君の声は僕の声 第四章 11 ─決意─
決意
秀蓮がどこへ行ったのか、父に聞いてもわからなかった。秀蓮の父親も城には顔を出さなくなったという。秀蓮は「僕の分も夢を叶えて」と言った。それは、医者になるために遠くへ行く、ということではない。医者にはなれないということなのだろうか。
一体、秀蓮の家族に何があったのか……。
それから一年後。紅蘭は正室ではないが、皇太子の側室となった。正室に授からなった男子を生み、体の弱い正室に変わって帝を助け、正室の亡きあと、皇后の座についた。側室のくせに。女の分際で政治に口を出すな。正室は側室に虐められて早世した。権力欲しさに夫やわが子にまで手をかけた。などと噂されても紅蘭は平気だった。
──僕の分も夢を叶えて
あの時の秀蓮の笑顔を思い出せば、何だって耐えることができた。
「私、正室ではなかったけれど、頑張ったの。秀蓮の分も夢を叶えようって」
池のほとりで別れたあの日と変わらない秀蓮を見つめながら、皇太后が言った。その言葉は秀蓮と過ごした日の少女のような口ぶりだった。
「──うん。ありがとう」
秀蓮は静かに応えた。聡はうつむきながら黙ってふたりの会話を聞いた。
「でも、父が言っていたように、理想通りに国を動かすことはできなかった。悔しいけど」
「それは仕方ないさ。君はよくやったよ」
相変わらずな物言いに、秀蓮は目を閉じたまま笑った。
皇太后は秀蓮から手を離すと、「貴方、こちらへ来て」と聡に向かって声をかけた。聡は飛び上がってびっくりした。慌ててまわりに他の誰かがいるのではないかとニワトリのように首を振った。
「聡、貴方よ」
皇太后は聡を真っ直ぐに見つめて微笑みを浮かべている。
皇太后と目が合い、聡は慌てて下を向いた。聡は緊張に顔がこわばった。歩こうとしても足が出ない。唾を呑みこんでようやく出た足は、手と一緒に動いていた。
そして聡は、秀蓮から数歩後ろへさがったところで立ち止まった。
「瑛仁から貴方のことは聞いているわ」
皇太后の手が聡の頬に触れた。聡は卒倒しそうになるのをこらえ、皇太后の足もとを見つめていた。
「貴方は私に似ている」
皇太后のつぶやいた言葉の意味がわからずに聡は眉をひそめた。
「ふっ」
秀蓮が小さく吹き出して顔を背けた。秀蓮の肩が揺れたのを皇太后は見逃さなかった。
「あら、この人、今笑ったわよ」
皇太后は秀蓮をちらりと見ると、「失礼しちゃうわね」と聡に同意を求めた。聡は思わず顔を上げた。皇太后の顔が間近に迫り、聡の顔は石のように硬直した。
皇太后は「まあいいわ」そう言って聡に顔を寄せると、そっと聡の肩に手を当て「聡。私の分もお願いね」と聡の耳元で囁いた。
そのときの皇太后はまるで少女のように見えた。
聡はふたりの短い会話から、ふたりがお互いに夢を語り合う幼馴染であったことを理解した。『お願い』とは、帝を大人にすることと、秀蓮を頼む。ということなのだろうと思った。突然夢を絶たれた秀蓮と、秀蓮の悲しみを一緒に背負い、国を治めてきた皇太后の長い人生を想って、聡の胸は痛んだ。
この人は噂されるような女性ではない。夫や子供を失っても、見えないものと闘いながら国の為に生きてきたのだと、聡は感じた。とても強くて優しい女性なのだと。
聡は、皇太后の目をしっかり見据えて「はい」と応えた。
皇太后は、真っ直ぐで若い鷹のような少年の瞳をまぶしそうに見つめた。かつて、秀蓮と夢を語った頃の自分もこんな瞳をしていた。自分は年老いた。諦め、妥協することを覚えてしまった。秀蓮はこの少年のように変わらない瞳をしているのだろうか……。今一度、秀蓮の瞳を見てみたい。でもそれは、秀蓮にこの年老いた姿を見せることになる。秀蓮の中で、自分は少女のままでいたかった。
「ありがとう」
皇太后の言葉は聡の心に重く響いた。
聡はゆっくりとお辞儀をするとそのまま外へでた。扉を閉めると緊張がとけ、息を吐きながら入り口の階段にぺたりと座り込んでしまった。初夏の風がほてった耳もとを抜けていった。風が花の甘い香りを運ぶ。
ぼんやり花に彩られた庭を眺めていると、公園と勘違いした理由がわかった。女性の別荘の庭にしては、庭を埋め尽くすほどのハスの花が咲いているのには違和感があった。女性なら薔薇や牡丹や蘭などの華やかな花を好みそうなものなのに……。
皇太后の名前は蘭だし……。
「!」
聡は飛び上がる勢いで立ち上がった。それから、聡の体からゆっくりと力が抜けていった。
「蓮(はす)の花」は、秀蓮の「蓮」じゃないか……。
泥の中から美しい大輪の花を咲かせる蓮。──蓮の花が美しく咲き誇るこの庭を眺めながら、皇太后はいくつもの夏を過ごしていたのだ。淡い鴇色の花の中に、一輪だけ白い蓮が咲いていた。聡は階段を降りて、そっと白い蓮の花に触れた。
扉の開く音がして、聡は蓮の花から手を離した。そして、出てきた秀蓮の顔をまともに見ることができず、服の土ぼこりを払うふりをして下を向いたまま、秀蓮の後ろに回った。
秀蓮はしばらく立ちどまって空を見つめていた。
「とんだじいさんで驚いたろう? ──これが僕の『切り札』なんだ」
空を見つめたまま秀蓮が言った。
「えっ」
唐突にそう言われ、聡は本当に何のことかわからなかった。
秀蓮の『切り札』──それは、聡がずっと聞きたくて、聞けずにいたものだった。
「僕は皇太后と同い年だから、七十二歳。──僕はKMCが開発を始めてから最初に生まれた『成長しない子供』なんだ」
秀蓮はゆっくりと目線を落とした。聡は秀蓮の背中をじっと見つめていた。
「僕だけではなかったけれど、他のみんなはとっくに死んでしまった。寮で一番古い櫂だって、そんなに生きちゃいない。老人の年までこの姿のまま生きているのは、僕ただひとり。KMCの奴らは僕のこの『不老の血』を欲しがってる。それとも僕の体ごと欲しいのかもしれない。奴らが僕たちの体を調べる本当の理由は、僕たちや、この国の為なんかじゃない」
秀蓮が振り返って聡を真っ直ぐに見つめた。聡は思わず秀蓮から視線をはずした。それから遠慮がちに秀蓮の目を見つめ返した。
静かで深い、子供のように澄んだ瞳。
「奴らが欲しいのは、本物の『賢者の石』──不老不死の、媚薬」
「!」
聡の顔がこわばった。心臓が波打つ。金槌で殴られた人形のように全身がバラバラになりそうだった。秀蓮の言っていた遺跡に眠るお宝とは、このことだったのか。
聡の体の中で何かが動き出した。
秀蓮は他人事のように平然と話した。それとは対照的に、聡は怒りに震えた。夢を絶たれた秀蓮が、ひとり取り残された長い孤独な時間のなかで、どんな想いで生きてきたか……。
それを不老不死。
ふざけるな……!
聡の顔が怒りで真っ赤になり、眉と口は歪み、目からは悔しいのか悲しいのかわからない涙が流れていた。聡は涙を拭うこともせずに、ただ唇を噛みしめた。
「なんでおまえが泣いたりするんだよ。それとも怒ってるのか? どっちなんだよ」
聡の涙を見て歩み寄ってきた秀蓮に飛びつくように抱きついて聡は言った。
「僕は絶対に君をあいつらになんか渡さない。行こう。秀蓮。あいつらより先に行って、大人になってやるんだ。──絶対に!」
聡は秀蓮をきつく抱きしめた。秀蓮の首に回された聡の手に力がこもる。
怒りが力に変わる。
今までは秀蓮をひとりで行かせたくない。自分の目で確かめたい。そんな思いでついて来た。でも今は違う。
──秀蓮を大人にする。僕が秀蓮を守る!
「ああ、行こう」
秀蓮は、首に回された聡の腕に手を添えて言った。秀蓮の耳に、歯を食いしばって泣き声を押さえる、聡の喉から漏れる声が届く。
聡は感情を素直に表現する。聡は自分のそんなところを子供っぽいと思っているようだが、秀蓮はそんな聡が好きだった。自分が、長い森の中での生活で失ってしまったものを聡は持っている。彼のそんな性格に何度も救われた。聡は気づいていないようだが……。
秀蓮は暖かいものに心が満たされるのを感じて小さく微笑んだ。
第一部 完
君の声は僕の声 第四章 11 ─決意─