水魚の交わり
生まれてすぐだったか、香具師にさらわれて人里の奥深く僻地の小さな村にある蝋燭屋に売られた。香具師はどうだ、本物の人魚はめずらしかろう、育てればきっと金になるぞと薄ら笑いを浮かべながら愚かな老夫婦をそそのかし、やつらもそれにのせられた。
それからというもの、一日中牢獄のような暗所に閉じこめられ蝋燭に絵を描かされた。人魚だというのに水辺にも行けず知らない場所にとり残されて気が狂いそうだった。誰かに会うこともなく自分の声さえ忘れかけていたので次第に何も話せなくなった。あの香具師のにやつく顔は今でも忘れられない。二度と会うこともないだろうが、次に見かけたら殴ってやりたいとずっと思っている。
気づいたら鉄格子のついた檻に入れられていた。冷たい格子から見える海はどす黒く地獄の底なし沼のような色をしていた。夜になったらしい。ここはどうやら船の上らしく、水面の風を受けてよく揺れた。半分は人間だが、半分は魚なので酔うことはなかった。他にも鉄格子はいくつかあり、自分以外にも捕らえられた者がいることがわかった。鉄格子の檻というのは本来、獅子や虎といった獰猛な獣を入れる箱だと聞くが、性質のおとなしい人魚までこれに入れるのはいささか強引ではないのか。香具師の手荒い真似に内心毒づいた。
そうだ、僕は老夫婦に大金と引き換えに香具師に売られたのだった。やつらの言い分では、金のために気味の悪い生き物を育ててきた、これは当然の報酬だ、ということらしい。そういえば、香具師がよそには任せられない、あなたがたのように徳のある方々にしかできないことだ、などと言葉巧みに無知な老夫婦を騙していたのを聞いたことがある。外面の良い人間はこれを聞いて喜んで引き受けるらしいが、それをお人好しとは言わないだろう。考えなしの間抜けだと思う。
金のためというだけなので、老夫婦からの扱いは粗雑なものだった。一日の大半を蔵の暗所で過ごした。半分は魚なので、定期的に水場にいく必要があるのだが、風呂場にいると生臭いのがうつるからあっちへいけと邪険にされたものだった。仕方がないので、人がいない時を見計らいその辺に落ちていた桶を拾って、蔵に持ち帰り、水をはってしのいだ。幸い蔵は海の近くにあったので、海水の調達もできた。それも今はどうなるかわからない。
半分は人間だが、魚の血には抗えない。長時間陸に上げられたら生きていけないだろう。両親や兄弟の顔は知らない。稚魚だった頃に香具師に捕まり、あの老夫婦に育てられた。いいことなどひとつもない人生だったが、誰しも死ぬときはあっけないものだ。人間に生死を左右されるのは気にくわなかったので、どうにかして逃げ出し、香具師の目の届かないところできれいに死んでやろう。そんな後ろ向きに前向きなことを考えていると、自分が入れられた檻の隣にある檻から誰かが話しかけてきた。
「もし、同胞の方とお見受けします」
見たところ、どうやらそれは雌の人魚であるらしかった。人魚の雄というのは希少種で、そもそも人魚というのは雌のほうが多い生き物だ。人間によく知られているのも、雌の人魚である。誰が言い出したのかはさだかではないが、人魚の肉を食べると不老不死になるという伝説がまことしやかにうそぶかれ、人間には人魚が高値で売れるという。そうでなくとも、愛玩用として欲しがる好事家は多いらしい。そのため、乱獲されて数が減っているのだと聞いたことがある。人間の血が入っているのならば、陸に上がることはできるが、純粋な人魚というのは水がなくては生きてはいけない。それを陸に上げるのは人間のエゴである。このむすめもこのままでは助からないだろう。とはいえ、同じ囚われの身である僕にはどうすることもできない。初めて見る同胞は異性で、しかもお互い檻の中だった。色恋の話ならば最悪な出会いといったところだろう。
「だいたい同じだと思うけど…君は?」
自分は異形なのだから、口がきけないふりをしてもよかったはずなのだが、心のどこかで話し相手を欲していたのか、思わず返事をしてしまった。
「私は北の海にいました」
北の海からきたという彼女は、美しいむすめだった。金糸のようにきらめく豊かな髪と、雪のように白い肌で、海豚や鯨のような立派な尾鰭を持っていた。西洋の国に棲む人魚がこのような見た目をしているのを本の挿絵で見たことがある。人魚のむすめが人間に叶わない恋心を抱き、最後は海の泡になってしまう、という物悲しい話だった気がする。このむすめも、どこか悲しそうな表情をしていた。彼女もまた人間に裏切られた人魚のひとりなのだろう。
「あなたさまはいずこからいらしたのですか」
彼女はどうやら僕のことを自分と同じ雌の人魚だと思っているらしかった。だいたい同じとは言ったが、僕は純粋な人魚のような容姿ではない。脚は魚ではなく人のかたちをしているのだが、それがびっしりと鱗に覆われている。脚だけさらせば魚というよりもむしろ蛇だ。鱗はやや青みをおびた色をしているのだが、太陽に反射すると七色に光り、陸では悪目立ちするので、常に脚は隠していた。半分は人間だが半分は魚なので、陸を歩くのは得意ではない。この奇妙な二本脚は水に浸かると尾鰭がついた魚の脚になる。人間ではないが、魚というわけでもない。半端なものだ。魚にも人間にもなりきれない自分は酷く醜い生き物であると思った。
人里では童女の格好をさせられて育った。僕が今着ている着物は女子のものである。裾が長く、ちょうど異形の脚を上手い具合に隠すことができる。髪も長く伸ばしていた。これは東洋の国に存在する伝統的な風習で、僕だけがこのように珍妙な姿をしているわけではない。この国では、魔物が子供の魂を食べてしまうと信じられていた。とりわけ魔物は男子を好んで食べる。魔物に食べられないように、男子には女子の格好をさせて魔除けにするのだという。下半身が魚の子供にはとりあえず女子の格好をさせておけば間違いはないわけだ。
僕自身、雌の人魚を見たのは初めてだったが、自分が雄だと言って不用意に怯えさせる必要もないか。ここは雌のふりをしておいたほうが無難だろう。
「北にも人魚がいるんだね。わたしがいたのは東の小さい島国だったけど…仲間がいるなんて思わなくて。嬉しい」
私もお会いできて嬉しいです、と彼女は言った。心なしかその声色は明るく思えた。しかし、こうもつぶやいた。
「やはりあなたさまも人間に裏切られたのですか」
うつむいていたので表情はわからなかったが、弱々しく、今にも泣きだしそうな声だった。このむすめも最初は人間を信じていたのだろうが、裏切られて香具師に売られてしまった。泣きたくなっても無理はない。せめて、同胞を飼っていた人間が嫌なやつなら存分に憎んで呪い殺してやるんだがな、などと物騒なことを考えていた。
「まあ、そんなところ。でもわたしたちみたいなのはよくあることでしょ」
むすめをなだめるためにこんなことを言ったが、声が震えているような気がした。よくあること…そう、よくあることだから、と半ば自分に言い聞かせていた。異形の者が見世物小屋に売られてゆくなんて昔からよくあることじゃないか。そして、そんなことをする生き物は人間くらいのものだ。だから異形は人里から隠れて暮らしている。人間に捕まれば酷い目にあうのは目に見えているからだ。人間は異形のことを恐ろしいと忌み嫌うが、僕に言わせれば、この世で最も恐ろしい生き物は人間である。
「あなたさまはもうすでに悟っていらっしゃるのですね」
むすめが鉄格子に近づいてつぶやいた。冷たい格子から、立派な尾鰭がはみ出しており、水滴がしたたっていた。捕らえられてからまだ日が浅いことが見てとれた。無論、僕に悟りなどという高尚な考えがあるわけがない。単なる開き直りである。
「しょせん別の種族。人間と人魚はわかりあえないからね」
わかりあえない、か。自分で言ったことなのにひどく虚しい気持ちになった。
「私、わかりあえると思っていました。でも、それは思い違いだったのですね」
同じだ、と思った。やはり、僕と彼女は同じだ。種属も境遇も似た者同士なのだから、ある種の必然といえるが。そんなところまで同じじゃなくていいのに、となんとも言えない気持ちになった。
「君の飼い主がどう思っていたかはわからない。でも本当は信じたかったんだと思うよ。まあ、こんなことになっちゃったから、説得力なんてかけらもないんだけどさ…目先の利益に囚われて君を棄てることを選んだのは人間のほうだろ。だから、君のせいじゃない」
内心、人間が自分たちとは違う異形を信じたりなんかしないだろと思っていたが、どうも僕の中には人間を信じたいという感情があるらしかった。認めたくはなかったが、純粋な彼女に感化されたのかもしれない。
「あなたさまはお優しいのですね」
そう言うと、遠慮がちに、はにかんだ笑顔を見せた。以前、仕事という名目で、蝋燭に絵をつけていた。蝋燭に絵の具で、魚や貝や海草のようなものを誰に教わったのでもないが、無心に描いた。描いていると、荒んだ心も少しずつ穏やかになった。その蝋燭を売った金は蝋燭屋を営んでいた老夫婦の懐に入っていた。最後に描いたのはいつ以来だったか。香具師に捕まった時、とっさのことで残っていたのをすべて赤く塗りつぶしてしまったのを思い出した。あれは売り物にはならないだろう。そんなことがあったせいか、赤い色は好きではない。蝋燭に絵をつけなくなって久しい。なけなしの感性がついに死んだな、と諦めていたが、彼女の笑顔は、真珠の粒が弾けるようにきれいで、可憐だ、と素直に思った。
「君のほうが優しいと思うよ」
人間を恨むような浅ましい自分が優しいわけがない。僕自身は本心で言ったのだが、彼女はきょとんとしていた。そして、困ったように笑った。
ふいに彼女が肩を落とした。船が軋むと、檻が大きな音を立てて揺れた。むすめは檻の中でうずくまっていた。そのまま、動かずじっとしている。船が揺れた衝撃を受けたせいだろうか。どこかぶつけたりしたのかもしれない。大丈夫かな、とおそるおそる隣の檻をのぞくと、うずくまった彼女が言った。
「すみません…私、なぜだかとても疲れてしまって…せっかく同胞の方がいらっしゃるのに…眠ってしまいそうで仕方がないのです…」
言葉が途切れた瞬間、眠ってしまったらしい。人魚なのだから、慣れない船の上で疲れてしまうのは当然だ。
「僕も…君に会えてよかった」
そうつぶやきながら、自分もどっと疲れがおしよせてきた。船の上というのはこうも心もとないものなのか。半分人間とはいえど、魚の血には抗えないらしい。自分の親が何の魚かもわからないというのに、身体は正直なものだ。船でどこに運ばれるのかわからないが、とりあえず今は何も考えずに眠ろう。檻に入れられる前に、何かよくわからないものを飲まされたような気がするが、そんなことはどうでもいいか…月明かりさえ見えない、気が滅入る夜だった。あたり一面、地獄の底なし沼のような、真っ黒な海しか見えない。隣に誰かが居たような気がするが、気のせいかもしれない…
――もう、何も見えない。僕は深い眠りにおちていった。
水魚の交わり