どきの歌があの歓喜だと思いますが、その裏にある嘆きが胸を突きます」
そこで香西さんが小さく田中副社長と呼んだ。副社長は香西さんに目を合わせると何かに思い当たった顔をした。そして振り返って黒板の上にある時計を見た。
「すいません長くなりました。生産的でないし、終わりましょう」
つかれたな、みなさんもでしょう、と言いながら副社長はボトルに残った水を全部飲んだ。そして背伸びをした。私もぐうっと背伸びをした。
□
晩にふと、けい君のことを思い出した。しばらくぶりに携帯電話を手にすると電源が落ちていた。教室の隅にあるコンセントは蚊よけ器具と扇風機で使用中だった。
「森口さん、携帯の電源とってもいいですか」
「だめ、蚊が来るし暑いじゃない」
「ちょっとだけですよ、扇風機のほうならいいでしょう」
「それとあすかちゃん、ここ圏外で携帯入らないよ。完璧に孤立してるのよ」
がらんとした教室におかれたベッドの上で眠る準備をしていた森口さんが言った。
「そうなんですか」
「充電は明日の午前中にしてよ」
「使えないのならそうします。公衆電話はないんでしょうか」
「ないない、ここ廃校よ。誰に掛けるの?」
「いいえ大丈夫です」
「そう」
「携帯見るの忘れてたくらいですから、そこまでして連絡しなくてもいいんです」
□
研修が終わると、私は香西さんについて働きはじめた。森口さんは経験を買われたのか本部勤務に、渡さんは人材発掘業務になった。
私の任された仕事は、いろいろな会社を渡り歩き、クライアントが指示した部署に失顔症の人間がいないか観察する仕事だった。私の仕事は観察に厳しく限定された。失顔症の人と話す必要がないよう配慮されていた。私が「来る人たち」の声に引きこまれてクライアントの前で倒れるわけにはいかないからだ。さらに念を入れて、声に慣れるまでは研修生の名札をつけて香西のあとをついてまわるように、と田中副社長は指示をした。
香西さんは私のつくった観察リストを受けて、対象者の面接をする。その後は失顔症の軽重によってそのままの部署にいるか、その人に適切な部署に異動するかをクライアントと相談する。重症の場合は退職勧告を出したほうがいいとクライアントに助言する場合がある。このケースになると、失顔症の人は職場を追われるので私たちの人材派遣会社へ登録してもらうことになっている。将来失顔症の人間を必要とするところがあれば、その人を派遣することを約束するのだ。クライアント側は企業の都合で辞めさせた社員の雇用先をあっせんしたことに出来るし、私たちは将来の人材をプールできる。
□
レストランのアルバイトは退職となった。私は斉藤さんを訪ねた。
「杉崎、久しぶりだな」
「斉藤さん、ありがとうございました」
「俺の眼は確かだったな。もう仕事ははじまってるの」
「はい。いろいろ会社をまわっています」
私は会社の名前を言った。
「さすがだ。全部知ってるよ。ちなみに、どれくらいなの、これ」
斉藤さんは親指と人差し指で円をつくって聞いた。
「うふふ」
私はわざとらしく口に手を当てて微笑む。
「うふふ、ってお前。いいなあ」
「斉藤さんもここで発掘するんじゃなくて、私のところへ来ればいじゃないですか」
「俺はファミレスのほうが性にあってるんでね」
「そうなんですか。前は会社回りもしていたんですか」
「そんな時期もあったよ。杉崎はそっちでがんばるんだぞ」
「はい。斉藤さんと出会えて本当に良かったです。ありがとうございました」
強く握手すると、斉藤さんは照れた。
□
「杉崎さんは煙草吸わないの」
一緒に仕事をはじめて、香西さんは煙草を吸うと知った。食後だけだったが、そのとき二本吸った。
「一度吸おうと思ったことはあります」
「誰かが吸ってたの」
「いいえ。むやみに煙草嫌いな人がいて、反発して吸ってやろうかと思ったんです。一年くらい前です」
「それで結局は吸わなかったと」
「はい」
「なんだ、吸えばよかったのに。煙草を吸うのは思った以上に孤独なのよ。それにあなたを待たせてしまうし、一緒に吸えばそんな気を使わなくて済むのに残念」
香西さんは色白で、病的に透明な肌をしていた。その細くて華奢な体に煙草は意外だった。
「喫煙所にいる人の距離近いのは、あれは、さびしいからですか」
「それは私だけ。あれは灰皿を囲むからだよ。あと肩身が狭いから」
「肩身の狭さに反発したくならないんですか」
「自由に吸わせろって?」
「はい」
「まあヘビースモーカーは思うだろうね。私はあんまり。まわりの人間の健康を損ねるし、冗談では勧めても本気じゃ勧めらんない」
「そうですか」
「なんで?」
「煙草を吸う人は場所も理解もなくなっていくのに、おとなしいなと思っていたんです。もっと何か言えばいいのにと」
「仕方ないじゃない、というのでは、杉崎さんは納得しない人なのね」
「そんなんじゃ」
□
そんな会話をした夕方、帰宅客の多い駅前で歩き煙草監視の一隊とすれ違った。揃いの黄色ジャンパーを羽織った四人組である。胸のざわつきを覚えてそのほうを見ると、一人、顔が黒く覆われている者がいた。
「今の人」
「うん。ありゃ、一発リスト入りだね」
そう言って香西さんは私を見た。
「あなた、いま、すれ違ってもなんともなかったじゃない。声が頭の中に響いたりした?」
「少ししましたが、なんともありませんでした。これが慣れですか」
「慣れよ、それ」
香西さんは微笑んだ。
「頭に響く声を無視するコツが分かって来たのかもしれません」
「いいこと。それが意識的にできれば研修中の名札も外れるわ」
しばらく歩いてから香西さんに聞いた。
「香西さんは、あの声に興味ありませんか。副社長は恨みの裏返しという風に言いましたが、本当は何を言っているんでしょう」
「せっかく声を無視できるようになったのに、わざわざ気にする必要はないのよ。気にしてたら仕事になんないし、第一、彼らは言葉を持たないから、なんといっているか分からない」
「もしです。もし言っていることがわかったら、どうなるでしょう。私、はじめてあれを聞いた時、言葉を理解できるものとして聞いていたように思うんです」
「杉崎さん」
「はい」
「あまり考えすぎないこと。あなたは声を聞き過ぎるんだから、いまは忘れることを考えなさい。また人前で倒れても知らないよ」
「すいません」
□
先日、私の会社がなした助言がきっかけで、希望退職を大規模に募った企業があった。名の通った会社で、とくに悪い話も聞こえなかっただけに驚きを呼び新聞記事になったらしく、香西さんは昼食の時、私にその記事を見せた。
「こうやってあなたは社会を動かしているのよ」
「そうなんですね」
「今は実感ないでしょうけど、あなたの作る対象者リストがこういうときに生きるの。誰に残ってほしいか、誰には出ていってほしいか。会社の人間も言いにくいことを私たちが助言する。その判断基準を持っている。それが強み」
「希望退職者はうちの会社で派遣登録するんですよね」
「大抵はね」
「それでその人たちを派遣する先はどこですか」
「私もその辺は知らないの。副社長はさすがに知っていると思うけど」
□
私の研修期間はなかなか解けなかった。理解と実践の差を思い知った。
失顔症の人から聞こえる「来る者たち」の声がどうしても気になるときがあった。聞き耳を立ててはいけない。意識を持っていかれるし、第一仕事にならない。けれどそう言われる先から体が反応する時があって、困惑することも多かった。慣れるというのは彼らの声を街の騒音のように思うことだ。そう言われて、毎日それだけを考えた。それだけを頭に入れて仕事をした。私に香西さんのようなクライアントの担当者相手の交渉は期待されていない。求められているのはただ、声を無視すること。もっとレベルの低いこと。
「あなたは人より鋭いのかもしれない。だからこそ、その能力に飲み込まれないようにしなさい。そのために自己防衛も必要。考えすぎないこと。我を保つために、彼らの声に耳を貸さない勇気を持ちなさい」
香西さんは私の眼を見て、何度もそう言ってくれた。私の慣れるのを根気よく見届けようとする香西さんには、職業上の責任を越えた熱意を感じた。新人教育の責任があるから、というだけで彼女の思いは出てこない気がした。人間としての私の将来を思って言葉を発しているように思った。私はその思いにできるだけ応えようとしたが、残念なことにいつまでも出来の悪い後輩だった。声を割り切ることができなかった。
□
研修生の名札の外れぬまま半年が過ぎた。夏の終わりから仕事をはじめ、季節がいくつか過ぎ、桜前線が早くも南から北上しつつあった。
毎朝、新聞を開いて小さな囲みに掲載された企業人事の動向や、人員整理のニュースを見た。時折自分の携わった案件が記事になっていた。それは私が確かに携わっている仕事の記事だった。なのに気持ちが動かされない。そんな自分に不気味な気分になることがあった。記事はどこか他人事のように思えた。私は社会の歯車を何ミリか回している張本人らしいのだが、その私はここにいる私のことだろうか。まるで上手く捉えることができない。それは自分がまだ子供で、仕事への自覚がないからだろうか。リストをあげるだけの下働きで、全容を知らないからだろうか。
いまも草むらの空き地に出てくる彼らに対して耳をふさぐことに後ろめたさを感じている。聞く耳も持たずに失顔症の人間を職場から追う私は、彼らの行為を無下にしているかもしれない。失顔症の人はその後どこに行くのか。分からない。脳裏に響く声に惹かれ、それを聞きたいと思い、けれど無視しなければならないことにひっかかりを感じていた。
だから私は言われた通りに、物事を考えすぎないようにした。仕事が出来なくなる。ここで仕事をするのは楽しい。隠し通してきたことが役に立つ。理解のある人とも席を並べて仕事ができる。これ以上の幸運はない。この幸運をこそ私は選んだのだ。その上私は高卒の二十歳に似合わぬ高給をもらうようになった。失顔症の人間を探し出して上に報告する日々は充実している。時折襲うめまいに耐えながら、彼らの声を聞かぬふりをして、毎月増えていく銀行口座の残額に安堵する。
まあ、いいか。いいじゃないか。金があって困るという話は、寡聞にして知らない。
勤務日は依頼してくる会社の都合で変則的だった。平日朝から休みの時は、起きると気ままに映画を見に行くこともあった。割引のない時間に平気でシネコンに入り、コーラのストローを噛みながら映画を見た。私は一人気ままに暮らしていた。一人で食事し、一人で映画を見て、夜になると一人車を運転してアパートまで帰った。免許は仕事の合間に取った。車も買った。軽の新車。以前は考えられないほど遠かったものや場所が今は手のひらに収まっている。
車の駐車場近くに公園があって、桜並木のランニングコースがあった。街灯に照らされた桜はまだ固いつぼみのままだったが、一週間もすれば少しづつ咲きはじめるだろう。今年は桜が違う輝きを持って咲くんじゃないか。そんなことを考えながら車のキーをくるくる回して外階段を上がり、私は玄関のドアを開ける。社会は失顔症の人たちが一生懸命維持してくれている。変わらないものが変わらないままそこにある明日がやってくる。私が変わったから見える世界全体も変わるなど、思うだけでおこがましい。一人の女の意識で世界が変わるなどありえない。それでも私は、変わったという尊大な気分が自然だとも思い始めていた。私は結構満足した暮らしをしているんだと、おぼろげに思った。彼らの声は気になるが、それをさし置けば今の生活に心地よさすら感じている。
予備校の欠席が続いて親に連絡が行き、私は仕事を見つけて収入もあるから、もう大学に行く必要がないと親に電話口で言った。会社の名を言うと父は、本当か、と言って聞かなかった。一体何があったんだとしつこく聞かれて、アルバイト先が関係していて正規で採用してくれたとそれらしく話をした。名刺をファックスで送ると向こうも信じたらしく、また安心もしたようだった。
仕送りがなくなったことも問題なかった。もう一人で満足に食べていて、経済的な価値を持っている。半年前からすればにわかに信じがたいが、私はあれほど隠しておきたかったものを生かして暮らしている。なんと言ってもそれが一番うれしいことだった。昔は不可解で耐えがたく、抱えているだけで私を狂わせようとしたものなのに、いまはそれに自信すら抱きはじめている。あの頃の深刻な気分をそのまま思い出すことは、もうできない。
仕事はまだまだだ。言われたこともうまくできない。けれど、私はこの能力を抱きしめて毎日生活している。それだけは確かだった。能力の使い道があるというのは、まったく私を安心させる。
4
昨日けい君から着信があった。彼が自分から連絡してくるのははじめてだ。奇妙なことだったが、私は一日、時間をおいた。忙しかったし、それに、もう彼に会いに行かずとも不自由ない。
でも今日また彼から電話が鳴ったとき、どうしようか迷った。彼にはずいぶんよくしてもらった。会うくらいは、いいじゃないかと。これほど連絡を寄こすのは本当にめずらしいのだ。何かあるのだろう。
それに少しは聞いてみたくもある。私はこれでうまく「ふり」をしていると言えるのだろうか。私は彼らの声に耳をふさいでいる。それは必要なことだ。彼はそういう必要悪を指して「ふり」と言っていたのだろう。けれど彼はどこまでも華麗にふりをしかねない男である。そんな彼に今の私はどう映るだろう。うまくやれているのだろうか。お眼鏡にかなうだろうか。これでいいだろうか。大丈夫だろうか。
いや、これでは自転車で彼のアパートに向かった日とまるで同じだ。困った時のけい君頼み。未だ彼に答えを求めようとしている。どうしたらいいですかなど、聞けるわけがない。電話をしてきたのは彼だ。私から電話をする必要はない。また掛かってくるのを待つべきだ。最後に彼と話してからずいぶん経つし、いまさら私が電話を掛ける口実も思い付かない。
もしまた電話があれば、正直にけい君は生活に必須でなくなったと言えばいいのか。でもそれはあまりに身勝手だ。彼の前で好きなだけ話をし、挙句いらなくなれば捨ててしまうことになる。あまりにも自己中な女だ。けれど実際のところ、私にはすでにその資格が十分だった。決め手に欠ける男ではあったが、彼にそんな態度でいたくはない。物事に区切りをつける必要がある。一度会うほうがいいだろう。会って話をし、私は声を聞かないようになる。けい君に安易に相談しなくなる。私は彼を必要とはしていないと、旗幟鮮明にしなくてはならない。
だから私はけい君に電話を掛けた。なのにコール音と一緒に胸が高鳴るのだから世話はない。これ以上甘えてはならない。
□
けい君はすぐ電話に出た。私が一方的に次の休みを言って彼を誘うと、大学生は暇なものという偏見を捨てるよう、たしなめられた。
「俺は子猫じゃないんだ、首根っこ捕まえてすぐ運べると思ったら大間違いだ。その日は予定が入ってる。それなりに忙しいんだ」
彼の声色に不機嫌さはなく、むしろ快活にすら聞こえた。嫌みの一言も言われるかと身構えていたので、拍子抜けだった。
「そうか、そうだよね。飼い主か親猫の気分になってた」
「ほんとに。新入生のオリエンテーションで喫煙のもたらす影響についてプレゼンをやってくれと大学の教務部から依頼があってね、準備で忙しいんだ」
「へえ」
そう声にしてしまったと思った。この場面は「なるほど」か「ふうん」だ。
「それに無煙化推進協議会も新歓やろうということになって、これの準備もやってるし、四月になれば実際にいろいろ動き回るから厳しいな。ゴールデンウィークはどう」
相変わらずけい君だなと思った。禁煙の大義に酔っているのだ。
「うん、じゃあ私もなるだけ空けとく」
「頼むよ。あと、けっこう久しぶりだけど、元気そうだね」
「うん。けい君も」
私は手帳に約束の日を記すと、そこまでひと月ちょっと、仕事に打ち込んで日々を過ごした。そのあいだ桜が咲いて、散り、いつもの年よりも美しく見えた。生活の安定は日ごとに増し、けい君に入り浸った頃よりも落ち着いていた。
□
五月の連休は運よく汗ばむほどの陽気で、私は洗車したての車でけい君のアパートに乗り付けた。彼は私を運転席に認めて唖然とした。
助手席の窓を開けると彼が顔を突っ込んできた。
「ぴかぴかでしょ」
「杉崎。この匂い、新車か? 買ってもらったの? その前に免許は」
「会わないあいだ何があったか、聞きたくない?」
「聞きたい」
私は車を検分し始めたけい君を急かして助手席に乗せると、そのまま行きつけのシネコンに向かった。道が広いし、ショッピングモール隣接だから、駐車場が広くて初心者にやさしかった。
私は運転しながら半年以上にわたる空白の一部始終を彼に話した。研修が実は採用面接だったこと、ひどい面接で意識を失ったこと、私のような人間が他にもいると知ったときのうれしさ、失顔症と名付けられた人たちについて、仕事のこと、もう一人で暮らしていること。片道一時間、ずっと話しっぱなしだった。けい君は私の話を静かにうなずいて聞いていた。車をシネコンの駐車場に入れてエンジンを切ると、静かになった車内で彼は言った。
「なるほど。杉崎にとっては怒涛の半年だったのか」
「ほんとに」
会えば昔のように能弁になるのはおかしなことだった。過去の自分がいて、私はそれを眺めていた。少し前までこうやってけい君という穴ぼこを必要としていた。自分の知る秘密をそこに向かって叫びたかっただけだ。今日が最後の叫びになる。
□
上映時間の頃合いがいいからと選んだ映画はハリウッド娯楽作で、垢ぬけない男が愛する美女を救うため、異星人の侵略を撃退してしまう話だった。ラストで星条旗がはためき、それをバックに男と女は熱い抱擁を交わしてキスをした。
そのときだ。隣に座っていたけい君が私の左手の上に右手を重ねてきた。背筋が凍った。隣の顔を見ることができなかった。甘い笑顔をされていたりしたら、本当に敵わない。でもそれ以上に、顔を合わせなかったことが、恥ずかしがりつつも受け入れた証拠などと思われてしまうと実に面倒だ。なにしろ彼は水着少女の印刷物を一掃してしまうほどの堅物だ。それくらいの勘違いをしても無理はない。とはいえ彼のほうは向けない。
彼が手を握ってくるなど、己の全存在をかけた冒険のはずだ。そんなことを彼がするわけない。これは彼ではない。違う。高校生向け恋愛指南雑誌の受け売りか? どうしたけい君。
この半年に起こったさなぎから蝶のへの変態を私は見逃したらしい。エンドロールのあいだ、くだらないことしか思いつかなかった。いや、ついに彼の変態性が発露してこうなっているのか。そんな期待していた昔の私に寒気がした。その頃なら彼の顔を見返してうっとり微笑んでいただろうか。くだらない。
□
モールのど真ん中にある人だらけのスターバックスに運よく席を見つけて座ると、けい君は何もなかった顔で口を開いた。
「スタバは店内禁煙だから大好きなんだ」
「ああ、そうなんだ」
映画の感想を話したが三分も続かなかった。話の盛り上がる映画にすればよかったと反省した。無言の時間がすぐに訪れ、どうしようか、ちゃんと話すべきことがあるのだ、話さなければと思っていると、彼が得意になって話をはじめた。無煙化推進協議会の新歓について滔々と語りはじめたのだ。私は彼の言葉の降りかかるままに任せて時を過ごした。車の中で彼は黙っていたのだから、それでフェアーではある。
話に相づちを打ってはいたけれど、意識は左手の甲に集まっていた。彼の手が冷たかったことが今になってひりひりとよみがえって来た。
「時間そんなに経ってる?」
私が左腕の時計を見ていると思ったけい君は、気にして話を切り上げた。
「帰ろうか。今日俺んちで飯食おうよ。おいしいもん買って帰ろう」
「おいしいもんって、ここデパ地下じゃないんだから。スーパーの総菜しかないよ」
「いいよそれで。ほんとは何でもいい。杉崎が帰ってきたんだから」
□
「何も連絡せずにいなくなってごめんね。怒ってた」
行楽地に続く道でもないのに、帰りの幹線道路は車であふれかえっていた。
「いいんだ。帰ってきたんだから。俺も悪かったよ。杉崎のことなんか考えてなかったんだと反省した」
「反省したから、手をにぎったの」
けい君はすぐに答えない。
対向車線のヘッドライトが暗闇にいくつも通り過ぎ、フロントグラスにならぶ二人を照らした。私は前を見たままだった。バックライトが前のほうから順番に消えていき、車がゆっくり動いていく。ブレーキから足を離すと、クリープでのろのろ進む。
「なんていうかさ、あすかがいないとだめなんだ。寂しかった」
「は?」
私は左側のけい君を見た。
「風穴ががらんどうで、ずっと冷たい風が吹いてる。不気味なんだ」
けい君もこっちを見ていたが、すぐに彼は前を向いて叫んだ。
「杉崎、まえ、まえ」
「あっ」
ブレーキペダルを力任せに蹴り飛ばした。車体ごと二人は前につんのめった。
「あぶないよ」
「あのね、変なこと言うからこうなるの」
本当に変だった。
□
話すべきことなんて、もうほとんど頭から消えていた。追突寸前の急ブレーキや彼の冷たい手のひらだけじゃない。彼の部屋の変化も私から話すべきことの一切を奪い去った。
部屋の真っ白な壁の上に有名な女の子のポスターが貼ってあった。それも少し斜めに貼ってある。水着でも全裸でもないが、息が止まるかと思った。彼にいつからこんな趣味が。机の上には小ぶりのサボテンが二つ置いてあった。彼が雑貨店の片隅にあるそのサボテンを見つけ、買う姿は想像できない。サボテンの横にニュースで見た話題の小説が積んである。彼が小説を手にしているところなど見たことがない。冷蔵庫のドアが蛍光黄色に塗られている。なぜ。ベッドは掛け布団もシーツも下品なピンク色で、カーテンは淡い空色で雲が浮かんでいる。
驚天動地、かつ、痛々しい。
「ここ、けい君のうち?」
「俺んち」
得意げに彼はうなづいた。
「なんか違うよ、これは。けい君、一体何を目指したの」
「殺風景だったから、頑張ってみた」
「これ全部けい君の好みなの」
「好み、というかほら、足りないものを補ってみたんだ」
「前私がここに来たとき言ったのを、けい君なりに実行したの?」
「俺もできるってことを示さなきゃ」
「できるって、何を」
「なに? ふり、さ」
テレビの横に、セーラー服がはだけて股間と胸元以外あらわになっているスレンダーな人形が置いてあった。
「これ何」
「無煙化で知り合った友達が実家に置いておけないからって、俺んとこにおいていった。あんま触るなよ、壊れると怒られるから」
「なるほど……これはけい君じゃないのね。でも全体的についていけない」
「その『なるほど』っての、懐かしいな」
「そうね。過去って感じがする」
□
ご飯を食べて、けい君はビールを飲んで、空白期間の思い付く限りを話しても、彼が変わったんではなくて、本当はなにも変わっていないことがはっきりしてきて、気持ちがしぼんでいった。
彼は一生懸命「ふり」をし続けているんだ。殺風景だと言われ、そうじゃないものが正しいと思ってやったんだろうけど、騒々しいし、痛々しかった。彼は求められるものに素直で正直だ。つぎはぎで、バラバラなまま、まねて、それらしい「ふり」をする。でも望みもしないものを、あたかも自分が望んでいたような顔をされると、やるせなくなる。
私は高校を卒業するときのけい君の道化ぶりを思い出した。ばかにしている大人たちを前にして、いい子スマイルで校長室に入っていく彼である。あの頃からけい君はずっと、ただの格好つけだったんだ。あの時はたしかに彼を道化だと思った。他の人は知らないが、私は見ていておもしろかった。全部分かってそれでもなお、皮肉を飛ばした物事を上手に演じていたのだから。でもいまは道化になりそこなった痛々しい何かだ。客席から失笑を買ってやじが飛んでいるのに、彼は気付いていない。照明係の私は慌ててスポットライトを消す。もう照明が彼を照らすこともない。
そういう考えが頭に浮かぶと、どうもそれが彼の本質のように思えてきて、私はけい君のことをすっかり理解したような気になった。彼は変わっていない。むしろずっと強固になっている。下手くそになっている。さなぎのまま硬くなって、内側の蝶の姿を忘れたのだ。まだ毛虫だった頃のほうがよっぽどよかった。大学に入ってさなぎになって、これから羽ばたくって時に。
「ねえ、車の中で私を下の名前で読んだの、本当は私にそう呼んでって言われたからでしょ」
「あすかが満足するなら、俺は変わろうと思ったんだ」
「たぶんけい君はなんにも変っていないんじゃないかな。変わろうとしてる気になってるんだろうけど、変わってないよ」
彼はきょとんとなった。
「何も言わずにいなくなって、そのことを一言も謝らないのに、文句も言わずに会ってくれてる人に言う言葉じゃないかもしれないけどね、言う」
「うん」
「私が言いたかったのはね、けい君。その、けい君の好きなようにしたらいいってことだった。ちょっと前は言葉が足りなかったみたい。この部屋を見てるとさ、けい君がやりたくもないことを、でも私を取り戻すために必死になってやってるんだろうけど、ちょっとつらくなる」
「つらい? これが俺がやりたいことだよ」
「だって、この部屋は私がけい君にやらせてるんだもん。けい君こんなの好きじゃないでしょう。私はけい君が好きなことを好きなようにしてるのを見ていたいし、そんなけい君が好きだった。毒舌で、人のことなんて一切尊敬してなくて、自分勝手で、大義なんて鼻で笑うところがあったじゃない。だからこそ私の意味不明な話も聞いてくれたんじゃないの? 私はそう思ってた。おもしろがってくれたじゃない。はじめは不安だったけど、秘密を半年守ってくれたこと感謝してる。突拍子もなくて、奇妙きてれつな話をばかにしないで聞いてくれて感謝してる。でもあの頃のけい君はどこにいったの。論外だ論外だって、相手の話を自分の乗った船から高みの見物みたいに片っ端から退けるようになって。その船に乗っかってることで自分の姿を見なくなってるのよ。この部屋だって、私の言ったことに乗っかっただけじゃない。言われた通りしなくてもいいの。この部屋にはけい君がいない」
「あすか」
「無理しないで。別にね、杉崎さんって呼ばれ方でも私は構わないの。なんでもいいのよ」
「だって君が言ったんじゃないか」
「違うの。好きな呼び方で呼んで。確かに前は下の名前で呼べもしないくせに、みたいなこと言ったけど、あれはけい君が分からなかったからなの。あなたのしたいことが何なのか、目の前の女性をどう呼びたいのか、どう思っているのか、そんなことの一つ一つが見えなかったから。あんなに通い詰めて嫌な顔一つしないんだから、何を思っているんだろうと考えるよ、そりゃ」
「俺は別に、楽しかったから」
「そうかな、仏像みたいな顔してたじゃない。こんな蛍光色の冷蔵庫だって、けい君が好きなはずないし、ピンク色のベッドに寝てて落ち着くの? あんな小説読みもしないんでしょ。流行ってるから買ったんでしょ。しっかりして」
けい君は言葉を失ってうなだれた。
「ごめん、また私ばかり勝手なこと言って」
やはり彼は何も言わずに私を見た。
5
好きにしたらいい、だなんて、後々考えればあれは、自分に向かって言っていたのかもしれない。もっと失顔症の人から聞こえてくる声を聞きたい。己を失った人の職を剥ぎ取ることに引け目を感じている。それでも毎日仕事は続いて、うまく考えることができないから、本当は自分の問題を解決できないことに苛立っているのに、他人に説教をして憂さを晴らしていたのだ。まるでなっていない。彼のために言っていることが半分くらいは私のためでもあって、結局困ったときには彼の前で叫び、それは最後まで変えられなかった。私も変わってなどいないのだ。どの口が偉そうに。
その後彼から連絡はない。私はきちんと話す機会をついぞ逸したが、言いたいことは概ね伝わったことに決めて、こちらから連絡することもなかった。最後にあれほど好きにまくしたてたのだ。もう何も言うまい。コンビ解消。
時折、空調の効いた高層ビルから空を見ていると、彼が新入生と一緒に禁煙チラシの入ったポケットティッシュを配る光景が目に浮かんだ。好きにしてと言われ、どうしていいか分からない彼は、自分の足で歩けない不安を別の足でごまかせる便利な大義に出会ったのだろうと思う。彼はかりそめの足で歩いている。禁煙の社会的意義なんて、本当に重要だと思っていたんだろうか。
「でもそういう杉崎も、便利な足でいると俺みたいになるんだ」
「どうして分かるの、私の働くところ、見たこともないのに」
「わかるさ、そのくらい」
彼のことを考えると、そんな会話が頭に鳴って嫌だった。私は足元を見た。昔の彼は言うのだ。
「ちゃんと足元を確認しなよ。でないと今にぬかるよ。気づけば他人のこしらえた靴を自分のものと思い込むんだ。それこそ悲劇だ」
彼が失ったとげとげしさ。いつまでも消えない彼の手の感触。ひんやりとした、骨っぽい手のひら。あれほど名を呼んで慕った人物なのだ。会わないと決めれば感傷も湧く。
彼は「ふり」をしすぎる。でも彼にとってはそれがすべてで、望んで自分をどんどん捨てていくのだ。教科書を捨てるように。記憶を消去するように。いますぐやめろといっても、彼は反省するよと言いながらどんどん我を削っていく。まだ足りない、足りない、と。俺は食いっぱぐれない。まだ訓練不足だ。足りない、努力が足りない。
まるでそれと同じだった。「来る者たち」に聞く耳を持ってはならない。彼らの言葉を聞いてはならない。無視するんだ。訓練が足りない。まだまだ……そうやって私も私らしさを失うのだ。そうやって自分を削るのかもしれない。この会社にいるために、今の満足にすがるために、私はふりをし続ける。どうしたらいい? 彼にその答えを求められないなら、自分で足元を確認する必要がある。彼らは言う。耳をふさいではならぬと。はじめからそうすればよかった。
「杉崎さん、行きましょうか」
香西さんが化粧室から戻って私を呼んだ。午後一番のクライアントに向かわなければならない時間だ。
「香西さん、この仕事の大義ってなんでしょう」
「たいぎ? また突然なに? あなたの考えすぎる癖も天下一品ね」
香西さんが数秒、私の顔を確かめた。
「真面目な話、なのね」
「はい」
私の真剣な顔が通じたようだった。
「大義というか目的だけど、企業の収益改善のために人材の最適配置をサポートすることでしょ。あなたも知ってるでしょう」
「人材ポートフォリオの最適化」
「リスクコントロールのお手伝い」
「そのリスクとみなされて減らす項目、減らされた人々のことに少なからぬ関心があるんです。椅子を勝手に奪うことの倫理性とかです」
「今度は倫理?」
「副社長なら全部知っているんですよね。話を聞きに行きたいんです」
「あなたが? でも必要なのかしら、その答えが。私はそんなことは考えたこともない。気にしないほうが楽よ。さあ次の部署に行きましょう。遅れるわ」
□
香西さんは執拗な私に観念したのか、田中副社長の時間を押さえてくれた。そうでもしなければ私がやる気をなくすとでも思ったのかもしれない。十分前に指示された秘書室に向かうと、夏の廃校にいた受付の女性が私を待っていた。副社長は執務室にいて、すぐに通してくれた。
「杉崎さん、久しぶりです。どうです、仕事にはなれましたか」
握手をして、二人は向かい合ってソファーに座った。
あの夏の講義の時と変わらぬ、低くてよく通る声だった。大きな机にはミネラルウォーターの小さなボトルが二本置いてある。
「香西から少しは話を聞いていますが、なにか質問があると」
「失顔症の深刻な人がその後どうなるのか、なぜ下の者は知らされていないのですか。私は自分の関与していることの最後を知りたいのです。自己を見失った人を追放したその後をです。私はすこし業務の倫理性に疑問を持ち始めています」
「そうですか。あなたも奇特な人です。そんなことに興味を持ってどうするんです。彼らの最後とか、倫理性とか」
「香西さんにも同じことを言われました。私がはじめて『来る者たち』と会ったのは、中学生になったばかりの頃です。彼らははっきりと、私たちを見よと伝えていました。しかしこの仕事でそれは必要とされません。私は副社長からも香西さんからもそれを忘れるように言われます。彼らの言葉を無視するのはなぜですか」
副社長は腕を組んで前のめりになった。
「必要なら彼らの声を聞くことに労力を割かねばなりませんが、私はそれを有意義なことだとは思いません。我々は失顔症の人を探す、先方は業務のクリエイティブさを取り戻し、活気を得る。必要なことはそれだけです。至ってシンプルで、声が関与してくるところはありません。失顔症の方には人生をご自分の思うように歩んでいただくだけで、私たちが関与することでもありません。あなたは彼らの行く末に関心があるという。声にも興味がある。しかしお分かりだと思いますが、一人の個人的な趣味はどうでもいいのです。一年以上お勤めのあなたでしたら痛感されているはずです」
「必要に応じて目をつぶることもある、そういうことですか」
「そういうことです。よくお分かりなのに、なぜ、気になるのです」
「目をつぶることができないからです。頭から離れない詩があります」
「し? ごんべんの、し、ですか」
「はい。ご存じだと思います」
私は紙をとりだして読んだ。
「起こるすべてを見とどけよ。目を閉じるなど私が許さぬ。耳をふさげば声が聞こえぬ。契機の緒をば敏く嗅ぎとれ」
副社長は大きくうなずいた。
「ああ、なつかしいですね……自余に混ぜぬ洞察をもって、その先にある光をもつかみ、光明あまねく行き届くまで、私の手から離れてはならぬ。はじめに私を見よ」
何も見ることなく、副社長は続きをそらんじた。
「すばらしい。杉崎さんはそれを知っていたのですね」
「これは誰しも聞いているはずです」
「いいえそんな」
「え」
「彼らは言葉を持たないのですよ? そんな彼らの声を言葉に置き換えられるなんて、普通できるわけがないでしょう。よろしい。あなたが声に聞き入るのも当然だ。言っていることが分かってしまうのですからね」
副社長は腰をあげて部屋の奥にあるドアに立つと、こちらへいらしてくださいと言った。
「ドアを開けてみてください」
「私がですか」
「はい」
そこを開けると、すぐに放棄地の草むらにつながっていた。
「どうです? このドア便利でしょう。私は別に『来る者たち』でもないですが、このドアを持っているんです。ただ閉まると戻れませんからね」
副社長はしゃがんでストッパーをドアの足に挟んだ。このドアは香西さんが細工をして、常に草むらにつながっているという。
「あれがわたしです。見えます? あそこの背が高いの」
指を指した先に副社長の黒いものがいた。真っ黒の、影を形にした人間が無数にいる中で、頭が一つ出ているそれだ。副社長と私はゆっくり歩いて話した。草がきれいに刈り取られ、まっすぐ道が作ってある。
「ここはあちら側の世界、必要の外側にある世界です。失顔症の人の心はここに住んでいます。実はだれだってこの草むらに影を持っているんです。探せば杉崎さんの影もどこかに見つかるはずですよ。でもそれは見えないドアの向こうで静かに眠っているはずです。影が活性化するかどうかはその人の人生次第です。ルールを自分だと勘違いしてなお、そのことに気づかぬまま時を過ごしたりしたら、あちら側、つまり私たちの今立っているこの草むらにいる影が形を帯びてしまうのです。だれでも失顔症になりうるのはそういうことです」
「副社長があそこにいるのはどうしてですか。いま失顔症ではないですよね」
「今はです。昔は私も失顔症でした。ちょうどあなたと変わらない年の頃です。一度発症するとあそこにいる影はずっと死ぬまで形を保ちます。油断すると肩に空いた穴から黒いものが私を奪いに来て連れ去ります。私を奪いに来るのはなにも私の影ひとりだけじゃありません。何万もの人間が一つになって引きずり込むのですから、逃げられません。もっていかれるだけです。彼らの恨みの生み出す力は侮れない。しかし私は香西に顔を拭われて救われました。本当に幸運でした。
知っていると思いますが、私は生まれながらの金持ちです。私はそれが嫌だった。大学に入ってまわりの人間が小屋みたいなアパートに住んでいるのを知って、自分の生活感覚が変だと悟ったのです。けれど彼らの生活を知らないから、話しや行動がずれて自然と周囲から浮くようになったのです。自分の出自とか環境がへんだからそうなのだと、ずいぶん悶々としていた。けれど金がある分、自分で生きることがなかった。私は結局、御曹司として父の会社に就職し、無理に反発の対象に染まろうとして顔を失ったのです。私は家とか生まれへの反感を捨ててしまう必要があった」
「でもそれは先ほど言われたように、副社長が生活するためには、目をつぶらなくてはならなかったのではありませんか」
「なかなか言いますね」
「すいません」
「いいえ、遠慮なさらず。今日はそれが目的なのでしょう。目的を持つのはいいことです」
「とはいえ、もっと失礼なことを言うかもしれません」
副社長は薄い笑みを浮かべた。
「現実には目をつぶってはならないこともあります。『来る人たち』だってそう言ってるじゃありませんか。
私にとってそれが父への反感だった。ある人にとって経済的で合理的にみえることが、同時に正しいこととは限りません。でも一般的には経済的にいいことが正しいとされる。私にとってそれは父の会社で働くことでしたが、それが間違いでした。その選択が自分にある根本的な懐疑を捨てさせ、私は我を失ったのです。いつでも自分のことばかりでは他から学ぶことができませんが、とはいえ、自分にうそぶいてはならぬ一線があります。私の一線は、皆が当然だろうと思ったその、父の会社に入ることだったのです。
それで私は、考え直しました。香西に会って以降です。顔を覆われていた時、私はずっと彼らの声を聞いていました。話したようにそれは嘆きと恨みでした。この世のルールを仮面にして、いつのまにかそれが顔からとれなくなってしまった者たちの、ふさがれた口からもれる小さな声です。彼らの言うように、私が学ぶためには眼前の光景から目をそむけてはなりませんでした。眼前の光景とは失顔症の人から聞こえてくる声と、自分を取り巻く状況の二つです。
聞こえていた彼らの詩は、私に仮面が仮面であることを気づかせてくれました。彼らは知らぬうちに仮面と自分の顔の区別がつかなくなったことを嘆いていたのです。それで私は自分を顧みることができた。父の会社を背負うことを自分と同一化しすぎて、私は父への反感を忘れ去っていたのです。忘却と仮面をつけることは表裏一体でした」
「だとすれば、彼らの声を聞くことで同じように助かる人もいるはずです」
「いいえ。私がそう学んだのは、香西に助けられたあとのことです。顔を失っているさなかにではありません。助かった後で、聞いていた声を思い出したのです。残念ですが、経験から言って失顔症の人が誰かの声に耳を傾けることはないと思います。私は運が良かっただけです」
「そうなのですか」
「彼らの声から学んだことのもう一つは、ルールに飲み込まれなければ問題ないということです。仮面と自分の顔の区別をつけることができればいいのです。既存の組織やルールを刻印した仮面を自分の顔だと思いこむと厄介ですが、その仮面を自分の顔と区別して使いこなすことができるなら、それをかぶっていても問題ない。つまり飲み込まれなければいいんです。私も仮面をつけていますが、このとおりなんともありません。反射的に社会のルールに従いながら、それについての深い自覚を持ち続けることです。それが、あそこに佇んでいる私の影が二度と元気にならないで済む秘訣です」
「すいません。それは声に耳を傾けないこととどう関係があるのですか」
「ああ、そういう話でしたね。私はそれを心の底では話したくないのでしょうね。しかしあなたになら、いいでしょう。能力から言って、あなたは将来大切なビジネスパートナーになるでしょうから」
空き地に出ると、手前のほうに二つキャンピングチェアがあって、二人はそこに腰をおろした。空き地の中央には背もたれのない丸椅子がひとつあって、いまは誰も座っていない。キャンピングチェアは少し前から副社長が持ち込んだものだと説明した。
「私は香西と出会って考え直した揚句、仮面に刻印されたルールにあえて従い、行動すると決めたのです」
「それは危険ではありませんか」
「はい。一見無謀に思えます。でもそうすれば、いつの時も自分が仮面をかぶっていることを自覚できるのです。起きて眠るまで一秒たりとも欠かさず、ルールを自分に課すのです。経済的利益こそ正しい。それが仮面のルールです。そこに私情を持ちこんだり、何らかの哲学を導入して再検討することはしません。
単にルールのとおり舞えばいいんです。ルールのとおりに行動しているか、いつもぶつぶつ念仏のように唱えていますし、水を多く飲んで人より多く尿意を感じるようにしています。それが生理的に私をリマインドさせるのです。お前はいまルールに飲まれていないかと、膀胱を蹴って体が問い返してくる。そうした工夫をすれば仮面と自分の顔を勘違いすることもありません。これが自覚です。
そしてこれも幸運でしたが、私には経済的利益を追求するための環境が準備されていました。私は父から資金を借りて会社を興すことができた。父が社長になったのは顔が広く、信用もあるからです。もちろん仮面の下の私は我慢なりません。不快です。しかしルールに従わなければあそこにいる私を再び活性化させてしまう。それならば望まない状況も受け入れるし、飲まれてしまうことも、もうありません。自分から進んで自分を捨てる人はどこにもいませんよね。私はそうして際どく顔を失わずに済んでいます」
「ずっと耐えられるんですか」
「耐えるしかないんです。この方法しか残されていない。たしかにルールのとおり舞って飲まれないというのは、なかなか難しい。そばに香西がいなければ無理です。彼女の鼻はよく利くので、私の肩口からここの草むらの匂いがすると厳しく注意してくれます。もっとルールに忠実になれ、足を一歩踏み出すたびに確認しろと言われます」
「あの、副社長が夢を持たないのはどうしてですか。一族の事業から離れればいいではないですか。失礼ですが、そのほうが簡単に思えます」
「そうです。ここではない世界を想像すること。それが一番の失顔症対策です。研修の話をよく聞いていてくださる。しかし私の失顔症の理由は、自分の出自です。これにどう他の世界があるというんです?」
「すいません」
「私もそんなことは分かっている」
副社長の顔が穏やかで助かった。
「私は夢を見ることができません。他の両親から生まれることを夢見ても、それはこの先絶対現実になりませんから捨てたのですが、しかしそれは自分の根幹を捨てるに等しい暴挙だったというわけです。
ならば別のことを見るようになればいい。しかしそうならなかった。当時の私がもっと優れた人間で、自分を投影出来る何かを持ち合わせていればすこしは違ったでしょうが、あいにく何もつかまなかった。平凡だったのです。いや、平凡な人でも私はこうありたいと願うのですから、この言い方は失礼かもしれない。私は私を駆り立てるものをつかみ損ねた、そういう出来そこないの部分がずっとあるのです。駆り立てられ目指すものを持つに至らぬまま、出自の恨みばかりを膨らませていたのです。
来る者たちの声は、確かに私たちに発見をもたらします。嘆きの声にのせて、彼らは仮面の下にある顔を忘れてしまった嘆きの詩を歌っています。それを聞いて、はっとします。
でもその声は彼ら自身にとっても少々重荷だと思うんです。仮面の下に本当は顔などあるのでしょうか。ある人もいるでしょうが、私には残念ながらありません。ないのです。私は自分の言葉で熱く語る何かを持つに至らなかった。実際のところ、出自の恨みなども、他人とうまく合わせることのできない自分から目をそむける言い訳程度でしかなかったのだろうと思います。だから仮面が自分に張り付いていくことに抵抗できなかった。それほどのものだったということです。
誰もが自分の顔を持てるわけじゃない。いつ持てるかも分からない。なのに、私たちは嘆きの詩だけ聞いてしまうのです。これはつらいことではありませんか。どれだけ嘆いてもないものはないのですから、少なくとも私は、あの詩や彼らの声から、とてもつらい事実を突き付けられているように思います。あなたは誰でもない。顔などどこにもない。だからルールの刻印された仮面をつけてそれを仮の顔とし、せいぜい名札を下げて誰と分かるように工夫して暮らすしかない。そんな状況を見せられている気がするのです。
私が仮面のルールに従うしかないのは、積極的なことではなく、ほんとうは従うものを他に持たないからです。そのことを彼らの声を聞くたびに思い出して、ひりひりします」
私は何も言うことができなかった。
「彼らの詩を理解できる者のなかには失望を抱く人も少なくない。前にもあなたのように声がよく聞き取れる人間がいましたが、その人がまさにそうだった。彼は失顔症の人を救う手立てはないのか考えていたのだと思います。それはまったくの好意からでしたが、失顔症の人を救うのはとても難しい、そう思い至ってしまったのです。ほぼ不可能だと。大半の人は本当の顔などよく分からないし、それを探すくらいなら仮面で生きているほうが楽なのです。あえて仮面の下の顔を探そうとすれば、底の見えない崖に突き落とされた気分を味わうと思います。仮面の下の顔がないことに耐えられるほど屈強な人物はそういない。諦めるしかない。そういう意味でも、彼らの嘆きの詩は、聞く者に毒ともなりえるのです。失顔症の救済を企てていたその男も、最後はこの仕事から去りました。不可能さに愕然としたのだと思います。あなたもおそらく、失顔症の方の行き先を知って、おぼろげに救済を考えたのではないですか。しかしはじめに言っておきますが、無理です。それを試みた者は、等しく絶望し、ここを去っている」
「失顔症の人は、こちら側の世界ではどう生活しているのですか」
「家で暮らしています」
「家に、ですか。それはそうでしょう」
「たぶん、それだけですよ」
「たぶん?」
「彼らは静かな人たちです。家で規則正しく生活し、私たちからの連絡を待つ日々を送っているはずです。この時間でしたら、そうですね、昔のドラマの再放送でもご覧になっているかもしれない」
「それだけですか。では彼らから単にサインをもらっているだけなのですか」
「はい、それだけです」
「彼らの生活はどうなるのです」
「ですから私は申したように、仮面のルールで動きます。彼らの当社の事業に対する必要性は、失顔症の人材であるという以外にありません。当社は彼らと契約を結び、必要になれば呼びかけ、彼らを必要とする組織に派遣します。もちろん対価を支払います。それ以上の関係はないのです。彼らの生存権を守ることは事業にとっての必要なコストではありませんし、それはそもそも国の管轄です。私企業が担うことではありません。加えて、失顔症労働者で構成される労働市場は完全に買い手優位です。彼らに目をつけるのは我々だけでありながら、失顔症の人間などごまんといるのです。そう言ったことから総合して、彼らの行方に心を配る必要はありません」
「そうですか。では私に会った理由も仮面のルールですか」
「そうです。あなたが私の事業にとって重要な人間だからです。そのことがより一層明らかになって嬉しいです。
何度も言いますが、個性というものを持つに至らなかった私は、仮面のルールで動きます。香西の助言で、あなたが今後活躍するに足る話をしてほしいと言われました。あなたにとってはつらい話だったかもしれませんが、仕方ありません。ここは仮面のルールが支配するところなのです。私はあなたに早くこの事実を知ってもらい、会社に貢献する覚悟を持ってもらいたいのです。あなたがもしここを去りでもしたら、私の調子が狂います。幾分かこの草むらにいる私を活性化させてしまうでしょう。仮面への自覚が崩れてしまうかもしれない。だから、あなたには期待をし、こうして時間を割いてお話しした次第です」
「しかしそれでよく顔を失いませんね。とても不思議です」
「はい。おほめいただきありがとうございます。香西という人を持ってこのかた、顔を失ったことはありません」
そういうと副社長は立ち上がり、開いたままのドアへ戻りはじめた。
「たまにこうして、失顔症の頃に私を覆っていた影たちを見に来るんです。彼らのことを忘れないためにです。しかし今のところ、おおむね幸せです。事業はうまくいっているし、香西とは幸せに暮らしています。彼らに覆われそうになって冷や汗をかいたこともありません。仮面の下の私は人の職を奪って他の人間に横流しする仕事に嫌気がさしています」
「私も同じものを感じています」
「そうでしょうね。私も個性を持たないとはいえ、心は痛むのですよ。でも、失顔症になったり、ない顔を必死で探す無限の苦労と比べてみてください。どっちがいいですか。私は自覚したうえで仮面のルールに固執するほうを選びます。
でも失顔症ってのは楽です。その辺に落ちている気に入った仮面を顔に張り付けて、これが俺ですと宣言すればいのです。個性とかその人らしさとか、そういうよく分からないものの追求から解放されるのですから、一つの生きる戦略としてなら、ありかもしれない。それに失顔症の人が増えるのは事業にとってはプラスですから、私の仮面にとってもいい事です。一生安泰で事業経営ができます」
次の月の給料が倍になっていた。振り込みミスだと思って返金を申し出ると、調べた職員がそれは正しい金額で返金は必要ないと言った。副社長に買収された気分になって、このときばかりは、副社長と香西さんとの仲が割れて男が失顔症に戻ってしまえばいいと思った。でもそれも楽だというのだから困る。
6
とうの昔に研修中の名札は外れ、今は後輩があげてくる失顔症リストをもとにした対象者選定会議に顔を出すようになった。リストの付録には個人の症例が事細かに書いてあり、そこには面談に加え、当社の極秘追跡の結果も含まれている。対象者は秘密裏に尾行されているのだ。
そういう事実を業務の中枢に近づくほど無数に知るようになる。私はいつしか慣れてしまい、ひとつひとつのやり方や、結果として失顔症の人がどこかで職を失っている事実も深追いしなくなった。「来る人たち」の声は今も聞こえるが、もう気にならない。気を取られてあの草むらの空き地に意識を持っていかれることもない。副社長が給料をあげたのは頭にきたが、とはいえ生活は極度の安定をみている。
何ができるわけじゃない。副社長の言いたかったことはそれだ。だから声に耳を傾けるのはむなしいという。その話をしたのは、私にあらかじめ失望を持たせるためだったのかもしれない。考えすぎることのないよう、思考のとめどない流れを押しとどめる堤防を私の内に築いておきたかったのだ。失望には、考えるだけ無駄だと思わせる機能がある。考えても何ができるわけじゃない。それは十分すぎるほど分かってきた。
けれど、私は足元の確認のために考えることをやめない。おかげで顔を失わずに済んでいる。副社長が仮面に従うように、私はこの習慣を大切にしている。以前付き合っていた男が自分の瓦解をさらしてまで私に教えてくれたことだ。そのときの彼の姿は脳裏に焼き付いていて、私を救っている。このことには時を経てなお驚かされる。彼と過ごした日々は無駄になってはいない。
このあいだ私は新規分譲された高層マンションに移り住んだ。駅の隣にあった古い百貨店が撤退した後を再開発したビルだ。とても便利な生活が送れている。ただ一人身にはあまりに広すぎて、いままで単身者用アパートを埋め尽くしていた家具が少なく見えた。少しづつものを揃えていくのも楽しみだ。
□
あるとき、対象者選定会議の資料にこうあった。
「対象者――高橋慶四郎。株式会社帝国たばこ勤務。入社二年目。未婚。新人研修時より兆候。次第に重症化。次回調査で打ち切り、要判断」
□
固まった。けい君だ。
帝国たばこ? よりによってなぜ煙草の元締めで働いているのだ、あの男は。これでは顔を失うために就職したのと同じではないか。ばかもの。いや待て、彼は本当に禁煙などどうでもよかったのではないか。何か別の便利な大義を会社に見つけたのだろうか。
私はしばし空を見つめた。彼は顔を失った。そうか、そんなこともあるのか。考えても仕方ない。
私は会議を抜けてそのまま彼の家に向かった。資料にある住所は当時のままだった。彼は家にいなかった。私は携帯で電話を掛けた。
「けい君? 今大丈夫」
「へえ、杉崎か。めずらしい電話もあるもんだ」
「突然ごめん。今日急ぎで会いたいんだけど、いいかな」
「遅くなるけど」
「うん」
「そういや杉崎、鍵返してなかったろ。それまだ持ってるか」
「鍵? そんなの持ってたっけ」
「もしまだ持っているならそれで開けて入ってるといいよ」
「ありがとう」
□
家に帰ると引っ越し以来開けていない段ボールをいくつかあさった。そのうちのひと箱が全部彼の家に通っていた頃のもので埋まっていた。鍵はそこに、けい君の写る高校のパンフレットや、彼の家に貼って剥がされたグラビアのポスターとともに仕舞われていた。仕舞ったことすらすっかり忘れていた。
鍵を手にすると、あの頃の私がこの鍵を今の私に思い出と一緒に手渡しているように感じた。入学式に臨む彼の笑顔がはっきりとよみがえる。私はこの鍵を一度も使わなかった。彼の部屋には彼がいることにこそ意味があったのだから、入学式の日も不在にあがりこむことはなかった。
その鍵ではじめて彼の家のドアを解錠して開けると、案の定暗闇から草いきれの匂いがした。会社の調査に狂いはなかった。暗がりに迷わず手を伸ばし、蛍光灯を灯す。体が場所を覚えていて、見えずともスイッチを押せた。
部屋は足の踏み場なく漆黒で汚れていた。私は自分を守るために床を掃除した。掃除機の先でどろどろの黒い液体を集め、漆黒に触れぬよう慎重に桶で排水溝に流して捨てた。
空いた部分に座りこむと、当時のことをあれこれ思い出す。彼の部屋は簡潔なものへ戻っていたが、冷蔵庫は未だ蛍光黄色のままだった。
□
彼はいつ顔を失ったのだろう。
映画館の暗がりで私の手を覆った手は、人よりも冷たかった。とはいえ、あの日の私が彼を疑うのは無理な話だった。手に触れるだけでも彼は尋常でなかったし、私は驚いてばかりだった。今思えば、あの不思議な変わりようや、必死で私を呼んでいたことだけは分かるあの二日連続の着信記録、それはすべて予兆だったのかもしれない。部屋の混乱ぶりも何かを私に伝えていたのだろう。けれど私はそれに気づかず、あろうことか非難した。その時、彼の肩の穴が草むらにつながって、冷たい風が吹き抜けたのだろうか。私があちら側の「来る人たち」を呼んでしまったのかもしれない。あなたらしくあれなんて、まったく、失顔症の人に言う言葉ではない。
彼が風穴に冷たい風が吹くと言うとき、それはつまらない比喩ではなかったのかもしれない。彼は見えていなかっただけで、薄々自分の体に穿たれた穴に気づいていたのではないだろうか。風穴には私がいるとあたたかい風が吹いて、いないと冷たい風が吹いたのだから。風穴があっても彼が草むらに引きこまれなかったのは、私がそこにいたからだろうか。私は、彼の中にいたのだろうか。
そんなうぬぼれで考えるのはよくない。なんでも自分の思うシナリオ通りに考えるのは私の得意な身勝手さだ。その身勝手さが彼を見えなくさせたのだ。この黄色の冷蔵庫を見た日も、私はそうだった。言いたいことだけ言って、彼がどう思っているのか、話も聞かなかった。私は近くにいながら何を見ていたんだろう。彼が見えなかったのではない。はじめから見ていなかった。
私と出会ったとき、すでに彼はあちら側と通じた穴を持っていたのだろうか。あとはいつ連れ去られるかという時期に、私から秘密を持ちかけられた彼は、それをおもしろく思った。その喜びとともに私は彼の風穴に入ることを許され、知らぬ間にあたたかい風を送ったのだ。だから彼は私の話を黙って聞くだけで満足だったのかもしれないし、彼が私の話を楽しいと思ったのも本当なのかもしれない。草むらから吹く冷たい風や「来る者たち」を追いやっていたのは私だろうか。私が離れたから彼は顔を失ったのか。
真偽など分かるはずもないのに、考えれば考えるほど、うぬぼれた思いを捨てられなくなっていく。私は出会いのはじめから彼を見捨てていたのだろうか。それでいて彼を使うだけ使い、吸い取れるだけ学び、顔を失わずに済んでいるのだろうか。彼には何か残っているのだろうか。
□
仕事は会議で見た資料のとおりに進めることになる。この部屋の様子なら、けい君は会社から何らかのアクションを起こされ、近いうちに自発的退職に追い込まれる。それを助言するのが私の会社で、私はそこで働いている。
けい君ごめん。ここは仮面のルールが支配する世界なのです。私もまたルールを舞う一人でしかなく、仕事の手を緩めることはありません。
私は彼に救われて、彼は私から奪われる。二人合わせてプラスマイナスゼロ。何も残らないゼロサムゲーム。
7
彼が彼のままに、人が人のままに言葉を紡ぐことを私は望んでいる。可能なら、失顔症なんてなくなればいい。私がけい君の前ではそうだったことが、普通になればいい。
ただ私の夢も、仮面が自分の顔の皮膚になろうとするのを防ぐほど強くはない。私は奪う側にいて、奪われる人がいることをいつも反芻する。そうやっていなければたちまち足元をすくわれる。いっそ自分が何をしているか忘れ去れば顔を失い楽になるが、ささやかな夢は捨てたくない。
□
もし仮に、仮面のルールがやってくる前にその予定地を私が占領していたとしたら、どうなっていたのだろう。失われたり、はじめからなかったりするものを埋め合わせるものは、なにも合理性と規則だけではないだろうが、ただもう、あとの祭りだ。
時々自宅の机にある彼の家の鍵が目に入り、それが昔の私の顔をして、あのころ出来なかったことをしてほしいと私に向かって身勝手な申し出をしてくる。だからというわけではないが、私はたまの休みに彼の家を訪ね、その黒い顔を拭う。対処療法でしかないが、少しは症状もやわらぐ。
何ができるわけじゃない。今はそれくらいしか。
ゼロサム