天使と悪魔が前世より。
(君はそれが正しい事だと思うのかね?)
いや、私はそれを何とも思っていなかった。何とも思っていない事だからこそ、なおさらわからない、この齟齬は一体どこに原因があったのか、何より、私の内面世界で天使と悪魔が私に介入する事自体が謎であり、不安にさいなまれる。
(お父さんとお母さんは、君が悪い君が悪いというけれど、俺は味方だよ、君は悪くない、悪いのはいつも君に文句をいう奴だ)
たしかにそうだ、と一理あると思う、だが彼は悪魔だ、私の中で役割を与えられた悪魔だ。つい数日前友人のサドに聞いた、“味方ぶってる奴ほど、悪い奴で、何か裏があるものさ”それはそうだと思う。実際そうだ。だって味方だと敢えて口にするのは、何かしらのメリットを欲しがっている、もしそのメリットと自分の出来る事に差があれば、その友情には亀裂が走る、ならばあらかじめ、嫌われるほうが正しい、なぜ悪魔がそうしないのか、それは悪魔が悪魔たるゆえんだ。
そこで暗雲がたちこめて、天使はおたけびのような甲高い声をあげて頭上高くに翼をはばたかせて煌めいて消えた。そこで覚った。私は終わりだ。悪魔にのまれてしまった、しかし暗雲立ち込めた先で私は見たことのない装束の、古めかしい民族衣装のようなものを来た人間が、都会の私の高校と実家との通学路の中間地点に現れたのをみた。いつから私はそこにいたのか、それはちょうど中間地点に位置するA駅だ。そのスクランブル交差点だ、雑居ビルの眩しい電子看板が目に映る、しかしもっと目を見張るのは、人っ子一人いない深夜のスクランブル交差点の中央に座すその、民族衣装めいたものをきた古びた顔つきの人、それとそれを一メートルほど前正面から、じっと見つめて立ち尽くすわたし。私はきっと彼と時を同じくして、そこに生じたのだと思う。ならば私と彼はきっと今、対等な概念と化しているはずだ。そこで尋ねた。
“あなたは誰?”
“私はお前の前世の魂じゃ、天使と悪魔、それは確かにいる、しかしそれもまた対等なものじゃ、つまり人間は、それを、例えば不幸とよび、たとえば幸福と呼ぶそれを、常に数字のようなものだととらえているだろう。だがしかし、違う、それは観測できる事はあれど、それを直接推し量る事など、到底できぬ、お前が生涯通してもできぬ、誰が永遠を手にしてもできぬ、だからこそいおう、迷うな、迷わず己のもっとも正しい事を探せ、それが、それだけが事実になる”
私はそこでベッドから転げ落ちた、昨日枕もとに転生用のお札を置いて寝たようだ、今、寝返りをうって上半身を起こしたとき、左ひじを木製のソレにぶつけて気がついた。
「なんだ、転生は失敗か」
私はがっかりした、ほとほと呆れた。私の中の魔力では、あの夢か現実かもわからない、前世の記憶をたどるのが精いっぱい、大ヒットしたアニメ映画の着信音が鳴った。でも私はそれを拒否した。私は今日、学校にいかない、収穫はあった。
「天使も悪魔も平等なものか、マイナスだとどんどんマイナスに、プラスだとどんどんプラスに、私の中の悪魔や天使はいつもどっちかがまけるけど、そうじゃないんだ、感情の起伏と同じように、いつも拮抗している所があるんだ」
そこで私は、寝る前にもうひとつ枕の左側にものをおいておいたのを思い出した。それは哲学書だった。人間が未来を知覚するのにもっとも都合がいいのは、自分の事を客観的に、あるいは人間という存在を客観的にとらえる事、それが一瞬でも、永遠でもかわりはなく、私はふと思う。この現実世界に生まれ、この現実世界で死ぬわたし、私にとって哲学が、頭の中の天使や悪魔より、なにより重要な文化的な指針である。
天使と悪魔が前世より。